グローバル巨大化資本主義の限界
(次に来るものは小規模なもの地方文化の興隆)
●資本主義はリスクがあってもうける
資本主義というのは何なのか?いろいな解釈があっても資本というとき資本がものいうものだということがわかりやすい、資本がなければ何もできないのが資本主義だとなる。
元手がないと何もできない、何をするにも最初元手が資本が必要になるからである。
その資本を金を提供するのか銀行である。銀行が金で世界を支配しているというときまさに銀行が資本主義の要にあるからそういわれる
自分の家でも戦後まもなく駄菓子屋を始めたときその始める金がなかったのである。
たいした設備が必要でないにしろその当時5万くらい必要だった、今なら50万くらいなのか?ともかくその金、資本がないので始めるのに苦労した。
銀行ではその時貸さない、あの時代ならみんな何をやっても成功した時代だから貸せばいいのに貸さなかった。資本がないので何か事業でも始められない人が多いのである。
資本主義はもともと始まりにはいろいろな説があるが大航海時代から始まった。
船でアメリカやアジアに進出した、そこで貿易で莫大な富を得たのである。
植民地化して富をアジアであれアメリカであれ南米であれ収奪したのである。
イギリスも海賊が貿易をしてもうけたとかスペインは本当に強盗団であり南米をインカやマヤでも制服して富を得たのである。
ただそこには大きなリスクがあった、大きな賭け、ギャンブルであり船で航海するにしても沈没したりするからそこに資本を金を出してもゼロになる危険があった。
資本主義はは今でもリスクをとらないと大儲けはできない、株でももうけるのはもリスクがある。事業するのにも20人一人しか成功していない、失敗したらどうなるのか?
借金で首が回らなくなったりどん底に陥ってしまう。
成功すれば破格の待遇がある、社長は月給高すぎるというときリスクをとっているからである
そういう人を親戚で三人も知っているから一家離散とか悲惨なの結果になっている
社会主義だと国営になるから国でリスクをとるとなる、でも中国の国営企業が損をしていてもつぶせないとか効率的ではないのである。
人間はリスクがつきものなのである。どんな人生だってリスクを経験している
自分のような平凡な人間でもたいしたことがない人生にしてもリスクがあった。
何回か死に目にあっている、何もしなくても人間は交通事故であれ津波とかの自然災害で死ぬとかリスクをかかえている、つまりリスクのない人生はないのである。
そしてそこには何らかの運が作用している、とてもその人にいくら力量があっても運がないとどうにもならないことがある。
だから大きなことには神すら関与していて成るとも思えるのである。
fortuneとは運であり財産なのである。
●資本主義はイノベーションがないと衰退する
資本主義がリスクをとることで発展するように、イノベーションがないと発展できない、消費が増えないというとき少子高齢化問題もあるが、イノベーションも関係している
イノベーションが起きると消費が喚起されて増える、電動自転車を三台も買っているのはそれだけ今までにない自転車だからである。
車でも自動運転ができるなら高くても買って乗ってみたいとなる
老人でもそういうものは買う、自動運転なら別に老人だから危ないということがないからである。
イノベーションはパソコンがそうだった、バソコンが社会をいかに変えたかこれからも変えるかは目に見えてわかる。
自分が経験したのは抽象画の分野である。ずいぶん多量の抽象画を出したがインターネット上に原画ありしやすいからである。そして変化というのは無限になる、いくらでも作れるということである。
まさにartは技術だというとき絵画の分野では技術が相当に影響している
レオナルドダビンチの遠近法とかで大きな改革があり印象派で改革がありと絵画もイノベーションがあり新しい芸術が開かれてきた。
ピカソになると抽象画になるが現代は抽象画の時代である。抽象画は具象画のように実際に目に見えるものにとらわれず自在にソフトで変化させるから自由度が高いから大量に生産できる。それは別に絵の才能がなくてもできる、自分は具象画だったら何も描けないけど抽象画ならパソコンのソフトで自在に変化して自分が作ったような気分になるのであるこれもイノベーションの結果であり新しい芸術の分野を開いたのである。
日本の問題はイノベーション力が世界的に劣っていることである。今までは故障しないとかテレビでも何でも高品質の製品を作って世界に売れていたがイノベーションは日本から起こるのが少ない、それで経済的にも世界から遅れをとって衰退してきている
発明とか発見はどうしても欧米が勝っているのである。
●グローバル資本主義も限界
大航海時代から産業革命からグローバル化は世界をおおった。しかしそれも限界に達してきている、株価の低迷は世界的である。まず大航海時代とか産業革命のような大規模な革命は起きない、これからは大きな変化は起きてこない、中国でもすでに発展するエネルギーは限界になっている。
そして資本主義は冒険とか植民地とかで富を収奪したがそれもできない、今は金融資本主義であれ株価は操作されてただマネーゲームでもうける人は莫大な富を得ている。
それは本来の資本主義、市場の原理が働かなくなっている
ただ金が株が世界のわずかの人によって操作され金が流れている
そして格差がどこでも拡大して不満が大きくなっている、それで社会がどこでも不安定になっているのだ。
金融資本主義とかの問題は規模が大きすぎてどう操作されているのかとても普通の人にはわかりにくいのである。株でもうけるのは一般人はできない、巨額なマネー操作するものだけに世界の数パーセントの人に金が流れてゆく仕組みが問題になる
そういうシステムはいづれは破綻してゆく、暴動すら起きてくるだろう。
世界的にナショナリズムが勃興するのもそういう時代の流れである、人、物が自由に行き来する時代はヨーロッパのテロなどで行き詰まっている
イギリスのEU離脱でもそうである。もはやイスラム教の人がロンドンの市長になるようにどこの国なのかわからなくなっているからこそ離脱問題が起きた
移民の受け入れを拒否するようになっているのだ。
現代の問題はグローバル化して企業でも世界的になり巨大なるが故に世界が支配される
そこに大きな闇が生れる、巨大な利益を得る、権力をもちすぎるがゆえにそこに闇が生れる、カルト宗教団体でも創価であれ他の団体でも巨大なるがゆえに闇も大きいのである。それが小さなサークルだったら闇にはならない、闇があったとしても見える規模だからその闇を指摘できて払うこともできる、もう巨大化したものは闇も見えないし払うこともできないのである。原発事故でも安全神話は作られたように規模が大きいから権力が巨大だからできたのである。規模が大きいこと自体が問題なのである。
これまでは同じ規格の大量生産で物を供給していれば良かった、これも巨大化した企業にとっては好都合だった。
でも3Dプリンターとかで個々にも対応する物を提供する時代になるとか巨大化がかえって小回りがきかないものとっなって滅びてゆくともなる、恐竜のようになる。
小規模でも物作りできる、そこにはアイディア勝負となるのであり同じ規格の大量生産の時代は終わる。
●江戸時代や中世への回帰へ
ルネサンスが起きたのは小規模な都市国家である。フィレンツとかも小さいのである。
それでもあれだけの芸術文化が華開いたのか?
文化が華開いたの小さな地方都市である。そういう小さい規模の地方都市が文化が耕すには向いていたのである。
相互の連関性とかそこに一つの世界観を作り安かったとなる
自分も相馬藩内でそういう一つの世界観を構築する作業を詩などからしてきたのである。規模が大きくなると東京のようになったらとてももう巨大なるがゆえに非人間的になり
像からイメージするもなにもない、人間は自然の中で像を形成するようにそれができない高層ビルを毎日見ていて像が形成できるか?人間は自然からその像が形成されるのである自然の陰影が人間の心に反映してその像が形成される
山があり森があり大地があり川があり海がありその像に顔に影響しているのである。
人間は家族関係でも昔の大家族にもどればいいというができない、人間は昔にはもどれないというのは本当である。
大家族はその時代的要請でありえた、自給自足の江戸時代の暮らしにももどれない、蝋燭で暮らそうとしてもできない、つまり何でも昔にはもどれない
形を変えて復古というのも起きてくる、小規模なものにもどるというとき江戸時代の地域地域で独自に暮らしていた時代への回帰でも同じとはならないのである。
いづれにしろグローバル化や大規模化の社会は合わなくなる、マスコミでもマスコミニーケーションでありマスを大勢を対象としたメデアである。
それがインターネットになり個々に対応したメデアとなりその過渡期にある。
マスメデアは巨大であり大衆を操作するためにあった。巨大カルト宗教教団でもそうである。マスメデアとか巨大なるものと一体となりさらに巨大化して闇をもつ、その巨大化したもの自体非人間的なものなのである。それは現代社会の危険な牽引力となる。
ナチスとかのファシズムにもなり再び混乱に陥れる
そうした巨大カルト宗教団体は創価でも他でも一つの世界観をもち得ないのである。
ただ人を増やして巨大化して大衆を操作して権力をもち支配することのみを目指しているからである。
不思議なのは国家国家と国家至上主義になっているのも疑問である。そもそも国家というのは日本だったら明治に生れたものでありその概念は新しいのである。
国民というのも江戸時代には存在していない、天皇も国民というものをどう扱っていいかわからないというとき靖国神社は庶民まで祭っているからである。
国家とか国民の前に江戸時代なら一つの地域的世界観の中に生きていた。
葉山信仰などがそうである。それは稲作と深く結びついた世界観である。死生観でもあり死んだら死者は山に眠り春になると山を神が下りてくるという信仰になった。
国家の前に一つの共同の世界観があり共同体があった。
それは中世ならキリスト教世界観でありエジプトも一つの文明の世界観に生きていたのである。イスラムでもそうである。国家というのは新しい概念なのである。
だから国家主義になることは実は歴史的に由来するものがないからそれが何なのか規定することがむずかしい、それで靖国問題がどう対処していいかわからないのである。
国家のために死んだ国家が祭らねばならないとしてその国家が天皇の国家なのかとなるとそれも否定されるとわからないという、国家には何か世界観とは関係ない、何か古いように見えて新しいから対処できないとなっている。
ともかくすでに巨大なものは悪でありスモールイズビュアティとなる。グローバル資本主義ももう誰もそれがどう動いているのか知るものなどいないのである。
だから株価暴落とかなんかの調子で極端な方向に向かい崩壊してゆくのが恐怖なのであるそれはあまりにも巨大なるがゆえにそうした恐怖を常に感じるのである。
例えば高層ビルをいつも見ていたら3・11のアメリカのビル崩壊のような不安を感じないだろうか?何か一挙に崩れてゆく不安が地震でもあるし不安定なのが現代社会なのであるそれは規模が何でも大きすぎるからである。誰もその全容など知るものはいないのである
原発でも小さければ不安を感じない、巨大なるがゆえに常に不安がつきまとっているのである。
原発などでもその内部を知るものは吉田所長すら肝心なことを知らなかったのである。
そういうふうに東電の所長すら原発のことなど全部しりえようがないんのである。
そのことから何が起きてくるか、事故が起きたらもう制御できない。その巨大な複雑なるがゆえに一挙に事故になり成す術もなくなっていたのである。
現代社会には文明にはそうしたある時制御できなくなり崩壊してゆく恐怖がつきまとっているのである。株価暴落でもそうである。巨大なるゆえにその崩壊もカタストロイフィになる。つまりバベルの塔のように崩壊する恐怖がつきまとっているのである。
カタストロフィ
かたすとろふぃ
catastrophe
「倒す」を意味するギリシア語のkatastrophに由来し、普通「悲劇的結末」とか「破局」と訳される。演劇用語としては、劇構成上の最終部分を示し、クライマックスで最高潮に達した主人公の運命がやがて逆転、下降線をたどり、残っていた運命挽回(ばんかい)の可能性も消えて破滅が決定的になることをいう。しかし、なにも悲劇にだけ適用されるものではなく、単に劇を結末づける部分をさすとも考えられ、「大団円」「大詰」と訳されることもある。[高師昭南]
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