2017年01月25日

感謝の経済学 (感謝がなくなった社会には災いが起きる)


感謝の経済学


(感謝がなくなった社会には災いが起きる)


●感謝する人、感謝される人が多い社会→平和な幸福な社会

×感謝する人、感謝される人が少ない社会→不幸な地獄的な社会

今の社会は感謝する人、感謝される人が少ない社会である。だから不幸な社会となる
確かに豊かなのだけど働いても感謝されない、消費者が王様だとなっているのだから働いている人が金払う人に感謝しているのである。
これは逆なのかもしれない、感謝される人はその人は何か金でないとしても与えられるものがある、感謝されたことで幸福感が生れる、有為な人材としての誇りもいだける。
感謝された人は目に見えないが何か力が付与されたのである。感謝した人もやはり精神が浄化されるというか幸福になるものが付与される、そうなると自然からも他者からも災いが与えられないともなる

でもまたいくら心で感謝されても感謝の具体的なものとして金が払われるべきであり言葉などでの感謝はいらないと言う人もいる。
つまり現代の資本主義社会では金がすべてとなっているから感謝でも金に変えなければ何もならないということにもなる。
では一番金持ちの人が一番感謝されているかとなるとなっていない。むしろ恨みと妬みとかを受ける、株でもうけたような人はギャンブルでもうけた人のように見られている
大富豪に感謝している人がいるのか?それは労働した人からその果実を奪い取った人のように見られる、だからその金も人も呪われているとなる
それはいつかカルマとなり結果として現れる、不幸なことが災いがその人や家族でも回りにも起きてくるのである。

感謝などどうでもいい、金さえ得ればそれでいいというのが現代の資本主義社会である。そのことが本当は怖いことになる、危険なことになっていたのだ
この辺で起きた津波や原発事故がなぜ起きたのかというとき現代社会のそうした感謝しない社会から起きてきたと書いた。
一匹の魚でも一粒の米にでも感謝しないことが危険だったのである。
一匹の魚の恩恵より原発を建てた東電から補償金として金をもらうことだと漁業者はなっていた。
結果的には何が起きたのか、港は壊滅して魚も食べられなくなった、それがすべて原因とは言えないけど関連性がある、津波で壊滅した港がある所が壊滅したというとき本当に恐ろしいものを感じた、それが自然の罰なのかどうかはわからない、でも今はどこでも漁業者でも農業でも社会全体が一匹の魚の恵みとか一粒の米の恵みとかに感謝していない
それを捕り作る人も金にならない金にならないとなげくだけである。
すると結果としてどうなるのか?原発の方が金になるとなって積極的に住民が誘致したのである。

もちろん時代だと言えば時代である。米がありあまる時代、減反などあるから米一粒を大事にする社会とは違う、米余りで困っている時代である。
だから米とか野菜を作る農民に感謝する心がなくなっていこともいえるし漁師でも農民でもその人たち自体が金にならないと軽んじるようになった。
それは社会全部がそういう傾向になっていたのである。
魚とか米でも野菜でもそれは自然が与えるものである、食料に感謝するということはそれを作って与えてくれた神に感謝することなのである。
感謝の基本はそこにあることを現代は工業社会とかなり忘れていた。
文明こそが富を与える、原発が富を与えるとなれば漁業とか農業は軽んじられる
すると自然に天に感謝しなくなるのである。
むしろそうなると原発から電気を作り出す科学者などに感謝する、まるで神のように科学者が今なっているように科学者こそ富を作り出すものとなって崇められるのである。
科学にはそういうところがあるからだ。科学によって寿命は伸び死ななくなとまで思う人さえ出てくる。それは科学が信仰までなっているということである

グローバル経済とか現代の社会には相当な矛盾がありそこに人間的なものを逸脱している誰も地球の裏側から来る果物でもそれをとった人、育てた人になどに感謝しないのである感謝しようもないのである。
グローバル経済が世界的にいいもののように見えたが天の利とか地の利とか人の和を壊すものとして認識されるようになった。それでナショナリズムが起きてくる。
ナショナリズムはその土地にアイディンティティを見いだすものであり基本とするからである。だから食料でも自給自足を目指すことになる、それが利にかなったことにあるからである。その土地でとれたものに食べて感謝することは理にかなっているのである。

経済学というのは広い範囲にわたるものである。

道徳なき経済は罪悪であり、

経済なき道徳は寝言である

二宮尊徳がこう言うとき、道徳無きとは感謝がないということである。感謝がない経済は罪悪になる、でも反面、経済無きというときそれは今なら金にならないとしたらそれは寝言だとなる、空論になってしまうということである。

そのことは感謝しただけでは労働した人は喜ばないし生活も成り立たないからである。
でも逆に感謝がない労働のみになっている現代は道徳無き経済であり罪悪であるとなっている、この二つが調和することが社会にとって必要だとなる。
現代は感謝もない道徳なき経済にかたよりすぎているのである。
その基本に二宮尊徳の天地に感謝して労働する、勤めるということがなくなったことなのである。
ただこれはあくまでも江戸時代から農民が社会の大半のときに生れた思想なのである。
今はまるで違った社会である。工業商業社会でありその中で道徳がない、それでも商業にも商業のモラルがある。契約でありルールである、工業でもやはり壊れないものが作ることで信頼を得るとかある。日本製品はそれで信頼を得て売れているともなる。
ただ一般的に道徳なき経済になったのである。
でも基本的には天地に感謝して労働する人に感謝するということで調和の平和な世界になる、その基本が欠けてしまったことに道徳無き経済となった。
ただ二宮尊徳の思想を今に適用することはむずかしい、常に過去は新たなものとして適用されてゆくからである。

とにかくグローバル経済はそうした道徳を無視して金だけの世界にする社会だったのである。
そこでマネーゲームとか行われ労働の成果の富が極一部の者に収奪されたのである。
だから世界の人がそういう人たちに誰も感謝しないのである。
それが恨みとなってかえって極一部の富者に向けられるいる、だから富者もまた感謝されないということで危険な状態にあるのだ。
いつ金をもっていても襲われるかもしれないという危険になっているのだ。
極端な格差社会は常に波瀾含みでありいつ暴動が起きるかもしれないし犯罪も起きやすい社会だとなる。そういう社会では金持ちも安穏とはしていられないのである。
たから富者にしても貧乏な者にとっても不幸な社会なのである。平和もない社会なのである。

posted by 老鶯 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題