2016年07月15日

小高の家具職人のこと (故郷は思い出が刻まれた記憶の場所)


小高の家具職人のこと


(故郷は思い出が刻まれた記憶の場所)


NHKで放送していた小高の家具職人のことが何かやはり郷土史と関係していた。
古いタンスを直してまた使うようにしている。
古いタンスには思い出があり親の思いとかがこもっているから壊さないで捨てないで使ってほしいというのもわかる、嫁入り道具として買ったものがありと親の思いがこもっている
それで傷ついていたがそこまで残して修理している
その人は今は会津の方で仕事している。
だいたい家そのものが記憶としてある、自分の家も姉がいつも自慢していた。柱を橲原の木を使っているとかいつも自慢していた。実際は姉と母が建てたものである。
自分はその時何の協力もしなかった。ただ与えられたものである。
だから自分で苦労したことがないからそうしたら思い入れがないともなる
自分で何でも苦労して作ったものには思い入れがある。
他でも苦労して建てた家だからと言う人が多いのである。
そしてなぜゴミ屋敷のようになるかというとその物には単に物ではなく思い出が残っているからである。
今になるど姉も母も死んだし残された大きな家に一人で住んでいるのも不思議になる


ただこの辺で起きたことは考えられないことだった。まず故郷が消失するとか住めなくなることなど考えることもできなかった。
その時どういうことが起きたのか?今まで普通にあったものが見直されたのである。
特別注目されないなものが貴重なものとして認識されたのである。
そしてわかったことは故郷とか街とか家とか家具でもそれは人間の生活した記憶の場だったのである。記憶が刻まれた場所だった。
この記憶がいかに大事かというと最後は人間は記憶だけが残り記憶に思い出に生きることになる、だから老人は昔の話を自分が経験したことを何度でも話すのである。
認知症になると病気だから極端になり自分は戦争のことを姉から千回もきかされたともなるそうしてなぜそんなに話すのかというとそれが生きた証だからである。
自分が生きたことを確認する作業なのである。自分はこう生きてきたんだということを知ってもらいたいということもある。

そして故郷と街とかは生活したことが刻まれた場所なのである。
農家になると一代だけではない、何代もつづいて記憶が先祖から刻まれた場所になるから愛着が深いのである。
自分も記憶は本当に不思議だと思う、自分は旅に生きたから未だに記憶で日本だけではない、世界中をさまよっている感覚になる。記憶の中で旅をしつづけているのである。
最後は記憶を生きているという感覚になるのだ。
それは平凡な生活でもそうである。近くの医院の建物がいかにも古くそこに母が通っていた。
その医院の近くの墓に母はもう眠っている、まだ死んで半年である。
その医院の先生は優しいと言っていた。一方近くのもう一軒の医者は腕はいいが口が悪く評判だった。母は優しい医者の方に行っていたのである。
何かその墓から路地裏の道をたどって通ってくるような感じになる、自分もつきそって来たことがあるからだ。
「ここの先生はやさしいんだよ」と通ってくる感じがする。
そういうことも街というのには記憶して刻まれているのである。

不思議なのは記憶は大通りのような明るい所よりまっすぐな道より曲がりくねった路地裏のような細い道に記憶が刻まれている、残っているという感じもする。
墓からその医院までは近いということも影響している
墓が街中にあることはやはり死者となっても生活が継続している感じになるのである。
だから墓町という地名もある。
第一毎日自分はその自分の家の墓の前通っているから親しいのである。
これが年に一回と遠くに墓参りするとなるとそんなに親しみを感じないだろう。
自分の墓は毎日の生活の中で行き来している所にあるから親しいとなるのである。

ある夜、店じまいした飴屋の雨戸をたたく音がするので主人が出てみると、青白い顔をして髪をボサボサに乱した若い女が「飴を下さい」と一文銭を差し出した。主人は怪しんだが、女がいかにも悲しそうな小声で頼むので飴を売った。 翌晩、また女がやってきて「飴を下さい」と一文銭を差し出す。主人はまた飴を売るが、女は「どこに住んでいるのか」という主人の問いには答えず消えた

ある民家で、妻が妊娠中に死亡し、埋葬された。その後、町に近い餅屋へ、赤ちゃんを抱えた女が毎日餅を買いに来るようになった。餅屋の者は怪しく思い、こっそり女の服のすそに赤い糸を縫いつけ、彼女が帰ったあとその糸をたどってゆくと、糸は草むらの墓の上にかかっていた。知らせを聞いた遺族が墓を掘り返してみると、棺のなかで赤ちゃんが生きており、死んだ女は顔色なお生けるがごとくであった。女の死後、お腹の中の胎児が死後出産で生まれたものとわかった。遺族は女の死体をあらためて火葬にし、その赤児を養育した

こういうことは墓が身近にあり生まれた伝説なのである。人間は死ぬと伝説化する
だからこういうことは生々しい話なのである。
何か本当に自分の母親もこの医院に墓から来るように思えるからだ。

つまりこういうことは村であれ町であれ人間の記憶としてあるからそうなる
この伝説はそういう事実があり子供に対する愛情が深いから残った伝説である。
町の医院にしてもそれがまだ残っているし母が死んでも半年になったばかりである。
今年は始めてのお盆になる。お盆には死者が家にやってくるいうときやはりそういう感覚になる。
家具というのもやはり単なるものではない、ものが心と一体化していた。ものとはものがつくとか心でもあったからである。人間は死んだら残ってるのはものになってしまうからである。

いづれにしろ何か津波や原発事故では考えさせられることが多かった。
まず故郷は何なのかなど考えることもない、普通にあるものであり考えることもない、あって当り前のものだったからである。
原発事故で家具職人でもやはり何かスキルとか仕事を持っている人は強いと思った。
会津の方で桐の木工がありそのスキルも活かせる、仕事ができるということはその土地の人に受け入れられるのである。
ただ補償金でパチンコしているような人は金があっても受け入れられない
農民の場合は土地がないと仕事ができないということが致命的だったのである。
大工とか職人はどこに行っても仕事ができるということが強みだったのである。
つまりこうした緊急の事態になとまた日頃していたことが問われた。
パチンコばかりしてし遊んでいたら回りの人がどうみるかである。
ともかく日頃の生活が何であれ大事だとなる、それがこうした緊急事態でも困難な時に力を発揮することになる。

老人が故郷に帰りたいというときそこは何でもないようにみえても生きた記憶が残っているから離れられないのである。他に移ったらそうした生きた記憶が失われるからである。それで老人はその記憶を語るのである。
古いタンスでもそこに思いが残っているし記憶があるから捨てることができない
ヨーロッパではローマ帝国などの遺跡が石とともに残っている、そうすると必ず歴史を具体的なものとしてふりかかるのである。
日本には石の文化がないことで歴史が身近に感じられないのである。
アンテーク文化があるのもヨーロッパであり古いものを大事にする。すると過去から歴史の連続性の中に生きるから生が豊かなものになるのである。


タグ:家具職人
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小高の家具職人のこと (故郷は思い出が刻まれた記憶の場所)


小高の家具職人のこと


(故郷は思い出が刻まれた記憶の場所)


NHKで放送していた小高の家具職人のことが何かやはり郷土史と関係していた。
古いタンスを直してまた使うようにしている。
古いタンスには思い出があり親の思いとかがこもっているから壊さないで捨てないで使ってほしいというのもわかる、嫁入り道具として買ったものがありと親の思いがこもっている
それで傷ついていたがそこまで残して修理している
その人は今は会津の方で仕事している。
だいたい家そのものが記憶としてある、自分の家も姉がいつも自慢していた。柱を橲原の木を使っているとかいつも自慢していた。実際は姉と母が建てたものである。
自分はその時何の協力もしなかった。ただ与えられたものである。
だから自分で苦労したことがないからそうしたら思い入れがないともなる
自分で何でも苦労して作ったものには思い入れがある。
他でも苦労して建てた家だからと言う人が多いのである。
そしてなぜゴミ屋敷のようになるかというとその物には単に物ではなく思い出が残っているからである。
今になるど姉も母も死んだし残された大きな家に一人で住んでいるのも不思議になる


ただこの辺で起きたことは考えられないことだった。まず故郷が消失するとか住めなくなることなど考えることもできなかった。
その時どういうことが起きたのか?今まで普通にあったものが見直されたのである。
特別注目されないなものが貴重なものとして認識されたのである。
そしてわかったことは故郷とか街とか家とか家具でもそれは人間の生活した記憶の場だったのである。記憶が刻まれた場所だった。
この記憶がいかに大事かというと最後は人間は記憶だけが残り記憶に思い出に生きることになる、だから老人は昔の話を自分が経験したことを何度でも話すのである。
認知症になると病気だから極端になり自分は戦争のことを姉から千回もきかされたともなるそうしてなぜそんなに話すのかというとそれが生きた証だからである。
自分が生きたことを確認する作業なのである。自分はこう生きてきたんだということを知ってもらいたいということもある。

そして故郷と街とかは生活したことが刻まれた場所なのである。
農家になると一代だけではない、何代もつづいて記憶が先祖から刻まれた場所になるから愛着が深いのである。
自分も記憶は本当に不思議だと思う、自分は旅に生きたから未だに記憶で日本だけではない、世界中をさまよっている感覚になる。記憶の中で旅をしつづけているのである。
最後は記憶を生きているという感覚になるのだ。
それは平凡な生活でもそうである。近くの医院の建物がいかにも古くそこに母が通っていた。
その医院の近くの墓に母はもう眠っている、まだ死んで半年である。
その医院の先生は優しいと言っていた。一方近くのもう一軒の医者は腕はいいが口が悪く評判だった。母は優しい医者の方に行っていたのである。
何かその墓から路地裏の道をたどって通ってくるような感じになる、自分もつきそって来たことがあるからだ。
「ここの先生はやさしいんだよ」と通ってくる感じがする。
そういうことも街というのには記憶して刻まれているのである。

不思議なのは記憶は大通りのような明るい所よりまっすぐな道より曲がりくねった路地裏のような細い道に記憶が刻まれている、残っているという感じもする。
墓からその医院までは近いということも影響している
墓が街中にあることはやはり死者となっても生活が継続している感じになるのである。
だから墓町という地名もある。
第一毎日自分はその自分の家の墓の前通っているから親しいのである。
これが年に一回と遠くに墓参りするとなるとそんなに親しみを感じないだろう。
自分の墓は毎日の生活の中で行き来している所にあるから親しいとなるのである。

ある夜、店じまいした飴屋の雨戸をたたく音がするので主人が出てみると、青白い顔をして髪をボサボサに乱した若い女が「飴を下さい」と一文銭を差し出した。主人は怪しんだが、女がいかにも悲しそうな小声で頼むので飴を売った。 翌晩、また女がやってきて「飴を下さい」と一文銭を差し出す。主人はまた飴を売るが、女は「どこに住んでいるのか」という主人の問いには答えず消えた

ある民家で、妻が妊娠中に死亡し、埋葬された。その後、町に近い餅屋へ、赤ちゃんを抱えた女が毎日餅を買いに来るようになった。餅屋の者は怪しく思い、こっそり女の服のすそに赤い糸を縫いつけ、彼女が帰ったあとその糸をたどってゆくと、糸は草むらの墓の上にかかっていた。知らせを聞いた遺族が墓を掘り返してみると、棺のなかで赤ちゃんが生きており、死んだ女は顔色なお生けるがごとくであった。女の死後、お腹の中の胎児が死後出産で生まれたものとわかった。遺族は女の死体をあらためて火葬にし、その赤児を養育した
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こういうことは墓が身近にあり生まれた伝説なのである。人間は死ぬと伝説化する
だからこういうことは生々しい話なのである。
何か本当に自分の母親もこの医院に墓から来るように思えるからだ。

つまりこういうことは村であれ町であれ人間の記憶としてあるからそうなる
この伝説はそういう事実があり子供に対する愛情が深いから残った伝説である。
町の医院にしてもそれがまだ残っているし母が死んでも半年になったばかりである。
今年は始めてのお盆になる。お盆には死者が家にやってくるいうときやはりそういう感覚になる。
家具というのもやはり単なるものではない、ものが心と一体化していた。ものとはものがつくとか心でもあったからである。人間は死んだら残ってるのはものになってしまうからである。

いづれにしろ何か津波や原発事故では考えさせられることが多かった。
まず故郷は何なのかなど考えることもない、普通にあるものであり考えることもない、あって当り前のものだったからである。
原発事故で家具職人でもやはり何かスキルとか仕事を持っている人は強いと思った。
会津の方で桐の木工がありそのスキルも活かせる、仕事ができるということはその土地の人に受け入れられるのである。
ただ補償金でパチンコしているような人は金があっても受け入れられない
農民の場合は土地がないと仕事ができないということが致命的だったのである。
大工とか職人はどこに行っても仕事ができるということが強みだったのである。
つまりこうした緊急の事態になとまた日頃していたことが問われた。
パチンコばかりしてし遊んでいたら回りの人がどうみるかである。
ともかく日頃の生活が何であれ大事だとなる、それがこうした緊急事態でも困難な時に力を発揮することになる。

老人が故郷に帰りたいというときそこは何でもないようにみえても生きた記憶が残っているから離れられないのである。他に移ったらそうした生きた記憶が失われるからである。それで老人はその記憶を語るのである。
古いタンスでもそこに思いが残っているし記憶があるから捨てることができない
ヨーロッパではローマ帝国などの遺跡が石とともに残っている、そうすると必ず歴史を具体的なものとしてふりかかるのである。
日本には石の文化がないことで歴史が身近に感じられないのである。
アンテーク文化があるのもヨーロッパであり古いものを大事にする。すると過去から歴史の連続性の中に生きるから生が豊かなものになるのである。

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タグ:家具職人
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2016年07月16日

介護で国力も衰退する (老々介護で共倒れが増える)


介護で国力も衰退する


(老々介護で共倒れが増える)


姉と関係していた近くの人が病院に入院しているという。
その夫とあって話したらその人は83才であるが頬がこけてやせて病人のように見えた
前に書いた戦争を経験した95才の人より老けて見えるし顔全体がやせて病人のように見える
その人は別に介護といっても病院に通うくらいだからそれほど辛い介護ではない
施設には入れないというときそれはみんながそうである、それで病院に入院していられるのも助かっている
確かにあの人を見ると自宅ではできない、でもまだ自転車にのれるのだから筋肉は弱っていない、それにしても悪いけどあんな骸骨のような顔になるのも老いの辛さがある。

これから老々介護も増えてきて悲惨な事件も起きている、NHKで介護殺人のことを報道していた。自分も同じ心境だった。死んでくれたら楽になるなと思うことは異常なことではない、介護しているとそうなるのだ。
介護の問題はいろいろあるけど介護は長いということである。自分は二人で十年間であり他の人も7年だとか十年だとか長いことが答えるのである。
癌だと余命一年とかなるから苦しくてもその間我慢すればいいと割り切れるが介護は先が見えないほど長いのである。
その人は認知症の母親を十年介護している、それで脳梗塞で倒れたとき救急車を呼ばないで死んだ方がいいと思ったという心境もわかる。誰でも死んでほしいと思うことがある。それは異常なことでも非情なことでもないのである。十年も介護していたらそうなる。
その人は50才としたそれまで50前から介護しているとしたら余計に辛いとなる。
近くの腰がまがりかけた女性も十年介護しているという、老々介護になると介護する方の負担が大きくなるのだ。
自分も病気なのに介護していた。誰も助けるものがいない、助ける人が一人は犯罪者であり一人は借金を要求するような人だったからかえって負担になった。
人の弱みにつけこんでくるような人だったのである。何の助けもなかったのである。
介護は誰か一人にまかせられる傾向がある。兄弟がいてもそうである。

介護で一番苦しいのは何かという問いに自由がなくなったということを言っていたが同感である。刑務所に入り牢獄につながれたようだというのもそうである。  本当につききりになるから全く自由がなくなる、自分にとってはこのことが一番辛かった。自由気ままに生きてきたから余計にそうだった。
ただ自分の事情としては特別そうして自由に生きられたのはそれだけ家族にしてもらったからだとその時自覚したのである。
つまり自由というのは誰かによって与えられたものなのである。
まず家が金銭的にでも労働でも余裕がないと自由は与えられない、金があってももし自分の家が一人だとむずかしい面があった。二人がいたので自分は自由に旅できたのである。留守する人がいたからである。今は一人だけど何か旅するにも留守する人がいないとなると不安になるのである。
自由というときやはり旅すればホテルであり食事であれ交通であれ世話になる、誰かが働く人がいて自由な旅もできるのである。
普通はみんな働いているからである。


ただ介護自体はいくら懸命にしてもそれ自体が何か社会にとって有益にも思えない
私はこれだけ親の介護しましたよと言ってもそれは親なんだから当然でしょうとなるだけである。
でももし芸術にしても作品をみせてそれが価値あれば社会的に価値あるものとなる。
介護したからと社会的に認められることはないのである。
それで介護というのは相当な社会的損失になるし国力の衰退にもなる
ある人は技術者であり会社で開発を担当していた。50才くらいであり油がのりきっている年齢だけど妻とかの介護をさせられた。それで仕事ができなくなることは社会的損失であり国力の衰退までなる
自分ももし50才で介護させられたら海外旅行できないから何か批評するにも馬鹿なことを言っていたろ
50才で海外旅行して見識が広まったから何かを言うことができる、理解できたから言うことができる、自分の場合は介護になるまでに自由を奪われなかったから良かったのであるだから自分は親のことを責めたりしないし介護でも懸命にしたのである。
でも40とか50とかで介護させられて仕事もできなくなったとかなると後で恨みになることはまちがいない、介護のために親のために人生を奪われたと恨むようになる。
介護が十年ともなると人生の中でその時間が奪われたことになるからだ。

これからは老々介護も増えてくる、そうすると共倒れにもなり介護殺人も増えてくる
施設に入れないとか普通であり団塊の世代が介護されるときもあと十年とかでなる
そうなるともう介護ができない、施設にも入れないとか悲惨な事件が日常的になる。
身寄りがないような人はもう介護されないとか病気になったら自死を覚悟せねばならない自分がそれを経験したから恐怖である。誰も助けてはくれない、同情もされない
病院でも看護師に虐待されても施設で虐待されてもどうにもならないから恐怖である。
結婚しない方がいいと考える若者はその老後い厳しさ予測できないのである。
金があればその金目当てにくるたげである。実際に犯罪にあったからである。
つまり老人をどうみているかというと一般的に財産があればその財産に目をつけられる
それは子供ですらそうなのである。だから介護しないなら子供でも財産を与えないというのもわかる。そういう時代になったのである。
老後とは長生きとはかえって過酷なものとなってゆく
だから一番大事なのは健康だとなる、健康であればなんとかのりきれるが金があっても健康がなくなれば老後は地獄になるのである。健康の価値は何倍にも高くなるのが老後である。

では健康というのはどうして作られるのか?これも若いときからの日々の暮らし積みに長年の間に影響してくる、そして60以後必ず病気がでてくる、60以後は別に健康に注意していた人でもなんらか病気になるのである。
自分は30代で酒も飲まなくなった。そして体力がないのだけど疲れると寝ていたから楽したからこれまで生きられたのだと思う。集団的に生活することができない性格である。
学校にも会社にも適応できないが家族に恵まれたから体力がなくても生きられたとなる。60以後は何であれ人生の総決算のようなものが具体的に否が応でも現れてくるのだ。
それは正にカルマの総決算である。これはさけることができないのである。
要するに自業自得だということである。若い内はたいしたことがないことと思っていてもそれが老後には痛恨の苦いものとなる。若気の至りではすまされなくなるから怖いのである。そのカルマは必ず老後に払わされるのである。

だから「心の青雲」でも何か空手でも体を鍛えているというのには感心する
リハビリでもやはりそうして心がけで回復する人としない人がでてくる
そういう姿勢には共感する、
いづれにしろ介護というのは国力すら衰退させる大きな社会的問題である。
親の介護で人生の時間が奪われるた人は親に感謝しなくなるだろう。
これも大きな問題である。自分は若いときは親戚の人が病気になって助けを求めたとき何もしなかった。自分のしたいことをした。それで良かったと思う。
旅をして良かったと思う。今になると旅すらできないからである。
なにかやりたいことをしないということは必ず人生を後悔する
それが介護などで奪われたらあとで恨むようになるのである。そしたら親子双方でいいものとはならないのである。
でも介護は否応なく課せられることもあり悲劇となるのである。
自分の場合はカルマとして納得したことであり恨みもないしかえって恩返しできたと思っている、でもみんながそうはならない、自分は運が良かっただけだとなる
ただここ十年の苦しみはまさにそうして恵まれた結果としてのカルマを返すために苦しんだのである。
タグ:老々介護

地名の基本は方角地名 (南相馬市の名前にはなお違和感が残る)


地名の基本は方角地名


(南相馬市の名前にはなお違和感が残る)

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南はあたたかい感じ、北は白で寒い感じ

東と西は陽の昇り西は沈むところ



方角地名が地名の基本としてある。方角というとき人間の生活で基本になるのがやはり方角になる。その方角の基本となるのが太陽が昇り太陽が沈む方向なるのである。
どっちかというと南北より東西が基本になる、世界史でも東西である。東がアジアであり西がヨーロッパである。

「オリエント」(日が昇るところ)とは「オクシデント」(日が没するところ)の対概念で、もちろん前者が東洋、後者は西洋という意味です。東洋と西洋を大きく比較する言葉ですが、中世という時代に地中海を航行して聖地イェルサレムに巡礼していたヨーロッパ人は日の出の方向を目指して旅をしたので、「オリエント」とは「中東」を意味するでしょう。地中海中心の航海から大航海時代に入り、インド洋に進出することによって「オリエント」の概念は中東からアジア全域に拡大したと思われます。
「アジア」という言葉は、本来は小アジア半島(現在のトルコ共和国)西部に設定されたローマ帝国の属州の名称です。


これはヨーロッパ中心に軸として方向があった。最初はローマ帝国だった。
アジアが一小地域でありそれが拡大してアジアになった。これはヨーロッパ中心の世界観なのである。つまり地球規模でみても方向は中心があって決まる。
ローマ帝国が中心だとするとそこが中心になり方角が決まる。
これはヨーロッパ中心に軸として方向があった。最初はローマ帝国だった。
アジアが一小地域でありそれが拡大してアジアになった。これはヨーロッパ中心の世界観なのである。つまり地球規模でみても方向は中心があって決まる。
ローマ帝国が中心だとするとそこが中心になり方角が決まる。

アジアという地名は、アッシリア人がBC2350−2180にバビロン北部に栄えたアッカド(Akkad)時代のアッシリア人がアッカド語(Akkadian)で「陽が昇る土地」という意味で言ったasu が語源で、それが古代ギリシアに伝わり(ASIA)、ローマ時代のラテン語(ASIA)を経て、Asia なったのだそうです。

アジアはアッシリアとか古い地域からみて陽が昇る地域だった。トルコはアジアでありアジア人である、突厥とかの遊牧民であり顔だちもアジアになる。

ボスポラス海峡がヨーロッパ とアジアを分ける、ブルガリアはキリスト教国になるからヨーロッパになる。

やはり中心があって方角がある。
仙台には良く電車で行く、電車というのは駅名が気になる、記憶に残る。
仙台に行くと必ず南仙台を通る、南仙台になると仙台が近いとなる。
南仙台は仙台から見て南だから南仙台なのである。
もともとは別な駅名だった。

1924年(大正13年)
9月10日 - 陸前中田駅(りくぜんなかだえき)として開業。
1963年(昭和38年)
5月25日 - 南仙台駅に改称。

陸前中田とかなると陸前とかは古風な江戸時代からの名前である。

江戸時代には、この街道の呼称は藩ごとにまちまちであった。
仙台藩では江戸浜街道。
中村藩では中村以北を仙台通、中村以南を水戸通。
磐城平藩では磐城平以北を相馬路、磐城平以南を水戸路。
水戸藩では水戸以北を磐城街道、水戸以南を水戸街道。

これがわかりやすい、常に水戸に通じる道となっている、東京からは今でも水戸街道と六号線は言っている。

東と西は方角地名の基本としてある。日本でも東西があり東(あづま)と西の分かれるところが関が原であり古代にもここを境にして兄弟の天皇が分かれて戦ったのが壬申の乱だった。ここで気候も変わる境目である。
琵琶湖でも湖東と湖西があり湖西の方は陽が沈む方向になりイメージ化される、ただ旅をするとこの方向がわかりにくくなる。西となるとどうしても陽が沈む方向になるから淋しい感じになるのだ。

大業三年(607年)、隋の皇帝煬帝が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある[8]。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。

小野妹子がなぜ陽が昇る所の天子から陽が没る天子に贈るとしたのだろうか?
ここでも方角を言っていたのである。国と国の間でも方角が基本になるからだ。

地名は基本的に方角地名がある。相馬藩の歴史をたどれば小高郷、中の郷、北郷、宇多郷、山中郷がある。北郷は鹿島区の地域だけどこれはもともと相馬氏の城が最初に小高に築かれたからそこから北ということで北郷になったのである。
中心が小高にあってそこから北にあるからそうなった。
ではなぜ南相馬市となったのか?
原町市、小高町、鹿島町、飯館町は合併して「南相馬」になるのか、これが募集して一番多かった。相馬を中心にしてその南だから南相馬になる。喜多方の良かったのは北方(ほっぽう)という味気ない名が喜多方という当て字にしてイメ-ジが良くなったことである。
小高から相馬に前の中村に移った時、その城が中心になり相馬市となった。
それで今度は南相馬市となったのである。
南相馬市というとき未だに違和感を感じるのはなぜか?相馬市が中心としてありその南にあるから南相馬市だとなる。
南というとなにか温かい感じがするがそういう感じはない、ただ相馬市の城があった所から南というだけなのである。
相馬市が中心にあり南相馬市は付属している感じになる、外から見てもそうしか見えないのである。
相馬市があって南相馬市としか見えないのである。

ただ三つの町が合併すくときみんなが納得するものがないから無難なものとして南相馬市となった。
南相馬だと相馬市とも一体感があり相馬野馬追いの祭の地域として外からもわかりやすいからである。歴史的にはそうだがどうしても相馬市が中心で付属しているのが南相馬市になるというのが払拭できないのである。
将来的には南相馬市も相馬市も一緒になり相馬市になるということを前提にして名付けたという人もいる。
人口減になったのと津波や原発事故でそれが加速されることもある。
人口減少してゆけば全国的にもさらに市町村合併が推進される。
ともかく合併した南相馬市というのには違和感がある。ただではこれ以外の名前があるのかというと募集していろいろあってもみんなを納得されるものがなかった。
要するにみんなが納得するものとして南相馬市が生まれた。地名には勝手な突拍子もないものをつけられない、みんなが納得するものでとはないと承認されない
だから多数決で決めるのもしかたないとなる、だいたい地名は地形とから名付けられたものが多いし無味乾燥なものが多いからである。

福島県の西郷村というとき西白河郡西郷村とあり白河町が小さな領域だったが拡大して白河市になった。次ぎに東白河郡がある。白河市を中心にして東と西の分かれたのである。これも西白河村とか東白河村だとわかりやすい、外からみるとわかりやすい、ただ西郷村とあるとどこが中心なのか外から見たときわかりにくい、会津だと東西南北がありわかりやすい。ただ南北というとき温かいとか寒いとイメージする、南風だとあたたかいし北風だと寒いと感じる。東西となると陽が昇り没るとして方角があるからわかりやすい。
南と北は何か寒暖をイメージするから東西とはかなり感覚的に違ったものとなる
だから南相馬市はべ別に南だから温かいということはない、それはただ方角的なものだけなのである。
北茨城の北はいわき中心に名付けられていない、いわきからした南である。東京中心にして北となっているとわかりやすい、東北というのもそうである。
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2016年07月17日

権力とかかわると宗教でも何でも腐敗する (イスラムは政教一致だから問題が起きる)


権力とかかわると宗教でも何でも腐敗する


(イスラムは政教一致だから問題が起きる)


イスラム系与党・公正発展党(AKP)の実権を握るエルドアン大統領が強権化を進める中、「世俗主義」の守護者を自任する軍の中で不満が高まったことが一因とみられる。
トルコでクーデターか=軍が展開、群衆に発砲も−「権力掌握」と宣言

 この勢力が何者なのかは不明だが、ロイター通信によれば、ボズダー司法相は、エルドアン氏と対立するイスラム団体「ギュレン運動」が関与していると主張

 今回のトルコはわかりにくい、今のエルドアンがイスラム原理主義政党でありそれに反対したのが世俗主義の宗教団体だというのもわかりにくい、普通はこの逆になっているし過激なイスラム原理主義者が問題を起こしている。

そもそもなぜイスラム教が関係しているところに政治問題が発生しやすいのか?
それは政治と宗教が一体化しているからである。
政教一致でありその宗教自体に問題がある
ヨーロッパでなぜ政教分離になったかというとカトリックが土地でもなんでも所有して強大な権力をもったからである。そのことの反省から政教分離になった。
イスラム教は完全な政教一致であり原理主義者は特にそうなる

原理主義者とは何か?それは宗教を個々人の内面にとどめるのではなく社会を改革してこの世を天国にするという思想である。一見これは別に正しいことであり人々にとっても悪いことはないと見える、キリストは天国は心の中にあるというときそれは心が無私なる愛とかに満たされた時すでにそれが天国だと言っている、仏教でも宗教は元来そういうものだった。ただイスラム教は政治と一体化しているから異質なものとなり理解できないのである
宗教が強制できないというときお前の心がキリストのようになれシャカのようになれと言っても簡単にはできないそれは個々人の自由にまかせるしかない、だから宗教は強制されるべきものではないのである。イスラム教は宗教を強制する、武力でももっても強制する原理主義者も強制する、原理主義者は個々人の改悛とかではない、社会そのものを政治を変えて体制を変えることによってこの世に天国を作ろうとしている、仏教だと仏国土を実現しようとしている、これがカルトであり社会にとって危険なものになる

マルキシズムだと教条主義になる。オウムなども原理主義であり逆らうものは殺せとなり現実にそうしたから恐怖だった。
カンボジアでも共産主義の原理主義だった,地上の楽園を目指したのがそこは大殺りくの地獄だった。原理主義者は反対するもの許さないから全く民主主義と反する、宗教が絶対的なものになるから反対は政治的な問題でも許されないのである。
独裁政権になるから民主主義とは反するものとなる
エルドアンはイスラム原理主義者の政党だというときそれに反発した世俗的なイスラムを目指すのは前はトルコはそうだったし軍がそうしていたのである。
ただ選挙で選ばれたのだからナチスも選挙で生まれたのだからイスラム原理主義政党でも正当性があるとなる、でも民主主義も万能ではない、民主主義も選挙しても独裁政権は生まれる、日本だってもはや自民党独裁になっていることでもわかる
自民党のやりたい放題になる、そうなると内部の腐敗も隠されるのである。

政治は俗社会のルールに基づくべきであるということで宗教とは切り離したのが政教分離である。政治は様々な利権とかかわる、その利権も公共事業となると兆とかもなり巨大なのである。それで大企業ともかかわり国ともかかわり賄賂が送られたり腐敗してゆく
それはどこの国でも同じなのである。
そういう利権とかかわったら宗教もなにもない、その巨大な利権に翻弄されるだけである宗教でも権力をもてば人々は心の中がどうだこうだ天国は心の中にあるとかより権力に注目する、人間の欲望が権力をめぐりむきだしになる。もちろん心の平安もなにもない、
餓鬼のようにみんななる、遺産相続で親族でも殺し合いにもなるのが人間であり日常的に起きている、だからこそキリストでもシャカでも何一つもたない、無一物で乞食のようにして終わった、寝る家もなかった。
でもそのあとに弟子たちは教会を作り権力化してしまったのである。

原理主義者はカルトなのである。イスラム国にとらえられた人が言うには人間が幼稚だという、何か深い思慮などもっていない幼稚な若造が多いからこそあんな残酷なことができる、それはオウムと同じなのである。明治維新も若い人が起こしたがそういう無謀なことがあったことはいなめないのである。本当のイスラム教はそうではないというのも別に原理主義者は世界でもキリスト教にもいるからである。
若いときは心の中に天国があるというより社会そのものを改革することこそ天国をもたらすのだとなりやすい、自分もそうだった。創価はこの世に仏国土を実現するのだという原理主義運動だからである。
日本でも共産党は原理主義者であり創価も仏教の原理主義者なのである。

だからどっちも政教一致なのである。日蓮自体が王仏冥合(おうぶつみょうごう)を唱えている、王は政治であり仏は仏の教えであり原理だとなる、その教理でもそうなのである。それは中世のことでも現代にあてはめている。これを廃止したとあるが現実にその原理に基づいて行動しているのである。
民主主義はまた愚民主義におちいる、大衆はめんどうなことを考えない、題目唱えればなんでもかなうというのが一番わかりやすいのである。あとのことはなんにも考えないのである。だから必ず一定数洗脳される人々がいて団体がいる
民主主義の危険はまたナチスとか一党独裁とかファシズムを生む温床でもあるのだ。
民主主義、民主主義と唱えてもこれまた万能ではないのである。
ともかくイスラム教の問題はその教理にもある、王仏冥合(おうぶつみょうごう)のように政教一致なのである。それが混乱をもたらしていることは確かなのである。


posted by 老鶯 at 17:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年07月18日

駅名と野馬追い (歴史を知らないと旅もつまらない)


駅名と野馬追い


(歴史を知らないと旅もつまらない)


相馬藩六万石
城跡古りぬ相馬駅
代々の殿の今につづく
野馬追いの出陣は
侍の血の蘇りて
ここより法螺貝ひびく

鹿島駅は北郷の地
宇多郷と合体して
一石坂(いちごくさか)を上り
雲雀が原に勇み向かふ

機関区の原町駅
物資はここより運ばれぬ
原紡の引き込み線
新たに女性の職場かな
新しき街、無線塔の威容
野馬追いの雲雀が原
五〇〇騎の旗翻る

磐城太田駅に神社あり
相馬氏の先祖祭らる

小高駅城跡のあり
ここは相馬藩の礎の城
古式に野馬掛け
野馬追いの始め



野馬追いの見方は雲雀が原で神旗争奪戦の前から始まっている、相馬の城跡があったところから始まって
いる、一日目が相馬市で出陣の行列がはじまり、二日目は南相馬市の鹿島区で北郷と宇多郷が合体して雲雀が原
に向かう、三日目が神旗争奪戦になる。
駅でも地名でもやはり歴史を知らないと旅をしても通りすぎるだけだとなる
必ずそこには歴史がありその歴史を知らないと浅薄な見方しかできないのである。
各地にある祭りは歴史を凝縮したものとしてあるからだ。
特に野馬追いは歴史そのものなのである、新しい旗は二三作ってもほとんどは先祖伝来の旗になるからだ
その旗にも何か由来があったのだがなかなかわかりにくのが問題である。

駅といっても他から来たらここまで知る人はいない、野馬追いでも外から来たとしてもこういう基礎的
歴史を知らないと祭りの醍醐味がわからない。
相馬市だとそこに城跡があるから城下町だったということは一応わかる
その他はなかなかわかりにくい、電車が好きで旅をしてもここまで駅から歴史をふりかえることはできない
要するに昔の街道を歩いて旅すれば自ずと歴史をたどることになるからわかるが電車だと駅を過ぎてゆく
だけだからわからない
それが現代の旅をつまらないものにしているのである。
新幹線で平泉まで行っても途中がないのだからつまらない、歴史もわからないのである。

こうして駅から歴史を偲ぶのは地元だからであり外から来たらそんなことまるで感じないのである。
そこに電車の旅の問題があった。実際は明治に汽車が電車が通ったとき江戸時代の街道は廃れた。
たいがい駅はそうした江戸時代の街道沿いから離れた所に作られたからである。
町の中心より郊外に作られた、前の原町市はまさにそうだった。
原町機関区であり駅前から発展したのである。街道沿いは廃れたのである。
その時無線塔がそびえ原町紡績があり大正生まれの自分の母も働いていた。
無線塔はその後もずいぶん原町のシンボルとして立っていたのである。

明治以降は城跡のある相馬市から原町へ中心が移ったのである。
人口も一万以上原町が多かったのである。だから小高と原町市と鹿島が合併するとき南相馬市になったけ
ど新相馬市がふさわしかったかもしれない、
地名にはどこでも古町と新町がある、すぐ近くでも古町があるということは狭い区域でも世の中が変わり
栄えた所がさびれて古町になる。
相馬藩内では城跡のある相馬市は古町になった。原町は新町になった。だから新相馬市という名前でも良
かったのかもしれない。
南相馬市は何か方角だけでありものたりないのである。

ただ津波とか原発事故の混乱で相馬藩内はまた見直される、再生の南相馬市を目指しても何か縮小したも
のになる
小高はもう二千人規模でありすでに縮小してしまったからである。何か街の勢いがそがれてしまったので
ある。
相馬市として将来合併するかもしれない、人口が減少してコンパクトシティ化してくる
それはここだけの問題ではない、全国的に少子高齢化で市町村でもさらなる合併が推進される
そうしないとインフラさえ維持できなくなる。
小高のように一万から二千人になったらどうなるのか?街自体維持できないのである。


桑名の駅(中原中他)


この詩は東海道の桑名と現代が結びついているから味わい深いとなる
桑名駅におりたてば東海道の桑名をふりかえることができる
焼き蛤が名物であり旅の味として記憶に残るのである。
駅と歴史はなかなかこういうふうに結びつかない

思い出すのは新地駅である。あそこで帰るとき六分くらい待ち合わせでとまる、新地駅からは海が見える
満月が海から昇り虫が鳴いていた。

五六分ホームにおりたち虫の声

五六分ホームにおりて待つ時間があったことが記憶に残るのである。まず新幹線だったらこんなことがないから旅はつまらないとなる。
今になると新地駅は津波に流されてないからその経験はと貴重だったとなる。
本当に秋までに仙台まで常磐線が開通するのか?でもその時は前の新地駅はないし海辺の町もないのである。
津波除けの高い土手を見るとなってしまう。この変わり方もあまりに大きいものだったのである。
posted by 老鶯 at 16:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2016年07月19日

末続駅の末続も渡来人の跡か? (地名に残した渡来人の跡ーツノガノアラシトの跡)


末続駅の末続も渡来人の跡か?


(地名に残した渡来人の跡ーツノガノアラシトの跡)

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ツノガアラシトは金官伽耶の王子、日本に3年ほどいた後に朝鮮に帰り、再び日本列島に帰ってきたという人物

半島東南端の加耶諸国だけはそのまま勢力を保っていた。そして、その中心あたりに「大加耶」「小加耶」あるいは「金官国」(クムグァン)があったのである。

「任那の日本府」の経営も試みられた。考古学的には須恵器(すえき)が倭に入っている時期になる。

 いまのところ、加耶の実在を示す最も古い史料は高句麗の広開土王碑である。その記事の中に「任那加羅」という言葉が出てくる。年号では400年ちょうどになる。この任那加羅が金官国の別名だった。


 『三国史記』では加耶・伽耶・加良・伽落・駕洛などと、『三国遺事』では主に加耶と、ほかに駕洛と記される。『日本書紀』では加羅が多く、『続日本起』では賀羅とも綴る。中国の『梁書』はもっぱら伽羅で、『隋書』では迦羅である。日本読みではこれらはすべてカヤか、カラになる。朝鮮語読みでは“karak”に近い。

 そこで倭国の王は千熊長彦(ちくまながひこ)を新羅に遣わして、新羅の罪を攻め、さらに369年に荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍とした軍を百済の久氐(くてい)らの使者とともに卓淳国におくりこんだ。けれども兵力が少なかったため新羅を襲えない。そこで、百済に援軍を求めた。百済は木羅斤資(もらくこんし)らを出陣させ、みんなで卓淳に集結して新羅を蹴散らすと、さらには洛東江流域の、南加羅・安羅・多羅・卓淳・加羅など7国を平定したというのだ。
 いわゆる「加羅七国平定記事」である。このうちの南加羅が金官国にあたっていると思われる。


ツヌガアラシトに対して、崇神天皇が自分の名前を与え、「汝の本国の名を改めて、ミマナ(任那)とせよ」と言ったという記事が 『日本書紀』 にある。このことに関して、それは逆であって、ミマキ入彦は、もともと任那すなわち朝鮮南部の王であったが、倭国に進出して国を開いたので、祖国の「ミマナの城から入って来た」という意味で「ミマキ入彦」と称したのだ、とする意見もある。



棚塩の津明神社は貴船と合殿で九月十九日を祭日とするが大宝某(700)のこの月この日に海中より出現したという、

豊間(磐城)の海岸の津明神社の社の何か置いてある高さ十三ほどの小祠をみこしとしてかつぐもので・・・

津(ツノ) 神社


(宇多郷) 尾浜3 原釜1
(北郷)烏崎
(中郷)堤谷 金沢、萱浜、小浜、泉
(小高郷)角部内 
(北標葉郷)棚塩




なぜ末続駅の名が気になっていた。人間は何か理由がわからないといつまでもこだわるのである。病気でも説明されて原因がわかると安心する。
地名でもなにかわからないといつまでもなんなのだろうとこだわりそれがいつまでも解けないとなんとか理由を探そうとする。
第一地名は本当はいろいろな解釈がありその由来が不明なのが多いから無理な面がある。地名から歴史を解明することはできないのである。地名にこだわると歴史を見誤ることがあるから危険である。

ただ末続という地名は出雲の須衛都久神社から発していることは明確である。
ではこれは何に由来するのか、イザナミとかなると渡来人関係ではない
でも須衛都久とはすえつくのすえは須江であり陶なのである。
つまりスエとつく地名は須恵器に由来していてその技術者でありそれは渡来人なのであるスエツクのツクとは継ぐになるから須恵器を代々作り継ぐ人たちとなる。

ただここで疑問なのはそんなに末続がそんなに古いものなのか?
なぜそれが地名化したのか?最初に地名化したのは古代にさかのぼる
末続が新妻一族の村だったということでそこに住んでいる人からもコメントをもらった。新妻氏というときそれは地名化していない、江戸時代に地名化することはあまりない
地名というのも古代にさかのぼり古いものなのである。
ただ姓の元をたどれば日本では必ず村がある。千葉県に新妻村があるからそこから新妻一族が生まれたのである。
浮田とあれば浮田国造とかこれも古代にさかのぼる。真野でも真野郷がすでに平安期文献『和名類聚抄』に記載されている。

この鏡は天の日矛が持ち込んだ日鏡D鏡は八咫の鏡E鏡は神功皇后がヤマトの奇襲攻撃の為日田に隠した。その後、出雲の神宝である鉄鏡を必死で探したヤマトは出雲(日田)を崩壊させてしまい日田の住人は出雲大神を祀る事を禁止された、しかしその後、出雲の祟りで口を聞けない王子が聞けるようになる記述も日田での出来事であり、出雲(島根)ではない出雲国造の祖「岐比佐都美(別名)来日田維穂命」(きひさつみ)こそ日田の久(比佐)津媛である。岐=八衢・比佐=日田・都=地・美=木花之佐久夜毘売・髪長媛
毘売は夜(一夜で身籠もる=武内宿禰・蛇=大物主神=神功皇后の意)久佐(ひさ)の花の木(綺麗)の意

久之浜末続は一連のものとしてある。ヒサとヒサツヒメであり鉄と関係している、渡来人が浜通りに砂鉄を求めて鉄作りをした。その跡が点々と残っている。
浪江の津明神の伝説が大宝であり七〇〇年であり古いのである。
すでにその頃から鉄を求めて来た渡来人がいた。その人たちが地名を残した
それはツノガノアラシト系統の渡来人だったのである。
だから津(つの)であり津神社はつのみやとかツノとついているのである。ツと一字では読まない
それは古代史にさかのぼると日本と韓国の深い交流があったからである。
日本の建国がどうして行われたか、天皇がどこから生まれたのか不明である。
それは加耶・伽耶・加良・伽落・駕洛と深くかかわっていたのである。
カラというとき伽耶でもあり間違いやすい、唐をあてると中国のように誤解する、唐の時代より前の時代であり唐とは関係ないのである。
鹿島区にある唐神という地名はカヤに由来しているのである。伽耶の神なのである。
またツヌガノアラシトというときアラは安羅であり伽耶国にその地名があった。
荒という姓がなぜ相馬に多いかというと何かそういう由来があるのかとなる

だから浜通りに点々とある渡来系の地名は鉄を生産することと関係していた。鉄を生産する技術者が伽耶国からわたってきたのである。
鉄の生産と須恵器は関係している、

須恵器は古墳時代に朝鮮半島の技術を取り入れてつくられた、硬質の焼き物です。陶器と磁器の中間的な性質を持っています。「備前焼」や「信楽焼」などと同じ「せっ器」に分類されます

須恵器は朝鮮半島の南端伽耶と日本で呼んでいた地域にのみ見られる土器で中国から伝わったとされてますが果たして何所が起源なのかわかってません。

須恵器を作る技術は伽耶国からもたらされたことは大事である。
そしてこれまで何度も書いてきた。

陸奥の真野の草原のように遠いけれど私にはあなたの面影が見えるというのに…笠女郎(かさのいらつめ)

この草原(カヤハラ)は伽耶国のことだったのである。真野郷内に唐神があるのも地名として古代にさかのぼるのである。海老村がエヒ村でありこれは蝦夷(エミシ)の村だったというときも古いのである。実際に弥生式の縦穴住居跡もでているからだ。
石巻に萱原という地名があるからそこが真野の草原となっていた。そこにも真野という地名がありまた真野公という木簡まで発見されている。
ここで地名とも一致しているからここだともともと言われてきた。
ただそこはあまりにも遠すぎるので南相馬市の真野が古墳とかも多く金銅製双魚佩( そうぎょはい)なども発見されたので有力になった。
どうしても地理的に石巻が遠すぎるのである。

なぜ歴史的に伽耶国のことなどが取り上げられなくなったかというと伽耶とかが隠されるものとなったためである。そして伽耶というのは蝦夷にもなっていたのである。
伽耶琴が新羅琴となったり百済に併合されて伽耶の存在は希薄となり伝説化したのである。
百済は正史に残ったが伽耶はあいまいなものとなってしまった。百済が滅びたときも日本に亡命した人たちがいた。
伽耶はその前の時代でありわかりにくいものとなったのである。
原住民と同化したのである。カヤ族がいて棚倉で大和軍と戦った伝説が残っているからだそれだけ渡来人の歴史が古いということをこれは証明しているのである。

posted by 老鶯 at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2016年07月20日

夏の日電車で小高まで



夏の日電車で小高まで


(小高には帰る人は少ないだろう)

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このカバンが何か仕事が始まったというのにふさわしい
品行方正という感じのカバンなのである。

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町暮れむ電車を待つや合歓の花

走りゆく電車に見ゆる夏の月

開通す鉄路の熱く藪甘草

小高へと汽笛ひびきて夏の山

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まだ人気が少ないからこんな感じになる



ひさしぶりで電車に乗り小高まで行った。原町へ小高からは四、五人しか乗らない
女校生が一人おりた。街から離れているという、迎えるにくる家族を待っていた。
もう一人は鹿島の仮設にいる人だった。

「オレ、新しく家建てたよ」
「どこに住んでいるの」
「小屋木だよ」
「みんな帰ってくのか」
「部落では三割くらいだな」
「街から遠いと不便だな」
「街から4キロ離れているよ」
「それは不便だ」
「まあ、仮設には来年の三月までいることできるよ」
「そんなに長くいられるの、みんな帰ってくるのかな」
「帰ってくるよ」
「他で若い人は家建てたとか別な暮らしになったからな」
・・・・・・・・・・・・

みんな同じようなことを言っている、補償金で新築した人も多いだろう。
そういう点では良かったが若い人も帰ってくると思っているのは甘いという人もいる。
要するに避難解除になってもほとんどは帰っていない、仮設にまだまだ住み続ける
20分の停車でありすぐひきかえしてきた。あと帰るとなると便がないからだ。
街中でも住んでいる人はまだ少ないだろう。
小高は終点で駅員がいたが鹿島は無人駅になったのも変化だった。

ともかく電車は待つ時間がありそれが旅するものには記憶となる。
合歓の花が咲いていてホームに涼しい風がふいてくる
それで電車で旅したことを思い出した。
電車を利用するにしても原町まで往復400円だとすると高いとうい感じになる
自転車だったら無料だからである。ただなんか体が弱ってくると電車がいいとなる
小高から買い物の車がでているが便数が少ないからやはり不便だ。

帰りは原町の喫茶店で食事して休み帰ってきた。
原町の駅前の書店も閉鎖した。ただ大きな図書館だけがある。これも何か無駄だったのか?、今になるとインターネット化すると図書館は何か無駄になった面がある
まず図書館で調べ物するのが容易ではないのだ。
なぜなら何か書くときは参考にするものが本でも必要なのだがそれをいちいちとりだすとなるとめんどうなのである。
インターネット化しても蔵書が一定数ないと書くことはむずかしい。
要するに自宅が小さな図書館のようにならないと何かを書けないのである。
自分の家はある程度そうなっている。

時代は常に変わる、本がなくなるなどイメージもできなかったろう。
そしてこの辺がこんなに変わることもそうである。
あそこは高校生が電車を待つ場所なのかとも思う
高校生は帰りで一杯乗っていたからである。

駅前にいろいろあれば電車で来てもいいが今はほとんどなにもない、駅前中心には街は作られていないからだ。
今日も暑かった、電車が走り夕方に夏の月がでていた。これも何か電車ならではの面白さである。
タグ:小高駅

2016年07月21日

蝶の乱舞(butterfly)


蝶の乱舞(butterfly)


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タグ:

紫外線の怖さ(今年は特に紫外線が強いので日射病に注意)


紫外線の怖さ(今年は特に紫外線が強いので日射病に注意)


薄い雲の場合、紫外線の 80%以上が通過します。

紫外線被爆は一日をとおして蓄積されていきます。

サンバーンは私たちが感じることのできない紫外線
によるものです。暑さを感じるのは赤外線によるも
ので、紫外線ではありません

 わが国では、大気清浄化の取組によって、以前に比べ大気はきれいになりまし
た。つまり、紫外線をさえぎっていた大気汚染物質が減少したため、紫外線カット
効果が薄くなったともいえます。


今年は4月から紫外線が高かった、紫外線は暑さとは違う、赤外線が暑さをもたらすという、紫外線は暑さをもたらすものではないとすると暑く感じなくても紫外線はあびている今年は4月ころから紫外線が強かった、それで外出してなぜ日射病のようになったのだろうといぶかった。
もともと自分は暑さに弱いし光にも弱い、でも4月からこんなに光の影響を受けたことはない。小高に行った時もそれほどの暑さとは思えない、夏だったら普通の暑さだろう。
ただ違うのは紫外線が普通の年よりかなり高いのである。
駅までも近いし電車に乗って小高まで行ってほとんど光をあびていないからなぜまた日射病のようになったのか?
これは年のせいかなとも思った。でもそれはあってもそれだけではない、明らかに紫外線の影響がある、これまでも暑い時がいくらでもあったがこれほどに日射病になるようなことはなかった。
日射病の怖さは良く老人が畑仕事していて死んでいたということがニュースで伝えられる老人はやはり紫外線にも弱いのである。

この紫外線は全く目に見えないから感じないものではない、放射線とは違う。何か光の感じが違うなと体感する、いつもの年とは違う光だなと4月ころから思っていた。
調べるとインターネットだといろいろでていた。

4月22日には、この10年間の中で一番早く「非常に強い」の基準値を超えたそうです。

4月から紫外線が強かった。

薄い雲の場合、紫外線の 80%以上が通過します。

曇っているから安心して外出していた。これも違っていた。そもそも赤外線は雲でさえぎられる。紫外線はさえぎられないということである。
そして曇りの日に庭仕事しただけで日射病のようになったことがこの説明でわかった。
曇った日でも紫外線が強く受けることがある、確かに老人になると体の抵抗力が弱くなるからそうした紫外線でも影響を受けやすい、ただ紫外線に対してはあまり警戒しないということもある。

紫外線にはUVBとUVAがあって、自宅に居てもガラスを透過して紫外線が入るそうです。

これもそうなのか、やはり庭でも紫外線をあびるとなる

皮肉なのは紫外線をさえぎる大気汚染物質が減少したために大気がきれいになったため紫外線のカットがそがれた、たいがい空気がきれいになったら人間の生活にはいいはずである。オゾン層というのも意外と意識しないがオゾン層で紫外線がさえぎられなかったら人間は生きていけなくなる、そのことで人間が滅びるとまでなる。

其の光を和らげ、其の塵を同じゅうす。すなわち、自分の光り輝く才能や知徳を隠して、世俗の塵にまみれ、慎み深く目立たなく暮らせという教えが「和光同塵」ー老子

つまり科学とは関係ないかもしれないが、あまりにも光が強すぎるとここでは紫外線だけど良くない、塵があって強烈な光がさえぎられてかえっていいとなる
大気汚染というかそれも全部悪いともいえなっかたというのも奇妙である。
放射能でも放射性物質でも低いとかえって体にいいとか言う学者がいた。
何か放射線でも全部が悪いというのではなく人間にも良く働くとなればいい、ただ放射性物質は自然界にない物質を作り出したことが問題だったのである。
考えてみるとこの老子の思想は不思議である。
光を和らげるというのは光をさえぎり弱めるであり塵と同化するという思想は普通にはイメージできない、発想できない、だからこの思想は不思議だとなる。

紫外線被爆は一日をとおして蓄積されていきます。

放射線と同じなのは一年で被爆する量がいくらかと計算していることである。
だから外で働いている人は危険になる、でも農家の人は草むしらないといけない、工事現場でも一日外で仕事しているから紫外線をあびる
この辺では工事が多く絶えず外で仕事している人が多い、家を建てるにしても楽ではないとみる、ただ自分はそんなに外にでていなくても日射病のようになったということは明らかに今年の紫外線は相当に強いことは確かなのである。

この辺では絶えず放射線とかが問題になって現実の生活に影響しているから科学に弱くても考えざるをえなくなった。だから放射線研究所ができた。
紫外線もままた人間に影響する目に見えないものである。
インターネットだと知識が広まることは確かである。科学に弱くてもいろいろつなぎあわせると理解した気分になる、でも深いところは素人にわからないのである。

紫外線のグラフ

タグ:紫外線
posted by 老鶯 at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記