2016年06月26日

新しく建てられた家には誰が住んでいるのか? (南相馬市鹿島区の新住宅街の謎ーやはり船主だった人なのか?)



新しく建てられた家には誰が住んでいるのか?


(南相馬市鹿島区の新住宅街の謎ーやはり船主だった人なのか?)


この辺でわからないことは次々に新しい家が建ったことである。それも結構立派な家が多い、外から見るとまるで高級住宅街ができたのである。その地域は土地もいい場所である一部には豪邸という感じのもある。
その値段はわからないが土地の値段が高くなっていると言われからやはり相当な額だろうそれを鹿島区の人が建てたのかという疑問があった。
確かに津波の被害にあった人でも家をなくした人でも金をもっている人はいる。
でもどのくらいの数かわからないが百軒とか新しい家でできてそこま一つの街になるようだとそんなに金をもっている人がいるのかと不思議だった。
だからいつもその家々見てどういう人が入っているのか謎だった。
どういう人たち住んでいるのかわからないのである。

一方で25000万で土地付きで売り出している所もある。それなら入り安いと感じていた。
ただそうではなく豪邸もあるその額にしていくらになるかわからないがその安い住宅とは違うのが新しい街を形成する
その人たちどういう人たちなのかと不思議だったのである。
そんなにみんな金を持っているのかという疑問だった。
海老の人は屋形の方に家を建てたが借金で苦しいという。津波の被害にあった人だった。でも借金までしてあれだけの家を建てるとは思えない。
それなりに金に余裕がないと建てないだろ。

今日また話の面白い人と話した

「あそこに家建てた人は船主だよ」
「やっぱりそうなの、自分の近くにも船主だった人が家を建てたんだな」
「どこに行くんだとといったら海に行くんだと言っていたよ」
「海ということは船をもっている人なんだ、そうか、それでわかった」

自分がわかったというとき原発事故以後漁業権をもっている船主の人は大金が入った
それは漁業権を東電に売り渡してから船主には補償金がずっと入っていたし原発事故以後も金が入っている、それは他の人と比べると段違いに大きいのである。
そのことで磯部でも船主がいて立派な家を建てていると回りの人がうらやましがっていたのである。原発御殿とも言われた
別にみんなが漁業権をもっているわけではない、近くに住んでいてもそうである。だから何か近くでもそういう船主などに反発があった。
それは原発事故が起きるまで自分もわからなかった。何か漁業は苦しいと訴える人がいてそうなのかなと同情していたのである。
相馬総合病院に入院していたときも浪江の請戸の人がいて特等室に入り家を建てると言っていた。その人も船主だったのだろう。

いわきでは双葉とか大熊とかから避難して家を建てる人が多く地元の人から反発があった双葉とか大熊は小高などとは違って補償金の額が違うからである。もう住めないとなる家から土地からあらゆるものに補償金がでるからである。
狭い私道のようなものまで補償金が出たというからだ。あらゆるものに補償金が出るのである。
ここでも磯部の人が家を建てているという、磯部の船主だった人なのだろうとなる
他にも港があった所の人が家を建てている、その内訳はわからない。
この辺ではいわきとは違いそんなことで騒がない、第一良くどういう人が住んでいるのかわからない。もちろん船主以外の人も家を建てている
でもこんなに一つの街ができるほど新しい家が建つことが不思議だったのである。
その解答の一つはやはり津波の被害にあった港がある所で船主だった人が建てているというのは納得がいく、それならこれからも補償金が入るし生活できる
つまり海に行くというとき船主だからである。別に家がなくなっても船主だと船があれば漁業ができる、浪江の請戸港の船が鹿島の烏崎の港に停泊していたからである。
港に家がなくても船があればこれからも漁業はできるのである。

ただ一方では団地形式の復興住宅に入る人もいる、一軒家の復興住宅に入った人もいるしさらに復興住宅を作っている。団地形式の復興団地は原町では相当な数である。
そっちの方の数が百倍くらいに多い、一軒屋を建てるのそれから比べると少ない
やはりそれだけの金をもたないと家は建てられない、その家にしても2500万くらいのと立派な大きな家の値段は三倍くらい違うかもしれない
つまり同じ津波の被害者でもまたその他の人でも家を見れば差がある。
どんな家に住んでいるかでその人の暮らしを判断しやすい、やはり立派な家に住んでいる人は金をもっているとみる。
ただその住んでいる場所も左右する、立派な家が建って一つの新しい街となった所は土地がいい場所なのである。だから土地の値段も高いはずである。
自分が原発事故前に70坪7百万と立て札に書いてあったのは一番いい土地だったのである
そこはいつまでも売れなかった。今になるとその土地の値段はどのくらいになったのか?軽く倍以上になったかもしれない、それで土地を売った人は大きな金が入ったことは確かである。

それにしても何かここでも複雑な気持になる。もし立派な家を建てた人たちが船主が多いとしたら地元でも反発する人が多くなるだろう。
なぜあの人たちが金をもらいいい暮らしがつづけられるのかとなる。
漁業権を東電に売り渡したのは漁業権をもっている人たちだった。
海は漁業権をもっている漁師だけのものかということを前に書いた。
もし海を守ってくれるならいいが東電に売り渡して補償金をもらっていたのだから海は魚をとる俺たちのものだと言えるのかとなる
ただ魚をとれれば今ではありがたく食べるとなる。もし漁業権とかで補償金をもらわないならもっとその魚あ貴重てものとしてありがたく食べただろう。
この辺は補償金問題でもめたが最も反発されているのは漁業権をもっている船主とかである。海側に住んでいても船をもっていない人はもらえないからである。

だから何かこれもこの辺が複雑な気持になる、ただここでそういうことは表面化していないし実際はわからない、でもやはりこれだけ新しい立派な家が建つということはそれなりの理由があると思った。そんなに立派な家を建てられるのかという金を持っているのかという疑問だったのである。
補償金にしても土地をもっていたり人によって違ってくる。軽く億の金をもらった人は多いことは確かである。でもそれが全部ではないのである。
だから復興団地に入る人もいて差ができる。それはいわきでも楢葉とか他は少ない、大熊とかは額が違う、もう住めない所もあるからだ。それで内部でも補償金問題でもめているのである。
補償金でも一様ではないのである。ただこの辺では一番補償金でもめたのである。

南相馬市ではあまり漁業権をもっていたから船主で金をもらっていたからと回りでは騒がない、でも磯部の人も家を建てていたとかわかるとやはり船主などで金が入ったなのかとなる、ただ数が多いから実際の所はわからない、そうみれば納得することは確かである。話した人は金をもっているらしいが80を越えているしいつ死ぬかわからないと小高の街内の住宅を借りて住むという。そこは長屋風の住宅などもあり街内にあるから便利だと思った。
街内でもスーパーもなにもないのだから住んでも不便である。
もう年だから家を建ててもそこに長く住むわけでもないから建てないと言っていた。
もう年取ると先がないから家があるとかえってその後をどうしていいか困るのである。
子供が離れてすむと余計にそうなる、今や空家が全国で800万軒と異常な状態になっているからだ。
どうせ死が近いなら何かをもつということは家でも負担になるのである。何もない方が気楽だとなってしまう。そういう所が若い人と老人の差が顕著に出るのである。

posted by 老鶯 at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

知っていることと理解すること違う (知ることより理解深めること)


知っていることと理解すること違う


(知ることより理解深めること)


知っていることと理解することは違う、知っていることは膨大になるけどそれは単に知っているということであり理解しているわけではない、現代はグローバルに知ることが膨大になる、でも外国になると理解することがむずかしくなる
例えば人間でもあの人を知っているというのとあの人を理解しているというのは相当に違う、まず一人の人間がどういう人なのか理解することがむずかしい
それは家族ですらそうであり、家族でも生い立ちとか境遇が違ってるからである。
夫婦でもそうである。知ることは容易なのだけど理解することがむずかしい

一人の人間を理解するには時間が必要である。理解できないのは時間がないからである。少なくても二三年とか付き合わないとその人のことはわからない。
だからその人がどういう人なのか簡単に判断できないのである。
江戸時代とか村のような狭い社会だったらあの人がどういう人かなど知り尽くしていたろう。でも村以外の人と交わるときその人がどういう人か理解できないから警戒するのは当然だった。
現代はそうしてその人をどういう人か理解できないままに交流することが多くなった。
そしたらどうしてその人を信用できるのか?それでうるさく保証人などが要求される
その人のことを知らないのだから書類選考したり何を判断基準にするか採用する方でも困るからである。
自分も失敗したのは知らない人を家に入れて働いてもらって大損害を受けた。
何か同じ町であり田舎ではそんなことをするとは思わなかったのである。
ただその人が金に困っていたことはわかっていた。
もう一人は親の代からつきあいがあった人だったがその人が金に困っていることがわからなかった。事業で成功した人とばかり思っていた。
なぜならその人はそういうふうに吹聴していたからである。それで病気のとき借金を要求されて苦しられたのである。

いろいろな事件があってもその事件を知ることができてもなぜそうなったのかは理解すことがむずかしい、あらゆることで理解することはむずかしい。あることについて正否があり人についての評価でもそうである。
それは知ることができてもそもそも理解することがむずかしいからである。
現代とは知ることは世界的に膨大になっている、でも理解することは少ない
江戸時代あたりは狭い範囲で生きているから知ることも少ないが理解することはかえって人でも回りのことでも深いものがあった。
それは人間についてもでもその土地のことでもなんでもそうである。
現代は何でも広く浅くであり理解を深めることがしにくいのである。

人を理解するとき、understandとあり下に立つなのである。これもどういうわけで生れた言葉なのかわからないけどヨーロッパは貴族社会だけどそもそも人を理解するにはその下に立たないと理解できない、上からの目線では人は人は理解できない、今度のイギリスの離脱問題でも底辺で働くイギリス人のことがわからない、上流階級は別に移民でもいいとなり残留になったという。そのしっペ返しが投票に現れた。
移民に職を奪われるとか底辺層のことを理解していない、つまりunderstand 下に立って理解しないということなのである。
それも政治家でも何でも下に立たないからそこに底辺で苦しんでいる人たちのことが理解できず無視する、まず貧乏だって今では外見的にはわからない、でも貧乏に苦しんでいる人が増えた。ただ貧乏だからといって生活保護でも人様々でありその事情は良く接してみないとわからないのである。
現代はともかく広くグローバルに交わるのだけど理解することがむずかしい
そこに様々な誤解や軋轢が生れる、外国人が大量に入ればますますそうなる
言葉も理解しないというとどうして理解できるのかとなる
つまり移民問題はただ安い労働力として考える、ロボットのように考える、相手は人間なのだから理解し合わないとまずたがいに協力はできないのである。
だから移民は問題なのである。機械の方がそれならいいとなる。

理解するというとき本当に自分は家が傾くほど本を買ったけど理解していなかった。びっしりと線を引いていてもそのことを全く忘れていて理解していなかった。理解しているのもあったが多くは深く理解していなかった。
そして今になると二三行を読むだけでその言っていることを深く理解できる
老人は理解力とか洞察力が深まる、若い人には行動があっても理解力がないのである。
若いときはどうしても行動が先になる。それは正しいことである。
旅をするということは行動なのである。旅しているときとか何か行動しているときそのことについて理解できない、でもあとで理解することが深まってくる
人生でもその時々にこうどうするのだがその意味が理解できないが老人になりふりかえるとりかいできなるのである。あれはそういうことだったのかと理解できる
歴史でも百年たってふりかえり理解が深まる、最近明治維新について見直されているのはそのためである。

人間は多く知ることではない、あることについての理解を深めることである。それは人間についてでもそうであり社会についてもそうである。
そうしないと浅薄なもので物事を判断するようになってしまう、つまり数が多いとかナチスのようなファシズムになりやすいのが現代である。何か感情的に煽情的なものとしてあおられそれで全員は理解しないで行動することになる
それはカルト宗教団体がこれほど増えているのもそうである。題目を唱えればいいというのはまさにファシズムである。それは何も考える必要がないからである。
すべてはハイルヒットラーで終わりになる。
ホピュリズムになりやすいのがまた民主主義なのである。多数決がすべてだとなるとそうなる、なぜなら庶民は知ることはできても理解できないからである。
そして現代では理解できないことが多すぎるのである。
原発事故もそうして起きたのである。庶民にとって原子力とか核となると理解不能になるからである。

知っていることをいかに増えても結局人間は賢くなれない、互いに理解しあうとき相手との和解があり平和もありうる、貧富の格差が問題になっているが今は金持ちと貧乏人は交わらない、するとたがいに金持ちのことも貧乏人のことも理解できないのである。
理解できないとそこにただ敵対関係だけになるのである。
だから金持ちと貧乏人を分けるマルクスの階級闘争の思想は危険だったのである。
現代がそうなりつつあるから危険なのである。
イギリスの離脱問題でも残留派は金持ちに貴族に多いというとき下で働くイギリス人の庶民のことが理解していなかったのである。