2016年12月23日

常磐線(仙台ー原ノ町間-強風のために運休)



常磐線(仙台ー原ノ町間-強風のために運休)


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この電子掲示板が見やすいしわかりやすい、無人駅でもこれがあるとわかりやすい

赤い字は運休である。


鹿島駅にまたよったら飯館の方を回ってきた青年がいて仙台から東京に帰れないと困っていた。地元の人も困っていた。その若者は原町まで歩いて行った。
いろいろ教えてやったがありがとうとその青年は言わなかった。
年配の人はいろいろ教えるとありがとうと言う人がいる
そんなこといちいちこだわるわけではないが前にそういうことがあったので若者は違うのかと思った。

第一自分にしても道聞いたりしてありがとうなどあまり言わない、店でも言わない
有名な学者がタクシーに乗ってもありがとうという、それは金を払っているからありがとうと言われてもこちらからありがとうとは言わない、
でも今回は善意でしていたボランティアだった。
だから確かに普通だったらありがとうと言うのかもしれない
年配の人と若者は違っている

なんか最近は毎日鹿島駅に行っている、気晴らしということもある。
今は無人駅であり案内人がいない、それでボランティアの案内人みたいなことをしているそれを最初は意識していなかったがだんだんそうしているうち意識するようになった。
まだこの辺は外部からくる人がいるからそういう人と話して案内する

今日は強風で運休というとき新地から浜吉田とか津波の被害にあったところが高架橋になり風の影響を受けたのかと思った。
ただ新潟の糸魚川で大火事があったように強風の影響だった。
糸魚川で記憶しているのは松本から長い塩の道の終点の街だった。
街道の宿場町ということで古い家が多くあれだけの被害になった。

ともかく今日は強風の一日だった。気温も冬とは思えないあたたかさであった。


年の暮短歌三十首 (仙台から相馬市-鹿島-原町-小高へと)


年の暮短歌三十首

(仙台から相馬市-鹿島-原町-小高へと)

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(仙台まで)


仙台に通いし電車そのひびき高鳴りつつ年も終えなむ

五年ぶり電車通りて仙台に古本買いぬ年のくれかな

仙台の長町におりて新しき通りに落葉電車通じぬ

高架橋電車は走りぬ冬の海広々と見えて船行くを見ゆ

復興の電車通りて海よりそ満月昇りて光りけるかな

日立木駅下りる人あれ冬の月寒々として光りけるかな

鹿島駅こうこうとして冬の月光りて我が一人おりにけるかな

(仮設)

仮設の食堂に通いて二年やなじみにけるや年のくれかな

仮設住む人もともしき冬の灯ややがて消えなむ名残りおしみぬ

(飯館)

飯館は雪になるらし寒しかなかしこ住む人ここに思いぬ 

飯館の佐須は遠しも乳神の碑のありあわれ年のくれかな

飯館の比曽は遠しも一度のみ行きしを覚ゆ年は暮れなむ

(相馬市)

相馬市の街の灯あわれ心にしみカップを買いて冬の夜帰りぬ

五本松また通りにつ冬の夜や我が帰りゆく二本は枯れぬ


(原町)

原町のモスバーガーにそまたよりぬ外は北風汁粉の味かな

原町の街中通り農家かな畑に菜を育てて冬のくれかな

蔵ありて井形紋ありこの家の昔は農家は冬の日暮れぬ

この家の焼けしことありその形見馬頭観世音冬の日暮れぬ

紙漉きの家にしあれと石神や昔思いて冬の夜ふけぬ



(小高)

小高にそ電車はつきぬ小屋木へと行く人あれや秋の日暮れぬ

鹿島にて話す老人今は住む小高にあれや冬の灯ともりぬ 

小高駅おりたちあわれ冬の灯ともりわずかや誰か住みなむ


(浪江ー双葉)

浪江には電車通らじ淋しかなその闇深く冬の夜ふけぬ

双葉町遠くなりにき我が父の酒屋に働く場なりしかな


(鹿島)


庭の石見つつ小高の老人と話すことあり年のくれかな

我が家族争いつつも家族なりその日の長くも今はなしかも

ふるさとは何にしあれや街に人村に景色思いよすところ

広き家に老いても住めぬ女の来て我が家にあわれ年もくれなむ

寺内にホトケッポありはふり場や冬の月光り墓の埋もれぬ

しんしんとして冷える夜こそ一人住む同じ町の人思うものなれ

冬の夜や我が家に一人暖をとり昔偲びつ老いを楽しむ



鉄道の旅は長いから何か線路は心をつないでる感じになる、バスにはそういう感じはしないのである。それで北海道の稚内へゆく線路の詩を書いた。
本当に今回仙台まで電車が通じて仙台まで心が通じたと感じたのである。
これも不思議な経験だった。鉄道は自分にとって特別なものだった。鉄道の旅が長いからである。そこに愛着が生れたのである。

愛着というときそもそも故郷は何かとかこの辺は原発事故で避難したりして問われたのである。
故郷もなにかその土地に愛着を抱く場所である。それは親の代から先祖からもつづく愛着をいだく場所なのである。
だから故郷を離れたとき啄木はあれほど望郷となり短歌を残した。
何か自分も今になり啄木調の短歌が次々にできるのである。
詩も我ながらいいものが作れたなと感じることが多い、それも不思議な経験なのである。
人間は本当は死ぬまで不思議な経験をすることなのである。死の瞬間までそうである。
その経験は老人なるとさらに深まる、まずあらゆることに理解が深まるのである。
芸術の分野では年取るとかえってその芸は熟達するし理解が深まるのである。
今までは何か自分はいろいろなことを理解していなかったし俳句短歌でもいいものが作れなかった、詩でもそうである。

でも今は泉の水がこんこんと湧くように無理しなくても作れるのである。これも不思議な経験なのである。だから自分は老後は暇にならない、常にこんこんと泉湧くように創作できるし理解が深まるから評論なども書ける
本などもすぐに理解できる、どれがいい詩なのかもすぐわかるのである。
今まではなかなか理解することがむずかしかったのである。

ふるさとというとき小高の人などいろいろ言ってきたがそれはやはり同じ南相馬市民とかなり家族のようになるからである。
自分の家族は争いつづけてきて遂に死んだけどやはり家族だったと同じである。
ただその範囲としては双葉までであり大熊となるとなじみがなくなる
双葉では自分の父親が酒屋で働いていたからである。

飯館村はやはり相馬藩内であり何度も行っているし高い峠があるが一つに結ばれて地形的アイディンティティをもつ場である。歴史的には塩の道でつながっていた。
佐須となると飯館の中心地の草野からまたばずれている。
飯館村というと広いから草野から離れるとなにかさらに辺鄙な人も行かないような所に感じるのである。

相馬藩内でもいろいろ特徴がある。こういうことは旅しただけではわかりにくい、人はその場所に住んでみないと根本的にはわからないとういことがある。
そして故郷とはその人であれ街であれ村であれ景色であれ歴史であれ先祖であれ死者であれ愛着をもつ場所である。

人とはあまり接していないがやはり多少接した人のことも愛着がでてくるということである。場所と人はまた結びつくのである。
小高でも小屋木に住んでいるとなると何かその地名がひなびていて印象に残ったのであるただ仮設も来年の三月とかでなくなる、でも六年近くあったのだからこれも名残惜しいとも今ではなる
仮設の食堂にも二年間ぐらい通ったのである。これも結構長いなと思った。それで女性の店主と親しくなったとかある

いづれにしろこの十年間は自分にとって激変の時だった。その間に姉も母も家族はみんな死んで自分一人だけが残されたのである。その変化もあまりにも激しかったのである。
しかしなんとか耐えてやってきたとつくづく思う

人はいろいろいるが他人のことはなかなか理解しにくい、その女性はもう65すぎても狭い市営住宅すまいである。すると一生広い家に住んだことがないとなる
広い家に住んでいる人はそれがわからないのである。
仮設の狭い所に住んだ人はそれを経験したことになる、すると狭い所に住む人の気持ちもわかるということにもなったのである。

ともかくこの十年の歳月は本当に激変であり苦しかった。でもなんとか耐えた。
そして今年ももう終わる、仙台まで電車が開通したことは本当に復興だった。