2016年07月24日

野馬追いの旗取りが終わり夕べ虹がかかった (南相馬市は合併して十年過ぎていた)



野馬追いの旗取りが終わり夕べ虹がかかった


(南相馬市は合併して十年過ぎていた)


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帰り馬夕燕飛び虹かかる


雲雀が原旗とり終えて帰る馬そのあとかかる夕べの虹かも

南相馬市も合併して十年すぎにしや原町鹿島虹かかる夕べ

交わりて争いつつも過ぎにける時間にあるかな歴史を刻む


野馬追いの帰り馬というのは雲雀が原から神旗争奪戦で旗をとり帰る馬である。
それは三時ころだった

次ぎにこの虹を見たのは虹がかかると予想した
この辺では夕方にかかりやすい、東が曇っていて太陽が沈むころ虹がかかる
何回もそうして虹がかかるのを経験しているから予見した。

虹がかかるなと天候を見たら虹が最初はかかっていなかったがしばらくしてかかったのである。天候はやはり経験でわかるのである。
天候はある程度確かに予測できるのである。
ただ地震だけはできないのである。

今日一日は最初は雨がふっているので雲雀が原に行く気がしなかったけどフログにのせるために何か種になるものかないかとロードで急いで行った
行列は半分終わっていたが会津の日新館の車があったことは収穫だった

そのあとに虹をとった、こうしてフログというのはともかく今起きたことをのせる
すると一日追われるのである。
今日は特に野馬追いがあったので追われた
そうでなくてもプログが今あったことを即座にのせる、報告する
それが醍醐味なのである。
だから読む人もその日の内に読むと臨場感が伝わるのである。
つまり生放送に近いのである。
だからプログに出すということは結構時間であり手間なのである。
本当に読ませるものとなるとかかりきりになるのである。



2006年(平成18年)1月1日:原町市および相馬郡小高町・鹿島町が合併し、南相馬市が誕生

南相馬市が小高、原町と鹿島と合併して十年が過ぎていた。ある意味で記念すべき年だったのか?
それでもなんか津波、原発事故のあとは補償金問題とかでかえって逆にそれぞれの前の町に分断された、特に小高と鹿島の確執は補償金問題で仮設を出てもしこりを残した。
小高には小高の言い分があるし鹿島には鹿島の言い分があるが市長でもその間を取り持つことができなかった。
福祉関係でも良いから補償金を平等にすべきだったのである。
ただ小高の人も何が迷惑なのとか何で鹿島の人が文句言っているの、不満なのということがあるのも相当無神経なことである。
しかたがなかったにしろ福祉関係でも迷惑がかかわっていた人もいたのである。

小高の人だけの問題ではないが自分が病気で苦しんでいるとき
避難して仮設に入りあとはパチンコ屋に何もすることなくおしかけていたのである。
その時自分の所に来た親戚の人はパチンコ屋に働いていた。
それは遊びであり自分は苦しんでいたのである。
それは小高の人の問題とは言えないかもしれないが何でそんなことをしているのだ
どっちにも怒りがあった。でも弱い立場だから何も言えなかったのである。
小高の人に今でも不満をいだき怒っている人もいる。
その人は弱い立場に前からあったから余計にしゃくにさわったのである。
小高の人に馬鹿にされたとか怒っていたのである。
ともかく合併したのはいいが心は分断されてしまったのが残念だった

ただ今日は雲雀が原で神旗争奪戦があり夕べ真野川に原町から鹿島にかけて虹がかかったそして合併して十年過ぎたのかという感懐があった。十年一昔というからである。
なかなか合併して実質的に合塀するということは歳月がかかるのである。
自分も介護始めてから十年すぎた、これも長かったなとつくづく思う
ただ十年くらい介護している人はめずらしくない、それだけ介護は長いことが問題なのである。自分もそしてたちまち年とってしまった。
争うとしてもこれもまた融和するためにも必要だということもある。
良く村同士で綱引きなどがあるがあれも村同士で争っていたのである。
でも時間がたってそれが祭りとてし残ったのである。

人間は例え争っても長い時間を過ごすとそれが愛に変わったりする
争うことが憎むことが愛だったとまでなる。
人生とは最後にどんな感懐を抱くのか?
これも二人の家族が死んでつくづくわからない不思議だと思った。
家族は争っても長い時間を過ごすから例え憎み合ってもそれが愛だったということすらあるのである。
これを合併した南相馬市にあてはめることは別問題かもしれないがやはり何でも時間がかかりそれが歴史となってゆく
時間をかけなければ何でも融和してゆかないのである。

野馬追いで雲雀が原に会津日新館の車が来ていた (会津武士道とは何であったのか?)


野馬追いで雲雀が原に会津日新館の車が来ていた


(会津武士道とは何であったのか?)

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神社旗。天地五行(赤・青・黄・白・黒)の五色

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馬上より声荒ららげて侍の誇り蘇る野馬追いなるかも

日新館と車にあるから何かと思って聞いてみた。
これは劇場用というとき撮影用の馬を飼っている会社だった。
日新館というとき八重の桜だとか会津は常に時代劇に選ばれる場所だから撮影用の馬を飼っている。その馬が野馬追いで使われる、野馬追いの馬はみんなが飼っているわけではない、野馬追いの時だけ借りて使うものが多い、特に津波かとか原発事故で馬が不足したから借りる馬が多くなった。もともと競走馬なども借りていたし今も借りている。
野馬追いはやはり馬が主役になる祭りでもある。馬がこれだけ見れるのは壮観である。
あとは競馬場でしか見られないだろう。何かギャンブルしなくても馬券を買わなくても
馬が走る所を見たいと自分は思っている

やはり馬自体に魅力がある。馬は高いから野馬追いの行列だと見上げるようになる
馬にのっていると見下ろすようになるから偉くなったような気分になるのは確かである。
ただ馬と人間の物語が消失したから馬というのが実感としてわからなくなったのである。馬を扱う人は馬についていろいろ言う、それは生き物であり馬を扱うことは馬と通じあうことであり馬を知ることでもあるのだ。馬をてなづけるのには首筋を触るがいいというときみんなそうしていることでもわかる。
それは猫でも同じなのである。猫も飼うと結構飼い主を気づかっているなと思う、何か動作で通じ合わせようとしていることがわかる。動物はみんな同じだと思う。
特に犬,猫,馬は人間にとって通うじあえるものだった。ただ馬に関しては身近にいないからわかりにくいのである。
でも競馬では体の張りがいいから調子がいいとか馬券を買うから競馬やる人は馬のことを知るし知らないと勝てないから馬に詳しいとなる。

日新館の教えとして

■第四等(基本教育につき、家格に関係なく必須)
孝経、四書(大学、論語、孟子、中庸)、小学、五経(詩経、書経、禮記、易経、春秋)、童子訓

■第三等(三百石未満の長男、三百石以上の二、三男の定級)
四書(朱註を併読)、小学(本註を併読)、春秋左氏傳

■第二等(三百石以上五百石未満の長男の定級)
四書(朱註を併読)、小学(本註を併読)、禮記集註、蒙求、十八史略

■第一等(五百石以上の長男の定級)

四書(朱註を併読)、近思録、二程治教録、伊洛三子傳心録、玉山講義附録、詩経集註、書経集註、禮記集註、周易本義、春秋胡氏傳、春秋左氏傳、國語、史記、前漢書、後漢書


日新館で学ぶものがまず長男だった。。長男が跡継ぎとして特別だった。
それは明治以降も家を中心として長男が跡を継ぐので特別だったから継続されている。
年長者は特別配慮されて敬われている身分制社会である。
こういう社会は老人にとっては居心地良い社会だったのである。
白虎隊がなぜ生れたのか?それは日新館の教育の結果だったともなる。
そういう教育を受けていたからそうなった。それよりもやはり教育というよりそういう武家社会が厳然としてあるのだからそこに少年は子供は適合するからそうなった。
そういう社会があって教育もあったのである。
だから今いくら教育がどうしようかと言っても社会と別にあるわけではないのだから教育だけではどうにもならないのである。

年上の人を敬うということは江戸時代はそういうことができた社会である。
年上の人に習うということがそもそも基本的な社会のしつけである
それは年寄りは何かしら教えるものを年下のものにもっていたからである。
だからこそ師弟関係もあった。今社会で年寄りが敬われないかというと教えるものがないからである。
むしろ技術の進歩が早く変化するから年下のものから教えられたりする
そうなると年寄りの権威もなにもなくなる、敬うこともなくなるのである。
現代ほど教育がむずかしい社会はない
学ぶものも江戸時代の百倍もあり何を指針にしていいかもわからない
要するに何を指針にしていいわかわらないからカルト宗教団体とか共産党でも特定のイデオロギー団体に入るとかでしか教育がないのである。

江戸時代と現代の相違は人と人の直接な関係の中で学んできた。狭い生活圏の中でともに暮らし日々の生活で学んでいた。

道の真ん中は偉い人が通るところですから、子どもは道の端を歩きなさい。そして、門の敷居は踏んではいけないし、中央を通ってもいけません。ましてや、藩主や家老がお通りになる門はなおさらのことです。

道の真ん中をも歩けないというと厳しい、窮屈だろう。これが身分制社会だった。
野馬追いで行列の前を横切るなとか二階から見るなと同じである。
江戸時代が何でもいいわけではない、こんなに身分制社会だったら人間も窮屈になるだろう。それを批判する人もいる。上下のようにあまりにも余裕のない四角張った社会だとなる、自分が江戸時代を理想のように言っても実際は江戸時代にもどったらとても耐えられないとなる。
ただ過去は今の社会と比べといいようにイメージする美化されるのである。
今はこんなだけど江戸時代だったらこんなことはなかったろうなとかなる
それはあくまでもイメージの世界であり現実に生きたらそうはならないのである。

二、父母や目上の方へ食事の世話、それからお茶や煙草の準備をしてあげなさい。父母が揃って食事をする時は、両親が箸を取らないうちは子供が先に食事をしてはいけません

子供に給仕のようなことをさせるのは今でもさせているからめずらしくない、食事の世話となるとどういうことなのか?自分の子供のころはみんな家の家業の手伝いをしていた。
農家でもそうであり子供は働かせられていた、重要な労働力になっていた。
今はそれより学業に励めとなる、いい学校に入れとか受験競争になったのが団塊の世代からである。そこには仲間意識もなく上に上がり得するために仲間をおしのけ蹴落としてもいいとかになった。
社会が変われば価値観が全く変わってしまうのである。

ともかく会津藩というとき相馬藩の六万石とは比べようがない、歴史の厚みも広さも違う一つの国である。だから様々なものが残っているから歴史を勉強するには興味が尽きないとなる。そこには一つの世界観を形成できる。
相馬藩には藩校などないしどういう武士道なのかもわからない。ただ野馬追いがあるようにやはり侍なのだから武士道があった。それは日新館の武士道とにていた。
それは全国的武士道があり共通のものがあるからだ。

いづれにしろ現代は上に立つものが常におとしめられ否定される民主主義社会である。
こういう社会は常に不安定な社会になる。
確かに子供のときは窮屈でもやがて年長者になり年寄りになれば敬われるそれは精神的に安定した社会なのである。
老人か今敬われない、居場所がないとかならないからであてる。老人であるだけで敬われていたのである。これだけ大量の老人が社会に存在していて無用のものとされているのは悲劇である。老人は社会的に存在させられていないというときもそうである。
でも現実に老後は長いし社会に生きていかねばならないのである。
タグ:会津日新館
posted by 老鶯 at 17:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)