2016年06月28日

グローバル資本主義の何が問題なのか? (移民などにより国家民族文化共同体の崩壊)



グローバル資本主義の何が問題なのか?


(移民などにより国家民族文化共同体の崩壊)


国家とは何かとなとこれも定義するのはむずかしい。国家とは一つの共同体である。
では共同体にはどういうものがあるかというと「政治的共同体」「経済的共同体」「民族的共同体」文化的共同体」「宗教的共同体」・・・とかある。
国家はそうしたものの総合としての共同体である。
ヨーロッパが複雑なのは共同体が重層的になっているからである。
EUができたのも元をたどればローマ帝国とかの共同体にさかのぼるしヨーロッパではそうした大きな統合された共同体が歴史的に生成して変化してきた。
宗教的共同体というときキリスト教圏を形成した共同体でありそれはローマ帝国のカトリック共同体を形成した。あとでプロテスタント共同体と二分化した。
アイルランドはカトリックでありイングランドと争ったのもそのためである。

そしてイギリスのEUからの離脱では何が問題になっているのか?
移民だというときそれは世界的に起きている問題である。日本でも人手不足で移民を受け入れる他ないとされている、今の政権は実行しようとしている。
移民はそもそもなぜこんなに増えたのかというと交通の発達で物理的条件がとりはらわれたからである。どこの国へでも飛行機でその日のうちに行けるとなると帆船とかで一年かけて日本に来たという時代とはあまりにも違っているのである。
そもそもだから人はこんなに移動していない、人は簡単に移動できなかったのである。
アメリカに移住するにも大西洋をわたるのに命がけだったら人は簡単には移動しない。
そういう物理的条件に制約されなくなったとき人が自由に世界を行き来することができるようになったとき移民の問題が発生した。
つまり国境が交通の発達で消失したのである。

このことは経済活動するには最適化した。国境がなく人種も関係なく企業は経済活動ができる。企業は土地にしばられるものではなく民族の制約もなく活動できる。
そして多国籍企業にとっては自分たちの商品を売り金儲けすることが目的だから国とか国境とか民族とか宗教とかにこだわっていたら活動できないからである。
いちいちこの国がどういう国田とか人種がどうだとか考えていたら活動できない、要するに商品を売り金儲けできればいいのが会社だからである。
現代ではどこの国に属しているというより日本だってみんな会社員であり会社に属して生活している。すると会社共同体が一番重要になっているのは世界共通である。
つまり経済共同体が共同体となっているというとき会社のか国家のようになってしまう。東電なんかも一つの国家のように巨大だったのである。他にも大企業となると国家のようになる。そこで経団連が力をもち経団連の言うなりに国家もなる。
それは多国籍企業として世界でも国家を越えたものとして力をもつ
イギリスに日本の会社が1300社が進出していたというのも驚きである。ヨーロッパの拠点として利用していたのである。

この多国籍企業はどういう目的の共同体かというと第一に商品をどこの国でも民族とか人種とかに関係なく売り金もうけるすること意外にはない、そこではいかにして利益を上げるかが最大の問題である、すると労働者でも安い労働力がいいと世界に進出するしまた世界からも呼び込む、人間というものを何か働くロボットのように考えている
または部品のように考えているのである。いかに安く使い利益をあげるかとなり人間も考える、要するに人間より機械やロボットの方が多国籍企業にとっては都合がいいのである人間は機械でないしロボットでもないからめんどうになる。そのめんどうさこそが人間たる所以なのである。
だから今の会社の働かせ方なども機械の部品とかロボットのように会社ではみている。
時給いくらとか働かせるのはそうであり外国人が安いからそっちの方が利益があがるとかなり人間というものを気軽に考える、ところが人間である故にそこに摩擦が生れるのである。

現実に宮城県のある村ではトヨタの工場になり半分がそこで働くとなるとそこはトヨタ村になってしまう。トヨタなしでは村が成り立たなくなる、東電でもそうであり原発がなくなると市町村も成り立たなくなるとかなる。そういうことは世界でも起きているのがグローバル社会である。
トヨタ村になった町になった社会は原発村となった町となったらそこにこれまであった共同体はそうした大企業の社員であり昔の農村共同体とは違ってしまった。
東電の社員のようになってしまっていた。だから東電が補償金を払い今度はそれで生活しようとしているのもそのためである。
昔のように一地域が農村共同体となっていた時代とは違うのである。
だから浪江の人が会社員だったが二本松に会社が移ったので家族もそこに移るとなる。
その土地に根付くというよりみんな会社員だから会社に属していて世界にも移動するとなる、それが多国籍企業と化したグローバル社会なのである。

「経済共同体」に特価したものがグローバル資本主義である。
それが交通の発達で可能になったのだけど人間は機械でもロボットでもないし部品でもないしモノでもない、人間を現すのは様々な要素をもっていて部品化できないのだが現代はそもそも部品化されてしまった。
移民は生産する機械でもないし様々な要素をもったアイディンティティをもった複雑なのだから地元の人とも軋轢が生れたのである。
経済的一単位とか部品のようにしているのが現代だというときそこにこそ問題があったのである。
それは国内でもあったことが世界的に拡大しただけでありグローバル資本主義がそこから必然的に拡大したともなる。人間は経済人間化した結果そうなったのである。
それは世界共通の問題でありグローバル資本主義に反対する運動の一旦としてイギリスのEUからの離脱問題でも移民反対のナショナリズムが起きている
そのナショナリズムというとき単に経済的利益だけではないもの、文化的なもの民族的なもの歴史的な共同体としての反発が起きている
ただこれも矛盾している面がある、スコットランドはそうした歴史的民族的文化的アイディンティティの強い共同体であるがEUに経済的メリットがあるから残留派になっていた。
一方でロンドンを中心とした所は移民が多い、ここはもともと残留派だと思ったが離脱派が多かったのは移民が多いためである。それで今度はロンドンは独立してEUに残るべきだと主張する
その人たちは多国籍企業からグローバル資本主義で利益を得ていた貴族階級である。
離脱派は底辺労働者として移民と競合している人たちだったという。
日本だって政治家とか経団連では大企業の幹部はグローバル資本主義で利益を得たいから移民に賛成なのである。でも底辺層が増えたから移民と競合するようになるから日本でもこれから同じ問題が起きるのである。
ともかくEUからの離脱派かこれほど騒ぐのはやはりグローバル資本主義が曲がり角にきたからそうなった。世界的にナショナリズムが勃興しているのもそのためでありそれは世界的にそうなのである。世界的なグローバル資本主義が転換を迫られているからこれだ騒ぎになったのである。

ヨーロッパの国家意識はおおむね民族と結びついている。
自分が何人かを決めるのは、単にパスポートに表示された国籍ではない、実際に言語であり共通の文化であり伝統であり日常の習慣である。
過去において外来者は一世代か二世代で完全に吸収された。
だが旧植民地からの移住者は全く異質なのでただ彼らを社会にとりこむだけではすまない彼らが存在することによって社会は自己規定観念そのものを変えざるをえないのである。
「ヨーロッパ、民族のモザイク」フローラ・ルイス

このことがまさにバスボート一つで自由にどこの国に出入りできても軋轢をうむ原因なのである。人間はそれが故に人間なである。
グローバル資本主義とか多国籍企業社会になれば言語は一つ、英語だけとか便利だし国境とか民族とか人種などはない方がいい、そしたら人間が人間たる所以が喪失するのであるそれは人間が経済人間になることの反抗でもある。
イギリスにはイギリスの文化がり習慣があるというときEUにそれを否定されることが嫌だというときそうである。
イギリス国内でもスコットランドの根深い対立もそうした歴史と文化と伝統の対立がありそうなる。それも否定できない、日本だって日本語から英語にすればいいとかなったら反対があるのは当然である。経済的に発展するには英語の方がいいと日本語を使わなかったらその人は日本人なのかとなるだろう。

国際人とは何かとか無国籍の方がいいと言う人がいるけどその人は一体何になるのか?
その人は何の特色もない骨なし人間のようになってしまわないか?
その人の個性はアイディンティティは国内でも一地域から作られる、相馬藩でも小さいがそうであり会津などは特に山国だからアイディンティティを作りやすい、その風土に見合った文化が作りやすいのである。
たがいに地域的にそうして個性とアイディンティティ育むときそこに文化の多様性が生れる、ヨーロッパの特徴がそういう多様性にありまた総合性にある
それでイスラ文化をとりいれたルネサンスが華開いたのである。
ヨーロッパの強みはその多様性にあり総合性にあった。グローバル資本主義になるとそういうものがEU内でも失われかねないからイギリスの離脱もあるし次にはスペインとかイタリアとかにも連鎖するのである。

posted by 老鶯 at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

女性が貧乏底辺化する原因 人間の幸不幸は最後までわからない



女性が貧乏底辺化する原因


人間の幸不幸は最後までわからない


●夫に恵まれない

●離婚している

●容姿が悪い

●その人の資質

●実家とか資産や遺産がない

●子供に恵まれない


女性が幸不幸になる原因は何か?女性の場合どうしても容姿とかが大きく作用しているだろう。女性で見た目が良いといい男性とめぐりあう度合いが大きくなる
自分は人と接していないから実際はそういう方面ではうとい
ただ最近知った女性をみるとこの条件があてはまっているように見える
女性はやはり夫に恵まれないと貧乏になり底辺化しやすい
それは容姿が大きく関係しているかもしれない、自分のあった女性は容姿が良くない
そして離婚している、ともかく現代は離婚している人が本当に多い
三分の一は離婚している、戦前などは離婚しても離婚できない、生活できないからであるだから人間はそもそも他人が一緒になれば離婚も増える
離婚してすぐ生活保護を受けていた人もいた。子供がいたので女性は生活保護を受けやすい、これも離婚を促進しているのだろう。
今は女性はいろいろと社会的にも援助されるからである。

人間は貧乏になるというときその人の資質が関係している。それは学歴とかも関係ない、その人の資質が大きく関係している、人間は頭脳でも体力でもそもそも差が大きいのである、自分などは体力も頭脳もだめだった。だから普通であれば底辺化していた。
ただ自分が恵まれたのは家族に恵まれたから底辺化しなかっただけである。
家に資産があるとか金持ちだと資質が悪くても底辺化しない
まず学歴があっても東大出ても高卒の方が仕事ができるとかあり現実の社会で活躍できるかはその人の資質なのである。

近くのトラック運転手は若いときに家を建てた。30代で建てた、なぜできたかというとトラックは一台運んでいくらと歩合制である。それを人よりも多く運んだから金をためた。ただその時は高度成長時代であり給料も常に上がっていた時代である。
その時は事業をしてもたいがいうまくいっていた時代なのである。
その人は何か人を指導する親分肌の人ということもあり会社で上に立つようになった。
それはその人の資質なのである。もう一人同じ仕事でも働いても役にたたず生活保護になった。どんな仕事でも資質がないとものにならない、大工とかでも何でもそうである
男は仕事ができるということは資質なのだろう。女性は容姿が大きく作用する

女性の場合はまた生んだ子供にも幸不幸が作用する、その人は障害者をもったことで子供にも苦労した。他の人をみると子供が事業して贅沢な暮らしをしているとかある。
頭のいい子が生れるといい所に就職すると親は楽になるし贅沢もできる
現代はできの悪い子が生れるとその影響も大きい、ニートなどがどこにでもいて増えているからである。するといつまでも子供の世話をせざるをえなくなるのである。
その人が底辺化したのは上に書いたことがみんなあてはまっていたのである。
ただその女性の資質をみると悪くはない、考え方がしっかりしているし体は丈夫だし資質が悪くはない、ただ容姿は悪い、太っていて不細工で若いときだと嫌だとはなっていただろう。ただ精神的な面を見るとしっかりしているのである。
女性でも容姿が良くても精神的薄弱な人が結構いる、そういう人は苦難に弱い、苦難をのりきれないことがあるだろう。自分もそうだが社会的適応性がないとなる
その女性はとにかく人に頼むことやたよることがうまい、交渉力がある。
女性だからとはなるがそれだけでもない、だから男性には好かれるタイプのように見えるでも容姿が悪いから若かったら嫌だとなってしまう。

その人は飲食店で働いていたが給料を半年分もらいなかった。そこは元暴力団員とかが関係していた。要するに飲食業にはブラックが多いというときそうだった。
給料未払いというのもそういう所にはあるのだろう。
そういう底辺にはブラックが多いのである。今だと派遣とかかそうである。底辺化することはブラックな所で働かせられるということでもある
そしてブラックな所を転々とするということがありぬけられないのである。
その女性は底辺化する条件がみんなあてはまっていた。ただ資質として容姿が悪くても精神的には悪いとはなっていない、心がひどく曲がってしまった女性もいるがそうはなっていないのである。


ただつくづく人間の幸不幸はわからない、女性で容姿が悪いから必ず不幸になるとも限らない、美人だから幸福になるとも限らない、あんな美人で結婚してすぐに乳ガンになった芸能人がいたりいろいろある。人間は最後になるまで何が幸不幸かわからないのである。幸福の原因と思えたもが不幸の原因にもなったりする、金持ちの姉妹が餓死したとかいろいろあるだろう。老人になるとそのカルマが結果として現れる
つまり幸福の原因が不幸になる原因だったともなる。苦労していればそんなことにはならなかった。何の苦労もしないから苦難をのりきれなかったとなる
金持ちの家がみんな幸福といえばそうでもない、何か不幸をかかえているというのも多いからだ。
鳩山邦夫氏なども大金持ちであり大臣にもなったが67才で死んだのかとなる。それもはかないとなる。大金持ちでもみんな死ぬから同じじゃないかともなる
死というのは誰にでも平等なのである。結局なんであれ人間はみんな死ぬとなる
自分も同じ世代の人が近くで結構死んでいるから死が身近になる
だから大きな家とか財産でもいらないとなる、かえって負担になる。
金があればいいがこれももし遺産とか相続になると子供がいたらもめるし金が災いを呼ぶことは普通にある。だから何が幸不幸なのかわほからなくなるのだ。

人間いろいろ不幸があっても健康がそこなわれると最大の不幸になる。大金持ちでも徳州会の徳田氏のように大病院をもっていても身動きがとれない口もきけないとなると最も不幸にしか見えないのである。これも何か皮肉だなとつくづく思う。
どんな高価な治療を受けられるにしても優秀な医者に看護師に囲まれていてもあれを見ただけで不幸だなとなる、何か人生は最後までの見ないとわからない
自分の姉は資質的に優れていたけど最後は認知症になり悲惨だった。
自分は優秀だったと最後まで言って死んだ、いくら優秀だったとと言っても認知症になることは馬鹿になる痴呆になることだから悲惨だったのである。
ただ人間の最後は認知症になる人も多いのである。90以上になると半分はなる。
だから長生きすることもみんないいとはならないリスクがある。
だから人間の幸不幸は最後までわからないのである。運不運もある。
津波で死んだ人たちもやはり運不運かあった。事故で死ぬということも不運である。
要するに人間の幸不幸も幸福の原因が不幸の原因ともなるし不幸の原因が幸福の原因ともなるからわからないのである。

若い人と老人を比べるとその差は歴然とする、老人にとって若さはあまりにもまぶしいものである。もう絶対に手にいれることができないものとなっているからだ。
若いときは当り前にあるその貴重なものを感じない、失ってみてはじめていかに青春などあっという間にすぎるから思い知らされる、そしてその時は二度と帰ってこないのであるそしてみんな必ず後悔している、どんな人も老人になって後悔しない人はいないのである有効に活かされなかった時間や様様なもことで悔いているのである。
でもまた老人が不幸かとなるとそうでもない、前にも書いてきたけど本を読むにしても今までわからなかったことがすぐにわかる、理解力とか洞察力とかかえって創造力さえ老人の方があるともなる、それはいろいろ個々人によって積み重ねたものが華開くからである自分は才能がなくても我ながらいいものが俳句とか短歌とか詩でも作れたなと自分で感心しているのが不思議である。
ともかく老人になとその時何が幸福で不幸だったかもわかる、不幸と思えたが幸福になったり幸福だと思っていたことが不幸だったともなる、確かに自分の場合も自分を幸福にしていたものが不幸の原因になった。家族に恵まれたが家族の介護になってひどいめにあった。
幸福にしていたものが反転して不幸の原因になっていたともなる

結婚しない人が増えているけどそれも若いときはいい、年取ってくると誰も頼る者がいない、現代のような情のない社会では特にそうである。
金があったとしても病気になったらその金をとってやうとする人しか来ないのである。
実際そのことで自分がいかに悲惨なものになったかを経験して書いた。
つまり若いときは将来どうなるか見えないからのんきにしているのである。
今がいいけりゃいいとなっているらだ、人間は将来の不幸をリアルにイメージできないのである、だからこそノン日りしているともなる。
津波だってもし想像力を働かせていたら危険な海岸沿いには住まなかったろう。
今になるとそんなことも批判されるがやはり個々人の人生でもそうなのである。
将来いかに悲惨なことになるか想像できないからのんびりしている。


だから人間の幸不幸は最後までみないとわからないのである。
原発事故にしても実際は原発で回りの人は恩恵を受けていたが事故になり反転した。
恩恵と思えたもが不幸の原因となったのである。そういうことはいろいろ社会的にも個人的にせある。社会的にも何か幸福になり不幸になるかわからないのである。
江戸時代がし貧乏でもそこには幸福なものがありみんないい顔をしていたというとき何か時代的なものの影響があった。現代人と比べるとそうになる、これだけ豊でも現代人は鬱病だとかみんな不幸な顔しているのかとなる、豊になっても幸福とも言えないとなるのである。だから貧乏がいいというわけではない、極端にして考えるべきではない、
人間の幸不幸がわからないということなのである。