冬深む(正常化した自分?)
寒椿雪に散りにき据えし石
平和なり障(さわ)りなくて山眠る
平和なり山の眠りの深きかな
冬深む石黙然と一人かな
冬深む契りを強む森の樹々
何を見む寒星一つ徴しかな
四両の列車明るき冬の夜
凍るごと雪降る庭に一輪の薔薇の咲かむや石の静まる
故郷の老いたる女と親しくも我が家にありて一人なるかな
自分は母が死んで一年とかすぎてようやく正常化したのかもしれない、姉で認知症で苦しみその後も回りは津波だ、原発事故と信じられない異常なことの連続だったのである。
そして常に何かに追いやられていたのである。障りがあったのである。
何かそういうことは人生の中で家族でも誰にでもあることなのだろう。
なぜなら人間は必ず病気になり死ぬからそれが逃れられないから家族でもごたごたするのである。
それはどんな宗教を信じようかカルト宗教団体に入っていようが関係ないのである。
そういう問題から不幸からみんな誰も逃れられないからである。
カルト宗教団体に入ってもいてもそうした不幸になった人は山ほどいるのである。
近くにそういう不幸な人がいて家に住んでいる人はいない
事業が失敗して家がなくなったとかそんな人はめずらしくもないのである。
事業に成功している人の方がまれなのである。
ともかく一人というのはなにかまたこれまで経験しない心境になる
一人も慣れないと淋しいとなる、わかったことは確かに動いて人ごみにまぎれると淋しさもまぎれることがわかった。
それで時々原町に自転車で行くのである。意外と動くということが淋しさをまぎれることになる、大きな家でぽつんと一人でいると淋しさを感じるのである。
動いているとそういうことをあまり感じないのである。
一人は来ているから誰も来ないというわけではない、でも家ががらんとしているのが嫌なのである。
自分で言うのもなんだがここの俳句と短歌はかなり深いものがある。
その深さを読むことがむずかしい、芸術はまず鑑賞すること自体が常にむずかしいのである。だから深く鑑賞できる人はその人は芸術家と同じのように思える
俳句などでも深いものがあっても鑑賞できないのである。
「冬深む契りを強む森の樹々」これは短いから鑑賞できない、別に詩を作っているからだ、それと合わせると鑑賞しやすくなる。
今回庭に咲いた咲こうとしている薔薇は不思議である。凍えるような時に咲くものなのか?
冬薔薇という季語があるから冬に咲く薔薇はある、でもこんなに寒いとき咲くものなのかとなる。
それはまさに自分が一人なのとにている
自分はもともとほとんど人と接しず一人だった。それも何か異常だったのである。
それで介護とかで苦労したのである。社会性がないからそうなった。
でも自分はもともと一人でいるとき精神も安定して平和を感じる
一人でも淋しいとき別に淋しいと感じないときがある。夜はかえって感じないのも不思議である。
今日は本当に寒かった。氷柱が近くで見たのもめずらしいからである。
滅多に氷柱はこの辺では近くでは見ないからである。一部水道が凍結した。
今頃は冬深むの時期である。今年はあたたかったりこんなにもまた寒くなる。
ただ何もわずらわされない平和がある。平和とは結局何もわずらわされないことなのである。
まず自分が病気になったりした平和がないし家族が介護になったりしても平和がないし
また借金などしたら平和がない、もちろんその他で平和がないことはいくらでもある
平和であることが人間はそんなにないということもある
でも自分は30年間くらい平和に暮らしていたのである。確かに家族が平和というわけではないにしろ自分にとってなにもないわずらわされない時が30年間つづいたことは不思議だったとなる、こういうことはまれなことなのだろう。
いづれにしろ冬深む山眠る時である。山眠るというときみちのくが何か合っている。
山眠るというとき高い山ではなく低い山があっている気がする
高い山だと眠るというより冬でも厳しくそそり立つという感じにもなるからだ。
この辺では高い山がない、それが自然としては欠けているからものたりないのである。