2016年12月26日

キーワードで抽象画を探す そこにまた別な抽象画があり変化させる キーワードで抽象画を探す そこにまた別な抽象画があり変化させる

キーワードで抽象画を探す

そこにまた別な抽象画があり変化させる


I look for an abstract picture in a keyword

There is another abstract picture again there and changes it

waterfalllllllllaaaa1.jpg
waterfalllllllllaaaa122.jpg

rockbiggggg1234.jpg

underggggggp123.jpg

palace of underground

hhhhhhhhhhhhhhiiiiikklll333.bmp

wavessnight123.jpg

seashore in moonlight


一つは明らかに著作権に違反している、ただソフトで立体にしただけだからである。
原画を見るとすぐにわかるからだ。ただ参考までに出しただけである。
山にするとなかなかわかりにくくなる。

自分の抽象画は変化だからその原画をインターネットで探すの問題になる
なにをキーワードにするのかが問題なのである。
キーワードによって違った絵が出てくるからである。
それがインターネットの面白さなのである。

つまりインターネットはまさにキーワードで探すものだからである。
他にさがしようがないものだからである。

This is because it only did one in a solid by just software violating a copyright clearly.
This is because it understands it as soon as it watches the original picture. I only only started it for your information.
It becomes hard to understand that I make the mountain very much.

It is a problem what which becomes the problem of looking for it on the Internet with the original picture you do in a keyword because one's abstract picture is a change.
This is because different paintings come out by a keyword.
It is fun of the Internet.

In other words the Internet is because it is right a thing to look for in a keyword.
This is because it is the thing which I cannot look for elsewhere.

原発事故の避難対応が失敗した (小高は避難させず南相馬市の補償金は一律にすればよかった)


原発事故の避難対応が失敗した

(小高は避難させず南相馬市の補償金は一律にすればよかった)


まず30キロの避難にこだわった、それには科学的根拠があってもチェルノブエリとは違う、ここには人が昔から住んでいる場所でありそれを簡単に破壊することはできない所だったのである。
そういう事情があり30キロを補償範囲とするのも間違っていた。

まず南相馬市の一体感を保つために補償金は極力一律にすべきだった

小高を避難させたのは政府の方針だから南相馬市の市長の責任でもない、その政府の対応が誤ったのである。スピーディでも放射能がどこに流れるわかっていたのに浪江では津島の方に、一番線量が高い方に避難したのである。
浪江町には政府からも東電からも何の情報も入っていなかったのである。
ただでは東電では知らなかったかというと知っていたのである。
なぜなら東電の社員が津島の方に避難しては危ないといって街に引き返した方がいいと引き返した人たちもいたからである。

つまり東電の社員は放射性物質がどこに流れるのか知っていたのである。
その罪も大きい、だから小高が避難させたのは別に小高の町民の責任でもなかった。
南相馬市の責任でもなかった。政府の責任だったのである。その時は民主党だった。
民主党政権の事故の対応のまずさがあった。ただ原発はもともと自民党によって誘致されたものであり民主党はそれを引き継いだだけなのである。
だからなんらか民主党では新しいことはしにくかったのである。

それより最大の失敗は今になるとわかるが原発は30キロ圏だけではなく広範囲にかかわるものだった。だから原発を建てる土地所有者と県で決められたということ自体が考えられないことだったのである。
結果としてこれだけ広範囲に被害者は散って各地で仮設に暮らしたり今度は南相馬市では2000人くらいなのか復興住宅に入る、その数も多いのである。
今になって広範囲な地域を具体的にまきこむものが原発事故だということを知ったのである。
だから原発を建てるのだったらそれだけの広範囲の同意が必要だったのである。
そして同意したなら事故が起きたときでも互いに共同責任になる。
だから避難してきたとしても互いの共同責任だから文句は言えないとなる
でもその時は補償金はこんなにばらばらにはなりえないだろう。
その時から共同責任となれば補償金だって対等になるからである。
特に南相馬市では一部をのぞいて一律に補償金を支給すれば良かったのである。
小高を避難させてそこだけが特に高い補償金にする必要もなかったのである。

ただ自分がこういうのは結果論でありお前が事故当初でそう判断できたのかとなるとできない、自分は放射能のことなど知らないし何がなんだかわからなかったからである。
だから水素爆発したとき外を出歩いていたのである。
その時20マイクロシ-ベルにも一時なっていたのである。
つまり放射能のことを知らない、知らされてもいないということもあった。
ただ近くでも安全神話を作り安全だとしか教えていないからである。

ただ緊急の場合はたいがい対応があやまる、どうしていいのかわからないのである。
それは政府でも東電でもそうだった。それだけの専門家がいてもそういう対応ができなかった。人間は緊急の対応には弱いのである。
その対応があやまったのはあまりにも「安全神話」を自ら強固にしてしまったからである安全だ、安全だと言っているうちに自ら暗示にかかり安全だと科学者まで思うようになっていたかもしれない、科学的には完全に安全ということはなかった。
まるで題目でも念仏でも唱えているとそれで陶酔して心の安定を計っているカルト宗教団体とにていたところがあったのである。「安全、安全」と外にも内部でも絶えず唱えていたのである。それは逆に原発は一旦事故になったらこのように市町村すら崩壊するからである。科学者はそれを知っていたが口を噤んで御用学者になっていたのである。
でも確率的に百万年に一回の割合でしか起きないとか計算していたのである。
ここでも人間は計ることができない、神によって計られるのが人間なのである
そういう科学信仰の傲慢が神によって打ち砕かれたのである。

原発事故の教訓はここでは得られた、でもまた事故が起きるとしても違ったものになるからその対応は同じにはならない、ただここでの事故は参考にはなる。
事前に協議して広範囲で決定して共同責任をとるということである
そうしておけばそういう覚悟でしたのだから共同責任でありこんなに放射性物質の多寡で分断して争うということはなかっただろう。
責任はあくまでも共同で分担するということであり補償金もそうなっていたからである。そうなると大熊とか双葉とかですらそうなるからそんなに多くは補償金はもらえないとなる、するとどうなるのか、一段とそんな近くに建てるのはリスクが大きすぎるとその地元では反対運動が起きる、今のように手厚い補償は無理だとなるからだ。
そうすると今回は大熊とか双葉でも富岡でも手厚い補償があったがないとなると考えは全く変わる、そんなリスクをかかえるのはごめんだとなるのである。
そうするともうなかなか原発は建てられなくなるのである。

そもそも20兆円も事故の処理にかかること自体国民ではやめた方がいいと世論になっている。原発は金のかからないものではない、その反対であり莫大な負担を国民にも強いるものだったのである。地域だけではない国さえ滅びるような危険なものだったのである。
国の存亡がかかっていたのである。そういう意識が国民にもなかったのである。
今も50基もある原発は日本を滅ぼすかもしれない危険なものだったのである。
それでもやめられないのはなぜか?それは逆に核武装のために必要だとか国防のためにやめられないなにかがある。右翼は核武装論者であり原発支持だからである。
だから原発は火力発電所のようなものではない、国の存亡にかかわるものとしてやめられないとなる。
でも逆に事故が起きれば国が滅びるのである。
そういうことを国民は意識しなかった、でも20兆円も事故処理にかかるということで国民自体が原発を維持するのかとなると否定的になっている
原発はともかく恐るべき魔物だったのである。ただ国民でも地元でも自覚できなかったのである。 

それから原発は責任体制をとっていない、何でも責任があるとして学校でも事故が起きたら責任が問われるとか会社でもそうであり万一の責任をとるために備える
責任問題だでたらうるさいからである。医者でも責任をとらされるからその備えをしておく、保険をかけるのもそうである。
何か原発はそうした責任に備えていない、なぜなら安全神話を作り事故は日本では起きないとしていたからである。 
原発事故は交通事故とも飛行機事故とも鉄道の事故とも他の事故とも違う。
一回の事故は致命的になる、飛行機事故もそうだが人命を失うが原発事故とは違う。
原発事故は土とか空気とか水が基本的な生活のベースが失われ住めなくなる
人命を失わなくても住めなくなるのだから甚大だとなる。
結局原発の責任をとるのは国民なのである。20兆円払うのは東電だけではない、国民なのである。責任は国民にあったとなるからそうなる
原発を容認したのは国民だからとなってしまう。だから国民も反省しなければならない問題だったのである。











posted by 老鶯 at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

原発事故の自主避難者と小高はにている (放射線量は低いのに帰らない)


  原発事故の自主避難者と小高はにている

  (放射線量は低いのに帰らない)

福島に住むのも自由だし 戻らず避難先に永住するのもその人達の自由だから。
自主避難者ばかり サポートを付けるのはちょっと本来不公平な事でもありますよね。本来福島県のお金は 福島を復興させるために使うのが妥当だと思うし

避難していない人達は なんのサポートもなく自力で生活しているわけだから そろそろ自主避難した人達には自立してもらわないと

打ち切るのは当然・・そのお金は県内の復興の為に使うべきです

出て行った人に使うものではないと思います。請求するなら東電へ個人的に訴訟を起こすべきでは?

福島に戻る気もないのなら 各避難先に永住すべき!

↑自主避難者の方々は 福島県内でも線量の低い地域の人達ですよ?

実際の線量は0.1μsv/h以下です。放射線管理区域よりはるかに低い線量です。レントゲン1回取ったり 飛行機で海外へ行った方が福島にいるより被ばくします。


自主避難者というのもわかりにくい、ええ、まだいたのという感じである。
最初から自主避難者は地元でも批判されていた。それが5年すぎてもまだいるということは福島県民でも何か普通ではないと感じる

とにかく放射能が放射脳と言われるように放射能に過敏になればきりがない、またそれを責めるとお前は放射能のことを知っているのかとなりめんどうになる。
子供を守るために母親が必死なのにそんなこと言えるのかとなる
この放射能問題だからめんどうなのである。

小高でもそうである。俺たちは被害者であり高い補償金をもらうのは当然である。俺たちは同情されるのが当然である。故郷に住めなくなったのだからと確かにその精神的被害が大きかった。でもそれを言うときりがなくなるのである。

小高の人でも自主避難者を批判するこの人のようになっている
そもそも復興とはなになのかわからないのだ

個々人の復興→避難区域から出て自分の家を建てる

故郷の復興→故郷に住みつづけて復興する

この二つに分かれる、だからこの人は避難区域から出た人は
避難していない人達は なんのサポートもなく自力で生活しているわけだから そろそろ自主避難した人達には自立してもらわないと

こうなる、でも避難者は土地をもっていればその土地の賠償を要求するしその土地に住んでいたことで賠償を請求する、しかしもう故郷には住まないのである。
実際は放射線量が低い場所でも住まないで外に出たのである。小高などはこの辺と変わりないからである。
そして復興復興と言うけと肝心のそこに住む人がその町をになう若い人が流出したのである。
だから過剰な補償金をもらった結果、それを資金にしてみんな肝心の復興すべき故郷を捨てたのである。
もし補償金の額が少ないのなら、もう苦しくてもここで生活する他ないとなっていたかもしれない、でも補償金も多くもらった結果その資金で外に出て家を建てた方がいいとなったのである。

だから何のための補償金かもわからなくなった。故郷を復興させるためではない補償金が支払われたのである。
この辺はみんな補償金のことしか頭になくなったのである。
小高でも浪江は5000万以上ここよりもらっているとか浪江は浪江では補償金の額があっちは多いとかもめているのである。
何か故郷をなんとかこうして復興させるという声がほとんどないのである。
ただ補償金をもっと欲しいしかないのである。

ただ小高の場合は国の支持が間違っていた。三〇キロ圏内で区切り避難させたことがそもそもの間違いだったのである。ただ間違いといってもその時は判断することがむずかしかった。でも5年は長すぎたのである。3年くらいでも良かったのである。3年でも長かかったのである。そのうちだんだん帰る人がへっていったのである。
原発事故では避難するにもスピーディが機能しないとか政府とか東電が適切に判断しないことがこうしてあとあとまで地元民を混乱させたのである。

そしてなぜ原発避難者が批判されるのか?それは国民であれ周辺のものであれ負担を強いられるからである。
何も補償金もらっても消費しているから地元の人も助けているのよと仮設に住んでいる人がいう、それも補償金のせいだったのである。
消費者は王様だというのが社会にしても避難されてきた土地では負担になっている
病院でも福祉関係でもいわき市では数が多いからパニックになったのである。
鹿島区だってそれほどでないにしろそういうことはあった、避難先ではなにかしら負担になったことがあった。消費してくれるからいいとだけではなかったのである。

だから今度浪江の人などが相当二千人以上くらい南相馬市の復興住宅に入る
すると何が起こるのか?人口は増えるから消費は増える、でも一方で医療とか福祉関係は負担が増える、看護師不足でもあり病人が増えれば対応しきれなくなる
ただ移ってくる人でも看護師もいるから補充されることはある。
ただ近くの復興住宅に移る浪江の人も病気で医者の心配をしていた。
南相馬市に移り住む人はまた老人が多いしそういう人は病気もちがまた多いのである。
そうなるとますます市が高齢化して医療や介護などの負担が増えることになるのである。一般的に老人は60以上になると生産的活動はしない、そして補償金頼みの人もいるがそれも浪江だと打ち切られる、そうなるとどうして生活するのか?
小高の遊び人は生活保護だと言っていた。するとそれも市や国の負担になるのである。

人間つくづくかわいそうだと同情するのは悪いことではない、でも実際にそういってでは障害児を世話してくれとか老人を病人を介護してくれとなるととてもできない
金をだせといってもそれだって簡単にはできない
口でかわいそうだとは言えても実際に世話するとなると負担になるからできない
つまり補償金がもらえなくなった人は60以上が多くそうなりやすいのである。
生産活動しないから市町村の負担になってくる。
でも俺たちは被害者なのだとは強くこの五年ですりこまれたからそれも当然だと思う人が多い、それは権利だとまである。第一生活保護は今は権利なのである。
だからその権利を主張するのが当然だとなる、特に原発被害者などはそれを堂々と主張できる。俺たちは被害者なのだと迫れば受け入れられるからだ。
結局仮設に住んでいた五年でもほとんどの人はギャンブルとかで遊んでいたのである。
その五年間は他人まかせであり関心があるのは故郷の復興ではない、補償金だけだったのである。

だから復興というとき本当にむずかしい、復興するといってもその意欲もなくなっている放射能問題もやっかいでありそれを言われるとそれが理由になり反対もできない
何かそうしていろいろな悪条件で復興することがむずかしくなったのである。
南相馬市でも小高が復興しないと負担になるから復興してくれといっても帰るのは老人がほとんどである、ただ自分たちは被害者だとなりその権利を主張するだけだとなる
それもまた正当化されるから批判もできない、結果的にいづれにしろ負担が増えて負担を背負わねばならない人がでてくる。
それがすぐにではなく徐々に市民が町民が村民が感じてくるものだろう。
生産しないとなると税金も入らないし自治体の財政だって苦しくなってゆく
今は補償金とか国とかの援助があるけどいつまでもつづくものではない
だからこれから五年後とか10年後はさらに厳しいものとして現れる
その頃まで生きるとなるとここでは相当に苦しいとなるかもしれない。
夕張のようになってゆく恐怖がある。それは少子高齢化でそうなってゆく゛限界集落化してゆく、それがこの辺では極端になり現れ早めにそうなってゆく恐怖なのである。






posted by 老鶯 at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連