小高区と鹿島区のうまくいかなかったことの反省
(急激に起きたことで原発避難者はまとまることができなかった)
近くの小高区の仮設の人がまもなく出るということでモチをついて回りに配ったとか聞いた、そこは回りともうまくいっていた。
別に小高の人にもいろいろいるからみんなが悪いとはならないし自分も話したりした。
基本的には補償金でもめた、でもそうだからといってみんなが悪いとはならない
でもどうしても補償金の問題は大きかった、なぜ小高ばかりが待遇されるのかと補償金をもらえない人たちは不満になった、それは相馬市でもそうだしどこでもそうである。
鹿島はまだ多少はもらっているからいい方だとなる。
そして毎日パチンコとかギャンブルで遊んでいたことも反発された、それも考えると急激に避難者になったことが原因していた。何もすることがなくなり金は入ってくる、やることがないとなりそうなった。
でもその時回りではなんだあいつら毎日ギャンブルで遊んでいるだけだと見られた
避難先では働く人たちがいたからである。そして避難者は常に外部からボランティアなどがきて援助していた、かわいそうな人たちとして援助していた、すると俺たちは同情されるべきであり援助されるのが当然となったのである。
だからそういう人に何か文句を言うとなんだと同情もしない奴なのかと怒る
それにお墨付きをつけたのがマスコミだった、テレビでは避難者のことなど悪く言わない、常に同情する立場にたっていた。
NHKでも原発避難者と津波被害者がいたとき原発避難者の側に味方して放送していた。
なぜ仲間に入れないのかとか放送していた。ただその後は双方が和解することなどを放送していた。
なぜ原発避難者がいろいろ問題になったかというと急激に避難者となったことで村でも町でも混乱したのである。自治体で一つの方向をもって共同して対処できなかった。
そしてどうなったかというと個々人が補償金をどれだけもらうかが問題になり自治体がまとまるとかはなかった。そして結果的には自治体のまとまりがなくばらばらになった。
小高の場合は小高町としてまともまることができなくなっていた。
なぜなら南相馬市として合併していたからである。それはいい面と悪い面に働いた。
ただ他と比べて小高自体のまとまりはなくなっていたかもしれない。
人間はそもそも急激に起こることに弱いのである。自分も一身上で介護だ、自分の病気だということに十年間苦しんできた。そこで事件にもまきこまれた。
本当に急激に起こることに人間は弱い、どう対処していいかわからなくなり混乱してしまう。そういうことでやはり自治体がばらばらになったということもある
第一放射能というのにどう対処していいかわからないからだ。
それが混乱の一番の原因だった。津波くらいだったら苦しくてもなんとか対処できたのである。
こういう危難の時は何か指導者が必要となるのかもしれない、みんなそれぞれに勝手に行動したらまとまりがなくなりそれが回りとの軋轢をうむ、いわき市などでは2万人も移住してその中で家が建てた人が多いというとき市が混乱状態になる
するとその2万人が非難の対象になる、つまり自治体としてまとまり行動しないと回りの顰蹙をかうことになる、その中でばらばらに行動していると何人かでも勝手に金あるんだからギャンブルしようが何しようがかまわないとなっていた
それが回りの顰蹙をかったのである。
そもそもこうして自治体がばらばらになったことが問題なのである。それは原発を建てる時から自治体は広くまとまり原発の周辺だけではなくいわき市でも南相馬市でもさらに広くまとまって原発に対処する必要があったのである。
その土地の所有者と県の許可で原発が建てられたということが異常だったのである。
なんら議論すらなく原発は利益になるというだけで建てられたのである。
そこからして現在の混乱を生む原因になっていたのである。
だから十津川村で土砂崩れとか洪水で大被害を受けて北海道に村が移住したときは村が一つになっていたのである。時代もあるがそういう危難の際にはまとまること団結することが優先されたのである。それを見るとギャンブルどころではない、徹底した節制を全員一致でしていたのである。政府からも援助金をもらったから無駄をしてならないとか全員で徹底して団結して危難に立ち向かったのである。
それだけのまとまり団結ができたのはなぜかとなると時代背景があり今とは比べられないともなるが参考にはなる
そういうふうに団結しなければも自治体は維持できなかったのである。
だから原発避難者でもそうしたまとまりが必要だったが第一原発避難者でも全国に散らばったり福島県でも広いから散らばった。そこからしてばらばらになってしまった。
どこかに一カ所に住めばまだまとまりやすいことがあるが最初からばらばらになった。
その後は何か町の再建するというよりもう町から出た方がいいとなった。
補償金もらってそれで家を建てた人も多いし若い人に多かったのである。
それで老人は故郷に帰りたいといっても町や村を維持できなくなった。
飯館村さえ補償金もらって外に出て牧場経営した方がいいともなったのである。
補償金をらうことにより個々人でその将来を考えるようなった
そうなると町や村を維持しよう、守ろうとか将来を考えることもできなくなったのであるそれは急激なことであり時代背景もある、現代は金があればどこにでも暮らしていいという時代である。
そして豊かな時代だから誰も放射能汚染した所に住みたくないとなった、人間は誰も豊かな時代に不便な貧しい生活など望まないのである。
十津川村の場合は貧しい時代であり北海道に開拓に入る人が普通にいた時代だからそこでの苦労をいとわなかったのである。戦後まもなく津島などに開墾に入った人たちもそうである。働く場所がないのだからそんな場所にでも入って働いたのである。
そういう苦労したから津島では団結していた人のつながりが強いと放送していた。
いづれにしろこの津波とか原発事故は自治体の在り方とか対処の仕方とか自治体とは何かとか問われたのである。普通だったらそんなこと問われない、でも例えばこの辺でとなくても夕張などでは自治体が破産するとかなり問われた、自治体が維持できなくなる
税金も入らなくなり住民もへってゆくから福祉関係で何でもサービスを受けられるなくなるのである。限界集落になっているところもそうである。
危難の時は国でもそうだが一個人のことを言っていられない、日本でも戦争の是非があっても一個人の自由はなくなる、国の存亡がかかっているからである。
それは自治体でもそうだったのだが今の時代は移動が簡単だし時代背景もありそうして十津川村のように団結できなかったのである。
それが原発避難者が各地に散らばり地元の人と軋轢を生んだりした原因だったのである。本当は原発避難者は一つにまとまり団結して対処すべきだったのである
それが急激に起こったことで対処できなかった、結果的に自治体がばらばらになってしまったとなる
だから十津川村と比べるとその差はあまりにも大きかったのである。
移住住民は、故郷を去り、親や兄弟と別れ、絶海の地に移住してきて、移住者同士しか頼れるものはいないのだから、これまでにも増して一致団結し、お互いに助け合い、猜疑や軋轢を生むことなく、新村の隆盛と勤王の由緒相続を目指そう。
これを読めばひしひしとその時の危機感が伝わってくる。その困難に際して人々がいかに一致団結したかわかる。その覚悟と決意の強さが復興の原動力だったのである。
人間はこういう危機のときでも困難のときでもこうした覚悟と決意があれば力を発揮するものだと思った。
だから避難民はここはかなり参考になると思う。
これを読むと相当なまず覚悟があったということである。原発避難者にはそんな覚悟もなにもない、補償金をもらえばいい、それしか頭になくなっていたのである。
それがまた当然であり回りでもそれは認められるべきでありボランティアでもマスコミでもそうさせたからである。それはしかたないにしても何か過剰な援助でもあった。
そうなると自分たちでなんとか復興しようとする気すらなく個々バラバラになり補償金をもらうことにだけ奔走する、それが回りとの軋轢を生んだ
だから人間は恵まれたからといって豊かだからと言っては限らない、金持ちが協力しあわないで貧乏な時代はかえってわずかのものを与えたりもらったり隣近所と協力していたのと同じである。今の時代はただ求めるのは金だけなってしまったのだからそういう時代背景があってまとまれなかったということもある。
ただ危難の際には普通の場合とは違った対処が必要だったのである。
それができなかったのが復興できなくさせた大きな要因だったともなる
十津川村の教訓ー移住する意志と覚悟と決意があった
(原発事故周辺は補償金だけをもらうことしかないので復興はできない)