2016年12月25日

南北朝の戦いで小高城陥落に残された短歌二首 (その心境は自分と同じだった)


南北朝の戦いで小高城陥落に残された短歌二首


(その心境は自分と同じだった)


相馬光胤(そうま・みつたね) ?〜1336

相馬氏第6代当主・相馬重胤の二男。相馬親胤の弟。
建武2年(1335)11月、父・重胤が建武政権に叛いた足利尊氏に与することを決めた際に、下総国相馬郡栗野村や陸奥国行方郡耳谷村などを譲渡され、父や兄・親胤と共に鎌倉に参じた。
同年12月に尊氏が新田義貞軍を破って京都に進撃するに際しては兄の親胤が尊氏に従軍、光胤は父と共に鎌倉に残って守衛にあたったが、のちに陸奥国に帰国、建武3年(1336)2月18日には父より陸奥国行方郡小高に築城して足利氏に味方することを命じられている。
3月にはこの指示に従って一族を小高城に結集させて南朝勢力と戦い、その功績で翌4月には重胤に宛てて尊氏方の奥州総大将・斯波家長より所領を預け置かれている。
しかし南朝方の鎮守府大将軍・北畠顕家が陸奥国に下向してくることを知ると討死を覚悟し、5月20日付で消息不明となっていた親胤の子である松鶴丸(のちの相馬胤頼)を養子として栗野村・耳谷村・小高村などの所領を譲ったうえで南朝軍との戦いに臨んだが、5月24日に小高城を落とされて斬られた。

相馬の運命今日限りとして防戦したが遂に保つことができず
光りたねをはじめ一族九七人が侍939人、その他多数のものが討ち死にした。
うかう松鶴丸は当時13歳は母と共に小高の西、釘野山の麓の農家の宅にかくれ山野に辛苦をなめたものの、良くその身を全うすることができた

中秋にあたり松鶴丸が一族譜代の墓に詣でて従者に和歌二首をたむけさせた


去年の今日別れし人の墓に来てみのりを問えば涙こぼるる

我一人残るこの世の憂きづまいおもうがままに後世は問われず

去年(こぞ)今年

あわただしく古い年が去り、駆け足で新しい年がやってきた。
一夜明ければもう新年。昨日は去年なのに、今日はもう新年。

南北朝の戦いはわけわからなくなる、結局人間の戦いでも紛争でも事件や事故でも複雑なのである。なぜそうなったのか?その原因もいろいろなのである。
シリアを見ればわかる、わけわからなくなる。
それはこの辺で起きた原発避難者とかの補償金での対立もそうだった。
津波の被害者も混じったりして複雑だったのである。
相馬は北朝であり南朝が攻めてきたとき小高城を死守したが被害が大きかった。
そこでこの歌が残された。

今なぜこの短歌に注目したかというと自分もこれと同じような経験をしたからである。
これは津波の被害者とか原発避難民とかも経験したことである。
この苦難は生きる死ぬかの苦難だったからまた違っている
ただこの心境は自分の今にあてはまっている

介護十年で苦しみ続けてきた。津波とか原発は直接自分は被害は受けていないがそれでもこの辺は混乱した。
ともかく辛かったのは自分一人で対応しなけれはならなかったことであり自分の所に来た人は助けるためではない、金がほしいだけでありかえって弱者化したから攻めてきたのである。弱者は攻め安いのである。そのことは延々と書いてきた。
原発避難民を批判するときその時の経験からそうなっているのだ。
あのとき避難民でもパチンコ屋通いであり遊んでいたと思うからである。
自分は孤立無援で一人しのいだ、だから我ながら良く耐えたなと思う

去年の今日別れし人の墓に来てみのりを問えば涙こぼるる

この人も相当な苦難を経験した。別れし人とは死んだ人である。
自分も家族は全部死んだから同じ心境になる
そしてなんとかこの人は生き残ったというとき自分もつくづく耐え忍んだなと思う

実りと問えば・・・とは何なのか?

その戦乱生き抜いて何か実りがあったのか、その実りとは何かわからない、自分の場合ともかく一人耐えぬいたということだった。耐えたことが勝利だったとも言える
人間はこうした苦難を減ると精神的に成長することがある。
だからこの人の心境と自分の心境が同じなのである。
そのあとは一人でも気持ち的に楽になったということである。
自分は十年間苦しかった。原発避難民よりも苦しかったと思う
だからこそ原発避難民を責めたのである。
病気のときも全く同情されず責められて一人奮闘するほかなかったからである。
それに比べたら原発避難民は同情されたとかいろいろ恵まれたと思うからこそ批判になったのである。

ただ小高城陥落というとき小高の街が原発事故で消失する危機になっているのとはにている。
小高の人でも離散したからである。そして全国に避難民は散った、最近は南相馬市の復興住宅に今度は浪江の人たちが主に移住してくる
何か戦乱状態とこの辺はにているのである。

ともかく人間は他人の苦しみはわからない、それぞれ違った苦しみになるからだ。
原発避難民でもその人にすれば苦しかったともなるしわからない。
でも結局自分が一番苦しかったと思うのが人間なのである。
それは他人の苦しみがわからないからそうなっているのである。

真野の草原(かやはら)は原町の萱浜(かやはま)説 萱浜はカイ浜でありカイは北海道のアイヌのことだった


真野の草原(かやはら)は原町の萱浜(かやはま)説


萱浜はカイ浜でありカイは北海道のアイヌのことだった


滋賀県 犬上郡 多賀町 萱原(かいはら)
徳島県 小松島市 櫛渕町萱原(かいばら)

アイヌ民族が自分たちの国をカイと呼び、同胞相互にカイノー、またはアイ ノーと呼びあってきたからというところにあった。北 加伊道が北海道に変えられたとき、そこにこめられた大事な意味も消された。その名づけを産んだ流れは、武四郎一人の力や思いではどうにもな らない滔々たる濁流となって、この近代百年を押し通してきているものであった。武四郎は、明治に入るとすぐその流れの外に身をおいてしまう(花崎 1988:9-10)

花崎の紹介によると、道庁が解説する「夷人」(夷狄 =イテキ、つまり潜在的な敵である異邦人)とは、和人(シャモ、日本人)が言うアイヌのことに他ならないということになる。アイヌであることが明々白々で あるのに、わざと「夷人」という歴史的用語をそのまま使って、何も註釈を与えようとしないのは、道庁版は、アイヌに対する不当なネグレクトである可能性が ある

萱原はかやはらというだけでなくかいはらともいう、かいばらともなる。
真野の草原(かやはら)はカヤで伽耶の国と関係していると自分は考察してきた。
でもこの辺には草原も萱原という地名もないのである。
あるのは石巻でありそこにも真野という木簡が発見されたから真野と関係している。
ではそこなのかとなるとまだわからない。

それでこの辺で行方郡衙(泉廃寺跡)と連続したところに萱浜(かやはま)がある。
ここのかやは実際はカイと読んでいたのである。

泉長者は元慶元年(877)行方郡に来たといわれる。
約300年後源義経が家来の弁慶に命じて焼き払った。
その屋敷は灰塵に帰して別荘にいた娘もそれをきいて水に投じて死んだ。
娘の別荘があった地を名付けて子供(小浜)といい、樋をもて酒を娘の居所に流す時に
娘が甲斐湾をもってひそかにくみとって飲んだ地を甲斐浜(今の萱浜)また樋より酒のもれた地を雫(しどけ)と名付けた

この伝説も不思議である。なぜ甲斐碗として甲斐がでてくるのか?
おそらくもともと萱浜はカイ浜という地名だった。それが後に萱浜(かやはま)になった。地名伝説には地名が先にありそれにこじつけた伝説が多いからだ。
ここは泉かんが跡があるところだから古い地でありその時からあった地名かもしれない、地名は相当に古いからである。この辺の地名としては

蝦夷関係の地名

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エとつく地名

ツノガノアラシトや伽耶関係の地名

末続、角部、津(つのみや、つのみつ)神社のツノ系統、唐神(からかみ)なども

古代にはこの二つの地名があ、蝦夷関係の地名は最も古く縄文時代につながるものである前に考察したエの地名は蝦夷に由来するものである。
蝦夷はエビスでありエビ(海老)になる。南相馬市の鹿島区の海老はエヒと言われていた
それは蝦夷やエミシに通じる、つまり蝦夷が住んでいた地域だとなる
それからエという一連の地名が浜通りの海岸沿いにある。
エとつく地名は日本全国に本当に多いのである。それが日本全国に蝦夷がいた名残だとなる。蝦夷とは日本の先住民でありインディアンともにていたのである。
だから縄文語があってエがつくのはそのためである。その縄文人とまたアイヌとの関係はどうかとなるとむずかしくなる、縄文人が一万年いたとなるとアイヌはその後に入ってきた新しい民族だともされているからだ。
たから日本の地名をすべてアイヌ語で解きあかすのは無理なのである。
ただ北海道に密集してエのつく地名が多いのか?それはアイヌ語由来であり蝦夷との連続性がアイヌにあるのかとなる

「えけせてね」は、藤原氏が反抗する者どもを差別するためにつけた。例えば「江戸、江藤、蝦夷、恵那、江田」といった苗字は、藤原政権の追及迫害を逃れた人が隠れた(追いつめられた)土地からきたのであり、「エの民」と呼ばれたようである。

藤原政権の前に古代史では神道派と仏教派が争った。物部氏と蘇我氏である。そして最終的には仏教派が勝って国家の鎮護として奈良の大仏が作られた。
当時の仏教は総合的なものであり一つの文明として受け入れたのである。

日本の原住民として蝦夷がいてその後に弥生人が入ってきて稲作を広めた。物部氏は権力闘争に敗れて北に逃れた。そして蝦夷と連合したのである。
でも物部氏も最初は原住民の蝦夷と争っていたのである。その証拠が鹿島区にある御刀神社である。海老に蝦夷がいて物部氏が戦ったからこそそこは御刀神社となったのである。刀をつきさした所とあり刀で蝦夷を征服したのである。

だから真野の草原はかいはらと呼ばれていたのかもしれない、それがカヤになったともなる。他でもかやはらとかいはらがありどっちかとういとカイハラというのが全国的に多い、ただカイと言っても峡もカイであり古語ではカヒとなっている。
甲斐の国とは峡谷が多いからそうなっかともとれる。

だから真野の草原はカイハラだとしたら地名としてここに残っているとなるから蝦夷地名として奈良に知られていたということになる。
それは北海道が実は異民族のカイのことだったと同じである。
カイがカヤにされて不明になったともとれる。

ただ草原(かやはら)というとき前に証明したように古代の和名類聚抄に記されていて数は少ないが一連のものとしてあった。
埼玉県にも草原氏がいてそれは古い謂れがある。ここから近いことも草原(かやはら)というのが何かその辺からも伝えられたものともなる。

和名抄、武蔵国埼玉郡に草原郷あり。加也波良と註し、高山寺本には萱原に作り、加夜波良と訓ず。

二つの説でどちらが有力化となるとこれもわかりにくい、自分は伽耶説をとってきたからそれをまたカイ説にするとそれてりの説明を論拠を示していかねばならない、その作業が容易ではないとなる
ただエとつく地名とかの関係で蝦夷と関係していたとなるとわかりやすいし説得力もあるとなる、その地名が残っていることでそうなるのである。
萱浜はただ真野郷内にはせない、でも行方郡衙(泉廃寺跡)の港につづいているものだから有力だとなる。そこは港だったのだから草原はただ茫漠とした萱の原を言っていたのではないのである。人が通う場所としての港のことだったからである。

南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった 
(神社の位置が歴史を語る)
posted by 老鶯 at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)