2016年12月11日

abstract picture( blue sea)


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blue forest

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begining of the earth


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南相馬市鹿島駅で出会った人、外部の人の出入りが多い (グローバルなものとローカルなものの理解を深めるにはいい)


南相馬市鹿島駅で出会った人、外部の人の出入りが多い


(グローバルなものとローカルなものの理解を深めるにはいい)


この辺では外部からの人が来ている、今日は日曜日でありあんないばん見ていた人は浪江の人だった。

「どこに行くんですか」
「西町です」
「それならここを真っ直ぐ行って橋に出て川を上った所です」
「遠いんですか」
「10分ほどで行きます,近いです」
「どこの人ですか」
「浪江です」
「復興住宅に移るんですか」
「そうです」

最近シシドスーパーの隣に復興住宅ができた、ほぼ完成した、それで移り住んでいる人がすでにいる、その人もそうだった。
あそこは浪江町とか飯館村の人たちが住む、小高の人は住まない、県営住宅であり南相馬市の人は住まない、かなりの数の人が今度は復興住宅ができて南相馬市に住むようになる原町のキクチスケーパーの隣の団地でも浪江町の人が住んでいた、その数も多いのであるそれより雲雀が原の五階建てのビルには驚く、この辺では五階建てのビルは病院くらいだからである。
あれを見たら都会だなと本当に思う、それだけ威圧するように高いビルが並ぶ
だからそんな所に住む人がいるということは相当数の人が南相馬市に移り住むということだろう、今までは分散していたのが仮設から復興住宅に移り住むようになる
その数が多いから南相馬市でもなんらかの影響があるし回りにも影響がある。
だから今になるとつくづく原発というのは大熊とか双葉だけの問題ではない、広範囲な地域をまきこむものだったのである。補償金でもめたのもそのためである。

もう一人の人は話していたら大分の人だった。大分も熊本地震の影響があった
ところが熊本ばかり注目されて大分は注目されなかったのである。
その人がなぜここに来たのか?
「地震で仕事がなくて来たんです」
そういう事情の人もいたから熊本地震もこの辺と関係していたのかとなる
大分というとなじみがない、阿蘇は熊本と大分の境にあった。
いくら全国を旅行したからといってすべてには通じ得ない、九州は遠いからわかりにくかった。
そして報道では熊本も被害は盛んに言われたが大分もそれなりに被害があったらしい。
大分というとき韓国から船で福岡に来て宮崎県だったかどこか船で東京まで帰った
その時伊豆の七島の島影を見た。そこは鎌倉の領域でもあったとかなる。

またこの前会った人は最初札幌から来たと言っていたので札幌の会社に転勤した、その人は年であり一旦退職してからも働いているらしい。
その人はドイツに8年間いたという、それはソビエト連邦の時代だったのである。
カザフスタンまでも行っていたらしい、これも驚きである。
その人は何か技術関係の仕事をしていて放射能関係の検査で会社から派遣されている
だからここで住むところも会社から与えられている
こういう人も田舎では会うのはまれだけどこんな事情でそういう人も来ている
こういう人は世界を日本でも会社の命令で渡り歩く、派遣される、だからこういう人は故郷に農業して外に出ない農民とかとはまるで違った人である。
グローバルに仕事をする人だとなる
こういう人はまず故郷とか関係ない、だからこういう人は何にアイディンティティをもつのだろうともなる

外国旅行で出会った人もそうだった。その人はフランスに一年いたとしても会社で派遣されこたのではない、自ら行った同年代の人である。
ただあの時代では外国はそれほどなじみがない、気軽に行けるものではない、それであとでスペインから船でアルジェリアにわたった、労働者を手配するためである。
アルジェリアはフランスの植民地だった、そこに石油がとれるからである。
そこで日本の日揮という石油関係とかのインフラを整備する会社の人がテロにあい十人くらい殺されたことも驚きであった。
そんな仕事をしている人がいるというのも驚きである。

ただ今の社会は日本国内でも広域化しているからめずらしくはない、この辺は原発事故以後は日本中の人が来ているから別に九州でもめずらしくない、ただ熊本地震の影響があって仕事がないから除染関係の仕事を求めて来たというのは特殊だと思った。
この辺は人の出入りがはげしい、それで鹿島駅で時々話かけているのである。
今日は特に仙台まで電車が通るようになったので二回くらい行った。
やはり駅は外との窓口となる。あそこに何か喫茶店のようなものを作るとか商工会で計画しているとか言っていたがそれはただ案だけなのだろう。
無人駅になったからそう話が出たのかもしれない

自分は外国もかなり旅行したからドイツに8年いたというときどこですかと聞いた。
ケルンですと聞いたときあそこはあの塔にも上ったし親しい感覚になる
ライン川が流れていてその場がイメージできる、日本だとたいがいはイメージできるが外国となるとそうはいかないがケルンは塔がありライン川があるからイメージしやすいのである。
だからたいがいの人と話を合わせられる、それは地理的なものであり理系の人は仕事のことなどわからないから話せない、ただ地理的なことを知っていることが外部の知らない人と話すときは大事である。地理が基礎になるということである。

アメリカの雑誌「タイム」は21日、毎年恒例の「世界で最も影響力のある100人」を発表し、日本からは、東日本大震災後の住民の窮状をで訴えた福島・南相馬市の桜井勝延市長ら、被災地の2人が選ばれた

こんなことは今までならありえない、それより外国に行ってフクシマというときすぐあの原発事故があったところかとなり世界的有名になったのである。
悪い意味で世界に通じる場所になってしまったのでしる。チェルノブエリと同じである。だから原発事故で奇妙だがこの辺は国際化したということにもなる。
世界の研究者も科学者もおしかけたからそうなった。

自分も遅かったが十年くらい世界旅行したからそれなりに国際化したし外国のことに興味を具体的にもつようになった。
今の時代グローバル社会になるとどうしても実地に世界を回らないと知識的な仕事はできない、グローバル社会ではそれを否定しても世界の中で生きざるを得なくなっているからだ。
ただ自分の課題として原発事故でもこれはフクシマという田舎で起きたことでありそれはグローバルなものとローカルなものとの問題でもあったのだ。
ローカルな地域的なもの自然を破壊したということで極めてローカルなものとして相馬郷土史を追求してきた。
そういう視点はそもそも地元でも欠落していたのである。
津波だって400年前に700人溺死ししていたという記録が相馬藩にあった人はほとんどいなかったのである。
つまりグローバル社会になってもいかにそこに住む地域的なものの知識が欠かせないとうことも思い知らされたのである。

意外と今の時代この地域的ローカルなものがないがしろにされているのである。
ともかく日本より地域より外国に詳しい人がいる、ところが肝心な自分の国のことや住んでいる地域のことを知らない人が多いのである。
そして地域のことを自分の住んでいる場を知らないとうことは致命的になるのである。
今回の津波とか原発事故がそれを思い知らされたのである。

地域とかローカルなものというときそこには自然がありその自然に基づいた暮らしがあるとき外国も同じなのである。自然をアイディンティティとして文明文化は作られてきたからである。樅の木があるとする、それは日本にもある、そればどこにでもある。
そうなれば樅の木のことを日本にいても理解できるとなる、ただ樅の木がドイツの古い時代のように森のようになっていることはない、でも樅の木がないとしたらそもそも理解できないのである。
でも日本に住んでいてもそういう自然の理解が今は欠けている、東京になどいたら樅の木であれ自然がない人口空間なのである。すると日本の文化も理解できない、まししてや外国の文化も理解できないのである。

つまり外国を理解しようとするとき日本を日本でも自然とともに生きてきた田舎を理解できないと外国も理解できないとなるのだ。
日本というとき別に奈良とか京都とは限らないのである。かえって樅の木というのはドイツの象徴になっているがではそれを京都とかに行っても理解はできないのである。
ローカルなものとグローバルなものが別になっているようでも実は自然から見れば共通のものアイディンティティがそこに見いだされるのである。
まず現代はこれだけグローバル化してもかえってローカルなものの視点が欠如しているからグローバルなものも理解できないという逆説がある。
だから世界を渡り歩いても必ずしも世界を理解するというものでもないのである。

師走俳句十句(鹿島から相馬市へ、復興の電車走る)


師走俳句十句(鹿島から相馬市へ、復興の電車走る)  

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この車両は前に団体とあり特別のものだった
開通のために走らせたものらしい

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冬陽没る六万石の城下町

冬の灯や六万石の城下町

冬の月六万石の城下町

灯のともり田町のあわれ冬柳

晩菊や待つ人あれや無人駅

無人駅おりたちあわれ冬薔薇

復興の電車走るや師走かな

復興の電車や百輪の冬椿

枯芒二両の電車や昼の月

石一つここに落ち着き冬椿


ローソンにカフィラティを飲み外見れば枯野広がり昼の月見ゆ 



一昨日は夜に自転車で相馬市に行った。今までは介護だから夜には行けなかった、介護となると問題はつききりではなれられなくなることなのだ。
認知症の場合は特にそうなる、不安になり一人でいられないからだ。
それで十年間ゆっくり外にでることもできなかった。それは相馬市とか近くでもそうだったのである。

相馬市は六万石の城下町であるが外からきた人は何かそうは感じないだろう。城跡があり石垣がわずかに残っているがそこが城があったとも感じないからである。
ただ入母屋作りとか相馬市では建物を昔風に統一した街作りをしている。
新しい市役所でもそうであり公共的な建物はみんな統一している。
それで落ち着いた感じにはなっている。ただそれに不満な人もいるだろう。
建物だけが立派で他に金が回らないとか思う人もいる

相馬藩が六万石というときそれでも土地としては海あり川あり山ありで広いと思う。やはり海があることが福島県でも違っている、そのために津波の被害や原発でも海があって建てられたがそれが裏目に出たのである。
なぜ六万石で野馬追いのようなことができるのか?それだけの侍がいたのかとか疑問になる、そしてなぜ伊達氏のような大藩を相手に戦い独立を保ったのか?
それはやはり海があり海を利用して運輸がありそれで力をもっていたともなる
海は漁業の海ではなく運輸の交通の海としてあったことが見逃されているのである。

鹿島駅は無人駅になった。小高の方に職員が移った。昨日は電車が仙台まで通じた復興の日だった。これはやはり復興として大きい、今日は原町に12両の電車がとまったという、日曜日で特別乗った人がいたのだろう。
でも以前として二両とか4両とか6両で車両としては少ないから乗る人がまだ少ないとなる前は8両が普通だったみたいだからだ。

二両の電車も不思議だった。相馬市と原町の間を行き来していた
なんかのんびりしていた。それで昼の月があっていたともなる
この辺は自分でもそうだが介護で十年でありその間に翻弄されてきた。
そのことはプログに書いてきた。その後は津波であり原発事故でありここは常に変化の中にあった。なんか落ち着かないのである。
自分の母親も死んで明日が一周忌であるが何もしない、花を一杯さして飾り終わりである何か一人だといろいろなことに手が回らないのである。
フログだって書くの半日かかることもある、家事もしているし自分は介護はなくても常に以前として追われた生活なのである。
だから今年仙台に行ったのは一回だけだった。
今年中にもう一回仙台まで乗って終わりである。

この辺の変わりようははげしかった。新しい家が数百軒もたち復興住宅もたちどうも大熊とかの方の人も建てたらしい、今度は浪江の人が復興住宅に集まり住むとか今度は仮設住宅から南相馬市とか相馬市とかにも移ってくる。そこでまた変化がある、
この辺は常に変化なのである。自分の場合、介護十年だったから一身上も常に変化だった30年間変化ない平穏な生活とはまるで違ったものとなっていたのである。

今も自分はほとんど遠くに行かない、毎日近くを行ったり来たりであり十年間そうであるローソンでカフィラティというのがうまい、ミルク味がいいのである。
あそこで外で休みそれを飲むのが一腹であり楽しみである。
外に昼の月がてて枯野が広がる、それが田舎らしいのんびりさがあるとなる
でもこの辺は何か変化が常にあるからずっとのんびりはしていられなかったのである。