2016年08月25日

水の驚異(wonder of water)-a poem


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水の驚異(wonder of water)-a poem


水はどこにでもある
水に特別注意しない
しかし水のすべてを知ることはできない
水は千変万化である
水は岩のように山のように
一定していない、変化の象徴
ある時は確かに水は鏡のように
流れもせずにとどまる
静穏にしてものの影を写す
でも水はとどまらない
常に流動的である
流れだして激しく岩を打ち轟く
滝ともなり落ち山々に轟きわたる
それは恐ろしいほどの力である
さらに恐ろしいのは海の水である
この果てしない海の水は
人間の表現の力を越えている
海の力は驚異である
津波の力にはただ畏怖するのみ
街をのみこむその凶暴さ
その力にはただ敬服するのみ
それは宇宙の知らざる力
海を表現しきることはできない
海は吠え猛り狂う
その恐ろしさに人はおびえるだけ
海こそ野生の最大の力である
水の恐ろしさは世を滅ぼすこともできること
ノアの洪水がそうであり津波もそれとにていた
人間の力はまだそれと比べると小さい
人間は平地を制服しても海は制服できない
海をコントロールはとてもできない
津波のように荒々しい力に打ち砕かれる
その深い海溝はまだ知られていない
海はまだ神秘に閉ざされている
太古のシーラカンスが生きていたように
水は決して留まらない
流動してやまず脈打っている
故に水をとらえることはできない
水を作り出したのは神である
水に神を見て山に神を見て地球に神を見る
創造主の恐るべき畏怖すべきものを見る
ただその力に敬服するのみてある



There is the water anywhere
I am not careful about water in particular
However, the water which cannot know all of water is ever-changing
The water is no motion like a rock like a mountain
Symbol of the change that does not maintain the same
The water is surely  like a mirror once
I make it calm and represent the shadow of the things
But the water does not remain
Always changeable
The water of this endless sea where it is water of the seas
that is more terrible where it which it is with the waterfall
which I begin to flow and hit the rock intensely,
and roars, and I roar, and lasts for the omission mountains is power as it is terrible
I surpass power of the human expression
The power of the sea is wonder
It is the brutality to merely fear it for the power of the tsunami, and to swallow a town
I merely admire the power
The power that the space does not know it
The sea which cannot finish expressing the sea barks and rages
The person is only frightened by the terror, and the sea is the wild biggest power
A flood of extinction  Noah is so in the life, and, as for the terror of the water,
the sea where the deep trench which is smashed by power violent at all
like the tsunami which it is not possible for as for the control in the uniform sea
which it is not possible for in the sea even if a uniform does level ground
as for the human being who is still smaller than it as for the human power
that was is not still known to for it as for the tsunami either does not still remain at all
in a mystery for the water as snowbound ancient coelacanth lived
I beat without  stopping
It is God to have created the water which cannot catch late  water
Watch the terrible thing which should fear of the Creator
who  watch God on the mountain, and watches God on the earth;
only for the power of admiring it is watch

水に興味をもったのは抽象画で流れの連作を作った時である。実際の水を見てもこんなふうには見ていなかった。抽象画を作ってみてこんなに流れの変化がありうることに驚いた実際の自らこんなにイメージできないが抽象画からかえってイメージしたというのも不思議である。

これがやはり芸術の効用である。芸術家が自然を表現するときみんな個性で違ったように表現する、自然の見方はパターン化しないし一様ではない、そこに芸術の意味がある。
こんなふうにも見えるんだと芸術家から教えられるのである。
最近は写真がそれを教えてくれる、今や写真なしで芸術家は語れないだろう。
自分は絵を全く描けないが抽象画で具象画にないものを表現した。
ただこれはどこまで芸術のオリジナルがあるかわからないが自分自身が不思議なの経験だったのである。

自分が水の恐ろしさを知ったのは津波である。これほど恐ろしいものはなかった。
それは水の恐ろしさだった、海の恐ろしさだった。
未だに海は神秘であり恐ろしい力を秘めている、この世界の驚異は宇宙であれ地球であれ巨大な計り知れないエネルギーを噴出させていることなのである。
それを人間が実感しえない、あまりにも巨大であり強烈であり深いから実感できない
特に海は本当に恐ろしいものだということを津波で知ったしこれまでもそうだった。

It is time when it made the repeated cultivation of the flow with an abstract picture that I was interested in water. I did not look to see real water in this way either. I cannot image oneself of a fact surprised at making an abstract picture, and the change of the flow being possible so much so much, but what I rather imaged from an abstract picture is mysterious.

After all this is an effect of the art; is art The viewpoint of nature to express when a person of art expresses nature as having been different with all personality does not patternize it, and is not same; there of the art have a meaning.
It is told that I see it in this way by an artist.
The artist may not talk without now and the photograph which a photograph can teach it recently.
Oneself could not draw a picture at all, but expressed the thing which a representational painting did not have in an abstract picture.
This did not know where was an original of the art to, but oneself was only mysterious experience.

It is a tsunami that oneself knew the terror of the water. There was not such the terrible thing.
It was terror of the seas which was terror of the water.
It is to let the immeasurable energy that the wonder of this world hiding the power that it is a mystery, and is terrible in is space, and the sea is still the earth, and is huge begin to blow.
I knew that it was really terrible by a tsunami, and the sea where the rest that a human being could not realize could not realize it because it was huge and was strong and was deep in particular was so until now.

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二十年以上知らずに利用しなっかた原町のモスバーガー (知らないことが致命的になり死にもつながるから怖いー原発事故もそうだった)


二十年以上知らずに利用しなっかた原町のモスバーガー


(知らないことが致命的になり死にもつながるから怖い

ー原発事故もそうだった)

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天井が高いのも気持ちがいい

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内部はこんな感じで喫茶店風でありくつろぎやすい

これは原町の内装とは違うがにている



原町の六号線沿いの店に行っていつも困っていたのが喫茶店がないことだった。
それは実はあったのだ。ドライブスルーのモスバガーだった
そこはいつも通っていたが車の人がドライブスルーで使うものだとばかり思っていた。
別に車でなくても中で食事できるようになっていて中は喫茶店だった。
バニラシェクが250円だから安く利用できる
ここをなぜ中で食事できて休めないと見ていたかという中が見えなかったからである。
ただちょっと注意していれば見えたのである。
そこは車しか通れないと思ってたのが大失敗だった
これは20年前からもそれ以上前からもあったのである。
設立開設は1989年6月だった、20年以上そこにあるのに利用しなかっのである。 
これが相馬市にあるならわかったかもしれない、マクドナルドはある。
そこは何か喫茶店風になっていない、ただハンバーガーを食べるだけなのである。

原町のモスバーガーは中が喫茶店風になっていてしゃれた空間となっている
その雰囲気が違っていたのである。家とか店は内装が意外と大事である。
その内装が雰囲気を作り出している。家は外見だけを見てもわからない、内部空間がどうなっているかは入ってみないとわからないし住んでみないとわからない。
だから古い家のことを紹介する番組があってもその空間がどういうものかわからないのである。内装によって雰囲気ががらりと変わる、気持ちまで変わる
だから店の客の入りまで左右するのが内装である。
店の内部がどういう空間なのか?ただ食事するだけの空間や作りや椅子の配置になっている所が多い、喫茶店風になると内装や空間や椅子やテーブルの配置が意外と大事である。ただ現代は喫茶店はめっきり減った。個人的に経営することもむずかしい。
チェーン店が主になった、ただマグドナルドでもチェーン店はただ食べるだけでくつろぐ空間になっていない、だからここは意外だった。ここを見逃していたことは大損だった
自分はハンパーグが嫌いであり海外旅行ではこればかり食べて嫌になった。
レストランが利用しにくいからである。だからマクドナルドにはほとんど入っていないからここにも入らなかったがここは喫茶店として利用できたのである。


地元に住んでいてもここがわからなかったのは致命的だった。
原町にはしょっちゅう行っているから余計に大失敗だった
人間が生活するにはまず本当は近くのことを十分に知らないとそのことでも致命的になる世界とか全国のニュースに注目しているがまず身近な所を知らないとそれが日々生活する所なので致命的になる
近くでも知らないことがどれほどあるのか歴史を研究してもすぐ近くの神社に天明の碑があったことも最近まで知らなかった。天明というと飢饉があったときだから何らかこの辺も影響を受けていた。
まず現代なら知っているが過去になると身近なところでも知らないことが多すぎるのである。百年住んでも知らないことが結構あるとなるのだ。

知らないということが致命的になるというときあらゆることがそうなのである。
買い物でも今は料理することは買い物をすることである。買ってほとんどまかなうからである。でもこの買い物もめんどうなのである。種類が多いからである。
だから家事をするとき料理することではない、何を買うかということが最初の大きな問題なのである。料理は簡単でいいが何を買うかの方が問題になっているのだ。
まず家事をするようになってからいろいろ知らないことがあり苦労した。
今でも苦労している。家事の範囲は広いのである。料理とかもあるが掃除もあり洗濯もあり整理整頓もあり家事に通じることが年期がいるのである。
だから老人が一人住んでゴミ屋敷になるのがわかる、家事の様々な負担でかたづけられくなってそうなってしまう。整理整頓することが相当頭も使うし簡単にできないのである。
何か買い物でも自転車でもそうである。種類が多いから何がいいのかわからないのである自転車は実際乗ってみないとわからないのである。それでロードを試しに乗ってみたいと8キロのを買ったがそれがタイヤでも細すぎて不安定で使いなかった。
段差などあったら危険で乗れなかったのである。これも実物を見ないことや自転車屋で説明してくれなかったからである。
一方原町の自転車屋は自分は実際に自転車に乗ってみていいものを勧めている、これは間違いなくいいか買いなさいといわれ買った、それは電動自転車だからロードとは違うから買いやすいとはなっていた。
ロードというものが自分にはわからなかったのである。自分は自転車に乗ってもロードがわからないということは致命的でもあった。自転車の醍醐味はロードにあったからである今は買い物が本当にむずかしいのである。


知らないというとき病気でもそうである。病気はめんどうである。まず素人判断するとなると危険である、自分はそれで死ぬところだった。なかなか介護とかで病院に行けずインターネットで調べていて安易に考えていた、でもぎりぎりになり医者に行ったときは即入院になった。そうしないと死ぬところだったのである。
だから病気は自分で判断するのは危険である。まず医者に行きそれから自分で調べるのが順序なのである。病院や医者も今はいろいろ批判されるからすべて頼っていいとはならないからである。でも自己判断するとまた危険なのである。
自分でインターネットとか調べて漢方薬とか民間治療で死に至ったひともいる、自分で調べていて迷路に陥っていたというのだ。そういうことが病気にはある。
病気は知らないとか判断を誤ると死ぬから怖いのである。

知らないというとき怖いのは津波でもそうだった。この辺では津波は来ないということが信念にまでなっていて逃げなかった。
でも八沢浦が海だった時、柚木(ゆぬき)にてんとう念仏という伝説が残っていた。
念仏を唱えて津波が引くのを祈ったところだという、その高台に逃げて助かったという伝説である。それは仙台平野で念仏橋とか念仏田とかありそれは津波と関係していた。
だからここでも念仏を津波のときに唱えたというのはつながりがある。
それは明らかに貞観津波ではなく慶長津波の時代の伝説である。
そうした歴史的なことも知らないとそれが命にかかわるということになった
何でも知らないことは命にかかわる,津波でこれだけの人間が死んだのは津波を知らないからだった。津波が来ないと老人は逃げないで死んだのである。

別にモスバーガーが喫茶店風になっていて知らないということでそれほど損失はない
でも自分にとってはかなりの損失だった。
人間は知らないことでそれが死につながっていることが多いのである。
知らないことでいろいろ苦しむことも多い
地元で暮らしていてもそうした歴史的なことでなくても知らないことがありそれで損したりまた困ることが多いのである。
自分の場合は車がないということでそうなった面がある。今は車を利用しないということは車社会の時、車について知らないことは困ることになる
身内が交通事故で死んだとき自賠責とか任意とか保険のことを知らないので苦労した。
車に乗らないから車のことを知らないですまされないのである。
でもこれはどうにもならなかった。一人だけ自動車のことを知っている人がいて聞いて知ったのである。

最近良く親が死んで葬式も出せずにほうっていたとかの事件が多い、それは50代でも親の葬式を出せないとそうなった、でもその子は無職だったりしていると実際は市町村に相談すれば処理してくれる、金も出してくれる、ただその交渉ができないのである。
最低辺で生きている人はまず市町村の役所に文句を言い、公務員を使っているのである。そしてなんとかして助けてくれと他人でもたのみこむのである。
それも執拗に頼むからついついその願いを聞いてしまう。
そのくらいの交渉力のねばりがあったら金がなくてもなんとかできるのである。
そしてそもそも葬式が出せないというとき死体でも処理できること知らないのである。
確かにめんどうではあるが葬儀会社に頼めば30万以下でみんなやってくれるのである。
自分は30万以下でしたしあと一人手伝ってもらったからその人にお礼した。
自分は一人だから本当に介護やら葬儀やら家事では苦労した。自分の病気のことでも苦労した。何か一人ではできないことが多い、だから日頃から親しい人がいて聞いたりまず知ることが大事なのである。
そういうふうに今は社会性が欠けた人が自分もそうだが増えてくる
芸術家なども浮世離れしているとひどいめにあうことは確かである。
それが60代以降とかなると自分もプログで書いてきたが悲惨な結果になる
社会常識として知らないことが致命的になるのである。

ただ人間はあらゆることはしりえない、ほんの一部しか社会でも自然でもしりえようがないのである。今は世界に起きていることを知れと言ってもこれも複雑であり理解することがむずかしい、それより身近なことを知らないことが致命的になるのである。
原発事故だって放射能だってそうである。そんなものわかりえよがないと言ってもそれが知らないことが致命的になった。これだけの大被害になったからである。
新潟の巻町では原発を建てさせなかった、それは放射能のことがわからないにしても学者呼んだりして町民が勉強して町民の合意で原発を建てさせなかったのである。
だから放射能がむずかしいからといって知らないですまされないことだった。
つまり知りえよがないとしても知らないと致命的になり死につながるから知らないですまされないのである。
戦争でもアメリカのことを知っている人は日本人ではまれだった、だから日本国を過大にして見ていたのである。それも敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。
敵を知らない限り戦いようがないのである。敵というときこの世には様々なものがある
ウィルスも病気の敵であり相手を敵を知らないからこそ戦いようがないのである。

ソクラテスが汝自身を知れとか人間は知っているようで知らないというときまさにそうである。別にむずかしいことでなくても知らないからこそ災いに巻き込まれ死ぬことにもなるから怖いのである。人間は無知が死につながっているから怖いのである。
知らないではすまされないから知ることに勤めなければならないとなる
知らないことが死に直結しているから怖いのである。
知るというとき体でも自分のことが知らない、この夏暑くて食欲がなく胃も悪くなったからたいしたものを食べていないからかなり体重が五、六キロ減ったと思ったら五、六キロ増えていたのである。これは体重を計らないのが失敗だった、何かただ感じで体重が減ったとしていた。でも実際に体重計で計ったら増えていた
だからなんとなくとか感じで判断するのも危険である。
体重を計ることは科学的に知ることでもあった。放射能でもやはり放射線量を計って判断している、だから数値に従うとういことは科学的なのである。
ただその数値が即影響しないから軽く見るとなる。体重の場合は具体性があるからこれ以上太ってはまずいという危機意識を自分はもったのである。
知らないからどうにもならないではなくやはり危機意識をもつことが人間は大事なのである。そうしないと即に死につながるから怖い、それが津波でも原発事故でも起きたし過去でも歴史的にもそうして知らないことで大被害になっているのである。
ここは原発から30キロ離れていて自分は原発に無関心だったのである。その無関心、知らないことが今回のような大事故になり大被害になった、津波でもそうだったのである。
つまり人間はしらないことから大事故や大惨事や災いにまきこまれるのである。









posted by 老鶯 at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連