2016年12月26日

原発事故の自主避難者と小高はにている (放射線量は低いのに帰らない)


  原発事故の自主避難者と小高はにている

  (放射線量は低いのに帰らない)

福島に住むのも自由だし 戻らず避難先に永住するのもその人達の自由だから。
自主避難者ばかり サポートを付けるのはちょっと本来不公平な事でもありますよね。本来福島県のお金は 福島を復興させるために使うのが妥当だと思うし

避難していない人達は なんのサポートもなく自力で生活しているわけだから そろそろ自主避難した人達には自立してもらわないと

打ち切るのは当然・・そのお金は県内の復興の為に使うべきです

出て行った人に使うものではないと思います。請求するなら東電へ個人的に訴訟を起こすべきでは?

福島に戻る気もないのなら 各避難先に永住すべき!

↑自主避難者の方々は 福島県内でも線量の低い地域の人達ですよ?

実際の線量は0.1μsv/h以下です。放射線管理区域よりはるかに低い線量です。レントゲン1回取ったり 飛行機で海外へ行った方が福島にいるより被ばくします。


自主避難者というのもわかりにくい、ええ、まだいたのという感じである。
最初から自主避難者は地元でも批判されていた。それが5年すぎてもまだいるということは福島県民でも何か普通ではないと感じる

とにかく放射能が放射脳と言われるように放射能に過敏になればきりがない、またそれを責めるとお前は放射能のことを知っているのかとなりめんどうになる。
子供を守るために母親が必死なのにそんなこと言えるのかとなる
この放射能問題だからめんどうなのである。

小高でもそうである。俺たちは被害者であり高い補償金をもらうのは当然である。俺たちは同情されるのが当然である。故郷に住めなくなったのだからと確かにその精神的被害が大きかった。でもそれを言うときりがなくなるのである。

小高の人でも自主避難者を批判するこの人のようになっている
そもそも復興とはなになのかわからないのだ

個々人の復興→避難区域から出て自分の家を建てる

故郷の復興→故郷に住みつづけて復興する

この二つに分かれる、だからこの人は避難区域から出た人は
避難していない人達は なんのサポートもなく自力で生活しているわけだから そろそろ自主避難した人達には自立してもらわないと

こうなる、でも避難者は土地をもっていればその土地の賠償を要求するしその土地に住んでいたことで賠償を請求する、しかしもう故郷には住まないのである。
実際は放射線量が低い場所でも住まないで外に出たのである。小高などはこの辺と変わりないからである。
そして復興復興と言うけと肝心のそこに住む人がその町をになう若い人が流出したのである。
だから過剰な補償金をもらった結果、それを資金にしてみんな肝心の復興すべき故郷を捨てたのである。
もし補償金の額が少ないのなら、もう苦しくてもここで生活する他ないとなっていたかもしれない、でも補償金も多くもらった結果その資金で外に出て家を建てた方がいいとなったのである。

だから何のための補償金かもわからなくなった。故郷を復興させるためではない補償金が支払われたのである。
この辺はみんな補償金のことしか頭になくなったのである。
小高でも浪江は5000万以上ここよりもらっているとか浪江は浪江では補償金の額があっちは多いとかもめているのである。
何か故郷をなんとかこうして復興させるという声がほとんどないのである。
ただ補償金をもっと欲しいしかないのである。

ただ小高の場合は国の支持が間違っていた。三〇キロ圏内で区切り避難させたことがそもそもの間違いだったのである。ただ間違いといってもその時は判断することがむずかしかった。でも5年は長すぎたのである。3年くらいでも良かったのである。3年でも長かかったのである。そのうちだんだん帰る人がへっていったのである。
原発事故では避難するにもスピーディが機能しないとか政府とか東電が適切に判断しないことがこうしてあとあとまで地元民を混乱させたのである。

そしてなぜ原発避難者が批判されるのか?それは国民であれ周辺のものであれ負担を強いられるからである。
何も補償金もらっても消費しているから地元の人も助けているのよと仮設に住んでいる人がいう、それも補償金のせいだったのである。
消費者は王様だというのが社会にしても避難されてきた土地では負担になっている
病院でも福祉関係でもいわき市では数が多いからパニックになったのである。
鹿島区だってそれほどでないにしろそういうことはあった、避難先ではなにかしら負担になったことがあった。消費してくれるからいいとだけではなかったのである。

だから今度浪江の人などが相当二千人以上くらい南相馬市の復興住宅に入る
すると何が起こるのか?人口は増えるから消費は増える、でも一方で医療とか福祉関係は負担が増える、看護師不足でもあり病人が増えれば対応しきれなくなる
ただ移ってくる人でも看護師もいるから補充されることはある。
ただ近くの復興住宅に移る浪江の人も病気で医者の心配をしていた。
南相馬市に移り住む人はまた老人が多いしそういう人は病気もちがまた多いのである。
そうなるとますます市が高齢化して医療や介護などの負担が増えることになるのである。一般的に老人は60以上になると生産的活動はしない、そして補償金頼みの人もいるがそれも浪江だと打ち切られる、そうなるとどうして生活するのか?
小高の遊び人は生活保護だと言っていた。するとそれも市や国の負担になるのである。

人間つくづくかわいそうだと同情するのは悪いことではない、でも実際にそういってでは障害児を世話してくれとか老人を病人を介護してくれとなるととてもできない
金をだせといってもそれだって簡単にはできない
口でかわいそうだとは言えても実際に世話するとなると負担になるからできない
つまり補償金がもらえなくなった人は60以上が多くそうなりやすいのである。
生産活動しないから市町村の負担になってくる。
でも俺たちは被害者なのだとは強くこの五年ですりこまれたからそれも当然だと思う人が多い、それは権利だとまである。第一生活保護は今は権利なのである。
だからその権利を主張するのが当然だとなる、特に原発被害者などはそれを堂々と主張できる。俺たちは被害者なのだと迫れば受け入れられるからだ。
結局仮設に住んでいた五年でもほとんどの人はギャンブルとかで遊んでいたのである。
その五年間は他人まかせであり関心があるのは故郷の復興ではない、補償金だけだったのである。

だから復興というとき本当にむずかしい、復興するといってもその意欲もなくなっている放射能問題もやっかいでありそれを言われるとそれが理由になり反対もできない
何かそうしていろいろな悪条件で復興することがむずかしくなったのである。
南相馬市でも小高が復興しないと負担になるから復興してくれといっても帰るのは老人がほとんどである、ただ自分たちは被害者だとなりその権利を主張するだけだとなる
それもまた正当化されるから批判もできない、結果的にいづれにしろ負担が増えて負担を背負わねばならない人がでてくる。
それがすぐにではなく徐々に市民が町民が村民が感じてくるものだろう。
生産しないとなると税金も入らないし自治体の財政だって苦しくなってゆく
今は補償金とか国とかの援助があるけどいつまでもつづくものではない
だからこれから五年後とか10年後はさらに厳しいものとして現れる
その頃まで生きるとなるとここでは相当に苦しいとなるかもしれない。
夕張のようになってゆく恐怖がある。それは少子高齢化でそうなってゆく゛限界集落化してゆく、それがこの辺では極端になり現れ早めにそうなってゆく恐怖なのである。






posted by 老鶯 at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

原発事故の避難対応が失敗した (小高は避難させず南相馬市の補償金は一律にすればよかった)


原発事故の避難対応が失敗した

(小高は避難させず南相馬市の補償金は一律にすればよかった)


まず30キロの避難にこだわった、それには科学的根拠があってもチェルノブエリとは違う、ここには人が昔から住んでいる場所でありそれを簡単に破壊することはできない所だったのである。
そういう事情があり30キロを補償範囲とするのも間違っていた。

まず南相馬市の一体感を保つために補償金は極力一律にすべきだった

小高を避難させたのは政府の方針だから南相馬市の市長の責任でもない、その政府の対応が誤ったのである。スピーディでも放射能がどこに流れるわかっていたのに浪江では津島の方に、一番線量が高い方に避難したのである。
浪江町には政府からも東電からも何の情報も入っていなかったのである。
ただでは東電では知らなかったかというと知っていたのである。
なぜなら東電の社員が津島の方に避難しては危ないといって街に引き返した方がいいと引き返した人たちもいたからである。

つまり東電の社員は放射性物質がどこに流れるのか知っていたのである。
その罪も大きい、だから小高が避難させたのは別に小高の町民の責任でもなかった。
南相馬市の責任でもなかった。政府の責任だったのである。その時は民主党だった。
民主党政権の事故の対応のまずさがあった。ただ原発はもともと自民党によって誘致されたものであり民主党はそれを引き継いだだけなのである。
だからなんらか民主党では新しいことはしにくかったのである。

それより最大の失敗は今になるとわかるが原発は30キロ圏だけではなく広範囲にかかわるものだった。だから原発を建てる土地所有者と県で決められたということ自体が考えられないことだったのである。
結果としてこれだけ広範囲に被害者は散って各地で仮設に暮らしたり今度は南相馬市では2000人くらいなのか復興住宅に入る、その数も多いのである。
今になって広範囲な地域を具体的にまきこむものが原発事故だということを知ったのである。
だから原発を建てるのだったらそれだけの広範囲の同意が必要だったのである。
そして同意したなら事故が起きたときでも互いに共同責任になる。
だから避難してきたとしても互いの共同責任だから文句は言えないとなる
でもその時は補償金はこんなにばらばらにはなりえないだろう。
その時から共同責任となれば補償金だって対等になるからである。
特に南相馬市では一部をのぞいて一律に補償金を支給すれば良かったのである。
小高を避難させてそこだけが特に高い補償金にする必要もなかったのである。

ただ自分がこういうのは結果論でありお前が事故当初でそう判断できたのかとなるとできない、自分は放射能のことなど知らないし何がなんだかわからなかったからである。
だから水素爆発したとき外を出歩いていたのである。
その時20マイクロシ-ベルにも一時なっていたのである。
つまり放射能のことを知らない、知らされてもいないということもあった。
ただ近くでも安全神話を作り安全だとしか教えていないからである。

ただ緊急の場合はたいがい対応があやまる、どうしていいのかわからないのである。
それは政府でも東電でもそうだった。それだけの専門家がいてもそういう対応ができなかった。人間は緊急の対応には弱いのである。
その対応があやまったのはあまりにも「安全神話」を自ら強固にしてしまったからである安全だ、安全だと言っているうちに自ら暗示にかかり安全だと科学者まで思うようになっていたかもしれない、科学的には完全に安全ということはなかった。
まるで題目でも念仏でも唱えているとそれで陶酔して心の安定を計っているカルト宗教団体とにていたところがあったのである。「安全、安全」と外にも内部でも絶えず唱えていたのである。それは逆に原発は一旦事故になったらこのように市町村すら崩壊するからである。科学者はそれを知っていたが口を噤んで御用学者になっていたのである。
でも確率的に百万年に一回の割合でしか起きないとか計算していたのである。
ここでも人間は計ることができない、神によって計られるのが人間なのである
そういう科学信仰の傲慢が神によって打ち砕かれたのである。

原発事故の教訓はここでは得られた、でもまた事故が起きるとしても違ったものになるからその対応は同じにはならない、ただここでの事故は参考にはなる。
事前に協議して広範囲で決定して共同責任をとるということである
そうしておけばそういう覚悟でしたのだから共同責任でありこんなに放射性物質の多寡で分断して争うということはなかっただろう。
責任はあくまでも共同で分担するということであり補償金もそうなっていたからである。そうなると大熊とか双葉とかですらそうなるからそんなに多くは補償金はもらえないとなる、するとどうなるのか、一段とそんな近くに建てるのはリスクが大きすぎるとその地元では反対運動が起きる、今のように手厚い補償は無理だとなるからだ。
そうすると今回は大熊とか双葉でも富岡でも手厚い補償があったがないとなると考えは全く変わる、そんなリスクをかかえるのはごめんだとなるのである。
そうするともうなかなか原発は建てられなくなるのである。

そもそも20兆円も事故の処理にかかること自体国民ではやめた方がいいと世論になっている。原発は金のかからないものではない、その反対であり莫大な負担を国民にも強いるものだったのである。地域だけではない国さえ滅びるような危険なものだったのである。
国の存亡がかかっていたのである。そういう意識が国民にもなかったのである。
今も50基もある原発は日本を滅ぼすかもしれない危険なものだったのである。
それでもやめられないのはなぜか?それは逆に核武装のために必要だとか国防のためにやめられないなにかがある。右翼は核武装論者であり原発支持だからである。
だから原発は火力発電所のようなものではない、国の存亡にかかわるものとしてやめられないとなる。
でも逆に事故が起きれば国が滅びるのである。
そういうことを国民は意識しなかった、でも20兆円も事故処理にかかるということで国民自体が原発を維持するのかとなると否定的になっている
原発はともかく恐るべき魔物だったのである。ただ国民でも地元でも自覚できなかったのである。 

それから原発は責任体制をとっていない、何でも責任があるとして学校でも事故が起きたら責任が問われるとか会社でもそうであり万一の責任をとるために備える
責任問題だでたらうるさいからである。医者でも責任をとらされるからその備えをしておく、保険をかけるのもそうである。
何か原発はそうした責任に備えていない、なぜなら安全神話を作り事故は日本では起きないとしていたからである。 
原発事故は交通事故とも飛行機事故とも鉄道の事故とも他の事故とも違う。
一回の事故は致命的になる、飛行機事故もそうだが人命を失うが原発事故とは違う。
原発事故は土とか空気とか水が基本的な生活のベースが失われ住めなくなる
人命を失わなくても住めなくなるのだから甚大だとなる。
結局原発の責任をとるのは国民なのである。20兆円払うのは東電だけではない、国民なのである。責任は国民にあったとなるからそうなる
原発を容認したのは国民だからとなってしまう。だから国民も反省しなければならない問題だったのである。











posted by 老鶯 at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

キーワードで抽象画を探す そこにまた別な抽象画があり変化させる キーワードで抽象画を探す そこにまた別な抽象画があり変化させる

キーワードで抽象画を探す

そこにまた別な抽象画があり変化させる


I look for an abstract picture in a keyword

There is another abstract picture again there and changes it

waterfalllllllllaaaa1.jpg
waterfalllllllllaaaa122.jpg

rockbiggggg1234.jpg

underggggggp123.jpg

palace of underground

hhhhhhhhhhhhhhiiiiikklll333.bmp

wavessnight123.jpg

seashore in moonlight


一つは明らかに著作権に違反している、ただソフトで立体にしただけだからである。
原画を見るとすぐにわかるからだ。ただ参考までに出しただけである。
山にするとなかなかわかりにくくなる。

自分の抽象画は変化だからその原画をインターネットで探すの問題になる
なにをキーワードにするのかが問題なのである。
キーワードによって違った絵が出てくるからである。
それがインターネットの面白さなのである。

つまりインターネットはまさにキーワードで探すものだからである。
他にさがしようがないものだからである。

This is because it only did one in a solid by just software violating a copyright clearly.
This is because it understands it as soon as it watches the original picture. I only only started it for your information.
It becomes hard to understand that I make the mountain very much.

It is a problem what which becomes the problem of looking for it on the Internet with the original picture you do in a keyword because one's abstract picture is a change.
This is because different paintings come out by a keyword.
It is fun of the Internet.

In other words the Internet is because it is right a thing to look for in a keyword.
This is because it is the thing which I cannot look for elsewhere.

2016年12月27日

抽象画に変化しやすいものと変化しにくいものがある


抽象画に変化しやすいものと変化しにくいものがある

There is the thing which is hard to change that it is easy to change to an abstract picture

hhhhhhhhhhhhhhiiiiikklll333.jpg
palace of underground

hhhhhhhhhhhhhhiiiiikklll333444.jpg
river is borned

hhhhhhhhhhhhhhiiiiikklll666.jpg
underground river

hhhhhhhhhhhhhhiiiiikklll333444555.jpg


どういうわけか抽象画に変化させやすいものとしにくいものがある
その理由がわからない、いくら変化させても抽象画にならないものはならない
なるものは連続してなる、今回の抽象画はそうだった。
抽象画になりやすいものだった
その変化させる過程はだいたい決まっている
他の過程でしてもうまくいかない、これも良くわからないのだ。
変化させているだけだからこれが創造性があるのかともなる
これがコンピュターから生まれた芸術だからそうなっているのだ。


This abstract picture that it was as for the thing that it was that it was not as for the thing which there was not to an abstract picture even if I changed it how much which did not understand the reason with the thing which it was hard to be easy to change into an abstract picture in succession was so somehow.

Even if the process to change that was the thing which is easy to become the abstract picture is almost in fixed other processes, I do not know this not to succeed in well.
Because I only change it, do not go because this is the art that this that it is whether there is originality was born from computer and is.

2016年12月28日

海は誰のものなのか? (原発事故で明らかになった漁業権者の権利の責任)


海は誰のものなのか?

(原発事故で明らかになった漁業権者の権利の責任)


原発事故というとき被害者の面が強調されるけど加害者でもあった。避難民となり故郷に住めなくなった人たちも被害者だけど加害者だったのである。
だから今になると国民が負担を強いられるから不満になる
原発でいい思いしたのにあんなに手厚い補償をされていいのかと批判される
それは富岡とか大熊とか双葉とかは特にそうなる。そこがまた一番被害が大きかったからである。でも恩恵も一番受けていたのである。
福島県だって被害者だけど恩恵は受けていた。

今になるとおかしなのは漁業権をもっていた漁業組合は最も恩恵を受けていたのである。自分は知らなかったけど原発御殿が港には建っていたのである
金の襖を作るために東京の職人を呼んだという話も今は伝説にもなる
なぜなら津波でみんな流されてしまったからである。
だから港に住む人がみんな恩恵を受けていないからここでもまたその日頃の不満が爆発して罰あたったんだという人さえいる

そもそも海を東電に売り渡すというけど海は誰のものなのか?
釣りする人も自由に釣りできないからその不満を言っていた。それも一理あったのである漁業資源の保護だったからわかるけどそうではない、海を権利として漁師がもってそれを売り渡した、そして多額の補償金をもらっていた。
だから海とか山とか大地でもそれが誰のものかとなるとそういうものを所有できるのかとなる
入会権とはそもそも個々人で所有できない、みんなで所有するということで生れた

ところが明治になると私的所有権認められて山も個人所有となり無数に分割されたのである。そうなると何かするにも公共の工事をするにもいちいち個人の許可をとり土地を買うようになる。それで災害のための工事するのがむずかしくなる
それで大きな自然災害を防ぐこともできないとまでなる
自然はそもそも私的に所有しにくいものである。なぜなら山でも大地でも海でも一定区画を所有できないのである。みんなそれらはつながっているからである。
そういうものを私的に所有させるようにしたのが明治以降なのである。

だからそれが極端化すると自分の家の海の前まで権利があるとして所有権を主張していたのである。そうすれば補償金が東電からもらえるからである。
この辺では避難区域になったところでは私道とかまで権利の対象になったのである。
こういうふうに私的所有が極端化したのが明治以降だった。
今でも農家では共有の志向があり共同作業をしている、そして農地は簡単に宅地にできない、売れないというとき土地がつながっているからである。
例えば水にしても山から流れて田んぼをうるおす、そして山が神となり春に里におりてくるというときそれは自然から生れた信仰である。
つまり江戸時代までは私的所有権はなかった自然は共有だったのである。

だから飯館村で除染なんからするより自分の土地を売って金にしたいという、それもわかる、除染がそんなに効果あるようにもみえないからである。
除染する代わりに金をもらえば一億とかにもなるからである。
でもそうなるとその空いた土地は誰のものになるのか?
国のものになったりするとき放射性物質の処理場として使われるかもしれない、すると土地はつながっているから南相馬市まで流れてくるからその土地は飯館村だけの問題ではない、飯館村だけで決められることでもない、現実に真野ダムに放射性物質が泥として堆積して下に南相馬市に流れてきているのである。
放射性物質のつまったフレコンバッグが破れて川に流れ出したこともあったように飯館村でも土地は切り離せないからそうなっているのである。

だからいくら漁業権をもっているからといって東電に売り渡して多額の補償金を得るということはまちがっていたのである。
つまりそうなら南相馬市だったら南相馬市民とか相馬市民とかいわき市民とかこれも全体で協議するべきものだった。
俺たちが漁業権をもっているんだ,市民は関係ないとなったことがまた問題だったのである。
ではそうなら漁業権者が今になれば一番責任があるのだから責任とれとまでなる
でも実際は何の責任もとらない、かえってまた立派な家を補償金で真っ先に建てたのが船主などであったのだ。
請戸の船主も相馬総合病院の特等室に入り家を建てると豪語していた
これも回りの人がどう思うだろうか?そういうことを全然考慮していないのである。

つまり今になると何か私的所有権を認めるのはいいとしてもそれは相当な責任が課せられていたのである。確かに東電に漁業権があり売り渡しても自由だとなる
ではその責任は誰がとるのか、私有権を主張した漁業組合がとれとなる
しかし実際は何にもとっていない、かえってさらに事故後も補償金は特別にもらいつづけているのである。
「この海は俺たちのものだ、俺たちが権利があるんだ、だから東電に売ろうが俺たちの自由だ」
でも今になるとその権利がある故に重い責任も課せられていたのである。
その責任も全くとらないということもおかしなことになった。

今の時代はともかくどんなことでも権利を主張する時代になった。民主主義はともかく権利を主張すること私的なものであれ何であれ権利を主張することこそが民主主義だと教えられてきたからである。
それはいいとしてその権利には責任が課せられていたのである。
一体、海でも所有して山でも所有してその責任がとれるのかとなる
だから漁業権でももし市民とかに範囲を広げて所有していれば東電に簡単に売り渡すことはできなかったかもしれない、でももし市民の合意で売り渡したならその責任は市民全部が負うことになる。
だから別に漁業権者だけが批判されることはないのである。
市民全部が共同でその責任を負うことになるからである。そういう覚悟で原発を作らせることになるからである。

いづれにしろ明治以降平等になったとき権利はみんな主張しても責任をとる人がいなくなったのである。
侍がいた時代は侍が責任をとった。平民には権利がなかったからである。
「言わず、聞かざる、見ざる」だったからである。
権利がないなら責任もないのである。でも権利があると重い責任が課せられていたのである。
だから侍は責任をとるとき切腹させられたのである。
たがら侍になりたくないという人もいた。それは責任があまりにも重いことを平民でも自覚していたからである。
今は平等でも権利は誰でも主張しても誰も責任はとらないのである。
戦争でもそうだったし国民に責任があるとなり誰も責任はとらない、でも結果的に国民が3百万人も死んだかのだから責任をとらされる
この辺の原発事故だってやはり市民が町民が村民が責任をとらされた
故郷にも住めなくなったということである。
人間はつくづく責任から逃れられないようになっていたのだ




posted by 老鶯 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

冬椿(石とかの話をする) 新しく広いパーク ゴルフ場ができた


冬椿(石とかの話をする)


新しく広いパーク ゴルフ場ができた

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新しくできたパークゴルフ場

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パノラマ写真


石に映ゆ今日もここに冬椿

朝日さし散りて赤しも冬椿

大根のむきだしにして風寒し 

老人のパークゴルフ場に冬の雲

広々とパークゴルフ場冬の山


一輪の冬の薔薇咲く誰か住む復興住宅に落ち着くらしも


その人は小高の人だけど石に興味をもっているという、何でも橲原(じさばら)になんとか石というのがあり貴重だったという。津島石というのもありその土地の名で名づけられのが多い、小高の人で庭師が教えてくれた。ともかくあの人は何でもできたから驚いた。
あの人も小高に帰らない,ともかく石とかも貴重である。


石は硬度が大事だという、石の硬さがあるのかとなるとある、一番堅いのはダイヤモンドである。ダイヤモンドでひっかくと必ず傷ができる、それはダイヤモンドの方が硬いからである。石と石とそれを試すとどっちが硬いかわかる、硬い方が傷つけることができるからだ。ギリシャ語でダイヤモンドが征服されざるというのは一番硬いからである。


紀元前600年頃: マグネット”Magnet”の名前の由来と磁鉄鉱
ギリシアのマグネシア地方 Magnesia に天然の磁鉄鉱 Magnetite = Loadstone が産出し、この磁鉄鉱が羊飼いの鉄の杖や、他の鉄製品を引きつけたりしたので、地名にちなんで“マグネット Magnet”といわれるようになったとされています。

ダイヤモンド

鉱物名 ダイヤモンド
日本名 金剛石
語源 ギリシャ語のアマダス(征服されざる)


トルコ石は、トルコから産出されるトルコ石というわけではない。ペルシャで産出された石がトルコを経由してヨーロッパに運ばれたことから、そう呼ばれている。トルコ石ブルーと呼ばれる色は、鉄と銅による発色で、鉄分が多ければ青色に、銅が多ければ緑色になる。
現在では産出量が減ってしまっているので、本物を見ることはほとんどない。

新潟県糸魚川市付近

このあたりは、ヒスイ海岸とも言われ、毎日多くの人がヒスイ探しに訪れる。最近では、無色のコランダムや、青いコランダムが発見されている。糸魚川市のフォッサマグナミュージアムで詳しい説明を受けることができる。川でも採取できるが、一部地域が天然記念物に指定されているので、海岸での採取が望ましい。



面白いのはトルコ石がトルコでとれたものではなかった。、経由地であったがトルコ石になった。有田焼が伊万里の港から輸出されたから外国では伊万里焼になっていたのと同じである。

あそこは新しくできた家だけど垣根があり石があっていい庭である。外から鑑賞するのにいいのである。あそこはシシドスーパーができて毎日買物で通るのである。
何かこの辺は本当に常に変わっているのである。
シシドスーパーの隣に復興住宅ができた、そこにもすでに人が入っている、主に浪江の人である。  

大根が土からむきだしになっている、それを見ると何か売られている大根とは違う感じをもつ、大地に育っている大根なのである。そこが都会と田舎の相違である。
大根が土からむきだしになっている、それがまさしく土から育っていることを示しているのである。風が寒いというとき何か季節を感じるのである。

それから今日は東北電力の処理場だったところが広いパークゴルフ場になっていたのは驚いた。あんなに広いパークゴルフ場はこの辺では見たことがない、相馬市にはあれより広い所があるというが見たことがない、松川浦はあるがあれよりここはずっと広い感じた
あそこだったらのびのびとゴルフができる
あのゴルフは老人向きで簡単にできる、ゴルフのクラブは50円とかで貸し出ししている
500円だすと利用できる。パークゴルフは普通はクラブに入ってしている。
万葉クラブというのがあり120人参加していた。それは鹿島区になるからそれだけいたということになる
パークゴルフは老人がしている、それくらいいても老人が゛多いのだから不思議ではない。

あそこにあると暇な老人が集まるのにはいい、集会所もあり気持ちいい所になった。
老人は暇な人が多いのだ。それでカラオケクラブは盛況である。
パークゴルフはかなりの運動にもなるからいい。
自分はやる気はない、自分は自転車が好きであり自転車がのれる公園があるといいと思うともかくあいういうものもできたのも東北電力があって助力があってできたとなるのか?
広い土地だけど処理場であったからだ。
とにかく今の世の中高齢化であり老人が多いからあういうものも必要になる
この辺は特に老人がまた増えているのである。若い人が外に出て老人が増えたのである。浪江の人などが来てもその人たちも老人が多いのである。
パークゴルフで活気がでても市自体が活気がでるとはならないだろう。
ただ老人にとってはいいものになる

タグ:冬椿

2016年12月29日

投資、消費と浪費の相違 (消費という言葉は変えねばならない)


投資、消費と浪費の相違

(消費という言葉は変えねばならない)


投資というと何かポジティブなイメージになる。投資というのは何かを積極的に育てるというイメージである。
例えば教育に投資するとかがそうである。将来のために知識を身につけるために本を買うとかパソコンを買うとか旅行することも実際は消費に見えて投資なのである。
自分は何か普通に言う投資でもうけたことはない、消費しただけである
金を稼いだことはあるにしてもそれはアルバイトだからわずかである。
ほとんど消費しかしていないのである。でも浪費とは明らかに違っている
ほとんど消費でも金を稼がなくても投資にもなっていた。

その成果とは何なのか?それは自分のプログなどで示している、ただこれは一文にもなっていない、だから資本主義社会では自分は金を稼がないのだから浪費者にすぎていとなるでも自分としては浪費したわけではない、今まで経験したことを知識として無料で提供している。別に金に困らないから稼ぐ必要がない、だから無料で提供している。
でも金にならないとその人は無益な人だと社会ではされるのである。
あなたはただ浪費しただけだとされてしまうのである。

では巨万の金を稼いだ人が社会にとって有益な人だったのかとなるとそれも疑問なのである。収入の多寡でその人の価値を計れるかとなるとそれもわからない、つまり人間の価値が何かそもそもわからないし計れないものだからそうなる
人を裁くなというときそうである、人間は人を裁けないのである。
人間の価値を計ることも人間にはできない、それは神がするともなる

投資と消費は簡単に分けられない,一体になっていることが多いのである。
パソコンを買うことは消費である。でもこれを買って使いこなす方がずっとむずかしい、買うのはいいけど使いこなせない、使いこなす手間も大変である。
だからパソコンを買うことはすでに消費ではない、投資なのである。
パソコンを使って何かを産み出すという側面の方が強いのである。
だから自分がしているパソコンの抽象画などもそうである。
パソコンのソフトを通して創作しているのである。

投資というとき何か株でもうけるとか投資信託でもうけるとかそういうものになるが
実際はその投資は具体的に何に投資しているのかわからない,ただ金を得てそれをまた消費するということなのである。自分の場合その消費は浪費ではないのである。
その成果を無料で提供している、それでプログを読む人が結構多いのである。
消費というとき日々に食べることなどは単なる消費であるが食べなきゃ生きていけないし活動できないのだからそれも浪費とはならない、それは生きるために不可欠なものだからである。浪費とは酒を飲んでただ毎日ぶらぶらしていたりしたら浪費になる。

そもそも消費という言葉が良くなかったのである。消すということは何か浪費であり無駄であるというイメージがあるからだ。消費は一冊の本を買うことでも投資になっていることが多いのである。まず知識を吸収しようとしない人は本も買わないのである。
普通のブルーカラーの人など本を買わないし読まない、そもそもそういう知識関係のものに消費しないのである。それより消費できないのである。
だから何か消費するということはかえって投資できる人なのである。
本を買うということは知識をえるために投資している、でも知識を吸収しようとしない人は本は買わないからである。もちろんパソコンなどもやらないのてある。

結局消費することが人生になっても有益だったとなる、最初パソコンは高価なものでありパソコン通信の時代がありその時パソコンを40万くらいで買った人は浪費したのかというとそうではない、パソコンの開発に協力して投資して発展させていたのである。
まずその時パソコンを操作すること時代特殊な技術者にもなっていたからである。
そこからパソコン通信が生れて今日のスマホなどに発展したのである。
だからまずパソコンを買うことはすでに社会的にもパソコンを発展させる投資だったのである。

投資と消費は一体化していることが多いのである。自転車でも車でもただ買うだけであり消費するだけかともなる、でも車でも自転車でもそれは消費するためのものではない、様々な投資になっている、自分は自転車で買物しているから欠かせないものであり単に消費しているとか浪費しているとはならない、遊びに使ったからとしても浪費ではないのである。遊びにもギャンブルなどは違うが消費ではない、投資なのである。

要するに豊かな時代は金をいくら稼いでいるかで人の価値を決めない、そういう時代が好ましいとなる。なぜなら価値は多様であり金だけで人間の価値を決めることは問題なのである。ただ金の力は大きいからそれを指標としている、現実に金の力がこの社会では働くからである。
豊かな時代は投資と消費が分けられなくなる、仕事と遊びも分けられなくなる
そしてすべての価値を金で計れなくなる、そういう社会がいい社会なことはまちがいない、なぜなら人間の価値は多様だからである。
別に現実社会で金を稼がなくてもベーシックインカムのように自分のやりたいことをするそれは必ずしも消費にはならないのである。
そんなのんきな社会はありえないというがではなぜこんなに働かない人が増大していて社会が成り立っているのかとなる。老人をふくめて三分の一は直接金を稼いでいるように見えないからである。その代わり機械が仕事しているとかなる。

いづれにしろ消費という言葉が大きな錯覚をもたらしたのである。今の時代にあわないのである。消すということはマイナスのイメージしかないからである。
消費ではなく投資でもなく投費にでもなるからもしれない、投資+消費=投費になる。

資本を投じる、費用を投じるが投費になる

ただ費にはいい意味がない

「消費」「費力=力ヲ費ヤス」「費言=言ヲ費ヤス」「君子恵而不費=君子ハ恵ミテ費ヤサズ」〔論語〕
{名}ついえ(ツヒエ)。つかうための金品。もとでとなる金銭。支出する費用。「経費」「学費」「費用」
ヒナリ{形}つかいすぎである。よけいな。「辞費也」
{《解字》
会意兼形声。弗フツは「豆のつる+左右にはらいのけるしるし」の会意文字で、まとまった物を左と右にはらいわけること。拂(=払。はらう)の原字。費は「貝(財貨)+音符弗フツ」で、財貨を支払って、ばらばらに分散させてしまうこと。

この費を利用したことも問題である。この字の意味が消につながっていたのである。

他にもいい造語が必要なことは確かである。要するに時代によって不適切な言葉になるのもあるし廃れる言葉もある。だから常に言葉は新たに創造される必要がある。
同じ言葉でも意味も変わってくるのである。



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posted by 老鶯 at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2016年12月30日

一億総ひきこもり時代 (ネットがそうさせたのか、内面化文化志向の時代へ)


一億総ひきこもり時代

(ネットがそうさせたのか、内面化文化志向の時代へ)


仕事や買い物などで外出する人の割合はこの30年間で最も低くなったことが国土交通省が行った調査でわかりました。国土交通省は高齢化に加えて、インターネットの普及などで20代をはじめとする若年層が外出しなくなっていることが影響していると見ていますhttp://saigaijyouhou.com/blog-entry-14852.html


交通渋滞とかほとんど遭遇しなくなった 
クルマ自体少ないんだろな

買い物で外行くとろくなことが無いからな 
目当ての商品がない店とバカな店員、クソみたいな客 
通販で買うのが一番良い

まあ近場なら出るけどそれ以外はネットの方が楽だからね

観光地はそれで避けるようになった 
この前、沖縄本島に寄ったら中国人だらけで駄目だと思った 
観光客だけでなく店員も中国人になってしまった 
場所によるけど旅行はオワコンだね

外出ても金が減るだけで、つまらないしいいことないし。 
ネットしてるほうが金使わないし楽しいし 


外出しないとかなら旅行でもそうだが老人ならわかる、でも若者もそうなっている、それはなぜか?
インターネットの影響が大きい、買物でもコミニケーションでもネットでする
ネット通販は便利すぎる。この前も掃除機買った。
1014年型だけど十年前以上の使っていたからいいものだったし安かった。
量販店で見ても最新式で高くなる、それと自分が一番困っているのは車がないから配達になると有料になる、それで通販がほとんどである。
まずレビュー便利である。レビュー見て買えばほとんどまちがいない
量販店で買ったレンジは3万したけど一万で良かった、いろいな機能は使えなかったからである。
これも店員が売りたいものをすすめるからこうなる。
使った人が一番親切だし正直だし知っている

インターネットは確かに操作するのがめんどうで若者向きだと思っていたがネット通販とかなると老人向きなのである。ボタン一つで何でも配達されるからである。
本でもないものがない、電子本ならこれはまさボタン一つで即座に読める
だから情報的に昔のように都会も田舎もないのである。
だから今は老人にとってはいい時代である。もちろん老人は死ねとか若者が言っているけど老人は大切にされないけど何でも便利だから老人は部屋を出なくても用がたせる
遠くに行かなくてもいいから老人にとっては今の社会は過ごしやすい

第一老人は消費しようにもできないのである。消費が実は投資であると考察したとき遊ぶのだってそうである。遠くに行くのが億劫になるのだ。それは老人であれば当然なのだけどそれが若者でもそうなっていることが現代的でありこれは社会にとっては活気のないものとなりいいものではない、ネットだけでこもっていると本当の自然でも社会でもふれられないということがある。このままゆくと日本は発達障害の人間であふれるかもしれない何かもっと若者はバイタリティあるものだからである。それはとてもインターネットだけでは発散できないだろう。

ただ時代としては若者は金がないとか車にも乗らないとか何か内向きにならざるをえない状況が作り出されているのだ。それはまさに若者の老人化なのである。
老人はたいがい内向きになる,だから外向きの消費はへる、内向きというとき家で過ごしやすくするためにリホームするとかバリアフリーにするとかに金は使う
でも外向きには金を使わないのが普通の老人である。
でも逆に現代では60代で元気だからかえって山は老人に占拠されているとかにもなっている
そういう所でも老人が主役になっているのも高齢化社会である。

自分はもう旅行をしたくない、何か介護とかで消耗して疲れたのである。
日本は若者ですら外出や旅行を嫌うというとき人が多すぎるし今や外国人の観光客も多くなると嫌だとなる、それは普通は若者だったら障害にはならない
でも東京のような人ごみに行くのは今は嫌である、あれだけの人を見るだけ疲れる
もともと自分にはそういう性格だった、でも旅行だけは全国でも外国でも60までしていたのである。
これからもしようと新しいザックを買ったりビデオカメラ機器を買ったりしたがそれも消化できない、使いこなせなくなったのである。
つまり老人は物を買っても消化できない、使いこなせなくなるのである。

どっちかというと知的なもの本を読んだりするのはまだ向いている、老人は内面的なもの内省するのが向いているからだ。老人は引きこもりが向いている。
でも若者がそうなることはやはり社会的に活力が衰退してゆくだろう。
それは若者が老人化していることなのである。
ともかく家の中で何でも用せるとういことは老人にはいいが若者までそうなると社会全体の活力は喪失してゆく、ただ現代は内面化してゆく中世化してゆく時代ともいわれる
江戸時代のようにヨーロッパの中世のようになってゆくとも言われる
だから時代の流れなのかとも思う、ただ日本は活気がなくなり衰退してゆくというときそれは日本の未来にとっていいものではないだろう。

ふりかえると団塊の世代は恵まれていた。自分でも旅行したときは外国人などほとんどいない、旅行しやすい時代だったのである。それが今は日本人が日本を旅行しにくい時代になったのである。これもいいようで日本が観光客で稼ぐという三流国になってゆく兆候なのだろう。
ただ高度成長は活動の時代でありそれが終わり内面化する内省化する時代は宗教でも哲学でも芸術でも興隆する時代になる、宗教といってもカルト宗教は実は高度成長時代の貪欲なもの現世利益追求したものであり時代的なものだった。
これからはそうした物欲とかぎらぎらした欲望の宗教ではなく内面化した宗教になる
だからあんな徒党を組んで活動して政治化はしないだろう。

つまり戦後は何か団塊の世代とともに社会もあった、高度成長もそうであったし老人になると今度はやはり高齢化社会で内面化に適した社会となっているのである。
だから若者までそうした団塊の世代の調子に合わせているともなる
何か欲望むき出しのぎらぎらしたものはないが精神的に成熟した価値を求める
それは結局日本だったら江戸時代への回帰でありヨーロッパだったら中世への回帰になる老人化ということはまた成熟化した内面的価値を求める社会なのである。
戦後は何か騒々しすぎたのである。これから落ち着いて真の価値あるものを求める、作り出す社会になる。文化や哲学や宗教の時代になる、それは江戸時代に回帰したように落ち着いて老人にはいいとかなる、若者にとっても落ち着いて真の価値を追求できる社会になればいいとなる、経済成長だけを求める時代はすでに終わっているからだ。


posted by 老鶯 at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

今年起きたことで反省すべきこと (マスコミ報道に操作されなかったトランプの勝利など)


今年起きたことで反省すべきこと

(マスコミ報道に操作されなかったトランプの勝利など)

イギリスのEU離脱でも意外だったとみんなが言う、そのみんなとは誰のことなのか?
それはマスコミでそう言っていたからみんなが言っているとなっていたのである。
第一なかなか一般の人が外国の事情に詳しくないからマスコミで報道すればイギリスの
EU離脱はないと見るのである。

トランプの勝利でもそうだった、最初は泡沫候補と言われていたから良く都知事などでもそういう人が発明王のなんとかとか出てきては消えてゆくだけである。
そんな人なのかなと一般の人はみる、特に外国のことだから余計にそうなるのである。

でもこういうことは別に日本でも常に起きていたことなのである。
それはここで追求してきた原発の安全神話がマスコミと一体化して作られていたとういことである。多額の宣伝費をみんなもらっていたから東電の批判も原発の批判はどこもしていない、結果的には事故などおこるわけがないとなっていた。
それはマスコミと権力が一体となり作られたものであった
それがもろくも崩れ去ったのである。

だからマスコミの報道で世論が形成されたように見える、でもマスコミはまずマスコミで自社で判断しているのである。つまりイギリスはEUを離脱しないと判断している
何か正確な情報でまたは正確な世論調査でもない、マスコミで判断して報道している
この辺のことで原発避難者のことを自分は批判したがそれはNHKでまず避難者側につくということで番組を編集していたのである。
補償金で地元でも不満な人たちがいても避難者側についてかえってそういう不満を言う人を放送の中で批判させていたのである。
ただなかなかわかりにくいものがあり気づかないとういこともあった。
自分は地元だから変だなとしてプログに書いたのである。

要するにその土地の実情というのは外から見るとわかりにくいのである。そのことから全国に放送するときなんだ原発避難者が仕事を求めたのに断ったり仲間に入れないとか冷たいとみんな見る、不満に思っている人には何も言わせないからである。
だからマスコミでも報道は中立というのはありえないのである。
なぜならマスコミ自体がまず方針を決めてどっちの味方になるか決めて取材をして放送しているのである。

イラク戦争でも石油まみれの海鳥を写して世界中に放映した結果、イラクはひどいと世界で思うようになった。それはやらせでありその報道は事実でもなかった
アメリカのプロパガンダでありそのために海鳥が使われたのである。
そういう放送が意外と多いのである。自分たちの有利なようにプロパガンダとして海鳥が使われたように人間すら使われる、現実にシリアの戦争でもどれだけフランスでも飛行機で爆撃して子供まで死なせているかなどは報道しないという批判があった。
戦争なんだからフランス自国でも殺されてもしかたないという意見の人もいたのである。つまり放送は中立はなく常に一方的になるのである。
世界だとアメリカ寄りになるしヨーロッパ寄りになる、ロシア寄りにはならないのである中立の報道などないのである。

本当になぜ泡沫候補のトランプが大統領になったのか信じられないとなる
そうさせたのはマスコミだったのである。アメリカ国民の実情は違っていた。
その実情をみていた人はわずかだがトランプが大統領になることを予言していた。
でもアメリカの実情はどうなんだというとき外国だとわかりにくいのである。

いづれにしろ為替でも急に年末に上がったりしたのも予想しえなかった。トランプが大統領になれば円高になるとか株が下がるとか言われていた。
クリントンならそうはならないとクリトンの価値を予想していた。
ところがそうすでにマスコミがクリントンに大統領になってほしいからクリントン有利と報道していたのである。
「トランプ」あれは何なのだとか外から見るとなっていた。
そう思わせたのはマスコミの報道だった。
ただ今回はSNSのインターネットが底辺層にも普及してその影響があったとも言われる
でも英語など普通は読めないからその実情を知ることは容易ではない
たから外国だと余計にマスコミのかたよった報道を信じることになる

原発の安全神話もそうである。まず原発は安全だということしか報道しないようになっていたのである。それは権力と一体化してなっていたから一般の人も安全だと思い込まされていたのである。日本の技術は優秀だからチェルノブエリのようにはならないとかそういう安全神話を信じさせられていたのである。
だから原発が危険だという情報は極力出てこなかったのである。それはタブー化していたともなる、まず報道できないのである。

ともかく報道でも何を信じて何をみるべきかわからないのである。
情報がマスコミでかたよっているからそのかたよった情報の量が多いから自ずと今回はトランプでもそんな人がなぜ大統領になったのかという驚きになる。
要するにアメリカ国民も多様でありその多様なものをは報道しえない、マスコミの意向でクリントンが大統領になってほしいからその側について報道していたのである。

この辺でも実際は津波の被害者もいるし原発の被害でも避難民と化した人とそうでない人の左が大きいのである。まず補償金にすると格段の差があるから不満になったのである。そういう複雑な事情は外からわかりにくいのである。
だからNHKではそうした複雑な事情を報道するよりまず避難者側についた報道することを決めて取材していたのである。

トランプの勝利でもマスコミの報道する側の意向でトランプなどとるにたらない人だとされていたのである。それは原発神話と同じである。
事故なんか起こりえよがない、そんなことを言う奴は許せないとまでなっていた。
原発で働いている人は上の人から常に安全だと言わせられていたし地元の人にもそう言っていた。だから原発で働く人が多いのだから地元でも安全ではないとは言えなくなっていたのである。そんなことを言うと地元で村八分にもなりいずらくなっていた。
原発で給料をもらっているのだからどうしても東電側につくからである。

だから報道にはマスコミの意向であり国民の意向が世論がどうかはわからなかった。
いかにもマスコミが世論のようになっていたからである。それは操作されたものであり国民は別な意向をもっていてそれが現実の選挙の結果となったのである。
それでマスコミの報道でも一旦疑問にもつということが必要になる。
様々な見方や知識が判断するには必要になる

でも情報量が多いと人間は今度は判断するできなくなる
インターネットのように無限に情報が噴出するともうとても読めないのである。
ジャムでも種類が何十種類とあるとどれを選んでいいかわからず買う人がへるという。
もしその中の5つつくらから選べとなるとき買う人が増えたという
種類が多すぎると買うことすらできなくなるのだ。
スーパーでは種類が多いと本当に買うのに一苦労するのである。
だから情報にどう対処するのかは本当にむずかしい。
それで結局一方的洗脳によるナチスとかカルト宗教団体などが世間を席巻する。
題目や念仏を唱えればいいというのが一番簡単だからである。
ハイルーットラーが一番わかりやすいからそれによって煽動されて国まで滅亡するとまでなる。

情報というのは噂話でもそれが大きな影響を及ぼす時があるから怖いのである。
流言蜚語も怖いのである。情報の取り扱いを誤るとそれが致命的にもなる。
それは国単位だけでなく個々人の単位でも起きている、様々な情報の嘘に惑わされる
でも国際情勢とかなると自分だけで判断するのは本当にむずかしい、専門家でもはずれている。そうなると何に頼り判断すればいいのかとなってしまうのである。
ただ全面的にマスコミとか人の言うことでも信じないということが防衛になるかもしれない、ネットでは常にマスコミで報道したことをそんなことはないと否定するのが多い、事実でもないということを言うのである。
するとそうなのかなと考える、それだけでも何か一方的にマスコミとかの他の判断に頼らないことにはなるのである。
でも今回のトランプの勝利というのは誰も予想しえなかったというときいかに専門家ですらわからないのだから一般の人が知ることはできなかった。
裁判でもそうだが双方の言い分を良く聞くということが大事になる。
そしてわからないことは簡単に判断しないことだともなる。
簡単に白黒をつけるとういことが危険だとなることは確かであったのだ。





posted by 老鶯 at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年12月31日

利害関係を離れないと公正に判断できない (原発事故問題もそうだった)


利害関係を離れないと公正に判断できない

(原発事故問題もそうだった)

人間は客観的に見ること公平に見ることが一番むずかしい。それで判断が誤る
利害関係にあるとまた公平に見れない、だから親族だと証人にはなれない。
人間はまず損得を考えて判断する、人間の関係も損か得かしかなくなる
それで金の切れ目が縁の切れ目になる。
みんなそういうことを嫌というほど経験しているだろう

この辺で原発事故で補償金でもめたのもそうである。
小高は南相馬市で一番もらっているのに浪江だと5千万多くもらっているとか今度は浪江は浪江で放射線量で分けられたから補償金も違っていてもめる
それで一体感が得られなくなった
南相馬市の場合は小高と原町と鹿島に分断された

自分は30キロをはずれていたが補償金は一人70万はもらった、でもそれだけである。
それか多いのか少ないのかはそれぞれの判断である。なぜなら隣の相馬市だと6万くらいしかもらっていないからだ。
自分も利害関係があり発言したから公正とはならなかったかもしれない
でもそうした利害関係からはずれる所にあり比較的客観的に公正に見れる場所にあった。これが原町だと結構もらっているじゃないかとなりなかなか発言しにくくなった。
それだけ利害関係になると公正に見れないし外からも見られないのである。

要するに人が人を裁けないのは公正に見れないからである。何かしら利害関係があり公正に見れない、国同士の争いでもすでにどこかの国に属していれば利害関係があり自分の国を正しいと見てしまうのである。
原発事故でも今でも東電は悪く言えないというときそれだけ原発で東電で働いていた人が多いからである。本当に聞いてみるとこんなに原発で働いていたのかと驚く
飯館村など関係ないと思ったが十個実際に比曽などで働いていた人がいたのである。
浪江の室原もそうだがそういう山の辺鄙な場所は働き場所を求めて原発でかえって働いていたのである。何しろ給料が高いからである。

自分は東電とは直接何の関係もしていない、でも報道関係では福島民報でも民友でも原発を推進する側であり東電から宣伝費ももらっていたのである。こうした報道関係はとても原発の危険性など追求できない、まずマスコミのほとんどが東電から宣伝費をもらっていたからその危険性を追求できなかったのである。
ただ新潟日報だけは巻町の原発に反対して作らせなかったとある。ここは本当に例外だったのである。でも現実にそういうことも報道関係でできたのである。

マスコミは公正に見て報道すべきでもそれができない、トランプ大統領になったときもそうである。公平に見ていないからそうなる。ヒラリー派から資金が流れていたからだともなるのか?ヒラリー派資金が豊富だった。トランプ派は少なかった。
宣伝ではヒラリーが格段に勝っていた、でも負けたというのは意外だったのである。

自分がある程度公正に原発事故で見れたと思うのはそういう場にいたからである。
利害関係がそれほどない、補償金もらっていない、30キロからもはずれている、何かそれで中立的立場が維持できたのである。
もし避難民になっていたら避難民を批判などできない、自分自身が避難民なのだから悪くは言えないのである。補償金だってもらたいとなってしまうからである。

ともかく人間は利害関係で判断を誤る、人間は損得から離れられないからである。
もし損得から離れていれば別に学者でなくてもそれほど知識がなくても普通の人でも意外と正しい判断できるかもしれない、つまり欲がないということが正しい判断になる
欲をもつとまた正しい判断ができなくなる
人間は欲から損得から離れられないから正しい判断ができないのである。

神が偏(かたよ)りり見ないというとき人間が必ず何かしらの利害関係の中で生きている、損得を離れてありえないからである。偏(かたよ)り見ないというときそれができるのは神だけだとなってまうのである。
科学者だって技術者だって原発は危険だと知っていたが政治家とかの圧力があり言えなかった。度々軽い事故があっても報告されない事もあった。
原発は常に隠されてきたのである。それが権力をもっていたからできたのである。
それが積み重なって大事故にもつながった。

だから報道の問題は争っていれば双方の言い分を本当は言わせる事である。
裁判ではともかく争っている当事者の言い分は言わせているからだ。
てもそういうことが社会で成されていない、マスコミは一方的報道でありマスコミが白黒を決める裁判官になっているのだ。
ただネットでは絶えずそれが本当なのとか言う、そうするとそれだけでもそのまま受け取らないという習慣が生まれたのである。今まではマスコミの報道に反論の余地などないからである。

いづれにしろ原発事故の失敗は後々の教訓になった。補償金問題が起きたのも広い範囲が被害にあうから狭い範囲で勝手にできるものではなかった。
そして事故になったからとその狭い範囲だけが特別扱いになったのも補償金をもらったのも問題になった。
もし広い範囲で決めていたら責任もうまれて共同して助け合うとういことにもなったろうそうなればまたその狭い範囲での補償はかなり少ないものとなるから事故になったら損だと原発は簡単には作れないとなっていただろう。
リスクが大きすひぎるからだ。リスクが大きいと株でも投資信託でもためらうからである外から見て原発事故の避難者をみて確かに被害が大きいとしても補償も手厚いからかえってねたみまで起きてしまったのである。

今年も延々と原発事故の追求をしてきた、来年もそうなのか?
来年は南相馬市では3月なのか、仮設には避難民がでる、そして復興住宅にまた浪江とかの人が多数入ってくるから変わってくる
だから原発事故の問題は廃炉に30年かかるとかプルトニウムが二万年消えないとかその先が長いのである。自分の生きている間だけでもこの問題は尾を引いて遂には死ぬがその後もつづいているのが原発事故だったのである。
posted by 老鶯 at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連