塩の道の旧家で飯館村の現状を聞く
塩の道の旅館だったという旧家
これだけ広い所に家が建つ
五人で所有しているという山、旧家の前のやまである。
夏から秋になる塩の道で九代つづく旧家の人がいたので話して飯館村がどうなっているのか聞いた。
「この家は古いんですか」
「九代目です」
「そんなに古いんですか、すごいですね」
「この前の土地は自分の土地です、今度ここに復興住宅が建つんですよ」
「こんなに広い土地に復興住宅が建つ、50件くらい建つのかな、鹿島区でも復興住宅が50軒くらい建った所がありますよ、ここもそのくらい広いみたいです」
そもそも飯館村については良くわからない、これだけの広い土地に人が住むとなるとそれはどういうことなのか?飯館村では千軒の家が取り壊されたとかテレビで写していた
途中で家が取り壊されて土台しかないところを見た
「家が壊されて何もないところ見たんですがもう帰ってこないでしょう」
「いや、あそこも新しい家が建ち帰るんですよ」
「ええ、帰ってくるんですか?」
「隣の家も直しているようですがここも帰るのかな」
「ここも帰りすますよ、アバートがあるけどまたアパートが建てている、あそこも自分の土地なんですよ、トラックや重機を置いてあるけどここも自分の土地だよ」
「ええ、そんなに土地がある」
「ここの前は田んぼで自分の土地だったんです」
「こんなに広い場所を整地した」
考えてみると飯館村はやはり若い人は帰らないし深刻だと思っていた。なにしろ小高などと比べると不便だからである。それが意外とそうでないみたいなのだ。家を壊したのは新しく建てるためだったのか?避難区域になったところでは楢葉の竜田駅前の家は壊していたが住むないと言っていた。新しく家を建てないのである。飯館では壊して新しい家を建てるのか?福島市に建てた人もいるが飯館村に古い家を壊して新しく建てるのか?その辺はもう一つのみこめなかった。
「自分の息子は保原にいますが帰ってきます」
「本当ですか」
「小高辺りでは帰らないみたいですけど・・・・」
「いいといなどは帰らないよ」
「あそこは離れているからか、でも結構家が多かったですが・・・」
「この草野には帰る人が多いよ」
「草野は幹線道路があることが強みなことはわかっていたが・・・」
「アグリのコーヒー軒パン屋も福島市に本店を建てて飯館に支店を開きますよ」
「ええ、そうですか、休む所がなくて困っていたんですが・・・」
「今でも結構帰って家に住んでいる人はいます」
これを聞いて意外だった、飯館村はみんな帰らないと思っていた。ここで生活するにも何をするのか菊地製作所はあったとしても農業がないとしたら何で生活するのだろう
だからここに復興住宅を広い土地に建てるということがわからない
おそらくここに集めた方が暮らしやすいためなのか
「まあん農業はやれないよ、牛をだめだよ、花栽培している家はある」
「花は放射能と関係ないですから、大内村辺りでも勧めているみたいです」
「ここは水がいいし涼しいからトルコキキョウなど有名だったんだよ、沖縄辺りまで出荷していたんだよ」
「それは聞いていましたが花栽培ならできる」
でも考えてみると花栽培だけで村の生活が成り立つというのも考えられなかった。
「道の駅があったけど売るものに困る、他から買って置くのもな」
「村でとれた特産品でも置かないと商売になられない」
「この前でソバ屋をやれと知っている人に言ったいるんだよ」
「この幹線道路には店があればそれなりに入る、ここに復興住宅が建てば食べる人もいる」
それにしてもこの広い土地の隣はソーラーバネルが並び回りは放射性物質に汚染されたフレコンバックと宿舎のプレハブである。一つあるコンビニには行列ができていた
除染関係の人でにぎわっている。
その家は塩の道にそってあった九代つづいた古い家なのである。
「ここが塩の道だったんだ」
「幹線道路は六号線のようにあとからできた」
「ここは旅館だったんです、塩の道の宿屋だったのか?」
「作見の井戸というのも有名ですからここが塩の道で古い道だった」
「この辺は古い家が多いよ、野馬追いに出る家も近くにいる、4騎くらい出ているよ」
「ええ、今も出ている、相馬藩として飯館村は江戸時代には出ていた」
「今でも出ていますよ」
「草野はやはり飯館村では古い所だから」
飯樋(いいとい)は離れているから帰らない、中心部から離れると不便になり帰らない、小高でも街内に復興住宅が建った、だから街内に集めると介護でもやりやすいし生活しやすい、あそこでも農業をすることはむずかしい。
飯館村はさらに農業することはむずかしい、放射能汚染が他より高いからである。
でもなんか飯館村の良さはまでいな生活として素朴な村という良さがあった。
ただ福島県でも最低の収入の村だったのである。
自分が飯館村で今度行って感じたのは栃窪村は実りがもどり古い碑でも何か全体が復興した感じになる、つまり田んぼがあり実りがあるときそれが一番復興したと感じる
それが飯館村には全くない、荒地であり農業も牛もいなくなったし菊地製作所があるだけでありこれが山の村なのかとなる
農業がない村が村なのかという疑問がある。そこに素朴なものはなくなる。
何か自然でも花でも樹でも飯館村は全体の雰囲気が来たとき違っていたのである。
ソバナの花が咲いていれば何かそういう自然の花が飯館村にはにあうし他では感じないものがここでは感じる、浜通りなどの市町村にはそういうことが感じない
飯館村には特別自然が純朴なものとして感じる不思議があった。
だから農業がなくなる飯館村はこれからどうなるのか、何か前の本来の飯館村が失われのではないかと思った。
第一その話を聞いた人は何か落胆したような感じではない、何かそんな雰囲気はない
子供も帰ってくるしあれだけの土地が売れたとすると補償金でも入ってきたしそれで前より金が入ってかえって余裕があるのかもしれない
もちろん福島市に家を建てた人もいるから相当な補償金が飯館村にも入ったのである。
「飯館村は合併しなくて良かった」
「南相馬市では合併して補償金でもめているからそういうことは言える」
飯館村は南相馬市として合併することも検討されていた。しかししなかったからこそ補償金でもめることはなかったのである。
要するに補償金の額が多いからそれで得している人も飯館村にも相当いるのかもしれないでもそれが現状を見るとき自分はこれが貧しくても素朴な飯館村なのか?
その良さが失われていないか?まずフレコンバックばかりの風景とかソーラーバネルでも景観を乱している、農業がないことがそうさせる
ソーラーパネル工場なのかともなる。そんな村で塩の道など偲べるかともなる
「飯館村は木材が昔から豊富だった、炭の材料として塩と交換した」
「あそこの山は五人で共有している山なんだ」
「あの山ですか」
「五人で共有しているから勝手にできない」
「昔から江戸時代から山は共有して勝手にできなかった」
「他にも山は個人ではもてない、みんな共有なんだよ」
「明治になって私有になった、それが山を破壊する原因にもなった」
「二枚橋の郵便局で大きな範囲で山をもっている」
「それは役所から払いさげられたもんかも、明治になってそういうことがあった」
山はもともと共有であり個人で勝手にできなかった、入会権があり山は共有であり個人では勝手にできないものだった。それが明治時代以降変わったのである。私有が認められるようなった、それで山が個人の所有として無数に分割されてしまったのである、
ただ五人の山だというときそれは明治以降に五人で山を分けた、隣の山も何人かで所有しているとかなると明治以降五人で分けて所有した。もともとは村全体のものだが三人であれ五人であれ分けてやがて個人所有になった。そして無数に個人所有に分割された。
木材をめぐって飯館村でも伊達藩とか争いがあった、木材は当時の燃料だから貴重だった
「この塩の道を通じて塩が運ばれ飯館から木材が運ばれた」
「この道を馬で運んだ、自分の家は旅館だった」
「そういえば他にも飯館には馬と人が泊まった家があった、ここもそうだったのかな」
「ここは旅館だったんだよ,そうかもしれないな」
「ここは塩の道なんだ、蔵を俺は直した、あの紋を見ろシダヤという屋号だった」
「立派な紋だ、太とあるからシダヤなのか」
「蔵も直さないとだめなんだよ」
ここの家はシダヤという旅館だった、屋号があり家紋があり9代つづく旧家である。
でも前の田んぼは売りそこに復興住宅が建つとここが新しい街のようになるだろう。
この変化も大きいし何か飯館村の素朴さが失われる、でも金は入ってくるから余裕であり得したと喜んでいるのかもしれない、何か暗い表情ではないのである。そこが意外だったのである。そして飯館村のまでいな生活とか独自のものが失われてゆく
そうなると飯館村の魅力を失われてゆくのかという疑問はもった。
つまり栃窪村のように田んぼに実りがもどったとき古い碑も生き村全体が復興したという感じをもったからである。
ここに復興住宅ができて街のようになってもどんな生活があるのか?
それも疑問である、何かその人たちが生活できるものがあるのかとなる、農業はないとしたら何で生活するのか?菊地製作所にしても人が減っているというからである。
なんかその人から聞いただけでは飯館村の現状はまだわかりにくかったのである。
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