2016年06月06日

原発事故は人類の歴史をふりかえれば予見されていた (人類の歴史的必然として起きた)


原発事故は人類の歴史をふりかえれば予見されていた


(人類の歴史的必然として起きた)



八百万神、天安之河原に、神集ひて……イシコリドメの命に科せて鏡を作らしめ、タマノオヤの命に科せて八尺の勾玉の五百津の御頻麻流の玉を作らしめ云々」とあるは、日本に於ける分業制の最も古き記録と見るべきで、これから段々「家業」といふものが伝はつてゐる。家業とは家に伝はつた職業である。

或は初夏の「雪しろ水」を予告し、或は二百十日の暴風を予言したとすればどうであらう。心の単純な部落の全民衆はその長老を救主として神様の如く尊崇したであらう。そしてそれに自分等の持つてゐる最も善きものを捧げたであらう。かくて長老は生活のために労働もせずに専らその長じた研究に従事して益々智能を啓発したであらう。そして、その集積された学的知識は自然にその子孫に伝へられ、漸くにして特殊階級としての一家族が出来たであらう。これが或は戦争の場合の武将ともなり、又は武将と結託することにもなつたであらう。王様の起源をだづねると此くの如くである

「私の経験では、小農者は地方住民中で最善、最優なるものである。私がこゝに小農者といふのは、四十エーカー以下の地を耕作する者を言ふ。(一エーカーは約四反歩)彼等は一般に多芸多能であつて、種々な仕事に変通自在で器用である。そして是れは、狭い場所にて一切を自分で処理せねばならない処から、その必要に迫られて器用にもなり、変通自在にもならしめられる為なのである。

分業というとき神話の時代から日本でもすでにはじまっていた。例えば石器が生れたとしたらその石器を作る専門家が生れる、その方がその一部落でも効率的になるからである。でもその時は石器作りは狩猟する人も女性もしていたかもしれない、石器は単純なものだが意外と人間にとって最初の強力な道具でありその石器から人類が発展してきた。
石器に木の棒を結びつければ鍬になり矢じりとして動物をとる道具にもなる
石器の効用は人間にとって大きなものだったのである。
石器とは工業のはじまりであり人類が自然を征服するための道具として生れた。
つまり人類の発展は石器からはじまっていたのだ。
それで面白いのはヨーロッパの石器が大きかったということである。
そのことが歴史としてヨーロッパとアジアとが分かれるものとしても作用した。
石器が大きいということは殺傷能力も大きいということである。
武器としてヨーロッパは石器時代から強力なものとしてあり現代に発展したのである。
ヨーロッパの武器の歴史をたどるとアジアより殺傷能力の高いものが多い
武器に関してはヨーロッパが強力なものを作ってきた歴史がある。
大砲とかもヨーロッパから生れ城壁が役にたたなくなり歴史が変わったということもある武器はヨーロッパで早い時期から発達してきた、その歴史と連続性が現代までつづいていたのである。
なぜなら第二次世界大戦は飛行機が武器となり飛行機によって勝敗が決せられたからである。
そして核も原子力もヨーロッパで発明されてきたのも核兵器になったのも歴史的連続性の結果なのである。
何事歴史的連続性の結果として現在があるみないとどうして今日の問題が起きるのかわからないのである。

この論文でどうして支配階級が生れたのか?それは天候を予測するということ暦をもつということが知識人によって成された。その人たちがテクノクラートとなり支配階級になり国を支配することになる。
日本でも日食を予言して卑弥呼が人民を支配したという説もそうである。
科学技術はすでにそうした人民を支配する魔力をもつものとして利用されていたのである病気でももし薬草でも直す人がいたら神のように尊敬される。それが継続して医者が今でも神のようにとはいかないまでも一番尊敬われていることでもわかるのである。
ここにも人類の継続性が歴史の継続がある。
例えばエジプト文明でも書記が高い位にあったとするとそれは今の官僚に通じている。
計算するということが高度な知識でありそうなった。つまり数学の知識が大きな力を発揮していたのである。
まずピラミットは高度な数学の知識がなければ作れないからである。
そして実際はピラミッドの謎は今の高度な数学でも解きあかせないことにある。
だから神秘的なものなのである。
マヤ文明も高度な天文学が発達していて太陽が石の祭壇の上に輝くように作られていた。それでそうした計算をして作られた石の祭壇で王が君臨してテクノクラートが支配階級となったのである。

このことは原発と同じだったのである。原発を操作するのは明らかにテクノクラートだった。
なぜならこれまで考察したように東電の力は政治家よりも官僚よりも検察などよりもマスコミよりも上だったのである。
なぜなら政治家や官僚でも検察でも東電に天下りしていた。警察官僚でもそうである。
マスコミも朝日新聞ですら宣伝費をもらい原発に反対することはなかったのである。
つまり実質の支配者は権力は電気を作る東電がもっていたのである。
それは古代から継続された人間の歴史だったのである。
つまり原発の問題は現代にのみ起こったことではなかった。長い目で人類史を見れば歴史的必然のように起きたのである。
それはすでに歴史をふりかえれば予見されたことでもあったのだ。
老子が道具をもつものは道具に支配されて人間性を失うとかキリストが剣をもつものは剣で滅びるとか予言していたことでもわかる。
それは二〇〇〇年前にすでに予言されていたのである。
核をもつものは核で滅びるということになる、核で滅びるのが人類のカルマだとなる。
それは歴史的継続性として予見されたものである。
その発端が石器が作られたとき人類にはじまっていたのである。

そして分業化することで起きた問題でもある。分業が階級を作った。支配するものと支配されるものを作ったという石川の論文は納得する。
王というのはその字はもともと斧から発している、つまり斧という道具をもったものが支配者となったのである。テクノクラートが王を作り出したのである。
それは東電が国の中の国にになっていたと同じである。電気を産み出すもの、核から電気を産み出すものが実質の支配者になっていたのである。
それは歴史をふりかえれば産鉄族の歴史が古代からあり考察してきた。
日本の地名には全国的に鉄を生産することにかかわる地名が無数にあることでもわかる
そして人間の異質性の最たるものが職業の相違にあった。分業にあったのである。
鉄を生産する人は農民にとって常民にとって稲作民にとって異質なものだった。
そして鉄を生産することから公害が生れたのである。
そういう鉄の生産することから有害物が田んぼに流れたことでそれが地名化したのであるそれ木地師などもでも共通していた。その職業が元から住んでいたいた人たちに理解しにくいもの脱化らである。
それで碗貸し伝説とかそうした理解できない職業集団は異質なもの神秘的なものとして伝説化されたのである。

おそらく王権のシンボルであった鉞(エツ まさかり)を支柱に立てかけた形である。 古代の王者は斧や鉞を武器にして天下を征服したのであり、天下に王として君臨する時、自らの象徴とし得るものは、征服に際して使用した武器であった。実際に殷の遺跡から、豪華な装飾を施した儀式用の鉞がいくつか出土しているのは、この推測を裏付ける事実である

こういう歴史も民俗学でも現代とかけ離れたものではなく歴史的継続として起きたものなのである。
原発に携わるものが何なのか理解できないからである。現代は様々な職業に分化しているもう分業化によって「隣の人は何する人」になる。
田舎ですら隣の人が何している人か職業でもわからない人がふえたのである。
分業によって人間は支配するものと支配されるものに分かれ互いに意志疎通もできないものとなった、その歴史は古いのである。
原題は最も極端なものとして分業化した社会になっている、職業が違うと互いに意志疎通もできないのである。
それは鉄を生産することからすでに起きていたことである。
それが発展して原発になり地域が水も飲めない空気までい汚染されて住むことさえできなくなった。
このことはすでに鉄の生産時代から予見されていたことなのである。
東電の技術者が原発でなにをしているのか皆目理解できない。
そこには立ち入ることもできない、そこに働いている人がいてもその人たちは何もわからないのである。
つまりそこは秘密のベールにぶつつまれているのである。
周りの人は知り得ようがないものとして閉ざされたいる
だから危険も察知できないし地元の人が防衛することもできないのである。
そのことから今回のような大事故が起きたのである。






posted by 老鶯 at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない (古いものが失われたことによる損失もあった)


買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない


(古いものが失われたことによる損失もあった)


家事をやるときまず何を買うかが問題になる。どういうものを料理でもそろえるのかが問題になる。
それがスーパーでもホームセンターでもそうである。そこに何があり何を買うべきかを知ることがまず第一である
そして今では小さな町の一万くらいの町でも相当な品数があり何を利用すれば最適なのかそれを知ることが肝心だとなる
家事を十年していても未だにそのことがわからない、それだけ品物が増えすぎたのであるその点インターネットだと検索で探せるから便利である。自分の欲しいものをキーワードでと探すから欲しいものがわかりやすくなる。
それがスーパーでもホームセンターでも品物がありすぎると目当てのものを探すのが大変なのである。
ただ見て回ってこんなものがあるのかということの発見はある。
インターネットではキーワードでしか探せないからである。
だから本屋に行く楽しさはいろいろな本を見て歩くことにあった。
でも地方の書店ではもうその種類が少なすぎるから書店は用なさなくなった。
今になると仙台に行くのも億劫になったから今年はまだ仙台に行っていない。
別にアマゾンで本などいくらでも買えるとなったからである。

ネット販売だと店屋めぐりとかできないし街を歩いて楽しむということもできない
地方の商店街はほとんどシャッター通りになっている
ハチンコ屋はどこにでもあり何か街自体の魅力が喪失した。
街というのは自然環境とか歴史があり成り立っていた。
相馬藩だったら城があり城を中心として各地で城下町が形成され街も形成されてきた。
通りを歩く楽しみがなくなった。仙台辺りはまだある。
青葉通りとかあり学生も多く若い人も多く歩いている
歩く楽しみがまだある。通りは自然の風光とかを感じ人が生活する息づかいを感じる場所であった。青葉通りはまさに青葉にふさわしいのである。
それで俳句とかにもした。それがビルの中に入るとそういう自然の風光とか歴史と切り離されるのである。
それはスーパーとかでも同じである。つまりスーパーなどには自然の風光とかその土地と切り離されたものである。その最たるものがイオンなどである。
街から切り離された郊外に独立して膨大な品物だけがあるという世界である。
それは車社会になって生れたものである
駐車場を旧来の街では通りでは確保しにくいからそうなった。

城下町となるとやはりまだ歴史とか風光を維持している。それで熊本城が地震で破壊されたときなんとか復興しようとしている、前にも熊本では地震で何度も城が破壊されて再興していたのである。
それはやはり城が以前として街のシンボルとして精神的支柱としてあったからである。
そうして古い街が残っているのは現代では大きな都市に限られる
京都とか奈良とか東北では仙台とか盛岡とか弘前とかである。
ただ相馬市の不思議を書いてきたけどなぜあそこに行くとしんみりするのかということである。
それは城下町だけど別に城が残っているわけでもない、でも高いビルがないということが自然の風光が映えるものとしている、街作りとして公共の会館などが入母屋作りにしているし今度建てる市庁舎もそうである。
だから城下町の雰囲気というか落ち着いたものとしている。これには反対もある。

何か確かに建物だけに金をかけているという感じになるからだ。そこに住んでいる人からしたら福祉とかその他のものに金をかけて欲しいとなる人もいる
原町の街は何か病院の街という感じがする
駅前に高い病院のビルがありそこに若い看護婦が多い、若い女性にふれられる活気が感じるのは地方では病院だというのも現代を象徴しているのか?
南相馬市立病院はビルとして一番高く見晴らしが良かった。入院していたとき海に船が行くのが見えたのである。あの辺から海が見えないからである。

買う物が増えるというとき選ぶのが容易でなくなる、自転車など今や外国をふくめものすごい数がある。変わったロードに乗っている人がいた。どこで買ったものなかのかと思う原町の自転車屋では外国製まで置いてある,ジャイアントのロードが飾ってあった
その主人は直接自転車にのって乗り具合などを確かめ客にすすめている。
そこで一台ハナソニックの電動自転車を買った、つまり何を買っていいかわからないほど自転車の種類も数も増えたから客は選ぶのに苦労するのである。
それは情報という分野でもインターネットが出た結果そうなった。
膨大な情報をどう選ぶかが問題になる、そうしないと情報に追われて時間を奪われてしまう。

だから今は新聞も読まないしテレビも見るのは限られている、今自分が力を入れているのは情報をプロクなどで発信する方である。
若いときはどうしても情報でも知識でもとりいれる方であり発信する力は弱い、年取ればやはりそれぞれに経験を積むし知識も自分のものとなってゆくから発信する方が多くなるインターネット時代になると知識でも情報でも増大するが肝心のものを読まないということもありうる、つまりくだらないものに追われて時間を消費するということもありうる
これはインターネットがないときもそういうことがあったから同じだけどその情報量が違いすぎるのである。
本が中心のときはベストセラーが必ずありそれはつまらないものでもそこに関心が集中して買う人がいたのである。それは実は全くつまらないものであっても百万部とか売れていたのである。今はベストセラーもなくなった。
出版の世界が崩壊しつつある、自分の町では一万の町ではもう書店はないし他でもそうだろう。書店はなくなることは目に見えている

本というのはまず選ぶことが本の時代でもむずかしかったし学術的なものになるとなかなか地方では手に入らないので仙台には本を買うために行っていた。
インターネットの時代になるとまずアマゾンでない本がないからいい時代である。
こんな本があったのかという驚きかある。本というのは学術的なものでも膨大なものがあった。それを知らなかったので知識を追求するには地方では相当なハンディキャップがあったのである。
それで最近詩の本を集めたりして参考にしている。他にも何か自分で文章を書くとき参考にする本をインターネットの電子本で拾い読みしてアマゾンで注文して買ったりしているだから田舎にいてなにか不便を感じないのである。

ただ書店で本を見て楽しむということがなくなった。こんな本があったのかというキーワド探せないものがあるからだ。
出版社が本の世界からインターネットの電子空間に入れないのはあまりにもその変化が大きいので入れないのである。出版の世界にはその流通から本作りまでこれまで培ったものがありそこからぬけでれないのである。
出版文化というものがあるしまた本は二〇〇〇年もの歴史があるから本というものからぬけでれないというのもわかる。
本で読むのと電子本でインターネットで読むのは何か違っているからだ。
同じ内容のものでも人間の感覚で違って感じるからである。


物が千倍増えて情報が一万倍も増えたら人間は対処できるのか、処理できるのか、そんな能力が人間の脳にあるのかとなり小説までコンピュターで作れるとなる
なぜならそこに膨大な情報があるからだ。コンピュターは処理できるからである。
人間はとても処理できないのである。知識でも情報でも無限である。
ただ知識というとき一つの世界観を形成するために知識を深めるということがある
知識というとき何か本来は生きた知識となるべきでありそれは実際の生活する場でその知識が言葉でも結びついていた。
だから自分の場合は故郷で石や岩や樹などと結びつく世界観を詩などで追求してきたのである。
エジプト文明でもキリスト教文明でもイスラム文明でもマヤ文明でも仏教文明でも日本文明でも一つの世界観があり知識もそこに総合的に集約されてきたのである。
だから時代的には日本では奈良時代があり平安時代があり鎌倉時代があり江戸時代かありと一つの世界観を構築してきたのである。文明には整合性があり調和していたのである。

明治維新もそうした伝統があって成し得たのであり西欧化したというときそういう伝統があり日本文明を維持して西欧化したのである。
日本文明があり西欧化がありえたのである。技術的なものでも西欧から入ったものの翻訳を漢字で新たに造語したとういうのもそのためである。
今知識でも何でも一つの世界観の形成ができない、ただあらゆるものがごった煮になって混沌として混乱するのである。
膨大な物でも情報でもただふりまわされているという感じになる

日本ではあらゆるものを無節制にとりいれてきたけどそれがさらに混乱に拍車をかけて
いる、日本は日本の伝統歴史を見直して日本文明を再構築すべき時に来ているのである。その一つの試みを自分は地方でしてきたのである。
それは別に外来の文明を排除することではないのである。

青葉風 (仙台の青葉通りの俳句十句ー都会と田舎が融合すると文化が育まれる)

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