2016年12月31日

利害関係を離れないと公正に判断できない (原発事故問題もそうだった)


利害関係を離れないと公正に判断できない

(原発事故問題もそうだった)

人間は客観的に見ること公平に見ることが一番むずかしい。それで判断が誤る
利害関係にあるとまた公平に見れない、だから親族だと証人にはなれない。
人間はまず損得を考えて判断する、人間の関係も損か得かしかなくなる
それで金の切れ目が縁の切れ目になる。
みんなそういうことを嫌というほど経験しているだろう

この辺で原発事故で補償金でもめたのもそうである。
小高は南相馬市で一番もらっているのに浪江だと5千万多くもらっているとか今度は浪江は浪江で放射線量で分けられたから補償金も違っていてもめる
それで一体感が得られなくなった
南相馬市の場合は小高と原町と鹿島に分断された

自分は30キロをはずれていたが補償金は一人70万はもらった、でもそれだけである。
それか多いのか少ないのかはそれぞれの判断である。なぜなら隣の相馬市だと6万くらいしかもらっていないからだ。
自分も利害関係があり発言したから公正とはならなかったかもしれない
でもそうした利害関係からはずれる所にあり比較的客観的に公正に見れる場所にあった。これが原町だと結構もらっているじゃないかとなりなかなか発言しにくくなった。
それだけ利害関係になると公正に見れないし外からも見られないのである。

要するに人が人を裁けないのは公正に見れないからである。何かしら利害関係があり公正に見れない、国同士の争いでもすでにどこかの国に属していれば利害関係があり自分の国を正しいと見てしまうのである。
原発事故でも今でも東電は悪く言えないというときそれだけ原発で東電で働いていた人が多いからである。本当に聞いてみるとこんなに原発で働いていたのかと驚く
飯館村など関係ないと思ったが十個実際に比曽などで働いていた人がいたのである。
浪江の室原もそうだがそういう山の辺鄙な場所は働き場所を求めて原発でかえって働いていたのである。何しろ給料が高いからである。

自分は東電とは直接何の関係もしていない、でも報道関係では福島民報でも民友でも原発を推進する側であり東電から宣伝費ももらっていたのである。こうした報道関係はとても原発の危険性など追求できない、まずマスコミのほとんどが東電から宣伝費をもらっていたからその危険性を追求できなかったのである。
ただ新潟日報だけは巻町の原発に反対して作らせなかったとある。ここは本当に例外だったのである。でも現実にそういうことも報道関係でできたのである。

マスコミは公正に見て報道すべきでもそれができない、トランプ大統領になったときもそうである。公平に見ていないからそうなる。ヒラリー派から資金が流れていたからだともなるのか?ヒラリー派資金が豊富だった。トランプ派は少なかった。
宣伝ではヒラリーが格段に勝っていた、でも負けたというのは意外だったのである。

自分がある程度公正に原発事故で見れたと思うのはそういう場にいたからである。
利害関係がそれほどない、補償金もらっていない、30キロからもはずれている、何かそれで中立的立場が維持できたのである。
もし避難民になっていたら避難民を批判などできない、自分自身が避難民なのだから悪くは言えないのである。補償金だってもらたいとなってしまうからである。

ともかく人間は利害関係で判断を誤る、人間は損得から離れられないからである。
もし損得から離れていれば別に学者でなくてもそれほど知識がなくても普通の人でも意外と正しい判断できるかもしれない、つまり欲がないということが正しい判断になる
欲をもつとまた正しい判断ができなくなる
人間は欲から損得から離れられないから正しい判断ができないのである。

神が偏(かたよ)りり見ないというとき人間が必ず何かしらの利害関係の中で生きている、損得を離れてありえないからである。偏(かたよ)り見ないというときそれができるのは神だけだとなってまうのである。
科学者だって技術者だって原発は危険だと知っていたが政治家とかの圧力があり言えなかった。度々軽い事故があっても報告されない事もあった。
原発は常に隠されてきたのである。それが権力をもっていたからできたのである。
それが積み重なって大事故にもつながった。

だから報道の問題は争っていれば双方の言い分を本当は言わせる事である。
裁判ではともかく争っている当事者の言い分は言わせているからだ。
てもそういうことが社会で成されていない、マスコミは一方的報道でありマスコミが白黒を決める裁判官になっているのだ。
ただネットでは絶えずそれが本当なのとか言う、そうするとそれだけでもそのまま受け取らないという習慣が生まれたのである。今まではマスコミの報道に反論の余地などないからである。

いづれにしろ原発事故の失敗は後々の教訓になった。補償金問題が起きたのも広い範囲が被害にあうから狭い範囲で勝手にできるものではなかった。
そして事故になったからとその狭い範囲だけが特別扱いになったのも補償金をもらったのも問題になった。
もし広い範囲で決めていたら責任もうまれて共同して助け合うとういことにもなったろうそうなればまたその狭い範囲での補償はかなり少ないものとなるから事故になったら損だと原発は簡単には作れないとなっていただろう。
リスクが大きすひぎるからだ。リスクが大きいと株でも投資信託でもためらうからである外から見て原発事故の避難者をみて確かに被害が大きいとしても補償も手厚いからかえってねたみまで起きてしまったのである。

今年も延々と原発事故の追求をしてきた、来年もそうなのか?
来年は南相馬市では3月なのか、仮設には避難民がでる、そして復興住宅にまた浪江とかの人が多数入ってくるから変わってくる
だから原発事故の問題は廃炉に30年かかるとかプルトニウムが二万年消えないとかその先が長いのである。自分の生きている間だけでもこの問題は尾を引いて遂には死ぬがその後もつづいているのが原発事故だったのである。
posted by 老鶯 at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連