2016年10月19日

抽象画(abstract pictureーcolours of summer)


抽象画(abstract pictureーcolours of summer)

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sea in summer

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colours of summer
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kilt
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splash and flame
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The town where Hakodate city floated in the sea
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hidden  water into a planet

南相馬市の65歳以上35バーセント (看護師不足などー地域で育ったものは地域に貢献する時代)


南相馬市の65歳以上35バーセント


(看護師不足などー地域で育ったものは地域に貢献する時代)


高齢者人口は3384万人、総人口に占める割合は26.7%と共に過去最高
80歳以上人口が初めて1000万人を超える

南相馬市は35バーセント 相馬市も30パーセント

福島県では25パーセント

百歳以上も増えつづける

平成22年68744,449
平成23年76247,756
平成24年80751,376
平成25年81354,397
平成26年86258,820
平成27年97061,568
平成28年1,04665,692

高齢化社会というとき南相馬市は原発事故などで急速にすすんだ。35パーセントが65歳以上なのである。10人いるとすると3,5人となるこれは全国平均で26パーセントとするとき
かなりの多さである。何か街を歩いても目立つのは老人なのである。
この辺では人口が流動した。だから今でも除染であり工事関係者であれ5000人くらいまだ入ってきているという、だから実質の人口は増えているのである。
そして小高は住民票があり南相馬市に入っていても浪江であれ大熊であれ飯館であれそういう所から入ってきた人は南相馬市の人口になっていない、住民票が以前として前の町にあるからである。それでいわきでは税金を納めないとか問題になった。
家を建てても税金を納めないとすると住民でもないとなるからだ。
でもジレンマは住民票を移せば原発事故の補償金がもらえなくなる、だから移った先に住民票を移さないのである

だから南相馬市でも相馬市でも他でも原発事故の関係で福島県は実際そこに生活している人が増えても増えていない、住民票を移していないので移った先の住民になっていないのである。
だから例えば鹿島区の復興住宅に80所帯が買い上げで入るとしてその人たちは南相馬市の住人になるのだろうか?
補償金がもらえなくなれば打ち切られればそうなるのかもしれない、ただ以前として前の町や村に住民票を置くということも行政などでまた何かあるかもしれない。
この辺はそういうことでも混乱しているし原発事故は福島県全体をまきこんだものだったのである。

高齢化というとき百歳以上を毎年3000人から5000人規模で増えているのも驚きである。
この調子で増えてゆくとするとどうなるのかとなる
自分の母親も百歳で死んだ、百歳で死ぬことはどういうことなのか?
楽に死ねることは確かだろう。自分の母親は老衰でありほとんど苦しまずに死んだ。
約一週間前に水も飲まなくなっていたがホータブルトイレには行っていたし手がかからなかったのである。それで自分のような不器用な人間でも介護できたとなる
百歳まで生きることで得なことは楽に死ねることなのである。
その他は病気で死ぬから苦しむことになる

高齢化社会は日本全国でも影響が大きい、この辺は特に35パーセントになっているから先取りして高齢化になった。
復興といっても高齢化の影響でできないというのが現実なのである。
小高は避難解除しても帰ったのは90パーセントは65歳以上だろう。
老人だけが帰って町が成り立つのかという深刻な問題になっている
もともとこういうことは予測されていたのである。
たから高倉の老人は時期が早まっただけだとも言っていた。
子供は外に出て跡を継がないし老夫婦だけが取り残されたのである。

それにしても金山町とかは50パーセントが65歳以上である。二人に一人が65歳なのであるこうなるともう町でも村でも成り立つのかとなる、会津の高齢化は深刻である。
浜通りはそうではなかったが原発事故後急速に高齢化したのである。

それから南相馬市では看護師不足が以前としてつづている。それで市では奨学金制度で生活費まで援助するが南相馬市の病院に勤めればその資金は払わなくてもいいということでいくらかの看護師を確保した。それでも20パーセントがたりないとかなっている
というのは中通りでは200人とか看護師が増えた、双葉や浪江など相馬地域から原発事故で放射能を怖がって看護師が流出したのである。
子供をもっている看護婦も多いからそうなる。
何かだからこれからはそれぞれの市町村では今までのような考え方ではやっていけなくる今までは地元からどこにでも就職してもいいということがあった。
東京で人手不足なら東京に就職してもしかたないとなる

でも時代が変わった、別に東京と地方を比べるとき生活の水準が今はそれほど変わらない、通販やインターネットとかで情報的にも遅れるということもない社会である。
ただ就職先がないということで東京に大都会に出るという若者が多かった。
でも時代が変わり地元で育てたものは地元に貢献するというのが筋になる。
だからなぜ放射能汚染があっても子供が親を捨てて出て行くのか?
苦労して育てたのに何にもならないとなる、それは看護師の流出や不足に象徴されていたのである。放射能は低い所もありそれが即子供に影響するとはならないのである。
その影響はまだわからないからである。


これも広域社会だから起きたことである。看護師となるとどこでも就職できるからであるかえって給料がいいからと東京の方でもひっぱりだこになって移っている人もいる。
でも何かこういう広域社会グローバル経済社会の矛盾がでてきている
放射能汚染があった、何か困難が生じると他に移ればいいとなるとそれでいいのか?
家族すら離散していく、そんなに頼りないのか?何かそこに疑問が生れている
他で移り親がいるのに親のめんどうを見ないで他の病院で他の親のめんどうをみている。子供を育てた親は馬鹿らしい、なんのために育てたのかともなるだろう。
地域にしてもそうである。地域でその子供を世話しても外にでていくだけだとなれば
世話しても何にもならないということにもなる

「遠くの親戚より近くの他人」となる、それは隣の村でも歩いてきたら遠いから看病などでもできないのである。車でも通うとなるとめんどうになるのである。
だから娘がいたとか東京だとかなるといくら親孝行したくてもできないのである。
一方で血縁だらか遺産があれば遺産だけはもらうとなるとそんなら自分を助けてくれる近くの人にやっ他方がいいとなる。
何か老人になると近くが大事になるのである。若いときは健康だし人に頼る必要があまりないからそういうことを考えないのである。
ただ近くだから助けてくれるとは限らない、自分は全く助けてもらえなかったからであ
る、かえって弱者化したときこれ幸いと火事場泥棒とか脅迫されたりしたからである。
それでも近くの人を助ければ近いのだから助けられることはありうる
その確率の方がずっと高いのである。遠くになれば助けようにも助けられないからである。

高齢化社会というときマイナス面が強調されるがそれだけではない、社会に影響するというとき高齢化はスロー社会になるからなにか急がないゆったりとした社会にもなる
どうしても団塊の世代が活躍した時代は高度成長時代でありがつがつしていた、欲望でぎらぎらしていた時代である。
それが今はない、何か全体的に活力というものがないのだがスロー社会であり落ち着いた生活をよしとするようにもなる
高度成長時代の企業戦士とかなると獰猛な肉食系の人が活躍した。
今は草食系とかいわれるのもそのためである。老人になればどうしてもその土地に根ざした生き方になる。植物的に根を張る生活であり農業的なものになってゆく

自分でも若いときは世界へ羽ばたくというか拡大化してゆく旅である。新しいものを貪欲に吸収する、それで旅ばかりしていたとなる。
でも旅したことでも今度はその意味を深化させる、旅だけではなくこれまで経験したことをその意味を深化させるのが老人に向いているのである。
ただ新しいことはもう吸収できない、これまで吸収したもので花咲かすのである。

何か老人だと誰でもその人の経験した話が面白い、札幌から来た自転車旅行の67歳の人は冬山にも上り一緒に登った人が死んだというときそこに驚きがある。
そんな経験はなかなかできないからだ。山は自分も登ったが一番疲れるし危険でもある。自転車旅行では交通事故があっても遭難などはないのである。
何かそういう人の体験しない話を聞くのが面白いのである。
そうなると平々凡々の生活をしてきた人の話は面白くないとなるかもしれない、公務員とかはそうなるかもしれない、冒険がないからである。
一般の社会人でも企業でも冒険があると話も興味深いものになるかもしれない
漁師とか農民の話も実際は興味深い、それは自然と深く結びついたものだからである。
札幌で暮らしているとかなるとそれは大都会であり都会人だから興味ないともなる
本当の北海道人だったらやはり牛を飼っているとか農業をしている人とかになる。
他に漁師もいるからそういう仕事の人の話を興味深いものとなる

老人の価値を若い人は金だけだと思っている、金だけを求めているがその人の経験があり特別な経験をした人の話は面白いのである。
要するに老人は経験したことから芸術でも学問でも何でも創作しているのである。
若い人はそういう経験がないから書くものでも浅薄になる。
若い時は何か芸術でも深く見れない、鑑賞できない、思想でも哲学でも深く本でも読めないのである。理解できないのである。
老人になると理解力であれ鑑賞力であれ何かを深くみる創作するということに向いているのである。
創作する人にとっては芸術とかなると長生きした方がいいのである。
長生きすればするほどその芸術が深いものとなるからだ。
ただ人間の価値はいろいろであり芸術だけではない、何かしら老人でも価値をもとめればある。

しかしただ長生きしただけで人間の価値が生れるかとなるとそうはならないだろう。
人間は何かの価値に生きる、それがただ長生きだったら価値あるとははならないのであるこの人に何の価値があるのか?それはそれぞれに違っているからなかなかわかりにくい。
それはこの人は長く生きたから価値あるとも言えない、百歳生きた人が価値あるかどうかはわからない、みんなが果たして価値あるものになるかどうかわからない。
自分の母親は家族のなかでは価値があった、自分も支えられたから価値があったが家族外では価値があるものなのかどうかはわからなかった。
社会的に価値ある存在というときそれがどういうものなのか見極めるのはむずかしいとなる。
社会的にはこれだけ高齢者が多いというときただ社会にとって重荷であり迷惑であるということも高齢化社会では顕著になるからである。

posted by 老鶯 at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 認知症半年の記録

南相馬市の65歳以上35バーセント (看護師不足などー地域で育ったものは地域に貢献する時代)


南相馬市の65歳以上35バーセント


(看護師不足などー地域で育ったものは地域に貢献する時代)


高齢者人口は3384万人、総人口に占める割合は26.7%と共に過去最高
80歳以上人口が初めて1000万人を超える

南相馬市は35バーセント 相馬市も30パーセント

福島県では25パーセント

百歳以上も増えつづける

平成22年68744,449
平成23年76247,756
平成24年80751,376
平成25年81354,397
平成26年86258,820
平成27年97061,568
平成28年1,04665,692

高齢化社会というとき南相馬市は原発事故などで急速にすすんだ。35パーセントが65歳以上なのである。10人いるとすると3,5人となるこれは全国平均で26パーセントとするとき
かなりの多さである。何か街を歩いても目立つのは老人なのである。
この辺では人口が流動した。だから今でも除染であり工事関係者であれ5000人くらいまだ入ってきているという、だから実質の人口は増えているのである。
そして小高は住民票があり南相馬市に入っていても浪江であれ大熊であれ飯館であれそういう所から入ってきた人は南相馬市の人口になっていない、住民票が以前として前の町にあるからである。それでいわきでは税金を納めないとか問題になった。
家を建てても税金を納めないとすると住民でもないとなるからだ。
でもジレンマは住民票を移せば原発事故の補償金がもらえなくなる、だから移った先に住民票を移さないのである

だから南相馬市でも相馬市でも他でも原発事故の関係で福島県は実際そこに生活している人が増えても増えていない、住民票を移していないので移った先の住民になっていないのである。
だから例えば鹿島区の復興住宅に80所帯が買い上げで入るとしてその人たちは南相馬市の住人になるのだろうか?
補償金がもらえなくなれば打ち切られればそうなるのかもしれない、ただ以前として前の町や村に住民票を置くということも行政などでまた何かあるかもしれない。
この辺はそういうことでも混乱しているし原発事故は福島県全体をまきこんだものだったのである。

高齢化というとき百歳以上を毎年3000人から5000人規模で増えているのも驚きである。
この調子で増えてゆくとするとどうなるのかとなる
自分の母親も百歳で死んだ、百歳で死ぬことはどういうことなのか?
楽に死ねることは確かだろう。自分の母親は老衰でありほとんど苦しまずに死んだ。
約一週間前に水も飲まなくなっていたがホータブルトイレには行っていたし手がかからなかったのである。それで自分のような不器用な人間でも介護できたとなる
百歳まで生きることで得なことは楽に死ねることなのである。
その他は病気で死ぬから苦しむことになる

高齢化社会は日本全国でも影響が大きい、この辺は特に35パーセントになっているから先取りして高齢化になった。
復興といっても高齢化の影響でできないというのが現実なのである。
小高は避難解除しても帰ったのは90パーセントは65歳以上だろう。
老人だけが帰って町が成り立つのかという深刻な問題になっている
もともとこういうことは予測されていたのである。
たから高倉の老人は時期が早まっただけだとも言っていた。
子供は外に出て跡を継がないし老夫婦だけが取り残されたのである。

それにしても金山町とかは50パーセントが65歳以上である。二人に一人が65歳なのであるこうなるともう町でも村でも成り立つのかとなる、会津の高齢化は深刻である。
浜通りはそうではなかったが原発事故後急速に高齢化したのである。

それから南相馬市では看護師不足が以前としてつづている。それで市では奨学金制度で生活費まで援助するが南相馬市の病院に勤めればその資金は払わなくてもいいということでいくらかの看護師を確保した。それでも20パーセントがたりないとかなっている
というのは中通りでは200人とか看護師が増えた、双葉や浪江など相馬地域から原発事故で放射能を怖がって看護師が流出したのである。
子供をもっている看護婦も多いからそうなる。
何かだからこれからはそれぞれの市町村では今までのような考え方ではやっていけなくる今までは地元からどこにでも就職してもいいということがあった。
東京で人手不足なら東京に就職してもしかたないとなる

でも時代が変わった、別に東京と地方を比べるとき生活の水準が今はそれほど変わらない、通販やインターネットとかで情報的にも遅れるということもない社会である。
ただ就職先がないということで東京に大都会に出るという若者が多かった。
でも時代が変わり地元で育てたものは地元に貢献するというのが筋になる。
だからなぜ放射能汚染があっても子供が親を捨てて出て行くのか?
苦労して育てたのに何にもならないとなる、それは看護師の流出や不足に象徴されていたのである。放射能は低い所もありそれが即子供に影響するとはならないのである。
その影響はまだわからないからである。


高齢化社会というときマイナス面が強調されるがそれだけではない、社会に影響するというとき高齢化はスロー社会になるからなにか急がないゆったりとした社会にもなる
どうしても団塊の世代が活躍した時代は高度成長時代でありがつがつしていた、欲望でぎらぎらしていた時代である。
それが今はない、何か全体的に活力というものがないのだがスロー社会であり落ち着いた生活をよしとするようにもなる
高度成長時代の企業戦士とかなると獰猛な肉食系の人が活躍した。
今は草食系とかいわれるのもそのためである。老人になればどうしてもその土地に根ざした生き方になる。植物的に根を張る生活であり農業的なものになってゆく

自分でも若いときは世界へ羽ばたくというか拡大化してゆく旅である。新しいものを貪欲に吸収する、それで旅ばかりしていたとなる。
でも旅したことでも今度はその意味を深化させる、旅だけではなくこれまで経験したことをその意味を深化させるのが老人に向いているのである。
ただ新しいことはもう吸収できない、これまで吸収したもので花咲かすのである。

何か老人だと誰でもその人の経験した話が面白い、札幌から来た自転車旅行の67歳の人は冬山にも上り一緒に登った人が死んだというときそこに驚きがある。
そんな経験はなかなかできないからだ。山は自分も登ったが一番疲れるし危険でもある。自転車旅行では交通事故があっても遭難などはないのである。
何かそういう人の体験しない話を聞くのが面白いのである。
そうなると平々凡々の生活をしてきた人の話は面白くないとなるかもしれない、公務員とかはそうなるかもしれない、冒険がないからである。
一般の社会人でも企業でも冒険があると話も興味深いものになるかもしれない
漁師とか農民の話も実際は興味深い、それは自然と深く結びついたものだからである。
札幌で暮らしているとかなるとそれは大都会であり都会人だから興味ないともなる
本当の北海道人だったらやはり牛を飼っているとか農業をしている人とかになる。
他に漁師もいるからそういう仕事の人の話を興味深いものとなる

老人の価値を若い人は金だけだと思っている、金だけを求めているがその人の経験があり特別な経験をした人の話は面白いのである。
要するに老人は経験したことから芸術でも学問でも何でも創作しているのである。
若い人はそういう経験がないから書くものでも浅薄になる。
若い時は何か芸術でも深く見れない、鑑賞できない、思想でも哲学でも深く本でも読めないのである。理解できないのである。
老人になると理解力であれ鑑賞力であれ何かを深くみる創作するということに向いているのである。
創作する人にとっては芸術とかなると長生きした方がいいのである。
長生きすればするほどその芸術が深いものとなるからだ。
ただ人間の価値はいろいろであり芸術だけではない、何かしら老人でも価値をもとめればある。

しかしただ長生きしただけで人間の価値が生れるかとなるとそうはならないだろう。
人間は何かの価値に生きる、それがただ長生きだったら価値あるとははならないのであるこの人に何の価値があるのか?それはそれぞれに違っているからなかなかわかりにくい。
それはこの人は長く生きたから価値あるとも言えない、百歳生きた人が価値あるかどうかはわからない、みんなが果たして価値あるものになるかどうかわからない。
自分の母親は家族のなかでは価値があった、自分も支えられたから価値があったが家族外では価値があるものなのかどうかはわからなかった。
社会的に価値ある存在というときそれがどういうものなのか見極めるのはむずかしいとなる。
社会的にはこれだけ高齢者が多いというときただ社会にとって重荷であり迷惑であるということも高齢化社会では顕著になるからである。