言葉には深い意味がある
(英語で詩作してその言葉の意味を探る)
神殿の柱
the peaceful lined trees
the harmless ones
the strgethend ones
the stationary and established
obedience on the earth
in domestic stability
one by one
step by step
day by day
stedy,strict,firm
deeply rooted ones
in the homeland in order
近くの並木からイメージしてそれを英語で表現しようと試みる、なぜ英語というとき外国語が身近なものにならないのか?
それが英語でも単語の一語一語持っている感覚が違うのである。その感覚は結局その背景にその言葉が生まれた歴史とか文化がありそれを実感として理解できないことにある。
確かに今や機械翻訳が発達しているからそこから英文を表現できる。
でも深いところで一語一語の意味を知るのは容易ではない、それは日本語だってそうであり他の言葉でもそうである。
日本語のあわれを理解するのは容易ではない、かわいいとかもったいなと日本語の言葉が世界語化したものがあかるが深いところで言葉を理解することはむずかしい。
それはなぜなのか?
言葉の背景にはそれが作られた背景がありそれが長い間で作られたのである。
英語だとゲルマン語がドイツ語が基礎にありそこから生まれた、だから英語の一語一語を理解しようとするときドイツ語の理解が必要になるかもしれない、言葉の中には一見事物があっしてそれを同じようにととらえてるようでも違っている。
つまり感覚的にも精神性でも違ったものとしてとらえているのである。
それはなかなか説明することもむずかしいものである。
詩が説明できないというとき言葉も説明できないのである。
詩が翻訳できないというときもそうである。
言葉はもともと詩語であり詩を理解してないと言葉の深い意味がわからないかもしれないただ外国語でも普通にどんな人でもしゃっべっている、ではそのネティブでもかえって母国語の深い意味を知らないのである。
それは日本人でもそうでありみんなそうである。
言葉には必ずどの言葉でも深い意味があり精神性がある。
ここに出したのは一つの例である。自分は自分の詩を英語にできないがその試みとしてした。
steady
(足場・基礎など)しっかり(固定)した、ぐらつかない、安定した、震えない、きょろきょろしない、不変の、一様の、むらのない、間断のない、定まった
この一語に関してもこれだけの意味があるというとき日本語では表現しにくいからそうなる。むらのない、間断のないとか実際は様々な意味があるがそれを翻訳はできないからこうなっている。
だから並木の樹々をイメージするとこの言葉も理解しやすいようになる。
外国の神殿というときギリシャだと列柱がありそれが丁度並木ににているし
またゴシックの聖堂の石の柱ににている。
英語系には建築的なもきがあり言葉としてもその建築的なものが表現し構築されている。日本語だと情緒的だというときしまりがない言葉なのである。
ここで表現されいるのは意外と変わった言葉ではない、日常的に使われている言葉でありむしろ基礎となる言葉である。
だから普通に英語をしゃべる人は使うがその言葉を深く理解するのは外国人だというのもまた言葉の不思議がある。
その言葉訳してみて同じのように見えても違っているのである。
orderなどはin order toとか普通に使うものである。でもorderというとき秩序を重んじるものとしてその言葉がありヨーロッパ文明の源に秩序を重んじるものがあり自然でも宇宙でもその秩序を理論化するものがあった。
だから数学とはそうした秩序を現すものであり発達した。幾何学とかと建築は一体ということでもそうである。
詩となると何かそうした理系的なものとは関係ないもののように見えても自然の中に秩序を発見するということは理系なのである。
風土学になると日本の自然は乱雑であり混沌としているから何かそうした秩序が数式のように現せない、並木というときそれは秩序的に並べられた木であり神殿の柱なのである。
自然を模したものとしてし建築があるとき明らかに樹は柱でありその土台は大地に定着するものとしてある。
だから毎日近くの桜並木道を歩むとそういう自然が一つの秩序を示して大地に根付いているという感覚になる。
違うのは樹は生き物であり日々に成長して根も大地に張ってゆく、養分も大地からとっている。
そして樹に感嘆するというときそれが樹と樹は争わないし傷つけ合わないということである。ハームレスだということが感嘆する。
そんなふうに第一一般的には樹を見ない、でも人間をみればわかる、どれだけ傷つけあっているか?男女でも三分の一は離婚しているし絶えず女性も男性も争っている
それと比べたらいかに樹々が平和なのだろうと反対に思うのであり感嘆するのである。
植物は争わない、そこに平和がある。だから植物的生は平和を志向するのである。
それは農業でもありまたそこから派生するものとしての文化になるのである。
江戸時代は植物的生の時代であり明治維新語は外に拡張する狩猟的遊牧民的移動する社会だった。だから世界的に大きな戦争となった。
戦後もやはり高度成長グローバル社会であり世界的に拡張する時代だった。それは世界的弱肉強食のグローバル資本主義経済だった。
そのゆりもどしがドメステックなものへの回帰現象が起きてきたのは当然である。
それは植物的生への平和への回帰である。
それはアーリア人的でない゛アジア的な価値観への回帰なのである。
それは日本だけではないアメリカでも起きるし現にグローバル社会への異議を唱えたトランプが勝利したことでもわかる
それよりも世界的にみればインドでも中国でもアジア文明の回帰が起きるのかもしれないその回帰はすでに西欧文明と融合したものでありまた別なものとなって勃興するのである日本でももう経済的発展より文化的な国風文化の再生、ルネサンスの時代となるのであるそれもこれほど西欧文明をとりいれたのだからその上に国風文化が再生するからまた違ったものとなる。
人間は文化といっても大地と一体であり都会のビルの谷間で文化が生まれるかとなるとない、自然を模型として大地を耕すものが文化だかちである。
そこに自分の郷土史とか郷土学も一旦として追求してきたのである。
ゲルマンの森と大地からゴシック建築が生まれたようにその土地と自然と切り離して文化は興隆しないのである。
政治的に右だ左だというより日本の精神性の深さを追求することがあるべきなのである。不思議にアメリカでも歴史が浅いとしても200年くらいの歴史がありホイットマンの時代は実業主義であり農民や職人がたたえられていた。何かそれは江戸時代と通じるものがあるのでまた歴史には世界でも共通なものが常にある、それは外国人も人間だからだとなるホイットマン時代は質実な堅実なものが志向されたのである。だから株でもうけるとかはなかったからそうなっていたのである。
そこでどうしても株のようなものは虚業となり嫌うということはホイットマン時代の復古たともなるのである。
日本語の詩にするときの弱点は韻をふまないとか冗漫になるとかある、しまりがないのである。英語とかは韻を踏むし整然と言葉が数式のように配置することがあるからしまりがある、日本語にも日本語のいい点はあるが冗漫になるということが欠点である。
ひらがなでもなにか水が流れるようであり英語とかなると石のように固さを感じるのである。それが文化だといえばそうである。
別に詩でなくても英語をしゃべり書くとなると何か日本人は苦手なのは要するにここに書いたような文化とか歴史の相違がありそれが根本的に克服できないのである。
漢字はその点日本の文化と同化したのである。漢字がないとしたらとても深い意味を表現できなかったからである。
ある意味で詩は特にそうだが文化は言葉の格闘になる、言葉の一語一語には深い意味がこめられているからそうなっていたのである。
秋の日の木々(詩)
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