2016年12月09日

飯館村考(高倉から長泥、比曽への道) 江戸時代から原発事故までの考察)


飯館村考(高倉から長泥、比曽への道)


江戸時代から原発事故までの考察)

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●江戸時代の飯館村

飯館村というとき歴史がそれなりに古い、大きな杉木立の居久根があり氏神を祭る社があり中に古い鉦が下がっていて延享2の年号と先祖の菅野伝左衛門の銘がありました。

1747延享 
1750寛延 
        1751宝暦 
1764明和 
1772安永 
1781天明 

1747延享 から歴史が始まるから古い、比曽はヒソであり焼き畑に入った場所である。佐須もそうである。なぜなら草野が中心部でありそこからまた離れている山中にあるからだ。佐須もそうである。地名というのは何か人間の営みと自然と関係して命名され残されている。
ただこれは何か地図を見てもわからないのだ。飯館村自体が本当に広いから地理をわかるのは容易ではない、それは狭い地域でもそうなのである。

飯館村は中心部の草野と飯樋(いいとい)とその周辺部から構成される
草野は臼石とか二枚橋とかも含まれる、館東とか地名があるのももともと大館と飯樋が明治以降合併して飯館村になった。
草野は最初は伊達氏に半分くらい属していた。飯館で何か伊達と争いがあった。
戦山(いくさやま)とかあるのはそのこととかんけいしているかもしれない

大倉は鎌倉から来た南相馬市の鹿島区の岩松氏が大倉を所領としていた。館とつく地名は中世の江戸時代の前の館でありそこが城の役目を果たしていた。
だから館、楯とつく地名がある所は古いのである。
南相馬市だと今の市街を形成した原町の市街は雲雀が原の野馬土手があったところで原っぱだったのである。あそこが中心部ではない、その周辺の深野とかその他が古い場所である。
郷土史というとき村の新旧とか時代を知ることがまず第一なのである。その市町村でどこが一番古い場所かである。
飯館村の場合は草野になる、なぜならそこは上田が多かった、いい田が多かった。
飯館村というと山が多いから山だけのように見えるが広い平地もありそこに田が作られ米がとれた。一番とれたのは草野地域でありそれでそこに人が一番多く住み中心地になった

次ぎに飯樋が飯館村の二番目に人口が多く集中したところである。江戸時代には塩の道の番所があり60人もの役人が勤めていた。そしてそこで伊達藩と相馬藩が森林資源をめぐって争いがあった。玉野では伊達藩と米沢藩と相馬藩が三つ巴で森林資源を争ったことは有名である。飯館村は伊達藩と争う境界であり境目付とか横目付とかが多いのである。
江戸時代でも村と村は自給自足体制で合同しないから境畑とか境がつけば何か村と村の境だった。
飯館村はそうした境の土地だから比曽でも川俣の山木屋に近くそうした争いが生まれる土地だった。山木屋となると三春藩の領域とも接する、山木屋から三春へ自転車で行ったことがあり三春に通じているのである。
ただ飯館村は広いからふりかえってもその地理がわからなくなっている
大倉から佐須から霊山の道はわかりやすいが比曽はわかりにくいし頭の中で位置が混乱している。
高の倉ダムから道なき道というか森の中をゆく道がある。高の倉の奥に行ったら長泥であり通行止めになっていた。長泥は放射線量が高く住めない地域になっていた。
すると高の倉も放射線量は高かったとなる、国見山で7マイクロシーベルとあったからだ

●明治以降の比曽からも原町に通じていたトロッコ(森林鉄道)

明治以降の飯館村の歴史は今に通じる、やはり木材資源や石材や資源がある村としてあった。もともとは自給自足体制経済である。だから交通として馬を利用していたがその飼料となるのは草でも山から供給できた。今なら車でもガソリンが必要になる
馬が足となっていた時代は長い、だから馬頭観音の碑が今でもいたるところにある。
それは明治以降のものであり大正時代以降も多いのである。江戸時代はかえってまれなのである。馬車屋があったように運搬はもっはら馬だったのである。
つまり馬は野馬追いのように軍馬ではなく運搬用とか耕作用として使われていたのである
それが変わったのはトロッコが森林鉄道ができたときからである。この森林鉄道は網の目のように全国にめぐらされていたのだ。例えば浪江の高瀬川そいの岩をくりぬいて葛尾村の落合まで通じていた。それだけ木材の需要とか石材の需要があったためである。
それは原ノ町機関区から蒸気機関車で東京に運ばれたのである。
常磐炭鉱だと石炭がエネルギーとして運ばれた、それから森林でおおわほれているから飯館村は炭焼きをした人は金持ちになり羨まれたとかある。
街でも炭で煮炊きしたり暖をとっていた、自分の家でも囲炉裏があったのである。
すると炭の需要が大きいから山村でも生活できていたのである。
それで大倉の老婆が「わたしは相馬の女学校に行っていたんです、鹿島の親戚の家から鉄道で通っていたんです」と言っていた。
相馬の女学校というとき入れる人は相当な金持ちでありほんのわずかしかいなかった。
たいがい尋常小学校くらいである。自分の姉は頭が良かったから女学校に入りたかったができずに看護婦の免許を東京でとった。看護婦もその頃簡単になれない、東京まで行って試験を受けねばならなかったのである。
まず相馬の女学校出たというだけでこの辺では大学を出たという感じになるお嬢様になるその大倉の老婆はそんな感じは全くなくなっていた。
ただ当時山だと金持ちがいた、山持ちは金持ちになっていたのは木材が利用されていたからである。

いづれにしろこのトロッコはいたるところにあり目だっていたのである。
それで何か自分の姉が葛尾村の親戚に行くとき歩いて行ったことを何度も話していた。
そこでもしきりにトロッコのことを語っていたのである。
そのトロッコで面白いのは高の倉に鉱山があり石炭を掘っていた、比曽の人が働きにそこに行った、
芥川の小説にも「トロッコ」という題の小説を書いている、トロッコはどこにでもありなじみがあった。石炭を掘り出してもトロッコで積み出していたからである。

塵労じんろうに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

まさにそのトロッコの道は細々と残されている、その森林鉄道をたどって探すマニアがいる。この時トロッコは坂は馬でひっぱった。原町までは坂道が多いから下るのは楽だったそして街にでて買ったのは米だったという、だから米には不自由しなかったという。
それは闇米で帰りは藁に隠して運んだ、馬にひっぱらせて上って行った。
まだ馬はかなり使われていたのである。森林鉄道というときトロッコであり人力だったのである。
ここで興味深いのは飯館村が米がとれていても比曽とか長泥となるととれるのはわずかでありその米は原町から運んだものだのであった。
要するにあのような山中の村でもなぜ生活がなりたつかというと外との交流があったからである。一見孤立して自給自足に見えても確かに水とか炭とか木材とかで自給していたが塩の道があったように外部との交流なしでは山村でも暮らせないのであるる。
自給自足の村だったというとき基本的なものはそうだが全部はそうではなかった。
その辺が誤解しやすいのである。

うちの母は腸捻転で亡くなったけど亡くなるとき「おなかが痛い痛い」と言ってトロ(トロッコ)にのせて原町に下って各医者を回ったけど手遅れでトロに乗って帰ってきた。その時は死んでいた。
(もどれない故郷ー長泥)

こういう話は全国にあったろう。辺鄙なところでは病気は死につなかる。、北海道の雄冬という地域でもおんぶして子供を連れてゆくうちに死んでいたとか不便な場所はそうなりやすい。救急車もない時代だったのである。
電話一本で救急車が来るということかいかに便利であり助かることか今になるとそのありがたみを感じないのである。人間はそうした過去の苦しみを忘れるのである。
ここでは原紡で働いていたことも書いてある。その時原町紡織は軍需工場になっていた。自分の母親が働いていたときは糸取りであり絹織物を作っていた。
パラシュートとか帆布とか軍服を作っていた。
原紡というときこの辺の中心的役割を果たした工場だった。

今になると飯館村が原発事故で住めなくなったというときやはり原発で働いていた人もいたし山中でも山菜だけをとって暮らしていたわけではないのである。
大内村でも原発から近いから三分の一が原発で働いていたから成り立っていたのである。そこが何か誤解しやすい、今は木材でも国内のものを使わないから何か山村と街とか都会とのつながりを感じなくなっているのである。
そうなると山村はなんであるんだ、都会の人が税金をはらい馬鹿高いインフラを維持しなくてはならないとなり不満になる。
別に炭をエネルギーとしていれば山の清水で水道も使わないし最低限の生活は維持できるそれが今のように何でも電気になれば車でも一人一台もつとなればガソリンも必要になる飯館村だってとても金がないと生活できないのである。
まず飯館村だったら自分は住めない、車がないから住めないのである。買い物すら車がなかったらできないからである。

最近自分はユニットバスを作ってもらったけどこれも水の使う量が増えたりガスも使う量が増えたりやはりエネルギーを多く消費するようになる、でも風呂であたたまってあとは眠れるからいいし運動したあともあたためるといいとなり一旦こういう便利なものを使うとやめられなくなる、車でもそうである。

●飯館村の贅沢は一軒一軒の家が森につつまれていた

ただ自分の場合、別に飯館村に行ったとしても原発事故前はその生活のことを考えなかった。自分が飯館村と一番親しい場所は大倉から入った人も住んでいない森となっていた地域である。そこには森に隠され清流が流れていたのである。
あそこは人の手が入らない神秘的な場所だったのである。そこには大石があり春にはキクザキイチゲが残る雪のように咲いていたのである。
そこが自分にとって一番印象的な場所だったのである。
それから高の倉ダムから長泥や比曽に出る場所も長い森の道で暗い、夏でもそこは影なして涼しいとなる。そういう場所があることが何か心に安らぎを与える
それをイメージするとき心の中にやはりその奥深い森の影が反映されるのである。

飯館村の一番の特徴は何かというとき、何か目だったものがないのだが深い森の村だったとなる。そして一軒一軒が森の中につつまれるようにあった。
それが贅沢だなといつも見ていたのである。都会のようにこの辺の街でも街になると家々が接して狭いからである。
一軒一軒の家が広い庭と森につまれてあったのである。だからそのことがかえって贅沢なのである。
東京辺りだと電車にのるのも満員電車でぎゅうぎゅうづめになる、田舎だったらこの辺だったらがら空きとかなる、それが贅沢なことなのである。
ただ反面経済的活力はなく「死者の眠る街」と書いたが生者も眠る街になってしまうのが問題なのである。田舎の方がエネルギー効率が悪いというのもそうである。
人が集まりすめばまとめて住めばそれだけエネルギーは効率的に使える
飯館村のようにあんなに広いところにぽつんぽつんと家があり住んでいればエネルギー効率は悪くなる,でもそういう場所に住むということは都会から見れば贅沢なのである。

田舎の良さは本当はそうした自然と一体となり生活を充実させることにあった。それは別にそういうまでもなくそういう暮らしをするほかないのが田舎だった。
最近だからここに一本の樅の木がある、その陰に隠されるように家がある、街から離れているから農家だとなるが今は必ずしもそうではない、でもこの一本の樅の木が真っ直ぐにたっているとその陰に家があるとき村や町でも支えているのは農家であったとか意識する飯館村などはそうした道々でも木がいくらでもある。
そうした自然と一体化するアイディンティティ化するのが田舎なのである。

一本の樅のすぐに立つ冬の陽の没りて陰にそ家のありしも

樅の木は田舎ではどこにでもみかけるのである。飯館村では奥の誰も入らないような所に重厚な樅の木があった。それは古い神殿の石の柱のように見えたのである。
飯館村のような所になると一軒一軒の家に重みがでてくる。存在感がある。
都会にはとてもそうした存在感を豪邸に住んでももていないのである。
家はなにか家だけでは成り立たない、見晴らしのいい場所とか自然が反映する場所に建っていれば価値は百倍にもなる、それが都会には得られないのである。
飯館村には古い家が残っているというときそれは森林があり木材が豊富だから作れた。
自分の家も木材は橲原からとられたもので柱もいいものだという、飯館村などになると大黒柱になりさらに重みがあるものとなる
だからそういう家から離れるのは捨てるのは嫌だともなる。

●万葉集の歌から飯館村をイメージする

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

右は、聞かく「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)の御製(おほみうた)なり」といへり。

板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む

黒木取り草(かや)も刈(か)りつつ仕(つか)へめど勤(いそ)しき奴(わけ)と誉(ほ)めむともあらず

これらの万葉集の歌は飯館村をイメージすればイメージしやすいとなる
現実にそういう古い家が残っていたしその材料は身近にありとることができた。明日にでももってこようというのはそのためである。
そういう自給自足の中での生活の充実があった、でも反面すでに自給自足でもそれが豊だと意識しないということもある。
その土地の黒木でも草(かや)でもとって働き仕えてもほめてくれないというのはそのことだろう。何か別なことならほめるとなる、現代なら米などありあまっているとか米を作る人などほめない、余って困っているんだとかなるだけなのと同じである。
減反政策などもそれと通じている、つまり都となればそれだけすでにそうした黒木であれ草(かや)をとっても価値ある労働とはならない、別なものが価値あるものとなる。
それは今なら車とか電気製品とかいろひいろありすぎるから米は価値がなくなる、木材でも外材になり価値がなくなる、それで本来の価値が自然と一体化した生活の価値が低下させられる、それが高じて原発を作り事故になり飯館村のような所が最大の被害地になったのである。

●までいなとは(真手とは)

飯館村ではまでいな村作りを盛んに言っている、でもこのまでいなとは何か?
ていねいにおそろかにしないということである。
片手だと何か軽くなるが両手だと真心をこめて対処するとなる
ただこれはどういうことなのか良くわからない面もある。

「左右手」を「まで」と読ませています。この謎を解いて下さい。


(答え)「ま」=「真」で「完全なもの」。「左右手(両手)」で「真手」となるわけです。普段から両手で何かすることを「真手(まで)」と言っていたのでしょう。それを「〜するまで」という助詞の用法に当てはめたのです。

「諸手」「二手」で「まで」と読ませています。

◎左右の臣。羽の臣。鏡臣と剣臣。

『あまのこやねと ものぬしと まてにはへりて みちものへ』ホ27
『おしくもと くしみかたまと まてにあり たねこはみこの おおんもり』ホ27

「まつ(和つ)」の名詞形。
ここでは「A: 合う/合わす・匹敵する・対になる」などの意。
また「まつ(和つ)」+「て(方・手)」の合成。

原文: 大海尓 荒莫吹 四長鳥 居名之湖尓 舟泊左右手

作者: 不明

よみ: 大海(おほうみ)に、あらしな吹(ふ)きそ、しなが鳥(どり)、猪名(ゐな)の港(みなと)に、舟(ふね)泊(は)つるまで

・・・・まで(真手)は待つことにも通じている、しながとりとは何か悠長に待つものの例えかもしれない、嵐よ、吹いてくれるな、猪名(ゐな)の港(みなと)に、泊つるまでは吹いてくれるな、何かそうした祈りみたいなものがこの歌にはある。
歌は祝詞でもあったからそういう言霊の祈りとしての歌が感じられる
両手を合わせて祈る姿なのか、真手というとき真直 (まなお )とかもあり大和言葉の原始性があるのかもしれない

これを現代的心境にこの辺をイメージすると津波だ原発事故で避難したり翻弄されたが嵐にあったが港に船は泊まりそこで休みたいともなる
ただその港に住んでいた村や町に帰れないということにも通じている
ともかく万葉集には一つ一つの歌に深い意味があり日本の自然と一体化したもので同じものが作れないことにある。

飯館に我が帰りたしも帰れじに時はすぎゆく今年も終えむ

こんな心境にもなる、いづれにしろ飯館村がどうなるのか?草野辺りにコンパクトシティ化タウン化して生き残るのか?
二千人くらいの規模蜷というがそれまた村を維持することは容易ではない、老人は帰りたいと言ってもそれを支える若い人が流出したことが致命的なのである。
それは限界集落とにているのである。飯館村だけの問題ではない、全国的な地方の衰退が極端なものとしてこの辺で津波と原発事故で起きたのである。

タグ:飯館村
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2016年12月10日

津波原発避難者に通じる万葉集の歌 (日本人の心は万葉集にあった)


津波原発避難者に通じる万葉集の歌


(日本人の心は万葉集にあった)


大海(おほうみ)に、あらしな吹きそ、しなが鳥、猪名(ゐな)の港に、舟泊(は)つるまで

・・・・まで(真手)は待つことにも通じている、しなが鳥とはカイツブリで鴨のことである。嵐よ、吹いてくれるな、猪名(ゐな)の港に、泊つるまでは吹いてくれるな、何かそうした祈りみたいなものがこの歌にはある。
歌は祝詞でもあったからそういう言霊の祈りとしての歌が感じられる
両手を合わせて祈る姿なのか、真手というとき真直 (まなお )とかもあり大和言葉の原始性があるのかもしれない
鴨はいつも群れて同じ場所にいる、この辺では川にいて冬の景色となる
仲間といつもいるからなじんだ仲間と一緒にいたともなる

これを現代的心境にこの辺をイメージすると津波だ原発事故で避難したり翻弄されたが嵐にあったが港に船は泊まりそこで休みたいともなる
ただその港に住んでいた村や町に帰れないということにも通じている
鴨は故郷に一緒に過ごしたなじんだ仲間とかイメージするのである。

この歌は深く読めば確かに空間を距離を歌ったものだが時間にすれば人生としてみれば人間は誰でも嵐の日があく、苦しい日がある。いくら嵐が吹くなといっても吹く、それが津波とか原発事故で避難者になったことである。
確かに老人になって80くらいになってみればこういう漂流者のようになることは苦しいとなる。

ともかく万葉集には一つ一つの歌に深い意味があり日本の自然と一体化したもので同じものが作れないことにある。
この歌もそうだが不思議は何かこれには大海があり広大なものを感じる。でもこの歌に歌われた舟は当時どんなものだったのか?
非常に貧弱な舟だった。今だとイメージできないような舟であり大海に出れば今の十倍とかも危険なことだった。だから祈りは切実になる。
過去をふりかえるとき常に便利な現代からみるから誤解するのである。

魂合わば 相寝むものを 小山田の 鹿猪田守るごと 母し守らすも

これも万葉集独特の表現である。魂合わばというのがそうである。魂合うというとき原始的人間の感情である。何か狭いところだと常にこういう現象が置きやすい、本当にその人を思うときその人が現れるのである。
それは常に身近に住んでいるからであり今はみんな離れて住んでいるからそういう経験が少なくなった。
でも離れていても思う人があればそれは距離と関係なく魂合わばという現象が生まれるのが人間である。思いというのは距離と関係ないからである。

これを原発避難者とかと関係あるのかとなるとある、

小山田の 鹿猪田守るごと 母し守らすも

原発避難者は避難区域になったところは猿やイノシシや鼠に荒され放題になったからである。いたるところイノシシがほりかえした跡がある。猿に占領されたところもある。
つまり万葉時代になるとまだまだ野生の自然におおわれていたからそうなるのである。
その鹿や猪から田畑守るように母を守るというときまさにその子供が母を守るということなのである。

でもこの辺の現実は息子や娘は若い人は流出して帰らないのである。親を捨てたのであるただ母親が小高に残りたい20坪くらいの家を新しく建てた人もいた。それはまだ息子がいるからである。
納得いかないのはなぜ息子娘が若い人は簡単に故郷を親を捨てて出て行ったのかということである。放射能の影響があってもさそれだけでないと書いてきた。
それが一つの方便いいわけにすらなっていると、姑と別れて暮らした方がいいとか他にもあった。母を守るという気持もなくなっている時代ということもある。
親子の情も薄れたということもある。だから疑問はなぜこんなに簡単に故郷とか親を捨てられるのか?それはどうしても放射能の影響だけではない、なぜなら小高など別に放射線量など避難区域とは違い低いしほとんど影響ないのである。
だから小高が帰らないというときなぜ帰れるのに帰らないのかと要求が厳しくなるのである。
それはもう補償金もらって暮らせばいいということになったからだとも批判される
ただそのことを言うとお前は傷口に塩ぬって楽しいかとか小高の人はなる
そういうことは原発避難者全般にある。
被害はひがいとしてあるが補償金の問題は別問題になっているのである。
ギャンブルして遊んでいればあの人たちは何なのだと見るのは普通だからである。

要するになぜ避難者小高などでも帰れるのに帰らないのか
魂合わば・・・が魂が合わなくなったからである。
共同することがなくなったからである。心がもう分離してばらばらになり一致して復興できないのである。
それは避難区域だけではない南相馬市だったら市全体でもそうなったのである。
ともかく補償金では浪江町だろうがどこでももめているのである。
そのことにより魂合わなくなり分断されたのである。

家ろには 葦火焚けども 住み好けを 筑紫に到りて 恋しけ思はも  物部真根

この歌も原発避難者と何の関係があるのか?
これは相当に関係ある。なぜなら飯館村の比曽とかなると辺鄙な所だからである。長泥でもそうだろう。そこを通った記憶があるにしても自転車だとずいぶん遠い感じだった。
あの辺は飯館村でもはずれたところである。
でもそこに帰りたいというときそんな不便な所より今は補償金で金が入って福島市に家を買った人もいる、それで便利でいいじゃないかとか得したよなとか見る人もいる
でもそんな不便なところでもそこに住み暮らした人はまた別なのである。
つまり筑紫とは便利な福島市とか郡山市とかに住んだことなのである。
そういう便利な所に楽に住んでも 家ろには 葦火焚けど・・・と不便でも葦火をたいてもそこがなつかしいとなる。
万葉集となるとかけ離れた時代ともみる、今からすればどれだけ不便だったかしれない、第一葦火とはどんなものだったのかもイメージできない、ただ葦は繁っていたから利用したとなる。

いづれにしろこの辺は避難民などは特殊な立場に置かれた、漂流者のようになった。
第一故郷などは常にあるものであり家だってそうであり家族でもそうである。
そういうものは普通にあるものであり意識しないのである。
空気のようなもきになっている、でも一旦失うとそれを絶えず意識するようになるのである。
自分も家族をみんな死んで失ったときそうなった。
泊(は)つる港がなくなった。するとどういう心境になるのか?
大海を漂流している感覚になる、例え家があってもそうである。家はただ建物という物でありそこに家族がいなければそうなる、もし家がなくても家族がいればホームになる。ハウスとホームは違っているのである。家とは妻のことだというのもそうである。
おそらくホームとは故郷もホームランドであり家とかではないのである。
魂合わばという世界だった、それは生きている人だけではない、死者とも魂合わばということがあった。

現代は都会だとみんな漂流者、デラシネシアになっている。それは田舎でもそうであり人と人のつながりとか土地とのつながりとかうすれていた。
だからこそ一旦離散状態になったからもろくも解体したのかとなる
それは万葉集の時代とかとはあまりにも環境でも違ったものであるからそうなる
でもそうした心境はすでに万葉集時代にもあったから共通なものとして今に生きるとなるその時代から変わったものでも変わらないものが底流に流れまんようしゅうは価値ら
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スマトラ津波と原発事故も他山の石として見なかった (日本の戦争の敗北も原発事故も奢りの結果?)


スマトラ津波と原発事故も他山の石として見なかった

(日本の戦争の敗北も原発事故も奢りの結果?)

これだけ経済でも情報でもグローバル化したときなぜか本当はしていなかった。
チェノブエリの原発事故はどうだったのか?
スマトラであれだけの津波があったときもそうだった。

どう日本人は見ていたのか?自分はどうだったのか?

「ロシアは技術が遅れているからな」
「スマトラは津波のことは知らない、日本だったらみんな逃げていたよ、すぐに警報でるからな」

何かこんなふうに見ていた、というよりそういうふうに上の人、科学者でも何でも日本はあんなことにはならないと見ていた。
そして右翼のように日本人は優秀なんだよと自画自賛していたのである

これだけグローバル化したのに日本人は国際的視野をもてなかったのかともなる

その責任はどこにあるのか? やはり指導層にあったのだろうか?

つまり政治家とか官僚とか科学者とかマスコミ報道関係とかにあったのか?
そこになにか警告するもの啓蒙するものがゼロだったのである。

日本はあんなことにはならない、日本は津波だって何度も経験しているし原発だってロシアのように事故にはならない、日本は技術が優秀だからなとなっていた
日本の技術が優秀だというとき電気製品を作るとか素材を作るとか優秀な分野はあったがみんなか科学技術分野で優秀ではなかった。
現実に原子力の最先端の技術をもっているのはアメリカだったのである。今でもそうである。

そういうふうにうぬぼれさせたのは誰なのか?
そこに日本を指導する上の人たちの責任があった
上に立つ指導する人はそういう地位にあり日本国民を導くものとしてある
そもそも原発に関しては民衆は知らないからである。知らされても理解できないからである。そうなると責任は原発を運営する指導者たちにあるとなる
科学者の責任も大きい、今では反省しているというがやはり責任を感じている科学者がいた。

何かやはり人間は指導者の責任が今になると大きいと感じる
民主主義があとしてもではすべて民衆が関与できるかとなるとできない
原発になると特にそうである。わからないから上の人たちの言うままになりやすいのである。
だからなぜ新潟県の巻町では町民の合議で原発をやめたというのは驚くしなぜだろうともなる。原発と危険だとしてやめたのだからそこでは民主主義が機能していたのである。

先の戦争でも賛否両論があるがやはりこれも上の人たちの責任が重い、でも何か国民が戦争に熱狂していたんだというからとめられなかったということも言われる
それにのって朝日新聞などが戦争を積極的に称揚して戦争をあおったとなる
するとこれも国民の責任なのかとなる、民主主義ではすべての責任は国民か負うとなるからでてある。

でも天皇がいたとしてその天皇が最高責任者だったというとき「朕は戦争はしない」と言えばみんな従ったのかとなる、もしその一言で戦争しなかったら国民の300万人は死ぬことがなかったとなる、なぜなら戦争をやめたのは原爆のあとの天皇の玉音放送で決めてそうなったからである。

原発事故が二度目の敗戦だったというのはそうかもしれない、共通したものがあったからである。
日本は神国だという「不敗神話の形成」原発事故も「安全神話の形成」があり共通していた。
そこには日本人がこんなにグローバル化しても実際は同じような轍を踏んでいるのである
日本は優秀だとか日本だったらあんなことにならないよなとか外国のことを他山の石として見ていなかったのである。

ともかく個人的にでも人間がうぬぼれる、傲慢になるとき危険になる
何かその時神からき罰を与えられるのである。
今回の津波でも想定外だったかなるのはそうである。神の力は人間では計り得ない、想定外なのである。でも人間はうぬぼれるからそこで神から罰が与えられる
何か人間は事業でもなんでも奢るとき失敗に通じているのである。
若いとき成功して地位を得たりしたら最悪だろう。
それは奢りになり謙虚さを失い傲慢な人間になってしまうからである。
だから頭がいいとか優秀な人間も危険なのである。身内のことだからあまりいいたくないけど最後まで優秀だと言っていたが認知症になったときほと驚いたことはない
その悔しさなのか最後まで自分は優秀だったといって死んだのである。

上に立つ人は政治家でも科学者でも官僚でも東大出とかで下を見下す、マスコミ関係者も俺たちが世論を作るんだとかインターネットの前は情報を独占していたのである。
だからマスコミによって世論が作られ誘導されていたのである。

人間でも国家でもおごることが滅びに通じている、「奢る平家の久しからず」である。
日本の二度の敗戦もやはり奢りからだともいえる
日本人は技術的に優秀なんだ、津波だってスマトラのようにはならないとかうぬぼれて他山の石として見なかったのである。

結局こうして権威は失墜した

政治家のおごりは権威は失墜した
官僚の権威も失墜した
科学者の奢りは失墜した
マスコミの権威も失墜した
・・・・・・・・・

やはり高きものは低くされるという聖書の言葉がここで生きてくる、そういうことは常に個人的にも国家的にも世界的に起きてくるのである。
強いと思うもの高いと思うものが必ず低いものとなる、繁栄もいつまでもつづく国はないのである。
日本でも経済がこんなに衰退するのか?カジノと観光客でもうけるほかないのか?
そんなに落ちぶれてしまったのかと驚くのである。
バブルから日本の経済は長期停滞したままなのである。
そして観光客とカジノに頼る三流国になったのかとなる

日本は戦後は高度成長時代となり調子がよすぎたのである。そのためにうぬぼれになった傲慢になった。それが原発事故になった原因でもある
原発の技術はアメリカが日本よりずっと優れていたのである。
でも原発は日本では事故にならないとか安全神話は作られていたのである。
その奢りも津波や原発事故でもろくも崩れ去ったのである。
タグ:他山の石
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2016年12月11日

師走俳句十句(鹿島から相馬市へ、復興の電車走る)


師走俳句十句(鹿島から相馬市へ、復興の電車走る)  

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この車両は前に団体とあり特別のものだった
開通のために走らせたものらしい

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冬陽没る六万石の城下町

冬の灯や六万石の城下町

冬の月六万石の城下町

灯のともり田町のあわれ冬柳

晩菊や待つ人あれや無人駅

無人駅おりたちあわれ冬薔薇

復興の電車走るや師走かな

復興の電車や百輪の冬椿

枯芒二両の電車や昼の月

石一つここに落ち着き冬椿


ローソンにカフィラティを飲み外見れば枯野広がり昼の月見ゆ 



一昨日は夜に自転車で相馬市に行った。今までは介護だから夜には行けなかった、介護となると問題はつききりではなれられなくなることなのだ。
認知症の場合は特にそうなる、不安になり一人でいられないからだ。
それで十年間ゆっくり外にでることもできなかった。それは相馬市とか近くでもそうだったのである。

相馬市は六万石の城下町であるが外からきた人は何かそうは感じないだろう。城跡があり石垣がわずかに残っているがそこが城があったとも感じないからである。
ただ入母屋作りとか相馬市では建物を昔風に統一した街作りをしている。
新しい市役所でもそうであり公共的な建物はみんな統一している。
それで落ち着いた感じにはなっている。ただそれに不満な人もいるだろう。
建物だけが立派で他に金が回らないとか思う人もいる

相馬藩が六万石というときそれでも土地としては海あり川あり山ありで広いと思う。やはり海があることが福島県でも違っている、そのために津波の被害や原発でも海があって建てられたがそれが裏目に出たのである。
なぜ六万石で野馬追いのようなことができるのか?それだけの侍がいたのかとか疑問になる、そしてなぜ伊達氏のような大藩を相手に戦い独立を保ったのか?
それはやはり海があり海を利用して運輸がありそれで力をもっていたともなる
海は漁業の海ではなく運輸の交通の海としてあったことが見逃されているのである。

鹿島駅は無人駅になった。小高の方に職員が移った。昨日は電車が仙台まで通じた復興の日だった。これはやはり復興として大きい、今日は原町に12両の電車がとまったという、日曜日で特別乗った人がいたのだろう。
でも以前として二両とか4両とか6両で車両としては少ないから乗る人がまだ少ないとなる前は8両が普通だったみたいだからだ。

二両の電車も不思議だった。相馬市と原町の間を行き来していた
なんかのんびりしていた。それで昼の月があっていたともなる
この辺は自分でもそうだが介護で十年でありその間に翻弄されてきた。
そのことはプログに書いてきた。その後は津波であり原発事故でありここは常に変化の中にあった。なんか落ち着かないのである。
自分の母親も死んで明日が一周忌であるが何もしない、花を一杯さして飾り終わりである何か一人だといろいろなことに手が回らないのである。
フログだって書くの半日かかることもある、家事もしているし自分は介護はなくても常に以前として追われた生活なのである。
だから今年仙台に行ったのは一回だけだった。
今年中にもう一回仙台まで乗って終わりである。

この辺の変わりようははげしかった。新しい家が数百軒もたち復興住宅もたちどうも大熊とかの方の人も建てたらしい、今度は浪江の人が復興住宅に集まり住むとか今度は仮設住宅から南相馬市とか相馬市とかにも移ってくる。そこでまた変化がある、
この辺は常に変化なのである。自分の場合、介護十年だったから一身上も常に変化だった30年間変化ない平穏な生活とはまるで違ったものとなっていたのである。

今も自分はほとんど遠くに行かない、毎日近くを行ったり来たりであり十年間そうであるローソンでカフィラティというのがうまい、ミルク味がいいのである。
あそこで外で休みそれを飲むのが一腹であり楽しみである。
外に昼の月がてて枯野が広がる、それが田舎らしいのんびりさがあるとなる
でもこの辺は何か変化が常にあるからずっとのんびりはしていられなかったのである。




南相馬市鹿島駅で出会った人、外部の人の出入りが多い (グローバルなものとローカルなものの理解を深めるにはいい)


南相馬市鹿島駅で出会った人、外部の人の出入りが多い


(グローバルなものとローカルなものの理解を深めるにはいい)


この辺では外部からの人が来ている、今日は日曜日でありあんないばん見ていた人は浪江の人だった。

「どこに行くんですか」
「西町です」
「それならここを真っ直ぐ行って橋に出て川を上った所です」
「遠いんですか」
「10分ほどで行きます,近いです」
「どこの人ですか」
「浪江です」
「復興住宅に移るんですか」
「そうです」

最近シシドスーパーの隣に復興住宅ができた、ほぼ完成した、それで移り住んでいる人がすでにいる、その人もそうだった。
あそこは浪江町とか飯館村の人たちが住む、小高の人は住まない、県営住宅であり南相馬市の人は住まない、かなりの数の人が今度は復興住宅ができて南相馬市に住むようになる原町のキクチスケーパーの隣の団地でも浪江町の人が住んでいた、その数も多いのであるそれより雲雀が原の五階建てのビルには驚く、この辺では五階建てのビルは病院くらいだからである。
あれを見たら都会だなと本当に思う、それだけ威圧するように高いビルが並ぶ
だからそんな所に住む人がいるということは相当数の人が南相馬市に移り住むということだろう、今までは分散していたのが仮設から復興住宅に移り住むようになる
その数が多いから南相馬市でもなんらかの影響があるし回りにも影響がある。
だから今になるとつくづく原発というのは大熊とか双葉だけの問題ではない、広範囲な地域をまきこむものだったのである。補償金でもめたのもそのためである。

もう一人の人は話していたら大分の人だった。大分も熊本地震の影響があった
ところが熊本ばかり注目されて大分は注目されなかったのである。
その人がなぜここに来たのか?
「地震で仕事がなくて来たんです」
そういう事情の人もいたから熊本地震もこの辺と関係していたのかとなる
大分というとなじみがない、阿蘇は熊本と大分の境にあった。
いくら全国を旅行したからといってすべてには通じ得ない、九州は遠いからわかりにくかった。
そして報道では熊本も被害は盛んに言われたが大分もそれなりに被害があったらしい。
大分というとき韓国から船で福岡に来て宮崎県だったかどこか船で東京まで帰った
その時伊豆の七島の島影を見た。そこは鎌倉の領域でもあったとかなる。

またこの前会った人は最初札幌から来たと言っていたので札幌の会社に転勤した、その人は年であり一旦退職してからも働いているらしい。
その人はドイツに8年間いたという、それはソビエト連邦の時代だったのである。
カザフスタンまでも行っていたらしい、これも驚きである。
その人は何か技術関係の仕事をしていて放射能関係の検査で会社から派遣されている
だからここで住むところも会社から与えられている
こういう人も田舎では会うのはまれだけどこんな事情でそういう人も来ている
こういう人は世界を日本でも会社の命令で渡り歩く、派遣される、だからこういう人は故郷に農業して外に出ない農民とかとはまるで違った人である。
グローバルに仕事をする人だとなる
こういう人はまず故郷とか関係ない、だからこういう人は何にアイディンティティをもつのだろうともなる

外国旅行で出会った人もそうだった。その人はフランスに一年いたとしても会社で派遣されこたのではない、自ら行った同年代の人である。
ただあの時代では外国はそれほどなじみがない、気軽に行けるものではない、それであとでスペインから船でアルジェリアにわたった、労働者を手配するためである。
アルジェリアはフランスの植民地だった、そこに石油がとれるからである。
そこで日本の日揮という石油関係とかのインフラを整備する会社の人がテロにあい十人くらい殺されたことも驚きであった。
そんな仕事をしている人がいるというのも驚きである。

ただ今の社会は日本国内でも広域化しているからめずらしくはない、この辺は原発事故以後は日本中の人が来ているから別に九州でもめずらしくない、ただ熊本地震の影響があって仕事がないから除染関係の仕事を求めて来たというのは特殊だと思った。
この辺は人の出入りがはげしい、それで鹿島駅で時々話かけているのである。
今日は特に仙台まで電車が通るようになったので二回くらい行った。
やはり駅は外との窓口となる。あそこに何か喫茶店のようなものを作るとか商工会で計画しているとか言っていたがそれはただ案だけなのだろう。
無人駅になったからそう話が出たのかもしれない

自分は外国もかなり旅行したからドイツに8年いたというときどこですかと聞いた。
ケルンですと聞いたときあそこはあの塔にも上ったし親しい感覚になる
ライン川が流れていてその場がイメージできる、日本だとたいがいはイメージできるが外国となるとそうはいかないがケルンは塔がありライン川があるからイメージしやすいのである。
だからたいがいの人と話を合わせられる、それは地理的なものであり理系の人は仕事のことなどわからないから話せない、ただ地理的なことを知っていることが外部の知らない人と話すときは大事である。地理が基礎になるということである。

アメリカの雑誌「タイム」は21日、毎年恒例の「世界で最も影響力のある100人」を発表し、日本からは、東日本大震災後の住民の窮状をで訴えた福島・南相馬市の桜井勝延市長ら、被災地の2人が選ばれた

こんなことは今までならありえない、それより外国に行ってフクシマというときすぐあの原発事故があったところかとなり世界的有名になったのである。
悪い意味で世界に通じる場所になってしまったのでしる。チェルノブエリと同じである。だから原発事故で奇妙だがこの辺は国際化したということにもなる。
世界の研究者も科学者もおしかけたからそうなった。

自分も遅かったが十年くらい世界旅行したからそれなりに国際化したし外国のことに興味を具体的にもつようになった。
今の時代グローバル社会になるとどうしても実地に世界を回らないと知識的な仕事はできない、グローバル社会ではそれを否定しても世界の中で生きざるを得なくなっているからだ。
ただ自分の課題として原発事故でもこれはフクシマという田舎で起きたことでありそれはグローバルなものとローカルなものとの問題でもあったのだ。
ローカルな地域的なもの自然を破壊したということで極めてローカルなものとして相馬郷土史を追求してきた。
そういう視点はそもそも地元でも欠落していたのである。
津波だって400年前に700人溺死ししていたという記録が相馬藩にあった人はほとんどいなかったのである。
つまりグローバル社会になってもいかにそこに住む地域的なものの知識が欠かせないとうことも思い知らされたのである。

意外と今の時代この地域的ローカルなものがないがしろにされているのである。
ともかく日本より地域より外国に詳しい人がいる、ところが肝心な自分の国のことや住んでいる地域のことを知らない人が多いのである。
そして地域のことを自分の住んでいる場を知らないとうことは致命的になるのである。
今回の津波とか原発事故がそれを思い知らされたのである。

地域とかローカルなものというときそこには自然がありその自然に基づいた暮らしがあるとき外国も同じなのである。自然をアイディンティティとして文明文化は作られてきたからである。樅の木があるとする、それは日本にもある、そればどこにでもある。
そうなれば樅の木のことを日本にいても理解できるとなる、ただ樅の木がドイツの古い時代のように森のようになっていることはない、でも樅の木がないとしたらそもそも理解できないのである。
でも日本に住んでいてもそういう自然の理解が今は欠けている、東京になどいたら樅の木であれ自然がない人口空間なのである。すると日本の文化も理解できない、まししてや外国の文化も理解できないのである。

つまり外国を理解しようとするとき日本を日本でも自然とともに生きてきた田舎を理解できないと外国も理解できないとなるのだ。
日本というとき別に奈良とか京都とは限らないのである。かえって樅の木というのはドイツの象徴になっているがではそれを京都とかに行っても理解はできないのである。
ローカルなものとグローバルなものが別になっているようでも実は自然から見れば共通のものアイディンティティがそこに見いだされるのである。
まず現代はこれだけグローバル化してもかえってローカルなものの視点が欠如しているからグローバルなものも理解できないという逆説がある。
だから世界を渡り歩いても必ずしも世界を理解するというものでもないのである。

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blue forest

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begining of the earth


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2016年12月12日

鹿島駅の入り口の戸が重く開閉しにくい (南相馬市市役所に相談したが・・・)


鹿島駅の入り口の戸が重く開閉しにくい

(南相馬市市役所に相談したが・・・)

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錆び付いて重い 

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鉄塔が建ち八重桜は切られて残念



最近毎日鹿島駅に行って外からの人と話したりしていたので駅のことが気になった。
今日は十人くらいかJRの水戸管理局の人たちが来てみていた。
もったいないのは八重桜の木をみんな切ってしまったことである
鉄塔を建てたため切った。やはり駅はやはり街の象徴としてあった。

その入り口の戸は相当に古くなっている、さび付いていて重いのである。
冬だと寒いからいちいち開けたり閉めないといけない、改札口はあいていても入り口も開けていたら寒いからである。
それでそれが開けたり閉めたりするとき重いからやっかいになる
それは利用する人がみんな思っていることである。

今回仙台まで開通することでいろいろ新しく整備したからそのことで聞いてみた。
一応聞きはしたが別にそれで直すとか上の人に言いますとかは言わない
それで市の方に相談した。そこはJRの管理になるので市の方でもどうにもならないですとか言った。
それもおかしいと思った。なぜならみんな市民が困っていることだから市の方でもなんらか対策があってもいいと思ったからである。
これは自分一人が思っていることではないみんな不便を感じていることなのである。
それは市民の要望なのである。

ただJRの土地でありJRのものだから市ではなにもできない、市民も何もできないとなったらこの世の中どうなるのか?
JRでも公共機関であり民営でも公共のものである。そういうことは会社なら必ずある。
会社ならなんでも勝手にしていいとはならないのである。
反面そういうふうに公共的なものとなると利用する方も維持することに尽力する必要が出てくる、なぜなら民営となると利益が出ないならやれないからである。
「迷惑にはなるでしょうが予算がないんです」とかなればどうにもならなくなる
前は国鉄であり国で運営していたから違っていた今は利益を出ないことはしない。
だから北海道の鉄道は運営できないので廃止になってゆく、そういうふうに利用する方も考えることになる

明治以降はかえってこうしてみんな民営になり私有権が認められ主張するようになった。それは過剰なほどそうなった。それで補償金がもらいたくて自分の家の前の海は自分のものだ、私有権があるとまでなって主張したのである。
海は誰のものだとなればそれは本当に漁業する人たちのものだけなのか?
それで民間で勝手に魚釣りをできないと不満を言う人がいた
資源を守るためだと大義名分はそうでも原発事故でそうではなかったからである。
船主などが漁業権を東電に売り渡していたのである。
海を売ることができるのか?海は漁業権をもっているもの達のものなのか?

そういうことは原発事故ではいろいろあった。
極端な話が原発を建てた土地の所有者と県の許可で原発が建てられたことになる
その土地は俺のものだから何も言うなとまでなってししまいこんな大惨事になる
そして双葉町でも大熊町でも富岡町でもそんな狭い範囲で勝手に決められていいのかとなった。
現実に今やそういう人たちが避難して立派な家を建てることに回りの人が不満になったのである。原発はとてもそんな狭い範囲の人たちで決められるものではなかったのである。
土地とか山でも森でも大地でも海でも公共的なものでありなかなか一所有者のものとなりにくいのである。海だって大地だって山だって森だって自然は一つのものとしてつながっているからである。
飯館村で自分の土地を除染するより売りたいというときもし売ったらそこが放射性物質の処理場にされると今度は回りに影響する
現実に放射性物質を入れたフレコンバックが破れて流れだしたら南相馬市にも流れてくるのである。真野ダムでもそうである。

海にしてもあれだけ汚染されたのである。そして東電の前の海は誰も立ち入ることはできない、漁業権を組合で売ったからである。東電の私有地になったのである。
何か私有地というのは明治以降増えたのである。
猪苗代湖でも一部私有地になりバンガローなどが建っている、迷って入ったらしかられたそういうふうに自然を私有することができるものなのか?
それで山でも無数に分割して私有化された結果として土砂災害でもふせぎようがなくなる俺の山だから勝手に木は伐っていいとかなるとそこから土砂災害が起き安くなる。
森も山も全体だからである。

いづれにしろ鹿島駅でもJRの所有地だから全部勝手にしていいとはならないだろう。
街の景観としても維持する必要もあるし街全体の問題なのである。
それはあらゆるところで言えることである、私有権をあらゆることに認めると公共性が失われる、そして公共性のないものはこの世にない、一軒の家をもってもそこには自分のものだけとは言えない,それが空家化するとわかる、周辺に影響するのである。
何かそういう公共的志向がかえって明治になって民主主義化して失われたというのも逆説である。
原発でも何かそういうふうに漁業者でもただ利益しか追求しないで私有化して海を東電にうりわたした。巨大な会社に海が買われてしまったのである。
そういうことはグローバル化して世界で起きた、巨大な多国籍企業に森でも自然でも買われるのである。
第一そもそもが東電によって政府によって双葉町とか大熊町とか富岡町は町ごとが買われてしまっていたのである。それほど東電が大きな会社であり政府もかかわっていたからそうなった。

公共的なもの自分の住んでいる市町村に関心をもつのは日々の生活にかかわるからである毎日駅に行くとして戸を開閉するのに難儀するとなると嫌だとなるからだ
ただこういう身近なものは気づきやすいが大きなものにると原発とかなると立ち入ることも何もできない、その回りに住んでいても何もできない、ちょっとのぞくこともできないその回りに住んでいても一番危険地帯に住んでいても住んでる人は何もできなかったのである。



1898年(明治31年)4月3日 - 日本鉄道の駅として開業。

乗車人員推移
年度一日平均乗車人員
2000 596
2001 564
2002 530
2003 522
2004 524
2005 484
2006 461
2007 434
2008 430
2009 405
2010 378
2011
2012 293
2013 313
2014 299
2015 318

鹿島駅は開業当時からの古い駅舎らしい。だから相当に古くなっている
乗降客を見ると2000年に600人であり震災前の2010年にすでに378まで減っていた。
震災後は半分になっていた。
でも2015年には318になっているし仙台まで開通するとなると増えるかもしれない、
津波原発事故以後外から来ている人が結構いたからである。

岩手県の区界(くざかい)は一日の乗降客が一人しかいない、あそこは雪に埋もれていて岩手県の境だった

一日の乗降客が300人はまだ多い方である。でも鹿島駅でそんなに乗降客がいるようには見えない、なんか10人程度しか乗り降りしていないからだた。
ただここは300人以下にはならなんかもしれない、10人とか20人となると厳しいとなる。

今日は母の命日 (母の死顔は相当にインターネット見られている)


今日は母の命日


(母の死顔は相当にインターネット見られている)

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忙しく母の命日師走かな

我が家に母の命日冬紅葉

故郷に枯菊あわれ今日も見る


忙しく師走に死にぬ母なりきその一生にふさわしきかな


今日は母の命日だけど何もしない、人も呼ばない、そういう余裕がまだない、花だけ買って飾った、そして墓を見たら死んだ日が二月十二日なっていた。
それは生まれた日だった。石に刻んだからといってまちがいないということもない
人間のしていることには必ずミスがある。

確かに石屋には12月12日としていたはずなのである。これもどっちがミスなのかわからない、良くみていないのが失敗だった、人間は一人だといろんなことでうまくいかなくなる家族がいれば何人か二人でもこ確かめることができるからである。
だから一人というのはつくづく危険である
なんらか共同で暮らしていればこういうことにはなりにくいのである。
特に老人は一人暮らしは良くない、時代的に最新のことがわからなくなる場合があるからだ。

何か死者とか墓とかが自分のテーマにもなった。
兄の墓の中を見たら骨壺にいれたはずなのがその骨壺もなくなっていた。
木の箱だったから230年もたつと跡形もなくなったのか、骨壺は陶器だったろう。
でもなにもなくなっていた、だからその骨を娘にもっていけといってもできなくなっていたのである。
娘はそもそも事情があってもってゆくつもりもなかったのである。
兄の墓と自分の家の墓は事情があって別になっている。
でも今や供養するのは自分一人しかいないのである。
知っている人も自分しかいないのである。

そもそもだから死者とは何なのだろうとなる。ある人は金がないのとその人がいいがげんなために墓に親の名前を刻んでいないのである。
金がないからしない、でも結構食べ物は贅沢しているらしい
これも親不孝と思うが名前を刻んでいなければそこに死者がいるのかともなる
だから死者とは何なのだろうと不思議になるのだ。

いづれは母と姉も兄も合同慰霊する、それは来年になる、一人だとともかくめんどうになる。いちいちお返ししたりするのもめんどうなのである。
だから自分は供養も断った、ただ線香あげてもらうだけだった。
自分は別に金はいらないからである。あとがめんどうになるのが嫌なのである。
ただ世話になった人には香典を多めにだした。

田舎では毎月のように香典を出している人がいる、そうなるとその金がないと困っている人がいるのである。世話になったら多めに出してそんなに多くの人に出すのは無理である金がある人は多くだして金のない人は気持でわずかでもいいのである。
何かなんでも平等だというのは良くないのである。
貧乏な人は別に香典を出さなくても気持だけでいいとかなる
何かそれが今の世の中おかしいのである。

ともかく母が師走に死んだのはふさわしかった、一生が90越えても家事をしていたし働きづめだったからである、その功罪としては何か楽しむこともない人生だった
それも淋しいとなる、花にも興味ももたない、ただ蟻のように休むことなく働いていたのである。これも一見いいようでも異常であり狂気にもなる
日曜日も休まないしただただ働くだけである。そういう人とは一緒にいたくないともなる正直自分にはそう感じていた。大正生まれとかなるとそういう人が多いのである。
遊ぶという余裕がなかったからそうなる。

母はいつも眠るように死にたいといっていた。何かそれだけはその願いはかなった
100才まで生きてそうなったからである。百歳まで生きる人は病気にならないのである。
血管も正常であった。
そして長生きの秘訣はなんですか?と問われたとき無理をしないことですと言っていた。
確かに母は細身でありそもそも体力的にも精神的にも無理ができない女性だったのである冒険などもできない女性だった。

母の死に顔をプログに出したらかなりの人が見ている、「死顔」のキーワードででてくる。実際に親の死顔など出している人はほとんどいないかもしれない、それで本物の死顔がめずらしいからかもしれない、本物の死顔はいい人はまれなのかもしれない、見られないような死相が多いかもしれない、苦悶の表情なのかもしれない、それは医者とか看護師とか葬儀屋は見ているから知っている
母の死に顔は安らかであり笑っているような感じに見えたので不思議だった。

何か知らないけど創価とか仏教系は異常に死相にこだわる、死相で成仏したかどうか判断するからだ。あれもカルトだから仏教系はともかく生者より死者を相手にする宗教なのである。供養も延々とするしその度に金が入るとなるからだ。檀家宗教は死者の宗教なのである。こういうのは仏教とかとは何の関係もないのある。
もし死相がいいならインターネットにも出すだろう、でもほとんど出ていないというのはやはり死相は気味悪くて出せないからだろう。

枯菊というとき今頃になるといつも見ている、故郷に枯れた菊というときそこに住んでいるからあわれだとなる、それは老人でもある。
それは時間の中で経過する自然な姿なのである。
でもそれは故郷に住んでいるから感じることである。老人の介護のために東京から田舎に移住させるのは何か変である、不自然なのである。

つまり人間も生物の一種だというときその土地に根付き朽ちてゆくのが自然なのである。人間の老いもまた同じなのである。それが生物の一生なのである。
でも現代はそうした自然から切り離されて暮らしているからおかしなこと不自然な生となってくるのである。

プログをふりかえり見たら冬紅葉を遺影にさしていた。母はまた冬紅葉にふさわしかった一生が恵まれないということもあった。ただ別に我が家に嫁いですべてが不幸ともならない、結局人間の幸不幸は計れない、意外と最後になると不幸になる人も多いのである。
金持ちの家に嫁いだとしても金持ちの家では息子でも娘でも金があるから施設にあづけるからである。
最後に不幸になっている人が意外と本当に多い、それは介護とかなると娘とか息子でも本心が現れるから怖いのである。
いくら親子でもそうなってしまう、そうなると最後は不幸になる
だから娘を恨んで死んだ女性もいたのである。そういう人は本当に最後は不幸だったとなる。だから人間の幸不幸もわかないとなるのだ。

ともかく一年すぎて楽にはなった、でも淋しさは感じる、介護しているときは何か夢中だった。懸命だった、だから淋しいという感じもなかった。
家にはやはり介護する人がいるから常に緊張状態にもっないたからである。
今になると何かがらんとしていて一人だとなるからでてある。
でも介護というのは尋常なものではない、異常な状態だったとふりかえるのである。
その負担が大きすぎたのである。十年とかしてみればわかる、そういうことが介護には普通にある、その長さの故にまいってしまうのである。

2016年12月13日

明治以降エリート養成に失敗した日本 (なぜ一流大学で残酷なレイプ事件が起きるのか?)


明治以降エリート養成に失敗した日本


(なぜ一流大学で残酷なレイプ事件が起きるのか?)

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(週刊現代)

この事件を起こした学生は優秀である。頭だけではない、体力的にも優秀であり家柄も良かった。医学部となれば誰でも一目をおく、医学部は現代では最高のエリートなのである文系だったらどこの大学でも東大だってさほどでないとみれる
でも医学部は違っている。医学部は日本の最高の頭脳集団だと見られているのが現代である。

ではなぜそこでこんな事件が起きるのか?
根本的な問題としては別にこうしたエリートでなくても若いときは奔放なエネルギーが爆発するから若気の至りとして普通にある。だから特別なことでもないとなる
この人たちは体育系に所属していた,すでに頭脳も優秀であり体力もある若者だったのである。
だから自分などは頭脳もだめだ体力もないからうらやましいとなる。
そうなれば女性にもてるということがある。向こうからよってくる女性がいくらでもいるとなる
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こういうふうになり傲慢となってくる、三流大学だったりしたら女性もよってこないだろう。頭が良くて体力がありスポーツマンであり医学部であり将来医者となるとしたら最高だとなるのが現代である。
なぜこういう人がいるのか劣等生とか自分などは理解できないのである。
学力とか体力とかは生まれつきなものがあるとなる。そういう人はさほど努力しなくくても勉強できるのかもしれない、だから劣等生には理解できないのである。

でもなぜこういう若者がこんな事件を犯したのか?それは若気の至りであり特殊なことではなかったのか?
ただこうして優秀な人の問題は必ずうぬぼれる、傲慢になることなのである。
それを何度も指摘してきた。傲慢になることは一個人でもそうだが国家などでもそうである。「奢る平家久しからず」というふうにその傲慢が必ず滅びに通じいるのである。

だから若いときからそうして優秀だと非常に危険なものになってゆく、自分もふりかえると三流大学にしろ田舎ではまず一クラスから四五人しか大学には行けない、自分が行けたのは頭がいいからではなくただ経済的にめぐまれていたからにすぎない、それでも何か傲慢になる。その時代第一集団就職の時代であり金の卵としてクラスの三分の一くらいがそうなっていたのである。その差が大きかったのである。

ただ自分の場合は大学出ても就職もしない特殊なものになった。大学でてもエリートでもなんでもない、放浪したりして底辺労働者になっていたのである。
そうなるととても大学卒などというものではない、底辺労働者にすぎなかった。ホームレスのような時もあったのである。だからうぬぼれることはなくなった。
でももしその時大学出て恵まれた会社であれ公務員であれそういうものになっていたうぬぼれたものになったかもしれない。

だからこういう事件を犯す若者の危険はうぬぼれることにあったのである。
まず若いときに金がありあまっていたりうぬぼれたりする、高い地位についたりすることほど危険なことはない、若いときは望んでも苦労せよというのはそのためである。
ところがこうして優秀な若者はすでにうぬぼれたものとなっている。
人を見下すようになっている、そういう若者がやがて最も尊敬される医者になることは怖いことになる

なぜ医者とか看護師とかがすべてではいないにしろ嫌がられるのか?
今の時代は特別尊敬されるからだろう。
また病人になったとき弱者となったとき何か同情心に欠けてはいないか?
つまり傲慢だということはいくら頭が良くても謙虚さがなく同情心に欠けるからである。でも病人とか弱者を相手にするときは同情心は欠かせないのである。
そういうものがないとしたらいくら技術的知識的に優秀でも怖いとなる
だから自分は病院が怖いとなる、もう苦しいけど病院には行きたくないとかその前に死んだ方がいいとまで思うようになったのである。
それは病院だけではない社会全般に言えることである。
なぜこれほどブラック会社が多いのか?人を人としても見ていない、働くロボットとしか見ていないからかもしれない
そういう非情のシステムの中で働いているのが現代なのである。

つまり医者になる人は今や優秀でもそういう若者が多いとなるから困るのである。
若いとき何でも下積みで苦しみ下々のことをわかる人が上に立つの理想なのである。
結局日本はエリート養成に失敗したである。
それは江戸時代から明治になったとき起こったのでありそこに原因があった。
江戸時代はエリートは侍だったけどその人たちは高いモラルをもっていた人たちだった。
そして江戸時代は不思議なのは寺子屋の先生でもその人柄がいい人とかで決めていたのである。知識とかではなかったのである。医は仁術というのもそうであり医者はその腕よりモラル的なものを重視していたのである。
だから医者は人情に厚い人が多く例え技術がなくてもそれでいいとしていたのである。

今は全く逆なのである。民衆が望んでいることはそういうことではない、教育だったら先生だったら例えば英語がどれくらいできるのか、数学がどれくらいできるのか、専門知識がどれくらいあるのか、そういうことしか見ていない、人柄とかモラルは関係ないのである。
だから江戸時代というのは不思議だと思う、それはあらゆる分野でそうである。
江戸時代の方が入会権であれなんであれ私有という概念がない、共有しかないのである。明治になって私有権が異常なほどに主張するようになったのはそれが認められたからなのである。それが自然破壊とか原発問題にも起きていたことを指摘した。

江戸時代が遅れた時代とされるけど明治になって西欧文明が入ってきたとき日本にあったもの、いいものが失ったことを今考えねばならない、そして第二次世界大戦でも日本がアジアに進出したのは吉田松陰であれ西郷隆盛であり征韓論者でありアジア進出者、侵略を公言していたのである。
現代の問題の根はさかのぼれば明治維新にあったとなる
それで福沢諭吉は学問を出世の手段とした。東大出が法曹界だ支配するようになったり官僚支配の構図も明治にできたのである。その時江戸時代の侍はいなくなっていたのであるそのことが現代の腐敗の原因だったのである。侍はモラルを一番重視していた人たちである。
だから改革というとき江戸時代を見直す作業が必要になるのである。
内村鑑三は西欧文明はキリスト教文明だからキリスト教を導入しないと日本は滅びるということを予言していたのである。
江戸時代は儒教であれモラルを最優先した時代だったとしても社会がモラル的には安定していたとなる

日本は明らかに明治維新からエリート養成に失敗したのである。それが戦争の敗北とかに通じていた。それは現代もその構図は変わっていない、教育でも医学でも科学でもモラル喪失の時代を生きているのである。
もちろん支配階級がそうなのだから下々も当然モラルなどなくなっている、人情もない世界になったいる
だからこれからの問題としてエリート養成の問題がある。その改革をどうするのか?
それが大きな課題なのである。
タグ:レイプ事件
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2016年12月14日

複雑にもつれた原発事故の被害地域 (補償金では外部でいじめに内部でももめつづけている)


複雑にもつれた原発事故の被害地域

(補償金では外部でいじめに内部でももめつづけている)


●双方の言い分をマスコミで報道しない

この辺はともかく複雑にもつれた地域になっている。
例えばNHKで飯館村の人が相馬市のトマト農家に仕事をしたいと行ったら断られたということを放送した。それを見ている人は飯館村の人が困っているのになぜ断ったのだとその農家を批判する、でもその農家の人は相馬市でも津波の被害にあった人がいてその人たちは補償金ももらえないので困っているからそっちを優先したのである。
ではなぜこういうことが起きるのか?
それは常にテレビとかマスコミは一方的に自分たちの意向を通すために編集して報道するからである。
だから必ずかたよったものとなりそれが世論を形成する、NHKだと影響力があるすぎるからである。
するとそうなれば取材される方も自分たちの有利なように放送してくれとなる
すると自分たちの方が正しいのであり自分たちの言い分に逆らうのは許せないとなる
だから自分でも小高の人たちを批判するとなんだあいつは情もないのかとか批判される

でももし一方的でなければそんなことはならない
「飯館村の人が来たけど津波の被害者の方が今は困っているんですよ、そこをわかってもらいたいです」
「そういうこともありますか、しかたないですね」
なんかこんなふうに双方の言い分をのせれば別に一方的にならないのである。
それはいわきでも津波被害者がいて補償金ももらえないから避難してきた人たちに不満になる
でもなぜ仲間に入れてくれないのと原発避難者が言うときその発言をNHKでは一方的にとりあげるからいわきの人たちは何なのだと冷たいなとか見るのである。
公平な立場で報道していない、たいがいマスコミは公平には報道しない、NHKでも民間でありましてやマスコミでも民間の一営利団体にすぎないのである。
別に公平に報道する義務もないとなる、ただNHKは公共的なものがあるから批判される

何かこの辺の事情は本当に複雑である。南相馬市なども補償金で三つに分断されたように複雑である、それもそれぞれ言い分はある。
でも小高の人に言うとものすごく不満になり怒る、その一つがNHKであれマスコミであれ回りが例えばボランティアでも常にかわいそうな人たちとして援助してきたからである。そうなると自分たちは被害者であり援助されて当然である。
それなのに鹿島だとか避難した先の人はなんで俺たちのことをとやかく言うのだとなり
それが怒りになっているのである。
このボランティアも問題があった。別に応援してくれるのだからいいがボランティアは一時的なものであり気楽なのである。そして援助してくれた人たちとして地元の人から歓迎されてあとは関係しない、それでもボランティアも地元の避難者が毎日パチンコなどで遊んでいたとき働いていたから怒っていたのである
ボランティアでも女川町に移住した若者は違っていた。そこに住んで復興しようとしていたからである。
そういう人は一時的なボランティアとは違う、真剣な人だから感心したのである。

●補償金でもめつづけている

そもそも原発は今になると双葉とか大熊とか富岡とかの一地域の問題ではなかった。
広範囲に影響及ぼす問題だったのである。
被害も中通りまで及んだからである。
そして今になりまたそれが自覚される、南相馬市の復興住宅に相当な人が移ってくる
浪江の人は一番多い、飯館の人も移り住む、どうしても相馬藩内は縁故があったり
土地に慣れ親しんでいるからである。
会津だったら寒くて嫌だとなるし雪かきするのも大変である。
だから気候的にも浜通りは住みやすいから移りたいとなる
それで県営復興住宅が原町には五階建てとかのが並び立っている
一大復興団地ができたのである。
あれをみるとつくづく原発は福島県全体の問題であり南相馬市でも深くかかわらざるをえない問題だったのである
でも事故前はそうみんな思っていなかったのである。
だからこそ小高と浪江の間に東北電力で原発が建てるところだった、工事もはじまるところだったのである。
それは合併する前のことであり知らない人が多かったのである。自分も知らなかったからである。なにか原発はそのように狭い地域で決められていたのである。

補償金の問題にしてもこれも本当に複雑だった。
小高の人が「私たちは買物したりして鹿島の人を助けているのよね」とか言っていてその人は全く鹿島の人たちの気持ちを知らなかったのである。
別に普通だったら消費者は神様だとなっていたかもしれない、でもおかしいのは鹿島の人たちも補償金をもらって消費したいということがある。
なぜあなたたちがそんなになんでも補償されているのにこっちはされていない、まず家に帰るのにいちいち補償金が何万とかもらえるのである。いたりつくせりなのである。
介護でも優先だったし病院も無料だったしとあらゆるものが優先されたのである。
でも自分もそうだがその土地に住んで困っている苦しんでいる人は常にいるのである。
だからそういう人たちを見てどうみるかということである。

ある人が生活に苦しい人が同級生とかの仮設に住んでいる人に行った、その人は妻が息子の所とかに行っていてないから淋しくてそうなったのだろう
金があるからそうなった。会社勤めで年金をもらいさらに補償金をもらいとか月に五〇万以上もらっていたかもしれない、それでフィリピン人の女がよってきたともなる
なんかあとは遊んでいる人もいたのである。
鹿島の知り合いの生活が苦しい人は何か手伝って生活のたしにしようとしたがその後は小高の人がきてうまくいかなくなり関係していない、そして小高の人に不満を言っている
小高の人にもいろいろいるから一概には言えない、でも何か補償金がみんないいものとは限らなかった。
金あるものが偉いんだという社会だがここではそうならなかった。
その原因が原発は広域的な問題であり最初からそうして広域的に責任を負う問題だったからである。今になるとそう思っていなかったが現実に負わされていることでもわかる。
大熊であれ富岡であれ双葉であれ俺たちの町に金が入ればいいんだという問題ではなかったのである。その最初から原発の扱い方が間違っていたのである。

●フクシマの自主避難者の子供にいじめ

これも最近二カ所横浜と新潟とか東京でも起きている、自主避難者だとなっている

東京都千代田区の区立中で、原発事故のため福島県から自主避難している生徒が、同学年の3人から「おごって」などと言われ、コンビニなどで計約1万円分をおごらされていたことが、13日わかった

横浜も新潟も自主避難者なのである。自主避難者とは避難区域に指定されていない人たちであり比較的線量は低い、福島市とか郡山市とかの人たちも自主避難した。
そして自主避難した人たちは地元の人たちからも地元から逃げたということで非難なれていたのである。

だからこれがどういう事情なのかよくわからない、なぜみんな自主避難者なのだろうか?
第一自主避難者は避難区域に指定された所から来た人と違いせいぜい家賃くらいしか援助されていないのである。だからなんら夫婦で別々に暮らすとかなった人たちにもなる
母親が子供を連れて自主避難したからである
ここでどうして自主避難者だけがいじめになっているのか?
この辺の詳しい事情がわからない。

放射能の恐怖に震える自主避難者と、家を持てない人や、家を持ち続けることが困難な低所得者を分断してしまった。そうした状況で「自主避難者は特別なのだから、住宅支援を」と叫んでも、理解が得られるとは思わない。 

 つまり、自主避難者の困難の責任は行政にあるのではなく、論理的なロジックを構築する努力を欠き、自主避難者の存在を反原発運動のために利用し続けてる、支援者の側にあるのである。

こういうこともあるのか、左によって原発も利用されていることもある。
そしてなぜ家賃が無料なのか?貧乏の底辺層にすると納得がいかないとなっているのか?
それは小高の人が鹿島の仮設に住んだ時も起きていたのである。
貧乏な底辺層はうらやましがっていた。なぜあんなに補償金であれ何でもあれ優遇されるのかとなっていたのである。それは底辺層だけではここではなかった。
要するにいじめの原因は今は貧乏な人たちが多いからそういう人たちのやっかみなのかとなる、それは現実にここでも起きていたからである。
そして自主避難者はなぜ放射線量が低いのに避難して無料の家賃で住んでいるのかと底辺層が不満になった。金持ちだったらそんなに恨まないのである。
つまり東京であれ貧乏な人たちが増えているからそうなっているのかとなる 

いづれにしろ福島県はお前たちが原発を建てたんじゃないか、積極的に誘致していい思いしたんじゃないか、それなのにまたそんなに補償金もらってうわうわだわなとか言う人がかなりいる、ただ公には言えないので子供のいじめとなっている
では内部でも以前としてもめつづけているのである、浪江でも帰れない地域とそうでない地域は相当に補償金に差があるからもめている、それもそもそも浪江町であれ飯館村だって大地はつながっているからそうなる、放射能に汚染された泥が飯館村から流れてくるからである。
だから放射能の被害はそうして細かく区切ることが争いの元になったのである。

posted by 老鶯 at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連