マスメデアからインターネットの情報摂取の変化
(知らないことが致命的になる社会)
インターネットとかの情報環境で何が変わったのか?
テレビとか新聞とかのマスメデアは一方的なメデアである
一方的に情報を操作して大衆向きに放送する
放送する方では視聴率を最大の問題にしているからそのためのために放送する
最大公約数のような放送をする
最近テレビを見るなというときそれはテレビが一方的なメデアであり
知らずに洗脳される、自ら考えることをなくさせるからである。
それと違うのがインターネットのメデアである。
ここでは今度は絶えずマスメデアで流す情報を本当なのかという疑問をながかける
それが実際にやらせだったということがある、貧困問題でもそうである
実際は嘘だったということが暴かれた
第一その情報をどこまで真実なのかわからないということがある
一方的にそういう情報を流されても調べようもないからである。
テレビを見るなというとき知らずに根拠のない情報に洗脳されるからである
ああ、こんなに貧乏な人がいるんだな、かわいそうだなとかなる
それはあらゆる面でそうなのである。原発事故の避難者についても常にかわいそうだねとなることしか放送されない、だから実際は複雑であり地元でも補償金でもめているのは事実でありそこは隠蔽されている、マスコミでは原発避難者は常にかわいそうだとなっているからそういうことで批判するとなんだお前は冷たい奴だなと批判される
でもそういう事実があることも知らせるのが公平なのである
マスコミはどうしても一方的にな報道になりやすいのである
インターネットのメデアはこれもいろいろ問題がある、あまりにも情報が多すぎることなどその信憑性など実際はどう利用していいのかまだわからない面がある
インターネットは確かに様々な意見があり知識がある、でもそれの是非を自分で判断するとなるとこれもまた大変なことだとなる、一方的なマスコミの判断にゆだねるのが楽だとなる、第一みんながそんなに暇でもないしそんなに多すぎる情報から取捨選択する時間もないだろう。
インターネットの問題は過剰な情報の海にほうりこまれる、すると確かに出版社とかの人が言うようにインターネットには編集がないという、それは納得する
様々な情報があってもそれがばらばらになって何が嘘なのか本当なのかもわからなくなるそういうことを個人で判断するとなると考えるとなると普通はめんどうになるから
ただ専門家の言うことなどをそのまま鵜呑みにするようになる
専門的なことになると判断することが素人ではむずかしくなるからだ。
今話題になっている貧困問題でなぜそうなっているのか?
ある女性はセクハラなのパワハラなのかやめさはられた、会社ではそうした人が実は会社にとって有能な人なので会社にとって重要な人ではないその人はやめさせられた
それが会社社会の現実なのかということを知る
一方で今新たなリストラが行われている、会社の中核と思われていた中年世代が40代、50代がリストラされている、それは印刷会社の人であり電子化しているからその電子化に対応できないから中年世代がリストラされる
この二つの問題をリンクさせると編集すると会社は今やグローバル競争にさらされているから生き残るためには有能な人間を必要としているらそうでない人間はコストとなるから切り捨てる、それが会社として生き残るためだからそうなる
一方で最近人手不足が騒がれるがそれは誰にでもできる底辺の仕事が多いのかとかなる
有能な人も人手不足なのだがこの人手不足と底辺層の人手不足が違っている
有能な人の人手不足は別に常にあったし確保するのがむずかしい、底辺層の人手不足は誰にでもできるものでありだから外国人で補うともするのである。
これはyoutubeの二つの情報を編集したことになる
インターネットは膨大な情報がばらばらになってある、一つのキーワードから探して無数に情報が出てくる、まずキーワードで情報を探すなど今まではできなかった。
キーワードで探すということはその人の関心から探すのだから常にオンデマンドなのである。買い物すらキーワードで探し現実に買うオンデマンドになっている
だから個々人が求めるものに答えるのインターネットだとなる、そして個々人の求めるものが多様化しているからそれに答えるとなる
マスメデアは個々人の求めるものには答えない、一方的にマスメデアが選択しで与えるのである。何が重要か重要ではないかもマスメデアが決めるのである。
だから選択することも自ら考えることもできないようにしているのである。
インターネットの特徴は何か自分で情報を求めないとそれにあったものはでてこない
最近郷土史で「紙漉き」のことを関心をもって調べたらそれにマッチしたものが出てきて感心した、それは意外な紙漉きの事実があったかである。
江戸時代になるが紙漉きは冬の冷たい水を利用したり重労働であり過酷だったから醜い少女を養女にして奴隷のように働かせたというのである。こういう事実には驚いたのである紙漉きというと何か今になるとロマンチックにイメージしたりするが全く違っていた事実があった。
この知識はやはり自分が紙漉きについて調べて関心をもったから出てきた。
何か強い関心をもたないとインターネットではそれについての知識は得られないのであるそしてその事に関してもいろいろな人が語るから編集が必要になるのである。
するとプログでも読む方にしても関心がある人なら要約されているから自分で調べることもなく時間を節約やることができるのである。
インターネットは調べるのに手間であり時間がかかるからである。
マスメデアとインターネットでは極端に違ったメデアでありそこにも問題がある
その中間のようなメデアも必要となる、なぜならインターネットを一日見ているような暇人はまれである。何か要約したようなものが必要になる
マスメデアはそれをしていたがそれがマスメデアが一方的な洗脳メデアとなっていたのである。だから一方的にマスメデアで選ばれた人が発言する、その他の人は発言できない、そこでも偏りができる、編集するにしても公平にはならない、マスコミの意向によって編集するから偏るのである。
人間は知るということは大事である。知らないことが致命的になる。
モスバーガーが原町にあったのにいつも20年間あの辺に喫茶店がなかったので探していたのにあそこを知らなかったのが大損失だった。
それがなぜかと考えたら自分は車をもっていなかったから寄ることがなかった、車でのみ入れて販売される場所だと思っていたからである。
車をもっていない人は車について知らない、車を利用してできることを知らないということは相当な車社会ではハンディを負っているのである。
別に車がなくても生活はできるが車をもっていればそれだけ生活範囲が広がるのである。ただ車でばかり生活していると何か失うことも確かである。
車は風とか光とか蝉の声でも虫の声でも何か自然を感じない、だから俳句とか短歌を作るとなるとそういう生活は自然を遮断するから向いていないともなる
つまり歩くことと自転車の旅でも相当に違ってる、歩くことで感じることを経験しないと江戸時代などのことも俳句でも理解できないと思う、歩くことで感じることは今や新鮮なのである。
知らないことが致命的になるということはいくらでも起きている
この辺ではそのことを痛切に感じたろう。
津波のことでも原発事故でももともと知らないということが致命的になり命まで落とした知らないことは命にかかわっているのである。
原発事故でも地元の人が政府とか東電の言うがままであり安全神話を信じていて自分達では調べることもしなかった。
一方新潟県の巻町では学者を呼んで自分たちで調べて原発を作らせなかったのである。
だから放射能のことなど核のことなど知り得ようがないということでもなかった。
ただ自分たちで知ろうとしなかっただけだともなる
第一原発にしても吉田所長が復水器のことを知らなかったというのが意外だったのである所長が知らないかったらそもそも事故があったりしたら何もできないとなる
実際に何も指示もできないということがあった。
何であれ知らないことが致命的になるのである。
またいろいろなことを調べてもインターネットで調べても個々人で判断することもむずかしい、病気のことでも自分でもそうだったが知識の迷路に陥ってゆく、ある人は民間療法など
を信じてかえって病気を悪化させるなどいろいろ問題が起きる
つまり知ったとしてもそれを判断することがむずかしくなる
今の社会は複雑であり知るべきことが無数にあり対応できないのである。
自分が車にのらないからモスバーガーが喫茶店として利用できるのを見逃していた。
それも20年間もである、そういうことは例えばインターネットなどめんどうだから知らないでいいやともなるがそうなると自分のように車を持たないで知らないことで大損することにもなる、だから現代社会にすでに車を持たないと運転できないとかまたはインターネットを利用できないとなると適応できなくなり大損失になるしそれが命にもかかわることもある。
投資信託でもそれがなかなかわかりにくい、ましてや株のことなどもわかりにくいからだまされやすい、銀行の人が貯金しても利子がつかないからとすすめられるとどうしてものりやすい。でもそもそも投資信託の仕組みすらわからなかった。
外国の国債を買うと元本が保証されない、それも怖いことだと思ったし投資信託でもそうでありそういうなにか危険なことを知らない、それを知ろうとするとこれもめんどうになる、現代はともかくそうした情報社会でありそのために様々な問題が生れ混乱してくる
グローバル化してさらに情報社会になり事の真偽がさらにわかりにくくなる。
第一外国のことになると理解することがさらにむずかしくなるからである。
ただこうした情報社会では知らないとお前の自己責任だとされるのである。
だから知らなかったではすまされない時代になっているのである。