秋から冬(短歌十首)-山寺から磐司岩ー二口渓谷ー秋保大滝
(紀行文ー記憶は面と線と点でする)
大師が山寺に住んでいた磐司(ばんじ)という狩人と遇って色々と土地の状況を問われたという所がある。そこを対面石といって山寺一の名石とされている。
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(二口渓谷)
岩風呂や奥山の月我がながむ
トンネルをぬけて山形に春なお白く雪の山見ゆ
山寺に冬や籠もりぬ杉木立岩に御堂や千歳経ぬらむ
山寺に北畠神社の社かな落葉しあわれ掃き清む人
大輪の菊の映えにき磐を打ちひびく流れや朝日さすかな
雪残る対面石や清らかに流れのひびき朝の清しき
山寺に大岩古りて御堂かな杉木立暗く冬に入るかな
山寺に雪そふるなり仰ぎ見るそそりし磐に御堂隠りぬ
雪うもる馬形部落たずねけり雪に踏み入り蔵ある家かな
磐司岩そそり迫りぬ紅葉映え流れうずまき隠さる道かな
道あれや落葉を踏みて月の出る山間深く下り来ぬかも
倒れ木を踏みて下りぬ道あれや山陰に隠る月誰か見む
ひびき落つ大滝にあれその下の水澄み流れ木の葉沈みぬ
記憶は人間にとって重要なものである。認知症になるとそれがわかる。今が記憶できなくなって過去に記憶したことが生きることになっていたのである。
そもそも人間が記憶を失われたらどうなるのか?
これが相当に重いテーマであり人間そのものを問うことにもなる
歴史はいろいろあっても基本的には記憶されたものである。
だからエジフトでもヒエログリフで執拗に記録したのである。エジプトがもしヒエログリフで記録されなかったらただ謎に終わっていたろう。
その記憶というとき一人の人間でも記録されたこと記憶されたことが人生になる。
そして記憶がどうして記憶されるのか?
旅をしても今では電車であれ車であれ通りすぎるのが多い、すると何か記憶されないのである。
そのことは前にもいろいろ書いてきた。旅がいかに記憶されるのかが重要なのである。
そして記憶は面と線と点で記憶することが残ることなのである。
地理を知ることはまず地図を見てもできない、実地にそこを歩まない限りできない
特に電車とか車だと高低差がわからなくなる、これも便利なるが故に記憶からぬけおちるのである。地理は立体だからである。
坂でも峠でも苦労して上れば体で覚えていることがある。車だとバイクすら簡単に上れるから覚えていないとなる。
地理をいかにして知るか、それは近くでもなかなかできない、福島県でも広いから地理を知ることは容易ではない、自転車で会津の方に行ってもわけわからなくなった。
会津は山が多いからわかりにくいしその地理を知ることが容易ではない
宮城県になると仙台は相馬からは身近である。だから地理の連続性としてとらえやすい、仙山線があり面白山をぬけると山形県なのである。
それで春になっても宮城県側は雪が消えても山形県の山々は面白山のトンネルをぬけても雪の山なのである。面白山のトンネルが国境になる。
トンネルをぬけると雪国だったというのは日本的な新しい境を越えることになった。
グーグルの地図で大東岳とか雪になっていた。これはいつ更新したかわからないが最近のことだろう。自分のユニットバスを作った人の一人が作並でありそれも山の方だというとき土地が安いから仙台の方からそんな山奥に土地を買ったのである。
仙台は高いからである。そして愛子とかあの辺は仙台から都市が膨張している、家が密集してきているからだ
今回ユニットバスを仙台の人に作ってもらったように高速もできて仙台から福島県に拡張してくる、仙台の影響が仕事の面でも大きくなってくるのか、買い物などでは福島市から今度は新幹線で影響があった。
交通が便利になると広域的になる、青森まで新幹線で行った時も近いなと思った。
でも旅をするとなるとその間は途中はとばされて記憶されない、点すら記憶されない、電車の旅は点の記憶であり残ったのは駅名だったとかなる
線とは道ではあるがその道が電車でも車でも早いから記憶に残らないのである。
今回はなぜ記憶に残っていたかというと面と線と点として記憶された旅をしていたからである。でも実際はこれも30年前とかなるとあいまいな記憶になる。
道をたどっても途中でとぎれたりしている、記憶はそうなりやすいが思い出すと面と線と点で結ばれていた。途中はあいまいでもなんとか一つの記憶として構成できたのである。それは宮城県は相馬からだと地理的一体感が会津よりあるからなのだ。
ともかく現代は山寺でもそうだがあまりにも観光化しすぎるようになった。
山寺などでも修行の場であり観光する場ではなかった、それは京都でもどこでもそうである。本来修行の場として選ばれたところが観光になってしまったのである。
松島だってあそこが一遍聖人などの念仏宗の修行の場でありあのような美しい場所を死に場所に選んで各地から集まったという。
何か山寺でも松島でもそういう神聖な自然の場所だったのである。
それが観光化したことがその本来のもの自然と融合した宗教が失われたのである。
あの辺でもどうしても仙台の市街が近いように思うからである。
鎌倉でもそうである。密集して家並みが山に登ると埋めつくされて迫ってきているのである。東京から鎌倉まで家で埋めつくされる、それで神聖な修行の場とかがそこなわれてゆくのである。あのユニットバスを作った一人も作並のさらに山の方の土地を買ったと言っていたから仙台はそうした所まで拡張しているのである。そこではすでに雪がふっていたからである
そして秋保温泉でも何かそこはもう観光であり俗的な世界であり深山幽谷があっても何かその近くまでそうした俗世間が迫っている感じになる。
自分はその時大東岳や磐司岩を歩いたから記憶に残っている、ただどうしても時間がすぎると記憶がとぎれとぎさになりあいまいになるのである。
ただふりかえり思い出して短歌にしたりすると何かかえって深いものとなる。
旅しているときは集中できないがふりえると深化できるのである。
ここはまだ地理的連続性があり記憶をつなぐことができたとなる
山寺の北畠神社は新しいものだった。南朝に由来するとしても明治以降に建てられたものだからそれほど価値あるものとはならない、霊山とは違っていた。
ただ明治以降も南朝と北朝のことをひきづっていたのである。
それだけその争いは根が深いものだったのである。
南朝とか北朝も山寺と関係あったらしい、あそこの歴史は相当に古いからである。
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