2017年01月12日

津波の跡の烏(からす)浜にまだ新年はなかった (五年半過ぎても津波の傷痕は消えない)


津波の跡の烏(からす)浜にまだ新年はなかった

(五年半過ぎても津波の傷痕は消えない)

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樅の木の間より望みぬ冬の海

海暮れて樅の木一本冬の月

烏浜津波の跡や冬の暮   

冬の灯や我が家に帰り石一つ   


烏崎津波の跡に残る墓地なおたずねつつ冬のくれかな

烏浜波うちひびき人をのむ津波の跡や冬の雲垂る

烏浜無情にひびく波の音ただ墓残り冬のくれかな

樅の木の墓地に一本立ちにつつ変わらずあれど家はなしかも

烏崎津波の跡や冬の浪うちひびきつつ暮れにけるかな


烏(からす)浜は烏崎になったけどやはり崎だけではない浜になっていたし人も住んでいたから崎という地名だけでは現せないものがあった。
烏浜は前は東北電力の火力発電がなかったのである。
その時原町と鹿島は砂浜でつながれていた。その時も良く行っていたのである。
火力発電所ができてそういう風景も消えた、あれは景色的にいいものではないと思っていたが今から考えると原発よりは良かったのである。あの中で2000人とか働いているというのは本当なのか?、相当なこの辺での雇用の場所になっているのだ。
東北電力の社宅の団地も鹿島区にあるしまた最近できた広いパークゴルフ場は東北電力の廃棄物処理場の跡にできたのである。

この火力電力が建ったときも烏浜には補償金をもらっていたのである。それで近くの呉服屋が着物を売ってもうけたということは家の人から聞いている。
その時も相当にもらっていたのである。その後は船主など船子は漁業組合に入っていた人は原発で事故前も事故後も補償金をもらっていたのである。
そういうことで墓を見ると立派なものが多いとなるのか?

でも不思議なのは海老でもそうだが墓地が残って家は津波で流されたのである。
だからなんか奇妙な感じになる、墓地だけが墓だけが残って部落が消失するというのはどういうことなのかと思う
海老では本当に墓地だけが高台に残ったから目立つ、ここは隠れるように墓地があったから目立たない、でも墓地だけが残り部落が消失している風景は何なのかとなる
墓地が流されて部落が残っているならいいがそれがないのだ

あの墓地から見晴らしが良くなったのは家がなくなったからだろう。
あそこに立っていると未だに新年を祝う気分になれなかったし現実にそうである。
津波はあまりにも悲惨だったのである。
根こそぎ部落がなくなることが悲惨だったのである。
あそこに野生の咆哮のように冬の浪が打ちつけひびいていた。
まさに自然は無情なのである。ここに死んだ人たちのことなど考慮していないのである。無情もまた自然なのである。自然を呪った海を呪ったというのもわかる
自然には情がないのかとなってしまうのである。

なんか今になるとその波の音が恐ろしいとなる、海はやさしいものではない、自然でもそうである。海はもともと何か恐ろしいものを感じていた。
だからあのように海に面して家々があることが不安にならないかとも思っていた。
海鳴りがいつもひびいているからである。
津波の跡に新年が来るのはいつになるのか?
復興というとき津波の跡でも家が建って人が住めば復興したとなるがここにはない、他でもなくなった。
だから復興したと感じるのはいつになるのか?
それは何十年も先になるのか?ただ墓だけがここにも残っているのである。

トランプはなぜマスコミを嫌うのか (マスコミを相手にすると偏向報道がされるから)


トランプはなぜマスコミを嫌うのか

(マスコミを相手にすると偏向報道がされるから)


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そもそも民主主義が発生したのはギリシャであり小さな都市国家である。そこでは直接民主主義だった。市民が直接投票して市を運営する人を選んだ、そういうふうに小さい都市国家だからその人がどういう人物かもわかる、その主張もわかる。
民主主義がもともとデモクラシーというときデモとは地域のことだったというときもそうである。小さな地域で行われていたのである。またそうでなければ成り立たないものだったのである。
それが今の国家規模になると民主主義が成り立ちにくい、そこでマスコミが第三の権力になったのである。
つまり直接民主主義が成り立たずマスコミ民主主義になったのである。
マスメデアというときまずメデアは

メディアとは、媒体、媒質、伝達手段、中間などの意味を持つ英単語。“medium”の複数形。

それはただ何かを情報を伝える媒体であり単なる機械だとなる、でもそれが現代で重要になったのは一億人に伝えるとなるともうそうしたメデアがなければ伝えることもできないのである。だから最初は新聞であり次にラジオが大きな力をもち次にテレビが大きな力をもつようになったのである。
国民の声を伝えるにもそうしたメデアをマスコミを通じなければできないのである。
そしてマスメデアをマスコミを通じてある人物でも事件でも何でも取り上げられれば一億人の国民に伝えられる、でも取り上げられなければ何も伝えられないとまでなったのが
今の民主主義なのである。
マスメデアがマスコミがなぜこれほど大きな力をもち社会に影響したことが民主主義を歪めたのである。

今日見たフジテレビのトクダネでは盛んにトランプを批判していた、なぜマスコミを拒否しているのかとかトランプはなぜツイッターでしか発言しないのかとか盛んに批判していた。ますあからさまに批判ありきなのである。あからさまにテレビ局の意向を出しているそこに客観的に見るメデアとして中間となどなっていないのである。
トランプが第一になぜツィッターでしか発言しないのか?、そんなことが許されるのかということで日本のマスコミもアメリカと同じようにそのことが一番の不満なのである。
それはマスコミ不用論にまでつながるからである。

インターネットが一般化してこれもできたことである。何千万のフォロアーが読んでいるということも驚きである。ただそれは一方的になるということでマスコミが批判した。ツイッターなどは自分もしていないのだからそういうことができるものなのか理解しにくいということはある。
それはでも直接的に国民に訴えることができるようになったからそうしている。
これまでは政治家でも直接訴えること伝えることがしにくいからそうなった。
マスコミに出るだけで有名になり当選した議員もかなりいた。第一東京都知事すらそうだった。石原慎太郎でもなぜあれだけ力をもったのか不思議だとなる、それはマスコミの力だったのである。マスコミでは批判できなくなっていたからである。
でも石原慎太郎を批判していた人は本も出しているしいたのである。
それは無視されていたのである。そういうことは常にマスコミ、マスメデアは民主主義では起きていたのである。

トランプがなぜアメリカのマスコミすら泡沫候補としてしか報道されなかった。
それがなぜ大統領までになったのか?それが外国になれば余計にそうなる
アメリカのマスコミがみんなヒラリー側につきそれに呼応して日本のマスコミもそのまま伝えているからそうなった。トランプってなんなのだとマスコミだけの情報から見ればそうなってしまう。
そういうことはマスコミ民主主義では常にあった。
原発の安全神話もまずマスコミに多額の宣伝費を払い批判をおさえる、それで地元の福島県の民報でも民友でも原発推進であり安全神話に組みしたのである。
福島県でもほとんど原発の危険を伝える報道がなかった。
ただプルサーマルとかで前の佐藤栄作知事が危険を問題にしていたことはあった。
でもそれは原発全体が危険だということではなかった、原発自体の危険性を伝えるものはほとんどなかったのである。
そういう批判は片隅に追いやられ冗談かとまでなる、それほど強固に安全神話は作られていたのである。

だからトランプがアメリカのマスコミに批判されるばかりだったからマスコミ不信になりインターネットのツイッターでしか発言しなくなった、マスコミに発言すればそれを取り上げてマスコミの偏向報道につながるからである。
マスコミはまずトランプはけしからんということからトランプは大統領になるべきではなかったいいう明確な主張がありそれで問いつめるからマスコミを通すと歪曲されたものとして国民に伝えられるからである。
つまりマスコミは単なるメデアではない、伝える媒体ではない、明確に主張をもって白黒を決めていて報道するのである。
ただそれがわかりにくい場合がある、それはNHKでも同じなのである。どうしても左翼的な報道をしているのがNHKである。
原発避難者のことでもとりあげたが最初から原発避難者側についた報道をしていた。
この辺の事情は複雑であるから変だなと思った、それは地元でないとわかりにくい面があった。
取材するにしても発言させるにしてもそういうふうにNHKでは原発避難者側について取材していた。だから津波被害者のことを考慮していなかったのである。
両方の言い分を言わせればいいが一方的に原発避難者のみの言い分を言わせていたのである。
マスコミは単なるメデアではない、その会社の主張をもったメデアなのである。
だから

マスコミは信用するな、まず疑へ、批判的に見ろ

それを可能にしているのがインターネットだともなる、ただインターネットにもいろいろ問題があるが対抗メデアとして出てきたことは変化であり民主主義にとってはいいとなるのである。
トヨタをトランプが批判したときもそれはトヨタでもメキシコに工場を作るより日本に工場を作り日本の利益を優先させるべきでありアメリカも外国に工場を作ってもアメリカの利益になっていないからそうなったという主張がある。
そういうことは別にグローバル化した経済の反省からでてきている。
だからフジテレビでなんでトヨタを批判するのだとか感情的になる
テレビは良く冷静に見られるメデアではない、感情的になり一方的に洗脳されるメデアなのである。
何かテレビ局に文句も言えないからである。それは新聞社でも同じである。
それを言ったとしてもまず批判的なことはマスコミでは取り上げないからである。
だから今はマスコミ自体が批判の対象になった。インターネットである程度できるからそうなったまでなのである。これまでのマスコミ支配が崩れることは民主主義にとっていいことなのである。