2016年09月28日

広域社会の暗部、貧困日本の家族離散生活 (青森から沖縄からトヨタで派遣労働ー原発は出稼ぎしないために誘致された))


広域社会の暗部、貧困日本の家族離散生活


(青森から沖縄からトヨタで派遣労働ー原発は出稼ぎしないために誘致された)


過酷な工場型派遣労働者の現実
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最近youtubuを見るようになった。NHKスペシャルなど過去に放送したものを見れるのがいい。これはNHKではない、名古屋のトヨタで働く派遣労働者である。
一人は青森県の子供三人ももつ42歳の人である。
バスの運転手していたが15万くらいしかもらえずにやめた。派遣労働者用の団地があり住まいは提供されている、でもわびしい一人暮らしであり栄養もあまりとれない、二五万くらいもらってほとんど仕送りしているという、四万くらいがそこでの生活費にあてている妻子がいるのだからそのために苦しいけど働いている
本当は青森で家の近くで働きたいというが職がないので派遣で働いている

もう一人は沖縄からきた青年である。この人は働き方が上司から認められて正社員になることをすすめられた。でもその青年は沖縄で恋人と居酒屋をすることが夢であり迷ったが決断して沖縄に帰ることにした、三〇万ももらっていたので豆腐を売っている父親に五万とか仕送りしている、その青年は父親が苦労して働いていることを知っているのでそうしている、何かうらやましくなった。今の時代そこまで子供がしてくれるというのはなくなっているからだ。貧乏な国では親に仕送りする、親のために働くというのは普通である。それはそうせざるを得ないからである。

日本でも戦前とかはみんなそうだった。子供は親のために働いたのである。
今は親は子供のために働かされているというのが現実である。
その差も大きいから親は子ども生むのを育てるのを嫌がるのである。
でも子は親の背を見てそだつというとき親が貧しくても懸命に働いていれば子はその親のことをわかっていて仕送りしてくれる、これが金持ちの家とかなるとかえって親が苦労して育てていないから親孝行はない、親は介護になったら高額な老人ホームに入れるだけである。親のために子も苦労しないとなる、だからつくづく人間は何がいいのかわからないのである。金持ちになることをみんな求めて必死に働いていてもそれがすべていいとは限らない。一方で貧困の厳しい現実もある。

この二つのyoutubeを見て思ったのは広域社会グローバル社会から生れた問題があった。
昔も出稼ぎ労働はあった。双葉とか大熊辺りでも出稼ぎ労働がありなんとか地元で働きたいということで実は原発が作られたのである。政治家が誘致して作られた。
あの辺には仕事がなかったのである。浜通りのチベットとか言われた。
原町市とか前の平市(今はいわき)からも離れていたからである。
ただ出稼ぎ労働があり高度成長時代であり農家でも金が入り子供を大学に入れることもできるようなっていたのである。
でも皮肉なのはこうして出稼ぎではなく地元で働きたいとして原発を誘致したがそれが裏目となり地元にも住めなくなり家族が離散したことである。

だからこういうことが起きるのは本来の人間の生活が破壊されているからではないか?
本来の生活とは家族がいてその土地に働く場所があって生活する
それができないということが家族離散の生活になり本来の生活が奪われているのである。ただ金を仕送りするために派遣で一時的に働くとかなる、働くことと生活が一体化しないのである。
それが沖縄と青森という両極端に離れた地域から来ているということも何か現代を象徴しているのである。
それは原発事故を起こした大熊とか双葉などの地域で思っていたことと同じだったのである。地元で家族と共に生活したい働く場所がないからできない、では地元で働く場所となった原発は事故を起こして地元に住むことすらできなくなったというのもまた現代を象徴している

戦前辺りまでだと農業が中心だからその土地で土着して生活する人が多かった。
でもそこに生活する人は限られていた、人数が限られていたのである。
土地も限られているから一つの村に生活できる人数は限られていた。
結局人口が増えたら村を出るということはあった。
自分の父親は葛尾村から酒屋に丁稚に出たのもそのためである。
そういうことは江戸時代からすでにあったのである。丁稚奉公は遠くから子供をあづかって働かせていたからである。
集団就職ともにている、それは農業中心だと養える人間が限られてくるからである。

ただ青森の派遣の人でも家族の元に帰り一緒に生活したいというのが切実なのである。
沖縄の青年も恋人のいる父親のいる沖縄で生活したいと決断した。
いくら沖縄では得られない金をもらってもやはり沖縄で住みたいとなった。
その気持ちはわかる。でもそれをこの辺の原発避難区域となった所と比べてみるとずいぶん違うなとも思う
かえって補償金をもらったからもう親のこともかえりみないで出て行きあとには老いた親だけが残される、ただ青森とか沖縄の派遣と違って家族で出てゆき他で仕事を得たとなると家族離散とも違うのである。親は離散しても若い夫婦は子供と暮らしているから離散しているとは違う。ただ親だけが残されたとなる

現代は広域化グローバル社会である。まず復興住宅のために日本全国から職人が会社の人が来ている。なぜこんなに全国から九州から北海道から来ているのか?
除染はわかるにしても住宅を建てるのにこんなに全国の人が来るのかとなる。
広域社会になると昔の経済生活の感覚とはあまりにも違うのである。
自給自足生活ともかけ離れている、結果的に広域的に人間も分散しやすいのである。
農家のように代々その土地に根付いて生活する感覚とは違うのである。
そういう生活は遊牧民的生活、根無し草的生活にもなる
そこに人間の深い意味ある生活は生れない、当然文化も生れない、cultuteはcultivate(耕す)でありその土地を耕すから生れた言葉だからである。
土地を耕すというときその土地から米の実りを得るということでもある
稲作は自然と融合した文化にもなっていたのである。
根無し草の遊牧民から文化は生れなかった。現代の生活も土地から遊離した生活になるから土着的なものは消失して文化が生れないのである。

文化的生活というとき何か電気製品とか車をもった便利な生活のことを言われてきたけど実際の文化とは家族とともその土地に根付き耕すことだったのである。
そこから文化は生れて来たのである。そこに生活の重みと意味があった
だから現代社会は文化破壊の生活でありなにかこの二つのドキュメントのように人間生活に潤いもいな意味も見いだせない、ただまさに一時的派遣でしかない、人間の労働の切り売りになっているのである。そういう労働が現代には多すぎるのである。
労働というとき全人間的なものとしてあるとき意味と価値がある。
労働するということworkであり自分の作品を仕上げてゆくことでもある。
単なる一時的なjobとか苦労を意味するlaborになっているのが多い
laboruには骨折る苦心する努力するとかありjobよりは労働として意味を探求している。 労働にはどうしても苦労とか努力なしでありえないからである。
ただ派遣労働はただ苦労ということだけが背負わされている、家族と離散して賃金を得るだけのものとなっている、そこに人間の本来の生活が奪われているのである。
広域社会でトヨタの車を作る部品としての労働となってしまっている
それも現代が生み出した非人間的な生活なのである。



posted by 老鶯 at 16:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題