2017年01月22日

原発避難者、津波避難者もパチンコ通いで同じだった


原発避難者、津波避難者もパチンコ通いで同じだった



業界大手のマルハンもその一つ。全国に300店以上を展開するが、7時開店は石巻店だけだ。「被災したお年寄りから、寂しいので早く開けてほしいという声が寄せられたのがきっかけだった」と相沢昇店長(38)は話す

 売り上げが震災前の水準に戻ったというジョイパークは昨年8月から低レートの専門店に切り替えた。人口が増える見込みのない石巻で生き残るには、自由に使えるお金が多いシニア層を取り込むしかない。


津浪の瓦礫をとりさったところにぽんぽんとパチンコ屋が建った

生活保護費や東日本大震災の賠償金などの 
莫大な税金が 
パチンコ屋に吸い取られる。 
日本人のやる気を奪う 

なぜ、パチンコ屋を廃止に追い込めないのか!!!!

60才以上のじいちゃん婆ちゃんが震災で生きる希望を無くして娯楽として安く遊んでるならわかるが・・・・ 
この中年ナマポ野郎は震災をネタにパチスロやってるだけじゃねーか! 
さっさと原発かマグロ漁船いけや

金はあるから働く必要なんてないんだってさ。かといってボランティアもあほらしいんだと。 
簡単に時間潰せて、運がよければ儲かるパチが一番楽しいんだと。 
競馬は考えるのがめんどくさいそうだ。あと競馬場までの移動。

これ、被災地の閉塞感っていうより、 
義援金や補助金のおかげで、 
仕事しなくてもパチンコしてられる人が増えた、 
ということなんだな。

いわきから宮城、岩手まで、 
パチンコ規制しないとだめだよ。 
機械相手にギャンブル、 
金が無駄になる、話さない、 
ギャンブル中毒、なにもいいことない。 
自治体で積極的に無料の 
公民館、しゃべったり、 
人相手のトランプでも、ボードゲームでも、 
単なるゲーム機でもおいて、人と人の関わり 
作らないと。被災者にパチンコとか、嘆かわしい。 
何にもよいことない。

仕事で行ったことあるけどコレ本当 
あいつら補助金でパチしかしていない 
福島の復興なんて諦めてさっさと核廃棄場所にするべき

義援金や再建支援といった全国(世界)からの善意や血税がパチンコに消えるのか

このことは地元だからプログにずいぶん書いてきた、これは嘘ではない事実なのだから否定しようがない。
この辺に小高の人が大挙避難してきて仮設に住んだとき何もすることがなくパチンコ通いになった。その他風俗とかギャンブルとか遠くに遊ぶ人もいた、補償金がたんまり入ったからである。
何もパチンコに通ったから回りに被害を与えているわけではないからいいじゃないかというけど実際はいわき市でも二万人も移住して家を建てたりしたら病院でも福祉関係でもそんな大勢の人間のサービスはできなくなっていたのである。
それで消費してくれるからいいじゃないかというのもあったがやはり地元の人は反発して実際に落書きとかで原発避難者を責めた。
これも当然だったのである。もちろん原発避難者側にも言い分はある。
でもこういうことはマスコミでは報道しなかった、テレビでは特に報道しなかった。
これはしかし隠しておけない地元では大きな問題だったし外部に対しても大きな問題だった。
そしてボランティアが来てはいろいろと仮設で援助してきたのである。
そして結果的には自分たちはかわいそうなんだから援助されるのが当然だという意識になったのである。マスコミも常にかわいそうな人たちとして外部に報道していたからである確かにかわいそうなことはあったがではパチンコやギャンブルで遊んでいていいということはないのである。

自分も迷惑をこうむった一人である。それは原発の避難者が全部悪いというのではない、親戚の人が介護の時来ていたがパチンコ屋で働いていた、借金してどうにもならなくなりパチンコ屋で働いていたのである。それなりに金になるからだろう
でも自分の家に来ては疲れた顔して何もしないのである。
一週間に一回くらい二三分いて帰るだけである。それも腹ただしかった。
もちろん何もしないというわけではない、なぜでもパチンコ屋にそんなに働いて自分が介護しているのに皿一つも洗ってくれないのか?それが腹ただしかった
ただその後も皿一つ洗ってくれる人が自分の所にはいなかったのである。
今はそのために10万近くも払っているとなる、それだけ他人は親戚でも何かしてもらうことは大変なことなのである。
だからこれもそんなに長くはつづけられないだろう
結局結婚していない人はそれでけ金ではらうと高くつくから損だとなる,でも一人だと何かと困るから金でもたのまざるをえないのである
介護では助けるときは意外と家事が男だとわからないから家事を家に来て手伝ってもらうと助かるのである。ディサービスなど母は嫌っていたし役にたたない、でも介護関係者にしては介護保険から金が出るからディサービスに誘うのである。
そしてそれも結構金がかかるし介護には役に立っていないから税金の無駄だともなる
介護というのは何かそうした無駄が多いのである。
金になっているからと有効に働いているとは限らないのである。

いづれにしろ原発避難者でも津波避難者でも同じような所があった、ただ原発避難者は多額の補償金をもらったから悪質だったとなる
その金もパチンコとかギャンブルに費やされたのかとなる
だからボランティアが来て働いていたけどそういう姿を見て怒っていたのもわかる
何か馬鹿らしくなるのである。
あまりにも過剰な援助であり精神的にもかわいそうな人たちとして認められたからであるそれで避難者は何でも許されると勘違いした人もいるだろう。
俺たちはかわいそうなんだよ、それにケチつける奴はなんなのだ、人間の情もないやつだとなったのである。
人間は援助は必要でもそれに度合いがあったのかもしれない、何でも援助されればいいとなりそれにケチつけるやつは集団で糾弾してくる、マスコミも味方にして糾弾してくるから怖くなるからしないとなる、それが鬱積するから全国的に避難者に対する子供のいじめになったりするのである。

もう一つの大きな問題は老人が避難した人たち多かったことである。老人は何か復興といってもしにくい、老人は楽したいのである。とてもきつい労働などできないのである。
それは自分もわかるから同情した。
でも結果的には復興すべき若い人が流出して老人だけが残されたとなる
そしてますます復興しにくくなったのである。
自分も介護十年もしたらもう介護なとしたくない、後はのんびりしたいとなった。
避難者でもそうして遊んでいたら働く気力もなくなるし老人が多いとなると余計にそうなのである、石巻でもかなりの補償金もらったのである。
保険で一億円もらったとかも聞いた、原発避難者ともにていると思った。
原発避難者と津波の被害者は違っていると思ったがにた所があったのである。

まあ、あれだけの被害があると原発避難者でも津波被害者でも復興というのが重荷になりすぎたのである。津波の跡は壊滅状態になったからである。
そして復興すべき若い人が流出したとき老人だけ残されたときとても復興といってもできない、するとヤケになりパチンコでもしている他ないという頽廃状態になった
ただこれは実は老人の問題として退職してやることがないとか老人が暇になったということもある、それが意外と大きな問題なのである。
老後も長いから相当な時間をもてあましている人が多いのである。
何か高等な趣味をもつことは若い内からしていないとできない
普通に働いている人は特にブルカラーの肉体労働者はそんな趣味をもてないのである。
だから一日暇をもてあまている人が多い
定番はカラオケでありあとはパークゴルフである。だから南相馬市に大きなパークゴルフ場ができたことはいいことである
とにかくこの辺では老人の比率が10パーセントとか増えたからである。

結局老人になると生産活動もしない人が多いし社会にとって負の存在になる。年金だって働いていたからもらえるといってもその金は今働いている若い人が税金からひかれているということもある、その若い人が貧乏なのだからそんな負担をしたくないというのもわかるのである。
そして津波の被害地でもジジババしかいない所に金をつぎこんでもしかたないと官僚が本音を言ったこともこういう状況を見ていたら全部は否定できないのである。
結局のんびりするとか自由になるとかいうときそれは自分だけではできない、誰かがそうさせてくれるからそうできる
自分自体が家族がいたからこそのんびりしていたし自由だったのである。
その家族はほとんど文句も言わなかったからできたことであり他ではできないことだと思う。

でも自分の場合は遊んでいたのとは違う、勉強もしていたし旅でも実際は労働だったということを今では思う、今になると何かそういう旅するエネルギーが消失しているからである。旅することは相当なエネルギーが必要だった、特に自転車旅行となるとそうである。その旅したことにより視野が広がり詩とかも書ける、歴史などの知見も得ることになったのである。
本当の旅は勉強であり注意力を注がないとあとでふりえることができない、記憶に残らないのである。あそこにいい女性がいるなとか気がそがれただけで旅は記憶に残らなくなる回りの景色などもその女性のために記憶に残らなくなるのである。
だから旅には相当な注意力が必要なのである。芭蕉のような旅をしないと旅にはならないのである。だから実際にこういう旅をできる人はまれだとなる
旅人となることは現代では一番むずかしいかもしれないのである。

ともかく現代は寿命が長いから退職してからも長いからそのことを考えねばならなくなった。それは金の面でもそうだし精神的にもその残りの時間をどう過ごすかが意外と大きな問題となっているのである。それは第三の人生となっているからだ
でも結局老人は人生のしめくくりであり総決算である。
それが否が応でもそうなる、自分の場合は旅でも何でもしてきたことなど学んだことなどを作品化することなのである。そのためにあとの老後の時間があるとなる



タグ:パチンコ
posted by 老鶯 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

去年(こぞ)の落葉 (短歌も写生だったー俳句文芸は終わりかもしれない)


去年(こぞ)の落葉


(短歌も写生だったー俳句文芸は終わりかもしれない)


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冬たんぽぽ今日もここにや住みつきぬ


朝風に頬の冷たき空澄みて枯木の枝の張りにけるかな

去年(こぞ)散る木の葉残りぬ我が庭に動かぬ石を部屋に見つ暮る

去年散りし落葉や我が庭忍び足猫の歩みぬ訪ぬ人もなし

新年に我が挿す菊の花にあれ部屋にさしいる朝日に映えぬ


冬たんぽぽが咲いていた、イヌフグリも咲いた、やはり春なのだろう。
昨日は寒かったけど今日はあたたかである。
人間は住んでいる場所がいいというときそこに家族がいたり友達がいたり何か人でも土地でも住んで気持ちいいというときだろう。
まず家族がいるときはそうである。でも家族がいなくなるとどうなるのか?
それをここ十年家族はいても介護で苦しかったし助ける人もいないので故郷でも住みやすいとは自分ではならなかった。
自分はともかく三〇年間は楽だったから特にそうなった。
でも家族がみんな死んで介護もないので余裕が生れた、そのタンポポがなにかよりあたたかく感じた、人間はそこに住みたいというとき人とか自然環境もありまた他にもある
とても東京がいいというけどあういう所には住みたくない、でも経済的問題があり田舎でも貧乏だと嫌だともなるからむずかしいのである。
大阪から来た人は除染で三年いて田舎は人がいいから長くいたなとか言っていたが住んでみればまた違っている、田舎の姑息さに嫌気がさすだろう。
その人は住んでいるとは言えないからである。

去年散った落葉が庭に残っている、それを気づいたのは昨日だった、でもその落葉は長い間去年からそこにあったのだ、でも気づいていなかったのである。
なんか人間は近くにあっても気づかないことがつくづく多いのである
古い碑なども注意しないと気づかないのである。過去は何かひっそりと埋もれてしまうのである。まず生きている間は人間は騒々しいが一旦死ぬと何も語らないのである。
そしてそんな人がいたのとかみんななってしまうことの不思議である。
人間は生きているとき死んでからの差が大きすぎるのである。
骨になり灰となり無となってしまうことがあまりの変化なのである。

ともかく短歌でも写生である。ありのままを写生することである。この歌はそうだった。写生はいうとき何かそこに感情的なものはあまり付け加えないことである。
この歌にしても写生そのものだからである。
俳句はもう現代では短くて表現しきれない、だから俳句文芸の世界は終わりになるかもれない、ただそれでも芭蕉のような天才が生れればまた別なのかもしれない
でも俳句は表現的に無理があり限界が生れた、でも季語は日本の文化でありこれは変わることなく活きつづけるのである。
俳句とか短歌の世界は結社などあるのもおかしいのである。
俳句は誰でも作りやすいからそれで結社で師匠とかなっていてそれで芸術家だとしている俳句の世界はほとんどディレタントしかいないのである。
もう芸術として成り立っていない、それは自分がそう思うだけだともなるが今では新進の俳句作家でいい人がいるかとなるといないだろう。
ただ自分は短歌は何かまだ表現できるものがあると思った。俳句より短歌の量が多いし表現ができていると自分は思っている

自分の性格は何か異常である、人と接すると異常に疲れるのである。そして三〇年間隠者のような生活ができたのはたまたまそういうことが許される家族環境にあったからである自分には学校も適応できなかったし会社員として勤めることもできない
だから石のように沈黙して人と接しない生活だったのである。
考えてみるとこれも不思議なのだが禅宗の座禅をしていたと同じである。
計らずしてそうなっていたという不思議である、それは精神的に見れば効能があった。
マイナス面も大きかったがプラス面も大きいものがあった。
沈黙するということは自然が大きな沈黙にあるように自然と同一化するには不可欠なことだった。沈黙によって自然を知る、自然と同化するからである。
山でも石でも樹でも沈黙しているからである。
すると沈黙することによって自然のように人間も大きくなるのである。
現代にはこの沈黙が一番欠けているのである
ただこういう生活をするにはアウトサイダーになってしまう。
会社員とかになったらできないのである。自分がそうなったのは社会に適合できないからそうなったのである。






タグ:写生俳句