2016年10月07日

南相馬市鹿島区寺内に見いだした共同墓地(仏方ーホトケッポ) (除染のために杉の木が切られて現れた)


南相馬市鹿島区寺内に見いだした共同墓地(仏方ーホトケッポ)


(除染のために杉の木が切られて現れた)

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仏方という字が残っている

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字が薄れてわかりにくくなっていた
仏と読み取れたから想像できた

市の博物館に行ったらここの場所を知っていた
ここは相当に広い森であり埋葬地だったのである
    

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男性の戒名の脇に二人の女性の名

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天保の墓が二つ
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ここのホトケッポは広い、森となっていた



近くにそ埋もれし墓や木の切られ今日見いだされて秋の日さしぬ

寺内に天保の墓二つ埋もれありしも今日見いだして秋の日暮れぬ

新しき家あまた建ちそのかたへ忘れられし碑や秋の日さしぬ

墓一つただ石くれや何語るここに埋もれる里の人かな

我が里に知られず埋もる墓なれや今日見いだして秋となれるも


南相馬市の鹿島区の寺内の杉の木が除染のために切られた、そこに文化財の案内が記してあった。ただその案内の板の字が薄れてわからなくなっていた。
でも仏方と読めてそこは江戸時代からの村の墓地だったのである。
ただ墓地の前は村ではホトケッポという場所に死体を葬っていたのである。
そこには墓はなかったのである。
天保と記した墓が二つあったからその頃から墓を建てた人がいた。それがそれなりに裕福な人である。僧侶かもしれない、不思議なのは信女と一つの墓に二つ記して真ん中に男性の戒名がある。
とすると一人の男性を囲んで二人の女性がいたことになる
これはどういう事情を語っているのだろうか?

何か自分の身の上とにているからこの墓が気にかかった。
自分も60まで二人の女性とともに家族として暮らしていたからである。
「信女」とあるの何かいいのである。戒名は今は必要ない、ただ信女とあるとき信頼できる女性でありその女性と一緒に墓に眠っているというのがいいのである。
今では夫婦で嫁いだ先の墓に一緒に入りたくないという嫁が三分の一くらいいるというのも驚きである。それほど姑嫁問題は深刻なのである。
江戸時代には家族墓はなかった、個人墓かか夫婦墓であり別姓の墓でもある
明治以降・・・家という一家の墓になった。
家族墓というのは明治からはじまったのであり新しい風習なのである。
江戸時代には墓はなかった、村の共同墓地である仏方(ほとけっぽ)に埋めたのである。
だからあそこには死体が埋まっているということを意識せねばならないのである。
ただ全くあそこは杉の林になっていて隠れたいたから気づかなかった。
まず外から見ても墓だったということはわからない、杉の林におおわれていたからである。

意外と人間は一番近くのことを知らないのでる、灯台下暮らしである
今日はその過去を発見したのである。
墓に興味あるのはそこに人間が本当に埋まっているということで単なる書類で過去を確認するのとは違っている、何かなおそこに生きた人がいるという感じになる
だから墓というのはいらないという人もあるが墓が残っていれば過去をそこからイメージするのでてある。
ほとんど人間は死んだらそれは不確かなものとなり本当に存在したのかどうかもわからなくなる、それは死ぬとすぐにそうなる人もいる、全く忘れられてしまうのである。
それは実は60くらいになるともう生きながら忘れられる人も多い
社会から引退して何か仕事もしていないとたちまち忘れられる、人間はともかく忘れられることが早いのである。
自分もまもなくそうなるということをイメージする

人間は何か語り伝えるということも三代目から四代目くらいになるとあやふやとなり伝えられない、特に現代は何かそうして親から子へ孫へと過去を伝えることは希薄になっている、それは大家族でもないし家族が分離しているして村だって昔の村とはあまりにも違う村でもいろんな人が混在しているし職業も違う、すると村といっても形だけなのである。祭りだってもう跡を継ぐ人がいないのである。
つまり村の伝承もなくなってしまっている、長老とかもいないだろう。
その土地土地に歴史があってもそれを語り伝える人がいなくなっているのである。

三里という新しい家々が建って街にもなったすぐ脇でありこれも対称的だった。
新しい街が生れそのかたわらに古い墓が発見される
これが世の中である。古いものもまた大事であり何かを語ってゆくのである
だから古いものも無下に捨てるというわけにもいかない、あそこも更地になるかもしれない、すると過去は完全に消えてしまうのである。
それにしてもあんなところに村の共同墓地があるとは思わなかった。
それは杉の林で隠されていたからわからなかったのである。


新地町仏方


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新地町に仏方(ほとけっほ)という地名があるけど
全国的にはないからこれは相馬地方独特のものだろう

2016年10月08日

墓がなくてもいいのか? 常に死者を意識しなければ死者は存在しなくなる


墓がなくてもいいのか?

常に死者を意識しなければ死者は存在しなくなる


墓がいらないとか最近言う人がいる、墓が維持できなくなっていることもある。墓を守る人もいなくなっていることもある
そもそも墓がなにかというと結構めんどうなものである。
それは死者と生者の問題であるからだ。人間はみんな死ぬ、つまりみんな誰でも死者になるのである。
だから死んだ後のことも人間は考える、死んだら別にどうなってもいいということもある人間なんか最後は灰となり煙となるたげだ、墓なんてもう子供も離れて田舎で維持することもできない、墓はいらない、一代かぎりで終わっていいということもある

墓の問題は墓があるべきとかなくてもいいとかいう前に死者をどう扱うかという問題なのである。死者は何なのだというときわからないのである。
自分の家族はみんな死んだ、60年も一緒にいたのに死んでいない、それもなんといっていいかわからない、最後は一緒にいたことさえ夢のようになってしまう。
それは60年も一緒にいてもそうである。

墓が生れたのは死者にとって必要であったからではない、別に死者は何かを生者に望むことができない、何もすることもできないからだ。
ただ生者が死者をどう扱うかが問題になっているのが墓の問題なのである。
墓とは死者を意識する場所なのである。それだけはまちがいない
実家の墓では25歳で肺病で死んだ人がいた、するとこの人はこんなに若くして死んで無念だったろうとかなる、それは戦死者にも言えるし他の人にそうして無念に死んだ人は無数にいる、墓はそういうふうに死者を意識する場所なのである。
自然葬になったらどこで死者を意識するのかとなる

別に墓というものにこだわらなくても死者を意識することが死者を忘れないことが生者に必要なのである。
だから今回仏方(ほとけっぽ)というのがすぐ近くにあった、そこは村の埋葬場であり村の人を葬った場所である。そこに墓はなかった。村の人を葬る場所としてあった。
それも一つの墓地でもあったのだ。墓を建てることは結構金のかかることだから墓は金のある地位のある侍とか僧侶とかしか作られていなかった。
ただ幕末になると天保辺りからか庶民も個人墓を作っているのである。
それだけの経済力がもつようになった人が出てきたからである。
村人はその仏方(ほとけっぽ)で死んだ人を供養していた。それは村が共同体として機能していたときである。
だから現在は個人墓はいらないとか共同墓地に樹木葬とかでそうなっているのも歴史がそこにもどっているともなる

つまり明治以降家族墓になったのだが家族が分離するとそれが維持できなくなりそうなった。墓とはともかく死者を意識する場所なのである。
もし墓がないとしたら死者はなかなか特別の人でないかぎり意識されない、結局忘れられることになる
ただ人間というのは死ぬにしても死ぬ場所を選ぶというか意識しないだろうか?
ここで死んでいきここで永眠したいなとか何か生きているときでも意識する
自分でもなんか都会など嫌だなとなる、例えは電車がひっきりなしに通っている所とか高層ビルの間とか下とか団地のような狭い空間に閉じ込められたような便利な最近の墓とかなんか嫌なのである。もちろん死んだらそんなことが関係ないとも言える

人間はやはり自然の中で美しい自然の中でつつまれて死にたいということがある
まだ長く住んでいて愛着ある場所に故郷に死にたいということもある
老人になるとそういう意識が強くなるのである、だから故郷に住めなくなった原発避難民で老人はそういう意識が強いのである。
都会では土地に愛着を持つとういことがないからそういうことがないのである。
そしてもう世代の継続が今は全般的にない、それも墓を維持できないものになった。
村という共同体も希薄化して継続がない時代である。
死者でももし仏方(ほとけっぽ)とかに葬られても村の共同体が継続されていたらそれも語り継がれて供養する人はいる、村は一家族と違って村全体が家族のようになるからである

我が里に知られず埋もる墓なれや今日見いだして秋の日さしぬ

我が里という感覚はまず都会にはない、里というとき村でもそれは自然の中に営まれた共同体である。死んでも里の人に見守られているというふうになると別に個々人の墓がなくてもいいわけである。
墓はだから共同体と継続性のある社会がないといらなくなる、第一維持もできなくなるからである。
生者が死者を意識することは死んでもその人がなお生者の中に生きつづけることでもあるからだ。
ただそのために寺に金を使い供養するのとはまた違う。月命日だなんだとか金取りになっているのも問題である。
死者を思うというときそれは心の問題なのである。

ともかく仏方とあってももし墓もないならなかなか死者がそこに葬られていることも意識しにくいのである。
墓があるとここに確かに人が死んで葬られているのかと意識するのである。
墓がないと死者を意識できない、すると死者と生者の結びつきも消えるのである。
死者は全く存在しなくなるということである。
明らかなことは墓がないとしてもいらないとして生者は死者を意識するものが必要だということである。墓の代わりになるものが何かとなるとそれは何なのか?
それが問われているともなる。

南相馬市鹿島区寺内に見いだした共同墓地(仏方ーホトケッポ)
タグ:墓の問題

2016年10月09日

秋から冬-墓の短歌(故郷と啄木の函館の墓)

秋から冬-墓の短歌(故郷と啄木の函館の墓)

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高平の五輪塔



ほとけっぽここに眠れる里の人月の繊くもいでて光りぬ

南北朝の謂れのありと五輪塔秋雨ぬれて北風の吹く

白波の寄せて寒しも啄木の墓ここにあり心さわぐも

そそりける立待岬の崖暗く啄木の墓冬にたずねぬ

放浪の啄木の墓函館に冬の海とぶ鴎にそあれ

函館に外人墓地や啄木の墓もたずねて冬の日暮れぬ



墓というときそこは死者を意識する場である、寺内のほとけっぽは杉の林に隠されてわからなかった。
そこは確かに埋葬場であり死者が埋まっていたのである。ただそれも時がたつとわからなくなる、そこに死者が埋まっているのもわからなくなる、一部は畑になっているからその下にも死者が埋まっているのかもしれない、何か不明の石くれの碑もあったからである。となると死者が埋まった土が畑になり野菜を育てているともなる
土の栄養にもなったのかともなる

現代では「里の人」という感覚が失われた。たいがい会社員であり会社の人になっている里の人というときその土地で暮らした人でありたいがい農業が中心になっていたろう。
だからこそその土地と一体となり里の人となっていたのである。
商業とか工業となるなとどうしても土に根ざすということにはならない、外部へと拡大してゆく、行商などで売りに歩くのもそうである。
現代は広域社会でありさらにグローバル化社会である。
この辺で震災や原発事故以後は外部の人であふれていた、日本全国からきているし今も来ている、そういう人は里の人ではないのである。たいがい会社に属しているから会社の人となってしまう。だから故郷と言っても今はその生活が広域的だからこだわらないという感覚になってしまう。

ただ今回発見したほとけっぽはそこに里の人が眠っている、埋まっているということを知って死者を意識したのである。それで月が細く光るというとき意識して光ったとかともなる
墓というときいろいろあるしそこからよみとれるものがある。高平の柳町の墓の五輪塔は南北朝に由来すると原町市の資料の本に出ていたから前に書いたけど再考が必要である。こういう本は資料でも基本的に知っていないとまずかった。
ここからいろいろわかることがあった。

墓で思い出すのは啄木の墓である。その場所が何か啄木にあっている、白波が寄せて立待岬へゆく所にある。
放浪の詩人となるが一家を引き連れて放浪するというのも普通はない、そうなると難民になる。啄木は一家を背負うことになり悲劇となったのである。
啄木は結構世俗とも交われる人だった、だから記者にもなった。
そのことが理解できない、啄木は自然に通じていたことが不思議なのである。
でも三文小説家のような所もあり小説も書いたのである。
いづれにしろ一五才くらいで自然に通じていたということが不思議なのである。
世俗に交わると自然というのは心に映えない、自然は清い心で接しないと写らないということがある。啄木は何かそうでもない、世間と交わり小説家にもなれるような人だったのである。天才となるとやはり普通の人は理解できないのである。

函館には何回も行ったから冬までも行った、なんか自分はただ三〇年間旅行していたのである。函館でも今でもなんかぶらぶら歩いている感じになるのだ。
青函連絡船の時代から行っていたのである。
今ふりかえると不思議に思う、要するにそれだけ暇だったということである。
今になると旅行することが億劫になる、なんか旅行には遊びのようでもそれなりのエネルギーが必要だった。
そのエネルギーは介護十年とかいろいろあってそこなわれた。
ともかく墓は死者を意識する場である。
啄木は函館で死にたかったというからあそこに墓がある。確かにあそこが何か啄木の一生にふさわしい場だったのである。

昨日は秋雨であり今日は一時北風が吹いた、何か今年は変則的て気候なのである。
タグ:啄木の墓

2016年10月10日

舛添、石原、トランプの失墜 (60以降は人生のツケがカルマを支払わされる)


舛添、石原、トランプの失墜

(60以降は人生のツケがカルマを支払わされる)

最近の一連の事件は何なのか?
舛添知事の失脚はあれだけ金にせこい,公金を使うということはそもそも金に困ってい
その理由が隠し子なのか、離婚した女性に金を払わねばならなかったことにあった。

舛添氏は現在の妻のほかに愛人が2名おり、愛人Aに1人の子供、愛人Bに2人の子供がいるというのだ。愛人がいること自体が物議をかもしそうだが、問題のメインはそこではなく「愛人に「妻とは離婚する」「もうほかの人と結婚しない」と言って騙して交際した」

結婚3回、離婚2回、子供2人に愛人の子3人、現在「隠し子、養育費裁判」係争中』
「週刊ポスト」2014年1月24日号

なぜあれほど金にこだわっていたのか?せこいといわれほどに公金を使っていたのか?
本当は知事の給料だけでも十分だし嫁の家が金持ちだとすると困らないはずである。
ただ離婚して養育費とか払うのでそれで金に追われていた。
これは借金している人でも同じである。
借金している人は金を返すことしか頭になくなりよからぬことでもすることになる
こういうことを知られていたのになぜ知事にしたのか?
この背景も謎である。なにか裏にいろいろあったのだろう。
こういうツケやカルマをもっている人は知事にふさわくなかった。それはみんなわかっていたのに知事に押されたのである。
その責任はそうして知事に押した自民党や公明党の責任もあった。
なぜなら今の舛添の嫁は創価の幹部だと噂されたからである。
何か裏にあり押されて知事にされたのである。反対する人もいたが押し切ったのである。つまりこういう過去ももつカルマをもつ人は知事になるべきではなかったし推薦するべきでもなかった。推薦した方にも責任があったともなる
なぜならそういう過去をみんな知っていたからである。

石原知事の場合はなぜあんなに横暴な人が12年間も知事でいられたのか?
ほとんど仕事はしていなかったとか今では言われる
ではなぜそういうことが許されていたのか?
東京銀行の失敗でもその額は何百億円でありその失敗の穴埋めのためになんらか豊洲のことでも不正があり金がゼネコンなどから回っていたという。
第一そのことでも責任が問われないということも不思議だとなる
石原知事をつけあがらせたのはマスコミである。
マスコミは石原を恐れていたというのもわからない、東電のような大きな会社でもないし宣伝費がとめられるでもないし何か組織があるわけでもないし権力のバックもない
石原軍団というのはあったがそれもそんなに権力をもっていたのかとなる
マスコミは舛添をもちあげていたし石原でもそうである。
マスコミにとってその人がどういう人か問わないというのは本当だろう
モラルでも問わない、何か大衆受けする派手な人が面白い人物がいいのである。
だから芸能人がその主役となるのである。
何か本当に真面目に追求している人間は必要ないのである。
そうなるとマスコミが持ち上げる人間は信用できないとなる。
マスコミ自体が今では信用できないものとなっている

次にトランプでも女性蔑視のことで録音されていてそれが暴かれて窮地にたたされた。
これも過去のことであるがツケが回ってきたとなる
トランプはもともといかかわしかったがなぜまた支持されたのかというのうも謎だった
女性蔑視になると女性票を失うから痛いのである。
舛添前知事も女性にだらしないということはわかっていた。
でもなぜ支持されたのかとなるというのは共通した面がある。大衆受けする派手な性格だということなど何か共通性がある。
人間は何か私的な面でも必ず公的なものに反映する
もし私的に女性にだらしないとか何かモラルに反する生活をしていればやはり公的でもそれが反映される、私的なものと公的なものは区別できない
私生活などどうでもいい、公務ができれば政治家はいいんだとはならない
現実に何らか私的なモラルに反することをしているから公的な面でもつまづき失墜しているからである。

これは政治家のことだが別にそうした人でなくても個々人でも60代になると必ずこれまでのツケが支払わされる、これはどんな人でもそうである。
第一何か罪がない人などいない、何らかの罪を犯している
だから推理小説では過去の罪が暴かれることがテーマになっているのだ。
人間が過去に犯した不品行は必ずツケとして罰が与えられる、そのまま隠匿されることがない、もしこの世で暴かれなくてもその罪は来世で暴かれるのである。
自分のこの十年間の介護や病気のことでもそうだった
いろいろツケがカルマを否応でも支払わされるのである。そのための苦しみだったのである。
それはいい面でも悪い面でも必ず人生のツケはカルマは支払わされる

若いときは奔放なエネルギーにまかせるがあとで後悔する、それがあとで苦しめられることも考慮しないのである。
つまりか若気の至りというけどそれは忘れられるものでもないのである。
必ずそのツケは60以降に回ってくる。
健康にしてもそうである。それまでの生活が影響して病気がでてくる。
ただ60以降はなんらかの病気になるがそれまでの生活が体にでてくるのである。
それは心にも関係してくる、心と体も一体というとき人間は日々の生活で作られるのであり生まれつき体力があったとしても不摂生な生活をすると早死にしたり病気になる
スポーツ選手が意外と早く死ぬのは不摂生のためである。

この三人に共通しているのはモラル的に問題があった。それはわかっていたことだが推薦された。そしてその私的生活が破綻の原因だったのである。
石原もスパルタ教育だなんだと言っても自分の子供には甘かった。
でも回りでマスコミでも何でも押していたのだからつけあがっていた。
批判する人がいてもそれは目立たなかったのである。それは原発でも同じである。
原発は危険だというとを本でだしてもほとんど注目されなかったのである。
だからどうしてある人物は大きくされ原発などでも反対意見は大きな声とならないしとりあげられなかったのである。
大きな声を形成させるのは何かとなる、それはマスコミとかその他いろいろな要素がありそうなる、舛添でも石原でも大きくされたのはマスコミの影響である。
大きな声になるのは大きな権力に操作されてそうなる、アメリカが最大の権力としたらアメリカの権力の操作で大きな声が形成される、それで原発も反対できないとなる
民主主義だといっても大きな声になるのは大きな権力に操作されるとしたらどうにもならない、そこに民主主義の限界がある

posted by 老鶯 at 13:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年10月11日

原発はなぜやめられないのか(2) (人も死なないし被害を訴えることができない)


原発はなぜやめられないのか(2)


(人も死なないし被害を訴えることができない)


津波の被害は目に見えて何も訴えることもなくて一目瞭然だった。だから同情されたしそれに文句を言う人はいなかった。
ところが原発事故の被害は確かに大きかったのだが津波のように2万人近く死んだわけでもない、原発の作業員が8人くらい死んだとしても一般の人は死んでいないのである。
関連死で老人が何百人と死んだということもあるがそれも目立ったものとして現れていない、つまり被害のインパクトがないのである。

ヒロシマ,ナガサキの原爆だったらこれも一目瞭然である、あまりにもひどすぎるとなり訴えることができる、戦後70年でもその被害を訴えることができる
でも今回の福島の原発事故の被害がなんだったかというと故郷に住めなくなったとかの被害でありそれも外部の人には補償金をたんまりもらったのだから他に移り住めばいいじゃないかと被害が言っても訴えないのである。
むしろ毎日ギャンブルで遊んでいい身分になったなと見られている、それは地元でも原発避難者をそう見ている、そして被害者でも補償金でもめて争っている

ではなぜこういうことが起きたのかというと被害がはっきり見えないし訴えないのであるもしバタバタと人が死んだとか甲状腺の子供が目に見えて増えたとか奇形が生れたとか何かはっきりと目に見えていれば訴える、原発はひどいなと見てもう原発などやめるべきだと国民でもなる。
そうならないのは被害があったとしてもそれが内部でも外部でも訴えるものになっていないからである。
ガンになると言っても遺伝子が損傷するというのも深刻だとしても今のところそんな被害がでてこない、10年後20年だになるともうそれが原発事故のためなのかもわからなくなるつまり被害が目に見えてはっきりしないことが原発事故なんかたいしたことないじゃないか、かえって補償金でうはうはなんだよな、それは事故前も事故後も原発はかえって住民にとっていいものだったんだよとか言われる
それは被害が目に見えて悲惨なものになっていないからである。

その被害が目に見えて現れないことが実は内部でもただ補償金で争うだけのものになっている、もし原発事故で人がバタバタ死んだりしたら内部で被害者同士が争うなどありえない、みんなこんなふうにしたのは誰なんだとか、みんな命懸けでも訴えて戦うということがあった。ナガサキ、ヒロシマではそういうふうに被害が甚大だから世界にも訴えることができた。今でもそうできているのである。
被害でも外部に対して訴えるインパクトがないから外部からもなんだ被害って何なんだ、被害者は遊んで暮らしているじゃないか、原発で補償金もらってうはうはだなとか言われるのである

俺も被害者になって補償金もらいたいな

こんなことを言うことなどありえないことである。誰も戦争の被害者になりたくない、シリアの避難民などになりたくない、それは目に見えて被害が悲惨だからである。

ただ腹ただしいのは

福島県産の食べないとか食べて応援などはやめろ

東電の社員に食べさせろというのは賛成である。確かに一部は福島県産を食べさせた。

お前らも原発に国策として賛成したのだから福島県産を食べろ
共同責任を果たせ

となる。原発は国民全部で決めたことなのである。そしたら福島県産を食べるなとか言えるのか?原発事故の責任は国民全部にある。
つまり福島県産を食べて共同責任を果たせ、それが原発を作った国民の責任なのである。
福島県産を食べてガンになるのは嫌だとか遺伝子が損傷して子孫に影響するとか言うけどそれは原発を作った国民の共同責任なのである。
福島県だけの責任ではないのである。
地元でも魚の骨にストロチウムがたまるとか言われると食べるのを躊躇する、その魚は結局率先して漁業している人が食べるべきである。なぜなら漁業者が一番事故前も事故後も補償金で補償されていた特権階級だったからである。
それが当然の責任だったとなる、他の人も地元でも外部のものでも食べるのが責任だとなる、福島県産は食べるな、売るなというのは何か勝手なのである。
つまり原発をもつということはそういうことなのである。
嫌だというなら原発をやめるべきなのである。

なぜ原発がやめられないのか?それはアメリカの圧力もあったとしても国民がそれだけの覚悟をもてないのである。
ナガサキやヒロシマのようになれば覚悟する、核兵器は絶対もつべきではない、世界で持つべきではないと訴えることができる
ところが原発はそういう世界でも国内でも訴えるインパクトが被害から見えないのである確かに故郷に住めなくなったということは実際は大きな被害でも外部から見ても内部でも原発避難者は補償金もらっていいとくらいしか見ないのである。
それで南部でも団結できなかったのである。
もうバタバタ人が死ぬ、甲状腺ガンの子供あふれて、何か症状が目に見えて現れ苦しんでいる姿を見れば原発はやめるべきだとなる、それが今回はないから訴えるものがなく内部でももめて外部からあいつらは補償金もらって得しただけなんだよとかしかならなかったのである。

人間が外から見て同情するとき何か目に見えないと同情しないのである。それでインド辺りでは子供の手足を切って乞食させるとかまで言われる、それだと目に見えでかわいそうだとなるから施しを受けやすくなるからである。
原発事故は何かそうして目に見えて被害が悲惨なものとならないから結局内部ですら団結もできなかったのである。
もし被害が目に見えてバタバタは死んだとかなったら補償金がどうだこうだとか言っていられない、みんな団結して戦っていたことはまちがいないのである。
それは国民全部に言える、なんだ原発事故はたいしたことないじゃないか、一人も死んでいない、何が被害なんだとか見えてしまうのである。
その被害を実感するのには

福島県産のものを食べろ

それが被害を国民が実感することだったのである。こんなもの放射能に汚染されたもを食べさせるのか?
そうは言ってもそれが国民の原発をもった共同責任なのである。それで原発の被害を実感することなのである。

posted by 老鶯 at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

田舎の秋の灯(詩一編)


田舎の秋の灯(詩一編)

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鶏頭の赤さを増して小菊咲く

故郷に三羽ほど舞ふ秋の蝶

ほとけっぽ闇につつまれ雲の間に月の隠れて光り消えにき



田舎の秋の灯

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秋の灯の離れてともる
家居淋しも
草むら深く月見草
我が触れもせじ
草むらに消えぬれ
雲間に月の光り隠れ
星はひそけく煌めきあいぬ
人の交わり熱き交わり
災いともなりて離反する
思いはあれど離れつつ
かそかに虫の鳴き
ひそかに煌めきあうこそよし
死者は静かに眠り騒がず
我が奥津城もそこにあれ
繊々し月は光りぬ

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急に寒くなった。この辺でも原町とか相馬市になると四万以上であり一万の町とはかなり違った雰囲気になる、
鹿島と小高は一万だからにていた。
一万となると街のすぐ外が田畑とか森とか野になるのである。
秋の灯がともっている、川べりの道には草が深く茂り月見草が隠れ咲いている

人間関係はむずかしい、何かしら必ずもめる、女性でもそうだし家族を見ても何か必ずどこの家でももめごとがある。田舎では人間が素朴だなとない、田舎では干渉されすぎるのである。ある人は一人暮らしで四六時中回りから監視されている
畑をしている女性は必ず誰が話しかけて時間をとられると言っていた。
一時間くらい嫁の愚痴を言うばあさんがいるからそうなる
自分は家族がいるとき田舎でも人ととかかわらなかったが介護や病気になってかかわらざるをえなくなったのである。
そのためにひどいめにあったことを書いてきた。

田舎は詩のように静かでいいのだけど人間は何であれ交わりとなると熱くなってもそこに問題が生まれてくる、男女でもうまくいかない、三分の一は離婚しているからである。
離婚していない人でも実際はうまくいってない人も多い
それだけ人間は互いに合わせることがむずかしいのである。男女の関係でもそうだとしたらみんなそうなる
自分の家も死ぬまで事情があってもめつづけていたのである。そして最後は悲劇で終わったのである。

なんか三羽ほど秋の蝶が舞っている、なんでもないんだが秋らしいとみる、三羽でも仲良く舞っているのが平和なのである。鶏頭でもそうだが花と花は何も争うことなく美しく映えているのである。調和しているのである。
ともかくやはり秋は秋らしいのがいい、何か天候が今年は変則的だったのである。
秋は芸術の秋である。頭も冴えてくる、それで詩もできたのである。







タグ:秋の灯

2016年10月12日

途中下車宗谷本線(詩)ー宗谷本線が消える?



途中下車宗谷本線(詩)ー宗谷本線が消える?

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宗谷本線
一つの駅
おりたちぬ
夏の日の思い出
数軒の家あり
立葵明るく咲き
一軒の家の庭
花々に囲まれぬ
かしこ我がしばし
一人遊びてあり
今にして遠い記憶
一つの駅またおりぬ
その辺り歩みて
牧舎に牛のいぬ
のっそりとして
そこは湿原や
菖蒲の咲きにき
一両の電車あわれ
夏の夕ぐれ
ただ遠き日の旅の思い出
その最果ての線路
一つの無人駅
おりたちて
いつ来るとてなし
電車を長々と待ちぬ
線路には恐ることなく
でんでん虫の一匹眠りぬ
その路線も消える時
まさにただ記憶とならむ



宗谷本線の存続がむずかしくなるらしい、稚内からは乗る人がまれである。ほとんど無人駅である。電車も一両だった。youtuneで延々と電車からの風景を写している
延々と森の中を走っている、家は本当に少ない、あんなに家がなかったのか?

人間は最後は記憶だけになる、記憶がそこにあったということを示すが例えそこにあっても記憶が消えたら存在しないと同じなのである。
ても旅でも今は騒がしいから忙しいから記憶に残らないのである。
すると旅したことにもならないしそこにあったということすらなかったともなるのである
自分は暇だったから一つの駅でおりてその辺をぶらぶらしていたのである。
電車は二時間くらい来なかったかもしれない、あの辺は無人駅が多い。
電車も一両だった。それだけ乗る人がいないというとき廃止になるのもやむをえないのかとなる、北海道の路線はすでに半分は消失した。これからも消失してゆく
ただ宗谷本線は違っていると思った、なぜなら急行が走っているし本州と最果ての地を結ぶ路線だと思っていたからだ。そういうことでなくなるとは思わなかった
ただ一両の電車がたまに走る路線だから日常的に地元の人が乗る人が本当に少なかったのである。

電車の旅はずいぶんした。北海道はずいぶんのった。でも電車の旅は意外と記憶に残らない、その車窓の風景でも早く過ぎて行くから記憶に残らない、ただ途中下車するとき何かそこが記憶に残っている、宗谷本線では途中下車して長い時間をいたから記憶に残っていたのである。
記憶は時間と関係しているのである。早く過ぎたりちょっと留まったりしただけでは記憶に残らない゛ともかくそこでは途中下車しても長い時間を過ごしていたのである。
それで記憶に残っていたのである。
現代の旅は何でも忙しくて早すぎて記憶に残らないのである。すると何か実際は時間の浪費しているのである。
効率的な時間で旅すること自体がかえって時間を浪費しているという逆説になる
なんか無駄な時間がかえって記憶に残りあとで宝となる

人間は老人になればわかる、体験したことが宝でありもう新しい体験ができないから体験した記憶が貴重なものとなる、人間の生きる時間は極めて限られたものなのである。
そこに人間の限界がある。老人になると新しいことを消化しにくくなる。
ただ今まで経験したことをふりかえりその意味を深化させるのに向いているのでてある。では旅した経験を書くというとき記憶に残っていなかったら書くこともできない
でも記憶に残ることはつくづく少ないと思う、とにかく人間ほど忘れやすいものはないのである。

自分の場合、介護だ自分の病気だ、津波だ、原発事故だとかあり十年がたちまち過ぎた、それで時間を消費してエネルギーも消耗した。旅する気力もなくなったともなる
そして新しいことを消化できないのである。
今まで経験したことを深化してゆくことしかない、だから老人は狭い範囲で生きてその場で意味を深めてゆくことに適している、新しい場で再出発することは向いていないのである。だから原発避難民でも老人は故郷に帰りたいとなるのである。
そこには生きた記憶の場所だからである。

タグ:宗谷本線

2016年10月13日

秋の短歌近辺十首 (避難区域の空家の不思議-家が人を待っている)


秋の短歌近辺十首


(避難区域の空家の不思議-家が人を待っている)


真野川の岸辺に男一人いて心にかかる秋なりしかな

同い年死ぬ人二人秋めぐり我が命も長からなくに

はや散りぬ木の葉にあれや仮設住む人も五年や死ぬ人もあれ

五年過ぎ仮設も淋し秋の灯のともるも少なし消えゆく灯かな

群馬より来り働くその人の一年過ぎむ秋となるかな

通りにそ味噌屋の明かり漏れにけり秋にしあれや仕事あれかし

古本を捨てむと思ふも捨てられじしばしまた読む秋なりしかな

我が家を一人守りて秋となる姉と母との我を見守る

人住まず五年をここに淋しかな秋となりしを家族を待ちぬ

小高駅おりてあわれや空家かな誰か住みなむ秋となるかな

新しき家々にともる秋の灯や落ち着く暮らしここにはじまる


秋だと感傷的になる、真野川の岸辺にはベンチがあり誰か座っている、それは地元の人ではないかもしれない,外部から来る人が以前としているからだ。
なんでもないことだが秋は感傷的になる。それで啄木調の短歌ができる
それもこれだけ年になってからである。
だから27歳くらいでこうした短歌を作ってたい啄木が不思議なのである。

二人同じ年の人が近くで死んだと、60代で死ぬ人は一割はいる、すると自分も死を意識する、だから家を整理している、なかなか整理できない、本が意外す捨てられない、本を捨てようとしてその本を惜しんで読んでいた。本は家が傾くほどあったから半分は捨てた、まだ捨てたいが捨てられない、ゴミ屋敷は異常としてもなかなか捨てられないのである。そこには単なるものではない思い出があるからなのだろう。

でも本はなんか買ったけど読んだのだけど読んでいなかった。
これも忘れているのが多いのである。それよりプログでも自分の書いたものも忘れている人間はとはもかく何でも忘れやすいのである。
だから何かとにかく書き記しておかないともう何も残らない、それほど忘れやすい
そしてついには認知症になるとあらゆるものを忘れる、子供の名すらも何かも忘れる、何かそれが極端だけど人間が最後がいかに忘れやすいからを象徴していたのである。

記憶にとどめきれないことは、何でも
この白い紙に書き記すがいい、そうすれば
君の頭が生んだ子供たちはここで養い育てられ
あげくは始めて我が心にあうような思いをしよう
「シェークスピアーソネット集)

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プログなどはこうして日々書いて記憶させておくのにいい、ええ、こんなことを書いていたのか思ったのかとか思い出すのである。それが自分の書いたもののようにすら思えないのである。だから自分の書いたものをまた継ぎ足して新たに書くこともできるのである。
なんか家を考えるとこの辺は奇妙である。小高の駅前でも空家が多い、するとつまり家が住む人を帰るのを待っているのである。家も人が住まないと淋しいからそうなる
家は明らかに人が住まないと死んでゆく、ただたまたま掃除しに来たりしていると荒れてはいない、でも人の住まない家は死んでいるのである。

すでに仮設も五年半過ぎたのである。原発事故などの関連死もあった。でもそれが被害として目立たないのである。原発事故の被害は何か目立たないから外部からたいしたことないじゃないかと見られるのである。一番の被害は故郷に住めなくなったことである。
それも外部から見るとたいしたことじゃないかとなる、別に補償金もらったのだから外に住めばいい、現実に家を建てて住んでいる人も多いからである。

ともかく自分の家でもそうだが家と人との関係というの何かこの辺では考えさせられた。新築の家もまだ建っている、そこに秋の灯がともると何か落ち着く、でも復興住宅もそれなりにできてきたからもうだいたい終わりになっているようだ。
家は今はみんな違った作りである。前は同じような家の作りだったが今はみんな違っている、だから毎日その新しい家々を見て歩いているのである。

鹿島でも通りで店を開いているのは数軒である。味噌屋の明かりがもれてそこは仕事している。
なんかそれだけでも通りがあって活きているという感じになる
でも味噌にしてもスーパーだと種類が多い、自分はダシつきの味噌を買っている、ともかく一人だと何でもめんどうだからそうなる
最近一回相馬市の市でリンゴを買ってもらったがそれがうまかったのでまた買ったら安いリンゴと同じだったのでがっかりした。
それが倍の値段だったのである。そこは地元の市である。そこに地元の産物を売っている
そこで地元の人の会話とか地元のことを知るにはいい、市にはひとのやりとりがある
でも今は全国が世界が競争相手だから農業も厳しいのである。
安いリンゴであり小粒でありなんで倍の値段で買わなきゃならないのかと買う方にしたらそうなる
でも地元産というとき大事にせねばならないということもあるが今はないのである。
そんなこと考える人もいないだろう。スーパーでみんな買っているからである。
昔だったら地元産が多かったのである。農産物はたいがいそうである。すると地元の結びつきがあったのである。
それは高い安いとかではない、地元でとれたものを食べていたから地元を思うとなるのである。

ともかく通りに店もないと通りも死んでいる、シャッター通りにどこでもなっている
なんかそれも地方の衰退である、そういえば秋市なんか昔はあった
そういう時代はやはり近辺の産物が主であり今とは相当に違ったものだったのである。


南相馬市原町区の道の駅で67歳の自転車旅行の人にあう (その人は猛者(もさ)であり冬山にも登っていた)


南相馬市原町区の道の駅で67歳の自転車旅行の人にあう


(その人は猛者(もさ)であり冬山にも登っていた)


この前の自転車旅行の人はバッグをつけていない、ホテルか旅館に泊まっていた。
50日間自転車旅行していてもテントとか荷物がないのだから楽である。
ただ50日間が長いなと思った。

今回の人は北海道の札幌から来た、苫小牧でフェリーで八戸まで来て原町の道の駅に来た何か自転車に詳しい、キャリアーをロードにとりつけるのになく注文して半年か一年かかかった、自分のもロードだがキャリアーつけられない、それから自分の自転車を見て
変速機も軽いものに交換できるという、そこまでできると思わなかった。

どこまでいくのかと聞いたら大洗まで行くという、そこからまたフェリーにのって苫小牧に行き札幌に帰る、苫小牧から北海道には良く行ったけど八戸とか大洗は利用していない仙台から苫小牧とか名古屋には行った
その人はかなりフェリーを利用していた。日本全国自転車でほとんど回っている
自分より相当に上手である。たいして体力あるようには見えない、顔も年とった顔なのである。やせてもいるからだ。でも筋肉はしまっているのだろう。

その人は相当なタフなスポーツマンのようだ。なぜなら冬山にも登って仲間も死んだというからだ、冬山を登る人は並の体力ではない、モサ(猛者)だったのだろう。
なぜならテントも積んでいて原町の道の駅にとまるというからだ。
67歳とかなるとあまりそういうことをする人はいないからだ。
ただ60以降の退職者が良く旅しているから出会う。
今回の人は自転車旅行でも相当に旅慣れている
あの年でテントだと疲れる、自転車旅行はホテルとかに泊まりにくい場合があるからテントを持つのが普通である。
でも年になれば別にホテルでも金あればとまっていい
あの人はテントで道の駅にとまるということはやはりそういう人はまれだろう。

ただ札幌から苫小牧、八戸から大洗となるとそれほどの距離ではないだろう。
ロードだと一日百キロは行くからである。
一週間くらいだとしたら日数的には楽である
でも人間は年取って体力には差があるなとつくづく思う
自分は40代とかでも一日休養をとってやっと行っているくらいだった。
その人は体力もあるがなにかいろいろ器用にこなせる
バスにも自転車用バッグで乗せるというからだ。
人があまり乗らないとできると言っていた。ただそれも交渉が必要でありそういうこともなかなかできる人とできない人がいる
あの人はそういうこともできる人である。

ともかく67歳でもそういう人はいる、退職した団塊の世代はまだ体力がある人がいるしそういう遊びに長けた人が多いのである。
スポーツやっていた人も多いのである。冬山は一番きついのだからやはり体力が違っている、だから自分とはずいぶん違うなと見た
でもその人も最後の旅になるとか言っていたからやはりそういう年になる
何をするにも最後だという感覚になるのである。
それが若い人とは違ったものとなる

ただ札幌に住んでいるということはそこは大都会だから別に北海道でも不便な所に住んでいるわけではない、要するに都会人なのである。
自分は一万の町に住んでいるとしたら田舎人である。だから北海道でも札幌に住んでいるのとそこか離れた辺鄙なところに住んでいる人では全く違った環境に住んでいることになる、この辺では仙台に住んでいるようなものである。
本当に北海道で生活しているとなると牛を飼ったり農業している人が本当に北海道で生活している北海道人となるかもしれない、札幌は都会人なのである。
自転車屋でも大きな自転車屋があるから自転車に詳しくなれるということもある

自分もまた北海道を自転車旅行してたいと思った。ただ何か筋肉痛になったり疲れる
気力も衰えたとかなる、でももう一度北海道走ってみたい、特にロードで平坦な道を走ったら気持ちいいだろとう思う
十年は介護や自分の病気で消耗して時間がまたたくまに過ぎてしまった。
これだけ遊んでも遊び足りない、時間は遊ぶだけでもすぐに尽きる
としたら勤めている人は遊ぶのはほんのわずかな時間しかなかったとなるのだ。
つまり人間の費やす時間はあまりにも限られたものだったのである。
60になって退職して自由になり旅しようとしてもできない場合がでてくる
病気になったり介護になったり何が起きるかわからないからだ。
そして人生の時間はたちまち尽きてしまうのである。

月光る自転車旅行67歳




タグ:自転車旅行

2016年10月14日

仮設住宅から復興住宅へ 鹿島区の復興住宅は浪江と飯館村の人しか入れない?


仮設住宅から復興住宅へ


鹿島区の復興住宅は浪江と飯館村の人しか入れない?


シシドスーハーの隣の復興住宅

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これは3ldk2所帯が入れる

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二階に二部屋ある 奥行きがある

屋根でつないだの工夫

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全部で二所帯入れる家が4列あり
10×2×4=80である。80所帯は多い、一つの街である


鹿島の復興住宅は50所帯くらい入るのか、一軒一軒買い上げの住宅である。
相馬市ではこれと同じようなのが土地付きで1300万円で売り出していた。
それなりの家であり奥ゆきがあるから三人くらい住むには十分だろう。
2LDKと3LDKのタイプの家である。

ここは飯館村と浪江町の人しか入れないという、小高の人は入れないという
それもなぜなのか?南相馬市が優先だと思うから小高の人が入れるのだと思っていた。
何か理由があるのだろう。

浪江の人は目につく、二万人がいて散らばったのだからやはり多いからそうなる
ただわからないのはここに住むというとことは帰らないのかとなる
浪江でも請戸は津波の被害のあった人たちは家がないのだから帰れないということがある飯館村は家があっても放射線線量が高いから帰らないと決めた人も多い
飯館村は草野中心にしてその周辺は人は住まなくなるのだろう。
佐須なども帰らない人が多く村が消滅するみたいだ
なにしろ老人が多いから小さい村はもう維持できない
このさい補償金をもらったから他に家を建てて住む人も多い

小高は別に原町が近くて生活しやすいがそれでも若い人は帰らないからほとんど老人しか帰らない、そういう街が成り立つのか疑問である。
小高の問題はかえってそうして近くに原町とか便利な所があったから別に小高にあえて不便な所に住まないという選択ができる、それでか帰らない人が増えた

原町のキクチスーパーの隣に復興団地ができた。その数は多い、そこも浪江の人が多いという。そこには大熊の人かも入るしすでに入居している。
小高の浦尻の人がいて入った、その人は2町5反の田をもっていた。
それで農機具が2000万もかかったという、何でもそれが津波で流されたとか原発の賠償の対象にならなかったとか文句言っていた。
津波の被害は東電では賠償しないのである。

「船主はずいぶん補償金もらったようだけど」
「ああ、浦尻にも船主が7軒くらいいたよ」
「浦尻にもいたの」
「塚原にもいたよ」
「塚原でも、あそこには港もないけど船主がいた」
「この団地には浪江の人が多いよ」

船主は港にだけいるわけではない、離れてもいたのである。鹿島だと右田は近いけど港はないけど船主がいたことはわかるが浦尻とか塚原にいたとは知らなかった。
船主は賠償金を事故前も事故後もかなりもちらっているから余裕である。
それで鹿島区にも船主は立派な家を建てている、磯部の人も建てたとか確かに・・・・丸とか書いた荷物を運んでいたからわかる

それにしても原町の復興住宅の数は多いのに驚く、それだけの人が入る、それは南相馬市の人だけではないのだ。だから数があれだけ増えたのである。浪江は二万人いたからその人たちも流入している、大熊の人もいるとか原町も人口が一時減ったとしても入る人も多いからどうなっているのか?小高の人が原町に移るのが一番多いことは確かである。

ともかく仮設の時代はまもなくこの辺では終わる、来年は仮設に住めなくなる、復興住宅に入る人が多くなる、新しい家を建てた人も多かったがみんなは建てられないから復興住宅に入る人がこれから多くなる、そこでは部落の人が集まるとういわけでもないだろう。浪江とか大熊とか小高とか入り交じることになる
そこで何か問題が起きてくる
仮設から復興住宅への変化が今年でも来年でも起きてくる

なぜ今になると船主であれ漁業権者が批判されるのか?
それはやはり原発事故の被害が広範囲だったからである。
農民でも被害者である。様々な人が広範囲に被害者だったのである。
でもその人たちは補償金もなにももらっていないのである。
だからなぜ特別補償金をもらい立派な家を建てているのかとなる。
自分たちでとった魚を食べることもできない、売ることもできない
そればせ罰だったのかともなる



タグ:復興住宅
posted by 老鶯 at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連