2016年10月20日

復興住宅を作った人たち(詩) (それはほとんど外部の人たちだったー作る現場を見ていると価値がわかる)


復興住宅を作った人たち(詩)


(それはほとんど外部の人たちだったー

作る現場を見ていると価値がわかる)


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毎日私はその人たちを見ていた
夏の盛り汗を流し家作る人たちを
入道雲が湧きあがり蝉が盛んに鳴いた
九州から北海道から全国から
ここに働く人たちを集まった
地元の人もここで働いた
地を均し土台を築き家を建てた
私は毎日その人たちを見ていた
ボランティアも津波の被害の家の泥をかきだしていた
その後もいろいろ働いていた
しかしこの時多くの地元の人は何をしていたか
パチンコ屋通いでありギャンブルに興じていた
それは年寄りばかりではないだろう
若い人もいたことは確かである。
まだ働ける人たちはいた
その矛盾は何だったのだろう
人生の時は常に過ぎてゆく
たちまち過ぎて時間は消失する
その時は還ってこない
若き人よ、力ある時力をふるへ
その力はいつまでもない
汝らをたちまちに老いが襲う
そしてふりかえり人は後悔する
この復興住宅を建てたのは誰ですか
全国の人たちです
私の父や母や祖父母は何していたのですか
ギャンブルしていた人が多いな
今住んでいる復興住宅はほとんどは全国の人たちが作った
津波のかたづけも除染もみんな外部の人たちやった
この復興住宅は他でも金があれば買える
でもここにはこうして人間の汗があって作られている
暑い最中を汗流して働いている人たちがいた
それを忘れてはいけない
あらゆるものにはこうして人の労働があって産み出される
機械があっても人間の労働は消えることがないだろう
人生のときはたちまちすぎる
なぜその時人は労を惜しむのか
人か苦しみそして困っているときに
何か価値あることを成せ
価値あることを成す時間は限られている
そしてたちまち時は過ぎてゆく
そして後の世の人に問われるだろう。
孫とかにも問われるだろう。
あの困難のときただギャンブルに興じていたのか?
復興に尽力したのは全国の人たちであり地元の人ではない
そのことを知ったとき何を思うだろうか?


毎日復興住宅を作るのを見ていた、異常に暑いときがありその時働けるような状態ではなかった。でも働いていた。
自分は毎日そこで働く人たちを見ていただけであった。
でもその働く人たちを見ていたが故にその働く人たちの価値を知り復興住宅の価値を知ったのである。
現代はともかくこうして物があふれていてもその物ができる現場を見ていない
第一外国になると見ようもなにもないのである。
バナナとるもに苦労があると経験した人は言う。
何でも物があふれていても金を出せば買うことができるじゃないか、買うということには何の苦労もないのである。
そして金がある人は消費者は王様となり買っている人が偉いのだとなっている
金をもって金を出す人が偉いとなる

それで小高の人が鹿島の人は助かったのよね、私たちが買ってやったのだからと言っていた。それもあるけどそういうことが原発避難者が傲慢に見えたのである
放射能被害は広い範囲であったからである。もちろん故郷に住めなくなったからその被害は大きいののだから被害者は当然だとなりそれを言うと怒る
でもこの辺で起きたことは金があるからと威張っていいのかということがあった。
それで反発されたことがあった。
そして復興に尽力したのは外部の人、全国の人たちだったのである。
そのことは心にとめるべきことだろう。
それはあとでそのことが言われようになる、人間のしていることはその時代や時々でわからないのである。
それは人生でもそうである。あとになると明らかになりその時していたことがわかる
そしてみんななぜ時間を無駄にしたのかと後悔しているのである。

いづれにしろその時々何をなすか、何に時間を費やすか、それが何の意味があるかはその時わからない、後でわかることが多いのである。
その時自分の家に苦しいとき来た人はパチンコ屋で働いていたのである。
そのことが憤りになっているがその人は何も感じていない、借金で追い詰められていたか何が有意義かどうかもそんなことはもう眼中にもなかったからである。

「価値をあること成せ」と言っても何が価値あることかわからない、ただその時々のことに無意味に時間が費やされることが多い、そしてたちまち時間が過ぎてしまうのが人生だとなる、価値あることを成す時間、有意義なことを成す時間が極めて人間には限られているのである。
また何が価値があることかわからないことも多いからそうなる
つまりこの世で一番浪費されているのが時間なのである。
例え億万長者でもやはり時間は消失する、いくら金があってもその人が価値あることを成したかどうかわからないのである。
金は多くもつことができても時間はみんな平等にしかもつことができない、長生きすればもてるがそれでも限られているのである。

この辺はともかくいろんなことが問われた場所なのである。
だからこの辺のことを知れば何かいろいろこれからも参考になることがある
それで自分のプログなども全国の人にも参考になる
それはここだけの問題ではなかったからである。

人を苦しめたものは苦しめられる
人を悲しませたものは悲しまさせられる
人を助けたものは助けられる
その時々に成すことが還ってくる
価値あることを成せばその価値は消えない
それは金で報くえられるとは限らない
天に神の帳簿に記される
神の貸借表に記される
それはカルマの帳簿ともなる
天に宝を積めとはそのことだろう
地で計られない価値が天に記される
上にたつ者よ、金持ちよ、心せよ
汝らは知らず人を悲しませ苦しめることあり
そのことが汝らにカルマとなり返ってゆく

つまり必ずこの世には人生でもカルマの原理が働いている、それがその時々にはわからないがあとで判明する、あまり復興住宅を建てるような人でも底辺で働く人は注目されないでもそこには金だけでは計れない価値もある。
金融とかで稼ぐとはまた違った価値である。
ただ人間の価値はあまりにも多様なのである。では旅ばかりしていてそこに何が価値があるのか意味があるのかともなるがそこにもある。それは書いてきた。
遊びにも価値がある、ただギャンブルは別である。
何が価値があるかというときその時や時代でも違うし場でも違うしその時々の状況でも違うし価値を産み出すのは様々な条件によって違うのである。

何気ないことでもちょっとした一言でも人を助けることもある。
人間の行動はどういうふうに作用するかわからないのである。
自分が復興住宅を作る人を見て価値を見いだした。
でも作った後、完成品を見て住む人はこういうことは感じない、働いている所を見ていないからである。歴史的建造物でもそれが作られた苦労はもう実感できないのである。
だから歴史的なものに価値を見いだすことはむずかしいのである。
昔だったら機械がないから人力が主だったとすると何作るにしろ膨大な労力がかかっていた。ピラミッドなどでもそうである。その作る現場にいたら驚きだったろう。
でも一旦完成品を見ているとそうした人間の労力を感じないのである。


posted by 老鶯 at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

報道とは何かー報道に土着したものの眼が必要 津波や原発事故で思い知らされた


報道とは何かー報道に土着したものの眼が必要


津波や原発事故で思い知らされた



報道というときこれも何かとなると定義もできないし報道は今は多様すぎるから世界まで広がっているからニュース追うだけで一日すら終わってしまうだろう。
でも報道の基本は土着的なもの、一番身近に現実に生活する場からはじまる
それが今までの報道に欠けていたしできなかった。
日本全体になるとその報道も多様であり実際はもう報道されないことも多い
その中に重要なことがあってももう報道されない、その報道されないことに重要なことがある。
報道が多様だという全国版ではマスコミでは同じ話題を流す、それは視聴率最優先だからである。視聴率がなければ宣伝費も入らないからである。
すると視聴率をとるにはどうしても大衆向きになり低俗化するのである。
ただ数は力というとき政治でもそうだが報道でもそうである。
みんなが見れば読むとなるとそれだけ影響力がある、テレビでも百万とかの人間が見ているとなるとその影響が大きいのである。
だからこれまではマスコミの力が大きくなっていてマスコミが第三の権力とか言われていた。

そもそも報道は何かというとき報道でもいろいろあるからである。新聞でも様々なものが報道される、スポーツ欄もあるから多様である。自分はスポーツには興味がないから無駄だと思っていても多数が読むとなれば興味をひくためにのせる
スポーツは人間にとって必要でも別に報道することもない、そんなことに紙面をさくということが無駄に思えるのだ。だから今は新聞は一紙もとっていない
それで別に困ることがないのはテレビもあるからである。
テレビではやはり地域の報道をするから見ないとまずいということがある。
ともかくこの辺では津波原発事故後は外部からでも内部からでも報道される
必ず県単位のテレビでもこの辺のことを報道されない日はないのである。

この辺が看護師が不足しているというのもやはり病気になり入院したから気になる
そして200人も中通りの方で看護師が増えているというときこの辺から看護師が流出したからだというときなぜなのかとなり書いた。
それからソーラーパネルの植物工場は失敗して終わった。かえって電気代がかかってやっていけなくなったとかもこの辺独特のニュースである。
ただニュースというのはきりがなくなくある。
交通事故のことを自分がプログで報告したがその人は死んだというのも大きなニュースである。

では死亡欄には年齢くらい住所など書いてあるがそれでその人のことがわかるだろうかなにもわからないのである。そのことがまた大きな不満なのである。
自分は自分の母親のことを百歳で死んだからプログにその死顔をのせた。
安らかな死だったからである。それは相当に全国で見ている、要するに死顔をみるということは写真でもほとんどなかったろう。それがインターネットだとできるからである。
そんなことするな死者の冒涜だとか言う人もいる、ただどういう人が死んだのか?
ただ一行誰々が死んだだけではその人のことがわからない
死顔だけでも見ればこういう人が死んだのかとなる、こういうふうな死顔もあるのかと見るのである。
つまり情報は本当に一人一人がもっていて無限なのである。
ニュースはあらゆるものがニュースになるから無限である。
毎日人が地域でも死んでいるのだからそんなもの関心がないということもある。
でも地域で一人死ぬというとき何かそこに地域であれどういうことなのか、どういうふうに生きたのかとか知ることがやはり一つの郷土史であり郷土学だとなる

自分がプログで探求してきたことはそうした郷土を知る知らせる報道だった。
これまで報道していないのだから報道のことはわからなかった。
ただ俳句とか短歌を作っていても報道にはならない、報道の範囲は広範囲なのである。
最近地震で風呂のタイルとか壊れたがそのままにしていた。
風呂は福祉の湯を利用していた。ただ冬になると寒くなり湯冷めするのでユニットバスを設置することにした。
それを頼んだのはたまたま来た仙台のリホームもしている会社である
何かこの辺では瓦を直したときもいわきの会社であり地元では頼めないと思っていた。
忙しくて人手不足がつづいていると思っていたし何かみんな外部の人がやっているように見えた。それでちょうど全部セットでしてくれるのでいいと思い実印まで押して契約してしまったのである。
今日知っている人に聞いたら地元でもやれる、知っている人にも頼めると聞いた。
でも実印を押して契約したということは相当な責任である。
考えておきましょうとかにしておけばこうはならなかった。

それで石原慎太郎が東京都知事としてハンコを押したことは責任があると問題になったことを思い出した。
ハンコを押すことは契約することは責任を負うことになる
東京都となると大きいからその工事も巨額の費用を払うことになる
家のことならたいした金でないにしてもリホームは金の額は大きいとなるといろいろ普通は考えるのある。アウターサービスがどうなるのかとかいろいろあとで考えて簡単に契約したのが失敗だったとも思った。地元だとアフターサービスはいいからである。
こういうことも経験しないとわからないし自分には社会経験が欠けていたのである。
石原慎太郎も作家でありそういう社会経験に欠けた所があったかもしれない、そもそも一週間に一回とか役所に行っていなかった。
それでただハンコだけ押して後で責任はとらされるとなると怖いことである。
家単位だったらそういうことはなかったのである。
でも家をマネジメントすることもやはり社会生活の基本にあったのである。

いづれにしろ報道とは何なのか?これは本当に範囲が広すぎるのである。
この辺ではまずプログに書いてきたように様々なことが知ることが強いられたのである。放射線量がどうのこうのとこれだけでも理解することが最もむずかしい
科学に弱い自分はとてもそれに答えることはできなかった。
ただ地元ということでいくら科学よ弱くても東風(こち)が吹く時期を知っていたり地元ならではの土着しているものの強みがあった。
これは外部のものにはもてないのである。土地勘はもてないのである。
何か事件があってもやはり土地勘がないと理解できないことがある。
そういうことは土着して生活していなとわからないのである。

土着というとき今は何かその言葉自体が過去のもののようになっている、農民が八割の時代はみんな土着する生活だった。
土着というとき土に着くとなる、その土地と一体化した生活である。
その土地の自然と一体化した生活がありそれが土着である。
報道がそれと関係ないよう見える、全国版とかなると土着的なものからはかけ離れたものとなる、でもそもそも人間の認識する土台はその実際に生きているそれぞれの土地にあることは変わりないのである。
だから報道というときその土地に日々生活して精通したものが報道に向いている
その土地の景観でもどこが美しいとか自然の特徴でもその土地の人が知っている
それからその土地の歴史でもそこに生活している人が地理でも詳しいから歴史から報道する、それも今回は津波とか原発事故で強いられたのである。
400年前にも700人が溺死したと相馬藩で記録していた。それも知らなかったのである。
そういう過去も重要なものとしてクローズアップされたから歴史にも通じていないと報道はできない、報道とは広範囲な知識と見識が必要になる、それは一人個人ではできない、手にあまるものとなる

ただ報道というとき福島県でも広すぎた、その広すぎることが理解するにも必ず誤解生れる、国(くに)というとき実際は相当に狭い範囲のことでありそこから国を治めるスメラミコトが生れた、スメとは狭い範囲の王のことだった。
福島県はハマ、ナカ、アイヅに分かれ気候も違っている、地理的に一体感をもてないのである。
報道というとき福島県の報道となると様々なことが報道されても深く報道されないししりえないのである。
そして欠けていたのは例えば相馬藩内の報道がなかったことである。
それは福島県のさらに相双地域版とかとして報道していた。
でも相馬藩内の相双版としての報道が必要だった。そのことを痛感したのは津波と原発事故だったのである。
これは生命にもかかわるものとしてつきつけられた問題だったからである。
原発のことをこれほどの被害になったように地元で報道して地元の人が関心をもつべきものだった。

小高でも東北電力ですでに原発の工事がはじまる予定だったのである。でも小高に原発を建てられることも知らなかった、そんな重大なことが知らない人が小高を離れると普通にいたのである。それは原発に関心を与える報道がなかったからだとなる
また権力でおさえられていたということもある。
ここに報道がいかに重要かということを思い知らされたのである。
福島県の報道でも雑誌が二つあり新聞社が二つありテレビ局が五つありとかあっても報道されない、ということは関心ももちえないということにもなる
まだ報道するにも新聞とかになると金がかかりすぎるから一個人などできない
そこにも大きな問題があった。インターネットが普及して一個人でも報道できるようになった。ただテレビとか新聞からするとまだ弱小メデアである。
ただ相馬藩内であれ福島県版ではないもっと狭い範囲での報道が必要だったことは間違えない、福島県全体になると広すぎるからその土地に精通することはむずかしいからである

人間は知らないことが致命的になる

津波で原発事故でもそうだったのである。
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