2016年07月29日

知的障害者大量殺人と高齢化社会の共通問題 (生きている時から社会からその存在が消失していた)


知的障害者大量殺人と高齢化社会の共通問題


(生きている時から社会からその存在が消失していた)


でも日本人の多くはどうも実感がわかないんだよな。 

被害者の顔も名前も報道されないから、どこか別の世界の出来事のように思える


今回の事件はこれだけの大量殺人であり残虐なのに反応がそれほどでもないのはなぜか?
やはり知的障害者としてすでに生きている時から社会から抹殺されていたような状態にあったためだろうか?
死んだ人の名前も出ないということは死んだ人がどういう人かもわからない
どういうふうに生きていたのかそもそも社会的に存在していたのかもあやふやである。
山の中に隔離された施設だということもそれを示している。
それは社会的にはあってはならないもの、隠されるべきものとして隔離されていた
親自体があまり語らないことでもわかる

第一親族がもし普通の人がこれだけ殺されたら大騒ぎになり泣きじゃくったりその理不尽を訴えたりする、それがほとんどないということがこれだけの大量虐殺でも何か社会的に関心がもてないないのか?
外国のテロの被害者でも名前があげられみんなで国民全部で追悼している
バングラデッシュのテロで犠牲になった日本人は政府の要人がその遺体を迎えて国民が戦争の死者のように迎えた、英霊ではないがやはり日本国民にとってその死は大きな意味をもっていたのである。

今回はこれだけの大量殺人なのに何か死んだ人でも家族でも反応が弱い、これも不思議な現象だとなる。
それはなぜなのか?子供が死んだらその将来を奪われたかとか、この人は若くて結婚するところだったとか、生きていればその将来を未来を奪ったと訴える
それがないということは知的障害者であるがゆえに生きているときもすでにその存在が消失していたためなのか?
誰も家族すら見放して山の中に隔離されて蓋をされてないもののようにされていたとなる誰もそういう存在を見たくない、家族すら見たくないのである。
それ故にこれだけの人が死んでいるのに死んでいる人の名前すらでとないし生きていれば何々できたのにその未来を奪ったと訴えることもない
そもそもこういう重度の障害者には未来そのものがあったのかとなる
要するにその死はやはり現実に生きている時からすでに社会的に死んでいたような状態にあったからではないか?

そのことを自分の身内で認知症になって感じた。生きているときはいろいろ社会的にも活躍していた活発な女性だった。
でも退職したときから家事すらもなにもすることがなくなった。50代で役所をやめたかその後の老後が長かった。役所で働いているときとかは社会的に忘れられるということはなかった。もともと活発な女性であり優秀な女性だったからである。
それが退職してから何もしないからいつしか社会からも忘れられてしまっていたのであるこのことは人間にとって知的障害者だけではない、大きな問題をはらんでいる。

なぜなら大量の老人が実際は今でも社会的に無用化していることなのだ。
社会的に無用化するとその人たちは社会から消える、存在しなくなる
社会的に意味のないものとなり今回殺された知的障害者と同じになるのである。
だからこれは別に知的障害者だけの問題ではない、今の高齢化社会自体の問題なのである無用化した特に延命治療するとか認知症になった人とか負担をかける人は抹殺しろということである。それは家族でも社会でも何の意味もないものでありただ負担をかけるだけの存在だとなる。だから今回のように抹殺しろとまでなりうるのである。
毎日老人は死ねとネット叫んでいる若者もそうである。
高齢化社会は確かにかつても老人は無用だ何の役にもたたない、家族の負担になるだけだと捨てられたとかあるがそれはまだまだ老人はその頃数は今と比べれば極端に少ない
それより子供の間引きの方がかなり行われていたことは確かである。

ともかく高齢化社会の問題は様々あるが社会的に無用化されて社会的に存在させられない、社会的に意味ないものとしてただ社会に特に若い世代に負担をかけるものとしてあるから知的障害者とは違っていても同じ問題をかかえているのである。
子供とか若者が死ねばその未来を奪ったとか訴えるが老人が死んでも負担が消えただけだとなる、それは今回の知的障害者と同じものがあるのだ。
別に老人が少ないならこういう問題があっても社会的問題までにならない
「無用の用」とか老人も何もしないことでも存在感があるんだよとか認められる
これだけ老人が多いとそうはいかない、社会的負担が大きすぎるからである。

いづれにしろ人間は生きながらもう死んでいるということは大きな問題である。
生きているとき死んでいるのだから死んでも誰も関心がないとなる
そんな人生きていたのとなり今回のように殺されてもその存在感がないのである。
社会的に無用でも意味なくても家族の中で意味あることがある。
それないとしたらなんなのだろうとなる。
自分は介護して家族は最後まで意味あり大切なものとしていた。
それが今回のようにないとしたらその人たちは生きながら死んでいたともなるのではないか?
だから死んでもそれほど騒ぐ人もいないとなりたちまち忘れられるとなる。
この事件は高齢化社会と老人問題と認知症問題などと共通しいるから関心をもったのである。


posted by 老鶯 at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年07月30日

抽象画(藻ーseaweed)


抽象画(藻ーseaweed)




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これも変化させてなった、原画は自分のものではない
要するに変化の芸術となっているのがパソコンの抽象画なのである。
ただ具象画とは離れていない、藻というのがここから見える
変化させてこれは藻だなと納得したから一連のものとして出したのである。
抽象画が無限の変化だから一連のものとして作りやすいのである。

津波で流された海老の村で話する (津波の言い伝えを聞いていたというが・・・・)


津波で流された海老の村で話する


(津波の言い伝えを聞いていたというが・・・・)



朝に海老の浜で北海老の人と話した。

「川の方が魚がのぼってきてとれるな、イシモチとか鰈な、うなぎもとれているよ」
「海より川の方が魚釣りにはいいんだ」
「しじみもとれているよ、みんな放射能計って売ってもいる」
「安全になったのかな」
「真野川のシジミはうまいだよ」

前は自分もシジミを真野川でとっていた。沼のような所がありそこは川からちょっははずれていてそこに大きなシジミがとれたのである。
結構真野川ではシジミがとれていたが漁業組合の人しかとっていけないとなったみたいだシジミとりとかアサリとりは食べるというよりとるのが楽しみになる
でも三人家族分くらいとっていた。何もすることがないので自分はそんなことをしていた時があった。それはずいぶん前であり河川改修する前だからこれも30年前とかなる。
うなぎもとれるとなると鰻をとれたら貴重だろう。天然の鰻など高くて食べれないだろう鰻は自分の父親と鰻釣りに田んぼの畦に行ったことがある。
ミミズをさして穴にさしこむのだけどかなり待っているのが嫌だった。
魚釣りでも自分は何か待っているのが嫌で好きでなかった。
なんか自分は自転車のように絶えず動いている方が性分にあっている。
じっとしていられないのである。自然の中では特にそうである。
それにしても河口は放射性物質が泥と一緒に流れてきて非常に放射線量が高かった
阿武隈川の河口でも異常に高かったのである。
だからそんなところでシジミやアサリをとっても大丈夫なのかとなる?
放射能といっても気にしない人はしない、ただ子供もっている母親とかは異常に気にしている
年寄りなどは気にしないから前から別に普通に食べていたのである。
十年後二十年後にガンになるといってもその頃みんななる人が多いのだから気にしてもしょうがないとなる


その人は北海老の人だから津波の被害にはあっていない、でも人が流れてきて助けてくれと叫んでいたが助けようがなかったという。津波は物が流れてくるから危険だった。
こういう経験した人はなかなかその場面を忘れられないだろう。

「逃げないやつは死んだ、消防でも警察でも避難しろと回ってきたのに逃げないから死んだ俺は川を見たら水が退いていたから危ないと思っていた。そういう言い伝えは聞いているからな」
「津波の言い伝えを聞いていた、そんなにそれは語られていたもんなのかな、知らない人多かったのでは」
「津波が来たらテンノウ様や寺に逃げろと言われていたんだよ」
「この辺では津波は来ないとみんな思っていて逃げなかった」
「そんなことないよ、俺は津波のことを聞いているよ」
「そうかな、それを聞かされていればみんな逃げた思うけどな」
「逃げないやつは馬鹿だったんだよ、あれだけの地震だったんだからな」


 ここに、「てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。その道が上の写真。 
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。 


テンノウと言っていたのはてんとうのことかもしれない、北海老だと柚木(ゆぬき)も隣り合わせだからである。
でもその人が考えてみるとどれだけ親からでも祖父母からでもその言い伝えを聞いていたのだろうか?どれだけの人がこの辺でそのことを実際に親から祖父母から聞いていたのだろうか?
津波がきてから学者の人がそういう言い伝えが残っているということは調べられた。
でも現実問題としてそういう言い伝えがどれだけ先祖から祖父母から親から子へと言い聞かせられてきたのか?
そういうものでもただ今度は文字として記されているだけになるのが多いからである。
口碑として残るとしても言い伝えでゆくことは容易ではない、第一400年もの前の話だからである。そうなると文書としては残っても口碑としては絶えるだろう。
ただ津波がきてそういう言い伝えがあったと見直されただけではないか?

要するにもう慶長津波がここに被害を与えたとしても400年も言い伝えることは相当に困難になる。ただ文書として町誌などには記されている
でもそれが口伝えで言い伝えられるたとはなくなるということはある。
すると何か実感がわかない、遠い昔の出来事になってしまう
そういう言い伝えがあったとしても何かみんなそれを本当のこととして津波を警戒するまでにはなっていたのかとなる
その人はそういうことを言っても何かそんなに言い伝えられていて警戒していたのとなるその人は第一北海老の人であり津波の被害にはあっていなかったからである。

ともかく津波で共通していることは海の水でも川の水でも極端に退いてゆく、これは三陸の方でも共通した現象である。もう川の水でも海の水でもひいたら即逃げる準備をしろとなる。時間がないのだから何かもってゆくものなど探してもいられない、金でも預金通帳でもどこだろうなと探していると間に合わなくなってしまう。タンス預金は流されてもしか2たないとなる
実際にそうして死んだ人が現実に相当にいるのである。
自分も本などがばたばた落ちてきてそれだけパニックになり混乱した、そういうときかたづけようとかしていたらたちまち津波に襲われて死んでいた。
即逃げない限り津波からは逃れられない、地震がきてから40分の後でありこの辺は時間があった。それでも逃げないで多数の人が死んだのである。
東南海地震津波では数分で津波がくるとしたらもう逃げることはできないとなる

一番失敗したのは海に面した崖の上が高いということでそこを市で避難場所に指定していたことである。そこに避難して30人も死んだのである。
逃げるところはすぐ近くでいくらでもあそこはあった。
すぐ森になっていてそこに逃げれば助かったが津波は急激に襲ってくるから逃れられなかった。
あそこの森に逃れて右田の人も数人は助かった。墓地もありあそこに逃げれば良かったと北海老の人も言っていたがそれは見ればわかる。
人か住んでいる家が全部なくなり墓地だけが残っていたのである。
肝心の生きている人は死んだのだからやりきれないとなる
つまり墓地は流されても肝心の生きている人が流されなければ良かったのである。
墓地だけが残ってもどうしようもないのである。

津波からも5年過ぎてだんだん深刻さがなくなり忘れられてゆくのか?
いくら肉親でも死ぬと忘れられてゆく、人間は何でも忘れのが早いのである。
あれだけの被害でも5年過ぎれば関心がなくなり忘れられてゆく
ただ被害地である地元ではまだまだ忘れられない記憶である。
右田の一本松も枯れたり何か津波の被害の跡も消えてゆくと忘れられてゆく
人間は何か忘れられないようにすることがむずかしいのである。
だからこそ津波が400年前にあったとしても語り伝えられたとしてもそれが現実味を帯びて伝えられなかった。口伝えで伝えるのには限度がある。三代くらいまでは可能である。それ以上になるとむずかしくなる。
そして不思議なのは相馬藩政紀に二行くらい生波で700人溺死と記されて記録は知られずに埋もれていたのである。
だから外から来て調べた人も本当に津波があったのなかったのではないかとまで言う。

地元にしても資料がないとしたら本当にそんな大きな津波がここにきたのとなる。
いろいろ調べてもなんか状況証拠みたいなのはあるが明確に本当にそんな大きな津波が来て犠牲があったのかということがわからないのである。
なぜなら相馬市のボーリング調査でわかった津波で運ばれて埋もれ砂は貞観津波のものだったからである。
慶長津波はどうなったのかとなる。そういう証拠が見つからないのである。
最近の調査で津波で消失した南海老村の跡の発掘では縦穴住居があり弥生時代から人が住んでいて鎌倉時代の住居跡もあったから相当に南海老村も古いのである。
でも慶長津波がここに来たとかわからないのである。
ただ海老はエヒであり蝦夷(エミシ)が住んでいたというのはありうる
つまり海老村はそうとうに人が古くから住んだ場所なのである。


タグ:津波の話

夏の雲(建て続けられる復興住宅)



夏の雲(建て続けられる復興住宅)

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右田の津波の跡の庭(クリック拡大)

津波跡庭の大石に芙蓉かな

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これは二所帯用である

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クリック拡大

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津波跡庭の大石に芙蓉かな

建て続く復興住宅夏の雲

田舎にて木蔭に休む大工かな

新しき復興住宅地夏燕



ここの右田の家は流されて庭だけが残った。
ここの庭は前に外から見ていたけど大きな石があった。
いい庭だったのである。それを中に入って見るのは不思議だとなる
この俳句は別に写生そのものであり何の才能なくても作れる
写生そのものが実際はと驚きになっているのだ。
第一津波など経験しえないことであり庭だけが残っている跡など普通だったら見れないからである。「事実は小説より奇なり」となっているのがこの世なのである。


シシドスーパーの隣に復興住宅は建てられている、あそこを毎日通っている
だんだんできてゆくなと見ている。
ここを建てているのは東京の人だった。
これは地元の大工とも協力してたてている工法だという、それを普及するためにしているという。
大きな家は二所帯用だった。ずいぶん大きいと思ったからだ。
復興住宅はみんな小さい、だからこんな大きな家が建つのかと見ていた。
二所帯分だから大きな家になっていた。二所帯でもかなりスペースがある。

今はみんな建て売りで地元の大工は何しているのかと思っていた。
ここだって実際は二週間で組み立ててできるという。
何か今までの大工の仕事がなくなり家の組み立て屋のようになっている。
だいいちこれだかけの家を建てることはとても地元だけではできない。
その人は会社の人で小池のホテルに泊まっているという
電話工事の人もきていてその人は原町の寮のような所に泊まっているという。

今日はからっとした暑さだったが遠くに行けない、原町でも相馬市でも暑いときは行きにくい、紫外線が怖いからだ。
だから毎日近間を行ったり来たりしているだけなのである。
でもなにかこの復興住宅が建ってゆくのを見ていると活気があるとみる
新しい街ができてゆくのを見ているのも今までだったらありえないのである。
震災前は七〇坪を七〇〇万で整地した土地を売り出していた。
でも誰も買わなかったのである。家も建たなかった、これだけの家が建つということは本当に驚きである。新しい住宅街が10くらいできたかもしれない、それだけ家が建ったのである。だから前とはまるで変わっているから不思議になる。
別な街に来たような気分になる、シシドスーパーもできてこの変は都会化したのである。シシドスーパーは9時まで開いていることもある。

北斎の絵に富士山をバックにして大工が働いている絵があるが足場を組んで働いている人はそれとにている。これも高いから実際は危険であり落ちることがある。
こういう仕事は運動神経が良くないとできないことがある。
田舎だから木蔭で休憩をとっているの都会とは違っている、なんか安らぎがあるとなる。
タグ:復興住宅