2016年08月09日

暑さー鶏頭の花(詩)


暑さー鶏頭の花(詩)


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朝の蝉農家の人の朝仕事

土ならし土台を築く暑さかな

新築の家のあまたや夏の月

数十輪芙蓉になごみ合歓も咲く


今日も暑い、蒸し暑くはない、クーラーしていると横になるといつのまにか眠ってしまう何か暑いときクーラーの中は眠くなる、それでいろいすな夢を見る
津波の夢も見たし何かいつも旅行している夢を見る、要するにぐっすりと眠りが深くなっているのだ。暑すぎたり寒すぎると人間は眠くなるみたいだ。

土をブルドザーでならしまたは人の手でもしている、この辺では以前としてどこかで家を建てている、その人を見ていると暑いだろうなと思う
これは深く読めば土台を築くとは人生の土台を築くとも見れる
ただこうして家を土台から作るのを毎日見ていると家は土台を作るときから始まっているここは建て売りであり手きたものを買ったとき作る場面を見ていないとその家のありがたさを感じないのである。
考えてみると何か野菜でも何でもあらゆるものがあっても作る現場を見ているというものがほと:どない、ただ金を出せば物が買えるという消費社会は何か労働の尊さというか苦労が見えないのである。
そのことから物も大事にしないとかいろいろ問題が生れる
昔は物が作られる過程が見えた社会だったろう。
ものの価値は作られる過程を知るとわかるからである。

秋になるとお盆の頃、鶏頭だが今日買った、この鶏頭の赤さは不思議である。それは写真でも表現できない赤さである。すべて写真で表現できない
その独特の感じを表現できない、それは人間の心に通じているからである。
人間の心はすべて目に見えるものとして表現はできない
赤い花はいろいろあっても鶏頭の赤さは何か不思議である。


鶏頭

その赤さはなにぞ
内からにじみでる赤
人柄がにじみでるような赤
大地から湧く赤
誠実なる赤
死者となお交わり
そを仏前に添える

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死者は何も語らない、でも何もないものなのだろうか?
そうとも思えない、死者は何も語らなくてもこちらを生者を見ている
花を献げ供え物をして死者と交わる、今年は母の新盆なのである
なんか家族が二人死んで死者を思う、死んでからも死者を思う
そういうことが人間の繰り返しであった。生きていた人は死に死んだ人を想い
まだ自分も死んでゆくのが人間の生なのである。







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