2016年06月15日

抽象画(夕暮れの山) mountains on the evening



抽象画(夕暮れの山) mountains on the evening


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a Shinto shrine=japanese shrine




これは二つのソフトを使ってできた、一つのソフトだと限られてくる
ソフトはみんな違っている、ソフトによってさらに変化ができる
抽象画はソフトに左右されるのである。

As for all the software which has been limited to when this is one software made using two software, the abstract picture which can change more depends on the software different softly.

最初のグラデーションからこれは変化したのである。
グラデーションも無数にあるから無数の変化が生れる
抽象画がきりないのである。

This changed from the first gradation.
I cut it, and there is not the abstract picture which innumerable changes are born as because there is innumerable gradation.


連作として創作すると見応えがあり一つの作品となる
なぜなら必ず抽象画は変化するからである。
だから連作になって一つの作品となる

This is because it is worth seeing, and the abstract picture changes by all means when I create it as repeated cultivation if it is why which becomes one work.
Therefore it is planted over and over, and it becomes one work
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なぜ舛添知事がこれほどもちあげられたのか? (舛添東京都知事のカルマ)


なぜ舛添知事がこれほどもちあげられたのか?


(舛添東京都知事のカルマ)



一人の人物を知ることは容易ではない、不思議なのはなぜこんなに舛添知事がもちあげられたのだろうか?
これまで悪いことを言う人はいなかったし厚生大臣にもなっているのだ。
本当は彼自身の業績というのはなかったのかもしれない、東大卒だけでは業績にはならない、助教授になったということは論文を出しているからそれなりのものはあった。
東大卒では業績にならなくても学者を見るとき論文を見れば専門家から見ればすぐわかるただこの論文も自分の成果でない弟子の成果を出したりするのが普通だとかいろいろ裏があるみたいだ。
人間は人間を判断するとき分野が違うと判断しようがない、自分は文科系だから文科系のものは判断しやすい,それでも文科系でも分野が広いから法律とかなるとわかりにくくなる。相馬藩のことを調べていて学者が論文を出していたがやはり学者だなと感心した。
論文は学者の明らかな業績なのである。


舛添知事は同世代であり団塊の世代である。舛添は貧乏だったというけどその時みんな貧乏だったのである。第一物がない時代だった。電器製品は一切ない、裸電球一つであり家にあるものは飯台一つである。それはみんな同じだったのである。
その当時は物が第一ないのだから金があっても贅沢はできないのである。
だから貧乏だったからせこくなったというのは理由にはならない
ただ自分のような劣等生から見るとまず柔道二段で東大を出るということは天才のように見える、この辺で東大に受かる人は十年に一人いるかどうかそもそもいない、それだけで相当優秀なのにガリ勉とも違う、柔道二段ということは体力も優れているから普通の人ではないとみる、両方ともだめな自分から見ればそうである。
やはり人間的素質として優れているとみる

そもそも団塊の世代というのは大学に入るだけで特別なものであった。中学校のクラスで四五人しか入らない、半分は中卒で終わりで集団就職の時代だったのである。
つまり今とは違い、大学に入ること自体が特別なことだったのである。
自分などは恵まれていて勉強がだめでも私立の三流大学に入ったのである。
そういう自分などと比べると段違いに違っている人間に見える
ただそういう優秀な素質の人間でも社会で評価されるようになるのは別である。
学問と実社会は違っているからだ。

その後なぜ彼がこれほど有名になったのか?これほど持ち上げられたのか?
次の総理大臣候補とまで言われたのか?そこに謎がある。
それを彼が度々テレビに出るようになったからである。
マスコミでもてはやされるとたちまち有名人になる、実力は関係ないのである。
テレビ受けする人がたちまち内容がなくても持ち上げられるのであり有名になる
つまり有名になることとその人の実力は関係ないのである。
芸術ならどうしてもその作品から評価される、いくら有名になっても作品からみるからある完全ではないが公平になる、学者の評価も論文でありこれも完全ではないが評価の基準がある。
でもテレビで有名になったというだけではその人のことはわからないのである。
ただ有名になるというだけで何か政治家などは票がとれるので通じてしまうということが問題なのである。
だからマスコミとかテレビはいいかげんなのである。何か面白そうなタレント的なものをもちあげてその人自身がどういう人かなど関係ないのである。
テレビはタレントを大衆受けするテレビ受けする求めているのであり中味は関係ないのである。口八丁手八丁のものが選ばれるのはそのためである。


いづれにしろ自分もそうだったが六〇代以降はどんな人でもこれまでのカルマの清算を強いられる、ここ十年の介護などの苦しみを書いてきたがそれもカルマだった。
舛添知事もそうだった。これまでしてきたこと悪行というか何か過去のことがカルマとなり責められる、それが高い地位についたため過酷になったのである。
普通の人だったらやはり問われてもこれほど責められないだろう。
人間は必ずカルマを課せられている、だから推理小説のテーマが若いときの犯した過ちが尾を引いて事件が起きることをテーマにしている、どうしても若いときには過ちを犯すからでありそれが後々まで尾をひき六〇代以降清算を強いられるのである。
変な話だけど子供もたない結婚しないというのも一つのカルマである。
人間として生れたら結婚して子供をもつのが普通だからである。それをしないことは六〇代以降カルマとなる。誰も老人になって身寄りのないものとなり助けるものがいないということである。それもカルマとなってはじめて理解するのである。
カルマというのはそういうふうに自分がその業(カルマ)によって苦しみとして現れないと自覚できないのである。それが六〇代以降否応なく苦しみとして現れるから理解するのである。

ともかくどんな人もカルマをもつ、結婚して子供をもつ人もまたカルマをもつ、カルマをもたない人はいないのである。
舛添知事も女性関係で乱れていて今になるとカルマとして現れ責められている。
そもそも舛添知事がなぜ厚生大臣までなれたのか?
それが自分が介護してもいないのに介護したと本を出して自分も売り込んでいたからである。
ではなぜその時その嘘が暴かれなかったのか?
これも不思議だとなる、これまでなぜこれほどに持ち上げられていたのに一転してこれほど責められているのか?その落差が大きいから不可解だとなる
その責任は回りの人にもなかったのか? マスコミであれ舛添知事をもちあけだ政党でありこれほどもちあげたのか?ただ有名というだけで選挙に勝てるとして持ち上げたのか?
そしてわずかの金のことでこれほど責められているのか?
他にもこういうことをしている政治家はいるという、それも億の金の政治資金をごまかしている人もいるという。
要するにこれは百円とか千円とか盗むとかえってわかりつかまるようにわかりやすいからこれほど責められているのか?それでも罪は重いにしても多かれ少なかれ政治家はしていることだと言うときなぜこれほど責められているのか解せないのである。

まず自分もそうだが貧乏に育った人間はみんなせこいというより倹約家になる
浪費しないのでてある。それがせこいとはならない、庶民はみんなそうしているからである。舛添知事の場合は団塊の世代はみんな貧しく育ったからそうなる、戦前生まれだとさらにもったいないという世代である。
ただ高度成長を経験しているからその後は贅沢したのである。
人間がせこくなるというとき貧乏だとどうしてもそうなる、だから高い地位につくものは貧乏人はふさわしくないということもある。そういう地位のものは外国人を接待したり貴族的にふるまわなければならないからである。
そして貧乏に育ったものは大きな金を使えない、自分もそうだが百万とかの金を使ったことがないからなかなか使えないのである。大きな金を使うことが怖いということもある
だから自分にしてもせこいとなる、このせこいにもいい面と悪い面があるのだろう。
事業に失敗した人は多額な借金したこともあるがせこくなっていた。
自分が苦しんでいるとき何かしてやるとき金を要求してきた。
つまりも親戚とかではない、友達でもない、事業をはじめたから人間関係もビジネスであり相手が病気で苦しんでいることも相手が不利になったのだからそれでその時ビジネスになれば自分の要求が通りやすいとなる、借金するのにも好都合だとなる
相手に同情するとかそんなことは全くないのである。そんな人しか来なかったのが最悪だった。もう一人はまさに露骨に金を奪う犯罪人だった。これもふりかえれば自分のカルマだったのだろう。家族のカルマとも関係していたのだろう。
何かそうした悪いこと人間関係でもカルマがあってそうなる

人間がせこいというとき相手が病気で他でも苦しんでいるときぼーんと金があれば与えるいちいちそれで恩を売るとかはない、そんなときいちいちビジネスのようにしている時ではないからである。ただそれも余裕があったらできることなのだ。
せこいとは余裕がないからそうなる。でも舛添知事は金が余裕がない立場ではない、嫁も金持ちとしたら別荘まであるとしたらそうである。
なぜそんな小さな金をでは政治資金から使ったのかという問題になった。
そんな金を自腹で払ってもどうってことなかったろうと思う。
せこいというとき必ずしも金があるとかないとかでもなくせこいなと言われる人がいる。金持ちでもせこいと言われる人がいるからせこいというとき何か心か狭いとういことでありその人の人格的なものなのだろう。
ただ基本的にはどうしても金がないといことは今の時代は特にせこくなる、金があると大きな気持になるのである。それだけ金がものいう時代だからとをにもならないのである。

いづれにしろ舛添知事は一生のカルマの清算を強いられているのである。これはさけようがない、みんなが六〇代以降は逃れられないのである。
自分の十年間もそうだった、それによってカルマを意識させられるのである。そうでなければ何も意識しない、舛添知事も今になって自分のカルマを現実問題として過酷に意識させられたのである。
ともかく選んだ都民も馬鹿だというときそうである。ただ有名なだけで選べばそうなる
そして今度は知事選挙で四〇億、解散すると都議会選挙で五〇億とか都民が税金で支払う、それも選んだ都民にはねかえってくる。その金で他に有効に使うこともできたからである。だから選んだ都民も馬鹿だから結果的に損したとなるのが民主主義なのである。
そして政治家は信用するな、政治家は監視しろというのが民主主義である。
マスコミは監視の役目なのだがそれを全くしていないのだからマスコミは信用するなとなる、なぜならマスコミは馬鹿な大衆を洗脳するメデアだからである。
それを利用しているのが背後の様々な団体なのである。カルト宗教団体もその中に入っている。芸能関係者が創価とたいがい関係しているというのもそうである。
東電は多額の宣伝費を使って安全神話を作ったというときもそうである。その裏には電通がいて操作している、それも最近露にされた。 
マスコミとは権力の走狗なのである。だからそこで持ち上げられて有名になっただけでその人を信用したのは大衆が操作されていたということでもあるのだ。
それは民主主義が機能していないということである。インターネットがメデアとして影響を及ぼすようになれば多少変えられるのである。
ともかくこれからはテレビに出るような人間には疑問もつ、信用しない、そしてなるべくテレビを見ないようにすることである。
テレビを見るだけで洗脳されるからである。そこに出ただけで重要人物のように見えるからである。
ただ出ただけで千倍にも万倍にも拡大してみるのである。中味は関係なくテレビというメデアはするのである。
だからそのメデアの影響を受けないようにするためにはなるべくテレビを見ないことなのである。
タグ:舛添
posted by 老鶯 at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層