2016年09月24日

高倉村の老夫婦から山村を考える (生業があってこそ田舎だったー限界集落のことなど)


高倉村の老夫婦から山村を考える


(生業があってこそ田舎だったー限界集落のことなど)


高倉村の老夫婦


国見山の麓高倉村押釜村
押釜村に紙漉き一六戸
個数数十軒相共に暮らしぬ
水清らかにその生業厳しも
高倉村社も古りぬ碑も古りぬ
草刈りする老人あり
今草茫々と草に埋もれぬ
ここに共に暮らす日の長しも
街より離れて遠く
秋の蝉鳴く声ひびきあわれも
この山里に長くも暮らし
やがてここに死すや
岩のごとくここにとどまれや
その裔も見守りてあれや
しかし悲しも里は荒れにけるかな
虫かすかに鳴きて老夫婦
ここにありしもあわれかな


大同元年(806年)4月20日に社殿を造営し、文安年間(1444年〜1449年)に藩主相馬氏から神田一環十八文の寄進を受けた。

福島県南相馬市原町区押釜前田

、伊弉冊尊、熊野高倉下命、武甕槌神を祀る

押釜村に高座(たかくら)神社があり高倉村はこの押釜村から分村したものなのか?
押釜村の方が古く一六軒も紙漉きしていた家があった。野馬追いにも14騎もでているが高倉村は4騎しかない、押釜村は相当に大きい村だった。
ただ地元に住んでも押釜村というのがなじみがない、地理的にどれくらいの広さなのかわかりにくい。ただ山際にあり水に恵まれていたし紙漉きの材料となる木もあったから盛んになった。石神村も新田川があり紙漉きしていたという家を知っている
江戸時代は結構紙漉きをしている家が多かった。相馬の山上にも紙漉き沢という地名が残っているし全国的に紙漉きは大きな産業になっていたのである。
ただ紙漉きの仕事は冬に冷たい水を利用するから相当に辛い仕事でありそれで醜い女性を養女にもらい仕事をさせたというのも今だと想像もできないことだった。
税を納めるとき米でたりない分は紙で納めてもいたのである。

押釜(おしかま)という地名も変わっている。

「カミ」「カメ」「カマ」「カモ」などの読みを持つ「上」「紙」「神」「亀」「釜」「鎌」「鴨」「加茂」などは古語の「噛む」「削れて土地がなくなる」の意味を持ち、浸食・崩壊地域、洪水や津波などの自然災害が起きた場所を示している場合があります

釜というと原釜とかあり海側のものかと思うがそうでもない、鎌田などはよくある地名である。カマは噛むからきていて噛まれたような場所、押すは押されだから何か山側の土砂崩れとか崩壊しやすい所から名付けられたのか?
押釜村の前田という所は村の中心地にあることが多い、大原村の前田もそうでありそこに住んでいる人を知っていた、そこも山側にあった
なぜ山側の方が村の中心地だったのか?何かそこにも理由がある。

自分が高倉村であった草刈りしていた老人は高倉でも奥でありおそらく明治以降開墾に入った武士の裔かもしれない、綿津見神社がありこれにも社名がないのも不思議である。
ただ屋根に妙見の星印があるからこれは八沢浦にも明治以降武士が土着して社を建てた
何しろ四〇〇人以上の武士が職を失い各地に農業するために土着した。
北海道にも移住したことは知られている

自分はこうして山の村であれ海の村であれそこに人間の生活の原点がありひかれる、
ただそこには代々暮らしが生業があった。もしその生業がなくなりただ会社が街にあり通うだけだとなると何か村として活きていなともみる
高倉村であった老人はあそこで長く暮らしていた人である。
でも明治以降移った人の裔かもしれない、かえって奥地は開墾に入った人が多いからだ。それより押釜村は古いのである。ただあの辺の地理が把握しにくいのである。
江戸時代は村が生活の単位でありその村の数も多いのである。
村というとき何か一軒一軒が存在感がある、それは大都会とは違う。
確かに貧しかったのだが何か村には人間としての暮らしの重みを感じるのである。
だから限界集落とか山村が消失してゆくことはそうした人間の原点の暮らしが消失してゆくことであり何か大きなものを失うことにもなる
もちろん自分もそういうところで暮らすのは厳しいしできない、ただ何がそういう村に愛着を外から見ても感じるのである。街と山の暮らしは違っているからである。
相馬藩では海と山の暮らしが江戸時代からあった。その前からもあった、それが多様性を作り出していたのである。

原発事故の酷いのはそうした飯館村を中心にして山側が被害をが大きかった。
原町区でも山側は大原村でも半分が避難区域になったからである。高倉村辺りも放射線量は高かったし国見山でも7マイクロも山ではあったから高かったのである。
ともかく原発事故前からこうした山村とか農村地域は農業は金にならないとか跡継ぎがいないとか老人だけがしているとか言われてきた。
それは時代でありどうにもなちらないことでも何か農村でも山村でもそこに他にない都会にないものがあり価値があるものがあった。
ただどうしても金の世界になると金にならないことは価値がないとされるのである。
そして現実は農業はもともと厳しいものだから跡を継がないというのもわかる
その時綿々とつづいた山村であれ農村の暮らしは失われるのである。

一方で農業に魅力を感じ山村に移り住む人もいる、紙漉きをしている人もいる。
それは何なのか?やはりそこに山村でも生業があり人間の暮らしの原点があり魅力を感じる、草むしりに魅力を感じている人がいたのも不思議である。
草むしりが癒しとなるとしてそれで草むしりをさせて金もらっているというから時代である。農業とか山村でもそこには都会にはない人間の生物の原点の暮らしがあったからそうなる。都会で暮らせば便利でも人間が自然の中の一生物であるという感覚すらなくなってくる。一種の機械の部品のようになってしまうからである。
つまり価値は必ずしも金だけでは計れない、でもその金の価値があまりにも大きくなったことで農村や山村は捨てられてゆく、農業は自然とかかわることでありそこから実感としての自然を知るのである。それは花鳥風月として自然に接するのとは違うのである。
ただ自分の場合は農業をしていないから本当の自然とコンタクトしていないのである。
それだけの体力もないとなる、農業でもそれだけするのにも相当な体力を消耗する
すると知的な方面には働く余裕がなくなのが現実なのである。
お前は外から農業を見ているからそんなことが言えるのだ、実際に草をむしり畑で田んぼで働いて見ろとなる。
それでもなんか農業は逆に金がないとやれないとまでなる、知っている人は農業していても種とか肥料代がないと援助したからである。
農機具を利用するとなるとさらに金がかかるのである。意外と金のかかる仕事なのであるだから農業で利益を出すということは相当な苦労なのである。
梨農家とかはこの辺で多いがそういうものは現金収入になるが他はかなりむずかしいのである。

いづれにしろ都会の人はインフラとか金がかかりすぎるから限界集落のような所はなくすべきだという。でも何か田舎に来てもそこに田舎を感じなくなるだろう
すると何か都会の人でも失ったもの感じるかもしれない、農業もない田舎が田んぼも畑もない田舎が田舎なのか?ただ別荘のようなものがあったら田舎ではないのである。
代々の暮らしがあり生業があったとき田舎なのである。
それが原発事故などで失われたことはやはり日本の損失なのである。
でももともと農業とかは常に金にならないから地元でもやりたくないとなっていた。
そこに原発事故が起きて一挙に若い人も山村から田舎から流出したのである。

posted by 老鶯 at 09:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)