2016年08月01日

小池百合子の勝利が物語るもの (週刊誌とネットが今回は大きな影響があったー石原家も崩壊?)


小池百合子の勝利が物語るもの


(週刊誌とネットが今回は大きな影響があったー石原家も崩壊?)


【石原家崩壊 東京都地方公務員汚職疑惑】 


都議会自民党が(警視庁と組んで?)石原の側近に濡れ衣を着せようとした以上 
 石原は地検特捜部に告発して福祉関係「癒着議員」の一掃に乗り出すべきだった。 
が、石原はそうはせず、都議会自民党の恫喝に屈して浜渦副知事を辞任させると決めた。 
 理由は息子だ。石原の三男・宏高はみずほ銀行を退職して 
  

 石原は現在、80歳。高齢にもかかわらず、政治家としての賞味期限を維持できたのはひとえに、首都東京の知事に長く君臨したからにほかならない。ほぼ1年ごとに首相が代わるという国政の混乱、特に民主党政権になって以降の外交・防衛政策の迷走が、アジアから右派と警戒される石原の存在感をいっそう際立たせたといっていいだろう。

 石原伸晃がずいぶんネットで批判されている。親の七光でボンクラだったとかこきおろされている。今回の都知事選挙でも小池百合子を親の慎太郎が厚化粧・・・とかで批判してかえって反感をかった。
それより政治は特に東京都は巨大な国並みの利権が得られる所である。
その影響が大きいからこれほどの騒ぎになった。
石原慎太郎は知事が長いから権力は腐敗するというように腐敗した。
マスコミも石原一家を批判しないのは権力をもっていたからだとなる

そして石原慎太郎は四男の絵でも都庁に飾るとか三男のでも銀行員でその利便を計るとか石原一族の利権を拡大することに勤めた。
石原氏が優秀な人でもそうして一族の私的利益を計ることは権力を拡大することはまた腐敗することである。
マスコミは権力をもっている者は団体は批判しない、ただ落ち目になるとみんなが批判すると批判する、東電だって広告費をもらっているのだから批判していない
でも事故のあとは批判している、今回も都知事選挙で石原伸晃がミスを犯して小池百合子に負けたから負け組を批判する
ただ権力に追従するだけであり民主主義の権力をチェックする機能を果たしていない
石原氏が知事で全盛のときはとても批判できない、その時もやはり責めるべきものがあったのだが責めないのである。ただ今回はその権力がそがれると追従して批判するのがマスコミである

ネットでは絶えず石原伸晃と都連の幹事長の内田を盛んに批判していた。
このことはなかなかのみこめなかったがそれで興味をもった人は相当にいる
そんなことだったのかとネットで知ったのである。
そして選挙結果はネットで盛んに言っていたと同じだった、そして今やネットがテレビより影響が大きくなったという、ネットで騒いだことは現実社会では余り影響ないということがあったのが今度は違っていたのそれだけネットが普及したのかとなる

いづれにしろ中国並みに石原家が巨額の利権を得るものとっないたことは民主主義に反する、また内田とか裏で政治を操るというのも民主主義にはそぐわない
だから当選した小池百合子がまずは都議会であれ透明化することですと言っていた。
オリッピックの利権も巨大であり予算が増大したのは利権を得るためにそうなった。
石原一族なのか内田なのか森なのか・・・・そこに巨額の金が利権として回る
それで都民の税金が私的に流用されることが追求された

民主主義はそうした巨額の利権が一族とか一部の議員とかによって私的に流用されこととは反する、だから今回は選挙が投票でそうした利権を明らかにするとなり権力者が逆に追求される
それがまるでドラマのよな展開になっているからついついネットを読んでいたのである。リアルタイムのドラマになっていたのである。
昔から権力は一族郎党によって握られていた。それに近代社会は会社でも政治でも排除することにあった。
そうなると必ず権力は腐敗するからである。

石原伸晃が会見しないで逃げる・・・そこでまたネットで批判が延々とつづく

石原伸晃、内田は森は責任とれ

その声がネットでひびく、これはテレビより面白いとなりその都度読んでいた。
ただこれもネット内のことかと思ったがそうでもなかった。
今回だけはネットの世論と社会の世論がほぼ一致していたのである。
それは週刊誌の攻撃も大きな一翼をになった。週刊誌がなければ国民全部に都民にその利権のことは知らされなかったろう。
ということは新聞とかテレビはそういう点で役割がなくなっていた。
新聞とかテレビのメデアが何かありきたりのことを言うだけで政局を左右する力がなかった。
週刊誌とネットが今回は政局を左右したのかとなる。
なぜなら小池百合子が勝ったことで政変が起きる、自民党が二つに割れるとか小池新党が生まれとかいろいろ言われるからである

それほど東京都知事は大きな力をもっている、安倍首相は直接増田の応援演説をしないでうまく逃げたとほめている。
何か今回はそうして人物が悪役とかがはっきりしてわかりやすかったし地味な政策のこともあったがドラマのような展開に興味をもった。
それは架空のものでなく現実に起きたドラマだったのである。
ドラマッチックでありその構図がわかりやすかったのである。
ただネットしない人はわかりにくかったろう。今回は2chでも相当に力を発揮したのだろうか?
現実の選挙の票に政局に作用したのかとなる、結果的にはそうなっているがそれがネットの影響なのかどうかはわからない。
ただ今回は新聞とかテレビがさほど影響せず週刊誌とネットが選挙に影響したのかとなる民主主義が機能するにはやはり報道の影響が大きい、知らされなければ知り得ようがないからである。
ともかく権力が交代するときやはり時代が変わる、政治も変わる、石原一族の時代は終わったというのは確かだろ。

posted by 天華 at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

真野川のダムの水は安全なのか? (環境省の人が水を検査していた)


真野川のダムの水は安全なのか?


(環境省の人が 水を検査していた)


真野川でまた水質検査していた、今回は環境省から来ていた。

「放射性物質は泥につくといいますが」
「そうですね、泥につくから泥とともに雨などふると流れやすいです」
「心配なのは真野川の大倉のダムです,あそこにの底にセシウムなどの放射性物質が泥に付着してたまっていると思うんですが・・・
「泥に付着してたまっていると沈殿していると水にまざらないですよ」
「真野川のダムの水を飲んでいるのですが大丈夫なのかな」
「水道水は濾過するし放射性物質はまざらないと思いますよ」
「この辺では自分もそうですが飲料水としては水道水は飲んでいないですよ」

飯館村があれだけ放射線量が高かったのだから真野ダムも高いはずである。なぜなら真野ダムには雨などで流れた放射性物質が蓄積されているからだ。
だから真野ダムの水を利用している人は不安なのである。泥に沈殿しているしてもやはりその泥の粒が水とまじるからである。
だから泥とともに下流に流されてくるのである。

真野川の河口でシジミとかアサリとって売っていると聞いたが本当に大丈夫なのだろうかつまり河口には雨などで泥とともにながされてきた放射性物質が一番たまりやすいのである、それで阿武隈川の河口が異常に放射線量が高くなっていたのである。
検査して売ってまでいるというのもどうなかなとも思う
ただ気にしない人は気にしない、老人はほとんど気にしない、松川浦では貝でもなんでもとって食べていたと老人が言っていたからだ。

いづれにしろその人は環境省の人でもそういう人は真実は教えない、何かこうして地元の人が聞いても前も県の人が来たがあなたは誰ですかとなり教えない、秘密にされているから国や県でも市ですら全面的に信じられないともなる
ただそうした行政と関係ない学者が調べたりすると真実がでてくる
これもまた御用学者が多いからどうしても真実がわからないのである。
科学の素人とかなると調べようもないのである。
そういうことはメデアが報道機関が発表する役目がある。
これもまた東電とかから金をもらっているからしないのである。
こうしてなかなか真実はわからないしそのことが秘密のベールにつつまれることが大きな事故のもとになるのである。
原発内部のことは常に隠蔽されてきたからである。

つまり民主主義は情報公開が必要だと言うときそうなる、東京都でも予算を透明化するというときそうである。政府とか東電とか会社の力が強いからメデアがなかなかそこに立ち入れないのである。
記者クラブは政府の御用クラブであり何の力もないという、ただ政府の言っていることを報道するだけの政府のスポークスマンになっているだけだという。
民主主義は報道の役割が大きいことは確かである。知らされなければ知り得ようがないからである。そうすれば判断もできないのである。
地元でも地元の報道機関が必要である。それは自分たちの郷土を自然を守るということでもある。土着的報道が必要なのである。
それが自分のプログの一つの役割でもあることにやっている内に思うようになった。
それはインターネットの報道が無料だからできたことなのである。
だからインターネットは民主主義を促進する

今回の都知事選挙はネットの方で情報公開して都議会の悪役をあぶりだした。
それはマスメデアではなかったのである。週刊誌も権力者の悪を暴いた。
新聞とかテレビには今回は権力をチェックすることができなかった。
ネットの方が時系列で追っていてわかりやすかったのである。
人間の仕事は何か果たす役割があって生れる、やはり地元のことは地元の人が一番影響受けるしここで生活するのだから真剣になる。
外から一時的に来た人とは違う、だからこそ放射能に汚染されたことは深刻だった。
水すら安全に飲めないということは最悪だったのである。
この辺では山では清水を利用していた、それが田舎に住んでいるメリットでもあった
そして今田舎の問題は人口減少になり人が減るとかえってインフラの負担があがる。
水道料金が人口が少ない所は負担がふえるのである。
二倍とかの料金の差が生れているのである。こうなると田舎に住んでいることは苦しくなる。収入も少ないのだから苦しくなる。
そうなると昔のように山の清水を利用したり井戸水を利用したりする方がいいともなる。ただトイレどうするかなどなかなか昔にはもどりにくいのである。
それでも田舎暮らしでかえって都会よりコストがかかるとなると住みずらなくなるとますます人が減ってしまう。

自分は都会向きではない、年とったら人ごみを歩くのも嫌になった。満員電車なども嫌である。でも矛盾しているのは文明的な贅沢な生活を田舎でもしている。
そのために原発も金を生むものとして地元では賛成だった。
インフラに金がかかるんだから田舎は田舎で昔のように自給自足のような生活をしろというときこれも相当に抵抗がありできない、実際に今もクラーをしてこの文章を書いているからである。ただそうはいっても何らかこういう状態になると人間の生活を見直すことは必要である。極端に昔の自給自足生活に帰れというのはではない、何かそこに工夫した生活があるはずなのである。
ただソーラパネルだ植物工場だと言ってもなかなかうまくいかない面がある。
技術というのは否定でとない、だから技術の進歩があってかえって自然と調和できる生活がありうるともなる。だから技術の進歩は否定できないが原発は危険すぎたのである。

タグ:真野ダム
posted by 天華 at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年08月02日

月見草の原野と化した南相馬市の一部


月見草の原野と化した南相馬市の一部

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雉子と烏

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小屋があり畑があるが隠されている

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鬼百合や野原に雉子に烏かな

鬼百合や一代築く女かな

鬼百合や新しき家また建ちぬ

百輪のノウゼン散りてなお散りぬ

農家なれ敷地の広く芙蓉かな


ひまわりや原町広く回る道夕日の熱く照らしけるかな

黒揚羽舞い入る一羽狭き庭石ありひそか我がこもるかな

ラベンダー匂えるこの道今日もよる何かあれかし明日また来なむ

小屋一つ畑にありて月見草広がる野にうもれけるかな


この辺は原野と田畑がまじりあっている。田んぼが確かに増えたが畑はまだ増えない
そこが原野化している、今の季節だと月見草の原っぱになっている。
原野化すると月見草の原になる。
そして必ず雉子をみかける、原野化すると雉子など野生の生物は住みやすくなりふえる。津波から原発事故以後の風景は本当に変わり不思議だとなる
飯館村とか未だに避難区域になったところは野生生物の楽園になったというのもわかる
それはチェルノブエリと同じである。
自然がかえって生き生きとしておおってしまう、これほど月見草におおわれているのも不思議だとなる

さらに大正の末期に渡来したのは「コマツヨイグサ(小待宵草)」と「ヒルザキツキミソウ(昼咲き月見草)」だ。「昼」に「月見」とは変だが、月は昼間に出ることもあるから間違いではない。

江戸時代に園芸植物として入ったとありそんなに野原に増えないとあるが実際見ると空き地とかは月見草におおわれる。最初に入ったのがでが月見草だとするとき月にふさわしいとなる、普通は待宵草である。これでも宵となっているから夕方に咲く花だとなる

花というのはいろいろな場面でそれにふさわしいものがイメージできる。
原町は広い、家も多い、前は5万だったからそうなる、土地も広いのである。
ロードで裏の方を昨日は回った。そしたら家があり畑がある所に大きなひまわりが咲いていた。原町は広いから何かこの大きなひまわりがあっているのだ。
相馬市は城跡があり城下町であり中村神社に古い藤の木があり藤がにあっている。
鹿島となるとなんか月見草がにあっているかもしれない、なんか暑くて日差しが強いので遠くに行けなかった、ロードは倍速になるから走るのに気持ちがいいが買い物には向いていない。

小池の方に行ったらまた家が増えていた、一区画が街のようになっている。
そこは海老とか烏崎とか右田の人たちが建てた,敷地が広く家も大きいのである。
それで気になるのが家の値段である。土地でも百坪以上軽くあるからそれだけでもかなりになる、それにあれだけの大きい家となるとかなりの値段になる
最低でも5千万はするだろう。それでも建てられないだろう。
だから不思議なのはそんなにみんな金があったのかということである。
ただなんらかの補償金があり建てたということも考えられる、石巻辺りでも特別な保険金がおりて一億もらった人もいるというからだ。
一県に500万は援助されている。それでここと同じようにパチンコで遊んでいるというのも同じだった。
海老の人は借金して建てたというからみんながそんなに金あって建てたとも思えないのである。

自分の家は姉と母が建てた、姉は気丈夫な女性でまさに鬼百合だった。強い男でも話するとき怖がっていたのである。まずものおじしない、男も怖がるくらい迫力があったのである。だから認知症になったときこんなに強い人がこんなに弱くなるのかと今でも信じられないのである。だからこそ一代で家を建て材を築いたともなる、母もいたが母は補助であり裏方だった。
人間はなにか急速に栄えても見る影もなくある時急激に衰退する、それは一個人でもい一族郎党でもそうである。石原一族はあれだけ全盛だったがたちまち石原慎太郎もボケたなとかこきおろされる,あの人も迫力あり強い人だったが突然見る影もなく衰える
もう誰も耳を貸さないとまでなる、そのように人間が移り変わりが早いのである。

月見草におおわれたなかに一軒の小屋がある。畑があり野菜を作っている女性がいる。
農業は毎日草むしりである。これは最大の労働である。次から次とってもとっても草が生えてくるのだ。「夏草や兵ものどもが夢の跡ー芭蕉」日本はまさに雑草の国である。
草がとってもとっても生えてくるのだ。
農業は労働の割りに合わないというのはやってみればわかるとなる
農家の人さえ買った方がいいとなる、キュウリが十本で百円くらいだった。
実際このように大量に作らない限り商売にはならない。
あそこでは野菜でもネギ二三本しかもらっていない、一つくるのに十倍の金も労力もかかっている、ではなんのためにやっているのか?趣味であり農業が好きだからとなる
あの小屋の回りがぼうぼうの月見草の原野になって畑を放置したのももうそれだけの労力を費やすのをあきらめた人が多いためである。
金あれば買った方がいいとなってしまっているのである。

そして田舎では畑でもともかく回りがうるさいのである。何やかにや畑仕事しても干渉する、それは町からちょっと離れた所でも農家が多いと四六時中監視されているのである。これが田舎の嫌な点である。でも東京都議会が村社会のいじめをしていたというのも田舎よりひどいというからこれはどこでも日本なら同じなのだろう。
日本社会がいじめ社会なのは大人がそうであり社会自体は村八分とかありそれは狭い土地で細々と生きてきたからである。農業には商人のような豪快なものが生れないのである。
ともかく月見草の原に埋もれてそうした人間関係を忘れるのがいいともなる
月見草というのは他でも原っぱに広がり咲くの見た。一面に咲くということはある。
その月見草に埋もれて眠るとなれば気持ちいいとなる。

新しく小池に建った家の敷地は広いから前のように悠々としている。
田舎は特に農家はそうなっていてそこで何かしら仕事をしていたのである。
だからあのように広い敷地と家を建てた人はいいなと見ていた。
近くで復興団地に入った老人がいて嫌だというのがわかる
その差は大きい、窮屈になる、閉じ込められたような気分になるだろう。
家を建てられた人と建てない人の差は復興でも大きかったとなる



月見草
タグ:月見草

2016年08月03日

丸森から古いものを探しに来た人 (自分の家が店屋だったときのガラスケースと母の記憶)


丸森から古いものを探しに来た人


(自分の家が店屋だったときのガラスケースと母の記憶)


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これだった、8000円くらいで売っていた。



今日は丸森から古いものありませんかと家に入って来た者があった。
最初に言ったのが鉄瓶ないかということだった。
鉄瓶はあったがどこにあるかわからないと家捜したのである。
とにかく古いものがほしいということだった。
その人に投げたい古いタンスがあると言ったらそれをひきとるという
自分はその古いタンスを捨てるのに困っていたのである。
その人は家の中を探して見つけたのが自分の家で駄菓子屋のようなものをしていたときのガラスのケースだった
このケースはばら売りするための菓子などを入れていたのである。
戦後すぐは物がなく袋で売っていない、飴なども一つ一つ売っていたのである。
江戸時代に飴屋が飴売りがいたのと同じである。
親は子供に飴玉買ってこいと5円とかもたされて近くの駄菓子屋に行かされた
戦前からまもなく江戸時代でも商売はバラ売りであり、一個一個売っていた。
酒でも樽から一合とか買っていたのである。
金がないからその日暮らしというときそういう生活だった。
貯金をしている人はまれである。第一銀行がない時代すらあった
それは大正時代ではそうだった。銀行が田舎にはなかったのである。
銀行があるのは盛岡の煉瓦の銀行が有名なように都会だけだったのである。


それからその人は刀ないかとが探した、この家は古い家ではないからないと言った
野馬追いに出るような家ならあるだろう、蔵があるような家ならあるだろう。
柱時計がないかとも探していた。それはいつも家の中にあったがなくなっていた。
いろいろ探したがもってゆくようなものはない、なんでも茶碗を見せたら古く見せることができるという、古いものがとにかく価値があるということである。
骨董品屋なのか,丸森にそんな店があるのか?あそこは仙台の人が来たりしているかもしれない。なんか図々しいが古いタンスを投げるのに困っていたから助かったと思い歓迎したのである。
ただ失敗したのはばら売りの菓子などを入れていたケースをもっていかれたことである。それは母が駄菓子屋をしていたとき使っていたものだからである。
母は毎日店でこまめに働いていた。ただ自分は店が嫌だった。
食事しているとき必ずお客さんが来て立って店にでていたから満足にご飯が食べられないほどだった、そのことが一番嫌だったし親となにか遊んだこともない、遠くに遊びに連れていってもらったこともないことが嫌だった。
だから親子とかで楽しんだ記憶がないのである。
母はただ働くだけでありそれしかない、スーパーが近くにできたとき店ははやらなくなった。それでも80くらいまで細々と店をしていた。ほとんどもうけはなくなっていてもしていたのである。そしてそれから売れない売れないと毎日なげていた。
それも嫌だった。母は性格的に細かいし貧乏性でありおおらかさがなかった。
それは自分の性格にもなっている。やせている人は性格的におおらかさにかけるのである

その人か古いものないかというとき古いものにはすでに単なる物ではなく思い出が記憶がつまっている、人間が死ぬと残るのはその人が使っていた物であり人間そのものは何も残らない、だから駄菓子屋をしていたときのあのガラスケースが貴重なもののように見えたそれに他の人はどうであれ自分の家にとって価値あるものだった。
それを見たとき自分の家で店でこまめに働いていた母を思い出したのである。
つまりそういうふうに物は最後は記憶するものとして残っているのだ。
その記憶されたものに価値がある。要するに何度も書いているけど人間が最後に残るのは記憶なのである。記憶は物として具体的に残るから古い物に価値がある。
その物には過去の記憶が重いものとして残されていたのである。
今や自分の家で店やっていたなどわからなくなっている、何か一軒一軒の家にはそうした記憶が残されている

なんか近くの古い医院の家が残っていたけど家そのものが記憶とてし残っている感じにもなる。それは街の記憶でもある。それが取り壊されると記憶も失われるだろう。
家自体が記憶なのである。だから奇妙なのは原発事故で人が住まなくなった家は何か遺跡のように見えたのである。そこで生活したものの記憶が家に残されているのである。
人間は以外とその時その時生きていてもそれがみんな記憶になり思い出になることを意識しないのである。人間は生きているのだけどその生きていることの貴重さを意識できないのである。人と出会ったとしてもその出会いが貴重なことを意識できない
でも最後になると老人になるともう二度と合わないということを意識させられるのであるただ何でもないものでもそこにあるものが貴重に見えてくる、そして人間はつくづく時間を無駄に使ったなとみんな後悔しているのである。

ただ正直物がありすぎるのも困る、断捨離というのがはやりだけど本当に最後は物はなければない方がすっきりして身が軽くなっていい。もう物がいらなくなる。
物が負担になるのである。みんな最後は80過ぎたりしたら何もいらないと言っている。
物がいらなくなる、かえって負担になる。なんか家すらあるのが重荷になる。
大きい家になると掃除であれかたずけるにしても負担なのである。
土地すらもっていることも負担になるだろう、死ぬ時は何もいらないとなる
家であれ土地でも金でも死ぬときはもっていけないからである。
それで天に宝を積めというときそうしたこの世の土地とか家とか金でもないとなる
この世の宝は死ぬときになるといらないとなるからだ。
ただはっきりいってこれを理解することは若いときでもさらに年とっても最高にむずかしいだろう。年取っても欲望は消えないからである。

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。
−マタイによる福音書 6:19-21

みんな物を蓄え金を蓄え富を蓄えようとしている。それはそれで否定はできない、でも最後には凡人でも悟る、なんにもいらないとほとんどの人が言うからである。
ただそれを若いときから悟るのは至難だとなる
年取っても金をいらないという人はいないのである。
要するに最後に残るのは記憶でありそれは物ではないから金でもないから奪われないとなる、最後に残ったものは記憶でありそれをたずさえて天国にも地獄にも行く
その土地でも家でも物でも何ももってはいけないからである。

そのガラスのケースは遠い日の記憶
菓子をばら売りして入れていたケース
母はこまめに働き売っていた
しかし今そのことを記憶している人があるだろうか
世は常に変わりそんな店のことは忘れられる
一軒一軒の家には何かしらそうした記憶があり
その記憶が街の歴史でもある
昔の日は二度ともどってこない
そのガラスのケースはただ今重く昔を語る
新聞紙をのりづけして袋を作り
ここで母が菓子をばら売りしていたことを

その頃袋がなくて新聞紙で袋を毎日作っていたのである。今思い出すと不思議に思う。それは相当な手間である。袋詰めすることは手間である。今ならみんな袋詰めされているからである。だから暇なく働いていたとなる。
ただ自分はそういう生活は嫌だった。自分はもともと商売にも向いていなかった。
母も実際は向いていなかったのである。ただここで店をしていたことがあったということ自体やがて忘れられる、それは一つの歴史が忘れられることかもしれない
そういう一軒一軒に歴史があるからだ。それで浪江の赤生木(あこうぎ)ではその一軒一軒の家の歴史を記録しようとしていることがいたということもわかる。
なぜなら村自体が消えてしまうからである。そしたらそういう歴史と記憶も消えてしまうそれは津波で村自体が消失したということでもそうなった。
村自体が消えて記憶も歴史も喪失してしまったのである。



神田のうたR「本郷弓町駄菓子屋懐古」(3)宝袋

さて、親からもらう小遣は五円か十円で、夏休みは五十円。二宮尊徳の一円札や国会議事堂の十円札、それに板垣退助の五十銭札が流通していた時代である。まだアルミの一円玉はなく、十円硬貨が出始めた頃だ

五円十円で買うものだった。二宮尊徳の一円札などあったの?こういうふうに過去の記憶を詳細に覚えて書いている人がいる。インターネットではそういう点で便利である。
戦前になると五銭屋とかあったから五銭が基準だったのだろう。


タグ:駄菓子屋
posted by 天華 at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2016年08月04日

金に人々の感情がこもりカルマとなる (親の因果は子に報うはさけられないカルマである。)


金に人々の感情がこもりカルマとなる


(親の因果は子に報いはさけられないカルマである。)

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金にも色がある、ただ同じ一万なのだからそれを見分けることができない
笑っている一万なのか、悲しんでいる一万なのか?



相続、保険、土地や不動産の売却など、まとまったお金が入ってくる時、とくに注意が必要です。

過去にそのお金を支払った人、受け取った人、貯めた人のネガティブなカルマが、お金と一緒にまとめて流れてくる可能性があるからです

Aさんは、生命保険の受取人になっていた為、先日、保険会社から、少しまとまったお金が振り込まれました。

同じ時期、飼っていた犬が病気になり、娘さんが、階段から転んで骨折するという出来事が起こりました。

宝くじで1億円手に入れる為には、
宝くじを購入して外れた人達のネガティブな感情の総和、
おそらく何十億円分のネガティブな感情が流れてきても

ここのプログでは金のことをカルマで説明しているからわかりやすい。カルマというときいろいろ複雑でわかりにくいのである。
でも金の貸し借りとかなると具体的にカルマが関係していることがわかる
百円にも百円のカルマとなって現れる。
人生はカルマから読み解くと何か複雑な不可解な人生が解かれるような気分になることは確かなのである。
人間には何か不可解なことが多すぎるからだ。

ではなぜそうなるのかととうときその明確な答えがないのである。
いろいろな事件が毎日のように起きている,ではなぜその人が犯罪にあうのか?
なぜ殺されたりするのだろうか?そんなことが偶然に起きるのか?
この世に起きることは偶然なのかという深刻な問題がある。
このカルマを考えるようになったのは自分に起きたことからである。
なぜこんな苦しみにあうのだろうかということで悩んだからである。
十年間自分に起きたことをプログで書いてきたけど本当になぜ自分がこんな苦しみ合わねばならなかったのか問いつづけたのである。

その大きな原因が親の因果が子に報いであった。カルマはどんなことしても親と密接かかわる。親の因果が子に報いるというのはさけられない。
いい面も悪い面も受ける、その悪い面を受けたためにこれほど自分は苦しんだのである。ここに書いてあるようにまとまった金が遺産として入ってきたときから問題が起きた。
親が残した金がどういうものだったのか問題になる。
人を苦しめて残した金にはその苦しめた人たちのネガティブなマイナスの感情がその金についている。ブラック会社で働かしてもうけたような人たちがそうである。
半年も飲食店で働いたのに給料をもらいなかったとするとそのもらえなかった人の怒りは大きかった。その感情がその店にカルマとしてのしかかる。
だからそういう店が会社がとても長く繁盛するように思えないのである。
一方で従業員と会社の社長でも幹部でも一致協力して働くような場合は繁盛する

自分が家族の二人の介護から死までに様々な苦難を味わったのはなぜだったのか?
それは親のカルマをいい面と悪い面でひきついだからである。
こういうときやはり大きな事件が起きるというのもそうだった。
何か大きな金、遺産相続のような時にカルマが具体的に現れるからである。
別に自分の家に残された金はブラック企業でもうけたようなものではなかった。
こつこつ働いて残されたものではある。ただ一方で一人は公務員であり公務員は何かと金では得したということがあった。
そういう金が遺産で入ってきたのである。そこでその金をめぐって大金を盗まれたとか借金を要求されたとか起きた、今でもやはりその金のことで問題は継続しているのである。金には確かにネガティブな感情のこもったものとポジティブな感情の籠もったものがあるということを解説している。ただ金というのは本当に人間関係の中で複雑なのである。

テレビのドラマで浪人が遊女が病気になり見受けするとかで5両を借りて支払った
その浪人には金はなく用心棒となり殺人まで請け負ったのである。
その殺人を請け負った者は悪い奴だった。でも5両をもらったから裏切ることができなかった。それで5両を他からもらったときそれを返して悪人を征伐した。
そもそも人間は金もないのに人を助けることなどできないのだからするべきではないという見方もある。一方でそれがどんな金でも人を助けたからいいではないかという意見もある。このことだっていかに金にまつわることが複雑になっているかわかる
ネガティブな感情のこもった金は受け取らない方がいいというときその金を受け取ることにより災いを生むからである。
遺産にはそういうことが具体的に現れやすいのである。
自分したわけではないが親がそうして受け取った金があったときそれは必ず子に報える
親の因果が子に報うになることは確かなのである。親のカルマを具体的に金で受けるのである。
だからカルマ論からすれば人に起きることはカルマから解けば何か納得するのである。
ただ例外もあり不可解なものがありすべては解けない、それは人間の限界なのである。
神がなんらかでかかわっているということもあるからだ。

金はだから簡単に遺産でも本当は受け取ることは危険がある。何か濡れて粟のように受け取る金にはネガティブな感情があり危険だとなる、その金で災いが起きてくるという怖さが現実にあるし経験している人は多いのである。
この世の中のことを金をめぐって起きることがほとんである。これだけははっきりしている。ということは金について無知でいることもできないし金にどう対処するのかを知らないとひどい目にあうとういことである。
自分は否が応でもそれを身をもって体験させられた、苦しみを受けたからである。
遺産として入った金はそれほど大きくなくてもなんらかそういうネガティブなものがあったのだろう。それで奪われたり借金を要求されたりしたのである。

事業に失敗したような多額の借金をした人がなぜ自分の家の親戚だったのかともなる。
そんな人は助けようも何もできない、毎日パチンコ屋で働いて奴隷化されるていた人が
何もできない、そんな人ばかり来たということが親の因果が子に報いだともなる
そしてまこの辺で起きたことは津波であれ原発事故であれこれもカルマだった。
原発事故の補償金でもめて南相馬市では分裂した、一見暇なのだからパチンコしてもいいではないかという意見もある。
でもその人たちは避難してきたけどその避難した人でも自分でも苦しんでいた人がいたのである。
でも避難民だけが何でも優先になりかわいそうだかわいそうだと外から援助されていたのである。
もちろん避難民でも津波の被害者とか原発事故の被害者とかいろいろいる。
その事情は違っているからいちがいには言えない
でも避難した人たちのみがかわいそうだとか援助されるべきだということが余りにも強く主張されたのである。別に仮設でもかえって長屋のように親しくなり悪いものではなかったという人もいるからである。そのことで南相馬市は感情的しこりが残ったのである。
つまりここでも金が何でもいいものとして働くとは限らない、その金に感情がこもるからだとなる
もしその金でもうまく配分できればこうはならなかった、でも補償するにも限度があるからとてもみんなが満足するとはならなかったのである。


金を使うというとき国のレベルでも使うときオリンピックでもそんなに金を使っていいのかということで東京都知事選挙があり問題になった。
本当にそもそもオリンピックを開くことを国民が心から賛成しているのか?民意なのかというと疑問なのである。オリンピックに関心がないというのが50パーセントもいるからだこれは前の東京オリンピックとは心情的に違ったものとなっているのだ。
オリンピックはゼネコンとか都議会の議員やスポーツ関係の会社の宣伝の場だとか利権化している。その金をめぐってもネガティブな感情が強くなっている
だからこそ金の問題が大きくクローズアップされている、他にいくらでも金は使う所があるということである。そういう金に対する感情を問題にすべきなのである。
国民が心から賛同しないものに金を使うべきではないのである。
オリンピックはただ会社とか議員とか官僚やマスコミの利権となっているから賛同できないのである。

いづれにしろ宝くじであたったような人ははずれた人がその十万倍もいるとしたらその十万人のネガティブな感情を受けることになる、なんであいつだけあたったのだとなるからだ。それで宝くじにあたった人は災いが起きるというのもそのためである。
政治の場でも巨額の金が動くがそれは国民の税金でありサラリーマンにしたらどういう気持ちでその税金を払っているかとなる。わずかな給料から税金をひかれる気持ちを知らないとその税金を無駄に使うとなると政治家も官僚も許されない
金というのがどういうふうにして得て使うということが一番の日々の生活で問題になっているのである。
だから金は金としていちいちそれがどんな金なのかどんな感情がこもっているかなど詮索しない感じないということも問題なのである。
金というのはだからグローバル経済になると今度は世界的に金がどういう金なのか問題になる、世界の富を数パーセントの金持ちがもっていること自体、どれだけ世界から搾取して得た金なのか?それを放置していたら搾取された人が黙ってはいない、反乱になりそうした金持ちは革命で殺されるまでになる。
金にはそういう怖さがある。金があればいいというのはわかるが何かそうした金にまつわるものを感じないということは危険なのである。
結果的にその金をめぐってカルマがめぐり自分でもそうだが苦しみを受けることは確かなのである。





タグ:金のカルマ

2016年08月05日

猛暑(復興住宅)

猛暑(復興住宅)


急ぎ建つ復興住宅や蝉の声

建てつづく復興住宅や猛暑かな

ひまわりや新築の家に子供いる


異常な暑さだった、なんかクーラーかけると眠くなる、暑いと眠くなる
プログは実況中継なのである。毎日復興住宅が建つの見ている
二週間で建つというけど結構時間がかかっている

この暑いのに良く仕事できるなと思う、家が建つ過程を見ていると苦労して建てているなというのを実感する、でも建て売りだとできたものを買うから感じない
この猛暑の時に建てていたというのを見ればありがたいと思うだろう

ともかくあの辺は別な街ができた、ここが同じ街とは思えない
それほど家が建ったのである。
シシドスーパーも建ってあの辺は一つの大きな街になっているのだ。

今日は暑さでぐったりした。ただそれだけだったとなる
タグ:猛暑

2016年08月07日

借金している人の怖さ (弱みにつけこまれ借金を要求される)



借金している人の怖さ


(弱みにつけこまれ借金を要求される)


今までの古い考え方や価値観、生活様式など、それに固執しているとなかなか借金問題の確信にせまる事は出来ません。要するに、今までの自分を手放せずにいるんです。



自分が借金に苦しんだわけではない、他人の借金に苦しみ借金を考えるようになった。
人間はかわいそうな人には同情すべきだということを盛んに言う。
では本当に同情すべき人なのか?何に同情すべきなのかわからないことが多い
この辺で起きたことがそうだった、津波の被害にあった人でも家族を亡くした人、家を亡くした人、原発事故で避難してきた人、それぞれ事情が違っていた。
一番わかりやすいのは津波の被害者だった。原発事故の避難者は最初は同情したけどあとからあんなに補償金もらっていたのと見方が変わった
なぜなら自分もその時、病気だ介護だと苦しんでいたからである。
原発の避難者だけが特別かわいそうだと同情されたけど避難してきた回りの人も苦しんでいた人はいたが同情もされなかったのである。

普通は家族で苦しんでいても同情はされないし放置されているのである。
だから同情するというとき相手が本当に同情されるべきものなのか?
かえって原発避難者は毎日パチンコだ、風俗とかまで遠くに遊んでいた人が全部ではないにしろいたのである。そんな人が同情されるべきだったのかとなる。
むしろ補償金で金がたまって喜んでいた人も多いのである。それは普通は手にしない大金をもらったからである。
そんなに同情するなら避難してきた回りの人たちにも目を向けてくれたらいいだろうとも思った。そして最初の二年くらいは何かわからないからしかたないにしろなぜ回りの人にも避難者自体が遊んでいるのだから目を向けないのかと今では思う
自分も同情されるべきだったが全く同情されない、介護とかで苦しんでいる人はそんな家族でやれしかないのである。

自分の親戚の人は前の代から関係があった。病気の時世話したこともあった。だから恩義を感じて何もしないということでない多少は助けてくれた。そのことには感謝しているし金としてお礼もした
しかしその人はどのくらいの借金をしているかわからない、事業をしていたのだからその額は大きいだろう、でも借金というとき500万以下が多くそれでも月に5,6万とか利子を払い続けて5年くらいかかるというときそれは相当な負担である。
だから借金は割に合わないことなのである。
それでもあえて借金するのはやむにやまれぬことがあるのだろう
第一病気になったりしたどうにもならないしそういう事情を知ればその借金でもそういうことかと同情する

問題は借金した事情にある、その人は普通の人より贅沢していた、なぜなら自分は事業で成功していたと外にも言っていたし家族に言っていたし家族すら借金していることを知らなかったのである。そして確かにむずかしい一級の免許をもっていたからあの人は頭のいい人として回りを見ていたのである。そして見栄を張る生活をしていた。
そういうふうに回りから頭がいいとか事業の成功者だとか見られていたがその内実は借金でやりくりしていたのである。
だから借金を解決するにまずこの人は解決できない、自分は頭がいい成功者でありそれも世間に認められている、とても事業の失敗者だとなるわけにはいかない、それをとりつくろうために借金していたのである。
それも別に自分と関係ないならいい、自分がそのために苦しんだからこうして自分を苦しめたものへの怒りともなる。

なぜなら病気と介護の時、恐喝まがいのことをされてきたからである。
病院に入院するのに保証人が必要だとかいろいろなものが自分に兄弟もないからそうなった。それをいいことに弱みにつけこんで借金をしようとしてきたのである。
その額も十万とかなら何も言わない、軽く百万からさらに大きくなる、それは限度がなくなる、一千万でもそれ以上要求するだろう。
事業している人の借金は大きいからである。ただ自分は弱みをもっていたから何も言えなかった。その人の親の代では自分の家ではかなり世話したのである
そのことはもう関係なくなっていた。
第一そんなことより借金している人に恩返すとか何か同情するとか余裕がないのである。いかにして借金を返すしか頭になくなる、それで推理ドラマでは必ず犯罪の動機が借金である。借金があるかどうか調べるのである。
借金していること自体すでに犯罪者になっているのである。
それが借金の恐ろしさである。

だからこそ相手のことなどかまわない、この際弱みにつけこんで借金を要求すれば通るとなる、それで自分は恐怖して手を切ろうとしたが病気のこともありできなかった。
ただ相手は全くそんなことを感じていない、借金のことが頭が一杯であり他人のことなど考える余裕もないのである。借金した人には恩も義理もなにもなくなる、モラルが崩壊するから怖いのである。
意外と人間は弱者のことがわからないのである。もちろん相手も借金しているのだから弱者だった。大金を盗まれたとことも相手が追い詰められていたからだともなる。
弱者が弱者を襲うというとき襲い安いからである。相手が健康で強面の人だったら簡単にできない、あとが怖いとなるからである。
弱者は襲い安いから弱者が弱者を襲う犯罪が多いのである。

その人は実際はプログで書いていた人のように借金は返せるのだが返せない
なぜならそもそもの生活を変えないからである。自分は頭が良くて事業も成功している
それも世間に認められている、それを維持する生活を変えない、同じように見栄を張る生活をしている、車もいい車を使っているとかなる
節約することもない、でも現実はパチンコ屋で妻が働いているとかそれなり過酷だとなるしそういう生活がつづくのかとなる、いづれはそんなことをしていたら破綻するだろう。そういうことは自分たちだけの問題ならいい、回りの人に借金を要求して迷惑をかける
そんな見栄を維持するために金を貸す方もやりきれないんとなるだろう。
だからその人には金を貸すべきではないのである。ただ自分は弱みをにつけこまれたらしかたなかったとなる

要するにこういう人には何を言っても無駄なのだろう。現実でしか理解できないのである借金取りが家におしかけるとか家までとられるとか何か極端なことにならないかぎり理解しない、できないのである。
また誰からか借金すればいいくらいにしか考えないからである。
そして相手の弱みにつけ込むような奴だからそんな奴とつきあっていることは危険になるし一緒に事業をするのも危険だと思う。
そもそもその人は頭がいいとして事業者としてふさわしくない人だったのである。
自分の家の因縁としてなぜか母方も事業に失敗して一家離散になり辛酸をなめた。
父方も二つの家の親戚も事業に失敗した。
そういうカルマがあるのか?それとも二十人一人しか事業に成功しないというときそれだけ事業に失敗する人が多いということなのか?

いづれにしろカルマは実際に現実として現れないかぎり自覚できない、何でこんなに苦しむのだと言うときカルマを考える、何もなければ考えないのである。
人はともかくこうして弱者の時に苦しめられたことは忘れることはできないのである。
それで間違っていても反日がやまないのはそのためである。
こういう恨みは深く潜行して晴れることがないのである。
ただ自分は世間知らずでありそれが世間だと言うことを今ころ知ったともなる
人間の現実はあらゆるものがブラックなのである。
それは利益とかかわり金とかかわりブラックと化してゆく、それはどこでも起きている問題である。


人間は直接被害を受けない限り他者のことを真剣に考えない
犯罪でも毎日起きているけど自分に被害なければ他人ごとになる
でも一旦自分の身に及んだらはそうはならない
相手のことを真剣に考えるようになる
例えば北朝鮮からのミサイルが日本海に落ちているうちはいい、現実に日本の国内に落ちたら北朝鮮はもうをとでもいいとはならない
北朝鮮のことを深刻に考えて対処するようになる
直接被害者になるとき人間は相手のことを真剣に考える
北朝鮮が挑発しているのはそのためだという人もいる
「俺たちのことを忘れてくれるなよ、お前らに被害を及ぶことをな」
犯罪者にも同じような主張がある、犯罪によって自分の存在を知らしめるということである。それが例え間違っていてもそうなのである
でなければ世間は無関心だからである。テロもそうして関心を引くために起きているのである。

タグ:借金

2016年08月08日

オリンピックは必要なのか? (巨大利権化したオリンピックは腐敗している)


オリンピックは必要なのか?


(巨大利権化したオリンピックは腐敗している)


リオオリンピックの柔道を見ていた。そこで不思議だったのはオリンピックにはどこかの国に所属していないと出れない、それで小さな国の国籍を借りてというか出ていた人がいたのである。世界にはそういう事情の人もいる。一時的にそうなっていたかである。
オリンピックは今なんのためにやるのか明確ではない、参加することに意義があるなど思って参加している国も人もいない、メダルとるためにしかありえないのが現実である。
そして国威高揚のためにある。その国威高揚に一番効果あるのが国家が金メダルと演奏されることである。水泳で金メダルとったから君が代が演奏された。その時は日本人の誇りというか日本国への愛国心が湧いてくる、なかなか今はグローバル化しても日本国を感じる場面がない、戦前は絶えず日本国が過剰に意識されていた。
それが敗戦になったらその逆になってしまった。日本の国を意識させないようにしているのである。だから愛国心をもたない国にもなっている。
オリンピックが平和の祭典というのも違う。オリンピックしても世界はやはり紛争があり戦争がありテロがあり解決しない、オリンピックは平和とはほとんど関係ない、ただのスポーツの祭典なのである。
そしてここでも利益を得るためのものとしてオリンピックが腐敗したので

この祖国での優勝者への過剰な褒章が、逆に大祭の腐敗を生んだ。祖国が優勝者に支払う報奨金は跳ね上がり、褒章欲しさに、不正を働くもの、審判を買収するものが出て、オリュンピア大祭は腐敗した。買収を行ったものと応じたものは以後の大祭から追放されるだけでなく、多額の罰金が科せられた。

東京オリンピックの誘致にすでに200億円かかったとか莫大な金にふくらむことで東京都知事選挙の争点にもなった。
そんなに金をかけてオリンピックをする意義があるのか?そういう疑問である。
前の東京オリンピックとはまた事情が違ってきたからである。
あの時は高度成長時代であり日本が世界の経済大国となってゆく時でありオリンピックはその国威高揚としてふさわしかったのである。
それからオリンピックは世界で継続されたが果たして本当にオリンピックは今や必要なのかという疑問がある。
オリンピックは公共事業としてテレビの電通の利権としてフランスで取り上げられたように巨額の金が流れるのである。企業の宣伝としても選手もでている。
純粋な心体技を競うスポーツの祭典ではない、国威をかけた巨大な利権の場と化しているのである。
勝つために何でもするようになる、ロシアの国ぐるみのドーピング問題でもそうである。それはギリシャのオリンピックでもそうなって腐敗していたらである。

●国威高揚

●心体技の競争

●スポーツを通じての世界の友好

オリンピックは国威高揚は欠かせない、でも本来スポーツは別に国とそんなに関係しなくてもありえる。世界選手権になるとそんなに国とは関係しない。
スポーツ分野ごとにその技を競っているのである。アーチェリーだったらアーチェリーの技を競う、メンタル的なものだというときそういう精神面でも競っている。
見る方にするとそれを見ればあまり見れないからそういうスポーツもあると啓蒙されることは確かである。
高校野球でも福島県の聖光学園は有名だけど全国から野球好きな高校生を集めて勝っている、地元の高校生は一人か二人なのか?ほとんどいないというし東北では関西とかから来た甲子園に出たいと入った私立高校が強いから地元とは関係ないのである。
地元の代表ではないということはオリンピックで国の代表でないと同じなのである。
ただ野球好きなうまい人を集めているだけなのである。

スポーツにはそれぞれスポーツが目的とするものがある。柔道などは日本から生れたら日本の文化であり柔道を通じて心体技を磨くもの鍛練するものである。
それは「心の青雲」で常に説いていることだからプログを読めばわかりやすい、精神の鍛練として空手をしているのでありただ勝負事としてしているわけではないと言っている。人間は何をするにも精神性がなければ動物に陥る、スポーツにも文化的要素が必ずある。日本から生れた相撲でも武道でも文化的要素がある。
ただプロレスとかには何か体を筋肉だけをぶつけるもので精神性を感じないのである。

「心体技の競争」の競争なら別にオリンピックのような過剰な国威高揚はいらない、世界選手権でいいのである。オリンピックで世界の平和をになうというのも今は消えている
オリンピックしたからといって世界が平和になるということもない、これだけ世界の人々がまじりあうグローバル化社会では世界の人を集めることも必要ない
日常的に世界の人が混じり合う世界だからである。
残るのは別に国に関係なく人間としての心体技の競争である。
ある国がメダル何個とったとか異常にこだわるのも変なのである。国と国が競争するのではなく個々人が心と技を鍛練して戦うとなればオリンピックは必要ないのである。
オリンピックはかえってグローバル化社会では巨大な利権化してその本来の目的とは違ったものとなっている。

柔道を見ていても選手には悲壮感が漂っていた。どうしても勝たねばならないというフレッシャーを受けているからである。日本国のために勝たねばならないとしたらそうなる
でも世界の人々が国に関係なく心体技の競争というならそうはならないのである。
何かオリンピックは国と国の戦争なのである。勝ち負けに異常にこだわるのもそのためである。国と国が争い勝てば戦争のときのように喜び負けるとがっかりする。
勝てば日本人は優秀だとかなる、柔道でも今や何か知らない小さな国の人が参戦しているそれは競技人口が増えたからであり柔道が普及したからであり柔道は柔道でその心体技を競いばいいとなる
今やオリンピックの理念自体が当初のとは違ったものとなっている、時代に合わないものとなっている。だから改めるべきであり必要ないとまで世論的になる
日本だってオリンピックに興味がない人が50パーセンと多い、オリンピックに興味をもつものは推進させるのはその利権にかかわるものである。政治家でありゼネコンでありテレビでありそれらに主導されてオリンピックが推進させられる
国民としたらもっとほかのものに東北復興の方に持続的回すとか他の国民が要望するものに使うということである。国民が本当にオリンピックを望んでいるのかわからないからである。それが前の東京オリンピックとの大きな相違である。
前の東京オリンピックは国民みんなが望んだものだったからである。

posted by 天華 at 06:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年08月09日

暑さー鶏頭の花(詩)


暑さー鶏頭の花(詩)


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朝の蝉農家の人の朝仕事

土ならし土台を築く暑さかな

新築の家のあまたや夏の月

数十輪芙蓉になごみ合歓も咲く


今日も暑い、蒸し暑くはない、クーラーしていると横になるといつのまにか眠ってしまう何か暑いときクーラーの中は眠くなる、それでいろいすな夢を見る
津波の夢も見たし何かいつも旅行している夢を見る、要するにぐっすりと眠りが深くなっているのだ。暑すぎたり寒すぎると人間は眠くなるみたいだ。

土をブルドザーでならしまたは人の手でもしている、この辺では以前としてどこかで家を建てている、その人を見ていると暑いだろうなと思う
これは深く読めば土台を築くとは人生の土台を築くとも見れる
ただこうして家を土台から作るのを毎日見ていると家は土台を作るときから始まっているここは建て売りであり手きたものを買ったとき作る場面を見ていないとその家のありがたさを感じないのである。
考えてみると何か野菜でも何でもあらゆるものがあっても作る現場を見ているというものがほと:どない、ただ金を出せば物が買えるという消費社会は何か労働の尊さというか苦労が見えないのである。
そのことから物も大事にしないとかいろいろ問題が生れる
昔は物が作られる過程が見えた社会だったろう。
ものの価値は作られる過程を知るとわかるからである。

秋になるとお盆の頃、鶏頭だが今日買った、この鶏頭の赤さは不思議である。それは写真でも表現できない赤さである。すべて写真で表現できない
その独特の感じを表現できない、それは人間の心に通じているからである。
人間の心はすべて目に見えるものとして表現はできない
赤い花はいろいろあっても鶏頭の赤さは何か不思議である。


鶏頭

その赤さはなにぞ
内からにじみでる赤
人柄がにじみでるような赤
大地から湧く赤
誠実なる赤
死者となお交わり
そを仏前に添える

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死者は何も語らない、でも何もないものなのだろうか?
そうとも思えない、死者は何も語らなくてもこちらを生者を見ている
花を献げ供え物をして死者と交わる、今年は母の新盆なのである
なんか家族が二人死んで死者を思う、死んでからも死者を思う
そういうことが人間の繰り返しであった。生きていた人は死に死んだ人を想い
まだ自分も死んでゆくのが人間の生なのである。







タグ:鶏頭