2016年11月02日

鹿島駅でいわきの人と語る (市町村合併でかえって地域の特色が消えた)


秋の暮(鹿島駅でいわきの人と語る)


(市町村合併でかえって地域の特色が消えた)


1966年(昭和41年)10月1日 - 新産業都市建設促進法第23条に則って、上記14市町村(5市4町5村)が新設合併し、いわき市が成立[5]。当時としては面積が日本一広い市となった。
1973年(昭和48年)3月20日 - 現在の市役所本庁舎開庁。市の花ツツジ制定。
1976年(昭和51年) 常磐炭鉱完全閉山。
1979年(昭和54年)4月23日 - 「いわきナンバー」の交付開始。自動車のナンバープレートとしては初のひらがなナンバーとなる。

鹿島駅に今日いたのは酔っぱらいだった、何か寝ていて警察に連れてこられたとか、除染している人で喧嘩してやめて帰ると言っていた。いわきの会社で働いていて今は水戸に住んでいるという、水戸は電気代とか高いと言っていた。
60近い人だからそれなりの人生を経験している、会社は二回倒産した。でもかなりの給料をもらっていた。鹿島駅は水戸からきたJRの社員が何か直していた。
新地までは水戸管轄であるというのも知らなかった。仙台だと思っていたのである。

その人はいわきナンバーが発行されたとき取得した。それは1979本であり30年前とかなるいわきナンバーは浪江、双葉、大熊もいわきナンバーである。
いわきナンバーというとき外から嫌われることがあるだろう。第一福島ナンバーでも傷つけられたとか聞いたからである。
いわきナンバーになったのは30年前とかなるとずいぶん古いとなる
いわき市が成立したのが50年もすぎているのか?そんなに長いのか?

なんか以前としていわきより平というのがなじみがある、その人も平のことを言っていたから人間の感覚は地名でもなじむのには相当な時間がかかるのである。
いわきというひらがながなじめない、磐城の方が何か重みがあるというときもともと磐城国が古代からあったためだろう。磐城太田という駅名もそうである。相馬でも磐城国になっていたからである。
市町村合併は明治でも大々的に行われ複雑化した。
昭和の市町村合併でも南相馬市が鹿島と原町と小高が合併して成ったがこれも何か未だになじみがない、地名はもともと古い、千年前とか古代からのが多いからそうなる
地名になじむの百年とかかかるかもしれない。

そして前にも書いたけど廃藩置県になったときその地域の特色が喪失した。
福島県は広すぎるのである。気候でも会津と中通りと浜通りも違っている。
会津は冬は雪に埋もれるけど浜通りは雪はほとんどふらない、あたたかい海洋性気候なのである。
要するに今だって福島県というより会津は会津で地域性があり全国でも通っている
つまり廃藩置県はかえって地域の地理とか歴史とか風土を無視して人工的に境界を無理やり作ったからそうなった。
そもそも地域の特色を出すのに県単位だと広いし無理があったのである。
福島県でも広すぎてアイディンティティを作ることがむずかしいのである。
会津は福島県では別の世界であり古代から一つの国だったのである。
そういう地理とか歴史性を無視したのが廃藩置県だったのである。

いわきの花がつつじなのか?つつじというと双葉駅がつつじが咲いていた。それは有名だった。でも今は見ることができない、双葉とか大熊とか原発のあったところは鉄道が開通するのはいつになるのか?
仙台までは12月に開通するからそれで交通面では復興したとなる、いわき方面はもともと二両の電車でありこの辺ではいわきより仙台との交流が深かったのである。
福島市は鉄道がないし阿武隈高原にさえぎられて不便だったからである。
仙台まで通じればさらに全国に鉄道が通じるから復興になる。

ともかくいわきというひらがなもなにか古代からの歴史を無視している。何か重みがないわかりやすくしたとしてもひらがなになると重みが感じられない、磐城というのは何か重みがあった。
いわきは広くなりすぎたのである。それで地域地域の歴史や風土が外からかえってわかりにくくなったのである。そういうこと市町村合併でどこでも起きたことである。

いわきは相馬から近いのだけど何か遠いという感じにもなる、いつわきはむしろ何か東京に近いともなる,なぜなら普通車両で上野まで行く電車があるからだ。
いわきに行くと何か東京も近いと感じる、その電車は上野までの通勤列車だからである
その通勤電車にのって上野まで行ったことがあるからだ。

何か鹿島駅は無人駅だけど外からの人がよる場所である。そこで全国の人と話すると面白いとかなるがみんなが話できるとは限らない、いろいろな人がいるからだ。
でも自分は全国を旅しているから話を合わせることができる、いわきだと福島県だから当然だが函館の人となると自分が住んでいる場所のように地理もわかるから話できる。
でもその人とは深い話はできなかった。

その人は原町の無線塔のことを知っていた、60近くだと知っている、あれも壊されてすでに30年40年も過ぎているだろう。あれは原町のシンボルだったのである。
ともかく60歳くらいにな知れば昔を語り人生を生きたともなる。
あの人の人生がどういうものだったのか二つの会社に勤めたことが人生だったとなるのか?会社人間だったとなる。それが今の人の普通の人生である。

駅舎にて昔を語る人なれやいわきの人と秋のくれかな
posted by 老鶯 at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)