福島県の歴史の道の旅の回想
(棚倉→白河→会津ー(白河街道)
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青松浜には確かに森があった、ここでヅクが鳴いていた。
人は道を通じてつながる、道は川が最初は道となった。
古代では川は道であった。アイヌでも川は道であり身体になぞらえて川口は頭であり川上は尻になる。その名づけ方は川を上流から下るのではなく下流から上ってゆくからそうなった。久慈川が長い川であり常陸からつづく道だった。この川沿いは黄金の道、鉄の道でもあった。
南相馬市の真野川でも源流に佐須の山津見神社がある。その神社は古代にさかのぼり古く伝説が残っている。川は道がないとき道になりやすかった。アイヌではまさに川が道だったのである。
久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む
久慈川が棚倉まで上流になっている。久慈川は茨城県と福島県にまたがる長い川なのである。矢祭→棚倉→白河→泉崎は古代の東山道だった
茨城県の名の由来は
『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。また、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌があり、この故事にちなむ茨城(うばらき)という地名がみられる。
東山道には蝦夷が住んでいて大和朝廷の侵入を阻んだ。久慈川に沿って福島県に入ってきた。
ただ福島県に入る道は三つもあった。一つは白河関が有名だけどこの棚倉の道の方が古い、それから浜通りの勿来の関である。これも古代の道であり来る勿れであり蝦夷の抵抗にあった場所で来る勿れとなった。
つまり福島県とは古代から見ると大和朝廷にとっても侵入を阻んだ東北のみちのくの境界線だった。それは茨城県でも大和朝廷が侵入して土地の賊を無惨に殺した伝説が残っている、茨城県から棚倉辺りで強力な蝦夷が住んでいて抵抗した。
棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という
これも大和朝廷とかと闘った生々しい記録なのである。カヤ族がいて真野の草原(カヤ族)がいてその名が地名化した。カヤは伽耶国のことである。
歴史はまず地理から地勢から解明してゆく、だから実地にその地を踏む必要がある。
それも久慈川沿いをたどり棚倉に到達すると実感が湧く、どういう訳か自分は自転車で会津からこの棚倉に来たのである。そしてこの棚倉で一夜のテントを張り泊まったのである
「入り野の種蔵」と呼ばれ種籾をツトコに入れて分けた。都々古別(ツツコワケ)神社があった、種というのは農業するものにとっては大事なものである。いい種をいかに手にいれるかで決まるのが農業である。もちろんその土地が肥沃かどうかとか他にも自然条件にさゆうされるのも農業である。
棚倉にテントを張りし一夜かな古代しのびて秋のともしび
都々古別(ツツコワケ)神社から一すじの道が水戸に通じる街道である。その道は東山道でる。ただ水戸は古代には知られていない、茨城県の由来となった地域ではない、それは江戸時代から水戸に通じる道となった。
水戸街道というとき東京からは今でも水戸街道と言っている、それは六号線になる。
江戸からは古代は東山道であり日光街道があった。
芭蕉は日光街道を通り白河の関所に出たのである。
この棚倉とか白河は江戸時代から明治維新の時もやはり境界線であり棚倉では薩摩長州軍と官軍と戦った。その中に相馬藩も入っていた。相馬藩は最初は官軍に抵抗していたのである。あとで天狗党に参加したりして官軍に組み入れられた。
だからここは福島県の地理的境界線だったのである。
旅をするとき鉄道の旅でも車の旅でも歴史を偲ぶことはむずかしい、新幹線などで来たら全く歴史を偲ぶこともできないだろう。
久慈川沿いを遡って棚倉につくとき歴史を感じるしまた都々古別(ツツコワケ)神社から水戸への道を見るとき歴史を感じる、自分はその時会津から棚倉に来ていたのである。
会津というと遠いのだけどやはり福島県ではないが白河藩とか関係していた。
蒲生氏郷の時代に白河藩を治めて会津町という名を残しているのである。
蒲生氏郷というときキリシタンでありそれで石垣に十字架が彫られいると土地の人が話していたのも興味深い。
白河から会津へは白河街道を行くのである
(札の辻) → 金堀 → 赤井 → 原 → 赤津 → 福良 → 三代 → 勢至堂 → 長沼・惣五郎内 → 江花 → 牧の内 → 上小屋 → 飯土用 → (白河)
滝沢峠、沓掛峠、黒森峠、勢至堂峠と峠が多いため、宿駅間の距離は比較的短い。
菜の花や街道行きて猪苗代湖
勢至堂はその面影が残っている。道幅が狭く両側に家があるが昔はみんな茅葺きの家だった。道が狭いということが昔の街道のままなのである。
勢至道から福良にでる。ここは町としては大きい、両側にやはり茅葺きの家が点在していた。今はもうない。街道の宿駅というとき大内宿のようにみんなってっていたのである。あそこの蔵の宿に泊まったのは奇しきことだった。
勢至道道幅狭く家並ぶ昔をしのぶ秋の夕ぐれ
磐梯山威を正しつつ湖(うみ)碧し松なおしく秋深むかも
猪苗代湖畔のあわれ虫の音のかすかにひびき稲の刈られぬ
街道の宿駅なれど忘れらる蔵の宿壁に菖蒲の映えて暮る
砂浜に波の静かに青松浜木菟(ズク)鳴く声や夏の夕暮
雨しとと田植えする人あわれかな昔の街道猪苗代湖畔
会津への道の遠しも行き暮れむ萱におおわる山間の道
街道に清水の湧きて野菊かな忘れられしや日も暮れむとす
東山へようやくいずる歴代の会津藩士の墓秋の日暮れぬ
脇にそれた道が白河街道であり古屋敷とかの地名があるのもわかる
旧道は外からはわかりにくくなっている
会津まで相当に遠かった。ここは春と秋にも行った。会津は別に電車でも行っている。
福島県を旅をするときたいがい今はこの道は通らない、鉄道の通る道で会津に入る、すると歴史が実感できない、棚倉の場合も今だと東北線とか新幹線からはずれているから何か本道からはずれたような忘れられた場所と錯覚する。水郡線はあまり乗らないけど一回乗ったけどこれは時間がかかる。水戸まではかなり遠さである。ここはあまりなじみがないのである。
白河の関だって白河から相当に離れた森を出た道なのである。
ただあの小暗い森をぬけた所に白河の関があり芭蕉の奥の細道を感じる場所である。
あとは奥の細道を感じる場所は福島県ではない、あまりにも繁華な通りとなってしまったからである。
草の花たどりてつきぬみちのくへ白河の関所の跡はここかな
とにかくどこをどう通ってきたのがふりかえると不思議である。
なぜ会津から棚倉に来ていたのか、その行程もわからなくなった。
その前には八溝山をぬけて福島県に出てきた。その行程がわからなくなった。
会津というときそこは一つの山国であり一つの世界観も形成される場でもあった。
そういう地理であり風土であり歴史的に厚みがある場所である。
会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね
会津嶺のというときこの嶺は複数なのである、会津の特徴は山々が無数に重なっているのである。そして古代からそこは一つの大きな国として存在していたのである。
こうして古代から江戸時代の道をふりかえるとき確かに福島県はつながりがある地域だということはある。
福島県の特徴は古代の境界でありみちのくとして江戸時代までつづいていたのである。
この辺に松から磐梯山が見えた、舟津とか月形らしい
ここにも松が見えて磐梯山が見える