2017年01月19日

原発反対するにはどうするのか? (補償金を要求すると逆効果になる)


原発反対するにはどうするのか?


(補償金を要求すると逆効果になる)


この辺ではこれだけ原発の被害があったから原発に反対になる。
ところがなぜ被害にあった人たちがいてそれを訴えても何か効果がないのはなぜなのか?あいつらは補償金が欲しいだけだ、原発乞食だとか言われる
内部でも補償金でももめて争った経過がある。
こういうことしていると外部でもあいつらは補償金でもめている、結局金目なんだよなとなる、外からもそう見られる

もちろんそれだけの被害があったのだから補償金をもらってもいいしもっともらいとう言う人もいる。でもそれにも限度がある。限りなく金がかかって廃炉には20兆円もかかるとか途方もなくなっている、それで国民の不満がある、税金からその金が出るからである。原発の金は途方もない、その金を福祉とかに利用したら介護なとでもかなり改善されるという。その金は一兆円にもならないのである。
ただ原発は実際はこれだけ金がかかるものだと知らしめたことは効果があった。

でも本当に原発に反対するのなら被害を受けた地元でも何か国民に訴える方法を考えねばならない

補償金が欲しい、もっと欲しい

そればかり言っていると効果がないし逆効果になる、どれだけ金が必要なんだとなってしまう。その金でギャンブルで遊んでいるだけじゃないかともなりますます批判が強まり子供のいじめになったりする。

一方で俺たちは補償金などいらない、もらったとしてもこれ以上は要求しない、俺たちは俺たちでなんとか生活する、必死でする、何かそうしたら国民の見方も相当に変わるだろう
そうなるともう地元の人も必死になる姿がありありと見える、原発被害者はあんなに苦労している、極端になると生きるか死ぬかで苦労していると見えたら相当な効果になる
原発被害者はあれほどまでして訴えているんだとなる
補償金をもらっている限りそうした必死さはない、もっと金よこせと言うだけならそういう必死さは伝わってことない、かえって国民からの反発が多くなる

とにかく補償金をもっとくれというとき国民から反発が多くなる
そのことは原発を作ったときから言われてきた。お前たちは金欲しくて原発を建てさせたその時から多額の補償金をもらって潤っていた。
そして事故後もまた補償金をもらえる、そうなるとこういう人たちが原発反対と言っても何か訴える力が弱いのである。
ただ「俺たちは被害者だ、弱者だ」だから援助されるべきだ、そして内部でも補償金でももめて争いがあり多くもらった人たちが少ししかもらわない人を非難する
それも考えてみれば何かただ少ししかもらわない人たちも結局金が欲しいだけなのだともなる、自分もそうだったから反省されるべきかもしれない、ただ額は多いとは言えないものだった、避難はしていないからそうなった。

つまり本当は原発被害者が一番原発に反対する立場にあった。それがかえってできないようになったのは補償金問題だったのである。
もっともらうべきだという人も外部にもいた、もちろん内部では補償金はもらえるだけもらうとなっていた。
極端にはなるが要するに被害というときシリア難民のようになれば世界にも訴えられる
子供が波に打ち上げられた映像とかみたとき世界が同情したからである。
原発の被害も故郷に住めなくなるということで実際は大きかったのだがそれがそれほど訴えないものだった。
なぜならいわき市に2万人が移り住んだとき次々に補償金で家を建てたりいい車を買ったりギャンブルとか飲み屋で遊んでいたりとかあったからだ。
もしシリア難民ともいかなくてもテント暮らしとかになったらどうか?
それを見た人たちは原発事故はひどいない、原発りてどやめるべきだとなっていたかもしれない、でもそんなことはない、なんだかえって贅沢しているんじゃないかと見られたところがあったことはいなめない、避難者にとっては苦しいとしても外からそうみられないところがあったのである。

結局原発に反対するにしても反対する人もただ反対、反対と言っても効果がない、何かそこに真剣さがないし口だけ言っても効果がない、何かそうした問題でも体を張って反対するような覚悟が必要にもなってくる。
それはその人の生活自体まで問われる、見られることになる
ただ補償金だけをもらいたいだけなんだと外部から見られていたら地元で被害があっても訴えない、もともとあいつらは原発でも金が欲しくて建てたんだ、そして事故後もまた金を欲しいだけでなんだとか見られる
だからそのことを書いてきたけど地元でも生活自体が問われたのである。
豊かな生活を求めてきたのが戦後だった、原発もその一つだった。
でもそこに大きな落とし穴が待っていたのである。

ただ原発の被害は故郷に住めなくなるということだけは知らしめたのである。
空気とか土や水とか基本的なものが汚染されるから住めなくなる、空気が汚染されてそれは何十年と減らない消えないのである。
部屋の中の放射能も減っていないのである。空気の中の原発は減らしようがないとかある水とか土が汚染されたら取り除くということがあるが空気はできない、ただ泥に付着したりするとその泥を捨てるということが除染になったのである。
それが原発の深刻な被害だったのである。
事故が起きたら今住んでいる所に住めなくなるということは知らしめたのである。
それが最大の被害だったのである。
posted by 天華 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年01月20日

今日の駅の短歌(寒い日に駅で待つ中学生)



今日の駅の短歌(寒い日に駅で待つ中学生)


この駅に電車を待てる時のありしばし話しつ寒き日なりし

冬の雨しとしとふりて石ぬらす一人しあわれこもりいるかな


今日は特に寒い、人身事故があって電車が遅れているという電光掲示板に流れていた。
セブンイレブンから六号線を横切り踏み切りを出た鹿島の十字路で交通事故があった。
車はそれほど損傷がないから大きな事故ではなかったのか?

今日の駅にいたのは中学生だった、また一学年で3クラスくらいあるという、そんなにまだいたのか?ただ鹿島区では中学校は一つであり小高の人もまじっているからかもしれない。団塊の世代の時は一学年で八クラスだった。
何かそれもあまりにも遠い話になった。その中学生は塾に通っているという。
インターネットで英語の単語など勉強すると便利だと言ったら自分もしているという
この前はタブレットを見ていた中学生がいた、その女性は受験生だった。
相農で環境科とかで花の栽培を学ぶという、そういう目的をもって学ぶのはいい。

今日はこれだけのことだけどプログは毎日書くのでありこうして日々のことを伝える
それがプログ的だとなる、その日その日の感想を書くのである。
それはその日だけのことでありあとは書けない、そしてそれが記録となり記憶となってゆく、そういうことは今まではできなかった。
だからプログは何であれ一日一回はその日のことを書く、それが勤めである。

それが読んで面白くないとしても自分の日記だからかまわないとなる。
その日にしか書けないことを書いているのである。
一日一回は駅に行くのが自分の勤めともなっている

ともかく駅は待っていることが人間的なのである。待つ時間が人間的時間を作り出している。
バスだとなにか待っていても電車の駅のようにはならないのである。
旅でもこの待つ時間が記憶として残ったりする
急ぐ旅は記憶に残りにくいのである。

タグ:駅に待つ

2017年01月21日

マスコミの報道の独占は終わる (トランプはマスコミを相手にせず大統領になった)


マスコミの報道の独占は終わる

(トランプはマスコミを相手にせず大統領になった)


 小池を批判する意見もある、小池を評価する意見もある、と事実を報道すればいいだけだ。そして読者が正確に判断できる材料を報道してくれればいい。

 マスゴミはクズだから、世の中のことは全部オレ様が判断してやる、大衆はオレ様に従え、である。だから嫌われる。

マスコミとは何なのか?マスコミは世の中に起きたことを単に報道するのではない、一つの主張をもった団体なのである。だからその主張に従ってコメントする人も司会者も選んでいる、朝日テレビだったらどうしても左寄りになる。
それに適合した人が選ばれる、赤旗のようになっていないとしてもそう誘導されているのである。単に事実を報道しているのではないのである。

世の中必ず人物でも評価する人としない人がいる、それが一方的になると危険なのである石原慎太郎を批判した人はいても目立たないからマスコミで取り上げないから石原慎太郎が言いたい放題になっていた。
マスコミは明らかに第三の権力というように強大な権力集団になっているのだ。
それは報道するという権力をもっていたからである。
報道する権利を民衆はもち得なかったために強大な権力をもったのである。
報道する権利は大きなものでありまたこれまでは金がかかりすぎるから誰も報道もできなかったのである。だからマスコミはそうしたし報道装置をもっているから政党と同じく権力集団だったのである。
政党よりも大きな権力をもっていたのである。
なぜならマスコミに政治家でも出れば顔売れて選挙に有利になるからである。
もしテレビに呼ばれないとかなると選挙に影響していたからである。

新聞でもそれを紙に刷って一軒一軒配るとういことは膨大な金と労力がかかるのである。近くで新聞配達を請け負う家がもうけていて裕福になったとかあり町には新聞配達で生活が成り立つ人がいるし新聞を配達することが仕事になる人もいる。
だからそうした雇用にもつながっているし福島県だけでも新聞社は大きな会社だとなる
それは報道するにもそれだけの金と労力がかかる、そして新聞は紙だとするときその紙を膨大に消費しているのである。新聞紙で自分の家は店をしているとき袋を作るのが母の日課だったのである。
トイレットペーパーがないときはその代わりにもなっていたのである。
新聞紙はまた紙としていろいろ利用されていた、風呂のたきつけなどにも自分が風呂の番だったから使っていた。
それでも新聞は今や紙の膨大な浪費になっている、自然環境の破壊の一因にもなっているとなる

それはインターネットなどが生れて電子化したときそうなった。電子化すると金はかからない、全国に即座にニュースでもなんでも個人的なことでも伝えられる
それでトランプがツイッターでマスメデア、マスコミを通じないで主張を直接伝えるようになったのである。今まではマスコミを通じないと伝えられなかったのである。
でもCNNの取材を受けないというときなぜそうしたかというとCNNという報道機関はトランプに反対する強固な主張をもっていたからである。
そしたら何も事実だけを報道するのとは違う、CNNの見解が入ってくるから拒否したのである。
今回はマスコミはトランプにほとんど反対だから泡沫候補としてしか取り上げなかったのである。取り上げたときネガティブなものとしてキャンペーンとして取り上げたのである性的なものとか下品な奴だとかそんなことしか伝えていない、ではなぜトランプが当選したのかとなる、大統領になったのかとなる

マスコミは自分たちの意向は伝えてもアメリカ国民の意向は伝えていないのである。
白人の中産階級が没落して不満が爆発寸前にあることなど伝えなかったのである。
なにかトランプはとんでもない奴だとしか伝えない、だからなぜトランプが大統領になったのか外国から見ていても不可解だとなる
それはそこにマスコミの主張が入っていたからである。
そして日本でもアメリカのマスコミの意向をそのまま伝えたからそうなったのである。
アメリカ国民の実情と事実を伝えてはいなかったのである。
あまりにも一方的なマスコミの主張のみが伝えられたのである。
そのマスコミはヒラリー派のグローバル経済の勝者たちによって作られていた。
だからそれを中産階級の不満な白人たちがそのマスコミの報道にはのらなかった。
マスコミは常に一方的になりやすいのである。時の権力者側につきすいのである。
サンダース候補が民主党で人気になったときそれは白人の中産階級労働者の不満を吸い上げていたからである。
グローバル経済はアメリカの極一部の人たち、ウオール街の人にしか富をもたらさなかった。アメリカの格差は極端である、そのことにトランプが勝った要因があった。

マスコミはただ事実を報道するのではない、会社の方針があり主張があり報道している。その判断を国民にあおぐのではなくマスコミが自体が決めてやるとなる
だから必ず偏向がある、ナショナリズムの回帰がありその賛否はあるにしろ反グローバル経済が世界的に起きているのも事実である。
日本のマスコミはグローバル経済を主張している、だからトランプには批判的になる。
アメリカはもっと世界のことを考えるべきだという、アメリカだけではやっていけない時代だとか言う。でもグローバル経済でアメリカがみんな豊かになってわけではないからこそ経済のナショナリズムが起きているのである。
数パーセントの人たちるアメリカの富がもたらされたが大勢の人にはもたらされなかったからこそ不満がありトランプを支持したのである。

いづれにしろマスコミは自らの主張をするために報道の権力を有していたのである。
取捨選択もマスコミでするしそして自分たちの主張をするためにテレビでも新聞でもあったのである。それは報道するための権力をもっていたからである。
それがインターネットになったとき事実を伝えるにしても新聞社ではなくテレビでもなくインターネットから伝えたからマスコミでは怒りにもなったとなる
マスコミが批判されるとき中立ではない事実を報道するだけではないから批判される
国民が望んでいるのはメデアとしての機能であり事実を知るためでありマスコミという会社の主張を聞くためでも見るためでもないのである。

トランプ大統領に反対するデモがあったがその事実を報道すればいいのでありこのデモを見るように反対する勢力が大きいとかコメントするべきではないのである。
ただすでにそのデモの報道をするにしても偏りが必ずある、そこにすでにマスコミの主張が入ってきているのである。取材するにしても必ず偏りがある。
すると公平に国民は報道されたものから判断できないのである。

ともかくインターネットでも十万とかyoutubeで見られているとなるとマスコミと拮抗してくるものもある、だからマスコミでは驚異だとなる、するとどうしてもインターネットには否定的な報道になるのである。競争相手になってしまうからである。
アメリカの大統領就任式にバイクのライダーが二〇万人トランプを守るために来るというのをyoutubeで報道した、その後でテレビが報道していたのである。
youtubeの方が速報性があったのだから速報性ではインターネットが早いとまでなっている
人間はみんな記者となる時代である。マスコミの報道の独占は終わったのである。






タグ:マスコミ

トランプ大統領の就任式の演説の失望 (世界の盟主としてのアメリカがなかったため)


トランプ大統領の就任式の演説の失望

(世界の盟主としてのアメリカがなかったため)


中国には登録商標を勝手に登録されてトランプ企業の名前やロゴが使えないから恨みがある。 娘のイバンカも痛い目にあい、北京に出した自身のブランドの宝石店も景気低迷と偽物続出であえなく潰れた。 


トランプ大統領は経済ナショナリストというときビジネスの経験で国を運営しようとしている、この情報はビジネスで私的な恨みを中国に日本にもいだいている。
自分の会社をもうけさせてくれなかったとして私怨がある。
もうそんなことで国を運営されたらアメリカ自体もまた世界でも困ったことになるだろう
娘のイバンカも中国で会社運営がうまくいかずつぶれたとかなると家族ぐるみで中国に恨みがあるのかとなる、アメリカの富が外国に奪われているというとき自分の会社がもうけられないのは中国や日本のせいだとなりそれが国家に適用されたらどうなるのか?
トランプファミリーが国家になってしまったらどうなるのか?

トランプにはそもそも国家観とか何もない、国家はビジネスのためにあるというだけになる。ただもうければいいんだというビジネスのために国家があるんだとなったらどうなるのか?
国家はそもそも何のためにあるのか?ただもうけるためにあるのか?
阿部首相でも企業のセールスマンとして世界を渡り歩いているのかともなる。
企業社会になれば原発事故の東電でもわかったように政治家はそうした大企業に天下りして甘い汁を吸えばいいとなってしまう。
国家は私益のためにあり企業は国家を利用して私益を追求する、ただどっちにしろ国家でも企業でも私的利益を追求するものとして共同するというだけになる

アメリカでもそれだけでは世界に通用しないから民主主義を普及するためだとか人権を主張していた。それは表向きのもので裏ではアメリカが中国などに対して圧力をかけるものとしてそうしていた。
ただ世界に通用するために普遍的なものが理念が必要になる、それで共産主義がマルクス主義が共通の理念として労働者よ団結せよとなってソビエト連邦とか中国共産党国家が生れた。
フランスだと博愛、平等、自由がありそれもアメリカでも理念として採用された。
しかしソビエト連邦も崩壊したし中国共産党も一党独裁となり貧富の格差社会になった。フランス革命の理念もEUも移民で混乱してイギリスが離脱するとか失敗した。
グローバル経済も世界的試みとしてあったがそれも軋轢が増して貧富の差が世界的に拡大して反発がありナショナリズムに回帰してゆく流れが世界的に起きている。

そもそも自国が第一だというのは当然なのである。どんな国家でも自国を犠牲にして他国に尽くしたりしない、国家というとき経済的なものだけではなく国家を形成すること自体歴史があり犠牲があったのである。
アメリカでも南北戦争がありそこでアメリカが統一されて初代大統領がリンカーンになっているのだ。日本でも古代には邪馬台国があり百余国が争っていたとある。
国を統一することには内戦があり必ず犠牲がある。
その犠牲がある故に国家は形成されているということをその歴史があるということが国家なのである。

最近西部劇をまた見ているが興味深い、ある州が州になっていない、そこは治安が悪く保安官が数十名しかいないので悪人をつかえまて裁判することもできない、それで判事が苦労している、その判事はこの州は準州であり州に昇格させたいために必死になっていると保安官に訴える、つまりstateとなっていない、州が一つの国家とするとき国家がないのだから準州でありそこは法も通用しない無法地帯ともなっていた。
地図をみると明らかなのである。それは西部開拓の地域になっているからだ。
準州だと大統領の選挙権がもてなかったのである。そういう時代もアメリカにはあったのである。
そういう過程が歴史があってアメリカも一つになっていった、アメリカも広いから一つの国家としてまとめること自体苦労してきた歴史がある。
準州というのがこれだけあったということはそれだけ無法地帯が広がっていたのである。だから法の下に治めること自体がアメリカでは苦労していたのである。
そういう無法地帯に西部開拓時代に移民が入ってきていたのである。

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アメリカの準州だった所

大国になると国をまとめること自体が最大の難関となる,それは中国でもロシアでも前のソビエト連邦が失敗したように同じなのである。
中国が分断されるということはしきりに言われるがアメリカも分断される危機になっている
アメリカは西部開拓以来、西へ西へと驀進してきたのである。そして太平洋に出てアジアにでて日本と出会い戦争になった。アメリカは何かそうして外に出る力が強い国だった。フロンティア精神が旺盛でありそれが世界もその対象となったのである。
でもまた内向きになるというのもナショナリズムに回帰するのもわかる。
別にアメリカなどは一国で資源もあるし石油もシェールガスとかあるし困らないのである一国で成り立つ経済なのである。かえってTPPがアメリカに不利だと気づいたのである。
アメリカは世界から孤立しても鎖国しても困ることはないのである。
日本は資源がないから困るがアメリカは鎖国しても困らないのである。
何か売るにしても売るものは兵器だとかなるとそんなことで世界経済で利するとなると世界でも迷惑だとなってしまう。

ともかくグローバル経済は何か根本的に人間的に見て無理だったのである。
それは各国の文化すら破壊する、日本から車を買うのだからアメリカの農産物を牛肉でもオレンジでも買いとかなる、牛肉などそんなに日本人は食べる習慣もなかったし食べなくても良かったのである。食も文化であり日本の文化は縄文時代から海産物と米で作られてきたからその文化をグローバル経済で破壊されてきた。
つまりグローバル経済は制限されたものとしてそれぞれの国の歴史とか文化を破壊させない程度にすればいいのであり文化を破壊してまでする必要はないのである。
そういうことに世界で気づいたということがありナショナリズムに回帰するのである。

ただトランプにはそうした国の歴史とか文化とかを語るものはなにももっていない、思想がない、あるのはビジネスとして利用する利用される国家観しかない、ただ国家としての理想も語れない時代にもなっているのかもしれない、メキシコの移民に浸食されてアメリカの歴史とアイディンティティが壊されてゆく危機を白人の中産階級が危機感をもった。現実にトランプ大統領の就任式にはその白人しかいなかったのである。
そこはマスコミで報道していたから良く見ていたと思う。

いづれにしろアメリカは国内のことで精一杯になり外に世界のことにかかわれなくなっているのが本音だろう。
アメリカ自体の国家観とか国造りをどうするのか問われているからである。
内戦が起きるとかカリフォルニアが独立するとかもそうである。
自国が分断の危機にさらされていたら外国のことにかかわる余裕がなくなっているのだ。だから高邁な理想など語れない、ただアメリカが得するビジネスとしての国家観しかトランプにはないとなる

でもアメリカ大統領となるとローマ帝国の皇帝を選ぶような感覚になる。日本もその属州のようなものになっている。世界でもアメリカがローマ帝国としてありその州のようになっている感覚がある、だからそういう大帝国の皇帝となるともっと理想を語ってほしいともなるがその余裕もないからアメリカはもう世界の盟主でもなくなっているのかもしれない、まずアメリカ自体が極端な格差社会でありたからこそカリフォルニアが豊かだから独立するとまでなる。カリフォルニアも一国となっても資源的にも食料でも自給できるから困らないからそうなる。かえって準州並の州とは一緒になりたくないとまでなっている。その格差を解消しないことにはアメリカ自体が統一されず壊れてゆく
それは南北戦争時代と同じだとなる。
黒人奴隷が移民であり移民排斥は黒人奴隷解放を拒否する南部だとなり北部と戦争になったとのとにている。

ともかくアメリカにはローマ帝国のような世界の盟主としての期待があった。それも国内問題の方が優先されるとかローマ帝国が没落してゆくようなものと似た状態が起きているのかもしれない,だからトランプ大統領の就任式でも演説でも世界が失望したというのはわかる。ビジネスのことしかないというのが何か淋しいとなる。
ただオバマ大統領はただ理想を語っただけで何もできなかった、それも批判されているから何か実行力があることは期待されている、でも何かアメリカの大統領はアメリカだけの大統領ではないと見ていたから物足りないものを感じたのである。
評価できるのはマスコミからあれだけ無視されても大統領になったことが功績だったともなる。マスコミの没落させた大統領として自分も評価しているのである。
ヒラリーが大統領になることもまたアメリカ国民は嫌がっていたということである。
それは一部の金持ちのための政治になるから嫌がっていたのである。
ただトランプにしても大金持ちなのだからこれからはどうなるかわからない、結局また失望したとなるかもしれない、なぜならトランプが選んだ指導者はみんな大金持ちだからである。そうなると格差社会を批判していたのにそうした没落した中産階級の白人には嫌がられるだろう。それでトランプ大統領はこれから波瀾であり長持ちしないというのはそうなのだろう。

今年は酉年であり酉は夜明けを告げる酉である、だから変化が起きる、新しいことが起きる

酉年に夜明け告げる鶏の鳴く古きは壊れ未来を望む

それもあるが温故知新ということもある。やはり必ず歴史は元にもどりまた前進する。
維新とは復古でありもともとあったものが新しく復古する維新するのである。

また酉という字自体、象形文字で首の長い酒器を表している。ついでに言えば酒という文字は、「酉」の中に入っている液体だから酒である。この2つのことから、古代中国において、「酉」は収穫した実から酒を作り、利を得ることという解釈が生まれたのである。

何か酉年は商売と関係している、酉の市というのもそうである。
商売というときトランプ大統領はビジネスしかないからあっているのかとなる
これもあくまでもそれぞれの解釈なのである。
自分にとっては今年はいい年になる感覚がある、十年間介護とかで苦労したからである。自分の収穫は自分の作品をまとめることである。
それはインターネット上で本作りなど整理することである。
そういう時間が生れたことが自分にとってはいいことになる



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2017年01月22日

去年(こぞ)の落葉 (短歌も写生だったー俳句文芸は終わりかもしれない)


去年(こぞ)の落葉


(短歌も写生だったー俳句文芸は終わりかもしれない)


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冬たんぽぽ今日もここにや住みつきぬ


朝風に頬の冷たき空澄みて枯木の枝の張りにけるかな

去年(こぞ)散る木の葉残りぬ我が庭に動かぬ石を部屋に見つ暮る

去年散りし落葉や我が庭忍び足猫の歩みぬ訪ぬ人もなし

新年に我が挿す菊の花にあれ部屋にさしいる朝日に映えぬ


冬たんぽぽが咲いていた、イヌフグリも咲いた、やはり春なのだろう。
昨日は寒かったけど今日はあたたかである。
人間は住んでいる場所がいいというときそこに家族がいたり友達がいたり何か人でも土地でも住んで気持ちいいというときだろう。
まず家族がいるときはそうである。でも家族がいなくなるとどうなるのか?
それをここ十年家族はいても介護で苦しかったし助ける人もいないので故郷でも住みやすいとは自分ではならなかった。
自分はともかく三〇年間は楽だったから特にそうなった。
でも家族がみんな死んで介護もないので余裕が生れた、そのタンポポがなにかよりあたたかく感じた、人間はそこに住みたいというとき人とか自然環境もありまた他にもある
とても東京がいいというけどあういう所には住みたくない、でも経済的問題があり田舎でも貧乏だと嫌だともなるからむずかしいのである。
大阪から来た人は除染で三年いて田舎は人がいいから長くいたなとか言っていたが住んでみればまた違っている、田舎の姑息さに嫌気がさすだろう。
その人は住んでいるとは言えないからである。

去年散った落葉が庭に残っている、それを気づいたのは昨日だった、でもその落葉は長い間去年からそこにあったのだ、でも気づいていなかったのである。
なんか人間は近くにあっても気づかないことがつくづく多いのである
古い碑なども注意しないと気づかないのである。過去は何かひっそりと埋もれてしまうのである。まず生きている間は人間は騒々しいが一旦死ぬと何も語らないのである。
そしてそんな人がいたのとかみんななってしまうことの不思議である。
人間は生きているとき死んでからの差が大きすぎるのである。
骨になり灰となり無となってしまうことがあまりの変化なのである。

ともかく短歌でも写生である。ありのままを写生することである。この歌はそうだった。写生はいうとき何かそこに感情的なものはあまり付け加えないことである。
この歌にしても写生そのものだからである。
俳句はもう現代では短くて表現しきれない、だから俳句文芸の世界は終わりになるかもれない、ただそれでも芭蕉のような天才が生れればまた別なのかもしれない
でも俳句は表現的に無理があり限界が生れた、でも季語は日本の文化でありこれは変わることなく活きつづけるのである。
俳句とか短歌の世界は結社などあるのもおかしいのである。
俳句は誰でも作りやすいからそれで結社で師匠とかなっていてそれで芸術家だとしている俳句の世界はほとんどディレタントしかいないのである。
もう芸術として成り立っていない、それは自分がそう思うだけだともなるが今では新進の俳句作家でいい人がいるかとなるといないだろう。
ただ自分は短歌は何かまだ表現できるものがあると思った。俳句より短歌の量が多いし表現ができていると自分は思っている

自分の性格は何か異常である、人と接すると異常に疲れるのである。そして三〇年間隠者のような生活ができたのはたまたまそういうことが許される家族環境にあったからである自分には学校も適応できなかったし会社員として勤めることもできない
だから石のように沈黙して人と接しない生活だったのである。
考えてみるとこれも不思議なのだが禅宗の座禅をしていたと同じである。
計らずしてそうなっていたという不思議である、それは精神的に見れば効能があった。
マイナス面も大きかったがプラス面も大きいものがあった。
沈黙するということは自然が大きな沈黙にあるように自然と同一化するには不可欠なことだった。沈黙によって自然を知る、自然と同化するからである。
山でも石でも樹でも沈黙しているからである。
すると沈黙することによって自然のように人間も大きくなるのである。
現代にはこの沈黙が一番欠けているのである
ただこういう生活をするにはアウトサイダーになってしまう。
会社員とかになったらできないのである。自分がそうなったのは社会に適合できないからそうなったのである。






タグ:写生俳句

原発避難者、津波避難者もパチンコ通いで同じだった


原発避難者、津波避難者もパチンコ通いで同じだった



業界大手のマルハンもその一つ。全国に300店以上を展開するが、7時開店は石巻店だけだ。「被災したお年寄りから、寂しいので早く開けてほしいという声が寄せられたのがきっかけだった」と相沢昇店長(38)は話す

 売り上げが震災前の水準に戻ったというジョイパークは昨年8月から低レートの専門店に切り替えた。人口が増える見込みのない石巻で生き残るには、自由に使えるお金が多いシニア層を取り込むしかない。


津浪の瓦礫をとりさったところにぽんぽんとパチンコ屋が建った

生活保護費や東日本大震災の賠償金などの 
莫大な税金が 
パチンコ屋に吸い取られる。 
日本人のやる気を奪う 

なぜ、パチンコ屋を廃止に追い込めないのか!!!!

60才以上のじいちゃん婆ちゃんが震災で生きる希望を無くして娯楽として安く遊んでるならわかるが・・・・ 
この中年ナマポ野郎は震災をネタにパチスロやってるだけじゃねーか! 
さっさと原発かマグロ漁船いけや

金はあるから働く必要なんてないんだってさ。かといってボランティアもあほらしいんだと。 
簡単に時間潰せて、運がよければ儲かるパチが一番楽しいんだと。 
競馬は考えるのがめんどくさいそうだ。あと競馬場までの移動。

これ、被災地の閉塞感っていうより、 
義援金や補助金のおかげで、 
仕事しなくてもパチンコしてられる人が増えた、 
ということなんだな。

いわきから宮城、岩手まで、 
パチンコ規制しないとだめだよ。 
機械相手にギャンブル、 
金が無駄になる、話さない、 
ギャンブル中毒、なにもいいことない。 
自治体で積極的に無料の 
公民館、しゃべったり、 
人相手のトランプでも、ボードゲームでも、 
単なるゲーム機でもおいて、人と人の関わり 
作らないと。被災者にパチンコとか、嘆かわしい。 
何にもよいことない。

仕事で行ったことあるけどコレ本当 
あいつら補助金でパチしかしていない 
福島の復興なんて諦めてさっさと核廃棄場所にするべき

義援金や再建支援といった全国(世界)からの善意や血税がパチンコに消えるのか

このことは地元だからプログにずいぶん書いてきた、これは嘘ではない事実なのだから否定しようがない。
この辺に小高の人が大挙避難してきて仮設に住んだとき何もすることがなくパチンコ通いになった。その他風俗とかギャンブルとか遠くに遊ぶ人もいた、補償金がたんまり入ったからである。
何もパチンコに通ったから回りに被害を与えているわけではないからいいじゃないかというけど実際はいわき市でも二万人も移住して家を建てたりしたら病院でも福祉関係でもそんな大勢の人間のサービスはできなくなっていたのである。
それで消費してくれるからいいじゃないかというのもあったがやはり地元の人は反発して実際に落書きとかで原発避難者を責めた。
これも当然だったのである。もちろん原発避難者側にも言い分はある。
でもこういうことはマスコミでは報道しなかった、テレビでは特に報道しなかった。
これはしかし隠しておけない地元では大きな問題だったし外部に対しても大きな問題だった。
そしてボランティアが来てはいろいろと仮設で援助してきたのである。
そして結果的には自分たちはかわいそうなんだから援助されるのが当然だという意識になったのである。マスコミも常にかわいそうな人たちとして外部に報道していたからである確かにかわいそうなことはあったがではパチンコやギャンブルで遊んでいていいということはないのである。

自分も迷惑をこうむった一人である。それは原発の避難者が全部悪いというのではない、親戚の人が介護の時来ていたがパチンコ屋で働いていた、借金してどうにもならなくなりパチンコ屋で働いていたのである。それなりに金になるからだろう
でも自分の家に来ては疲れた顔して何もしないのである。
一週間に一回くらい二三分いて帰るだけである。それも腹ただしかった。
もちろん何もしないというわけではない、なぜでもパチンコ屋にそんなに働いて自分が介護しているのに皿一つも洗ってくれないのか?それが腹ただしかった
ただその後も皿一つ洗ってくれる人が自分の所にはいなかったのである。
今はそのために10万近くも払っているとなる、それだけ他人は親戚でも何かしてもらうことは大変なことなのである。
だからこれもそんなに長くはつづけられないだろう
結局結婚していない人はそれでけ金ではらうと高くつくから損だとなる,でも一人だと何かと困るから金でもたのまざるをえないのである
介護では助けるときは意外と家事が男だとわからないから家事を家に来て手伝ってもらうと助かるのである。ディサービスなど母は嫌っていたし役にたたない、でも介護関係者にしては介護保険から金が出るからディサービスに誘うのである。
そしてそれも結構金がかかるし介護には役に立っていないから税金の無駄だともなる
介護というのは何かそうした無駄が多いのである。
金になっているからと有効に働いているとは限らないのである。

いづれにしろ原発避難者でも津波避難者でも同じような所があった、ただ原発避難者は多額の補償金をもらったから悪質だったとなる
その金もパチンコとかギャンブルに費やされたのかとなる
だからボランティアが来て働いていたけどそういう姿を見て怒っていたのもわかる
何か馬鹿らしくなるのである。
あまりにも過剰な援助であり精神的にもかわいそうな人たちとして認められたからであるそれで避難者は何でも許されると勘違いした人もいるだろう。
俺たちはかわいそうなんだよ、それにケチつける奴はなんなのだ、人間の情もないやつだとなったのである。
人間は援助は必要でもそれに度合いがあったのかもしれない、何でも援助されればいいとなりそれにケチつけるやつは集団で糾弾してくる、マスコミも味方にして糾弾してくるから怖くなるからしないとなる、それが鬱積するから全国的に避難者に対する子供のいじめになったりするのである。

もう一つの大きな問題は老人が避難した人たち多かったことである。老人は何か復興といってもしにくい、老人は楽したいのである。とてもきつい労働などできないのである。
それは自分もわかるから同情した。
でも結果的には復興すべき若い人が流出して老人だけが残されたとなる
そしてますます復興しにくくなったのである。
自分も介護十年もしたらもう介護なとしたくない、後はのんびりしたいとなった。
避難者でもそうして遊んでいたら働く気力もなくなるし老人が多いとなると余計にそうなのである、石巻でもかなりの補償金もらったのである。
保険で一億円もらったとかも聞いた、原発避難者ともにていると思った。
原発避難者と津波の被害者は違っていると思ったがにた所があったのである。

まあ、あれだけの被害があると原発避難者でも津波被害者でも復興というのが重荷になりすぎたのである。津波の跡は壊滅状態になったからである。
そして復興すべき若い人が流出したとき老人だけ残されたときとても復興といってもできない、するとヤケになりパチンコでもしている他ないという頽廃状態になった
ただこれは実は老人の問題として退職してやることがないとか老人が暇になったということもある、それが意外と大きな問題なのである。
老後も長いから相当な時間をもてあましている人が多いのである。
何か高等な趣味をもつことは若い内からしていないとできない
普通に働いている人は特にブルカラーの肉体労働者はそんな趣味をもてないのである。
だから一日暇をもてあまている人が多い
定番はカラオケでありあとはパークゴルフである。だから南相馬市に大きなパークゴルフ場ができたことはいいことである
とにかくこの辺では老人の比率が10パーセントとか増えたからである。

結局老人になると生産活動もしない人が多いし社会にとって負の存在になる。年金だって働いていたからもらえるといってもその金は今働いている若い人が税金からひかれているということもある、その若い人が貧乏なのだからそんな負担をしたくないというのもわかるのである。
そして津波の被害地でもジジババしかいない所に金をつぎこんでもしかたないと官僚が本音を言ったこともこういう状況を見ていたら全部は否定できないのである。
結局のんびりするとか自由になるとかいうときそれは自分だけではできない、誰かがそうさせてくれるからそうできる
自分自体が家族がいたからこそのんびりしていたし自由だったのである。
その家族はほとんど文句も言わなかったからできたことであり他ではできないことだと思う。

でも自分の場合は遊んでいたのとは違う、勉強もしていたし旅でも実際は労働だったということを今では思う、今になると何かそういう旅するエネルギーが消失しているからである。旅することは相当なエネルギーが必要だった、特に自転車旅行となるとそうである。その旅したことにより視野が広がり詩とかも書ける、歴史などの知見も得ることになったのである。
本当の旅は勉強であり注意力を注がないとあとでふりえることができない、記憶に残らないのである。あそこにいい女性がいるなとか気がそがれただけで旅は記憶に残らなくなる回りの景色などもその女性のために記憶に残らなくなるのである。
だから旅には相当な注意力が必要なのである。芭蕉のような旅をしないと旅にはならないのである。だから実際にこういう旅をできる人はまれだとなる
旅人となることは現代では一番むずかしいかもしれないのである。

ともかく現代は寿命が長いから退職してからも長いからそのことを考えねばならなくなった。それは金の面でもそうだし精神的にもその残りの時間をどう過ごすかが意外と大きな問題となっているのである。それは第三の人生となっているからだ
でも結局老人は人生のしめくくりであり総決算である。
それが否が応でもそうなる、自分の場合は旅でも何でもしてきたことなど学んだことなどを作品化することなのである。そのためにあとの老後の時間があるとなる



タグ:パチンコ
posted by 天華 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年01月23日

納得いかない死 (生者と死者のつながり)

納得いかない死

(生者と死者のつながり)


死とは個人的な死であれ家族としての死であれ国家的な死であれ戦争で死んだような死であれ死そのものが納得できないもの了解できないものとしてある
死んだ時、燃やされて骨と灰になりなにもなくなる、この変化があまりにも大きいので納得することも了解することもできなくなる
死はみんなこういうものだとしても納得いかないのである。
そもそも人間が死ぬということそれ自体が不自然でありあってはならないと思うのが普通である。死とは本当に理不尽なものなのである。
こなことがっていいのか、死を前にすべては無だとなりただ死の前には人間は無力だとなる、生あるものは死ぬものだとか言ってもそれに納得している人はいないのである。

今になると自分の家族の死は何なのかと問いつづける、それは自分の場合は特殊であり60年間三人が一緒にいたということがそうしている。
そして自分のために二人は無条件で尽くしていくれたのである。
それは実際は母と子だったなっていなかった、特殊な関係でそうなったから他の家族とは比べることができないのである。
だから自分は家族に対しての思いが他の人より強いのである。
だから余計に死にたいして納得がいかないのである。

人間はそうして愛するものが死んだときその人が以前として死んだとは思えない、それは時間によってだんだん忘れてゆくとはいえ60年一緒にいたものが生者から消えることがない、人にもよる、すぐに肉親でも忘れる人はいる、だからその人の事情にもよる
20年すぎて死者を偲んでいる人はそれだけ愛情があったということにもなる
だから個々に違うものとしても死ぬということは人間は納得しないしあきらめることも本質的にはできない、だから死後も死者のことを永遠にいないというよりいるものとてし扱うということがあり供養がつづいている、ただ親子でもその関係はまちまちだから忘れる人も関心もなくなる人もいるのである。

死ということは哲学では解決できない、宗教でしか解決できない、もちろん弁証法でも解決できない、そこに哲学の限界がある。死ななかったのは主、キリストしかいないとなる、お釈迦様死んだからである。
だから死を克服できる宗教はキリスト教しかないともなる
仏教では死を克服できない、ただ仏教には深いものがあり哲学とは違うものがある
無神論者が日本では多いけど無神論者でも立派な人はいる、むしろカルト宗教団体とか戒名仏教とか死者とばかりかかわる宗教は問題である。
日本人が仏教徒とかいうのは嘘である。ただ葬式するためにそうなっているだけなのである。葬式のための仏教なのである。

哲学にしても死者をどうみるかとなると死をどう解決するかとなると解決しようがない、生あるものはみんな死ぬとしかならないだろう。
ただそもそもそうした宗教とは関係なく人間は個々人でも家族でも共同体でも死というものをどう扱っていいのか?また生者と死者の関係はどうなのかということに悩む
死者が死者であることであることに納得しないのである。
墓があるときそこに実際は骨が土となり何もなくなっていた、ではそこに死者がいるのかどうかもわからないのである。でも墓には死者がいるとしてお参りしているのである。
つまり生者と死者は以前として墓を通じて結びついている、切り離されていないともなる死者でも全くないものとしたくないのである。、でもやがてその墓すらお参りするものがなくなるときもうその墓は捨てられ生者との結びつきが断たれるのである。

例えば死者というとき戦争で死んだ300百万人と生者の結びつきはどうなるのだろうか?
つまりこれもいくら死んだとしても死んだものとして生者と切り離して考えられないからどう扱っていいかわからないからそうなっている。
国に尽くした英霊として祀るというときもそうである。
戦争を経験した人は90以上でまだ生きている、その人たちは死んだ戦友のことを今でも思っているのである。戦艦武蔵が最近海の中から発見された。その無残な悲劇がNHKで放送された。生き残った者がそこで死んだ戦友のことを思い涙を流していたのである。
自分の姉も従軍看護婦で4年間シンガポールに今のマレーシアのジョホールバルにいたから死ぬときまで戦争のことを語り死んだのである。認知症になってもそのことだけは忘れずに死ぬまで語っていたのである。
そのことを叫びつつ死んだともなる、それだけ戦争のことは忘れられない記憶として残っていた。
そういう人は戦友が死んではいない、心の中で生き続けているのである。
ただそうした戦争経験者も死ぬと戦死者をその後の世代をどうあつかうかということはさらにむずかしい問題になる

自分の家族だったら母はまだ一年すぎたばかりであり生々しいとういことがある。
そして不思議なのは死者との結びつきがありその関係は強固になった感じもある
自分は家族が死んでから家族のありがたみを知ったのである。
そのことを書いてきた、誰も自分のことを思うものもなく病気でも他者は親戚でも責められるだけだった、それほど他者が非情なのかということでますます家族のことを思うようになった。
それから他者は金しか求めていないこともわかりそのことでも家族を思うようになった。母は自分が60までも食事の用意をしてくれたからである。
今になると全部自分でしなければならない、そしてがっかりするのは皿二三枚洗ってもらうのに金が10万近く払わなければないことである。これも自分が一人だということでしょうがないとしている
それは自分が介護しているときもそうだし病気になったときもそうである。
家に来た人は金を要求するだけで何もしてくれなかったのである。
それだけ自分のことを思ってしてくれる人は一人もいなくなったことで余計に家族のことを思うようになったのである。
今になると母に食事を作ってもらったら涙を流して感謝して食べるだろう。
今年も雑煮も食べられなかった、コンビニのインスタントの雑煮だったからである。

だから奇妙だけど死んでから死者に感謝しているし結びつきが強くなったというのも不思議だとなる
家族がいたありがたみが骨身にしみてわかったからである。
病院では見舞いもなく看護婦から虐待されたし何か自分に対して情をかけてくれたという人はいないのである。これほど他人が非情なのかということで家族への思いが感謝が深まったのである。
だから人間は家族でも死んでみてそのありがたみがわかるのである
それは妻でもそうだったり死んでみないといなくなってみないとありがたみわからない
それは人間はそもそも空気のようにあるものに感謝などしないのである。
それはこの辺が原発事故で故郷に住めなくなったことでずっと書いてきたことである。
失ってみてその価値がわかる、死んでますます家族で結びつき強くなるということもありうる、なぜなら今までは感謝もしなかったが感謝してその本当の価値を知って結びつきが強くなるということである。

原発事故で避難してもし避難した先でユダヤ人のように苦しめられたら差別されたりしたら故郷のことがどれだけなつかしく思うかもしれない、そして故郷あることがどれだけ幸せかと思うかもしれない、それは故郷に普通に暮らしていてもわからないことなのである失ってみて本当の価値がわかる、国だってもしシリアのようになって難民化したら国があることがどれだけ幸せなのかとなる
いづれにしろ生者と死者の問題は人間にとって深刻なるが故になかなか簡単には解決できない、ただ死者が全く無きものとはできないことは確かである


生者と死者は
生前より強く結びつく
その真の価値を知りしがゆえに
寒夜の星のように
星座のように結びつき
永久に輝く

タグ:生者と死者

2017年01月24日

鹿島の仮設のあつみ食堂が1月27日で閉店



鹿島の仮設のあつみ食堂が1月27日で閉店

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ここは二年間くらいやっていたのか、ずいぶん自分も通った、バイキング形式であり野菜が多いのと日替わりでメニューが変わるから一人暮らしの自分には便利だった。
一人暮らしだと野菜がいろいろそろえられないからだ。

ただそのバンキングでも種類が5種類以上とかあったし一人でやるのが大変だと見ていた客も10人も入らないようだとか見ていた、750円では採算がとれない感じにもなる
その割には労力が加重だったのである。

まず自分も食事の用意するのが面倒なのである。だから外食が多くなる、家事もしなければならないし時間がとられるからだ。
だからあそこで一食バランスのいい食事すると楽だった。
ただちょっと脂っこいのが多いなとは思っていた。

そこは別に暮らしに困っているわけでもなかった。何かカラオケ仲間の集まる場所になっていたのである。常連はそうだった、でもそれだけでは経営的には成り立たない、外からの人は3-4人とか来ていた、でも10人までなるようには見えなかった。
だからいつも見ていて採算とれるのかなと見ていたのである。
750円では安いものだったかもしれない、ただ1000円とかなると入らないということもあったからあの値段にしたのだろう、数をこなせば採算がとれたがそれも一人だしできなかった。外から入る人もそれほどでもなかったともなる

娘と二人でやるということであったが娘が病気とかで一人でやっていたのである。
まずあれだけの料理を出してかたづけとか皿洗いするにも容易ではない
自分の家に来ている人の十倍は働いている、でも金はそれほど変わりなかったと思う
とてももうけにすればそうはなっていなかったろう。
その割には労働が加重だったのである。

やめる理由は足が悪くなったからだと言っていた。年もとっているし何か無理だったのである。自分の家にきている人も70にもならないのに体が悪いと必ず言っている
腰がいたとか持病がある。その労働は皿二三枚洗うだけなのにそれでもそういうことばかり言っている、結局自分がしていることは福祉なのである。
それにしても10万近くとられるのは苦しいとなる、ただその他に役に立つことがあると思い払っている、一人だといろいろ困るからである。

もう鹿島の仮設は実質的には食堂は一軒である、もう二軒あるけど一軒は問題があり入りづらいところであり何か客が入っているのを見たことがないのである。
外から来る人も減ったということもある、一時大繁盛していたからである。
ただその人がやめたのはやはり一人であり老人だったからだとなる

つまりこの辺の問題は高齢化が影響している、それはどこでもそうだがあれだけのことをやるにはそもそも老人では無理ということがあった。
これはこの辺でもとくに人手不足になっていることもある、若い人が少なくなり全国平均より10パーセントくらい65歳以上の人口が多くなったのである。
これが復興の大きな障害になっている。
老人がこうして商売でもはじめても体力的にもつづかないということがある。
だから復興ということが避難解除になった地域でもむずかしいのである。

自分もそうだが老人は楽したいのである。のんびりすごしたいのである。
でもそうしたいためには誰か一人暮らしだったら食事ができる場所とか必要なのである。原町とかあるが自転車だと遠いので苦しい、やはり近くにないと困るものがある
そうなるとやはり小高でも避難区域でもそこに老人でも住みたいとしても何もないとなると嫌だとなる

そこがなくなっても弁当とかになるがやはり野菜が少ないことが問題なのである。
あそこはあれだけの野菜料理を出していることが珍しい、他では定番のものが多く野菜が足りないからである。
ともかく食事の用意が一番手間なのである。まあ、簡単に納豆くらいで食べるのがいいかもしれない、それでも何か食事が手間なので困るのである。

ともかくあそこは自分にとって感謝すべき食堂だったのである。

あつみ食堂さん、ありがとうございました



タグ:仮設食堂

abstract picture ( snowy river)



abstract picture ( snowy river)

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抽象画は連作になりやすい、要するに一連の変化としてソフトを操作しているからである同じパターンでも多少変化して作れるからである。
今回は寒いので雪をテーマにした。
この原画もインターネット上にあったのを変化させたのである。

This is because the abstract picture changes into even the same pattern that is because, in brief, I operate software as a series of changes that it is easy to plant over and over to some extent, and it can make it.
Because it was cold this time, I featured the theme of snow.
This original picture changed what had it on the Internet.

タグ:SNOW

感謝されない労働がなぜ多いのか? (感謝しない社会が労働の荒廃を生んでいる)


感謝されない労働がなぜ多いのか?


(感謝しない社会が労働の荒廃を生んでいる)


今の世の中はいくら働いても金になっても感謝される職業自体少ない、感謝されないから金にならないという、でも金になっても感謝は簡単にされないだろう。
大富豪に感謝しているだろうか?
あいつはうまくやったな、悪だからもうけたんだよとかなる、株とかでもうければそうである。株はギャンブルるきようになっているからだ。ギャンブルでもうけた奴に感謝などしない、ただ腹がたつだけだとなる

そもそも例えばコンビニで働いている人、スーパーのレジで働いている人、建築現場で汗を流して働いている人すら感謝しないだろう。
感謝される労働は医療関係とか福祉関係である。これは医者でも看護師でも介護士でも感謝されている、いつもありがとうありがとうと言われている職業なのである。
それに見あった給料をもらっているのも医者であり看護師である。
だから感謝されると同時に給料もいいから理想的な職業だとなる
でも仕事自体はきついから社会ではその人たちの給料を高くしているのである。
社会的に認められた職業なのである。一方介護士は感謝される割りには月給が安いからなり手がないのである。

でも感謝される労働は資本主義社会では本当に少ない、いろいろな場所で働いていてもわからないということもある。
それより「消費者は王様だ」というのが資本主義の現状なのである。
つまり労働しているより消費する人の方が偉いのだとなる
そうなれば当然労働している人に感謝などしないのである。
いちいちレストランであれ買物して客がありがとうとか言わない、ありがとうと言っているのはそこで働いている人なのである。
そして金をもっている人が資本主義社会では王様になるのである。

だからみんな労働をしたくないのが現状なのである。ただ金のために働いているということが多いからである。コンビニで働くのも一日立っているとなると疲れるがその報酬は時給いくらとしかならない、誰も感謝などしないのである。
感謝しているのは労働している側なのである。
だから金のために働かせられているということにしかならない
そこで働く生きがいがもてるようには見えないのである。
ただ労働はしてみないとわからないところがあるからいちがいには言えない
ただ資本主義の労働にはそういう傾向が大きいのである。
だから労働に対して嫌悪感をもつ人が多い、奴隷なんだよとか社蓄なんだよなとか言う人が多いことでもわかる。
労働というのは江戸時代であれそういうものではなかった、労働は今とは別な意味があり成されていた。

ともかく感謝されてまた月給がいいというのは医者と看護師くらいである。
ただそこでは過剰な感謝も要求されている、強要されているのである。

 患者の命を医師と共に守り介護する看護師が、なぜ患者が死ぬかもしれないような犯行を?? その動機について容疑者は次のように話しているという。

「患者が自分に感謝してくれずイライラしていた。仕事上のミスもあり看護師に向いていないのではと悩んでいたが、職場に相談する人がいなかった」

病院の怖さはこういうところにある。感謝を強要されるのである。お医者様として尊敬を強いられ感謝を強要される、だから自分は医者にゆくのも病院にゆくの恐怖になった。
感謝は必要でも強制はできない、人間はあらゆることについて強制はできない
ただ恩をかけたものに恩を返さないとかすれば必ずカルマとなってくる、でも恩でも強要はできない、結果としてカルマがその相手にのしかかるだけである。
ここでこれだけきつい労働して尽くしているのに感謝されないとしても月給はそれなりに高いのだからとがまんするほかないのかもしれない。

感謝しろといっても人間は当たり前のことに感謝しない、でもその感謝しないことが危険だということを書いてきた、一体人間は今住んでいる故郷とかに感謝している人はいないだろう。故郷に住めてありがたいなとか感謝している人はいない
それが原発事故で故郷に住めなくなったとき故郷に住むことを感謝するようになる
啄木も故郷から出て望郷の念がつのり故郷の山はありがたきかなとなったのである。

また親に感謝する子供もいない、それは当たり前のことであり妻にも感謝する人はまれだろう。でも一旦死んで今度は全部家事でもしなければなくなると家事をしてくれた食事を作ってくれた母でも妻でも感謝するようになるのである。
そしてこの感謝しないことが意外と危険に通じていたのである。
一尾の魚にまたは一粒の米に感謝しないことは危険に通じていた。
この辺では一尾の魚に一粒の米に感謝するより原発に感謝していたのである。
それが事故になり故郷にも住めなくなったのである。
感謝することは別に神から強要されてはいない、でもそのことに気づかない自覚しないと今回の津波や原発事故のような災いに見舞われる恐怖があった
感謝すべきことに感謝しないことが危険なものになっていたのである。

労働は本来感謝されるべきものとしてあるべきものだった。感謝されずにいくら巨万の富を積んでもそれは万人から奪い取ったものだとか言われていればその富豪自体が危険なものになってゆく、その人たちは他人の労働の成果を奪いとったものだとなるからだ。
資本主義社会が今や格差社会になったとき感謝されないのに巨万の富を積む人といくら働いても金にならない、感謝もされないという人たちに分かれた。
そうなると積極的に労働する動機がなくなり今や人手不足になる、人手あっても働かない方がいいとなる、そういう労働への価値がそこなわれている時代なのである。
もちろんすべての労働が価値あるとはならない、でも何か感謝される労働はいい労働なのである。
ただ金のために働く労働はいくら巨万の富を得てもいいものではない

パチンコ屋で働いてそれが遊ぶ人に感謝されるのかともなる、そういう労働をしているのはまさに借金とか奴隷化しているからである。普通だったらそんなところで働かない、
要するに金のために働くだけだとそれは奴隷なのである。金のためにだけ働かされるのも奴隷だとなる、みんなが会社員でも俺たちは奴隷なんだよなというときそこに現代の労働の頽廃がある。資本主義社会の頽廃がありそれが社会を頽廃させてゆく。

この辺では津波や原発事故でも自分の一身上でも感謝することの大事さを学んだ。
ありふれたものに対して感謝するようになったことはいいことである。
鉄道だってそうだしただそれは当たり前にあり使用しても感謝したことはない、電車賃が高いとか不満を言っているだけだったのである。
それはもう労働するサービスをする人が大事にされて消費する人は王様になる時代は終わるかもしれない、金ですべてを換算する時代も終わるかもしれない、人手不足であり働き手が貴重になってくれば働く人こそ感謝すべきであり医者や看護師のように労働者がなってゆくかもしれない、一方で労働が自動化する方向にあり労働自体が機械に代わる
すると労働を奪われることにもなる、ロボットに機械に感謝する人はいない
そううい社会もどうなるのだろうとなる。
いづれにしろ感謝することがこの辺では自分の一身上でも見直されたのである。


posted by 天華 at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題