月見草の原野と化した南相馬市の一部
雉子と烏
小屋があり畑があるが隠されている
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鬼百合や野原に雉子に烏かな
鬼百合や一代築く女かな
鬼百合や新しき家また建ちぬ
百輪のノウゼン散りてなお散りぬ
農家なれ敷地の広く芙蓉かな
ひまわりや原町広く回る道夕日の熱く照らしけるかな
黒揚羽舞い入る一羽狭き庭石ありひそか我がこもるかな
ラベンダー匂えるこの道今日もよる何かあれかし明日また来なむ
小屋一つ畑にありて月見草広がる野にうもれけるかな
この辺は原野と田畑がまじりあっている。田んぼが確かに増えたが畑はまだ増えない
そこが原野化している、今の季節だと月見草の原っぱになっている。
原野化すると月見草の原になる。
そして必ず雉子をみかける、原野化すると雉子など野生の生物は住みやすくなりふえる。津波から原発事故以後の風景は本当に変わり不思議だとなる
飯館村とか未だに避難区域になったところは野生生物の楽園になったというのもわかる
それはチェルノブエリと同じである。
自然がかえって生き生きとしておおってしまう、これほど月見草におおわれているのも不思議だとなる
さらに大正の末期に渡来したのは「コマツヨイグサ(小待宵草)」と「ヒルザキツキミソウ(昼咲き月見草)」だ。「昼」に「月見」とは変だが、月は昼間に出ることもあるから間違いではない。
江戸時代に園芸植物として入ったとありそんなに野原に増えないとあるが実際見ると空き地とかは月見草におおわれる。最初に入ったのがでが月見草だとするとき月にふさわしいとなる、普通は待宵草である。これでも宵となっているから夕方に咲く花だとなる
花というのはいろいろな場面でそれにふさわしいものがイメージできる。
原町は広い、家も多い、前は5万だったからそうなる、土地も広いのである。
ロードで裏の方を昨日は回った。そしたら家があり畑がある所に大きなひまわりが咲いていた。原町は広いから何かこの大きなひまわりがあっているのだ。
相馬市は城跡があり城下町であり中村神社に古い藤の木があり藤がにあっている。
鹿島となるとなんか月見草がにあっているかもしれない、なんか暑くて日差しが強いので遠くに行けなかった、ロードは倍速になるから走るのに気持ちがいいが買い物には向いていない。
小池の方に行ったらまた家が増えていた、一区画が街のようになっている。
そこは海老とか烏崎とか右田の人たちが建てた,敷地が広く家も大きいのである。
それで気になるのが家の値段である。土地でも百坪以上軽くあるからそれだけでもかなりになる、それにあれだけの大きい家となるとかなりの値段になる
最低でも5千万はするだろう。それでも建てられないだろう。
だから不思議なのはそんなにみんな金があったのかということである。
ただなんらかの補償金があり建てたということも考えられる、石巻辺りでも特別な保険金がおりて一億もらった人もいるというからだ。
一県に500万は援助されている。それでここと同じようにパチンコで遊んでいるというのも同じだった。
海老の人は借金して建てたというからみんながそんなに金あって建てたとも思えないのである。
自分の家は姉と母が建てた、姉は気丈夫な女性でまさに鬼百合だった。強い男でも話するとき怖がっていたのである。まずものおじしない、男も怖がるくらい迫力があったのである。だから認知症になったときこんなに強い人がこんなに弱くなるのかと今でも信じられないのである。だからこそ一代で家を建て材を築いたともなる、母もいたが母は補助であり裏方だった。
人間はなにか急速に栄えても見る影もなくある時急激に衰退する、それは一個人でもい一族郎党でもそうである。石原一族はあれだけ全盛だったがたちまち石原慎太郎もボケたなとかこきおろされる,あの人も迫力あり強い人だったが突然見る影もなく衰える
もう誰も耳を貸さないとまでなる、そのように人間が移り変わりが早いのである。
月見草におおわれたなかに一軒の小屋がある。畑があり野菜を作っている女性がいる。
農業は毎日草むしりである。これは最大の労働である。次から次とってもとっても草が生えてくるのだ。「夏草や兵ものどもが夢の跡ー芭蕉」日本はまさに雑草の国である。
草がとってもとっても生えてくるのだ。
農業は労働の割りに合わないというのはやってみればわかるとなる
農家の人さえ買った方がいいとなる、キュウリが十本で百円くらいだった。
実際このように大量に作らない限り商売にはならない。
あそこでは野菜でもネギ二三本しかもらっていない、一つくるのに十倍の金も労力もかかっている、ではなんのためにやっているのか?趣味であり農業が好きだからとなる
あの小屋の回りがぼうぼうの月見草の原野になって畑を放置したのももうそれだけの労力を費やすのをあきらめた人が多いためである。
金あれば買った方がいいとなってしまっているのである。
そして田舎では畑でもともかく回りがうるさいのである。何やかにや畑仕事しても干渉する、それは町からちょっと離れた所でも農家が多いと四六時中監視されているのである。これが田舎の嫌な点である。でも東京都議会が村社会のいじめをしていたというのも田舎よりひどいというからこれはどこでも日本なら同じなのだろう。
日本社会がいじめ社会なのは大人がそうであり社会自体は村八分とかありそれは狭い土地で細々と生きてきたからである。農業には商人のような豪快なものが生れないのである。
ともかく月見草の原に埋もれてそうした人間関係を忘れるのがいいともなる
月見草というのは他でも原っぱに広がり咲くの見た。一面に咲くということはある。
その月見草に埋もれて眠るとなれば気持ちいいとなる。
新しく小池に建った家の敷地は広いから前のように悠々としている。
田舎は特に農家はそうなっていてそこで何かしら仕事をしていたのである。
だからあのように広い敷地と家を建てた人はいいなと見ていた。
近くで復興団地に入った老人がいて嫌だというのがわかる
その差は大きい、窮屈になる、閉じ込められたような気分になるだろう。
家を建てられた人と建てない人の差は復興でも大きかったとなる
月見草
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