2016年08月01日

小池百合子の勝利が物語るもの (週刊誌とネットが今回は大きな影響があったー石原家も崩壊?)


小池百合子の勝利が物語るもの


(週刊誌とネットが今回は大きな影響があったー石原家も崩壊?)


【石原家崩壊 東京都地方公務員汚職疑惑】 


都議会自民党が(警視庁と組んで?)石原の側近に濡れ衣を着せようとした以上 
 石原は地検特捜部に告発して福祉関係「癒着議員」の一掃に乗り出すべきだった。 
が、石原はそうはせず、都議会自民党の恫喝に屈して浜渦副知事を辞任させると決めた。 
 理由は息子だ。石原の三男・宏高はみずほ銀行を退職して 
  

 石原は現在、80歳。高齢にもかかわらず、政治家としての賞味期限を維持できたのはひとえに、首都東京の知事に長く君臨したからにほかならない。ほぼ1年ごとに首相が代わるという国政の混乱、特に民主党政権になって以降の外交・防衛政策の迷走が、アジアから右派と警戒される石原の存在感をいっそう際立たせたといっていいだろう。

 石原伸晃がずいぶんネットで批判されている。親の七光でボンクラだったとかこきおろされている。今回の都知事選挙でも小池百合子を親の慎太郎が厚化粧・・・とかで批判してかえって反感をかった。
それより政治は特に東京都は巨大な国並みの利権が得られる所である。
その影響が大きいからこれほどの騒ぎになった。
石原慎太郎は知事が長いから権力は腐敗するというように腐敗した。
マスコミも石原一家を批判しないのは権力をもっていたからだとなる

そして石原慎太郎は四男の絵でも都庁に飾るとか三男のでも銀行員でその利便を計るとか石原一族の利権を拡大することに勤めた。
石原氏が優秀な人でもそうして一族の私的利益を計ることは権力を拡大することはまた腐敗することである。
マスコミは権力をもっている者は団体は批判しない、ただ落ち目になるとみんなが批判すると批判する、東電だって広告費をもらっているのだから批判していない
でも事故のあとは批判している、今回も都知事選挙で石原伸晃がミスを犯して小池百合子に負けたから負け組を批判する
ただ権力に追従するだけであり民主主義の権力をチェックする機能を果たしていない
石原氏が知事で全盛のときはとても批判できない、その時もやはり責めるべきものがあったのだが責めないのである。ただ今回はその権力がそがれると追従して批判するのがマスコミである

ネットでは絶えず石原伸晃と都連の幹事長の内田を盛んに批判していた。
このことはなかなかのみこめなかったがそれで興味をもった人は相当にいる
そんなことだったのかとネットで知ったのである。
そして選挙結果はネットで盛んに言っていたと同じだった、そして今やネットがテレビより影響が大きくなったという、ネットで騒いだことは現実社会では余り影響ないということがあったのが今度は違っていたのそれだけネットが普及したのかとなる

いづれにしろ中国並みに石原家が巨額の利権を得るものとっないたことは民主主義に反する、また内田とか裏で政治を操るというのも民主主義にはそぐわない
だから当選した小池百合子がまずは都議会であれ透明化することですと言っていた。
オリッピックの利権も巨大であり予算が増大したのは利権を得るためにそうなった。
石原一族なのか内田なのか森なのか・・・・そこに巨額の金が利権として回る
それで都民の税金が私的に流用されることが追求された

民主主義はそうした巨額の利権が一族とか一部の議員とかによって私的に流用されこととは反する、だから今回は選挙が投票でそうした利権を明らかにするとなり権力者が逆に追求される
それがまるでドラマのよな展開になっているからついついネットを読んでいたのである。リアルタイムのドラマになっていたのである。
昔から権力は一族郎党によって握られていた。それに近代社会は会社でも政治でも排除することにあった。
そうなると必ず権力は腐敗するからである。

石原伸晃が会見しないで逃げる・・・そこでまたネットで批判が延々とつづく

石原伸晃、内田は森は責任とれ

その声がネットでひびく、これはテレビより面白いとなりその都度読んでいた。
ただこれもネット内のことかと思ったがそうでもなかった。
今回だけはネットの世論と社会の世論がほぼ一致していたのである。
それは週刊誌の攻撃も大きな一翼をになった。週刊誌がなければ国民全部に都民にその利権のことは知らされなかったろう。
ということは新聞とかテレビはそういう点で役割がなくなっていた。
新聞とかテレビのメデアが何かありきたりのことを言うだけで政局を左右する力がなかった。
週刊誌とネットが今回は政局を左右したのかとなる。
なぜなら小池百合子が勝ったことで政変が起きる、自民党が二つに割れるとか小池新党が生まれとかいろいろ言われるからである

それほど東京都知事は大きな力をもっている、安倍首相は直接増田の応援演説をしないでうまく逃げたとほめている。
何か今回はそうして人物が悪役とかがはっきりしてわかりやすかったし地味な政策のこともあったがドラマのような展開に興味をもった。
それは架空のものでなく現実に起きたドラマだったのである。
ドラマッチックでありその構図がわかりやすかったのである。
ただネットしない人はわかりにくかったろう。今回は2chでも相当に力を発揮したのだろうか?
現実の選挙の票に政局に作用したのかとなる、結果的にはそうなっているがそれがネットの影響なのかどうかはわからない。
ただ今回は新聞とかテレビがさほど影響せず週刊誌とネットが選挙に影響したのかとなる民主主義が機能するにはやはり報道の影響が大きい、知らされなければ知り得ようがないからである。
ともかく権力が交代するときやはり時代が変わる、政治も変わる、石原一族の時代は終わったというのは確かだろ。

posted by 老鶯 at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

真野川のダムの水は安全なのか? (環境省の人が水を検査していた)


真野川のダムの水は安全なのか?


(環境省の人が 水を検査していた)


真野川でまた水質検査していた、今回は環境省から来ていた。

「放射性物質は泥につくといいますが」
「そうですね、泥につくから泥とともに雨などふると流れやすいです」
「心配なのは真野川の大倉のダムです,あそこにの底にセシウムなどの放射性物質が泥に付着してたまっていると思うんですが・・・
「泥に付着してたまっていると沈殿していると水にまざらないですよ」
「真野川のダムの水を飲んでいるのですが大丈夫なのかな」
「水道水は濾過するし放射性物質はまざらないと思いますよ」
「この辺では自分もそうですが飲料水としては水道水は飲んでいないですよ」

飯館村があれだけ放射線量が高かったのだから真野ダムも高いはずである。なぜなら真野ダムには雨などで流れた放射性物質が蓄積されているからだ。
だから真野ダムの水を利用している人は不安なのである。泥に沈殿しているしてもやはりその泥の粒が水とまじるからである。
だから泥とともに下流に流されてくるのである。

真野川の河口でシジミとかアサリとって売っていると聞いたが本当に大丈夫なのだろうかつまり河口には雨などで泥とともにながされてきた放射性物質が一番たまりやすいのである、それで阿武隈川の河口が異常に放射線量が高くなっていたのである。
検査して売ってまでいるというのもどうなかなとも思う
ただ気にしない人は気にしない、老人はほとんど気にしない、松川浦では貝でもなんでもとって食べていたと老人が言っていたからだ。

いづれにしろその人は環境省の人でもそういう人は真実は教えない、何かこうして地元の人が聞いても前も県の人が来たがあなたは誰ですかとなり教えない、秘密にされているから国や県でも市ですら全面的に信じられないともなる
ただそうした行政と関係ない学者が調べたりすると真実がでてくる
これもまた御用学者が多いからどうしても真実がわからないのである。
科学の素人とかなると調べようもないのである。
そういうことはメデアが報道機関が発表する役目がある。
これもまた東電とかから金をもらっているからしないのである。
こうしてなかなか真実はわからないしそのことが秘密のベールにつつまれることが大きな事故のもとになるのである。
原発内部のことは常に隠蔽されてきたからである。

つまり民主主義は情報公開が必要だと言うときそうなる、東京都でも予算を透明化するというときそうである。政府とか東電とか会社の力が強いからメデアがなかなかそこに立ち入れないのである。
記者クラブは政府の御用クラブであり何の力もないという、ただ政府の言っていることを報道するだけの政府のスポークスマンになっているだけだという。
民主主義は報道の役割が大きいことは確かである。知らされなければ知り得ようがないからである。そうすれば判断もできないのである。
地元でも地元の報道機関が必要である。それは自分たちの郷土を自然を守るということでもある。土着的報道が必要なのである。
それが自分のプログの一つの役割でもあることにやっている内に思うようになった。
それはインターネットの報道が無料だからできたことなのである。
だからインターネットは民主主義を促進する

今回の都知事選挙はネットの方で情報公開して都議会の悪役をあぶりだした。
それはマスメデアではなかったのである。週刊誌も権力者の悪を暴いた。
新聞とかテレビには今回は権力をチェックすることができなかった。
ネットの方が時系列で追っていてわかりやすかったのである。
人間の仕事は何か果たす役割があって生れる、やはり地元のことは地元の人が一番影響受けるしここで生活するのだから真剣になる。
外から一時的に来た人とは違う、だからこそ放射能に汚染されたことは深刻だった。
水すら安全に飲めないということは最悪だったのである。
この辺では山では清水を利用していた、それが田舎に住んでいるメリットでもあった
そして今田舎の問題は人口減少になり人が減るとかえってインフラの負担があがる。
水道料金が人口が少ない所は負担がふえるのである。
二倍とかの料金の差が生れているのである。こうなると田舎に住んでいることは苦しくなる。収入も少ないのだから苦しくなる。
そうなると昔のように山の清水を利用したり井戸水を利用したりする方がいいともなる。ただトイレどうするかなどなかなか昔にはもどりにくいのである。
それでも田舎暮らしでかえって都会よりコストがかかるとなると住みずらなくなるとますます人が減ってしまう。

自分は都会向きではない、年とったら人ごみを歩くのも嫌になった。満員電車なども嫌である。でも矛盾しているのは文明的な贅沢な生活を田舎でもしている。
そのために原発も金を生むものとして地元では賛成だった。
インフラに金がかかるんだから田舎は田舎で昔のように自給自足のような生活をしろというときこれも相当に抵抗がありできない、実際に今もクラーをしてこの文章を書いているからである。ただそうはいっても何らかこういう状態になると人間の生活を見直すことは必要である。極端に昔の自給自足生活に帰れというのはではない、何かそこに工夫した生活があるはずなのである。
ただソーラパネルだ植物工場だと言ってもなかなかうまくいかない面がある。
技術というのは否定でとない、だから技術の進歩があってかえって自然と調和できる生活がありうるともなる。だから技術の進歩は否定できないが原発は危険すぎたのである。

タグ:真野ダム
posted by 老鶯 at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年08月02日

月見草の原野と化した南相馬市の一部


月見草の原野と化した南相馬市の一部

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雉子と烏

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小屋があり畑があるが隠されている

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鬼百合や野原に雉子に烏かな

鬼百合や一代築く女かな

鬼百合や新しき家また建ちぬ

百輪のノウゼン散りてなお散りぬ

農家なれ敷地の広く芙蓉かな


ひまわりや原町広く回る道夕日の熱く照らしけるかな

黒揚羽舞い入る一羽狭き庭石ありひそか我がこもるかな

ラベンダー匂えるこの道今日もよる何かあれかし明日また来なむ

小屋一つ畑にありて月見草広がる野にうもれけるかな


この辺は原野と田畑がまじりあっている。田んぼが確かに増えたが畑はまだ増えない
そこが原野化している、今の季節だと月見草の原っぱになっている。
原野化すると月見草の原になる。
そして必ず雉子をみかける、原野化すると雉子など野生の生物は住みやすくなりふえる。津波から原発事故以後の風景は本当に変わり不思議だとなる
飯館村とか未だに避難区域になったところは野生生物の楽園になったというのもわかる
それはチェルノブエリと同じである。
自然がかえって生き生きとしておおってしまう、これほど月見草におおわれているのも不思議だとなる

さらに大正の末期に渡来したのは「コマツヨイグサ(小待宵草)」と「ヒルザキツキミソウ(昼咲き月見草)」だ。「昼」に「月見」とは変だが、月は昼間に出ることもあるから間違いではない。

江戸時代に園芸植物として入ったとありそんなに野原に増えないとあるが実際見ると空き地とかは月見草におおわれる。最初に入ったのがでが月見草だとするとき月にふさわしいとなる、普通は待宵草である。これでも宵となっているから夕方に咲く花だとなる

花というのはいろいろな場面でそれにふさわしいものがイメージできる。
原町は広い、家も多い、前は5万だったからそうなる、土地も広いのである。
ロードで裏の方を昨日は回った。そしたら家があり畑がある所に大きなひまわりが咲いていた。原町は広いから何かこの大きなひまわりがあっているのだ。
相馬市は城跡があり城下町であり中村神社に古い藤の木があり藤がにあっている。
鹿島となるとなんか月見草がにあっているかもしれない、なんか暑くて日差しが強いので遠くに行けなかった、ロードは倍速になるから走るのに気持ちがいいが買い物には向いていない。

小池の方に行ったらまた家が増えていた、一区画が街のようになっている。
そこは海老とか烏崎とか右田の人たちが建てた,敷地が広く家も大きいのである。
それで気になるのが家の値段である。土地でも百坪以上軽くあるからそれだけでもかなりになる、それにあれだけの大きい家となるとかなりの値段になる
最低でも5千万はするだろう。それでも建てられないだろう。
だから不思議なのはそんなにみんな金があったのかということである。
ただなんらかの補償金があり建てたということも考えられる、石巻辺りでも特別な保険金がおりて一億もらった人もいるというからだ。
一県に500万は援助されている。それでここと同じようにパチンコで遊んでいるというのも同じだった。
海老の人は借金して建てたというからみんながそんなに金あって建てたとも思えないのである。

自分の家は姉と母が建てた、姉は気丈夫な女性でまさに鬼百合だった。強い男でも話するとき怖がっていたのである。まずものおじしない、男も怖がるくらい迫力があったのである。だから認知症になったときこんなに強い人がこんなに弱くなるのかと今でも信じられないのである。だからこそ一代で家を建て材を築いたともなる、母もいたが母は補助であり裏方だった。
人間はなにか急速に栄えても見る影もなくある時急激に衰退する、それは一個人でもい一族郎党でもそうである。石原一族はあれだけ全盛だったがたちまち石原慎太郎もボケたなとかこきおろされる,あの人も迫力あり強い人だったが突然見る影もなく衰える
もう誰も耳を貸さないとまでなる、そのように人間が移り変わりが早いのである。

月見草におおわれたなかに一軒の小屋がある。畑があり野菜を作っている女性がいる。
農業は毎日草むしりである。これは最大の労働である。次から次とってもとっても草が生えてくるのだ。「夏草や兵ものどもが夢の跡ー芭蕉」日本はまさに雑草の国である。
草がとってもとっても生えてくるのだ。
農業は労働の割りに合わないというのはやってみればわかるとなる
農家の人さえ買った方がいいとなる、キュウリが十本で百円くらいだった。
実際このように大量に作らない限り商売にはならない。
あそこでは野菜でもネギ二三本しかもらっていない、一つくるのに十倍の金も労力もかかっている、ではなんのためにやっているのか?趣味であり農業が好きだからとなる
あの小屋の回りがぼうぼうの月見草の原野になって畑を放置したのももうそれだけの労力を費やすのをあきらめた人が多いためである。
金あれば買った方がいいとなってしまっているのである。

そして田舎では畑でもともかく回りがうるさいのである。何やかにや畑仕事しても干渉する、それは町からちょっと離れた所でも農家が多いと四六時中監視されているのである。これが田舎の嫌な点である。でも東京都議会が村社会のいじめをしていたというのも田舎よりひどいというからこれはどこでも日本なら同じなのだろう。
日本社会がいじめ社会なのは大人がそうであり社会自体は村八分とかありそれは狭い土地で細々と生きてきたからである。農業には商人のような豪快なものが生れないのである。
ともかく月見草の原に埋もれてそうした人間関係を忘れるのがいいともなる
月見草というのは他でも原っぱに広がり咲くの見た。一面に咲くということはある。
その月見草に埋もれて眠るとなれば気持ちいいとなる。

新しく小池に建った家の敷地は広いから前のように悠々としている。
田舎は特に農家はそうなっていてそこで何かしら仕事をしていたのである。
だからあのように広い敷地と家を建てた人はいいなと見ていた。
近くで復興団地に入った老人がいて嫌だというのがわかる
その差は大きい、窮屈になる、閉じ込められたような気分になるだろう。
家を建てられた人と建てない人の差は復興でも大きかったとなる



月見草
タグ:月見草

2016年08月03日

丸森から古いものを探しに来た人 (自分の家が店屋だったときのガラスケースと母の記憶)


丸森から古いものを探しに来た人


(自分の家が店屋だったときのガラスケースと母の記憶)


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これだった、8000円くらいで売っていた。



今日は丸森から古いものありませんかと家に入って来た者があった。
最初に言ったのが鉄瓶ないかということだった。
鉄瓶はあったがどこにあるかわからないと家捜したのである。
とにかく古いものがほしいということだった。
その人に投げたい古いタンスがあると言ったらそれをひきとるという
自分はその古いタンスを捨てるのに困っていたのである。
その人は家の中を探して見つけたのが自分の家で駄菓子屋のようなものをしていたときのガラスのケースだった
このケースはばら売りするための菓子などを入れていたのである。
戦後すぐは物がなく袋で売っていない、飴なども一つ一つ売っていたのである。
江戸時代に飴屋が飴売りがいたのと同じである。
親は子供に飴玉買ってこいと5円とかもたされて近くの駄菓子屋に行かされた
戦前からまもなく江戸時代でも商売はバラ売りであり、一個一個売っていた。
酒でも樽から一合とか買っていたのである。
金がないからその日暮らしというときそういう生活だった。
貯金をしている人はまれである。第一銀行がない時代すらあった
それは大正時代ではそうだった。銀行が田舎にはなかったのである。
銀行があるのは盛岡の煉瓦の銀行が有名なように都会だけだったのである。


それからその人は刀ないかとが探した、この家は古い家ではないからないと言った
野馬追いに出るような家ならあるだろう、蔵があるような家ならあるだろう。
柱時計がないかとも探していた。それはいつも家の中にあったがなくなっていた。
いろいろ探したがもってゆくようなものはない、なんでも茶碗を見せたら古く見せることができるという、古いものがとにかく価値があるということである。
骨董品屋なのか,丸森にそんな店があるのか?あそこは仙台の人が来たりしているかもしれない。なんか図々しいが古いタンスを投げるのに困っていたから助かったと思い歓迎したのである。
ただ失敗したのはばら売りの菓子などを入れていたケースをもっていかれたことである。それは母が駄菓子屋をしていたとき使っていたものだからである。
母は毎日店でこまめに働いていた。ただ自分は店が嫌だった。
食事しているとき必ずお客さんが来て立って店にでていたから満足にご飯が食べられないほどだった、そのことが一番嫌だったし親となにか遊んだこともない、遠くに遊びに連れていってもらったこともないことが嫌だった。
だから親子とかで楽しんだ記憶がないのである。
母はただ働くだけでありそれしかない、スーパーが近くにできたとき店ははやらなくなった。それでも80くらいまで細々と店をしていた。ほとんどもうけはなくなっていてもしていたのである。そしてそれから売れない売れないと毎日なげていた。
それも嫌だった。母は性格的に細かいし貧乏性でありおおらかさがなかった。
それは自分の性格にもなっている。やせている人は性格的におおらかさにかけるのである

その人か古いものないかというとき古いものにはすでに単なる物ではなく思い出が記憶がつまっている、人間が死ぬと残るのはその人が使っていた物であり人間そのものは何も残らない、だから駄菓子屋をしていたときのあのガラスケースが貴重なもののように見えたそれに他の人はどうであれ自分の家にとって価値あるものだった。
それを見たとき自分の家で店でこまめに働いていた母を思い出したのである。
つまりそういうふうに物は最後は記憶するものとして残っているのだ。
その記憶されたものに価値がある。要するに何度も書いているけど人間が最後に残るのは記憶なのである。記憶は物として具体的に残るから古い物に価値がある。
その物には過去の記憶が重いものとして残されていたのである。
今や自分の家で店やっていたなどわからなくなっている、何か一軒一軒の家にはそうした記憶が残されている

なんか近くの古い医院の家が残っていたけど家そのものが記憶とてし残っている感じにもなる。それは街の記憶でもある。それが取り壊されると記憶も失われるだろう。
家自体が記憶なのである。だから奇妙なのは原発事故で人が住まなくなった家は何か遺跡のように見えたのである。そこで生活したものの記憶が家に残されているのである。
人間は以外とその時その時生きていてもそれがみんな記憶になり思い出になることを意識しないのである。人間は生きているのだけどその生きていることの貴重さを意識できないのである。人と出会ったとしてもその出会いが貴重なことを意識できない
でも最後になると老人になるともう二度と合わないということを意識させられるのであるただ何でもないものでもそこにあるものが貴重に見えてくる、そして人間はつくづく時間を無駄に使ったなとみんな後悔しているのである。

ただ正直物がありすぎるのも困る、断捨離というのがはやりだけど本当に最後は物はなければない方がすっきりして身が軽くなっていい。もう物がいらなくなる。
物が負担になるのである。みんな最後は80過ぎたりしたら何もいらないと言っている。
物がいらなくなる、かえって負担になる。なんか家すらあるのが重荷になる。
大きい家になると掃除であれかたずけるにしても負担なのである。
土地すらもっていることも負担になるだろう、死ぬ時は何もいらないとなる
家であれ土地でも金でも死ぬときはもっていけないからである。
それで天に宝を積めというときそうしたこの世の土地とか家とか金でもないとなる
この世の宝は死ぬときになるといらないとなるからだ。
ただはっきりいってこれを理解することは若いときでもさらに年とっても最高にむずかしいだろう。年取っても欲望は消えないからである。

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。
−マタイによる福音書 6:19-21

みんな物を蓄え金を蓄え富を蓄えようとしている。それはそれで否定はできない、でも最後には凡人でも悟る、なんにもいらないとほとんどの人が言うからである。
ただそれを若いときから悟るのは至難だとなる
年取っても金をいらないという人はいないのである。
要するに最後に残るのは記憶でありそれは物ではないから金でもないから奪われないとなる、最後に残ったものは記憶でありそれをたずさえて天国にも地獄にも行く
その土地でも家でも物でも何ももってはいけないからである。

そのガラスのケースは遠い日の記憶
菓子をばら売りして入れていたケース
母はこまめに働き売っていた
しかし今そのことを記憶している人があるだろうか
世は常に変わりそんな店のことは忘れられる
一軒一軒の家には何かしらそうした記憶があり
その記憶が街の歴史でもある
昔の日は二度ともどってこない
そのガラスのケースはただ今重く昔を語る
新聞紙をのりづけして袋を作り
ここで母が菓子をばら売りしていたことを

その頃袋がなくて新聞紙で袋を毎日作っていたのである。今思い出すと不思議に思う。それは相当な手間である。袋詰めすることは手間である。今ならみんな袋詰めされているからである。だから暇なく働いていたとなる。
ただ自分はそういう生活は嫌だった。自分はもともと商売にも向いていなかった。
母も実際は向いていなかったのである。ただここで店をしていたことがあったということ自体やがて忘れられる、それは一つの歴史が忘れられることかもしれない
そういう一軒一軒に歴史があるからだ。それで浪江の赤生木(あこうぎ)ではその一軒一軒の家の歴史を記録しようとしていることがいたということもわかる。
なぜなら村自体が消えてしまうからである。そしたらそういう歴史と記憶も消えてしまうそれは津波で村自体が消失したということでもそうなった。
村自体が消えて記憶も歴史も喪失してしまったのである。



神田のうたR「本郷弓町駄菓子屋懐古」(3)宝袋

さて、親からもらう小遣は五円か十円で、夏休みは五十円。二宮尊徳の一円札や国会議事堂の十円札、それに板垣退助の五十銭札が流通していた時代である。まだアルミの一円玉はなく、十円硬貨が出始めた頃だ

五円十円で買うものだった。二宮尊徳の一円札などあったの?こういうふうに過去の記憶を詳細に覚えて書いている人がいる。インターネットではそういう点で便利である。
戦前になると五銭屋とかあったから五銭が基準だったのだろう。


タグ:駄菓子屋
posted by 老鶯 at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2016年08月04日

金に人々の感情がこもりカルマとなる (親の因果は子に報うはさけられないカルマである。)


金に人々の感情がこもりカルマとなる


(親の因果は子に報いはさけられないカルマである。)

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金にも色がある、ただ同じ一万なのだからそれを見分けることができない
笑っている一万なのか、悲しんでいる一万なのか?



相続、保険、土地や不動産の売却など、まとまったお金が入ってくる時、とくに注意が必要です。

過去にそのお金を支払った人、受け取った人、貯めた人のネガティブなカルマが、お金と一緒にまとめて流れてくる可能性があるからです

Aさんは、生命保険の受取人になっていた為、先日、保険会社から、少しまとまったお金が振り込まれました。

同じ時期、飼っていた犬が病気になり、娘さんが、階段から転んで骨折するという出来事が起こりました。

宝くじで1億円手に入れる為には、
宝くじを購入して外れた人達のネガティブな感情の総和、
おそらく何十億円分のネガティブな感情が流れてきても

ここのプログでは金のことをカルマで説明しているからわかりやすい。カルマというときいろいろ複雑でわかりにくいのである。
でも金の貸し借りとかなると具体的にカルマが関係していることがわかる
百円にも百円のカルマとなって現れる。
人生はカルマから読み解くと何か複雑な不可解な人生が解かれるような気分になることは確かなのである。
人間には何か不可解なことが多すぎるからだ。

ではなぜそうなるのかととうときその明確な答えがないのである。
いろいろな事件が毎日のように起きている,ではなぜその人が犯罪にあうのか?
なぜ殺されたりするのだろうか?そんなことが偶然に起きるのか?
この世に起きることは偶然なのかという深刻な問題がある。
このカルマを考えるようになったのは自分に起きたことからである。
なぜこんな苦しみにあうのだろうかということで悩んだからである。
十年間自分に起きたことをプログで書いてきたけど本当になぜ自分がこんな苦しみ合わねばならなかったのか問いつづけたのである。

その大きな原因が親の因果が子に報いであった。カルマはどんなことしても親と密接かかわる。親の因果が子に報いるというのはさけられない。
いい面も悪い面も受ける、その悪い面を受けたためにこれほど自分は苦しんだのである。ここに書いてあるようにまとまった金が遺産として入ってきたときから問題が起きた。
親が残した金がどういうものだったのか問題になる。
人を苦しめて残した金にはその苦しめた人たちのネガティブなマイナスの感情がその金についている。ブラック会社で働かしてもうけたような人たちがそうである。
半年も飲食店で働いたのに給料をもらいなかったとするとそのもらえなかった人の怒りは大きかった。その感情がその店にカルマとしてのしかかる。
だからそういう店が会社がとても長く繁盛するように思えないのである。
一方で従業員と会社の社長でも幹部でも一致協力して働くような場合は繁盛する

自分が家族の二人の介護から死までに様々な苦難を味わったのはなぜだったのか?
それは親のカルマをいい面と悪い面でひきついだからである。
こういうときやはり大きな事件が起きるというのもそうだった。
何か大きな金、遺産相続のような時にカルマが具体的に現れるからである。
別に自分の家に残された金はブラック企業でもうけたようなものではなかった。
こつこつ働いて残されたものではある。ただ一方で一人は公務員であり公務員は何かと金では得したということがあった。
そういう金が遺産で入ってきたのである。そこでその金をめぐって大金を盗まれたとか借金を要求されたとか起きた、今でもやはりその金のことで問題は継続しているのである。金には確かにネガティブな感情のこもったものとポジティブな感情の籠もったものがあるということを解説している。ただ金というのは本当に人間関係の中で複雑なのである。

テレビのドラマで浪人が遊女が病気になり見受けするとかで5両を借りて支払った
その浪人には金はなく用心棒となり殺人まで請け負ったのである。
その殺人を請け負った者は悪い奴だった。でも5両をもらったから裏切ることができなかった。それで5両を他からもらったときそれを返して悪人を征伐した。
そもそも人間は金もないのに人を助けることなどできないのだからするべきではないという見方もある。一方でそれがどんな金でも人を助けたからいいではないかという意見もある。このことだっていかに金にまつわることが複雑になっているかわかる
ネガティブな感情のこもった金は受け取らない方がいいというときその金を受け取ることにより災いを生むからである。
遺産にはそういうことが具体的に現れやすいのである。
自分したわけではないが親がそうして受け取った金があったときそれは必ず子に報える
親の因果が子に報うになることは確かなのである。親のカルマを具体的に金で受けるのである。
だからカルマ論からすれば人に起きることはカルマから解けば何か納得するのである。
ただ例外もあり不可解なものがありすべては解けない、それは人間の限界なのである。
神がなんらかでかかわっているということもあるからだ。

金はだから簡単に遺産でも本当は受け取ることは危険がある。何か濡れて粟のように受け取る金にはネガティブな感情があり危険だとなる、その金で災いが起きてくるという怖さが現実にあるし経験している人は多いのである。
この世の中のことを金をめぐって起きることがほとんである。これだけははっきりしている。ということは金について無知でいることもできないし金にどう対処するのかを知らないとひどい目にあうとういことである。
自分は否が応でもそれを身をもって体験させられた、苦しみを受けたからである。
遺産として入った金はそれほど大きくなくてもなんらかそういうネガティブなものがあったのだろう。それで奪われたり借金を要求されたりしたのである。

事業に失敗したような多額の借金をした人がなぜ自分の家の親戚だったのかともなる。
そんな人は助けようも何もできない、毎日パチンコ屋で働いて奴隷化されるていた人が
何もできない、そんな人ばかり来たということが親の因果が子に報いだともなる
そしてまこの辺で起きたことは津波であれ原発事故であれこれもカルマだった。
原発事故の補償金でもめて南相馬市では分裂した、一見暇なのだからパチンコしてもいいではないかという意見もある。
でもその人たちは避難してきたけどその避難した人でも自分でも苦しんでいた人がいたのである。
でも避難民だけが何でも優先になりかわいそうだかわいそうだと外から援助されていたのである。
もちろん避難民でも津波の被害者とか原発事故の被害者とかいろいろいる。
その事情は違っているからいちがいには言えない
でも避難した人たちのみがかわいそうだとか援助されるべきだということが余りにも強く主張されたのである。別に仮設でもかえって長屋のように親しくなり悪いものではなかったという人もいるからである。そのことで南相馬市は感情的しこりが残ったのである。
つまりここでも金が何でもいいものとして働くとは限らない、その金に感情がこもるからだとなる
もしその金でもうまく配分できればこうはならなかった、でも補償するにも限度があるからとてもみんなが満足するとはならなかったのである。


金を使うというとき国のレベルでも使うときオリンピックでもそんなに金を使っていいのかということで東京都知事選挙があり問題になった。
本当にそもそもオリンピックを開くことを国民が心から賛成しているのか?民意なのかというと疑問なのである。オリンピックに関心がないというのが50パーセントもいるからだこれは前の東京オリンピックとは心情的に違ったものとなっているのだ。
オリンピックはゼネコンとか都議会の議員やスポーツ関係の会社の宣伝の場だとか利権化している。その金をめぐってもネガティブな感情が強くなっている
だからこそ金の問題が大きくクローズアップされている、他にいくらでも金は使う所があるということである。そういう金に対する感情を問題にすべきなのである。
国民が心から賛同しないものに金を使うべきではないのである。
オリンピックはただ会社とか議員とか官僚やマスコミの利権となっているから賛同できないのである。

いづれにしろ宝くじであたったような人ははずれた人がその十万倍もいるとしたらその十万人のネガティブな感情を受けることになる、なんであいつだけあたったのだとなるからだ。それで宝くじにあたった人は災いが起きるというのもそのためである。
政治の場でも巨額の金が動くがそれは国民の税金でありサラリーマンにしたらどういう気持ちでその税金を払っているかとなる。わずかな給料から税金をひかれる気持ちを知らないとその税金を無駄に使うとなると政治家も官僚も許されない
金というのがどういうふうにして得て使うということが一番の日々の生活で問題になっているのである。
だから金は金としていちいちそれがどんな金なのかどんな感情がこもっているかなど詮索しない感じないということも問題なのである。
金というのはだからグローバル経済になると今度は世界的に金がどういう金なのか問題になる、世界の富を数パーセントの金持ちがもっていること自体、どれだけ世界から搾取して得た金なのか?それを放置していたら搾取された人が黙ってはいない、反乱になりそうした金持ちは革命で殺されるまでになる。
金にはそういう怖さがある。金があればいいというのはわかるが何かそうした金にまつわるものを感じないということは危険なのである。
結果的にその金をめぐってカルマがめぐり自分でもそうだが苦しみを受けることは確かなのである。





タグ:金のカルマ

2016年08月05日

猛暑(復興住宅)

猛暑(復興住宅)


急ぎ建つ復興住宅や蝉の声

建てつづく復興住宅や猛暑かな

ひまわりや新築の家に子供いる


異常な暑さだった、なんかクーラーかけると眠くなる、暑いと眠くなる
プログは実況中継なのである。毎日復興住宅が建つの見ている
二週間で建つというけど結構時間がかかっている

この暑いのに良く仕事できるなと思う、家が建つ過程を見ていると苦労して建てているなというのを実感する、でも建て売りだとできたものを買うから感じない
この猛暑の時に建てていたというのを見ればありがたいと思うだろう

ともかくあの辺は別な街ができた、ここが同じ街とは思えない
それほど家が建ったのである。
シシドスーパーも建ってあの辺は一つの大きな街になっているのだ。

今日は暑さでぐったりした。ただそれだけだったとなる
タグ:猛暑

2016年08月06日

朝焼け (sunrise glow)


朝焼け(sunrise glow )


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タグ:朝焼け

2016年08月07日

借金している人の怖さ (弱みにつけこまれ借金を要求される)



借金している人の怖さ


(弱みにつけこまれ借金を要求される)


今までの古い考え方や価値観、生活様式など、それに固執しているとなかなか借金問題の確信にせまる事は出来ません。要するに、今までの自分を手放せずにいるんです。



自分が借金に苦しんだわけではない、他人の借金に苦しみ借金を考えるようになった。
人間はかわいそうな人には同情すべきだということを盛んに言う。
では本当に同情すべき人なのか?何に同情すべきなのかわからないことが多い
この辺で起きたことがそうだった、津波の被害にあった人でも家族を亡くした人、家を亡くした人、原発事故で避難してきた人、それぞれ事情が違っていた。
一番わかりやすいのは津波の被害者だった。原発事故の避難者は最初は同情したけどあとからあんなに補償金もらっていたのと見方が変わった
なぜなら自分もその時、病気だ介護だと苦しんでいたからである。
原発の避難者だけが特別かわいそうだと同情されたけど避難してきた回りの人も苦しんでいた人はいたが同情もされなかったのである。

普通は家族で苦しんでいても同情はされないし放置されているのである。
だから同情するというとき相手が本当に同情されるべきものなのか?
かえって原発避難者は毎日パチンコだ、風俗とかまで遠くに遊んでいた人が全部ではないにしろいたのである。そんな人が同情されるべきだったのかとなる。
むしろ補償金で金がたまって喜んでいた人も多いのである。それは普通は手にしない大金をもらったからである。
そんなに同情するなら避難してきた回りの人たちにも目を向けてくれたらいいだろうとも思った。そして最初の二年くらいは何かわからないからしかたないにしろなぜ回りの人にも避難者自体が遊んでいるのだから目を向けないのかと今では思う
自分も同情されるべきだったが全く同情されない、介護とかで苦しんでいる人はそんな家族でやれしかないのである。

自分の親戚の人は前の代から関係があった。病気の時世話したこともあった。だから恩義を感じて何もしないということでない多少は助けてくれた。そのことには感謝しているし金としてお礼もした
しかしその人はどのくらいの借金をしているかわからない、事業をしていたのだからその額は大きいだろう、でも借金というとき500万以下が多くそれでも月に5,6万とか利子を払い続けて5年くらいかかるというときそれは相当な負担である。
だから借金は割に合わないことなのである。
それでもあえて借金するのはやむにやまれぬことがあるのだろう
第一病気になったりしたどうにもならないしそういう事情を知ればその借金でもそういうことかと同情する

問題は借金した事情にある、その人は普通の人より贅沢していた、なぜなら自分は事業で成功していたと外にも言っていたし家族に言っていたし家族すら借金していることを知らなかったのである。そして確かにむずかしい一級の免許をもっていたからあの人は頭のいい人として回りを見ていたのである。そして見栄を張る生活をしていた。
そういうふうに回りから頭がいいとか事業の成功者だとか見られていたがその内実は借金でやりくりしていたのである。
だから借金を解決するにまずこの人は解決できない、自分は頭がいい成功者でありそれも世間に認められている、とても事業の失敗者だとなるわけにはいかない、それをとりつくろうために借金していたのである。
それも別に自分と関係ないならいい、自分がそのために苦しんだからこうして自分を苦しめたものへの怒りともなる。

なぜなら病気と介護の時、恐喝まがいのことをされてきたからである。
病院に入院するのに保証人が必要だとかいろいろなものが自分に兄弟もないからそうなった。それをいいことに弱みにつけこんで借金をしようとしてきたのである。
その額も十万とかなら何も言わない、軽く百万からさらに大きくなる、それは限度がなくなる、一千万でもそれ以上要求するだろう。
事業している人の借金は大きいからである。ただ自分は弱みをもっていたから何も言えなかった。その人の親の代では自分の家ではかなり世話したのである
そのことはもう関係なくなっていた。
第一そんなことより借金している人に恩返すとか何か同情するとか余裕がないのである。いかにして借金を返すしか頭になくなる、それで推理ドラマでは必ず犯罪の動機が借金である。借金があるかどうか調べるのである。
借金していること自体すでに犯罪者になっているのである。
それが借金の恐ろしさである。

だからこそ相手のことなどかまわない、この際弱みにつけこんで借金を要求すれば通るとなる、それで自分は恐怖して手を切ろうとしたが病気のこともありできなかった。
ただ相手は全くそんなことを感じていない、借金のことが頭が一杯であり他人のことなど考える余裕もないのである。借金した人には恩も義理もなにもなくなる、モラルが崩壊するから怖いのである。
意外と人間は弱者のことがわからないのである。もちろん相手も借金しているのだから弱者だった。大金を盗まれたとことも相手が追い詰められていたからだともなる。
弱者が弱者を襲うというとき襲い安いからである。相手が健康で強面の人だったら簡単にできない、あとが怖いとなるからである。
弱者は襲い安いから弱者が弱者を襲う犯罪が多いのである。

その人は実際はプログで書いていた人のように借金は返せるのだが返せない
なぜならそもそもの生活を変えないからである。自分は頭が良くて事業も成功している
それも世間に認められている、それを維持する生活を変えない、同じように見栄を張る生活をしている、車もいい車を使っているとかなる
節約することもない、でも現実はパチンコ屋で妻が働いているとかそれなり過酷だとなるしそういう生活がつづくのかとなる、いづれはそんなことをしていたら破綻するだろう。そういうことは自分たちだけの問題ならいい、回りの人に借金を要求して迷惑をかける
そんな見栄を維持するために金を貸す方もやりきれないんとなるだろう。
だからその人には金を貸すべきではないのである。ただ自分は弱みをにつけこまれたらしかたなかったとなる

要するにこういう人には何を言っても無駄なのだろう。現実でしか理解できないのである借金取りが家におしかけるとか家までとられるとか何か極端なことにならないかぎり理解しない、できないのである。
また誰からか借金すればいいくらいにしか考えないからである。
そして相手の弱みにつけ込むような奴だからそんな奴とつきあっていることは危険になるし一緒に事業をするのも危険だと思う。
そもそもその人は頭がいいとして事業者としてふさわしくない人だったのである。
自分の家の因縁としてなぜか母方も事業に失敗して一家離散になり辛酸をなめた。
父方も二つの家の親戚も事業に失敗した。
そういうカルマがあるのか?それとも二十人一人しか事業に成功しないというときそれだけ事業に失敗する人が多いということなのか?

いづれにしろカルマは実際に現実として現れないかぎり自覚できない、何でこんなに苦しむのだと言うときカルマを考える、何もなければ考えないのである。
人はともかくこうして弱者の時に苦しめられたことは忘れることはできないのである。
それで間違っていても反日がやまないのはそのためである。
こういう恨みは深く潜行して晴れることがないのである。
ただ自分は世間知らずでありそれが世間だと言うことを今ころ知ったともなる
人間の現実はあらゆるものがブラックなのである。
それは利益とかかわり金とかかわりブラックと化してゆく、それはどこでも起きている問題である。


人間は直接被害を受けない限り他者のことを真剣に考えない
犯罪でも毎日起きているけど自分に被害なければ他人ごとになる
でも一旦自分の身に及んだらはそうはならない
相手のことを真剣に考えるようになる
例えば北朝鮮からのミサイルが日本海に落ちているうちはいい、現実に日本の国内に落ちたら北朝鮮はもうをとでもいいとはならない
北朝鮮のことを深刻に考えて対処するようになる
直接被害者になるとき人間は相手のことを真剣に考える
北朝鮮が挑発しているのはそのためだという人もいる
「俺たちのことを忘れてくれるなよ、お前らに被害を及ぶことをな」
犯罪者にも同じような主張がある、犯罪によって自分の存在を知らしめるということである。それが例え間違っていてもそうなのである
でなければ世間は無関心だからである。テロもそうして関心を引くために起きているのである。

タグ:借金

2016年08月08日

オリンピックは必要なのか? (巨大利権化したオリンピックは腐敗している)


オリンピックは必要なのか?


(巨大利権化したオリンピックは腐敗している)


リオオリンピックの柔道を見ていた。そこで不思議だったのはオリンピックにはどこかの国に所属していないと出れない、それで小さな国の国籍を借りてというか出ていた人がいたのである。世界にはそういう事情の人もいる。一時的にそうなっていたかである。
オリンピックは今なんのためにやるのか明確ではない、参加することに意義があるなど思って参加している国も人もいない、メダルとるためにしかありえないのが現実である。
そして国威高揚のためにある。その国威高揚に一番効果あるのが国家が金メダルと演奏されることである。水泳で金メダルとったから君が代が演奏された。その時は日本人の誇りというか日本国への愛国心が湧いてくる、なかなか今はグローバル化しても日本国を感じる場面がない、戦前は絶えず日本国が過剰に意識されていた。
それが敗戦になったらその逆になってしまった。日本の国を意識させないようにしているのである。だから愛国心をもたない国にもなっている。
オリンピックが平和の祭典というのも違う。オリンピックしても世界はやはり紛争があり戦争がありテロがあり解決しない、オリンピックは平和とはほとんど関係ない、ただのスポーツの祭典なのである。
そしてここでも利益を得るためのものとしてオリンピックが腐敗したので

この祖国での優勝者への過剰な褒章が、逆に大祭の腐敗を生んだ。祖国が優勝者に支払う報奨金は跳ね上がり、褒章欲しさに、不正を働くもの、審判を買収するものが出て、オリュンピア大祭は腐敗した。買収を行ったものと応じたものは以後の大祭から追放されるだけでなく、多額の罰金が科せられた。

東京オリンピックの誘致にすでに200億円かかったとか莫大な金にふくらむことで東京都知事選挙の争点にもなった。
そんなに金をかけてオリンピックをする意義があるのか?そういう疑問である。
前の東京オリンピックとはまた事情が違ってきたからである。
あの時は高度成長時代であり日本が世界の経済大国となってゆく時でありオリンピックはその国威高揚としてふさわしかったのである。
それからオリンピックは世界で継続されたが果たして本当にオリンピックは今や必要なのかという疑問がある。
オリンピックは公共事業としてテレビの電通の利権としてフランスで取り上げられたように巨額の金が流れるのである。企業の宣伝としても選手もでている。
純粋な心体技を競うスポーツの祭典ではない、国威をかけた巨大な利権の場と化しているのである。
勝つために何でもするようになる、ロシアの国ぐるみのドーピング問題でもそうである。それはギリシャのオリンピックでもそうなって腐敗していたらである。

●国威高揚

●心体技の競争

●スポーツを通じての世界の友好

オリンピックは国威高揚は欠かせない、でも本来スポーツは別に国とそんなに関係しなくてもありえる。世界選手権になるとそんなに国とは関係しない。
スポーツ分野ごとにその技を競っているのである。アーチェリーだったらアーチェリーの技を競う、メンタル的なものだというときそういう精神面でも競っている。
見る方にするとそれを見ればあまり見れないからそういうスポーツもあると啓蒙されることは確かである。
高校野球でも福島県の聖光学園は有名だけど全国から野球好きな高校生を集めて勝っている、地元の高校生は一人か二人なのか?ほとんどいないというし東北では関西とかから来た甲子園に出たいと入った私立高校が強いから地元とは関係ないのである。
地元の代表ではないということはオリンピックで国の代表でないと同じなのである。
ただ野球好きなうまい人を集めているだけなのである。

スポーツにはそれぞれスポーツが目的とするものがある。柔道などは日本から生れたら日本の文化であり柔道を通じて心体技を磨くもの鍛練するものである。
それは「心の青雲」で常に説いていることだからプログを読めばわかりやすい、精神の鍛練として空手をしているのでありただ勝負事としてしているわけではないと言っている。人間は何をするにも精神性がなければ動物に陥る、スポーツにも文化的要素が必ずある。日本から生れた相撲でも武道でも文化的要素がある。
ただプロレスとかには何か体を筋肉だけをぶつけるもので精神性を感じないのである。

「心体技の競争」の競争なら別にオリンピックのような過剰な国威高揚はいらない、世界選手権でいいのである。オリンピックで世界の平和をになうというのも今は消えている
オリンピックしたからといって世界が平和になるということもない、これだけ世界の人々がまじりあうグローバル化社会では世界の人を集めることも必要ない
日常的に世界の人が混じり合う世界だからである。
残るのは別に国に関係なく人間としての心体技の競争である。
ある国がメダル何個とったとか異常にこだわるのも変なのである。国と国が競争するのではなく個々人が心と技を鍛練して戦うとなればオリンピックは必要ないのである。
オリンピックはかえってグローバル化社会では巨大な利権化してその本来の目的とは違ったものとなっている。

柔道を見ていても選手には悲壮感が漂っていた。どうしても勝たねばならないというフレッシャーを受けているからである。日本国のために勝たねばならないとしたらそうなる
でも世界の人々が国に関係なく心体技の競争というならそうはならないのである。
何かオリンピックは国と国の戦争なのである。勝ち負けに異常にこだわるのもそのためである。国と国が争い勝てば戦争のときのように喜び負けるとがっかりする。
勝てば日本人は優秀だとかなる、柔道でも今や何か知らない小さな国の人が参戦しているそれは競技人口が増えたからであり柔道が普及したからであり柔道は柔道でその心体技を競いばいいとなる
今やオリンピックの理念自体が当初のとは違ったものとなっている、時代に合わないものとなっている。だから改めるべきであり必要ないとまで世論的になる
日本だってオリンピックに興味がない人が50パーセンと多い、オリンピックに興味をもつものは推進させるのはその利権にかかわるものである。政治家でありゼネコンでありテレビでありそれらに主導されてオリンピックが推進させられる
国民としたらもっとほかのものに東北復興の方に持続的回すとか他の国民が要望するものに使うということである。国民が本当にオリンピックを望んでいるのかわからないからである。それが前の東京オリンピックとの大きな相違である。
前の東京オリンピックは国民みんなが望んだものだったからである。

posted by 老鶯 at 06:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年08月09日

暑さー鶏頭の花(詩)


暑さー鶏頭の花(詩)


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朝の蝉農家の人の朝仕事

土ならし土台を築く暑さかな

新築の家のあまたや夏の月

数十輪芙蓉になごみ合歓も咲く


今日も暑い、蒸し暑くはない、クーラーしていると横になるといつのまにか眠ってしまう何か暑いときクーラーの中は眠くなる、それでいろいすな夢を見る
津波の夢も見たし何かいつも旅行している夢を見る、要するにぐっすりと眠りが深くなっているのだ。暑すぎたり寒すぎると人間は眠くなるみたいだ。

土をブルドザーでならしまたは人の手でもしている、この辺では以前としてどこかで家を建てている、その人を見ていると暑いだろうなと思う
これは深く読めば土台を築くとは人生の土台を築くとも見れる
ただこうして家を土台から作るのを毎日見ていると家は土台を作るときから始まっているここは建て売りであり手きたものを買ったとき作る場面を見ていないとその家のありがたさを感じないのである。
考えてみると何か野菜でも何でもあらゆるものがあっても作る現場を見ているというものがほと:どない、ただ金を出せば物が買えるという消費社会は何か労働の尊さというか苦労が見えないのである。
そのことから物も大事にしないとかいろいろ問題が生れる
昔は物が作られる過程が見えた社会だったろう。
ものの価値は作られる過程を知るとわかるからである。

秋になるとお盆の頃、鶏頭だが今日買った、この鶏頭の赤さは不思議である。それは写真でも表現できない赤さである。すべて写真で表現できない
その独特の感じを表現できない、それは人間の心に通じているからである。
人間の心はすべて目に見えるものとして表現はできない
赤い花はいろいろあっても鶏頭の赤さは何か不思議である。


鶏頭

その赤さはなにぞ
内からにじみでる赤
人柄がにじみでるような赤
大地から湧く赤
誠実なる赤
死者となお交わり
そを仏前に添える

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死者は何も語らない、でも何もないものなのだろうか?
そうとも思えない、死者は何も語らなくてもこちらを生者を見ている
花を献げ供え物をして死者と交わる、今年は母の新盆なのである
なんか家族が二人死んで死者を思う、死んでからも死者を思う
そういうことが人間の繰り返しであった。生きていた人は死に死んだ人を想い
まだ自分も死んでゆくのが人間の生なのである。







タグ:鶏頭

2016年08月10日

抽象画(川ーriver)


抽象画(川ーriver)


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この抽象画は幾何学的配置からソフトの流れで一連のものができた
その元はただ偶然の結果である。
要するにこれは創作というよりはそうしたソフトの作業の結果生れているのである。
なぜなら何から変化して生れるのか、それが全くわからない、予想もつかないのである。ただ一つの抽象画のバターンがわかるとこうすればまた違ったものができるというコツを会得する、そこからまた量産できるのである。

This abstract picture is the result only accidental formerly that a series of things had by a flow of the software from geometric placement.
In brief, this is born as a result of work of such a software rather than creation.
The expectation not to know it at all I change, and why comes out of what is not available either. I can only mass-produce things different again again from there understanding the art that it is possible for if I do it this way when I know Bataan of one abstract picture.

タグ:川-river

5000キロ自転車で走ってきた老人 (元気な老人に元気ない若者?)


5000キロ自転車で走ってきた老人


(元気な老人に元気ない若者?)

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5000キロ駆けぬけて来ぬ夏の暮

5000キロ駆けて我が町夏燕

街道や木槿の咲きて夕暮れぬ

街道の道の細しや木槿かな

六万石城跡あわれ木槿かな

六号線鳴きあう蝉のひびくかな

ミンミンの高くひびきて六号線

五本松夕蝉鳴いて帰るかな



今日六号線であった人には驚いた。自転車で5000キロ走ったという、日数は50日間であり一日百キロ走っているという、普通のマウテンバイクでありテントなどは積んでいない
京都から走ってきた、イワキの方に行けるかと聞いてきた。
今日は原町に泊まる、年は60代だろう、退職した人だろう。
そんなに休みはとれないからだ。前も鹿児島から歩いて青森までゆく人にも驚いた。
その人も退職した人だった、何か退職するとこうして今までできないこに挑戦する人がいる、60代でも元気な人は元気である。そういう人が結構多いのである。
自転車、バイク、車の旅があるが自転車は一番きつい。
バイクなどは若者に多いけど楽だなと自分も自転車旅行したとき見ていた。
若者だったらもっときつい旅したらいいのにと思う


今の世の中高齢化社会というけど元気な老人も多い、特に60代には多い、団塊の世代が入っている、60代は相当にアクティブである。スポーツが好きである。
でもこのレベルになると自分も経験しているからすごいと思う
何か一カ月走ってくらくらしてやめた。この人はホテルに泊まるだけでも相当な日数であり金もかかる。老人は金がかかるというよりもう体力があることの方が大事になる。
自分も百万かかってももう一度ヒマラヤに上りたいとなる
なぜならそれが最後だともなるからしたいことをして死にたいとなるからだ。
この気持ちが若い人にはわからないのである。したいことをしないで死ぬことは最悪である。だからこそ退職してから自由になりこういうことに体力がある人は挑戦する

なんか今はこういう老人を見ると若者より老人が元気だなとつくづく思う。
全国で旅行しているのは退職した老人が多いのである。
そして若者と比べるとこうして自由に旅している老人などが最後に人生を謳歌していて
若者はただ働かせられているだけだとか老人のために税金をとられているだけだとか嘆くこういう老人を見てうらやましく思っているのである。
老人は若者であり若者は年寄りだということさえ見受けられる社会なのである。
若者だったらもっと無謀なことをしてもいいが何かそれもない、犯罪であったがそれも介護施設とか知的障害者にその無謀さは向かった、介護とかで働かせられている若者の不満も大きいし何かそれが老人に向けられてくる
だから若者と老人を比べると今の若者は損だとなる。

ひさしぶりに相馬市に行った。このころ異常暑かったがだんだん気温が下がり自転車で走り安くなるかもしれない,自分も今度買った電動自転車のロードで走ってみたいと思った本当に行くとしたらこれが最後かもしれない、この自転車が軽く走り安いし意外と荷物は乗せられないが長距離向きだと思ったからである。
だからスイスイ遠くまで走ったら気持ちいいだろうなと思った。
お盆にもなりなんか秋めいてきている、でもまだまだ今年は暑さがつづくみたいだ。
街道の道はソバナとか木槿がにあう、五本松は二本枯れていたのが残念

タグ:自転車旅行

2016年08月12日

故郷再生の力(詩) (神に祈ることが解決の道)


故郷再生の力(詩)


(神に祈ることが解決の道)


私は無情と非情に泣いた
しかし私を励ますものがある
それは神の声なのだろうか
それは天地の声なのだろうか
先祖の声なのだろうか
最近死んだ親の声なのだろうか
故郷は荒れ果ててた
我が家も荒れて崩壊寸前に
それでも荒廃した故郷に
なお命の芽吹きがあるように
再生するものがある
自然は死んでいない
これは神が与えた試練なのだ
放射能に負けない自然なのかもしれない
我々を励ます目に見えぬ力がある
今大きく未来に向かって
荒廃した地から立ち上がり再生するものがある
その力を感じて再生に立ち上がる
ここに広大な世界から力が働く
新たな未来への力がここから湧いてくる
再び自然は回復して光り輝くだろう
新たなビジョンが神は示し現す
祈りを献げよ、一なる神に
そして天地に日本の神々に先祖に親に
わたしを励ますものがある
新たな再生の輝きが蘇る
悲しむ者は幸いなり
神はその涙をぬぐいたまい
誠の力を与えたもう
それは絶えることない神の力、天地の力
宇宙にも及ぶ全能の神の力
それを約束する虹を見た
力はここに湧きあがりここに結集する
破壊され分断された心は一つになる
さらに輝かしい世界がここに再生される
創造主なる神はそれを望むからである


ここで起きたことは未だに理解できない、自分の場合は津波や原発事故前から起きていた家族が認知症になりそれが何かわからないから恐怖した。
体力もある優秀だと言っていた人が一転して何になったのか?銀行の金さえ下ろせなくなったことや人間崩壊現象に接して驚愕した。それは老いの恐怖でもあった。
これは老いとともに起きてくる人間崩壊の現象でもあったからだ。
でもその病気とも懸命に戦った。人生とは何かとの戦いである。
人類そのものがそうだろう。病気との戦いは延々とつづき今日にいたっているし様々なものが戦いなのである。自然災害も日本では多いから災害との戦いであり洪水が起きないように堤防が整備された。この辺では自分の家は土地が低いので二回も水害にあった。
堤防が作られて水害はなくなった。津波にしても三陸では一部だったが堤防が防いだのである。

今回の津波はそうした自然災害でありそれが桁外れであり予想ができないものだった。
自然の力に畏怖したのである。なぜこれほどの災害になったのか?
こんなことがありうるのかということで未だに理解できないということがある。
家族を失った人も天を呪うとまでなった。それほどあまりにも大きな災害でありノアの洪水なのかとさえ思った。
何か人間的な力を越えたものに直面したのである。
人間の力ではとても解決しえない問題である。
原発事故でも放射能問題でもこれも人間では解決できないのではないか?
なぜなら人間は核のことを知っているようで知らないのである。
科学者が何でも知っているようで知らないのである。
だから放射能にしてもどれだけ人間に影響するかわからないのである。
要するに核の処理にしてもお手上げ状態にもなった。
そして本当に人間に核がどれだけ影響するのか?、人体にどれだけ影響するのかもわからない。そういうふうに多々わからないことになり解決方法がないのである。

原発事故の最大の問題は生活の基本となる土や水や森や空気まで汚染されたことである
ここが回復されないから住むことさえできなくなった。
そして故郷に住めなくなったということがまた今まで経験していないことだった。
戦争でも一時的に焼け野原になったりしたが原爆が落とされたヒロシマ、ナガサキでも人は住み続けている。ただここは広範囲に汚染されたので住めなくなった。
そして人々は家族でも分離し祖父母とか子とか孫はばらばらに住むようなった。
それだけでない地域も補償金問題とかいろいろあり分断された。
そして故郷自体が全体が喪失するということも想像もできないことだった。
未だにこれも何なのか理解できないのである。
第一故郷がなくなることなど想像しないしそれが何なのかもわからない
でも現実にそうなってみれば故郷はなんなのだとか考えるのである。
故郷とか全体のことである。一部の商店とか工場とかで形成されるものではない、農地があり実りがあり森があり山があり海がありと全体のことである。
石を詩にしたがそれも全体に機能するものとしてあった。

それは故郷でも歴史があり身近なものでは親が死んで眠る場所であり墓があり代々つづく営みがあった。そういうものも断絶されたのである。すでに墓を移住した場所に移している人もいるからである。地域の人が移住すれば社なども誰も参らず無用化してゆく
あらゆるものが廃墟化してゆく、だから日の住まない農家が遺跡のように見えたのであるこの辺で起きたことは喪失、分離、分断である。それは自然でもそうであり人間でもそうである。地域というのは都会とは違う。一つの自然をふくんだ全体なのである。
都会はトヨタのように車を作るだけの都会もあるが田舎は自然をふくめて全体として機能していたのである。その全体がバラバラになった現象が今回の津波や原発事故の結果である。だからこれの回復は全が回復することなのである。一つの家でも工場でもなくなるだけで全体はなくならない、まだ全体維持できるが故郷全体が維持できなくなったことが大問題だったのである。
人間はそもそも全体を意識できないのである。現代では余計にそうである。無数の部品化して存在しているからである。仕事でもなんでも一部品をネジを作っているとか一部品しかみえないし部品化しているから全体というのは意識できない
でも故郷全体が喪失したとき全体を意識したのである。
故郷を再生するというときそれは一部分ではない、全体のことでだからである。

そうなると果たして人間だけの力で可能なのかとなる、もう人間の手に負えないということがある。いったい放射能汚染された土や水や森は百年たたないと放射性物質の放射線量が減らないとかなるからである。こうなると時間が解決するとなれば人間の力では不可能だともなる
でも一方で自然でも人間社会でも一旦そうして破壊されるときもとに戻す再生の力が働く人間の体でも病気になればそれは戦うものがあり回復する。
戦後の焼け野原から日本が立ち直ったものやはり回復する力が働いたからだろう。
それは人間だけではない自然の再生力もある。
自然の力もまた計り知れないものなのである。自然についてでも実際は科学者が何でも知っているようで知らないのである。
つまり知らないということはこれからの予想がつかないことである。
何か思わぬことが起きる、意外と放射能も影響なかったなとかなるかもしれない、それはわからないからである。

そこで大事なのはわからないからこそ神に祈るとなる、もし何でもわかっていれば対処できる、対処できないことがこいうふうに大きな問題になると特にそうである。
神に祈って何が解決するのか?そういう時代が今の科学万能時代である。
でもその科学万能時代だからこそ原発事故が起きたのである。
そして人間は自ら作り出したものによって甚大な被害を受けた、そしてその解決方法もないのである。
だから神に祈るということが切実なものになる
人間で解決できなかったらそうならざるをえない、では神がいるのかとなるとどう解決してくれるのかとなるとこれもいちがいには言えない
要するにそうなると神の力を信じる他ないとなる、なぜなら人間の政治力でも経済力でも科学力でも解決しないからである。それは人間の力を越えたものとして起きたからであ。ある意味で奇跡を期待するともなる。
ただ祈るだけではだめである。人間は戦うことなのである。病気でも戦いでありあらゆることが戦いなくして解決しない、奇跡はそうして戦うなかに起きてくる。
病気にしてもそうして細菌との戦いで勝ち直すことができたからである。

自分も家族が病気になってから戦ってきた。その後何の助けもなくかえって非情な目にあいつづけた。それは津波で家族を失った人たちもそうである。
その人たちは外からの同情はあった。
ここがつまり「悲しむもの」となったのである。「悲しむ者が幸いなり」というキリストの言葉は何なのか?それは理解できなかった。
つまり悲しむものはその涙をぬぐいたもうというときそこに神の力が働くからである。
また働くように祈るということである。祈ることは力となる
人間におきることは別にここだけに起きたことではない、どこでも起きている
分離であり分断であり断絶であり争いである。それは家族に起きているし国と国の間でも起きているし日常的である。ではなぜそうなるのか?
それは分離分断してさらに強固に結びつくためにそうなるともなる
南相馬市などでも補償金問題で分離分断したけどそれもやはり強固に結びつくためにそうなったともなる

いづれにしろこれは大きな試練なのである。国家的試練として戦争があり地域的でも東北全体の試練でもあり日本の試練ともなる、そういう試練でありこれを乗り越えようとする戦うことを自覚すべきなのである。そういう試練に立ち向かう意志を共有するべきなのである。ただ一方でそんなことなど自覚しない、補償金で遊んでいればいいとかなるのも多い、それは反省すべきだし外からも叱責するべきなのである。
またもう故郷を捨てた若い人々も多い、それは戦いを拒否して楽な道を選んだ人ともなるでは本当にそれがいい道だったのかとなるとまた未来はわからないということである。
その人たちは戦線離脱者なのか?それもやむをえないことなのかなかなか判断できない。
ともかく修復する回復する力が自然にも働く、放射能でもどう影響するかわからない。
人間でも社会でもそうである。

posted by 老鶯 at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年08月13日

「心の青雲」が文字化けして読めなくなっている謎 (サイバー攻撃か、その怖さ)



「心の青雲」が文字化けして読めなくなっている謎


(サイバー攻撃か、その怖さ)

文字化けは著者の問題であり回復した

でもなんかサイバー攻撃があったら怖い


今日心に青雲を見たら訳のわからない文字になっていて読めない、全部そうなっている
サイバー攻撃されたのだろうか?

インターネットで怖いのは記録が一瞬にしてすべて消えることである。
そういうことがさくらのプログでもあった、ただバックアップしてあったので修復できたインターネットはパソコンでも技術的には安定してきている
だからめったにそういうことはなくなっている

でも一般人とインターネットを管理する会社とかがありまた技術的にハッカーなどでもいて何か相手のパソコンを操作できる、するとプログなどでも簡単に操作して全部読めないようにされてしまう危険がある。消される危険もあるしそれがインターネットの場合、
簡単にできてしまうことの恐怖なのである。
だから記録しておく必要がある。
一時win8とかにするときウィルスが入り記録をだめにした。これも怖いことなのである。
「心に青雲」は毎日読んでいた。ユダヤ人を絶えず批判している、ただそうはいってもアメリカ側につくもので中国を常に批判していた。
となると攻撃されたとしたらアメリカ側とは限らない、どちらかというと中国側かもしれない、中国は何か盛んにサイバー攻撃している国だからである。
そして一個人とか何かサイバー空間では技術的に無力である。
国家が関与したらサイバー攻撃は怖いものとなる

なぜ「心の青雲」がねらわれたのか?あのプログが読者も多かったのかばしれない
反対することがあっても筋が通っているから一貫したものがあるから感心して読んでいた別に敵対するものでもそうして一貫したものがあるとき共感する
ただ別にインターネットではアメリカであれユダヤ人であれ中国であれ批判しているの多い
ではなぜ「心の青雲」がねらわれたのだろうか?それは今は謎である。
どうしてそうなったのかわからないからだ。
言論がすべて自由化というと民主主義社会でもそうはなっていない
何か強力な権力がバックにあり操作される、それに反対するものは世の中に出れない仕組みになっている
第一原発の安全神話が作られたのは強力な政府と東電の権力によって作られていたのである。それに反対するものは許されなかった
マスコミもすべて同調して宣伝費をもらっていたからである。
マスコミは真実を伝えない、権力に操作される側なのである。
出版でさえ操作されているし権力のないものは簡単にはできない
自分ですら図書館に本を置くことを拒否されたりしている
何か一見民主主義が自由な言論があるようでないのである。
たいがい出版でもバックに組織に属していないとできないのである。
個人は排斥されているのである。


インターネットのホームページでもプログなどでもサイバー攻撃することは技術力のあるものにとっては簡単かもしれない、それが大きな組織がかかわっていれば余計にそうである。
プログなどは一見何でも自由に見えても攻撃されさば脆弱である。
さくらのプログなどはただ最初安いからと始めた、最初にホームページとかレンタルサーバーとして利用したついでにした。
でもこれはマイナーな会社でありプログなどだとアクセスを稼ぐのには向いていなかったそれが最初わからないのでそうなった。使いにくいこともある。
ただなんかレンタルサーバーでもプログでもアドレスを変えるのがめんどうでやめた。

いづれにしろインターネットの怖さは記録が一瞬にして消えることとサイバー攻撃に個人になると防ぎようがないのである。
だから入り口でレンタルサーバーでもいいからセキュリティをしっかりしてもらわないと使えないとまでなる
そんなこと個人ではできないからである。

いづれにしろ「心に青雲」はどうなったのか?回復できるのか?それも技術的には個人的には無理になるから困るのである。
組織力があるなら技術者を雇うことができるが個人的にはできないからである。
インターネットでももしアメリカのCIAとか中国などが国家的にかかわったら操作されてどうにもならない、ここでも権力をもつものによって操作されるとなる
中国は国家戦略としてアメリカに対抗するためにサイバー攻撃をしているのである。
だから何でも個人では国家の権力に対抗することは無理だとなる
自分のプログでもホームページでも危険はある、たださくらのプログのセキュリティはどうなっているのか?
ともかくインターネットでも影響力が大きくなる場合がありそうなると権力側に攻撃される、そういうことでインターネット空間にも必ずしも自由な言論があるとはならない
情報は権力によって操作されているのである。
原発などもそうでありそのために大事故になったのである。その前に危険情報が知らされない仕組みになっていたからである。
東京都議会でも闇の権力者がいて予算が操作されていた。金がそうした闇の権力者に回っていたのである。それを暴くことが容易ではないというときそれは社会自体がそうなっている
巨大な権力によって情報は操作されて人々は肝心なことは知らされない、その結果として甚大な災いをこうむるのである。


タグ:心に青雲

2016年08月14日

オリンピックをする意味がなくなっている (力石のような村社会での意味すらない)


オリンピックをする意味がなくなっている


(力石のような村社会での意味すらない)


“郡上八幡城の力石伝説”
4 / 52015/11/17に投稿しました
かつてこの城の改修時に、通称赤髭作兵衛という力自慢の農民が城下の河原から三百キロを超える重さの石を担ぎ上げたという伝説があり、八幡城庭園内でその石(岩という大きさですが)を見ることができます

高千穂神社の祭神である、 三毛入野命(みけぬのみこと)は弟の神武天皇とともに大和に向われますが、伝説では再び高千穂へお帰りになり、高千穂郷一帯で悪行をはたらいていた鬼八を退治し、この一帯を治めたといわれておりす。
鬼八の大石は、この時、鬼八が三毛入野命に投げ、力自慢をしたという石といわれております。


真光寺にあった力石(郷石)も、賭博の一つとして使われ、村人は、事がある度に寺に集まり、金銭や田畑地を賭けて力比べに興じていました。村人は、そのためにすべてのものを失い、大貧乏になってしまう人が多数を占めました。この当時、村で賭博をやらない家は、2軒しかなかったといわれます。

「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村堺(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。

「力石(ちからいし)」とは、力試しに用いられる大きな石のことを言います。
力石の全国的な調査を行った高島愼助氏(四日市大学教授)は、「労働を人力に頼らざるを得なかった時代に労働者の間に発生し、力くらべや体力を養うのを目的にした石を指す。したがって力石による「力持ち」は、一人前の男としての通過儀礼、鍛練および娯楽としての要素が濃厚であった」と定義付けています

 力石は日本各地の神社や寺院の境内などにあり、力比(ちからくら)べや力試(ちからだめ)しに用いる石のことです。5斗石、8斗石などと重量が定められています。差し上げれば千人力になるとか近親の病気が治(なお)ると言われています。また、肩上げ、両差し、片手差しなどといって力を競います。

 住古女あり年20ばかり、木履を納め米一石を頭上に捧げこの坂を上りし故一石坂(いちごくさか)と名づく(南相馬市鹿島町誌)


力石とか比べ石とかは全国各地にあり多い、それは当時は人力に頼ることが多かったからである。持ち上げるのにも運ぶのにも人力頼りになると力がないものは仕事もできない
それで村では特定の石をもちあげれば一人前とされたというのもわかる。
つまり力があることが一人前の男として村に認められたのである。

現代だと力があることは必ずしも自慢にならない、機械が代わりにするからである。
でも以前として体力があることは何するにも必要だから価値がある
でも昔のように力より知能の方が重んじられるようになった。
するとそうした力石とかはただ祭りとして遊び化してスポーツ化する
もともと社会的に有用なことだったがそれがなくなると遊び化してゲーム化するのである
オリンピック自体がもともと戦争のために実際に行われたものである。
槍投げであれ円盤投げであれそれは武器として使われていた人を殺すためのものだった。それがスポーツ化して遊び化したのである。
社会的に意味がったものでも実用とてあったものでも遊び化する、その時実用性がなくなるから祭りともなる、相馬野馬追いなどももともと戦争のために行われていたが祭りとなったのと同じである。

オリンピックというときこれも何なのかというとそうしたもともとあった実用性から離れたものとして追求されている。今どき槍投げと円盤投げとか何の実用性もないのである。そして昔の力石というときそれは現実に仕事するにも力が必要だからこそ社会で意味あるものとして行われていたのである。
そもそもオリンピックになると世界的身体能力の超人を目指している
そういう世界は実用性からは全く離れた世界である。それは超人であり普通の社会の実用性からは離れた世界である。まず百メートルを極限の速さで走る必要性が普通はないからである。そんなことを追求しても意味あるのかとなる

では今のオリンピックはなんのためにしているのか?
それは企業とか国威高揚とかのためであり小さな村社会で行われていたものとは違う。
村社会で行われていたものでもそこには意味があったのである。
超人的スポーツ選手は企業の宣伝として使われている、商業主義のオリンピックなのである。
日本のメダルが多くなると日本の株価があがるというのもそうである。
それは企業にとって宣伝になり売り上げもはあがるとまでなるからである。
そしてテレビで視聴率をあげれば余計に宣伝効果が大きくなる
それでテレビを支配する電通が防いでも莫大な金を東京オリンピックの誘致のために金を使ったのであてる。
それは商業主義オリンピックだからそうなったのである。
オリンピックの選手にしても企業から宣伝費として金をもらうからそうしたプロなのである。だからメダルをとることが最優先される

オリンピックは最初は参加することに意義があるなど意味があった。何か世界平和のためとかもあったし国威高揚とかもあり東京オリンピックの時は意味があった。
今はそういう意味がない、第一すでに50パーセントがオリンピックに興味がないのであるオリンピックを開く民意がない、それでも行われるのは商業主義オリンピックであり企業が金を出すからだともなるしゼネコンが仕事になるからだともなるし電通によりテレビで視聴率を稼ぎ企業の宣伝になるからだともなる
だから意味を追求すれば村社会の力石、比べ石とかより意味としてはないのである。
世界平和というのも関係ないしオリンピック開いたからと世界平和が促進されることもないのである。
ただ身体能力の超人的追求になっている。それは普通の社会で生活する人から見たら関係ないことなのである。体力が必要でもそんなにしてまで体力を追求する必要もないからである。

人間はなにか常にあらゆることに意味を追求しているのである。人間は「考える葦」だというときがそうである。人間は哲学的存在なのである。ただ野獣的に超人的体力を追求するときすでにその時人間でなくなり野獣になっているのである。
今になればそうしたスーバーマン的な体力は機械に置き換えられているからである。
その機械化によっても力あるだけでは人間の価値はなくなったのである。
一体0.1秒とかの差を争うことにどれだけの意味があるのか?世界新記録にどれだけの意味があるのか、そんなものはいづれどんな種目でも限界が見えてくる
そんなことに意味はない、人間は超人にはなれない、スーパーマンになれないからであるだからオリンピックは世界的に日本でも興味を失っているだろう。
何かそういうものにあきたという人が多くなっている
それは社会的にも意味を見いだせなくなったともなる
それをあおっているのはマスコミとか企業でありそれを見る人たちは飽きたとなる
要するにオリンピックでなくても別なエンターテーナメントが娯楽でもいいわけである。何かオリンピックに前のような特別な意味が見いだせなくなっているのである。
だから東京オリンピックは無駄であり日本人の民意とはなっていない
でも別な力で公共事業のためとか企業の宣伝とか電通の利権とか利権としてオリンピックがある。それは村社会にあった力石とかのような意味もないのである。
あれだけ世界的巨大でも意味がなくなっていることがオリンピックの問題なのである。

posted by 老鶯 at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

武田邦彦氏のオリンピック(スボーツ)に対する発言は納得できない スポーツ競技とはなにか


武田邦彦氏のオリンピック(スボーツ)に対する発言は納得できない


スポーツ競技とはなにか


武田邦彦氏がスポーツは意味がないけど意味があるとか言っているけどこれは納得できない、遊びであるから金をかけるのは経済効果を言うのは無意味なのもとしてやるのだからかえって逆効果だというのは同感である。
たかがスボーツというときそこに莫大な金がかかっていることが問題なのである。
たかがスポーツなら草野球のようなものでもいいわけである。
何兆円も金がかかるオリンピックがたかがスボーツですまされないのである。
なんらか意味があるものとして追求されねばならない

それだけの金がかけるなら東北復興に金を使えばほかにもいくらでも使う所があるからだ
他のことは科学者としてその言い分はわかるがこれは根本的に理にあわない
理系というとき文系がおとしめられるが何かあらゆることに通じるわけではない
意味のないものに莫大な金を費やすからこそ問題がある
金を使わないなら草野球みたいなものなら別に問題なのである。
高校野球だってセミプロであり地元とは関係ない選手が集まりしているから地域の代表でもないのである。金もかかっているのでありたがらこそ勝つことが第一になるのである。純粋のたかがスボーツならいいがそうでないから問題なのである。

ともかくインターネットではなかなか議論が直接的にされない
自分もそうだがプログは一方的発言になってしまう。
こうして発言しても相手が読むとも限らない
パソコン通信の時代は逆にあまりにも相手をおとしめるための直接相手を攻撃するためのものだった。
プログになるとなんかそうした攻撃もない、だから一方的な発言となりそれで議論が深められることはない、プログはそうなりやすいのである。
自分だってずっーと膨大なものを一方的に発言しているだけだからである。
「心に青雲」なども内容が濃いのだけど同じである。一方的発言を延々としているとなるそうなるとなかなか議論を深めることができないのである。
その人の発言はその人の発言として終わりになる。

ただこうした内容の濃い人のプログを批判するとなると相当な人でないとできない
科学に弱い自分はまず科学について批判できない
ただ文系になると心の青雲の「国家論」とかなにかそこから議論を深めるものがあるかもしれない、それだって相当な知識が必要であり簡単にできない
第一マルクスとかでもそれを批判するとなればそれを深く理解しなければできない
そうなると批判自体が不可能だとなるのである。

ただ今回武田邦彦氏の言っていることは浅薄だからできたことである。
ほかはなかなかできない、専門的になると余計にできない
現代は専門家の時代であり素人は批判などできない
人間と意味がないことに国家予算なみのものを使うことはまちがっている
なぜなら人間はなんであれ意味を追求しているのである。

スポーツは気晴らしの意味があるときそれも意味だがそうならそんなに国家として金を使うべきではない
ローマの「パンとサーカス」になってしまう。現実になっている。
日本雑技団とか言う人もいて面白い、まさにサーカスなのである。体操などがそうであるそういうものにオリンピックとなると国の誇りだとなるのも納得しえないのである。
それは日本だけでない中国雑技団にもなる。そんな程度のものとしたらなぜ莫大な金をかけるのか?プラジルでは貧困にあえでいる人があふれている
その人たちにとってオリンピックなど何の関係もないのである。
現実にメダルもとれないのだから面白くないとなってしまう。

ただもし意味があるとしたら逆に株価が上がるとしたら経済効果として意味があるとなる武田邦彦氏は経済的効果をスポーツには必要ではないというがむしろ必要だからこそ意味があるとなる、なぜならそうしたらそんなに金をかける意味があるのかとなるからだ。
なぜそんなに金を使うのかということが問題になっているからである。




posted by 老鶯 at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年08月15日

佐藤優なる似非知識人がなぜ持ち上げられるのか? (暗黒時代に突入する日本)


佐藤優なる似非知識人がなぜ持ち上げられるのか?


(暗黒時代に突入する日本)


この人のことは全然知らない、本も読んでいない、ただ良く出てくるからなんだろうとは思っていた。
この人は似非知識人で信じられないのは創価と池田大作を礼賛していることである。
これはなんなのだと信じられないとなる、東電側にもついていている
創価というときこの団体がどれほど危険な団体か自分は自ら活動して知っている
仏教ファシズム団体である。仏教など何の関係もない、ただ会員を増やして権力奪取を目指す団体である。平和だとかいろいろご託は並べるがそれは平和装う狼なのである。
いかに創価が権力を得ようと日夜画策して活動しているか自分は活動していたからわかる選挙が最大の仏教の戦いであり池田大作は先頭にたって選挙のときは指導していたのである。そして先生のためにと婦人部はフレンド票をとるために必死になっている
それが高じて選挙違反者を出したというのもわかる。もうなにながなんでも一票をとることが最優先される、そのためにすべてのエネルギーは注がれているのが創価である
それはなんのためなのか?権力を得るためである。
そこで活動する人にはそういう野心家がいる、創価に入り権力ある地位につきたいという人が入ってくる
あと無知な大衆を操作して会員を獲得して権力を得るために民音と芸能人を支配しているこの人は創価系の芸能人なのである。

マスコミにもちあげられる知識人は危険

なぜこの人がこんなにマスコミとかで持ち上げられるのか?それはマスコミ自体が時の権力側についているからである。都議会選挙でも内田とか黒幕がいるのを暴くことができない、報道しなかった、都議会の闇を暴くことをマスコミはしなかったのである。
マスコミは無知な大衆を操作するためにある。宗教もカルトとなるとそうである。
宗教はファシズムになりやすいのである。創価の会員にもいろいろいるけどどうしても弱者とかが多いからそういう人たちを一票として確保する
宗教で自縛させる、それが効果的であり以前としてそれなりの会員維持に成功している
では宗教を利用して権力奪取をするというけどその幹部自体も池田大作自体も宗教に自縛されているのである。異常に罰とか恐れている、息子の一人が早死にしたとき罰あたったとして表に出すことを拒否したり何か病気になっても知らせないとかある
現実に創価に入っても何か解決しているのだろうか?

近くでは息子が若くて病気になり死んだし次に母親も死んで家はなくなった
創価では仏教では現象を一番重んじるけどそんな不幸なことなど会員数が数百万もいたらいくらでも見ているはずである。自分の家でも認知症になったとか必ずどの家でも不幸はまねがれないのである。第一不幸のない家などない、必ず病気になるし何らかの不幸はあるもしなければみんな入っているだろう。
創価でもエホバでもカルト宗教など人を選ばないのであるどんな人でもいいのである。そこには全くモラルなどない悪質な人間がごろごろしているでもその人がどうなのか性格がどうとかは絶対に問わない、どんないいかげんな人間でも会員になればいいのである。実際回りで創価の人間がどういう人間か見ていてみんな知っているのだからこれはなんなのだろうと理屈と関係なくおかしいなと知る
田舎だとそういうことは目に見えるからあまり増えないということはあったかもしれないそれでも田舎でも増えたというのはそれだけそううい闇の世界に吸収されるのものがあった。まず公明党の張り紙してあるところは何か問題をかかえているのである。

人間の社会はつくづく変わらない、なぜこんな人間が有名になりマスコミに持ち上げられている、クリスチャンなどいくらでいるからそれでクリスチャンとはならない。
教会に行っている人がみんなクリスチャンとは限らないし仏教でも会員になっているから信者でもないのである。ただ会員というだけなのである。最近はエホバが勢力を延ばしている。必ず生活保護者が標的にされて入っている、創価、共産、エホバは生活保護者の数が多い、そこに入る人の意識は高等な宗教は必要がない、要するに政治的便宜を計ってくれるとか何か利益を与えればいいのである。だからもし十万であれ借金があれば肩代わりしてやればすぐにそっちのほうにつく、つまり金で下層階級は支配できる
また公明党の議員が投票させるためにビール券を配っていたとかそんな程度で会員を増やし一票を得るために日々活動しているのである。

いずれにしても、このままゆけば日本はかつて歩んだまたあの”いつか来た道…”を間違いなく《反復》することは疑いようもないではありませんか。そして、知識人、擬似知識人、似非知識人、あるいは、純粋な悪の先導者であるピエロ、道化、マジシャン…等に先導されつつ、かつて想像もしなかった地獄へと転落してゆくのではないでしょうか。


日本でもほかでも同じなのだが人間は以前としてサタンの支配下から逃れていない
同じように似非知識人であれ似非予言者が跋扈して大衆をまどわし地獄に連れ込まれる
これはサタンの手先なのである。マスコミもそうい手先をもちあげる。
マスコミがサタンの手先なのである。だからマスコミは時の権力側にしかつかないのである。
この人は東電をも批判すべきでないと言っている。これも信じられないことである。
こういう人が有名になりもちあげられること自体がいかに今の言論界でももう信じられない堕落しているかわかる。
本当にいつか来た道をまた日本は行くことになる。戦争にもなるし原発事故もまた起きるこれはもう確実である。防ぎようがないのである。
自民党というのも信用できない、創価公明党を一時批判していたが味方になればとりこむ、ただ権力を得るためにそうしているだけであり一貫性がないのである。人間は権力を得るためには悪魔とも結託する、金のために魂も売る、これも人間が変わらないことだった
つまり常に権力を得る維持することが最優先になっているのである。
だからいづれは自公政権は崩壊する、その兆候は東京都知事選挙で現れたのである。
民主主義といっても言論の自由は必ずしもない、組織がなければ出版もできない
要するに人間はひどい目にあわないと現実が何か認識できないのである。
カルマもそうである、何か苦しい目にあうとなぜだろうとカルマを意識する、そうでなければ意識しないのと同じである。
こういう似非知識人や似非予言者にだまされて地獄に連れていかれてひどいめにあったときはじめてカルマを理解するのである。

この世とは変わらない暗黒の世界だったのである。その証明がこういう似非知識人や予言者が大手をふってまかりとることにある。
要するにこういうことが延々と有史以来くりかえされてきたのが人間社会だったのである結局この世には絶望しかない、闇の主がサタンが支配しているのは変わりなかった。
人間の悪など一掃できない、次々に新たな悪が生れる、形を変えて人を変えて送り出されてくる、おそらく創価がなくなっても次にまた新たなカルト団体が生れるし生れている
だから大洪水がきてノアの方舟で生き残る、救うのが神だとなる。
津波はまさにそうしたノアの洪水と思えるほどの巨大災害だったのである。
そして政府と東電が一体となって悪が暴かれたのである。とても人間ではもうそんな巨悪を暴くことはできない、そして必ず歴史的審判が下される

歴史的に長い時間の中で見たときなぜこんな似非知識人が世を席巻したのかと不思議に思うのである。その時はもうその人の名前は何もでてこない、忘れられるだけである。
悪名を轟かせてもその名は消える、この世で大きな名を力をもつものがサタンの手下だということである。誰も歴史的審判からまねがれることはできない
かつて権力をもっていたものも悪も白日の下にさらされる、特に時の権力者は容赦なく断罪されるのである。だから歴史が裁くのであり時間が裁くのであり長い目で見ないと人間社会も見えないのである。百年後くらいから現代を見る必要がある。
今こんなにも有名になり力があり権力かあっても見る影もなくなることがある。
それは個人的にもそうである。家族で死ぬときまで優秀だと言って死んだが実際は認知症になり馬鹿になっていたのである。
いづれにしろ現代の知的水準はこれだけ情報が氾濫していても低下している
カルト宗教がこれほど増えているのもそうであり似非知識人が主役になっていることでもそうである。次の時代は相当に危険であり戦争の時代に突入して地獄になるかもしれないなぜなら歯止めとなるものがもうない、マスコミも戦争中と同じであり権力側につく大本営発表しているだけだからだ。

日本は今外交的にも経済でも岐路にたたされている、中国に責められアメリカは退いてゆく、そしてまた戦争中のように日本は孤立してゆく、そして追い詰められて戦争になってゆく危険が増大しているのである。右翼関係の議員が増えているとか右傾化している
創価やカルト宗教団体は右でありそれが一体となり戦争に向かってゆく
その危険性が現実的に増大しているのである。その象徴が似非知識人がもてはやされていることである。その似非知識人も実は背後のブラックなカルト団体とかに操作されているのである。マスコミはまさに背後に電通とかいて操作されている
電通は何かわからないにしろそれが今度在日勢力の支配下にあるとか外国人勢力に日本はのっとられると右翼が言うのもわかる。
日本は闇の勢力にのっとられる、創価もそうでありまた左翼も在日も日本を中国に売り渡すとか盛んに言われる、真に日本を思っている愛国者は誰なのか?
創価は日本をのっとることを目的にしているし左翼も中国側に日本をさしだすものだと言う。すると真に日本を思う愛国者は誰なのかとなる
ともかく今は日本は非常に危険な岐路にたたされている、これから右だカルトだ左だとか内戦状態になるかもしれない。格差社会も内戦になる。もちろん原発事故で故郷を失ったことも深刻である、それもこれから日本全体に起こる地獄への始まりである。
そういうものとして津波が原発事故が起きたのである。
その反面として詩にしたようにここから故郷の再生がはじまるということもある
つまり原発事故にあったこの辺が福島県が日本の未来の鍵を握っているともなるのだ。
そううい使命がここに託されたともなるのである。

擬似知識人、似非知識人、あるいは、純粋な悪の先導者であるピエロ、道化、マジシャン…等に先導されつつ、かつて想像もしなかった地獄へと転落してゆく

まさにこれが佐藤優がもてはやされることでも具体的にわかる。何かマジシャンのような風貌をしていないか?ピエロとか道化とかがテレビの画面を占拠して大衆は操作される
そしてそれが地獄の道を通じているのである。白痴化された大衆は操作しやすいからである。そしてその大衆自体が地獄へひきずりこまれるのである。
あとどのくらいでそうした地獄が生れるか?その前に自分はこの世を去ってゆきたいとなる、戦後70年は実際はつくづく恵まれた時代であった。しかしそれもいつまでもつづかない。次の時代は暗黒時代になる、ともかくうたかたに消えてゆくような人間が大手をふってこの世を席巻していることそういう人間をもちあげること自体日本国滅亡の亡国の徴(しるし)なのである。

タグ:佐藤優
posted by 老鶯 at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

abstract pictures(海の生物ーmarine organism)


abstract pictures(海の生物ーmarine organism)

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海中の生物(ウニやヒトデ)

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洞窟(cave) 

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川の流れー川の水も複雑に流れる complexed flow

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ギリシャの壺(a vessel of Greece) 


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抽象画を作る時は自分の場合は創作しようとしているのではない、それだけの才能もない、暇なときしているのである。
だから創作するというものではない、インターネットにある原画を変化させているだけである。

ただ今回の場合は著作権違反になっているかもしれない、何か抽象画に変化しやすいものとしにくいものがある。変化しやすいものはいくつにも変化できる
変化できないものはいくらしてもできないのである。


これは外国のものだけどもしこれを見たら指摘されたら著作違反となるかもしれない、ただ自分は楽しみとしているのであり商業として金をとっているわけではないから許されるかもしれない、第一インターネット上にある抽象画を利用してもわからないだろう
一度も指摘されたことがないからである。

要するに抽象画の楽しみ方としてソフトで変化して楽しむというだけである。
自分の変化させるなら創作しているが他人のものとなるとあまりにも類似していると著作権違反となる。

ただ不思議なのは抽象画として変化させやすいのさせにくいのがある。
これも変化させてみないとわからないのである。たまたまソフトで変化させて面白いなとなり出しているのである。


Creature ー marine organism) of the abstract pictures( sea

When make an abstract picture, there is not the talent only for it which is not going to create in the case of oneself; is free; untie it.
Therefore I only change the original picture in the Internet that is not a thing to create it.

There is only the thing which is hard to be easy to change into some abstract picture which may become the copyright violation in the case of this time. Even if the number of things which are easy to change is how many, and the thing which cannot change which can change is how much, it is not possible.


This is because it has not had writing violation and the once that it will not know even if oneself only uses the abstract picture which there is on pleasure and the first Internet that may be permitted because I do it and do not take the money as commerce that it may be pointed out when it has it pointed out though this is a foreign thing if it watches this either.

In brief, it is only said that I change by software as a way of enjoying abstract pictures and enjoy it.
Of oneself if change it, create it, but it is with copyright violation when too resemble it when become the thing of another person.

Mysterious one only has the one which is hard to let you expand which it is easy to change as an abstract picture.
I do not understand that I do not change this either. I change it by software by chance and begin to become when interesting.


タグ:marine organism

2016年08月16日

お盆終わる


 お盆終わる


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涼しさや月の写れる沼一つ

芙蓉咲くその花見てそ帰るかな


一時はにぎわいにけりお盆かな蝉鳴く声の墓地にひびきぬ

我が墓に花挿す人のありしかな誰とも知らずうれしく思ふ

我が家に帰りて待てる人もなし壺にさす菊映えて待つかな


近くの墓地でもお盆以外は閑散としている、そして生きた花はさされていない、ということは墓参りはたまにしかしないのである。
自分は毎日墓の前を通るから淋しいと思い生きた花をさしている
ただ花は枯れやすいので造花をさしているのが多い
その造花も何か嫌なのである。花はやはり生きた花がいいのである。
その生きた花が死者と通じるということがある。
いつもさしている造花は墓参りしない死んだ花である。

つまり墓も近くで身近でないと活きたものとならないのである。
一年に一回くらい墓参りに遠くにゆくとなると何か墓も死者も遠い感じになる
だから墓守となると墓地の近くに住んでいないとできない
近くだと死者もともに生者とと生きているという感じになる
特に街中にある墓地はそうなるのである。
自分の場合は毎日自分の墓の前を通っているからである。
誰か自分の墓に花を挿してくれた、多分姉が保健婦の時世話した人だろう
あの人だけはいい人だった、一番世話した人は最悪だった
借金だけを病気の時要求してきたからである。
死後までそうして花を挿したり墓参りしてくれる人はよほど誠実な人である
人間はたいだい薄情であり死んだら縁も切れるのが多いからである。

ともかく自分が生きている限りは家でも墓でも以前として死者も生きている
でも自分が死んだらそれもなくなる、この辺でまた空家が一つ増えた
なんか跡継ぐ人がいないのである。全国で800万軒の空家があるという驚きである。
それだけ今の時代は少子高齢化であり跡継ぎがないから何でも家でも墓でもあとをどうするかとなる

墓参りというときお盆というとき遠くから来る人が多い
この辺では仙台が多い、仙台に移り住んだ人が多いということである
墓はだから維持するのがむずかしくなる、それだけ今は広域に人が散らばり住むようになったからである。
でも死者が江戸時代あたりでは山に眠り春には田植えの時には山に下りてくるという葉山信仰とかは死者が死んでも故郷というかその地域に以前として生きているという感覚になるからいい、死者はその土地に長く生きていれば以前としてそこに留まり生きている感じになるからだ。都会だったらそういう感覚はない、ビルの一角にアパートのような狭い所に閉じ込められている、そういう区画した墓がありそれも嫌だとなる
死者が生き続けるというとき故郷が土地がないとき生きてこない、死者を思うときその生きた土地から思うからである。
だから故郷を喪失することは実際は何か人間の根源的なものをアイディンティなるものを失ったとなるから深刻なのである。
ただ若い人はあまりそう考えないかもしれない、便利であればいいというだけで移住した老人は簡単に移住できないのはそうした深く故郷とアイディンティを持つようになったからである。
故郷は別に生れた所ではない、長く住んでいれば自ずとそうなってゆくのである。

あそこの沼も沼らしくなくなったのが残念、近くに家が建ち変化してしまった。
この辺は自然まで変わっている、沼でも自然のままにあれば情緒があるがなくなった
自分の町は都会化したがこれはもともと田舎過ぎたからこの変化は良かった
でも自然があれば安らぎがある
芙蓉が咲く時期である。この花はおおらかであり好きである。
自分は神経質すぎるからである。自分は太った女性が精神的にはあっている
なんかなごむからである。
人間つくづく借金しているような家には行きたくない、こっちまで重苦しくなるのであるそれでずっと自分は苦しめられてきたのである。
あの家の人のこと思うだけで苦しくなるし憤りさえ今でも覚える
結局人間は平和が何かわからないのである。
借金している家には平和はない、病気している家にも平和はない
そういうものがないとき平和なのである。芙蓉のように咲いているのが平和なのである。この辺では当たり前のことが自分の一身上でも失われたし全体でも失われたのである。



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2016年08月17日

抽象画(海中の岩ーrocks in the sea)


抽象画(海中の岩ーrocks in the sea)

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seaside towns

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合流する川

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rocks in the sea


抽象画というとき何かに見える、具象画として見る、これは海岸の街だといえばそうである。鎌倉などもイメージするし湘南とかもそうである。
あの辺は海と街が一体化しているからである。

今回気に入ったのは海中の岩である、石と岩をテーマにしているから自分らしいとなる
海中にも岩があるということを自ら抽象画を変化させて作り認識したのである。


If it is said that this to watch as a representational painting looking like something at time called the こ abstract picture is a town of the shores, it is so. I image Kamakura and am so with Shonan.
That neighborhood is because the sea and a town are unified.

I changed a oneself abstract picture and made that there was a rock in the sea where it was when it seemed to be oneself because what I liked this time featured the theme of a stone and the rock which were an underwater rock and recognized it. 

If it is said that this to watch as the representational painting which I will input the sentence that I want to translate, and is seen in something at time called the abstract picture is a town of the shores, 
 I image Kamakura and am so with Shonan.
That neighborhood is because the sea and a town are unified.

I changed a oneself abstract picture and made that there was a rock in the sea where it was when it seemed to be oneself because what I liked this time featured the theme of a stone and the rock which were an underwater rock and recognized it