2016年11月01日

京都の秋-石塀小路 (abstract picture-the path of the stoned wall in Kyoto)


京都の秋-石塀小路 

(abstract picture-the path of the stoned wall in Kyoto)



autumn in KYOTO

wellcome kyoto

oidiyasu in japanese


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0ne haiku

菊の花石塀小路に日の暮れぬ

the path of the stoned wall in Kyoto

where chrysanthemums bloomed,

the day closed



the path of the stoned wall in Kyoto



タグ:石塀小路

介護の重圧は正常心が保てなくなる (介護で国力も衰退するので捨てるという決断も迫られる)



介護の重圧は正常心が保てなくなる


(介護で国力も衰退するので捨てるという決断も迫られる)


介護十年もしていると自分の精神状態が異常化していことを終わって気づいた。
30年間は自分はあまりにも恵まれていたからということもあった。
何不自由のない生活を30年間してきたからである。
だからこのことを相当に恵まれていたのである。

介護は何か常に重い石を背負わされていると同じである。それが不思議に介護する人がいなくなっても以前としてその重い石を背負わされているという感じになっていた。
でもその重い石がとりはらわれて何か自由だな楽だなと感じるようになった。
それは別に今までは30年間はそうだったのだけどそういうことが普通のだが介護していたらその普通の状態から離れて異常化した状態になっていたのである。

それは障害者とにているかもしれない、どこかに障害があり足が悪ければひきづって歩いている、それが障害者としての生活だからではもしあなたの足はもう良くなったから歩きなさいと言っても歩けなくなるとういうことがある。
そんな状態が介護の重圧が作りだしていたのである。

介護は介護一や二でも実際は食事でもそうだし何もできないから絶えず見ているということ、目が離せないのである。それより眼を話しても心配になるから四六時中頭から離れられないという重圧なのである。
何か常に重たい石をかかえていると同じなのである。
その介護の時間も最低で五年と十年なども普通にある、長いことがさらに重圧を感じる
一二年では終わらないことが重圧になる

だから妻とか親をある会社に勤めている働き盛りの人が介護して仕事していたけど仕事に集中することはむずかしい、自分は別に仕事しなくても何か重しのようにいつものしかかっているから正常な思考からも離れてしまっていた。
それは何か景色を今までのんびり見ていることもできなかったことに終わってみて気づいたのである。
それほど介護は自分は介護度一二くらいでも感じた、三食用意することも手間なのであるトイレは自分で行っていたしオムツをすることもなかった、それでも重圧だったのであるそれれくらいだから自分のようなずぼらな者でもなんとかやれたとなる。

介護は肉体的なものだけではない、精神的消耗が大きいものだと思った。
だから会社の技術職の人など仕事に集中できなくなる、すると日本の経済にとって損失だともなる、つまり介護は今や金の問題にしても国力を衰退するほどになっているのだ。
その数も増えてくれば当然そうなる

自分はやりたいことをやらせてもらったあとだからできた。それが50代とかなると働き盛りの人もいる、自分の場合は旅が仕事ともなっていたが海外旅行したのは50以降だからもう海外旅行もできないとなっていた。すると何かプログのようなものでも書くにしても変なことを言うことになり笑われていたとなる。
実際それまではそうだったのである。海外旅行の経験がなかったからである。
それから十年くらい海外旅行してきたからそれなりの識見をもてるようになったのである旅するにしてもそれだけの時間が必要になるのである。

だから介護は仕事として若い力を消失させるのはもったいない、というより国力の衰退につながる。それでナチスが障害者を抹殺するという暴挙になった。
障害者の問題は深刻なのである。知っている人でも軽い障害者でも今は40になっても60歳になってもめんどうをみることを親が強いられるのである。それも介護とにているのだ。そしてそういう障害者をめんどうみても誰もそのことでほめる人もいない、親だから当然だとなるだけである。介護してもほめてくれる人などいないし社会的評価してくれる人もいないのである。

だから自分は30歳の頃、叔父にあたる人が癌になり手術するとき輸血を頼まれたが断ったその人は60歳で死んだ。でも自分はその時登山をして体力がないから死ぬほど疲れていたのである。登山はものすごく体力を消耗する、自転車より消耗する
それで輸血を断った、その人は自分を恨んで死んだかもしれない、でもそれより自分はその時登山して良かったなと思う、なぜなら登山は体力あるときでないとできなかったからである。
そんなとき身内の介護でもしたくない、自分の人生が犠牲になる、では何が犠牲になるのか?お前にそんな犠牲になるものがあったのかともなる

でもあったのである。詩を作る、芸術を創造するというとき登山であれ旅であれそういうことは必須なのである。学問でもそうである。現実にこの地球を体感することがまず先にある。そのためには体力ある若い内に登山であれ厳しいことをしていた方がいいのであるなぜなら年取ったらもうできなくなるからである。
それで退職した人が一人旅しているのには最近良くあう、今日も函館から新幹線で来た老人にあったのである。

いづれにしろ介護報酬の問題などあるが介護の問題はどうするかとなるとむずかしい。
それがなぜかというと国力を衰退させるとまでなっているからである。
数が膨大になってゆく高齢化社会だからである。
たいがい介護した人は長いからもう介護にかかわりたくないとなる、自分もそうである。介護の重圧は借金ともにていて借金を返さない限り晴れた気分にならなかったというのとも同じである。
借金している人も確実に正常心を失っているのである。だから頭の中が借金のことしかない、その人が自分が介護しているとき病気になっている時来たのだから最悪だったのである。
第一他人の苦しみなど介護であれなんであれ無関心なのが人間である。
自分が苦しくなれば別だが何もなければ何にも感じないのである。

これから介護をどうするかは国民的課題である。金の面でもそうだし個々人に家族に課せられることでもそうであり世代間の問題でもある。
でもこれを解決することは簡単にはできない、親を捨てていいのかとかいろいろな問題があるからである。
た国でも市町村でももう財政的にも労力でももたないんということが現実に現れている
つまりもう老人は捨てるほかないという決断すら迫られる、特に介護ではそうである。
それは情がないとか愛がないとかの問題ではない、それだけの重圧にもう個々人でも社会でも耐えられないとなるからである。













タグ:介護の重圧

2016年11月02日

鹿島駅でいわきの人と語る (市町村合併でかえって地域の特色が消えた)


秋の暮(鹿島駅でいわきの人と語る)


(市町村合併でかえって地域の特色が消えた)


1966年(昭和41年)10月1日 - 新産業都市建設促進法第23条に則って、上記14市町村(5市4町5村)が新設合併し、いわき市が成立[5]。当時としては面積が日本一広い市となった。
1973年(昭和48年)3月20日 - 現在の市役所本庁舎開庁。市の花ツツジ制定。
1976年(昭和51年) 常磐炭鉱完全閉山。
1979年(昭和54年)4月23日 - 「いわきナンバー」の交付開始。自動車のナンバープレートとしては初のひらがなナンバーとなる。

鹿島駅に今日いたのは酔っぱらいだった、何か寝ていて警察に連れてこられたとか、除染している人で喧嘩してやめて帰ると言っていた。いわきの会社で働いていて今は水戸に住んでいるという、水戸は電気代とか高いと言っていた。
60近い人だからそれなりの人生を経験している、会社は二回倒産した。でもかなりの給料をもらっていた。鹿島駅は水戸からきたJRの社員が何か直していた。
新地までは水戸管轄であるというのも知らなかった。仙台だと思っていたのである。

その人はいわきナンバーが発行されたとき取得した。それは1979本であり30年前とかなるいわきナンバーは浪江、双葉、大熊もいわきナンバーである。
いわきナンバーというとき外から嫌われることがあるだろう。第一福島ナンバーでも傷つけられたとか聞いたからである。
いわきナンバーになったのは30年前とかなるとずいぶん古いとなる
いわき市が成立したのが50年もすぎているのか?そんなに長いのか?

なんか以前としていわきより平というのがなじみがある、その人も平のことを言っていたから人間の感覚は地名でもなじむのには相当な時間がかかるのである。
いわきというひらがながなじめない、磐城の方が何か重みがあるというときもともと磐城国が古代からあったためだろう。磐城太田という駅名もそうである。相馬でも磐城国になっていたからである。
市町村合併は明治でも大々的に行われ複雑化した。
昭和の市町村合併でも南相馬市が鹿島と原町と小高が合併して成ったがこれも何か未だになじみがない、地名はもともと古い、千年前とか古代からのが多いからそうなる
地名になじむの百年とかかかるかもしれない。

そして前にも書いたけど廃藩置県になったときその地域の特色が喪失した。
福島県は広すぎるのである。気候でも会津と中通りと浜通りも違っている。
会津は冬は雪に埋もれるけど浜通りは雪はほとんどふらない、あたたかい海洋性気候なのである。
要するに今だって福島県というより会津は会津で地域性があり全国でも通っている
つまり廃藩置県はかえって地域の地理とか歴史とか風土を無視して人工的に境界を無理やり作ったからそうなった。
そもそも地域の特色を出すのに県単位だと広いし無理があったのである。
福島県でも広すぎてアイディンティティを作ることがむずかしいのである。
会津は福島県では別の世界であり古代から一つの国だったのである。
そういう地理とか歴史性を無視したのが廃藩置県だったのである。

いわきの花がつつじなのか?つつじというと双葉駅がつつじが咲いていた。それは有名だった。でも今は見ることができない、双葉とか大熊とか原発のあったところは鉄道が開通するのはいつになるのか?
仙台までは12月に開通するからそれで交通面では復興したとなる、いわき方面はもともと二両の電車でありこの辺ではいわきより仙台との交流が深かったのである。
福島市は鉄道がないし阿武隈高原にさえぎられて不便だったからである。
仙台まで通じればさらに全国に鉄道が通じるから復興になる。

ともかくいわきというひらがなもなにか古代からの歴史を無視している。何か重みがないわかりやすくしたとしてもひらがなになると重みが感じられない、磐城というのは何か重みがあった。
いわきは広くなりすぎたのである。それで地域地域の歴史や風土が外からかえってわかりにくくなったのである。そういうこと市町村合併でどこでも起きたことである。

いわきは相馬から近いのだけど何か遠いという感じにもなる、いつわきはむしろ何か東京に近いともなる,なぜなら普通車両で上野まで行く電車があるからだ。
いわきに行くと何か東京も近いと感じる、その電車は上野までの通勤列車だからである
その通勤電車にのって上野まで行ったことがあるからだ。

何か鹿島駅は無人駅だけど外からの人がよる場所である。そこで全国の人と話すると面白いとかなるがみんなが話できるとは限らない、いろいろな人がいるからだ。
でも自分は全国を旅しているから話を合わせることができる、いわきだと福島県だから当然だが函館の人となると自分が住んでいる場所のように地理もわかるから話できる。
でもその人とは深い話はできなかった。

その人は原町の無線塔のことを知っていた、60近くだと知っている、あれも壊されてすでに30年40年も過ぎているだろう。あれは原町のシンボルだったのである。
ともかく60歳くらいにな知れば昔を語り人生を生きたともなる。
あの人の人生がどういうものだったのか二つの会社に勤めたことが人生だったとなるのか?会社人間だったとなる。それが今の人の普通の人生である。

駅舎にて昔を語る人なれやいわきの人と秋のくれかな
posted by 老鶯 at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2016年11月03日

古殿からいわきへの旅(秋の俳句十句) (塩の道をインターネットでふりかえる)


古殿からいわきへの旅(秋の俳句十句)

(塩の道をインターネットでふりかえる)

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古殿に市たつ昔秋の暮

鶏頭や御斎所街道下り来ぬ

水清し落鮎あわれここに死す

旅路来て鮫川に出会い水澄みぬ

磐城なる遠野をすぐや刈田かな

いわきなる稲刈り終えし遠野かな

はるばると山よ海へ秋の空

なでしこやいわきに目覚め朝の海

秋の海常陸に通ずいわきかな

みちのくの勿来の関や秋の暮


古殿に荷市場ありて市たつと杉の木古りぬ秋のくれかな

貝泊(かいどまり)その名残して塩の道牛も休ませ秋の日暮れむ


塩の生産地だった磐城の浜と、平潟九面両港に荷上げされた瀬戸内の移入塩は、荷駄に積まれ海産物と共に中通りに、会津方面に運ばれていた。

貝泊の地名は貝(峡)山と山との間の狭いところ、そして泊は止るを意味するものという。
 又、現在も「牛屋」と呼ばれる家もある。荷駄を積んだ牛の休憩所即ち立場であろう。 県道黒田−浅川線を西に進む。しばらくして右に折れる道は戸草を経て才鉢に通じる道である。

鎌倉岳山裾の荷市場の地名は「市神碑」(1319年建立)が語源であり、塩の道の重要な点でもある。

柳の若葉が眼にしみる頃肩荷で棒手振で御斉所街道を運んで来た初鰹の売り声が聞える・・・柳の根元に繋がれて餌を食べながら尻屋 で蝿を追払う馬車馬・・・繋石の脇で口を動かしながら休んでいる木炭を運んで来た赤牛・・
udono.fukushima.jp/kanko-dentou-bunka/see/shiseki/sionomichi/nisijyou1/159


ここのサイトに塩の道のことが書かれていた。

古殿に荷市場とありそこに古い杉の木があり古跡となっている。
ここには阿武隈高原に沿って自転車で行ったことがある。その記憶が明確ではない、鮫川とか石川郡とかなじみがない、ただ山の中に万屋(よろずや)があり味噌汁とご飯とかご馳走になったのを覚えている、今どきそんなことする所はない、まず万屋というのは昔あったが今はない、山の中だから残っていたのである。
記憶をたどる旅はインターネットが役にたつ、土地のことを書いているサイトが必ずあるからだ。

御斉所街道をはかなりの距離だった。ここを一気に下った、結構急な坂だった。
途中に貝泊とかあり塩の道で泊まる場所が記憶として残されているのもわかる。
相馬市の松川浦から塩を飯館村を通って二本松まで運んだ塩の道は有名である。
ただここは馬で運んだ、いわきの塩の道は牛で運んだ。
一番有名な長野県の信州の塩の道は日本海から松本まで運んだ、その道のりは長い、山中の細い道であり急な所もありそこで牛が転んだというのは実感できた。
牛つなぎ石とかもあり牛を休ませた牛小屋は今でも残っている、いわきにもこれと同じであったが小規模である。
塩はいわきでは作られず瀬戸内海の方から運ばれたから相馬藩とは違っていた。

この御斉所街道を下ったところに鮫川が広く流れていて落鮎をとる簗場があり臨時の食堂もあった。清らかな水に鮎が死んでいた。
そこから遠野に出た、上遠野があり下遠野がある、上は奥である。遠野というとき磐城の市街から遠いということで遠野なのか?そういう位置にあったことはわかる。

遠野から市街に出て磐城の浜に出てテントを張り目覚めたら撫子が咲いていた。それは覚えているのだかあとはどうなったのか覚えていない、旅でもなんか忘れることが多いのである。
自転車の旅でも忘れるのである。ただ懸命に御斉所街道を自転車で下って行ったことは覚えている
旅は計画して実行してあとでふりかえる、このふりかえることが意外と大事だった、なぜなら記憶していなければ行ったことにもならなくなくからだ。
記憶していればあとで地図でもインターネットでも見てそ記憶を蘇らせることができるからだ。

いわきは浜通りで近くても広いからわかりにくい、地理的にも歴史でもわかりにくい、特に石川郡とかなるとなじみがない、古殿でもなじみがない。
勿来の関でも白河の関所とは違いなじみがないし行ったこともない、福島県は本当に広すぎるのである。
いわきというと古代の常陸に近い、棚倉でも水戸街道へ通じる、水戸が近くなる、それが地理的特色である。そこで勿来の関と白河の関所があったとなりみちのくに入る場所なのである。
ただいわきには城がないから城跡すら平にあったとしても何か石垣すら残っていないとか歴史が偲べない、三春藩だと城跡が残っている、やはり歴史を偲ぶとき城がないと偲びにくいのである。

塩の道で貝泊というのがあったというのはあれだけの長い道だし坂だから当然だとなる。相馬市から飯館村への塩の道でも途中山中に助之観音堂(たすけのかんのんどう)がありここで泊まったとある。
とても松川浦から一日では飯館村までは行けない、途中沢沿いに細い危険な道がありそこは通れなくなっている、一歩ふみはずと沢に落ちる、だから牛転がしとか各地に地名化した。

旅というのもこうして歴史をたどらないと印象に残らなくなる、ただ旅も空間的移動だけになってしまう。現代の旅は交通が便利だから空間的旅はどこまでも地球でもできる。
ただそこに時間軸としての歴史を偲ぶ旅ができないのである。
空間の移動はできても歴史となると想像力と知識も必要なのである。
それを今回はインターネットとかでたどりした。こういう作業を今はしている。

2016年11月04日

二宮尊徳の思想が見直される時代 (グローバル資本主義経済は限界に来ているから)


二宮尊徳の思想が見直される時代


(グローバル資本主義経済は限界に来ている)



大地の実り

大地は誰とも争わない
人間は境界を作り争う
大地は誰とも争わない
大地は深く沈黙して
様々な実りをもたらす
大地は誰とも争わない
大地はひたすら忍耐して
人に実りを与える
その土地土地に何がしか
神は与えるものがあり養う
その分を与えて養う
そこに人の生きる土台がある
その分を越えて求めるとき
人に災いが起きる
人は天より神より罰せられる


分度と推譲

 「報徳」の実践で、特に重要な概念が「分度」「推譲」だ。
 「分度」とは、あらかじめ定めた収入の範囲内に支出を収めることを言う。尊徳は、過去に遡る調査で見定めた土地の生産力に基づき、農民と領主双方の取り分を設定した。
 その上で農民達には勤労を求めた。努力すれば、分度を超える収入が生まれることになるが、この分度以上の収入は、子孫や他者に譲ることとされた。これを「推譲」と言う。子孫への推譲は将来世代に残す貯金であり、他者への推譲は地域への寄付と言い換えられる。

経済倫理の根幹といえる。金銀財宝そのものは決して貴いものでなく、足るを知る心こそ何にもまして、貴い宝である、


相馬藩では二宮尊徳のことは常に語られている、二宮尊徳の弟子となった人がいて二宮仕法を実践したからである、二宮尊徳が直接来て指導したわけではない。
二宮尊徳の思想と実践は江戸時代の封建制という制約の中で実践された。
江戸時代というのは役とか分度とかが常に言われた時代でありその分を越えないというのが日々の生活の中で習慣化していたのである。
士農工商とは身分制のことではなくその分を役を与えられて生きることでありそれぞれに与えられた分度を越えてはならないというのが生活の中で徹底されていた社会である。

その江戸時代と対比するとき明治から現代の変化は余りにも大きかったのである
特に高度成長時代というのは江戸時代からつづいた経済感覚を全く変えてしまったのである。分度もなにもない、グローバル経済にとりこまれ欲望のグローバル化だった。
食糧でも世界から入るあらゆるものを食べるようになった。
江戸時代は物が少ない時代だから当然質素倹約になる。それは明治から戦後十年は日本は貧乏だから質素倹約が自ずと思想になる
だいたい人間は歴史をみれば庶民であれば質素倹約であり贅沢していたのは王侯貴族とかほんの一部だったのである。それが高度成長時代のグローバル経済で過去の王侯貴族並みの生活になったし庶民もそれを当然のように求めるようになったのである。

その時経済の変化として生産より消費が重んじられるようになった。消費が美徳となったお客様は神様ですとまでなった。金を払い消費する人が偉いとなったのである
普通だったらこれまでは苦労して生産している人が偉いのである。
この辺では原発事故の避難者が仮設に入っている、そ人たちは金が入った、その仮設の人たちは何もしないで遊んでいる人たちが多かった。ギャンブルしている人も多かった。
ある女性の人はここで金使ってやっているんだから地元の人は助かっているんだよと言っていた。
このことにも現代人が消費者が王様だともなっていたことがわかる。
原発事故の影響は広範囲で補償金をもらったのは避難した人たちでありあとは何ももらっていないのである。
その避難した人たちは病院であれ介護であれ何でも優先になったのである。
あらゆる保証があり優先されたのである。
そこで地元の人たちが不満なのは当然なのだがそういうことも感じない人もいたのである金使ってやっているんだから地元の人も助かっているんだという考えはまさに現代の消費が美徳、消費者が王様だということでありその金が原発の補償金でないとしたらそんなに言われないだろう。
これもまた現代の矛盾でありそれが露骨に原発事故で現れたのである。
あいつらは毎日補償金で遊んでいる、地元の人たちはその人たちのために働いている
そうなればやはり地元の人たちだって不満になる
これは特殊な例にしてもやはり現代を象徴したものとして起きたのである。

グローバル資本主義経済の問題はもともとあった人間の経済から発した道徳を破壊したことにもある、二宮尊徳の思想が生まれたのは現代のようなグローバル資本主義ではない、江戸時代という分度を守らねば生きていけない時代だったのである。
そういう制約の下に必然的に生まれた思想である。
資本主義でも税所は修道院から始まったというとき資本蓄積が勤勉という質素倹約のモラルから始まった。それは二宮尊徳の思想と同じだったのである。
それが今は全く違ったものとなっている、強欲グローバル資本主義であり金融資本主義であり一攫千金を求めたりあくことなく世界的に欲が限りなく拡大した社会である。
そこには分度などというものはない、だから極端なのは中国の共産主義国家でも巨万の富を得る人が出てきて王様並の富を得ている矛盾がある。
そういう巨万の富を得ることがグローバル資本主義の成功者であり庶民でもそういう人たちが憧れの人となる、そうしたら質素倹約というモラルはない、金融で株で一攫千金をねらうとかになりやすいのである。
もともと分度を越えるのが資本主義の思想としてあったのである。
封建時代の農業中心から生まれた思想とは余りにも違っているのがグローバル資本主義社会なのである。

一国にとどまらない、国を越えて富を求めてヨーロッパの貿易による世界侵略ともなったのである。資本主義に冒険とかイノベーションとか技術開発とか何か質素倹約とか勤勉とかの徳とは違う思想がある。むしろ質素倹約の思想は共産主義にあった
その共産主義自体が資本主義化したから資本主義の思想が世界のスタンダードになったのである。
でもそれも見直す時代になった。様々な矛盾とかモラルの荒廃が生まれたからである。
この辺の原発事故でもそういう時代の矛盾の結果として現れたともなる
なぜなら庶民一人一人でもいかに強欲になっているか、限りない欲を求めているか、
それは借金してまで贅沢するというのが普通である。
そして金がないからと借金を求め自分は節約もしない、金は借りればいいとなり以前として贅沢しようとしている、こんな人間とつきあえのか?
いくら金があってもたりない、そんな無謀な人間が現代の社会が作り出したのである。
結果的には金の切れ目が縁の切れ目となる、それは昔からあったにしろそれはが極端な普通の現象になったのである。
現代はモラルを説くこと自体無駄だとすらなっている。金が暴威をふるい誰もそんなこと聞かないとまでなっているからだ。

だから江戸時代を見直すというとき実は歴史とは過去にあった今に見失われたものを見いだすという作業でもある。現代がなぜこんなふうになったのだというとき過去がどうだったと歴史をふりかえるとそこにモラル的には人間として極当り前の世界があったとなり見直し参考になるということである。
二宮尊徳の思想は特別なことではない、人間として当り前のことである。分度をわきまえるとか余剰を貯えて公共のために他人のために役立てるとかは別に普通のことである。。その当り前のことを実践したからこそたたえられたのである。

民主主義というのもその解釈はいろいろある、でも何でも平等というのはかえって不平等になる。女性も平等を主張したとき男と同じになることでなかった。第一男と同じにはなれない、女性の分を尽くすことが女性として生まれた喜ぶにもなる。
確かに一部の女性は優れていて男と変わらないように仕事できる人もいたがほとんどはそうではない、女性は女性の分を尽くすのが女性にとっても幸福なのである。
その他に人間は何でも平等を追求する、お前と俺は同じなんだ、何でも同じでなければらないとなったらかえって不平等になる。それぞれの個性があり分を発揮するとき社会は多彩になり富むことにもなるからだ。
民主主義の思想は何か?その思想も深く追求されず何でも平等のみが追求されたことで社会を歪めたのである。
だから一見封建時代の分度の思想が古いから現代に合わないということではない。
かえって新たな視点で見直されることがあるのが人間社会なのである。

貿易とかはたりないものを他者から他国から補うということが基本にある、それは助け合いということでもある。ただそれが限度をこしている、江戸時代とか戦後十年くらいの自給自足社会とはあまりにも違った世界なのである。
分度をわきまえない、世界的に限りなく欲望をふくらませてゆく社会である。
それは自然の理にも反する、天の理にも反する、だから突然リーマンショックとか資本主義が恐慌になり破綻するリスクをかかえている。
そういう自分もまた甚大な被害を受けるから喜べることではない矛盾をかかえている、でも素人はもうからな仕組みになっている。
何か手数料などがひかれるしリスクになると大損するからである。
ただもうこうしてグローバル資本主義の限りない欲望の追求は限界にきた。
もう株は上がらないとか石油の値段も上がらないということは生産力も消費も限界にきている。
すると江戸時代の二宮尊徳の思想が見直されたりするのである、それは自然や世界が正常心をとりもどすということにもなる。
現代はそういう転換期にきている、原発事故もそんな危険なものを作ったのも人間の限りない欲望の結果だったということもあったからだ。
それに神からの罰が与えられたともなる、グローバル資本主義は何か人間的モラルに反するから破綻する、金融で暴利をむさぼるというのもそうである。
世界の数パーセントの人が富を独占しているということが異常化しているから破綻してしまう。人間普通の生活をしていれば二宮尊徳の思想のようになる。
それは江戸時代はそういう自然との共生とか自然の制約とか社会の制約で生活せざるをえないから当然そういう思想にもなったのである。
ただ資本主義でもすべてが悪ではなくフロンティアを開くということでは意味があった。それも侵略だったということも言われるがやはり世界がそれに刺激を受けて発展するということはあった。ただそれも今ではマイナスのものとして意識され否定されるようになったのである。

天の理、地の理、自然の理、神の理に反するとき社会に乱れが生じる、ノワの洪水もみな心が悪しくなっとので起きた。

   父母根元在天地令命  (父母の根元は天地の令命に在あり)
 身體根源在父母生育  (身体の根元は父母の生育に在り)
 子孫相續在夫婦丹精  (子孫の相続は夫婦の丹精に在り)
 父母富貴在祖先勤功  (父母の富貴ふうきは祖先の勤功に在り)
 吾身富貴在父母積善  (吾身の富貴は父母の積善に在り)
 子孫富貴在自己勤労  (子孫の富貴は自己の勤労に在り)
 身命長養在衣食住三  (身命の長養衣食住の三つに在り)
 衣食住三在田畠山林  (衣食住の三つは田畑山林に在り)
 田畠山林在人民勤耕  (田畑山林は人民の勤耕に在り)
 今年衣食住昨年産業  (今年の衣食は昨年の産業に在り)
 来年衣食在今年艱難  (来年の衣食は今年の艱難に在り)
 年年歳歳不可忘報徳  (年年歳歳報徳を忘るべからず)

五行思想面からの説明では、万物には木火土金水の徳があり、王朝もこの中のどれかの徳を持っているとされた、大同の思想もこれとにていた。分は仕事のことだった。

こういう思想は農業を通じて生まれたのである。農業は天地と自然と深くかかわるから必然的にそうなった。工業となるとこういう思想は生まれにくいからである。

命長養在衣食住三  (身命の長養衣食住の三つに在り)
衣食住三在田畠山林  (衣食住の三つは田畑山林に在り)

田畑山林が生活の基でありそれは自給自足が基本の生活だったのである。
今はそんなことを考える人はいない、生活の基は電気でありその電気を作る電力会社であるともなる。電気の源は何か?それは石油であるとかなる。
炭で生活していたらエネルギーはすべて身近なものでまかなっていた。山林がありまかなっていた。その差が大きすぎるのである。
勤勉の思想にしても機械が導入すれは働くの機械であり人の労働は軽くみられるから勤勉の思想も成り立たなくる。
ただ以前として人間は天地から離れてありえないのである。
人間の科学でも技術でも限界があるだ。それが原発事故で示されたのである。

分をわきまえることが常に強調されたとき、その分とは役とは国単位でもそうである。
日本にと日本の役と分がある。それは地理的環境でもそうなる。
一国はそうして自然の分として神から天から与えられたのである。だからグローバル資本主義経済はそうした分を生活の基本にしないで無視する。
食生活でも日本だと海の幸が豊富であり山の幸があり縄文時代からそういう生活をしてきたのである。人間は風土を無視してありえないのである。人間の体そのものがその土地土地に適合して長い時間で作られてきたのである。
それで日本人は腸が長いというとき穀物が主食だから牛のように咀嚼して消化するためにそうなった。欧米人は肉食だから肉を消化しやすい酵素が出るということでもそうである日本人には牛肉とか豚肉でも肉食は合わないようにできている、その代わりに貝と魚でも海産分が適していてそれが長寿の国にもなった原因である。
新地の鹿狼山や他にも手長明神の伝説、長い手を伸ばして貝を食べていたというのは日本が海の産物で生活していたためである。

ともかくグローバル資本主義は天地とも遊離しているし国々でも個々でも分をわきまえることがない社会である。ただ金が突出して猛威をふるう社会である。
その富が世界の数パーセントに集中する世界である。それは自然の理にも天の理にも反するから崩壊する危機にさらされる。
資本主義は農業から生まれたものではない、自然と遊離した商業とか工業を基本にして生まれた、人間の思想も自然から離れてありえない、大地でも忍耐しているというとき大地や山でも石でも樹でもそうみる。争わない忍耐して実りがある
でも今はそういう石にも三年とかないのである。手っとり早く金になることしか考えない農業中心だと自然とかかわるから時間の感覚が長い、すぐに実りはえられないからである工業の時間感覚とは違うのである。それは車を利用する時間でもない、牛馬を利用する時間だとなる、動物の時間は人間の時間と適合するのである。
機械に合わせた時間は自然の時間とは違うのである。
そしてあらゆる人が世界の人がその分をわきまえずグローバルに欲望を限りなく追求するそれが天にも神にも許されるのかとなる。そこから今回のような災いが生まれてくるのである。


posted by 老鶯 at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2016年11月05日

郷土史に関心がもてないのはなぜ? (自給自足生活からグローバル経済の変化のため)


郷土史に関心がもてないのはなぜ?


(自給自足生活からグローバル経済の変化のため)


郷土史というとき関心が薄れいる、それは現実の生活が郷土と結びついていないからである。戦後十年までは自給自足の生活だった。
エネルギーも炭だから故郷の木を利用していたし家でも外材はないから回りの森の木を利用していた。屋根は茅葺きだとするとその萱も近くの山であれ萱場とかあり材料は近くのものでほとんどまかなっていた。
橲原の方に右田の人が肥料となる草をとりにいっていたというときもそうである。
こうして近くのもので生活しているとき当然郷土意識が育つ、つまりほとんどが郷土によって育まれていたからそうなる。
そこに郷土愛も生まれてくる、しかしそれが高度成長時代から急速にグローバル経済になり変わったのである。

例えば原町区の深野(ふこうの)という所に豪倉(郷倉)というバス停の地名が残っていたので紹介した。その深野に住んでいる人もそのことを知らない、興味がないということがある。それはなぜなのか?
つまり現実の生活と結びつかないからである。その郷倉は国で天皇から御下賜金として与えられたものだった。それは昭和十年のことだったから新しいのである。
飢饉とかに備えて米などを貯えておく倉である。それは江戸時代から全国にあった。
それを自分でもただ地名に興味をもっているから関心をもった。
でも今回は原発事故とかで避難したとき外から食糧でも入ってこなかった。
二週間くらい入ってこなかった。ただこの時原町区は30キロ圏内であり避難命令が出たので外に出た、鹿島区は30キロ圏外であったが半分は避難した。

自分は親を介護していることもあるし避難命令は出ていないので残った。鹿島区でも半分は外に避難した。そこで一週間くらいは米があったので梅干しとかもしりノリもあってしのいだ。でも米もなくなったとき鹿島区では古米が支給されたのである。
それで助かったのである。そのあとは相馬市ではスーパ-が開いた、でもガソリンがなくて車を使えない状態がつづいた。、自分は自転車で相馬市まで買い物に行った、その時から買い物できたので楽になったのである。
こういう経験をしたので郷倉というのを具体的に身近なもの生活に必要なものとして理解した。倉はないにしろ古米が貯えられていたから配られたのである。

こういうことで郷土のことを意識する、でも現代はグローバル経済になったとき常に意識しているのは近くのことではなくなったのである。
戦後十年は子供のときは家には裸電球一つしか使っていない、電器製品はなにもない、炬燵もない、炭であり囲炉裏があった。それは町内でもそうだった。
電気が通っていたとしても電信柱があったとしても電信柱が賢治の童話で人間に見ていたようにめずらしいものだった。道はほとんど舗装されていない、もちろん車もない時代である。水道もない時代である。今からするとそういう時代の経験は不思議だなとなる

それから高度成長時代となり急速に変わったのである。エネルギーは石油の時代になった石油は中東などから運ばれる、するとそこですでにグローバル経済にいやおうなくまきこまれる、石油の値段が一大関心事になり中東の戦争で石油が入らなくなるとか石油ショックとかあったそれでトイレットヘーパーをかいためたときがあったのである。
もう炭などは使わないから地元のことよりはるか遠くの中東の方が心配になる。
もうどんな田舎だろうが石油が必要であり電気は石油から作られているし石油であらゆるものが作られるというとき石油なしで生活が成り立たないからそうなる
当然そうなると地域のことより中東の情勢とかの方に関心が向くのである。
グローバル経済はとんな辺鄙な田舎でもその中に組み入れられているのである。
それは石油を例にした他でもそうなる、原発もまた電気を作るから原発が大事になっていた。実際に双葉とか大熊は東電の会社員のようになっていたのである。
多国籍企業時代というときまさに巨大企業に地域がのみこまれるのである。

石油が大事だというとき石油をどうして買いるのか?それは日本が高度成長時代は電化製品をテレビでも何でも売ることによって得られた、石油はドルでしか買うことができないようになっていつたからアメリカに売ることによって高い石油を買うことができたのである。
そうなると炭をエネルギーとした時代とは余りにも違っている、石油を買うには電化製品を車を売る、日本の技術の発展が望まれる、そうなるとそうした技術が重要になり農業などの第一次産業は低いものと見られるようになった。
田舎でも一割にも満たない生産しか農業にはない、漁業も同じだった。
別に株をやらなくても誰でもグローバル経済の中に組み入れられていて多国籍企業化した中で生活しているのである。
その一番わかりやすいのが石油なのである。

だから何か郷土というとき郷土史でもマイナーな好事家がしているようなものになる。
それは現実の生活と結びつかないからそうなる、関心がもてないのである。
でも津波のことでも郷土史というのが実は現実と結びついていたことに驚いたのである。400年前にここにも津波がきて700人溺死と記録されていたからである。
ただそれは二行くらいでありほとんどの人は知らなかった、今回の津波で知っただけなのである。そういう重要なことが見逃されていたということはなぜなのか?
人間の関心がグローバル化して外に外に向かうようになったからである。
それで肝心の地元のことが忘れられていたともなる。
テレビでも話題にするのは東京とか世界のことであり関心は常に外に向かうようになっているのが現代である。
インターネットで地域とかマイナーな話題を取り上げるようになったのは変わったことではあった。
でも常に関心はグローバル化しているから地域のことは現実と結びつかないから関心がないとなる。

みんな会社人間だったら当然会社から給料をもらい生活しているのだから会社が一番大事になる。会社が成長している、もうければ給料も良くなると働くからである。
グローバル化とは多国籍企業が支配する社会であり国が支配する社会とも違うのである。多国籍企業はグローバルに事業を展開してそれに国が政府が追随しているという関係にもなっている。それはアメリカでも日本でも世界的にそうなっている。
そこでは地域とか郷土とかは情報的にも意識されない、常に意識されるのは世界のことである。
大統領選挙が今の世界的話題になったのもそうである。それがどこでも世界的に密接に関係しているからである。
だから深野の豪倉のことを取り上げてもそこに住んでいる人すら関心がないとなる。

こういうことも何か人間の生活として歪みをもたらす、精神的にも人間の生活はその住んでいる場所からアイディンティティを形成してゆくのが順序である。
ヨーロッパのゴシック建築がドイツの森も模ししているときもそうである。文化はその土地と密接に結びついて生まれている。
グローバル経済はその土地から切り離されたものとして働く、そして金が唯一の価値となる。金で買えないものはないつとか世界でなるのがグローバル経済である。
グローバル文化というのはありえないのである。
インターネットで抽象画を外国のものを参照にしているときそういうものは一部にあっても一つのルネサンスのような文化は興らないのである。

なぜこの辺が原発事故で住めなくなるような状態なったのか?
それは炭をエネルギーとした時代から急速に電気の時代に移ったためである。
石油の時代となり原子力の時代になったためである。
みんな郷土の一員より会社の多国籍企業一員となったとき、郷土愛より会社愛になる。
常に思っているのは会社のことであり郷土のことではないからだ。
ヤクルトが地域密着型として一軒一軒回っているとしても今度テレビ放送するから見てくださいとか会社の宣伝になる。深野に住んでいたとしても地元のことには関心がないとなる、それは今はみんな会社員だから会社のことを第一に考えるから当然だとなる。
でも古米が配られて助かったというとき故郷意識をもった。
しかしこういうことは今はまれである。
復興にしても三陸でも復興したというとき漁業で生活する他ないから明治の津波でも一万人も死んだというときも便利な海沿いで生活をはじめたのである。
魚や海産物をとって生活す他ないからそうなった。今はそういうところでも会社が中心になればそうならない、それて外に人が流出して復興できなくなる
そういうグローバル経済とかの矛盾がここに津波や原発事故で顕著に現れたのである。


深野の豪倉(郷倉)は昭和十年時代のものだった

(緊急時とか飢饉の備えとして昭和に国からの意向で設置)


posted by 老鶯 at 11:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2016年11月06日

Hindo temples(ヒンズー寺院)


Hindo temples(ヒンズー寺院)

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イギリスのEU離脱、トランプのアメリカ一国主義 (グローバル経済への変換の世界的兆候)


イギリスのEU離脱、トランプのアメリカ一国主義


(グローバル経済への変換の世界的兆候)


イギリスのEU離脱とトランプのアメリカ一国主義、移民などの排斥、自国優先主義はにている。20世紀はグローバル経済に世界が席巻された時代である。
それがいい悪いではない、世界の人がすべてグローバル経済にまきこまれた時代なのである。そのグローバル経済の中心にアメリカがありアメリカの多国籍企業があった。
アメリカというときアメリカを動かしているのは多国籍企業である。
その中心にゴールドマンサックスなどがありウオール街の金融を支配する
その多国籍企業を後押しするのがクリントンだいうときその対立構図がイギリスのEU離脱とにている。
EU経済圏に入ることはそれもヨーロッパの広域経済圏に入ることである。それは地域的グローバリズムなのである。
でもヨーロッパは宗教とか文化とか歴史的共通性があり世界的グローバリズムとは違うのである。それでも英国は独自の道を選んだのである。

ただトランプの過激な移民排斥の政策とは共通点がある。移民が大量に入りすぎたのである。イギリスの空港では黒人が空港の売店で物をチョコレートなどを盗んでいたのをみた貧乏な人が大量に移民として入ってくると治安も悪くなる。
移民との軋轢が増大したのである。なぜこれほどの移民が生まれ大量に流入したのか?
それは移民というのは多国籍企業の安い労働力として入れる、企業の事情にあった。
多国籍間の企業の競争に勝つには品物を安くする必要がある
でも人間は部品のように扱うことはできない、第一フランスがフランス革命で博愛、自由、平等をスローガンに革命を起こしたとき移民も自国民と同等に扱うのが理想だった。
それがゆきづまったのはいくら多国籍企業が安い労働力を求めても相手が人間であり一人の人間はその国の歴史と文化を背負った存在なのである。ロボットではないしロボットとして扱うことができない、まさにフランス革命の理想を実行してもできなかったのである
アメリカも移民の国だとしてもそのアメリカさえ移民に悲鳴をあげるようになった。
なぜなら移民の数が国をゆるがすほどになっているからだ。
第一英語が通じないヒスハニックが膨大な数になった。英語がしゃべれない人が多いとなると意志疎通もできなくなる。文化の基本は言葉だとするときその同じ国民でも通じないのである。そのことで苦慮していることを語っていた。
そしてアムトラックで真夜中に一人おりた駅名がなぜかプリンスだったのである。
アメリカの地名はインディアンに由来するものとあとは英語である。

そもそもアメリカのアイディンティティがどこにあるのか?
世界中から移民が流入して作った国である。歴史も浅い、アメリカ人といっても様々な人種の混合体でありそこでアイディンティティを作ることは歴史の浅い国ではむずかしい。さらにヒスパニック系が増大したとき余計にそうなったのである。
アメリカが移民を排斥するというときアメリカにも歴史がありアメリカの復古主義だともなる。アメリカを作った中核の白人でありエスタブリュシュを取り戻すことになる。
アメリカで中産階級が没落したというときまさにそうしたもともとアメリカの中核を成してきた人たちが没落したからアメリカの復古主義が起きてくる。
グローバリズムは多国籍企業が支配するというとき移民でも安い労働力として使えればいいからである。そこに人種とかで分けないことである。
単一の価値観がいいのである。宗教でも文化でも世界中に単一の価値観がいいのである。そしてその単一の価値観の中で物が売れればいいとなる。
ハンパーガーとかコカコーラとか世界中に普及すればいいとなる。そういう食生活でももともと世界では多様なものがあり適合しないものがある。

そういう障壁をとりはらうことがグローバリズムなのである。それかアメリカの多国籍企業が成したことである。
それでエジプトであれアフリカの果てであれ子供がワンドーラくれとなる。ドルが世界の金になっり金が支配するというときドルが支配することでありそれはアメリカの多国籍企業が世界を支配することである。別にアメリカという国が支配するとは限らない
なぜならトランプはそのグローバル社会に敵対してアメリカを優先させるとしているからだ。アメリカ復古主義でありイギリス復古主義であり共通したものが起きていたのである
世界が今そうした自国の復古主義に右傾化に傾斜している。アメリカすらそうなのだから当然世界もそうなってゆく、自国優先主義である。それで日本に対しても日本は日本で守れとなる。政治的にそうなると同時に文化的にも復古主義の時代となる。
いい点は日本人の復古主義は日本精神の復古につながる。それは日本文化の再生なのである。そうなるとまた世界が国々で対立するという第二次世界大戦のようになると警告する人もいるのもわかる。日本は中国とかロシアとどう向き合うか真剣に問われるのである。それは第二次世界大戦に歴史がまた違った形でもどるということにもなる。
ただその時と違うのは巨大化した中国が相手になるということである。

いづれにしろグローバル経済は転換期に来ているのである。その試みは20世紀の大きな実験だったがゆきづまったのである。
そこには無理がありその無理が限界に達したのである。グローバル経済というのはヒュ-マンな規模から桁外れになっている。そこでは物が流通しても物は日本では単なる物ではない、ものと心は一体なのである。日本語だけがものと心は一つの意味だというときそれは日本文化なのである。ヨーロッパ文明は物と心は分離して考えるからである。
つまりグローバル経済は極端に物と心を分離させるのである。そうしなければ世界的に物を売ることができないからである。多国籍企業になれば別に日本だって大企業は多国籍企業になっているからアメリカだけではないのである。
世界に物を売るということでは同じなのである。

やはり人間は経済をそうして国を越えたり文化や歴史を越えて優先させることができない存在だった。人間はそういうものであり世界を単一の価値観で支配するということは人間を不幸にする、人間の基本としてのアイディンティティを破壊してその存在の根も破壊するのである。それは相馬郷土史研究で書いてきたことである。
ただもう広域経済を否定することはできない、世界で貿易を否定することはできない、
ただ多国籍企業の強引なやり方に歯止めがかけられる、それが人間の存在の根本まで破壊することに世界できづきはじめたからである。
だからトランプがなぜあれほど人気がでてきたのか、あの人は一体なになのだというときそういうグローバル経済への露骨な反逆がありそれがアメリカでも受けたとういことである。
クリントンは生粋の多国籍企業とかウオール街をバッグにしているから嫌われているというときアメリカ人自体がグローバル経済に異議を唱えている。

それは移民によってアメリカ人の中産階級が職を奪われるとかアメリカ人でも白人でも格差社会になりその恩恵がない人が増えたからである。
そしてグローバル資本主義経済げは世界の数パーセントの人に金が集まりその不満が世界でおさえられなくなったのである。
グローバル経済は無理であり成り立たない、広域経済は否定できない、でもその国の中での広域経済ならいいとか東北とか北海道などのブロック経済とかまたさらに狭い範囲の地理的に交流できる人間と人間が交流できる範囲の経済がいいとなる。
そこでは物だけの価値ではない、人間的交流も生まれるとなるからだ。
そして価値観が一つではない、様々な価値観があり地域的にもそうでありそれが文化を育むのである。それはカール・ポランニーの人間の経済学になる。
人間の価値は多様なのである。とても金だけでは計れないものが無数にある。金で貨幣ですべての価値を計ることは土台無理なのである。それはかえってグローバル経済が非人間的にしたのである。

ただ現実問題となるとこの辺で市が開かれるがリンゴでもうまいものがあったがそれは高くても良かった。てもスーパーで買うと同じものでありそういうものでも三倍の値段で売っていた。他でもバスユニットを仙台のリホーム会社で請け負ったのと今は地元でも大工が暇になったとかで仕事が欲しいというとき、仙台から来た人よりもしかしたら50万くらい高くなるかもしれない、仲介する人がまた金取りになるからそうなる。
狭い範囲の経済流通だと今は高くなる、それも一つの問題として認識した。
ただグローバル経済というのは規模が桁違いであり仙台とかいわき辺りとの経済とはまるで違ったものなのである。
例えばアマゾンで古本などを注文するとき岩手県の店で出品していると近いなとなる
東北圏内とかのブロック経済なら歴史的文化的にも共通のものがありそのくらいの規模の経済だったらこれだけ交通が発達すると否定できないとなる。
グローバル経済はそういう傾向になってゆくのかもしれない、EUだって広すぎたのであるアメリカだったら別に自国内で何でもあるからグローバル経済にする必要もなかったのである。石油だって今や自国内でまかなえるようになっている。
日本は石油とか鉄とか資源がないからグローバル経済のすべてを否定できないことはある移民を安く入れて企業で働かせるということは世界的試みで失敗したのである。

タグ:トランプ
posted by 老鶯 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年11月07日

原町区のキクチスーパーの隣の復興団地 (浪江の人が多く、取り残される老人の独居者)


原町区のキクチスーパーの隣の復興団地


(浪江の人が多く、取り残される老人の独居者)


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264所帯入れる、これは多い、人口にしても500人以上になるのか
それから雲雀が原の復興団地は5階建てでありあれは都会の団地である。
南相馬市はこうして外から入ってくる人がいて人口は減っても減らない
ただ住民票は移さないから人口に数えられないのである。
除染とか工事関係者まだ数が多いから実際の人口は一万人くらい増えているのかもしれない、
減った分を外からの人が補っているのである。



原町区の六号線のキクチスーパーの隣の復興団地に入ったのは浪江の人が多いという。
イワキナンバーが確かに多かった。
そして県の人がコミニュティなんとか言ってたからあそこは県で建てて管理する

あそこはまだ人が入ったばかりである。その前に公園に老人がいたのでベンチに座り話した。
その人は浪江の人で娘の子供は小高工業に入っていたが原発事故で東京の多摩に移り多摩工業高校に入りそこで学んで東京に就職したという、娘について妻も移りその老人は一人新しくできた復興団地に入った。
いわきにも娘がいて時々来るという、ここに入る書類などは娘に書いてもらったという。

「小高に帰った老人も言っていたけど出て行った子供は帰らないよな」
「帰えんねえよ」
「小高は帰ったのはほとんど老人だよ」
「小高はまだいいよ,人が帰ったから」
「そうだな、人がいない街はさみしすぎる」
「この団地は浪江の人が多いよ」
「いわきナンバー多かったな」
「俺はしょっちゅう浪江に通って畑みているよ
桑折にいたがあそこは遠い」
「農家の人?」
「いや、土地を一町はもっているんだ、田んぼはない」
「浪江は電車で30分くらいかかったよ」
「近道行くと15分くらいで行くよ」
「そんなに早く」

そのあと補償金の話になった。

「大堀辺りはいいところだったけどな」
「あそこにある陶器を一杯飾っていた施設何か利用するみたい」
「あの辺は放射線量高いな」
「あそこは住めない地域だよ、だから補償金が高い、倍はもらっている」
「この辺でも補償金でもめたからな、浪江もそうだったのか」

そして暇で困った何もすることがないとぼやいていた。

「ここのスーパーは車が出ていたあとにまたすぐ入ってくるんだよ」
「鹿島のキクチスーパーとは違うよ、規模も違うし品物も多いし安いんだよ
鹿島は品物も少なく高いんだよ、だから時々買物にくる」

一人で住んでいたら確かに暇である。それも避難した人たちの大きな問題だった。
それでパチンコやギャンブルにしているということで非難された。
この原発事故ではヒトツノ大きな問題として家族が離散して取り残されたということがある
どうしても放射能を怖がって若い人は出て行き帰ってこないのである。
それで南相馬市の病院では看護師がいないので入院を半分におさえているとか大町病院でも看護師不足で確保するのに苦労したとかある。
看護師は中通りの方に流出したのが多くそこでは看護師が増えていたからである。

ともかく小高の老人も名取に子供が家を建てた、それで親の部屋まで作ったという。
でもその老人は小高の復興住宅に住んでいる、そして子供は帰ってくるといつも言っていた。
東京の多摩に子供が移った老人は妻までその娘の所に行った,なんか病気持ちでそうなった。だからその老人は一人なのである。
こういうことが原発非難者には多いのである。老人が取り残されてしまった。
そこで復興といっても老人が多いからどうして復興できるのかとなる。

原発事故の悲劇は家族が離散したことや故郷に住めなくなったことや仕事を失ったことやいろいろある。その中で深刻なのが老人が取り残されたという問題があるのは少子高齢化のためである。
限界集落でもそういうことが起きていたからここでは極端な現象として現れたのである。
確かに老人がこうした激変になるととまどうし順応するのは苦しくなる。
あの公園で見知らぬ人と自分のような者と話するのもできないと言う人もいるだろう。
一人は無口でありそうだった。自分と話した人は話できる人だった。
老人は慣れ親しんだ所に住むのがいい、そうでないと精神的に病むとかある。
東京に移ったばあんさんもどうなっているか?やはりとまどうことがあるだろう。
ただこの辺でも何か老人がいても世話する人がいないとなると子供が住んでいる場所に引き取られることが多いのも時代である。
親と子供が別々に離れて住む人も多いからである。
限界集落のようなものがこの辺では極端なものとして現実化したのである。
ただ原町だったらあそこだったら便利である。隣がスーパーなのだから買物でも便利である。

そういう点はいいにしてもなんか老人だけが取り残されて一人住んでいるというのは嫌だなとなる。
それで県のコミニュティ担当の人が回っていたのか?
あそこは県営の復興住宅なのでありそれで浪江とか南相馬市以外の避難者が多いのである浪江の臨時の役所も原町にはあるからだ。
建物としては前に広い公園があり団地でも屋根つきで休める場所とか何カ所も作っているそこにすでに女の人がいて話していた。そういうふうにコミニュティとして団地を形成するのに作ったのだろう。
いづれにしろキクチスーパーに行くとあそこには老人がいつも休んでいるのを見ることになるだろう。暇だからそうなるのである。



タグ:復興団地
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2016年11月08日

人生はタイミング、チャンスは二度と来ない,時間ももどらない


人生はタイミング、チャンスは二度と来ない,時間ももどらない



1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 

伝道の書(口語訳)は新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」



人間は何でもタイミングである。植えるに時がるというときその時期を逃すと実りがなくなる。死ぬるに時があるというとき今では死期を医療で無理やり伸ばして苦しんでいる。その人にはそれぞれ死期がある。死ぬにも時期がある、もし死ぬ時期を逃すとただ無益であり苦しむだけだともなる。ただその時期は人によって違うからわからない。

何か植える時というとき、少年とか思春期とか青春時代は植える時であり最も大事なときだった。この時代を良く過ごした人はのちにも思い出となり残る。
自分は学校に適応できないからこの時代はいいものではなかった。
この若いときは必ず老年まで尾をくのである。この時はどうししても若気の至りになる
それがその時だけのことであり消えてしまうと思っているが消えないのである。
それがあとで大きな誤算だったことになる。

仕事でも新卒として大企業が採用するのはその会社になじむ、その会社に適合して仕事を覚えるのはその時期だからである。そこで仕事を覚えれば会社に適合させるから会社では新卒を採用する、それで一生が決められてしまうというときそれも若いとき一生が決められてしまうということである。
それはいいにしろ悪いにしろそうである。そんなことで一生を決められてたまるかと反発する人もいるのは当然である。
ただ30くらいまでに一生の方向が決まってしまう
そこから別な方向を目指すことはむずかしくなる、若いときはそんなことがあるか、時間などいくらでもある、暇で暇でしょうがないんだよな、時間がなくなることなど思う人は一人もいないのである。
実際は「光陰矢の如し」あっとういまに人生が終わったと最後はなる。

だから人間にとってタイミングが一番大事なのである。タイミングを逃すとそのチャンスは二度とこない゛チャンスなんかいくらでもある、一回失敗しても誤ってもまたやるチャンスはあるとか思う、それもあったとしてもタイミングと時間は人間にそんなに与えられていないのである。
学ぶにしても学ぶ時がありその時学ばないとあとでもう学べない、本などでもいくらでも読めるとか思ってもできない、ええ、これしか読めなかったのかと驚くのである。
みんな人生これで終わりかこれっぽちの人生かとなってしまうのである。

 焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火

こんなものになる、一生が若いときはとてつもなく長く感じられるが老人になるとあっというまに終わるとなる。その違いが大きいのである。
植えるときとは若いときだがその時を逃せばあとは学ぼうとしても学べないともなる
もちろん学ぶことはできても本でも厚い本などは読めなくなる、そしてくだらない本を読んでいたなと後悔するのである。こうして老人で悔いてない人はいないのである。
今になるともっと何かを学び何かをしていればいいと思ってもできない、これからいくらでも時間があるからできると思っていてもたちまち「光陰矢の如し」であり少年学成りがたしなのである。

どんな人生でも数回重要な決断がある、それもタイミングなのである。
自分のような平凡な人間でもそうだった、親元を離れ東京の大学に入ったこととかそうである。それは親元から離れるということで意味があった決断だった。
創価とかカルト宗教団体もやめたのも決断だった。師を否定して去ったのも決断だった。その時そうしていなければずるずるひきづられてしまうのである。
何しても無益なことはないこともいえる、なぜなら人間の経験する時間があまりにも短いからである。経験したことはやはり血となり肉となるからである。何か青春時代は一番事が起こりやすいのである。多くの人に出会うのもそうである。
あとは意外と人とも出会いがないのである。それもタイミングを逃しているのである。

タイミングというときあらゆることがタイミングなのである。株でも投資信託でもこれもまさにタイミングだった。買ったときの値段でもうけが決まる、わかりやすいのは為替の値段の差益である。110円の時買ったが100円に円安になり損になり回復するのに時間がかかる。もし100円の時買えば今なら105円とかから売れば即もうかるということなのである。それは株とか全模範に言えることなのである。

求道でも青春時代にしないとできない、宗教は老人になってからかえって傾倒する人が多いかがそれはまた違ったものである。
「若いとき、造り主を覚えよ」というときその時を逃したらできないのである。
そしてその時はチャンスは永遠にないし将来もないのである。
だから貴重な時間と数回のタイミングでチャンスをものにするかどうかで人生は決まる
チャンスも何回も来ないのである。人が困ったときたその時大きなチャンスなのである。その時ともかく動機が不純でも助ければ恩に着せておこうとでも思って助ければやはりチャンスをいかしたことになりその人に恩を着せてもそれは返してもらうことがありうるのだ。そういう動機ですら人間は活かしていないのである。
困っている人がいても何もしないしかえって自分のように苦しめられただけだともなる
津波でもそうだが火事場泥棒とかは常にそういうとき出てくる、自分もそういう目にあったからである。

要するに人間はいかに時間を無駄にしてチャンスを逃しているかということである。
誰にでもそういうチャンスは巡ってくるがそれを活かせないのである。
悪を成すチャンスもありその悪を成すことの方が多いともなる、善を成すチャンスが悪を成すチャンスになる。若いときは悪を成すことが多いのもそのためである。
いづれにしろあらゆることに国政とか経営とかそうした世俗の活動でもタイミングとチャンスをいかにものにするかなのである。
タイミングがあやまるとすべてが狂ってしまうのである。奇襲が大きな成功をおさめるのはやはりタイミングを活かすからである。でも逆にそのタイミングを誤るとその結果は惨たんたるものになる。でもそのタイミングにチャンスに賭けない限り勝利はないのである歴史でもそういうふうにいかにタイミングを活かすかチャンスを活かすかで勝敗が分かれるのである。

タイミングを活かしたものが歴史に名を残すともなる、義経であり信長であれ秀吉でもそうである。吉田松陰も明確ではないがやはりタイミングを明治維新の動乱に活かしたとなる。そうでなければただ作られたテロリストにはすぎないともならないだろう。
一方でいくら英雄になろうとしても時代が英雄を作るからなれない、三島由紀夫がそうだった。時代にぞぐわないタイミングが良くなかったから歴史には残らない、いくら無理しても英雄にはなりえない、どうしても時代をは越えられないのである。

原発事故にしたって事故の前にはもう戻らない、それでそれぞれが決断を強いられる,もう帰らないと決断した若い人もいるし人生が無理やり変えられてしまったのである。
それを嘆いてもどうにもならない、時間を元にもどすことができないからである。
戦争で300百万人死んで戦争がどうだったこうだったと今言ってもその時代はすぎたのであり時間をもどすわけにはいかない、ただ300百万人の死者の重みが後世に残されたし
原発事故だって一万年プルトニウムの毒が消えないというのもそうである。
一度起きたことは時間をもどして元にもどすことができないことが深刻なのである。
だから原発などは危険なのだからよほど慎重にして是非を考えるべきものだったのであるこれだけの甚大な被害が出てから遅いということである。
それはここの人生でも同じだったのである。

2016年11月10日

トランプの勝利はなぜ? (グローバル経済は誰のためなのか?)


トランプの勝利はなぜ?


(グローバル経済は誰のためなのか?)


世の中のことはむずかしく考えたら限りなくむずかしくなる、単純に考えるとそれはそれなりに理が通りわかりやすくなる、それでトランプが受けたのである。
みんな学者でもないしジャーナリストでもない、投票する人は日本でもそうだが普通の庶民であり労働者なのである。
第一新聞すら読まない人も多いのがアメリカだと言われる
だからグローバル経済や多国籍企業や株をしている者だけがもうけているのか、なんら自分たちには恩恵がなく格差社会にアメリカもなっていたのである
そういう不満が根強く底辺にあったのである、中産階級が没落したというのもそうである白人の労働者が職を奪われているのもそうである。
アメリカを作りアメリカに住んでいてアメリカの恩恵も受けられないのがグローバル経済だったというのも矛盾だったのである。
恩恵を受けたのは多国籍企業でありウオール街の株をしている人たちだけでありそこで巨利を得るものがありあとは何の恩恵もない、かえって貧乏になり没落したのがアメリカだったとなる。
グローバル経済自体がアメリカ国民全般のためでもなかったのである。
一部の多国籍企業とか株をしている人たちだけのものだったということでヒラリーが負けた、ヒラリーはそうした既得権の上に成り立っていたとみられて嫌われていたのである。

物事を単純に考えるとグローバル経済というのは誰のために働いているのかわからないのである。規模が巨大だからもう金の流れも何もわからない、世界市場では株ではただ数字だけを動かして巨利を得るものもいる、そういう世界はほんのわずかの人しか利益を得ないのである。それで世界の富が数パーセントの人に吸い上げられるだけだとなる
そういう不満がアメリカにもあったということである。
グローバル経済はアメリカ国民が均等に利したものではなかったのである。
アメリカの極一部のものが利しただけだとなっていたのである。
マスコミとか知識階級とかはそうしたグローバル経済に組みして利益をあげていたから30社がトランプを批判していた。3社しかトランプをとりあげなかったとかなる。
アメリカのマスコミもそうしてグローバル経済は多国籍企業から宣伝費をもらい成り立つからそうなる。それは原発でも東電から宣伝費として金をもらっていたので日本のマスコミが「安全神話」を作るのに加担していたのと同じ構図だったのである。
アメリカのマスコミも同じだったのかとネットで批判されている
つまり世の中金で動かされているというのも常に現実でありヒラリー派にはそうした多国籍企業であれウオール街であれ莫大な献金が流れていたと指摘され嫌う人たちが多かったということである。

トランプの言うことは過激でも何か一理あった、日本はアメリカが何かあったとき助けない、でもアメリカは日本が何かあった場合、戦争でもなったら一方的に助けなければならない、アメリカ人の血を日本のために流さねばならない、これも一方的でありアメリカ側からみれば不満になるのも確かなのである。同盟関係だったら対等だからである。
日本もこの際アメリカに頼るだけではなく独立して防衛するべきだという論議がでてきたのもまた今までもアメリカに頼るだけでは守れないということがあるからだ。
今までは敗戦国であり冷戦とかあり従属していたが今度は独立をかえってアメリカから求められるようになったということである。

ともかく物事はむずかしく考えたら限りなくむずかしくなるのである。
つくづく自分の経験では「「遠くの親戚より近くの他人」である。
隣の市まで8キロくらいにしても通うとなると車でも10分できたとしても往復20分になるから時間がかかる、すると助けるにしても手間になる。
もし隣だったらすぐに来れるから助けやすいのである。
アメリカでも日本に何かあった場合、かけつけるとなると遠いから簡単にできない
そういう距離的なものは常に一番影響しているのである。
今は広域社会になり全国に散らばる、すると親子でも助け合うこともできないとなる。
なぜなら東京だったら遠いしとても介護とかなるとできないとなるからだ。
それでは助けるのは誰かとなると地元の人たちなのである。
広域社会とグローバル経済もにているのである。
なんかユニットバスを注文したのが仙台の会社だったのが失敗したのかもしれない、
後何かあった場合、みてもらえないと言われたから地元の業者を知っている人がそう言ったからそうなのかと思った。
ただ地元の人に頼むと50万くらい高くなる、それだけ安くできるとなるとやはり何か問題が起きるのかとも思った。

グローバル経済の矛盾は単純に考えれば誰のために働いているのか見えない、金の流れも世界市場となると見えない、そしてその見えない金がどこに行っているかとなると極一部の者、株式を操作する者に流れているだけだとなる
金の流れが見えないことは闇になる、それで陰謀論が生れるのである。巨額の金が闇の中に操作されているのである。
それはアメリカに流れていると思っていたがアメリカでも大多数の労働者には関係ないことだったのである。
移民をアメリカではあんなに受け入れているということ、それは多国籍企業にとっては安い労働力となりいいが肝心の元からいる白人にとってはその職を奪われるとまでなっていた。移民で得するのはその国の国民ではない,多国籍企業とかでありアメリカの中産階級はそのために没落したのである。
その不満が大きかったがアメリカのマスコミはそうした既得権者が支配しているから表面化しにくかったのだが露骨にトランプがそれを言ったので共感したのである。
ただ共和党というと民主党とは違いどっちかというと富裕層側に立つと思っていた。
トランプ自体が大富豪だからである。ただ単純にそういうふうに分けることもできなくなっていたのである。

ただグローバル経済というとき今度はアメリカだけではだめだとなるとき日本はどうなるのかとなるとむずかしい問題である。
なぜなら日本は中国とはうまくやっていけないのである。
中国は共産主義国家でありアメリカとは全然違った国である。日本はまがりなりにもアメリカの民主主義とかを受け入れて同調して西側の一員になったからである。
同じ価値観を共有するものとして一応してきたのである。
でも中国とはそうした同じ価値観をもつことができないのである。
かえって江戸時代だったらできた。なぜなら江戸時代は儒学の時代だから共通の価値観を中国ともつことができたと思えるからである。
グローバル経済というとき経済だけではない、何か共通の価値観が必要になる。
それでEUはキリスト教共同体として歴史が長いから連合した
ただそこにイスラムとうまくいかないから問題を起こした。
そうした共通の価値観は経済だけではない、単にもうければいいだけでは人間の共同体は作れないのである。そこにそもそもグローバル経済の限界があったのである。
見えざる手に導かれとか世界にはそれは適用できなかったのである。

だから日本がこれからどうするかというとき、中国とは価値観とかで共同しにくいとかなるとアメリカにも頼れないとなるとまた第二次世界大戦のように孤立化する危険がある。中国というのはやはり今度アメリカの時代が終わったといっても中国に同調する国が価値観を共有できるのかというのが問題になる。
人間は経済的なものだけで成り立たない、文化の相違もありその価値観の共有がないと結局グローバル経済だけではうまくいかないのである。
そこがグローバル経済の失敗の要因だったのである。
アメリカ自体が多国籍企業でありグローバル経済の市場を最も推進した国だと思っていたが実際は極一部の多国籍企業の幹部とか株をしている人だけが巨利を得たとなる。
アメリカだと社長が何百億を得るとか考えられない巨利を得ているからである。
そういう矛盾がアメリカ自体にあってトランプがそのことをついたから当選したとなる


アメリカの格差は凄まじいーグラフで見る
posted by 老鶯 at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

近辺を回り秋も深まる (専門家時代でも郷土学とはトータルな学問)


近辺を回り秋も深まる


(専門家時代でも郷土学とはトータルな学問)

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秋の陽が昇る
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八沢浦の長岩

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前畑に鶏頭映えて女のあり

晩菊や仮設に五年過ぎにけり

散り残る花びらあわれ秋薔薇

街の路次今日も秋薔薇菓子屋かな


五年すぐ津波の後や長岩に秋の日さしてここに残りぬ

我が買いてためにし本を晩年に読みつつ書斎に秋深まりぬ

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仮設でも五年もいるとそれなりに年月の重みがあるかもしれない、その心境はわからないがやはり五年もいれば時間の重みがでてくる。
ただその間にパチンコとか遊び費やされたというとき何も残らないかもしれない
ただ時間が過ぎただけでは人生でも何も残らないのである。

前畑というとき家の前にある畑である。それは前田と同じである。
人間の生活の拠点となったのが前田であり前畑である。
だからこそ地名化した、常に家の前が仕事場となっている
仕事と家が密着して一体になっているのが田舎だった
会社に通うとかもない生活だったのである。
それが本来の生活だったのである。

秋薔薇というとき最近路地裏の道をゆく、路地裏の道は何か通りとは違っているのだ。
そこに秋の薔薇が咲いていたが花びらなお散り残っていた。
菓子屋が一軒ある、まず街中で今や営みがあるのはわずかである。
どこに勤めているのか、何で暮らしているのか小さな田舎町ですらわからないというのが不思議である。会社に勤めている人が多いのだろう。

八沢浦の長岩は良く津波にも残ったなと思う、あれだけの津波だから岩すら破壊される力だったからである。
やはりそれなりに大きかったから残ったとなる
だから津波のあとにこの岩は残ったなと見る、これも八沢浦の一つの象徴だからである。八沢浦は広い土地が荒地になっているがあと二三年で田んぼにするという
塩害はあまり米作りは関係なかったらしい、かえってミネラルで栄養になるとか言っていた。右田では津波の後に今年は広く実りがあった

自分は20代から書斎が与えられていた。それでいつも仙台にゆくのは本を買うためだった今ふりかえるとそれでも地方は田舎は本を買うこと、本を読むことで相当なハンディがあった。知識というとき本の時代だったからである。
その本が手に入らないし、目立ったものしか手に入らない、見れないという時代だったのである。だから必要なもの読んでいないとなる
何か知りたいというとき今のように古本でも何でもネットで注文するわけにいかないからである。こういう点では今は田舎でも困らない、あることを知りたいというときネットもあるしもっと深く知りたいというときネットで即座に注文すれば配達してくれるからである。
だから情報的には都会と田舎の差はなくなった。それで都会に住むメリットがそんなにない時代なのである。
ただ田舎は人に関してはいろいろな人はいない、農民とか漁民とかいても何かその他はいない、だから知的刺激に欠けるとるな
銀行員が意外と証券マンみたくなり国際的なものになっていて今日も銀行の部長が来て国際のことトランプのことで話した。
銀行とか特に証券関係は相当にグローバルな知識が必要な仕事だったのである。
自分は世界旅行をかなりしたからそれで話を合わせられるのである。

ただ人間は何かみんなかたよっている、農業の話と証券の話とか国際の話をできる人は少ないだろう。意外とまた田舎が農業が仕事としてあっても農業をしていな人は知らないのである。
自分は畑を趣味でしている人を知ったから農業の苦労を知ったのである。
趣味程度でも毎日草むしりとか農業は苦労が多いのである。
いづれにしろ人間は今は総合的に生きるとか見れる人はわずかである。
自分のように故郷とか自然全体をみている人はまれである。
第一詩的に見る、石とか樹とか山とかそれらを見る人はまれである。
農業している人は別に詩を書かない絵を描かないにしても自然に密着するから自然と切り離されずある。他の人は今は自然と切り離されて仕事しているのである。
銀行マンは何なのか?いま証券会社なのかとなる
郷土史とか郷土学が何か狭い範囲のことの追求に見えるが実は総合的な広い範囲でみるものなのである。だからとても一人ではできないのである。

現実にそこで暮らしている人は農業している人だけではない、田舎でも多様な人がいるからである。それをプログであった人のことを書いたのである。
ただ都会のように何か特殊な人かいてそういう人とは出会いないしわからないのである。一方で都会では農業している人の苦労などわからないのである。
それでも毎日食べねば生きていけないのだから農業と田舎と無関係とはいかないのであるいづれにしろ人間は今複雑に仕事も分化してトータルに知り生きることができないのである。逢う人はみんな専門家でありその専門家はトータルに生きていないしトータルな知識も経験もないのである。
だからトータルに総合的に生きるというときアウトサイダーになるのである。
なぜならアウトサイダーは一つの職に属することがないから広い視野で見るということにもなるからである。
だから一つの世界観をもつというとき今は専門家社会だからできないのである。
どんな人でもただ部分の仕事であり部分を見ているだけなのである。


タグ:秋深む

2016年11月11日

鹿島区のローソンで車がヘンスにつっこむ事故 (高齢者の一人暮らしの危険)


鹿島区のローソンで車がヘンスにつっこむ事故

(高齢者の一人暮らしの危険)

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この事故を起こした人はみんな知っていた。ローソンにきて這って動けないとき助けて車にのせたことがあるからだ。
その人はいつもそうしてローソンに買いものに来ていた。
それでみん知っていたのである。まず動けないで這ってやっと車に乗っていたのである。這ったまま動けなくても車に乗れば運転できると言っていた。
でもなんか店の人もそういう状態でもなにもしていない、でもみんなその人がそうしていつも買物にしていたのである。
そして今日ローソンに行ったらヘンスにつっこむ事故になり警察が来ていた。

その人のことはどこに住んでいるかもわかっていた。
やはり一人暮らしでやっと買物をしていた人だった。
あんなふうにしてまで買物するということは誰も助ける人もいないからそうしている
隣の女性は買物ができなくなり頼んで買物してもらっていた。
でもついに一人で暮らせなくなりいわきの方に息子が連れていって施設に入れた。
結構高いけどそれだけの金があったから入れたともなる

最近良く高齢者の交通事故が話題になる、事故が起きるのが増えている、その人はとてもすでに運転できる状態ではなかった。
でも一人で助ける人がいないから這って買物していたのである。
これは福祉関係の人が見回りしてなんとかするべきものだったのだろう
なんかこういう人が高齢化社会でこれからも増えてくる
そういうことが自分にもあてはまるしだから一人暮らしは恐怖なのである。

この人はそもそも運転できないのに運転せざるをえなかった

高齢者でも簡単に車をやめるわけにはいかない、一人暮らしだから這って店に入りでてゆく、車がないと買物ができないとしたら死ぬほかない、買物は意外と重要なのである。
買うことができれば別に今は料理することもない、弁当だけでも食べて生きていけるのである。
だから隣の女性は買物ができなくなり施設に入るほかなくなったのである。
警察が来るというよりこれは福祉関係の人が来る必要もあった。
もう一人では生活できないからである。

何か高齢化社会ではこうしたことが頻繁に起きてくる
高齢者の車の事故が増えたのはそのためなのである。
車をやめさせるといってももしこの人のように買物もできなくなったら死ぬことにもな
だからやめることもできな人もいる。誰か助ける人がいればいいがいなかったらそうなるそういう人も増えてくるのである。
這って歩いていても無関心だという時代でもある。福祉関係に連絡するとか必要だったのだろう。
自分は一回だけ助けたが他の人も店の人もそのことを知っていたけど無関心だったのである。コンビニとかなると店の人は客に無関心ということもある
今の社会は何かそうして無関心なのである。そういう社会になっている
だから一人暮らしとか身寄りがないとうなる本当に恐怖である。
誰も助けてくれないという時代である。
ただその人の名前を知っていたということはどこに住んでいるかもわかっていた人もいたのである。

とにかく高齢者の交通事故は社会問題になっている、この人もヘンスにたまたまつっこんだだけですんだけど大きな交通事故を起すこともあったから危険である。
でも免許をとりあげたらどうなるのか、買物もできないとなる。
そういう一人暮らしなどの高齢者は増えているのである。
一人暮らしでもいろいろあっても別に近くに息子や娘もいる人も多い
でも誰も助ける人もいない高齢者も増えてくる、その人は車で這ってまで買物して事故を起こした、回りの人は無関心だったとなる
最後は買物できなくなり力尽きて死ぬとまでなる
これが高齢化社会の現実だともなる、ただ回りで見ていたのだから知っていたのだから何か福祉とか何か対策をとる必要があった。
その人は近くに住んでいる人だと思わなかったのである。

言葉には深い意味がある (英語で詩作してその言葉の意味を探る)


言葉には深い意味がある


(英語で詩作してその言葉の意味を探る)

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神殿の柱

the peaceful lined trees

the harmless ones
the strgethend ones
the stationary and established
obedience on the earth
in domestic stability

one by one
step by step
day by day

stedy,strict,firm

deeply rooted ones
in the homeland in order



近くの並木からイメージしてそれを英語で表現しようと試みる、なぜ英語というとき外国語が身近なものにならないのか?
それが英語でも単語の一語一語持っている感覚が違うのである。その感覚は結局その背景にその言葉が生まれた歴史とか文化がありそれを実感として理解できないことにある。
確かに今や機械翻訳が発達しているからそこから英文を表現できる。

でも深いところで一語一語の意味を知るのは容易ではない、それは日本語だってそうであり他の言葉でもそうである。
日本語のあわれを理解するのは容易ではない、かわいいとかもったいなと日本語の言葉が世界語化したものがあかるが深いところで言葉を理解することはむずかしい。
それはなぜなのか?

言葉の背景にはそれが作られた背景がありそれが長い間で作られたのである。
英語だとゲルマン語がドイツ語が基礎にありそこから生まれた、だから英語の一語一語を理解しようとするときドイツ語の理解が必要になるかもしれない、言葉の中には一見事物があっしてそれを同じようにととらえてるようでも違っている。
つまり感覚的にも精神性でも違ったものとしてとらえているのである。
それはなかなか説明することもむずかしいものである。
詩が説明できないというとき言葉も説明できないのである。
詩が翻訳できないというときもそうである。
言葉はもともと詩語であり詩を理解してないと言葉の深い意味がわからないかもしれないただ外国語でも普通にどんな人でもしゃっべっている、ではそのネティブでもかえって母国語の深い意味を知らないのである。
それは日本人でもそうでありみんなそうである。
言葉には必ずどの言葉でも深い意味があり精神性がある。

ここに出したのは一つの例である。自分は自分の詩を英語にできないがその試みとしてした。

steady

(足場・基礎など)しっかり(固定)した、ぐらつかない、安定した、震えない、きょろきょろしない、不変の、一様の、むらのない、間断のない、定まった

この一語に関してもこれだけの意味があるというとき日本語では表現しにくいからそうなる。むらのない、間断のないとか実際は様々な意味があるがそれを翻訳はできないからこうなっている。

だから並木の樹々をイメージするとこの言葉も理解しやすいようになる。
外国の神殿というときギリシャだと列柱がありそれが丁度並木ににているし
またゴシックの聖堂の石の柱ににている。
英語系には建築的なもきがあり言葉としてもその建築的なものが表現し構築されている。日本語だと情緒的だというときしまりがない言葉なのである。

ここで表現されいるのは意外と変わった言葉ではない、日常的に使われている言葉でありむしろ基礎となる言葉である。
だから普通に英語をしゃべる人は使うがその言葉を深く理解するのは外国人だというのもまた言葉の不思議がある。
その言葉訳してみて同じのように見えても違っているのである。

orderなどはin order toとか普通に使うものである。でもorderというとき秩序を重んじるものとしてその言葉がありヨーロッパ文明の源に秩序を重んじるものがあり自然でも宇宙でもその秩序を理論化するものがあった。
だから数学とはそうした秩序を現すものであり発達した。幾何学とかと建築は一体ということでもそうである。
詩となると何かそうした理系的なものとは関係ないもののように見えても自然の中に秩序を発見するということは理系なのである。
風土学になると日本の自然は乱雑であり混沌としているから何かそうした秩序が数式のように現せない、並木というときそれは秩序的に並べられた木であり神殿の柱なのである。
自然を模したものとしてし建築があるとき明らかに樹は柱でありその土台は大地に定着するものとしてある。

だから毎日近くの桜並木道を歩むとそういう自然が一つの秩序を示して大地に根付いているという感覚になる。
違うのは樹は生き物であり日々に成長して根も大地に張ってゆく、養分も大地からとっている。
そして樹に感嘆するというときそれが樹と樹は争わないし傷つけ合わないということである。ハームレスだということが感嘆する。
そんなふうに第一一般的には樹を見ない、でも人間をみればわかる、どれだけ傷つけあっているか?男女でも三分の一は離婚しているし絶えず女性も男性も争っている
それと比べたらいかに樹々が平和なのだろうと反対に思うのであり感嘆するのである。

植物は争わない、そこに平和がある。だから植物的生は平和を志向するのである。
それは農業でもありまたそこから派生するものとしての文化になるのである。
江戸時代は植物的生の時代であり明治維新語は外に拡張する狩猟的遊牧民的移動する社会だった。だから世界的に大きな戦争となった。
戦後もやはり高度成長グローバル社会であり世界的に拡張する時代だった。それは世界的弱肉強食のグローバル資本主義経済だった。
そのゆりもどしがドメステックなものへの回帰現象が起きてきたのは当然である。
それは植物的生への平和への回帰である。
それはアーリア人的でない゛アジア的な価値観への回帰なのである。
それは日本だけではないアメリカでも起きるし現にグローバル社会への異議を唱えたトランプが勝利したことでもわかる

それよりも世界的にみればインドでも中国でもアジア文明の回帰が起きるのかもしれないその回帰はすでに西欧文明と融合したものでありまた別なものとなって勃興するのである日本でももう経済的発展より文化的な国風文化の再生、ルネサンスの時代となるのであるそれもこれほど西欧文明をとりいれたのだからその上に国風文化が再生するからまた違ったものとなる。

人間は文化といっても大地と一体であり都会のビルの谷間で文化が生まれるかとなるとない、自然を模型として大地を耕すものが文化だかちである。
そこに自分の郷土史とか郷土学も一旦として追求してきたのである。
ゲルマンの森と大地からゴシック建築が生まれたようにその土地と自然と切り離して文化は興隆しないのである。
政治的に右だ左だというより日本の精神性の深さを追求することがあるべきなのである。不思議にアメリカでも歴史が浅いとしても200年くらいの歴史がありホイットマンの時代は実業主義であり農民や職人がたたえられていた。何かそれは江戸時代と通じるものがあるのでまた歴史には世界でも共通なものが常にある、それは外国人も人間だからだとなるホイットマン時代は質実な堅実なものが志向されたのである。だから株でもうけるとかはなかったからそうなっていたのである。
そこでどうしても株のようなものは虚業となり嫌うということはホイットマン時代の復古たともなるのである。 

日本語の詩にするときの弱点は韻をふまないとか冗漫になるとかある、しまりがないのである。英語とかは韻を踏むし整然と言葉が数式のように配置することがあるからしまりがある、日本語にも日本語のいい点はあるが冗漫になるということが欠点である。
ひらがなでもなにか水が流れるようであり英語とかなると石のように固さを感じるのである。それが文化だといえばそうである。
別に詩でなくても英語をしゃべり書くとなると何か日本人は苦手なのは要するにここに書いたような文化とか歴史の相違がありそれが根本的に克服できないのである。
漢字はその点日本の文化と同化したのである。漢字がないとしたらとても深い意味を表現できなかったからである。
ある意味で詩は特にそうだが文化は言葉の格闘になる、言葉の一語一語には深い意味がこめられているからそうなっていたのである。

秋の日の木々(詩)




posted by 老鶯 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論

2016年11月12日

昨日のローソンのヘンスに車で突っ込んだ老人(2) (その家は廃屋化していて住めなくなっていた)


昨日のローソンのヘンスに車で突っ込んだ老人(2)

(その家は廃屋化していて住めなくなっていた)


昨日ローソンのヘンスに突っ込んだ車の老人は近くに住んでいた。
今日見たら蔦が絡まり廃屋化していた。
その人は車の中で寝起きしていたという、つまりもう家が廃屋化して住めなくなり
車に寝ていたとなる、車になにかいろいろ積んであったのはそのためか?

これは何を示しているのか?
ゴミ屋敷ではないが家に住んでいても家に住めなくなった
その原因がその人がもう這って歩くのがやっとでありそれで自分で食事とるのに
ローソンにきていた。
這って歩くとなるとまず料理も掃除でもできない、するとどうなるのか?
家に住むこともできなくなり廃屋化する

これも高齢化で取り残された老人である。
全国で空家が800万軒とか増えるとき何かそういう象徴的である。
街中でも空家が何軒かあるのを知った。
そこは500万で売り出していた、でも今は新しい家は街中より外に新住宅街に建てている
だから街中は住まないで放置されるかもしれない、ただ借りて住む人もいる

その人の家は二階建てでありそれなりの家である。
でも家を維持することが意外とめんどうであり金もかかるのである。
そして体が弱りついに自分の家にすら住めなくなった悲劇である。
回りの人は無関心であり車で寝起きしていたが事故を起こした
家があっても家に住めないというのも悲惨である。
家はかえって年取ると重荷になる場合があるのだ。
一人暮らしでゴミ屋敷になるのは家を維持することができない
その力すらなくなってきてそうなる場合もある

その人は這って歩くことしかできないのだからそうなった。
一人暮らしで体が弱ると悲惨な結果になる
それは自分も経験してきたからである。
今の時代回りで近所でも助けない、かえって人が弱ると楽しんでいるとかそれよりその弱みにつけこまれて犯罪にもあう、そういうことを自分は経験していたからである。
だから老人は一人暮らしの人などはどうしても施設に入るとなるがここも安住の地ではないが一応助ける体制はあるあ、あんなふうに這って歩くまで放ってはおかない
今の社会では放っておかれるのである。
だからテレビでも放送していたがぎりぎりになり救急車で運ばれたとき助ける
それまでは放置されていると放送していた。

あの人もぎりぎりになり事故を起こして警察が来てなんかまた他に市役所の福祉関係がかかわるかもしれない、ともかくあれは高齢化社会の象徴的なものかもしれない。
自分の家があっても自分の家にすら住めなくなりついに車に寝起きして辛うじて食料をコンビニに買い這ってゆき、また車にのったが事故になった。
高齢化社会はそういう人が増えてくる、一人暮らしが増えてくるし増えている
近くに息子や娘がいない場合も多い、すると放置されたままになるのである。
福祉といってもそれが簡単にかかわるということもないのである。
福祉にたすけてもらへと言ってもではすぐに特養に入れるかとなるとこの辺は原発事故とかで以前として人手不足とかで入れない
それであのように這って歩き車に寝泊まりして家に住めなくなるまで放置される

結局家は必要でも家は人を助けてくれない、かえって重荷になることがある。
人を助けるのは人である。ただその人が今は無関心なのである。
だから金がないとかになると施設にも入れないで放置される
近くの人は買物ができなくなり息子がいわきの施設に入れた
それだけの金があったからできたともなる、施設に普通に入れたら20万は月かかるらしいそのくらいの金がある人がどれくらいいるのか?
その負担も大きいのである。するともうこの人のようにぎりぎりになるまで放置されてしまう。

あの人のことはみんな知っていたのである。でも誰も助けないのである。
福祉の人も回っていなかったのだろう。
とにかく高齢化社会ではこういう人が膨大に増えてくる、それが高齢化社会の現実なのである。野垂れ死にのようになって死ぬ人が増えるかもしれない。
近所だって助けないし助ける余力もないとか無関心であり放置される
最後は金がある人は金に頼むしかないという冷たい社会になっているのである。
つまり老人は死んだ方がいいとか若い人もいつも言っているのだからそうなる
障害者の大量殺人の次はこうして増える老人の大量殺人とはならないまでも見殺し放置になる、そういう覚悟も必要なのが高齢化社会だともなる

タグ:廃屋と老人

2016年11月13日

トランプ大統領になったのはなぜなのか?(2) アメリカと共に沈みゆく世界(カレル・ブァン・ウォル・フレン)を読む


トランプ大統領になったのはなぜなのか?(2)


アメリカと共に沈みゆく世界(カレル・ブァン・ウォル・フレン)を読む


トランプがなぜ大統領になりえたのか?それは世界でも日本でも予測外だったしアメリカ自体も予測していないものだった。
ただその背景に何があったのかとなるとそれを解くのはアメリカで何か起きていたのか?
アメリカ社会とは何なのかということを知る必要がある。
ではどうししてアメリカを知り得るのだろうか?
それは様々な人が言う意見がありテレビの意見がありネットの意見がある。
実際に行ってみて知るというのも一番有益だがそれが限られている人しかできない、一番知っている人はそこに住んだ人である。

メデアというときテレビは常にセンセーショナルメデアでありその影響が大衆にはあまりにも効果的だから危険なのである。
第一大衆は考える能力がない、テレビは考えなくても見ることだけだから楽なのである。ただその危険は一方的になり洗脳されることなのである。
この本はアメリカのことを指摘しているが日本のことでもあり世界のことでもある。
世界はグローバル社会になったときやはりなにやかにやあっても世界的共通認識と価値観が生まれた、経済的にはそうである。みんな豊かになりたい、文明の道具を使い電気でも車でも使い便利な生活をしたいということは反対するものがあったとしても極少数であるパンが贅沢などと山尾三省のような極貧の生活を誰も望まないのである。

宗教というとき他にも価値観の相違はあるがイスラムだってその文明を否定しているのかというとしていない、ただそうした豊かな生活をできないということで不満でありテロにもなっているのである。
この本で価値観が違うから共同できないというときその価値観は何なのかということを言っているので自分もそのことを書いたので考えさせられた。
つまりこうして本とか熟考して書いているから考えさせられるのでなしる。
テレビとかでは何かこういうことがない、絶えずセンセーショナルな断片的な意見の表出で終わる、テレビは考えさせないメデアである。
洗脳されやすいメデアである。映像時代はさらにそうである。イラク戦争で油まみれの海鳥を写したとき世界ではなんでイラクではひどいことするんだと感情的になったのである映像は人間を感情的にするのでてある。

今回のトランプが大統領になったというときもむずかしいことをいうより感情を刺激することで成功した。過激な発言に感情的に共鳴する人たちがいたのである。
アメリカではグローバル化してその恩恵をこうむったのは極一部でありIT関係とか金融関係とかが巨万の富を得たが他は中産階級は没落したのである。
移民を受け入れてもうかるのは多国籍企業であり元から住んでいた白人の職も奪われたとなる、移民を入れることで低賃金化してもうけは多国籍企業に入るのである。
そういう不満層が思った以上多かったということである。
だからトランプの過激な発言に感情的にも反応したのである。
ナチスがユダヤ人を敵視したときもユダヤ人が自国で金儲けしているということでそれをあおったのである。

政治のフロパガンダで有効なのはこうしして一部の人が巨利を得ているとかその的をしぼって攻撃することである。
それは世界でもイラクを敵としてアメリカが攻撃した手法ともにている
要するに大衆にとっては感情的にすること敵をしぼり攻撃対象わかりやすくすることである。
常にそういうことは大衆を味方にするときカルト宗教団体でも行われる、こういう団体は考えない集団だから余計にそうなるのである。
現代では世界共通としてメデアがその役をになっているのである。
アメリカでもそうなら日本でもそうである。メデアがどうししてそうなるのか?
それは企業から金をもらっているからそうなる。
アメリカでも日本でも同じ構図なのである。ただ自分たちの利益になるようにしか行動しない、政治家も官僚もメデアもそうである。それで原発事故でもそうだったことは書いてきた。

アメリカとか中国とかロシアでもそうだが巨大な国では矛盾したことが巨悪が露骨になるアメリカの富裕層は数はパーセントでもその富を独占する。中国でも共産党が平等ではなく幹部が巨利を得て富裕層になっている。それはかつての王様と同じなのである。
大国はそうなりやすいのが歴史的にでもそうである。日本ではそうした差は露骨なものとしては生まれにくいのである。
奇妙なのは

だかなににもまして悲惨なのはアメリカの刑務所の民営化だろう
国家の刑罰を儲け主義の民間企業にゆだねれば商業上の理由からさらに多くの人間を罰せねばならなくなる

刑務所にいるアメリカ人の数は50万人ほどでところが今は500万人ほどが獄中にいて700百万人が矯正施設にいる

これもアメリカならではで驚きである。銃をもっているから犯罪にもなりやすい。
前にも書いたがその刑務所で服役している人が安い賃金で労働させられている、
それによってまた企業が大きな利益を得ているのである。

だから犯罪者を多く作り出すことで大きな利益が出るとしたら

もっと犯罪者を作り出せ

こうなるから怖いとなる、それは軍需産業でも同じである。

もっと戦争を起こして武器を売れ

現実にそういうことがこの資本主義社会にはまかりとおっている。

薬剤関係なら

もっと病人を作り出して薬を買わせるようにしろ

会社がもうけるためならなんでもいいというのが今の社会にもなる、それは世界的なことである。政治ももうそうした多国籍企業の下僕になっているのが現状であると指摘している。

「彼らの最大関心事は自分が出世するためには、どうふるまうことが一番有利かという点であるからだ。彼らの行動をみればその背後の政治やビジネス、学界、あるいはメデア、そして軍部の中にアメリカの戦争によって利益を得る大勢の人間がひかえていることになる。かつての政治エリートに取ってかわり新たにその地位をしめるにいたった。
そして彼らの権力、威信、収入は戦争が今後も続行されることにかかわっている。」

まさにこのことは原発事故のことで自分が書いてきたことである。ただ利益になるということで政治家から官僚からマスメデアから科学者でもそうだった。
もちろん住民もそうだったからあらゆる人がただりを求めることだけになりこれだけの被害を受けたのである。
利が権力を生みただ利によってすべてが行われるときそれが危険になる。
利というのはこれだけは誰でもが求めるものだからである。その歯止めとなるものがもはやないというとき原発事故も起こるし戦争も起きる


人間は利から離れられない、そこから過ちを犯す,義とか何か科学的な真理でもいい、そういうもので動かないのである。
科学者すら利で動いていた。それが原発事故になった原因にもなった。
御用学者とか御用マスコミとか御用官僚とか政治とかなる。
卑近な例でも自分も失敗した。
それは自分もなんらか親戚のつきあいでかたよった見方をしていたためである。
母親と娘がいたが母親がひどいと思っていたが実際は娘が本当にひどい娘だったの
である。だから「ひどい娘だ」と言って死んでいったのである。
双方のことを良く聞けばわかったことだがそういう関係になかったからである。
こういうことは常に起きている、事件の当事者とか利害関係があると判断を誤る
でも実際の世の中ではなんらかみんな利害関係で結ばれているから公平な判断ができないのである。
本当に公平な裁きができるのは神しかないとなる
神はは偏り見ないからでてある。
なぜなら人間は公平に見れないからである。それは利から離れられないからである。
ジャーナリストでもそうだしマスメデアでもそうである。
巨額の宣伝費などをだしているのは企業だとなると企業の意向に従わざるを得ない
それは政治でも起きているから大統領にどれほどのことができる権力があるのかとこの本では問うているのである。

いづれにしろトランプがなぜ大統領になったのか、その背景にはアメリカ社会のひいては世界のグローバル化による格差社会化した歪みがあった。
ではトランプが大統領になってそうしたグローバル社会の歪みが是正できるのか?
それはもはや大統領だけでばできるものではない、トランプもまたオバマのようにそうしたグローバル社会を牛耳る極一部のものに操作される
第一大統領でも何でもできるわけではない、この書ではオバマがそうなったとこを指摘している。ただ飾り物のようになっていたのである。
実際の権力を動かすものはその背後にあってオドマばなにもできなかったと批判しているからである。だからトランプがあれだけ過激なことを言ってもやはりそれだけの権力が今はアメリカ大統領でもないとしたらオバマと同じようになってしまうということもありうる。今やアメリカ大統領てもそれほどの権限をもちえないということになったからである


タグ:トランプ
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2016年11月14日

仙台の優 創建でユニットバスの工事開始 (一式セットで100万は安いー家はあとは直したくない)


仙台の優 創建でユニットバスの工事開始


(一式セットで100万は安いー家はあとは直したくない)

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今日まずタイルとか4人がかりて壊した。聞くとこの壊すのがガス屋で大変だと言っていた。自分も全体を壊すのが大変だと見ていた。
実際にドリルで壊してゆくけど相当な力仕事になる。
これだけで相当な金がかかると見る、でもだいたい一日でほぼ壊した。
だから意外と早くできるなと思って良かった。
実際に金曜日で完成して土曜日には入れるというから早い
中に一日くらい休みがある。
すでに給湯器はとりつけてガスの配管もした。
電気関係の人も来て線の工事をした。
みんな仙台の人である。

ユニットバスだけでこの辺で100万すると聞いたからなぜ安いのかと聞いたら仙台は競争が激しいからです、福島県は高くなっていますと言っていた。
福島県は高いのか?福島県と宮城県では値段が相当に違っているという。
知っている人でその人は一人でやっているが頼んだら高くなるし時間もかかるだろう
壊すのでも一人でしていたら時間がかかる、そしてこれだけのものをセットで買わないでばらばらに買っていたらまた金がかかる
だから最初なにもわからなかったが100万は安いと思って即決した。
というのはこの辺では人手不足で電気関係に頼んだらできないとか最初断られたからである。

つまりこの仕事はガス屋とか大工とか電気関係とかユニットバスとか配管とかもかかわるめんどうなものである。だから一人でやるとしたら手間になるし金もかかるとなる
だから他でも頼む人がいるのかもしれない、担当の人が近くで他も回って仕事していた。た
壊す工事をしていた人は作並の人でその山の方に住んでいて雪がふったという、あの辺は山寺に近く山形に近いから早くも雪がふった。
スマホで雪が積もった画像を見せて説明してくれた。5センチくらい積もったらしい。
あの辺は面白山トンネルをぬけると山形県であり春でも山に雪がある。
それで印象的な場である。あそこから来るとしたら遠くなる。

ともかく最初の日に50万金を払うということで不安だった。でも相手も遠くから来ているから金を最初にとるということになった。
契約書に申込金として50万と書いてあったのである。それを良くみていなかったのである結局遠くなると人間は相手をなかなか信用できない、それは双方でそうなる、だから商売は遠方とか国が違ってするとき互いに信用することがむずかしい、だから契約が大事になる、そして意外と細かい所を見ていないからあとで失敗することがある。
契約しましたよということが商売では大きな意味をもつ、それは地元だったら信用を失うと地元で仕事ができないからそういうことはない。

でも今回わかったことは今の社会は広域社会であり広域的に仕事しないとやっていけなくなっている、地元だけでは仕事の量が限られているからだ。
今回の津波や原発事故ではほとんどの人が外から来た人、九州から北海道と全国から来た人たちが仕事した。地元だけではもう何もできないという状態だったのである。
地元の人はパチンコで遊んでいただけだともなった。
家を建てるのもほとんど建て売り住宅であり外部の人である。仙台から来た人も近いから多い仙台は高速道路もできて近くなったこともある
こういうふうに外から来る人が来ると食事とかでは金は落とす、それでこの辺のレストランとかは繁盛したしその他コンビニも増えたりした。
一番増えたのは宿泊所である、プレハブが多いが新しいホテルもできたし増設したりまず宿泊関係は増えた、外から今でも5000人とか来たとか数が多かった。

ただ福島県全体の特需とかは震災から5年すぎて縮小しつつあり終わりに近づいている
福島県では倒産率が全国でも一番少ないとか特需になっていたのである。
補償金が打ち切られるとこれから倒産が増えてくる、ぎりぎりでやっていた小規模の会社が補償金が打ち切られて倒産が増えてくるという。
何かもともとそういう会社は農業でもそうだったが経営してゆくのが限界でもあった。
たまたま原発事故で補償金が入って継続できたともなっていたのである。

いづれにしろ仙台からこうしてリホームとかの会社が来ると地元の人の仕事が奪われる
ただ広域社会とはそういうものだということを物を売るにしても普通になっていた
競争範囲が全国になったりグローバルになったりしていたのである。
だから建築関係の人が全国に展開して事業に失敗した。一個人とかで全国展開すること自体無理だったのである。

ただもう自分はリホームとか家はこれで直すのは終わりにしたい。これまでも何回も家を直している。もう年だし大きな家が負担になっているのだ。
平屋の小さい家がいい、それなら壊すのにも楽だし今の家は大きすぎるのである。
ただこの家には思い出がある。
気丈夫な姉が作ったとも言える家だが母も店をやっているときはもうけたのである。
それで姉が自転車で野菜を近くの農家から買っていたのである。
その野菜が箱に入れたときかなりの重さになった。
でも姉は太っていて力がありそれを持ち上げて自転車でもってくることができたのであるこういうことを語るとき何かこの家はそうして親が作ってくれたものだということを感じる
家に家族にはそれぞれの物語がある。そうして苦労して作った家に自分が跡を継いで住んでいるということを自覚するのである。

でももし何か株でもうけて家を建てたとかなにか苦労話がないとしたらあんまりありがたみもなくなるかもしれない、親でも何かそうした苦労話があるとき家でも他でもありがたいとなるのである。それは自分だけではない他の人もそういうことを語っているのである自分はこの家を建てるためには何の努力もしていない
ただ最後に介護したとき尽くしたというだけだからである。
今日姉を知っていたという人にあった。その人は姉の友達の息子でありそのことを聞いていた。その母親も死んでいた。68才だったから若かった。
その前に行き来していないからわからなくなっていた。
同じ役場に勤めていたので仲良くなっていたのである。

何かまだ姉を知っている人がいたのかとなる、姉は交際が広かったが役場をやめてからも長いし忘れられていたのである。
人間はとにかく会社でも役所でも退職したりするとすぐに忘れられる、もう5年でも十年でもたつと役場に知っている人もいないと言っていたからである。
これも人間の無常なのであるる。
親しくしている人も死に会社でも役所でもやめるとたちまち忘れられるのである。
生きながら社会から消えているような存在になっているのも多いのである。
だから社会で80くらいでも活躍している人はまれなのである。

ともかくこの家も50年くらいすぎた、だからいたんでいる、でも直したくはもうない。
老人になればだから先のことが考えれられないのだ。
庭に樹を植えてもそれが花咲くまでに十年とかかかるとなるとしたらもう植える気がなくなる
それがこの辺では高齢化で問題になっているのである。
なぜなら復興には時間がかかる、若い人なち十年先でも花が咲くとなれば肥料をやり育てることもできなる、しかし老人はその時間がないからできない、すると復交には向いていないとなるのでてある。

2016年11月15日

見える仕事と見えない仕事 (人間の仕事が機械に代わるとき、人間の価値は何か問われる)


見える仕事と見えない仕事


(人間の仕事が機械に代わるとき、人間の価値は何か問われる)


人間は見える仕事だと理解しやすい、江戸時代とかまではみんな見える仕事だったのである。戦前でも見える仕事が多かった。
近くでも籠屋とか籠を竹で編んで作っていたし石屋というとき石を槌で削っていたのを子供の時見ている
田植えにするにしても手で一つ一つ苗を植えていた。
社会自体が見える社会であり社会がどう動いていて人がどういう役割をしていたか見える、理解できる社会だった。
仕事しているのがほとんど人力だったからである。
そういう社会はアメリカでも外国でも同じだった。
ホッイトマンが讃えた詩にしたのはそうした見えて働く人間の姿だった。

何か働く人を見ているとき一番見えて働いているのは建築関係である。特に力仕事しているときあの人は汗を流して働いているなと理屈抜きで実感するのである。
特に猛暑の時力仕事していたのを見たときは感じた。
自分は体力がないからとてもこの暑さでは木陰で休んでいるほかないとなっていたからである。
一般的に医者とか看護師とかも働いている姿が明確に見えるからいろいろあっても働いているなと見る、でも現代の労働の不思議は一旦そこに機械が道具が介入すると違ってくる例えばクレーンとか操作したりする人は本当は人力の何十倍というか百倍もの労働をしている、機械の労働と人間の労働を比べればその差はあまりにも大きいのである。

ところが機械を操作している人の労働は何か人間が労働しているように見えないのであるこれも何か現代を象徴している。
あの人が働いているの?ただ機械を操作しているだけじゃないか、もしかしたらロボットがコンピュターの遠隔操作で仕事しているんじゃないかとなる
そういうシステムがすでにできていて人間がコンピュターの支持で仕事していることが紹介されている
その時人間は人力の労働の百倍もしていても機械がしているのであり人間が労働しているように見えないのである。
それは田植機でも稲刈り機でも機械が労働すると人間が労働しているように見えなくなるのである。
だから労働歌などがあった、それは民謡となったりしていたがそれが今の機械化した労働になるとなくなった。
炭鉱労働でもそこで地下に入って真っ黒になって人間が働いていたので労働歌が残った。
人間は現代では機械の背後に見えなくなった、車でもそこに人間がいることが見えない、顔も良くわからないのである。
ただ突然自転車で横切ったりするとどなりつけられるから人間がいたのかとなる
それで面白いのは自転車に乗る人が危険なので車に乗った人の顔を見て確認して安全を確かめているという、それはネットの話でありそういう日常的なことがかえってネットの情報は参考になる。
車という機械道具がありそれに人間は隠されている、人間と人間は眼を合わせて安全を確認すれば確実だとなる、なぜなら信号で無視する人がいるからである。
これも人間が機械とか道具とかに頼り見えなくなっているからである。

今回ユニットバスで浴室をリホームしたが少し手伝ってみて配管というとき今は鉄の管を使っていない、伸縮自在のゴムのようなものを使っていたのである。
あれらち鉄と違って扱い安くなっている、鉄だとめんどうだからである。
配管などは水が流れなくなるとき、管が錆びたり何かに詰まったりするときである。
何かそれはわかりやすいのである。だからこれは見ていてもこれなら自分でもできるように見えたのである。管をつなぐことでありそこに水を流すということだからである。
そして修理するときもただその伸縮自在の管をとって洗浄したりつないだりすればいいと見たのである。
そもそもそういうことは原理的に簡単だから理解できるのである。
今の技術は何かと素人にはむずかしすぎるから見えないから理解できない
このように見えればそういうことかとなり技術的にも理解できて自分でも直せるのかなと思うのである。それは原理的に見えてわかるからそうなる

ところが現代の社会はあまりにも複雑であり見えない社会なのである。
その最たるものが原発だったのである。放射能も全く見ることはできない、原発の内部もどうなっているかなど内部の所長すらわからなっかたという驚きである。
吉田所長が復水器のことを知らなかったというのだから最も肝心なことすら原発のことで知らなかった。としたら素人などまるっきりわからないということになる
それより誰ももう原発のことなどわからないのである。
だから何かあったら今回のような事故になったら操作できない何もできないとなってしまう、あまりにも複雑であり誰も全体を知るものはいない、としたらどうして修理できるのかとなる、配管でも網の目のようにめぐらされているのである。
その配管自体が老朽化すると放射能だってもれてくるのである。

人間は今この複雑な文明社会を見えない理解できない、すると何が起きるのか?
原発事故のようなものが起きるということである。
そしてもう誰も修理もになもできない、お手上げとなりこの辺のような状態になってしまう。
ともかく人間は労働することで人間の尊厳があった。
それでどうしても見える理解できる労働だと人間は尊重される
株とかでもうけてもその人はどんな労働しているのかとなると見えない、理解できない
だから株にたずさわる人を尊敬するというふうにはなりにくい。
他にも実際はITで働くような人も普通の人にはその仕事が見えないから理解できない
でもなにかたいしたことを誰にもできないことをしているなと見ていても理解できない
その他はいろいろな仕事があってもそうである。
そこにすでに機械がかかわりやがて人間の代わりにコンピュターがなるというとき人間の尊厳はなくなる、人間はかえってコンピュターより能力がないから仕事も奪われるとかなり未来を予測する
知能までそうなれば人間の存在と尊厳とか価値まで問われるのである。
一部のものはすでに人間より優秀なのである。機関翻訳などは進歩しているから機械から学ぶとまでなっている

いづれにしろ働くことで見えないということは原発のように社会にとっても危険なものになる、見えないということは社会にとって危険なのである。
株なども証券でもグローバル化してその流れを誰も見ることができないのである。
そのことから何が起きてくるのか?世界恐慌とか社会の破綻が突然にくる
見えないからもう操作できない、突然今回のように水素爆発が起きて惨事となる
皮肉なのは原子炉なのか密閉されないでガスがもれて大爆発にならずにすんだとかなったそれは実際は人間の技術のてぬきだったのだがその手抜きがかえって助けたとなった
だからとても人間というのはいくら機械を進歩させてもそれを操作しきれないのである。どこかにミスが生れそれが致命的になるのである。
それは結局人間が神でもないし完全ではないからである。
だから原発のようなものをそもそもそんな所長すら知り得ないものを作るべきではなかったとなる





タグ:人間と機械
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2016年11月16日

トランプが勝ちマスコミが負けた? 世の中先入観を破ることが一番むずかしい


トランプが勝ちマスコミが負けた?


世の中先入観を破ることが一番むずかしい


トランプというのは名前もはじめて聞くし日本ではほとんど知らなかった。アメリカでさえ泡沫候補だった。それがなぜ大統領までになったのか?
そのことが本当に不思議だとなる。
ヒラリーは知られていた、日本でもあれだけ知られていてトランプなどはじめて聞く名だから当選するとは思えなかったのである。
余程のアメリカ通でないかぎり予測は全くできない
そしてただ自分は傍観していただけだとなる
アメリカがイラクを攻撃したときは自分は「時事問題の深層」で人権的な立場から平和の立場から反対した。今になるとそれは正しかったとなる。
それはほとんど別に読まれていないし影響力などなかった。
ただ自分ながらあのときの判断は正しかったとなる
アメリカは確かに3・11のテロで大被害だったけどそれ以上にアメリカは世界に被害を与えていたからしょうがいないと見る人たちも結構いたのである。
世界でもそうである。たからまた力にまかせて他国を侵略するのかとなったのである。

しかし今回のトランプだけは事前の情報もないし皆目わからないことだったのである。
ただ暴言だけが取り上げられてマスコミで攻撃されて印象悪くされていた。
だからこんな人が大統領までになったということが驚きなのである。
それはなぜなのか?マスコミを大衆が信用しなくなっていたことである。
あれほどトランプが攻撃されても通じなかったことが驚きだった。
マスコミは完全にヒラリー側に規制勢力、既得権をもっている側についていたのである。知識階級はヒラリー側だったのである。

日本でも原発事故でわかったように情報でも権力をもつものに左右されるのである。
原発の「安全神話」を作られたのは政府も官僚も科学者もマスコミも全員で作られていたのである。そこに創価などカルト宗教団体もそうだった。
なぜなら聖教新聞の広告費用を二番目くらい東電からもらっていたからである。
こうなると政府であれ東電であれ原発に反対することはトランプのようになる。
だから左翼系にはなるが原発を東京に作れとか原発は危険だということを本まで出していたが隅の方に追いやられてほとんど注目されなかったのである。
自分も東京に原発を作るというときSFのように見えたのである。
それほど「安全神話」はあらゆる手段で権力で強固に作られていたのである。

これは地元でも利益になるから反対すると住めなくなるような状態にもなっていた。
地元の新聞でも雑誌でもみんな安全神話に加担していたのである。
「財界ふくしま」が一時原発の危険性を指摘したがあとでやめたというとき東電から金が入ったためだとか言われる、それもそうである。あういう地方の雑誌とか新聞でもそれてりに金がかかるのになぜ経営できるのかとなると東電の宣伝費は他の会社の百倍もの金が入るとなれば批判はできないのである。
だいたいどうして地方の新聞社が経営が成り立つかとなると福島民報は聖教新聞を刷っているし大手の毎日新聞もそうである。経済的にもこうして巨大なカルトでも権力をもつものにおさえられているからもう公平な報道はできないのである。
こういうふうに情報でも報道でも常に権力によって操作されているのである。
戦争のときも日本が大敗しているときでも勝っているとか大本営発表に終始したことでもわかる。大本営発表がいかに危険なものかわかる、その情報はもう日本がもう負けて戦いない状態でも勝っているとしていたのである。
原発事故のときもメルトダウンが明確になっていても御用学者がメルトダウンしていないとマスコミで主張していたのと同じである。

だからこうして既得権をもつ権力により情報が操作されるというときなぜトランプが勝ったのかというのは不思議だとなる、一つの勝因はアメリカでは民主党の次は共和党なるという暗黙のルールがあるからだということで予測していた日本のジャーナリストがいた。日本ではそうしてトランプが勝つと予測していたジャーナリストとか学者は数人しかいなかったのである。そうなると日本だって政府でも予測できないものとなっていて失敗したとなる
それがなぜなのかとなるとアメリカですらマスコミの信用が落ちたということである。
マスコミの報道を鵜呑みにしている人がアメリカですら減った、信用しなくなったことである。このことも大きな変化だったのである。
日本ならNHKとか絶大な力をもっていたが今ではNHKすら批判の対象になる。
それはネットが生まれて普及したことも原因している
NHKの一方的な報道に疑問をもつ人が増えたのである。
別に民主主義は報道の自由がある、だから報道してもいいが報道するというとき今まではマスコミしかないしNHKが一番影響力をもっていたのである。だからその報道に左右されてしまっていたのである。

だからトランプが泡沫候補として現れて大統領になったということは奇跡的だった。
マスコミの50社がヒラリーについていてトランプは3社しか報道しないとか攻撃されていて勝ったのはいかにマスコミの影響力が低下したかということである。
マスコミはネットがでてきてただの民営の一私的報道機関になるかもしれない
それよりもともと新聞社でも地方の新聞社でも何か錯覚しているのは公共的報道機関と錯覚していることであった。
だから新聞とかテレビにでるだけで知名度があり力をもつようになったのである
その中味はどうでもいいのである。それで石原慎太郎でも舛添でもみんなマスコミに持ち上げられた人が東京都知事になって今の問題を引き起こしたのである。

一見個人が大きくなるのは個人の力のようでもマスコミの力だったりするし有名になるのは背後に必ず団体の組織の後押しがある。
仏教系だったら戒名商売だなどということはマスコミでといえない、個人として仏教系の人が発言していてもそれは仏教界がなんらか圧力をかけているし個人もその仏教界を代表していっているから同じだとなる。創価は露骨だが方も同じなのである。
背後の権力団体組織の力なくして発言力はもてない仕組みになっているのである。在日団体が背後にあったりするのもそうである。
なんらか背後の権力が関係している、その背後のさらに大きな権力がアメリカだったり中国だったりする
原発を批判するのにも個人ではできなかった、左翼系の団体が背後にあってできた。
となると科学的真理とか公正とかも関係ないの手ある。反対する人は左翼のレッテルがはられ右翼からすると信用できないとなる
そういう科学の問題も政治的な問題にされたことに不公正が生まれたのである。
科学的なことは地動説と天動説のように曲げられないものでも結局カトリック教会が権力側にあったとき否定されたのである。
科学ですら政治とか権力によって曲げられるのである。そこから原発事故も起きたのである。
もともと政治的意図で作られたものでもあったからである。


そのマスコミにのせられたのが東京都民であり大衆なのである。
そういう洗脳するために権力側はマスコミを金で操作する、宣伝費を払い操作する。
創価などは池田大作が新聞は歴史だとかいって非常に重んじていた。
新聞で宣伝することは大きな力となったからである。
だからこそ新聞社で聖教新聞をすらせて批判をおさえるのである。
そうしたマスコミは原発でもそうだがトランプでも同じようにとにかく権力側につくから公正な報道などありえないのである。
つまりただ私的利益を追求する一会社なのだということを認識すべきである。
自分の会社の利益にならないことは報道しない、不利益になる人の意見をのせないのである。

そして人間はそうして先入観として大衆を洗脳する。先入観というのは固定観念化するのである。地動説から天動説になってガリレコが教会から迫害されるようになる。
科学とはこの固定観念を先入観を破ることから始まっている。そしていかに固定観念を破る事かむずかしいかである。それは深く人間に植えつけられているからである。
地理でもまず人間は固定観念に縛られる、海からしか陽が昇らないのを見ている人は山から陽が昇るのが驚きになるし日本海に陽が沈むのも驚きになる。地理的なことは世界になるとさらに驚きがあることも同じである。

自分がユニットバスを作るとき会社の人が実は色がいろいろあっても白を選んだ。
それはなぜか?ホテルなどに泊まると必ずバスは白なのである。
それでユニットバスは白が普通なのかと思ってしまった。でも別にいろいろな色があり白はかえって汚れるから他の色を選んだ方がいいと知っている人が言ってそうだったと失敗したのである。
バスは白だという固定観念、先入観があってそうなっんたのである。
別に色々な色があるのだから選べば良かったのだがその時は良く考えないで選んだ
その時時間の余裕がなかったこともある。
それで先入観で白のユニットバスを選んでしまったのである。

時間がなかった、先入観で選ぶ

これはあらゆる場面でそうなりやすい、選挙でもトランプって何なのだろうと考える暇もなく何かを言うこともできないのである。
あらゆることについて事件がいろいろ起きても考える時間がないから先入観で判断しやすいのである。もともと知っていることならその方面に詳しいなら判断しやすいがいろいろなものに通じることはできないからである。
すると先入観で物事は判断しやすいのである。
そして時代は常に変わっている、自分は水道でガスでも管は鉄だと思っていたがすでにゴムのような伸縮自在のものなっていたのである。
そういうことはみんな知っている、でも技術的なことでも知らない人は知らないのである。
特に老人はそうした技術的なことには遅れるし知らないのである。
スマホしていない人はそのことを知らない、自分はハソコンをしていてもスマホをしていないからその方面のことはわからないし車を運転しないからそこでわからなことがかなりある、ユニットバスにいても全く無知だから判断できないことがあった。

ともかくトランプが勝ったということは今でも不思議である。
それはいくらマスコミで洗脳してもアメリカ人がグローバル化で得していない、不満な層が思っていた以上多かったという現実がある。
移民を禁止しろというとき現実に移民のために職を奪われたとか低賃金化したとか実被害がありそれはいくらマスコミで洗脳しても現実がそうなのだからヒラリー側にグローバルで得している人たちには入れなかったともなる
トランプの暴言がただの暴言だったら勝てない、現実に苦しむ人たちに訴えたから勝てたのである。
ただマスコミの凋落は今回のことではっきりしたことは確かである。



posted by 老鶯 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

波紋の紋様(Pattern of the ripple)



波紋の紋様(Pattern of the ripple)


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terrible waves (tunami) 

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moonlight

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seaside land

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beattiful streams



抽象画は無限の変化である。変化を楽しむ芸術である。
その変化はハソコンだからできる新しい芸術である。
それは全く技術であり創作とも違っている
変化させて楽しむ、芸術の領域を広げたのである。

The abstract picture is an infinite change. It is art to enjoy a change.
It is new art to be possible because the change is a PC.
I opened a domain of the art to change it, and to enjoy that it was totally a technique, and was different from the creation.
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