2016年08月10日

抽象画(川ーriver)


抽象画(川ーriver)


streamsssss11.jpg


syreammmmm2389999000.jpg

syreammmmmms222222.jpg

syreammmmmms222222333.jpg

この抽象画は幾何学的配置からソフトの流れで一連のものができた
その元はただ偶然の結果である。
要するにこれは創作というよりはそうしたソフトの作業の結果生れているのである。
なぜなら何から変化して生れるのか、それが全くわからない、予想もつかないのである。ただ一つの抽象画のバターンがわかるとこうすればまた違ったものができるというコツを会得する、そこからまた量産できるのである。

This abstract picture is the result only accidental formerly that a series of things had by a flow of the software from geometric placement.
In brief, this is born as a result of work of such a software rather than creation.
The expectation not to know it at all I change, and why comes out of what is not available either. I can only mass-produce things different again again from there understanding the art that it is possible for if I do it this way when I know Bataan of one abstract picture.

タグ:川-river

5000キロ自転車で走ってきた老人 (元気な老人に元気ない若者?)


5000キロ自転車で走ってきた老人


(元気な老人に元気ない若者?)

summaercircleee111.jpg


5000キロ駆けぬけて来ぬ夏の暮

5000キロ駆けて我が町夏燕

街道や木槿の咲きて夕暮れぬ

街道の道の細しや木槿かな

六万石城跡あわれ木槿かな

六号線鳴きあう蝉のひびくかな

ミンミンの高くひびきて六号線

五本松夕蝉鳴いて帰るかな



今日六号線であった人には驚いた。自転車で5000キロ走ったという、日数は50日間であり一日百キロ走っているという、普通のマウテンバイクでありテントなどは積んでいない
京都から走ってきた、イワキの方に行けるかと聞いてきた。
今日は原町に泊まる、年は60代だろう、退職した人だろう。
そんなに休みはとれないからだ。前も鹿児島から歩いて青森までゆく人にも驚いた。
その人も退職した人だった、何か退職するとこうして今までできないこに挑戦する人がいる、60代でも元気な人は元気である。そういう人が結構多いのである。
自転車、バイク、車の旅があるが自転車は一番きつい。
バイクなどは若者に多いけど楽だなと自分も自転車旅行したとき見ていた。
若者だったらもっときつい旅したらいいのにと思う


今の世の中高齢化社会というけど元気な老人も多い、特に60代には多い、団塊の世代が入っている、60代は相当にアクティブである。スポーツが好きである。
でもこのレベルになると自分も経験しているからすごいと思う
何か一カ月走ってくらくらしてやめた。この人はホテルに泊まるだけでも相当な日数であり金もかかる。老人は金がかかるというよりもう体力があることの方が大事になる。
自分も百万かかってももう一度ヒマラヤに上りたいとなる
なぜならそれが最後だともなるからしたいことをして死にたいとなるからだ。
この気持ちが若い人にはわからないのである。したいことをしないで死ぬことは最悪である。だからこそ退職してから自由になりこういうことに体力がある人は挑戦する

なんか今はこういう老人を見ると若者より老人が元気だなとつくづく思う。
全国で旅行しているのは退職した老人が多いのである。
そして若者と比べるとこうして自由に旅している老人などが最後に人生を謳歌していて
若者はただ働かせられているだけだとか老人のために税金をとられているだけだとか嘆くこういう老人を見てうらやましく思っているのである。
老人は若者であり若者は年寄りだということさえ見受けられる社会なのである。
若者だったらもっと無謀なことをしてもいいが何かそれもない、犯罪であったがそれも介護施設とか知的障害者にその無謀さは向かった、介護とかで働かせられている若者の不満も大きいし何かそれが老人に向けられてくる
だから若者と老人を比べると今の若者は損だとなる。

ひさしぶりに相馬市に行った。このころ異常暑かったがだんだん気温が下がり自転車で走り安くなるかもしれない,自分も今度買った電動自転車のロードで走ってみたいと思った本当に行くとしたらこれが最後かもしれない、この自転車が軽く走り安いし意外と荷物は乗せられないが長距離向きだと思ったからである。
だからスイスイ遠くまで走ったら気持ちいいだろうなと思った。
お盆にもなりなんか秋めいてきている、でもまだまだ今年は暑さがつづくみたいだ。
街道の道はソバナとか木槿がにあう、五本松は二本枯れていたのが残念

タグ:自転車旅行

2016年08月12日

故郷再生の力(詩) (神に祈ることが解決の道)


故郷再生の力(詩)


(神に祈ることが解決の道)


私は無情と非情に泣いた
しかし私を励ますものがある
それは神の声なのだろうか
それは天地の声なのだろうか
先祖の声なのだろうか
最近死んだ親の声なのだろうか
故郷は荒れ果ててた
我が家も荒れて崩壊寸前に
それでも荒廃した故郷に
なお命の芽吹きがあるように
再生するものがある
自然は死んでいない
これは神が与えた試練なのだ
放射能に負けない自然なのかもしれない
我々を励ます目に見えぬ力がある
今大きく未来に向かって
荒廃した地から立ち上がり再生するものがある
その力を感じて再生に立ち上がる
ここに広大な世界から力が働く
新たな未来への力がここから湧いてくる
再び自然は回復して光り輝くだろう
新たなビジョンが神は示し現す
祈りを献げよ、一なる神に
そして天地に日本の神々に先祖に親に
わたしを励ますものがある
新たな再生の輝きが蘇る
悲しむ者は幸いなり
神はその涙をぬぐいたまい
誠の力を与えたもう
それは絶えることない神の力、天地の力
宇宙にも及ぶ全能の神の力
それを約束する虹を見た
力はここに湧きあがりここに結集する
破壊され分断された心は一つになる
さらに輝かしい世界がここに再生される
創造主なる神はそれを望むからである


ここで起きたことは未だに理解できない、自分の場合は津波や原発事故前から起きていた家族が認知症になりそれが何かわからないから恐怖した。
体力もある優秀だと言っていた人が一転して何になったのか?銀行の金さえ下ろせなくなったことや人間崩壊現象に接して驚愕した。それは老いの恐怖でもあった。
これは老いとともに起きてくる人間崩壊の現象でもあったからだ。
でもその病気とも懸命に戦った。人生とは何かとの戦いである。
人類そのものがそうだろう。病気との戦いは延々とつづき今日にいたっているし様々なものが戦いなのである。自然災害も日本では多いから災害との戦いであり洪水が起きないように堤防が整備された。この辺では自分の家は土地が低いので二回も水害にあった。
堤防が作られて水害はなくなった。津波にしても三陸では一部だったが堤防が防いだのである。

今回の津波はそうした自然災害でありそれが桁外れであり予想ができないものだった。
自然の力に畏怖したのである。なぜこれほどの災害になったのか?
こんなことがありうるのかということで未だに理解できないということがある。
家族を失った人も天を呪うとまでなった。それほどあまりにも大きな災害でありノアの洪水なのかとさえ思った。
何か人間的な力を越えたものに直面したのである。
人間の力ではとても解決しえない問題である。
原発事故でも放射能問題でもこれも人間では解決できないのではないか?
なぜなら人間は核のことを知っているようで知らないのである。
科学者が何でも知っているようで知らないのである。
だから放射能にしてもどれだけ人間に影響するかわからないのである。
要するに核の処理にしてもお手上げ状態にもなった。
そして本当に人間に核がどれだけ影響するのか?、人体にどれだけ影響するのかもわからない。そういうふうに多々わからないことになり解決方法がないのである。

原発事故の最大の問題は生活の基本となる土や水や森や空気まで汚染されたことである
ここが回復されないから住むことさえできなくなった。
そして故郷に住めなくなったということがまた今まで経験していないことだった。
戦争でも一時的に焼け野原になったりしたが原爆が落とされたヒロシマ、ナガサキでも人は住み続けている。ただここは広範囲に汚染されたので住めなくなった。
そして人々は家族でも分離し祖父母とか子とか孫はばらばらに住むようなった。
それだけでない地域も補償金問題とかいろいろあり分断された。
そして故郷自体が全体が喪失するということも想像もできないことだった。
未だにこれも何なのか理解できないのである。
第一故郷がなくなることなど想像しないしそれが何なのかもわからない
でも現実にそうなってみれば故郷はなんなのだとか考えるのである。
故郷とか全体のことである。一部の商店とか工場とかで形成されるものではない、農地があり実りがあり森があり山があり海がありと全体のことである。
石を詩にしたがそれも全体に機能するものとしてあった。

それは故郷でも歴史があり身近なものでは親が死んで眠る場所であり墓があり代々つづく営みがあった。そういうものも断絶されたのである。すでに墓を移住した場所に移している人もいるからである。地域の人が移住すれば社なども誰も参らず無用化してゆく
あらゆるものが廃墟化してゆく、だから日の住まない農家が遺跡のように見えたのであるこの辺で起きたことは喪失、分離、分断である。それは自然でもそうであり人間でもそうである。地域というのは都会とは違う。一つの自然をふくんだ全体なのである。
都会はトヨタのように車を作るだけの都会もあるが田舎は自然をふくめて全体として機能していたのである。その全体がバラバラになった現象が今回の津波や原発事故の結果である。だからこれの回復は全が回復することなのである。一つの家でも工場でもなくなるだけで全体はなくならない、まだ全体維持できるが故郷全体が維持できなくなったことが大問題だったのである。
人間はそもそも全体を意識できないのである。現代では余計にそうである。無数の部品化して存在しているからである。仕事でもなんでも一部品をネジを作っているとか一部品しかみえないし部品化しているから全体というのは意識できない
でも故郷全体が喪失したとき全体を意識したのである。
故郷を再生するというときそれは一部分ではない、全体のことでだからである。

そうなると果たして人間だけの力で可能なのかとなる、もう人間の手に負えないということがある。いったい放射能汚染された土や水や森は百年たたないと放射性物質の放射線量が減らないとかなるからである。こうなると時間が解決するとなれば人間の力では不可能だともなる
でも一方で自然でも人間社会でも一旦そうして破壊されるときもとに戻す再生の力が働く人間の体でも病気になればそれは戦うものがあり回復する。
戦後の焼け野原から日本が立ち直ったものやはり回復する力が働いたからだろう。
それは人間だけではない自然の再生力もある。
自然の力もまた計り知れないものなのである。自然についてでも実際は科学者が何でも知っているようで知らないのである。
つまり知らないということはこれからの予想がつかないことである。
何か思わぬことが起きる、意外と放射能も影響なかったなとかなるかもしれない、それはわからないからである。

そこで大事なのはわからないからこそ神に祈るとなる、もし何でもわかっていれば対処できる、対処できないことがこいうふうに大きな問題になると特にそうである。
神に祈って何が解決するのか?そういう時代が今の科学万能時代である。
でもその科学万能時代だからこそ原発事故が起きたのである。
そして人間は自ら作り出したものによって甚大な被害を受けた、そしてその解決方法もないのである。
だから神に祈るということが切実なものになる
人間で解決できなかったらそうならざるをえない、では神がいるのかとなるとどう解決してくれるのかとなるとこれもいちがいには言えない
要するにそうなると神の力を信じる他ないとなる、なぜなら人間の政治力でも経済力でも科学力でも解決しないからである。それは人間の力を越えたものとして起きたからであ。ある意味で奇跡を期待するともなる。
ただ祈るだけではだめである。人間は戦うことなのである。病気でも戦いでありあらゆることが戦いなくして解決しない、奇跡はそうして戦うなかに起きてくる。
病気にしてもそうして細菌との戦いで勝ち直すことができたからである。

自分も家族が病気になってから戦ってきた。その後何の助けもなくかえって非情な目にあいつづけた。それは津波で家族を失った人たちもそうである。
その人たちは外からの同情はあった。
ここがつまり「悲しむもの」となったのである。「悲しむ者が幸いなり」というキリストの言葉は何なのか?それは理解できなかった。
つまり悲しむものはその涙をぬぐいたもうというときそこに神の力が働くからである。
また働くように祈るということである。祈ることは力となる
人間におきることは別にここだけに起きたことではない、どこでも起きている
分離であり分断であり断絶であり争いである。それは家族に起きているし国と国の間でも起きているし日常的である。ではなぜそうなるのか?
それは分離分断してさらに強固に結びつくためにそうなるともなる
南相馬市などでも補償金問題で分離分断したけどそれもやはり強固に結びつくためにそうなったともなる

いづれにしろこれは大きな試練なのである。国家的試練として戦争があり地域的でも東北全体の試練でもあり日本の試練ともなる、そういう試練でありこれを乗り越えようとする戦うことを自覚すべきなのである。そういう試練に立ち向かう意志を共有するべきなのである。ただ一方でそんなことなど自覚しない、補償金で遊んでいればいいとかなるのも多い、それは反省すべきだし外からも叱責するべきなのである。
またもう故郷を捨てた若い人々も多い、それは戦いを拒否して楽な道を選んだ人ともなるでは本当にそれがいい道だったのかとなるとまた未来はわからないということである。
その人たちは戦線離脱者なのか?それもやむをえないことなのかなかなか判断できない。
ともかく修復する回復する力が自然にも働く、放射能でもどう影響するかわからない。
人間でも社会でもそうである。

posted by 老鶯 at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年08月13日

「心の青雲」が文字化けして読めなくなっている謎 (サイバー攻撃か、その怖さ)



「心の青雲」が文字化けして読めなくなっている謎


(サイバー攻撃か、その怖さ)

文字化けは著者の問題であり回復した

でもなんかサイバー攻撃があったら怖い


今日心に青雲を見たら訳のわからない文字になっていて読めない、全部そうなっている
サイバー攻撃されたのだろうか?

インターネットで怖いのは記録が一瞬にしてすべて消えることである。
そういうことがさくらのプログでもあった、ただバックアップしてあったので修復できたインターネットはパソコンでも技術的には安定してきている
だからめったにそういうことはなくなっている

でも一般人とインターネットを管理する会社とかがありまた技術的にハッカーなどでもいて何か相手のパソコンを操作できる、するとプログなどでも簡単に操作して全部読めないようにされてしまう危険がある。消される危険もあるしそれがインターネットの場合、
簡単にできてしまうことの恐怖なのである。
だから記録しておく必要がある。
一時win8とかにするときウィルスが入り記録をだめにした。これも怖いことなのである。
「心に青雲」は毎日読んでいた。ユダヤ人を絶えず批判している、ただそうはいってもアメリカ側につくもので中国を常に批判していた。
となると攻撃されたとしたらアメリカ側とは限らない、どちらかというと中国側かもしれない、中国は何か盛んにサイバー攻撃している国だからである。
そして一個人とか何かサイバー空間では技術的に無力である。
国家が関与したらサイバー攻撃は怖いものとなる

なぜ「心の青雲」がねらわれたのか?あのプログが読者も多かったのかばしれない
反対することがあっても筋が通っているから一貫したものがあるから感心して読んでいた別に敵対するものでもそうして一貫したものがあるとき共感する
ただ別にインターネットではアメリカであれユダヤ人であれ中国であれ批判しているの多い
ではなぜ「心の青雲」がねらわれたのだろうか?それは今は謎である。
どうしてそうなったのかわからないからだ。
言論がすべて自由化というと民主主義社会でもそうはなっていない
何か強力な権力がバックにあり操作される、それに反対するものは世の中に出れない仕組みになっている
第一原発の安全神話が作られたのは強力な政府と東電の権力によって作られていたのである。それに反対するものは許されなかった
マスコミもすべて同調して宣伝費をもらっていたからである。
マスコミは真実を伝えない、権力に操作される側なのである。
出版でさえ操作されているし権力のないものは簡単にはできない
自分ですら図書館に本を置くことを拒否されたりしている
何か一見民主主義が自由な言論があるようでないのである。
たいがい出版でもバックに組織に属していないとできないのである。
個人は排斥されているのである。


インターネットのホームページでもプログなどでもサイバー攻撃することは技術力のあるものにとっては簡単かもしれない、それが大きな組織がかかわっていれば余計にそうである。
プログなどは一見何でも自由に見えても攻撃されさば脆弱である。
さくらのプログなどはただ最初安いからと始めた、最初にホームページとかレンタルサーバーとして利用したついでにした。
でもこれはマイナーな会社でありプログなどだとアクセスを稼ぐのには向いていなかったそれが最初わからないのでそうなった。使いにくいこともある。
ただなんかレンタルサーバーでもプログでもアドレスを変えるのがめんどうでやめた。

いづれにしろインターネットの怖さは記録が一瞬にして消えることとサイバー攻撃に個人になると防ぎようがないのである。
だから入り口でレンタルサーバーでもいいからセキュリティをしっかりしてもらわないと使えないとまでなる
そんなこと個人ではできないからである。

いづれにしろ「心に青雲」はどうなったのか?回復できるのか?それも技術的には個人的には無理になるから困るのである。
組織力があるなら技術者を雇うことができるが個人的にはできないからである。
インターネットでももしアメリカのCIAとか中国などが国家的にかかわったら操作されてどうにもならない、ここでも権力をもつものによって操作されるとなる
中国は国家戦略としてアメリカに対抗するためにサイバー攻撃をしているのである。
だから何でも個人では国家の権力に対抗することは無理だとなる
自分のプログでもホームページでも危険はある、たださくらのプログのセキュリティはどうなっているのか?
ともかくインターネットでも影響力が大きくなる場合がありそうなると権力側に攻撃される、そういうことでインターネット空間にも必ずしも自由な言論があるとはならない
情報は権力によって操作されているのである。
原発などもそうでありそのために大事故になったのである。その前に危険情報が知らされない仕組みになっていたからである。
東京都議会でも闇の権力者がいて予算が操作されていた。金がそうした闇の権力者に回っていたのである。それを暴くことが容易ではないというときそれは社会自体がそうなっている
巨大な権力によって情報は操作されて人々は肝心なことは知らされない、その結果として甚大な災いをこうむるのである。


タグ:心に青雲

2016年08月14日

オリンピックをする意味がなくなっている (力石のような村社会での意味すらない)


オリンピックをする意味がなくなっている


(力石のような村社会での意味すらない)


“郡上八幡城の力石伝説”
4 / 52015/11/17に投稿しました
かつてこの城の改修時に、通称赤髭作兵衛という力自慢の農民が城下の河原から三百キロを超える重さの石を担ぎ上げたという伝説があり、八幡城庭園内でその石(岩という大きさですが)を見ることができます

高千穂神社の祭神である、 三毛入野命(みけぬのみこと)は弟の神武天皇とともに大和に向われますが、伝説では再び高千穂へお帰りになり、高千穂郷一帯で悪行をはたらいていた鬼八を退治し、この一帯を治めたといわれておりす。
鬼八の大石は、この時、鬼八が三毛入野命に投げ、力自慢をしたという石といわれております。


真光寺にあった力石(郷石)も、賭博の一つとして使われ、村人は、事がある度に寺に集まり、金銭や田畑地を賭けて力比べに興じていました。村人は、そのためにすべてのものを失い、大貧乏になってしまう人が多数を占めました。この当時、村で賭博をやらない家は、2軒しかなかったといわれます。

「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村堺(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。

「力石(ちからいし)」とは、力試しに用いられる大きな石のことを言います。
力石の全国的な調査を行った高島愼助氏(四日市大学教授)は、「労働を人力に頼らざるを得なかった時代に労働者の間に発生し、力くらべや体力を養うのを目的にした石を指す。したがって力石による「力持ち」は、一人前の男としての通過儀礼、鍛練および娯楽としての要素が濃厚であった」と定義付けています

 力石は日本各地の神社や寺院の境内などにあり、力比(ちからくら)べや力試(ちからだめ)しに用いる石のことです。5斗石、8斗石などと重量が定められています。差し上げれば千人力になるとか近親の病気が治(なお)ると言われています。また、肩上げ、両差し、片手差しなどといって力を競います。

 住古女あり年20ばかり、木履を納め米一石を頭上に捧げこの坂を上りし故一石坂(いちごくさか)と名づく(南相馬市鹿島町誌)


力石とか比べ石とかは全国各地にあり多い、それは当時は人力に頼ることが多かったからである。持ち上げるのにも運ぶのにも人力頼りになると力がないものは仕事もできない
それで村では特定の石をもちあげれば一人前とされたというのもわかる。
つまり力があることが一人前の男として村に認められたのである。

現代だと力があることは必ずしも自慢にならない、機械が代わりにするからである。
でも以前として体力があることは何するにも必要だから価値がある
でも昔のように力より知能の方が重んじられるようになった。
するとそうした力石とかはただ祭りとして遊び化してスポーツ化する
もともと社会的に有用なことだったがそれがなくなると遊び化してゲーム化するのである
オリンピック自体がもともと戦争のために実際に行われたものである。
槍投げであれ円盤投げであれそれは武器として使われていた人を殺すためのものだった。それがスポーツ化して遊び化したのである。
社会的に意味がったものでも実用とてあったものでも遊び化する、その時実用性がなくなるから祭りともなる、相馬野馬追いなどももともと戦争のために行われていたが祭りとなったのと同じである。

オリンピックというときこれも何なのかというとそうしたもともとあった実用性から離れたものとして追求されている。今どき槍投げと円盤投げとか何の実用性もないのである。そして昔の力石というときそれは現実に仕事するにも力が必要だからこそ社会で意味あるものとして行われていたのである。
そもそもオリンピックになると世界的身体能力の超人を目指している
そういう世界は実用性からは全く離れた世界である。それは超人であり普通の社会の実用性からは離れた世界である。まず百メートルを極限の速さで走る必要性が普通はないからである。そんなことを追求しても意味あるのかとなる

では今のオリンピックはなんのためにしているのか?
それは企業とか国威高揚とかのためであり小さな村社会で行われていたものとは違う。
村社会で行われていたものでもそこには意味があったのである。
超人的スポーツ選手は企業の宣伝として使われている、商業主義のオリンピックなのである。
日本のメダルが多くなると日本の株価があがるというのもそうである。
それは企業にとって宣伝になり売り上げもはあがるとまでなるからである。
そしてテレビで視聴率をあげれば余計に宣伝効果が大きくなる
それでテレビを支配する電通が防いでも莫大な金を東京オリンピックの誘致のために金を使ったのであてる。
それは商業主義オリンピックだからそうなったのである。
オリンピックの選手にしても企業から宣伝費として金をもらうからそうしたプロなのである。だからメダルをとることが最優先される

オリンピックは最初は参加することに意義があるなど意味があった。何か世界平和のためとかもあったし国威高揚とかもあり東京オリンピックの時は意味があった。
今はそういう意味がない、第一すでに50パーセントがオリンピックに興味がないのであるオリンピックを開く民意がない、それでも行われるのは商業主義オリンピックであり企業が金を出すからだともなるしゼネコンが仕事になるからだともなるし電通によりテレビで視聴率を稼ぎ企業の宣伝になるからだともなる
だから意味を追求すれば村社会の力石、比べ石とかより意味としてはないのである。
世界平和というのも関係ないしオリンピック開いたからと世界平和が促進されることもないのである。
ただ身体能力の超人的追求になっている。それは普通の社会で生活する人から見たら関係ないことなのである。体力が必要でもそんなにしてまで体力を追求する必要もないからである。

人間はなにか常にあらゆることに意味を追求しているのである。人間は「考える葦」だというときがそうである。人間は哲学的存在なのである。ただ野獣的に超人的体力を追求するときすでにその時人間でなくなり野獣になっているのである。
今になればそうしたスーバーマン的な体力は機械に置き換えられているからである。
その機械化によっても力あるだけでは人間の価値はなくなったのである。
一体0.1秒とかの差を争うことにどれだけの意味があるのか?世界新記録にどれだけの意味があるのか、そんなものはいづれどんな種目でも限界が見えてくる
そんなことに意味はない、人間は超人にはなれない、スーパーマンになれないからであるだからオリンピックは世界的に日本でも興味を失っているだろう。
何かそういうものにあきたという人が多くなっている
それは社会的にも意味を見いだせなくなったともなる
それをあおっているのはマスコミとか企業でありそれを見る人たちは飽きたとなる
要するにオリンピックでなくても別なエンターテーナメントが娯楽でもいいわけである。何かオリンピックに前のような特別な意味が見いだせなくなっているのである。
だから東京オリンピックは無駄であり日本人の民意とはなっていない
でも別な力で公共事業のためとか企業の宣伝とか電通の利権とか利権としてオリンピックがある。それは村社会にあった力石とかのような意味もないのである。
あれだけ世界的巨大でも意味がなくなっていることがオリンピックの問題なのである。

posted by 老鶯 at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

武田邦彦氏のオリンピック(スボーツ)に対する発言は納得できない スポーツ競技とはなにか


武田邦彦氏のオリンピック(スボーツ)に対する発言は納得できない


スポーツ競技とはなにか


武田邦彦氏がスポーツは意味がないけど意味があるとか言っているけどこれは納得できない、遊びであるから金をかけるのは経済効果を言うのは無意味なのもとしてやるのだからかえって逆効果だというのは同感である。
たかがスボーツというときそこに莫大な金がかかっていることが問題なのである。
たかがスポーツなら草野球のようなものでもいいわけである。
何兆円も金がかかるオリンピックがたかがスボーツですまされないのである。
なんらか意味があるものとして追求されねばならない

それだけの金がかけるなら東北復興に金を使えばほかにもいくらでも使う所があるからだ
他のことは科学者としてその言い分はわかるがこれは根本的に理にあわない
理系というとき文系がおとしめられるが何かあらゆることに通じるわけではない
意味のないものに莫大な金を費やすからこそ問題がある
金を使わないなら草野球みたいなものなら別に問題なのである。
高校野球だってセミプロであり地元とは関係ない選手が集まりしているから地域の代表でもないのである。金もかかっているのでありたがらこそ勝つことが第一になるのである。純粋のたかがスボーツならいいがそうでないから問題なのである。

ともかくインターネットではなかなか議論が直接的にされない
自分もそうだがプログは一方的発言になってしまう。
こうして発言しても相手が読むとも限らない
パソコン通信の時代は逆にあまりにも相手をおとしめるための直接相手を攻撃するためのものだった。
プログになるとなんかそうした攻撃もない、だから一方的な発言となりそれで議論が深められることはない、プログはそうなりやすいのである。
自分だってずっーと膨大なものを一方的に発言しているだけだからである。
「心に青雲」なども内容が濃いのだけど同じである。一方的発言を延々としているとなるそうなるとなかなか議論を深めることができないのである。
その人の発言はその人の発言として終わりになる。

ただこうした内容の濃い人のプログを批判するとなると相当な人でないとできない
科学に弱い自分はまず科学について批判できない
ただ文系になると心の青雲の「国家論」とかなにかそこから議論を深めるものがあるかもしれない、それだって相当な知識が必要であり簡単にできない
第一マルクスとかでもそれを批判するとなればそれを深く理解しなければできない
そうなると批判自体が不可能だとなるのである。

ただ今回武田邦彦氏の言っていることは浅薄だからできたことである。
ほかはなかなかできない、専門的になると余計にできない
現代は専門家の時代であり素人は批判などできない
人間と意味がないことに国家予算なみのものを使うことはまちがっている
なぜなら人間はなんであれ意味を追求しているのである。

スポーツは気晴らしの意味があるときそれも意味だがそうならそんなに国家として金を使うべきではない
ローマの「パンとサーカス」になってしまう。現実になっている。
日本雑技団とか言う人もいて面白い、まさにサーカスなのである。体操などがそうであるそういうものにオリンピックとなると国の誇りだとなるのも納得しえないのである。
それは日本だけでない中国雑技団にもなる。そんな程度のものとしたらなぜ莫大な金をかけるのか?プラジルでは貧困にあえでいる人があふれている
その人たちにとってオリンピックなど何の関係もないのである。
現実にメダルもとれないのだから面白くないとなってしまう。

ただもし意味があるとしたら逆に株価が上がるとしたら経済効果として意味があるとなる武田邦彦氏は経済的効果をスポーツには必要ではないというがむしろ必要だからこそ意味があるとなる、なぜならそうしたらそんなに金をかける意味があるのかとなるからだ。
なぜそんなに金を使うのかということが問題になっているからである。




posted by 老鶯 at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年08月15日

佐藤優なる似非知識人がなぜ持ち上げられるのか? (暗黒時代に突入する日本)


佐藤優なる似非知識人がなぜ持ち上げられるのか?


(暗黒時代に突入する日本)


この人のことは全然知らない、本も読んでいない、ただ良く出てくるからなんだろうとは思っていた。
この人は似非知識人で信じられないのは創価と池田大作を礼賛していることである。
これはなんなのだと信じられないとなる、東電側にもついていている
創価というときこの団体がどれほど危険な団体か自分は自ら活動して知っている
仏教ファシズム団体である。仏教など何の関係もない、ただ会員を増やして権力奪取を目指す団体である。平和だとかいろいろご託は並べるがそれは平和装う狼なのである。
いかに創価が権力を得ようと日夜画策して活動しているか自分は活動していたからわかる選挙が最大の仏教の戦いであり池田大作は先頭にたって選挙のときは指導していたのである。そして先生のためにと婦人部はフレンド票をとるために必死になっている
それが高じて選挙違反者を出したというのもわかる。もうなにながなんでも一票をとることが最優先される、そのためにすべてのエネルギーは注がれているのが創価である
それはなんのためなのか?権力を得るためである。
そこで活動する人にはそういう野心家がいる、創価に入り権力ある地位につきたいという人が入ってくる
あと無知な大衆を操作して会員を獲得して権力を得るために民音と芸能人を支配しているこの人は創価系の芸能人なのである。

マスコミにもちあげられる知識人は危険

なぜこの人がこんなにマスコミとかで持ち上げられるのか?それはマスコミ自体が時の権力側についているからである。都議会選挙でも内田とか黒幕がいるのを暴くことができない、報道しなかった、都議会の闇を暴くことをマスコミはしなかったのである。
マスコミは無知な大衆を操作するためにある。宗教もカルトとなるとそうである。
宗教はファシズムになりやすいのである。創価の会員にもいろいろいるけどどうしても弱者とかが多いからそういう人たちを一票として確保する
宗教で自縛させる、それが効果的であり以前としてそれなりの会員維持に成功している
では宗教を利用して権力奪取をするというけどその幹部自体も池田大作自体も宗教に自縛されているのである。異常に罰とか恐れている、息子の一人が早死にしたとき罰あたったとして表に出すことを拒否したり何か病気になっても知らせないとかある
現実に創価に入っても何か解決しているのだろうか?

近くでは息子が若くて病気になり死んだし次に母親も死んで家はなくなった
創価では仏教では現象を一番重んじるけどそんな不幸なことなど会員数が数百万もいたらいくらでも見ているはずである。自分の家でも認知症になったとか必ずどの家でも不幸はまねがれないのである。第一不幸のない家などない、必ず病気になるし何らかの不幸はあるもしなければみんな入っているだろう。
創価でもエホバでもカルト宗教など人を選ばないのであるどんな人でもいいのである。そこには全くモラルなどない悪質な人間がごろごろしているでもその人がどうなのか性格がどうとかは絶対に問わない、どんないいかげんな人間でも会員になればいいのである。実際回りで創価の人間がどういう人間か見ていてみんな知っているのだからこれはなんなのだろうと理屈と関係なくおかしいなと知る
田舎だとそういうことは目に見えるからあまり増えないということはあったかもしれないそれでも田舎でも増えたというのはそれだけそううい闇の世界に吸収されるのものがあった。まず公明党の張り紙してあるところは何か問題をかかえているのである。

人間の社会はつくづく変わらない、なぜこんな人間が有名になりマスコミに持ち上げられている、クリスチャンなどいくらでいるからそれでクリスチャンとはならない。
教会に行っている人がみんなクリスチャンとは限らないし仏教でも会員になっているから信者でもないのである。ただ会員というだけなのである。最近はエホバが勢力を延ばしている。必ず生活保護者が標的にされて入っている、創価、共産、エホバは生活保護者の数が多い、そこに入る人の意識は高等な宗教は必要がない、要するに政治的便宜を計ってくれるとか何か利益を与えればいいのである。だからもし十万であれ借金があれば肩代わりしてやればすぐにそっちのほうにつく、つまり金で下層階級は支配できる
また公明党の議員が投票させるためにビール券を配っていたとかそんな程度で会員を増やし一票を得るために日々活動しているのである。

いずれにしても、このままゆけば日本はかつて歩んだまたあの”いつか来た道…”を間違いなく《反復》することは疑いようもないではありませんか。そして、知識人、擬似知識人、似非知識人、あるいは、純粋な悪の先導者であるピエロ、道化、マジシャン…等に先導されつつ、かつて想像もしなかった地獄へと転落してゆくのではないでしょうか。


日本でもほかでも同じなのだが人間は以前としてサタンの支配下から逃れていない
同じように似非知識人であれ似非予言者が跋扈して大衆をまどわし地獄に連れ込まれる
これはサタンの手先なのである。マスコミもそうい手先をもちあげる。
マスコミがサタンの手先なのである。だからマスコミは時の権力側にしかつかないのである。
この人は東電をも批判すべきでないと言っている。これも信じられないことである。
こういう人が有名になりもちあげられること自体がいかに今の言論界でももう信じられない堕落しているかわかる。
本当にいつか来た道をまた日本は行くことになる。戦争にもなるし原発事故もまた起きるこれはもう確実である。防ぎようがないのである。
自民党というのも信用できない、創価公明党を一時批判していたが味方になればとりこむ、ただ権力を得るためにそうしているだけであり一貫性がないのである。人間は権力を得るためには悪魔とも結託する、金のために魂も売る、これも人間が変わらないことだった
つまり常に権力を得る維持することが最優先になっているのである。
だからいづれは自公政権は崩壊する、その兆候は東京都知事選挙で現れたのである。
民主主義といっても言論の自由は必ずしもない、組織がなければ出版もできない
要するに人間はひどい目にあわないと現実が何か認識できないのである。
カルマもそうである、何か苦しい目にあうとなぜだろうとカルマを意識する、そうでなければ意識しないのと同じである。
こういう似非知識人や似非予言者にだまされて地獄に連れていかれてひどいめにあったときはじめてカルマを理解するのである。

この世とは変わらない暗黒の世界だったのである。その証明がこういう似非知識人や予言者が大手をふってまかりとることにある。
要するにこういうことが延々と有史以来くりかえされてきたのが人間社会だったのである結局この世には絶望しかない、闇の主がサタンが支配しているのは変わりなかった。
人間の悪など一掃できない、次々に新たな悪が生れる、形を変えて人を変えて送り出されてくる、おそらく創価がなくなっても次にまた新たなカルト団体が生れるし生れている
だから大洪水がきてノアの方舟で生き残る、救うのが神だとなる。
津波はまさにそうしたノアの洪水と思えるほどの巨大災害だったのである。
そして政府と東電が一体となって悪が暴かれたのである。とても人間ではもうそんな巨悪を暴くことはできない、そして必ず歴史的審判が下される

歴史的に長い時間の中で見たときなぜこんな似非知識人が世を席巻したのかと不思議に思うのである。その時はもうその人の名前は何もでてこない、忘れられるだけである。
悪名を轟かせてもその名は消える、この世で大きな名を力をもつものがサタンの手下だということである。誰も歴史的審判からまねがれることはできない
かつて権力をもっていたものも悪も白日の下にさらされる、特に時の権力者は容赦なく断罪されるのである。だから歴史が裁くのであり時間が裁くのであり長い目で見ないと人間社会も見えないのである。百年後くらいから現代を見る必要がある。
今こんなにも有名になり力があり権力かあっても見る影もなくなることがある。
それは個人的にもそうである。家族で死ぬときまで優秀だと言って死んだが実際は認知症になり馬鹿になっていたのである。
いづれにしろ現代の知的水準はこれだけ情報が氾濫していても低下している
カルト宗教がこれほど増えているのもそうであり似非知識人が主役になっていることでもそうである。次の時代は相当に危険であり戦争の時代に突入して地獄になるかもしれないなぜなら歯止めとなるものがもうない、マスコミも戦争中と同じであり権力側につく大本営発表しているだけだからだ。

日本は今外交的にも経済でも岐路にたたされている、中国に責められアメリカは退いてゆく、そしてまた戦争中のように日本は孤立してゆく、そして追い詰められて戦争になってゆく危険が増大しているのである。右翼関係の議員が増えているとか右傾化している
創価やカルト宗教団体は右でありそれが一体となり戦争に向かってゆく
その危険性が現実的に増大しているのである。その象徴が似非知識人がもてはやされていることである。その似非知識人も実は背後のブラックなカルト団体とかに操作されているのである。マスコミはまさに背後に電通とかいて操作されている
電通は何かわからないにしろそれが今度在日勢力の支配下にあるとか外国人勢力に日本はのっとられると右翼が言うのもわかる。
日本は闇の勢力にのっとられる、創価もそうでありまた左翼も在日も日本を中国に売り渡すとか盛んに言われる、真に日本を思っている愛国者は誰なのか?
創価は日本をのっとることを目的にしているし左翼も中国側に日本をさしだすものだと言う。すると真に日本を思う愛国者は誰なのかとなる
ともかく今は日本は非常に危険な岐路にたたされている、これから右だカルトだ左だとか内戦状態になるかもしれない。格差社会も内戦になる。もちろん原発事故で故郷を失ったことも深刻である、それもこれから日本全体に起こる地獄への始まりである。
そういうものとして津波が原発事故が起きたのである。
その反面として詩にしたようにここから故郷の再生がはじまるということもある
つまり原発事故にあったこの辺が福島県が日本の未来の鍵を握っているともなるのだ。
そううい使命がここに託されたともなるのである。

擬似知識人、似非知識人、あるいは、純粋な悪の先導者であるピエロ、道化、マジシャン…等に先導されつつ、かつて想像もしなかった地獄へと転落してゆく

まさにこれが佐藤優がもてはやされることでも具体的にわかる。何かマジシャンのような風貌をしていないか?ピエロとか道化とかがテレビの画面を占拠して大衆は操作される
そしてそれが地獄の道を通じているのである。白痴化された大衆は操作しやすいからである。そしてその大衆自体が地獄へひきずりこまれるのである。
あとどのくらいでそうした地獄が生れるか?その前に自分はこの世を去ってゆきたいとなる、戦後70年は実際はつくづく恵まれた時代であった。しかしそれもいつまでもつづかない。次の時代は暗黒時代になる、ともかくうたかたに消えてゆくような人間が大手をふってこの世を席巻していることそういう人間をもちあげること自体日本国滅亡の亡国の徴(しるし)なのである。

タグ:佐藤優
posted by 老鶯 at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

abstract pictures(海の生物ーmarine organism)


abstract pictures(海の生物ーmarine organism)

riverrrrwww1222.jpg


riverrrrwww122233445566777.jpg
海中の生物(ウニやヒトデ)

riverrrrwww122233.jpg

洞窟(cave) 

riverrrrwww1.jpg

川の流れー川の水も複雑に流れる complexed flow

vessel123.jpg

ギリシャの壺(a vessel of Greece) 


wavesssssss123.jpg

抽象画を作る時は自分の場合は創作しようとしているのではない、それだけの才能もない、暇なときしているのである。
だから創作するというものではない、インターネットにある原画を変化させているだけである。

ただ今回の場合は著作権違反になっているかもしれない、何か抽象画に変化しやすいものとしにくいものがある。変化しやすいものはいくつにも変化できる
変化できないものはいくらしてもできないのである。


これは外国のものだけどもしこれを見たら指摘されたら著作違反となるかもしれない、ただ自分は楽しみとしているのであり商業として金をとっているわけではないから許されるかもしれない、第一インターネット上にある抽象画を利用してもわからないだろう
一度も指摘されたことがないからである。

要するに抽象画の楽しみ方としてソフトで変化して楽しむというだけである。
自分の変化させるなら創作しているが他人のものとなるとあまりにも類似していると著作権違反となる。

ただ不思議なのは抽象画として変化させやすいのさせにくいのがある。
これも変化させてみないとわからないのである。たまたまソフトで変化させて面白いなとなり出しているのである。


Creature ー marine organism) of the abstract pictures( sea

When make an abstract picture, there is not the talent only for it which is not going to create in the case of oneself; is free; untie it.
Therefore I only change the original picture in the Internet that is not a thing to create it.

There is only the thing which is hard to be easy to change into some abstract picture which may become the copyright violation in the case of this time. Even if the number of things which are easy to change is how many, and the thing which cannot change which can change is how much, it is not possible.


This is because it has not had writing violation and the once that it will not know even if oneself only uses the abstract picture which there is on pleasure and the first Internet that may be permitted because I do it and do not take the money as commerce that it may be pointed out when it has it pointed out though this is a foreign thing if it watches this either.

In brief, it is only said that I change by software as a way of enjoying abstract pictures and enjoy it.
Of oneself if change it, create it, but it is with copyright violation when too resemble it when become the thing of another person.

Mysterious one only has the one which is hard to let you expand which it is easy to change as an abstract picture.
I do not understand that I do not change this either. I change it by software by chance and begin to become when interesting.


タグ:marine organism

2016年08月16日

お盆終わる


 お盆終わる


numaaaaaaaaaaa1.jpg

涼しさや月の写れる沼一つ

芙蓉咲くその花見てそ帰るかな


一時はにぎわいにけりお盆かな蝉鳴く声の墓地にひびきぬ

我が墓に花挿す人のありしかな誰とも知らずうれしく思ふ

我が家に帰りて待てる人もなし壺にさす菊映えて待つかな


近くの墓地でもお盆以外は閑散としている、そして生きた花はさされていない、ということは墓参りはたまにしかしないのである。
自分は毎日墓の前を通るから淋しいと思い生きた花をさしている
ただ花は枯れやすいので造花をさしているのが多い
その造花も何か嫌なのである。花はやはり生きた花がいいのである。
その生きた花が死者と通じるということがある。
いつもさしている造花は墓参りしない死んだ花である。

つまり墓も近くで身近でないと活きたものとならないのである。
一年に一回くらい墓参りに遠くにゆくとなると何か墓も死者も遠い感じになる
だから墓守となると墓地の近くに住んでいないとできない
近くだと死者もともに生者とと生きているという感じになる
特に街中にある墓地はそうなるのである。
自分の場合は毎日自分の墓の前を通っているからである。
誰か自分の墓に花を挿してくれた、多分姉が保健婦の時世話した人だろう
あの人だけはいい人だった、一番世話した人は最悪だった
借金だけを病気の時要求してきたからである。
死後までそうして花を挿したり墓参りしてくれる人はよほど誠実な人である
人間はたいだい薄情であり死んだら縁も切れるのが多いからである。

ともかく自分が生きている限りは家でも墓でも以前として死者も生きている
でも自分が死んだらそれもなくなる、この辺でまた空家が一つ増えた
なんか跡継ぐ人がいないのである。全国で800万軒の空家があるという驚きである。
それだけ今の時代は少子高齢化であり跡継ぎがないから何でも家でも墓でもあとをどうするかとなる

墓参りというときお盆というとき遠くから来る人が多い
この辺では仙台が多い、仙台に移り住んだ人が多いということである
墓はだから維持するのがむずかしくなる、それだけ今は広域に人が散らばり住むようになったからである。
でも死者が江戸時代あたりでは山に眠り春には田植えの時には山に下りてくるという葉山信仰とかは死者が死んでも故郷というかその地域に以前として生きているという感覚になるからいい、死者はその土地に長く生きていれば以前としてそこに留まり生きている感じになるからだ。都会だったらそういう感覚はない、ビルの一角にアパートのような狭い所に閉じ込められている、そういう区画した墓がありそれも嫌だとなる
死者が生き続けるというとき故郷が土地がないとき生きてこない、死者を思うときその生きた土地から思うからである。
だから故郷を喪失することは実際は何か人間の根源的なものをアイディンティなるものを失ったとなるから深刻なのである。
ただ若い人はあまりそう考えないかもしれない、便利であればいいというだけで移住した老人は簡単に移住できないのはそうした深く故郷とアイディンティを持つようになったからである。
故郷は別に生れた所ではない、長く住んでいれば自ずとそうなってゆくのである。

あそこの沼も沼らしくなくなったのが残念、近くに家が建ち変化してしまった。
この辺は自然まで変わっている、沼でも自然のままにあれば情緒があるがなくなった
自分の町は都会化したがこれはもともと田舎過ぎたからこの変化は良かった
でも自然があれば安らぎがある
芙蓉が咲く時期である。この花はおおらかであり好きである。
自分は神経質すぎるからである。自分は太った女性が精神的にはあっている
なんかなごむからである。
人間つくづく借金しているような家には行きたくない、こっちまで重苦しくなるのであるそれでずっと自分は苦しめられてきたのである。
あの家の人のこと思うだけで苦しくなるし憤りさえ今でも覚える
結局人間は平和が何かわからないのである。
借金している家には平和はない、病気している家にも平和はない
そういうものがないとき平和なのである。芙蓉のように咲いているのが平和なのである。この辺では当たり前のことが自分の一身上でも失われたし全体でも失われたのである。



タグ:お盆

2016年08月17日

抽象画(海中の岩ーrocks in the sea)


抽象画(海中の岩ーrocks in the sea)

crossseaa11.jpg

seaside towns

riverrrrrrrrrrrr345677.jpg

合流する川

riverrrrrrrrr345765543.jpg


seadepthhh1.jpg


searockkkks111.jpg

クリック拡大ーenlarge

rocks in the sea


抽象画というとき何かに見える、具象画として見る、これは海岸の街だといえばそうである。鎌倉などもイメージするし湘南とかもそうである。
あの辺は海と街が一体化しているからである。

今回気に入ったのは海中の岩である、石と岩をテーマにしているから自分らしいとなる
海中にも岩があるということを自ら抽象画を変化させて作り認識したのである。


If it is said that this to watch as a representational painting looking like something at time called the こ abstract picture is a town of the shores, it is so. I image Kamakura and am so with Shonan.
That neighborhood is because the sea and a town are unified.

I changed a oneself abstract picture and made that there was a rock in the sea where it was when it seemed to be oneself because what I liked this time featured the theme of a stone and the rock which were an underwater rock and recognized it. 

If it is said that this to watch as the representational painting which I will input the sentence that I want to translate, and is seen in something at time called the abstract picture is a town of the shores, 
 I image Kamakura and am so with Shonan.
That neighborhood is because the sea and a town are unified.

I changed a oneself abstract picture and made that there was a rock in the sea where it was when it seemed to be oneself because what I liked this time featured the theme of a stone and the rock which were an underwater rock and recognized it