冬深む短歌十首
深々と眠れる山やさわりなく起さずあれやみちのくに住む
故郷の山は眠りぬ責められず我が苦しみは今は去りにき
末永くここにあれや松と菊新年なれや我が家調ふ
我が家を留守にしあれば三色の菊の花映え部屋に和しにき
我が家に石の二つや今はしも争うことなく冷えにけるかな
争いもなきも淋しかしんしんと冬の夜冷えて一人なるかな
寒き日も並び立ちにし樹々なりし今日も通りて日も暮れにけり
猫一匹石にのりつつ我が家になれにしものや冬深まりぬ
一軒の仮設の食堂閉じにけり年なりにしと残り惜しかも
飯館に久しく行かじ古き家何か語らむ冬深まりぬ
眠る山とか山眠るは俳句の季語である。でも俳句は短くて表現できない、だから俳句の季語は活きていて短歌にもなる、俳句はやはり文芸としての限界を自分は感じる
短歌はまだ表現するものがある。
この歌に今の自分の心境が表現されている。これまで苦しんできたことや家族がみんな死んだことなどがありこうないっている、争いがあった家族でも今は全くないというのも不思議である。
今は自分を苦しめるものはない、そしてなぜあんなに苦しめられたのか不可解だともなるどんな苦しみもすぎる、すぎてふりかえると苦しみはない、ただ夢の中でうなされることがある。戦争に行った人などはあとあとまで後遺症が残る、夢でうなされるのである。
でも苦しみも過ぎ去ってしまえばそんなことがあったのかともなる、苦しんでいるときそうはならない、自分は自分自身も他者かも責められつづけていたからである。
何か重しをのせられたような、そして一つの石ではない、さらに石が加えれた責め苦だったのである。
何か苦しいときは不幸なときは悪いことが重なりやすいのである。
一つの石をもたされるだけではない、二つ三つとのせられる責め苦なのである。
山眠るというときそれは平和な時なのである。平和でなかったら眠っていられないからである。
飯館村は山の向こうでありここは雪が降らなくても降っている、寒い標高の高い山であるでもここからだと山の向こう側として意識されるのである。
川俣とかなるともう一つ山を越えるからなかなか意識されにくいのである。
だから空間的なものでつながるのはそんなに広い範囲ではない、20キロ四方くらいかもしれない、そんな広い範囲では空間に一体感は感じられない
猫が一匹飼っているというかいついたとかなるがこの猫も自分にとっては面倒なのであるただ自分は性格的には猫なのである。石の上にじっと座っている猫なのである。
あつみ食堂は明日で終わりである。あそこで一食野菜を食べているとまにあっていた。
必ずケンチン汁を出していたからである。
それがなくなると昼間で食事を用意するのがめんどうなのである。
時間と手間がとられるから困るのである。
ともかく家の中を母が死んでから整理しやすくなった,なんとか整理して身軽にしなければならない、自分も年だから家が重荷になってくるからである。
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