2016年06月08日

建築史から見た文明史(1) (建築も人間の精神性を追求した)


建築史から見た文明史(1)


(建築も人間の精神性を追求した)



文明とは何かといったらこの定義そのものがむずかしい、いろいろな見方があるとしてわかりやすいのは建築から見ることである。
それじシュヘングラーは「西欧の没落」は建築史だったのである。
建築史としてその発展は頂点に達して西欧は没落するとした。
確かに建築の面で何か現代では新しいものが生れない、現代建築はかえって過去の建築と比べると荘厳さとか精神性に欠けているのである。
そのために「西欧の没落」が意識されたのである。

現代とは資本主義であり経済だけが世界を席巻している社会である。だからどこでも世界は一様化して文化というのが衰退した。どこの都市でも同じような建築しか見られない
高層ビルでありそれはビジネスのための機能性だけを追求したものである。
要するに現代は精神なき経済に蹂躙されてしまった世界である。
ただ求めているのは狂気のように金だけだとなる、それは庶民でもそうであり金しか価値観をもてない世界である。

建築史から見ればいかに過去の建築が精神性があったかとなる
もちろん建築の基は実用性であり機能性である。それに加えて装飾性が追求される
縄文時代の土器でも木の実を貯えるということから発展してあれだけの装飾が生れた。
茶碗でもそもそも実用性がありやがて茶道として茶碗が芸術化したのである。
日本の茶道の茶碗は多様であり今でも地域のお土産は茶碗だとその土地のものだと感じて窯元を旅の時訪ねたのである。

岩倉使節団の一員として1871年末から73年秋にかけて欧米諸国を歴訪した久米邦武(1839–1931)が、その記録『米欧回覧実記』の中で、シヴィル・エンジニアリングと思われる語を「『シヴィル』器械」と記したことを取り上げ、近代日本の黎明期においてこの言葉を日本人が理解することの困難さを指摘した(5)。確かにここで併記さ
れている「革、靴、衣裳、家什、石鹸、蠟燭、工匠農工具、紐服飾ノ工、金銀銅器ノ細
工、印書製本ノ業、及ヒ麦粉」に比して、「『シヴィル』器械」からは何らかの実体をもつ事物を連想することはできず、久米にとって、エンジニアリングと結び付いた場合のシヴィルの意味内容が理解の範囲を超えていたことが窺える(6)

シビルエンジニアリングの概念と翻訳


文明というとき西欧文明に日本人が何を意識したかというと様々な道具や物や機械を意識した。これは職人的な見方だったのである。
ところがシビルエンジニア (Civil engineer)のcivilに注目していなかった。
そもそも文明とはcivilzationなのである。civilが中心なのである。
そして西欧の文明はキリスト教文明ということもほとんど関心がなかった。
でもヨーロッパに行けばいたるところが荘厳な教会が街の中心にある。
キリスト教文明だからそうなっている、イスラムだったらモスクが中心になる。
日本人は西欧文明というとき宗教には目を向けず実用的なものに目を向けて文明開化したのである。それは今日まで継続しているのである。
精神性がキリスト教という宗教が文明という視点が欠如しているのである。

その点日本だとかえって仏教文明とも言える時代を作っていてそこには貴族文化だという批判もあるが建築史の面から見れば精神性を追求しているのである。
奈良時代でも平安時代でも仏教建築が興隆していてそこには精神性がある。
仏像にしても偶像であるがそこに精神性を見ればそうはならない、形となった精神が仏像にはある、建築にもある、だから奈良の大仏は鎮護国家の象徴として作られその後も仏教文化が興隆したのである。
技術は仏教文明としての精神性の追求をしていたのである。

古墳は最初に日本人が共同して作り上げたものとしての意義はあるとしてもそこに何かの精神性を感じるだろうか?ただ土を盛っただけではないかともなる
まだ日本人の精神性は育まれていない、日本人の共同性は育まれたが精神性は育まれていない、それでものたりないのである。ただ大きいだけでは精神性はもちえないからだ。

ただ伊勢神宮となるとその建築に精神性をもつようになったのである。


ブルーノ・タウトによれば、日本文化の本質は、「簡潔」、「明確」、「清純」
にあり、その典型例として「桂離宮は伊勢の外宮と共に、
日本建築が生んだ世界標準の作品と称してさしつかえない」と絶賛した。

桂離宮と対照的にブルーノ・タウトが、日光東照宮について、「いかもの」であって、
「華麗だが退屈」、 「珍奇な骨董品の感じ」と非難した上で、
「建築の堕落の極致」と酷評したことはよく知られている。


日本人はもともと華美なものを嫌っていた。だから装飾がない、伊勢神宮がそれを象徴していた。簡素、質素、清楚がそこに如実に現れている
それは万葉集にある精神でもあり神道に通じているのである。
白砂の庭を下駄をはき神主が歩む、そこは神の庭なるが故に静謐であり乱されてはならない、清浄の領域であり神域なのである。

豊国の 企救の浜辺の 真砂土 真直にしあらば 何か嘆かむ 

この歌に象徴されているように素直とか直しとかの言葉は自然に融合すに調和する大和言葉なのである。
日本の古代となるとその自然は今と比べようがないほど美しかった。その光景を見たらこの自然を汚してはならないという自然そのものが神域のように見えたのである。
日本という美しい自然の中に生きることがあればその中に真直(まなお)にあれば何も嘆くことはないとなっていたのである。
だから東照宮は装飾華美であり日本の伝統とか文化とは違ったものである。
それは権力者のものであり日本の歴史伝統とはまた違ったものである。
第一徳川家康を神とすること自体がまちがっている、あくまでも一人の権力者でありそこにお参りするような場所ではない、日本は自然が特別に美しいから自然そのものか神になった。神ながらの道とは自然と共にあることなのである。

いづれにしろ建築史から見ると奈良から平安から鎌倉から武士の時代でも城でもそこに日本人の精神が現れているのである。建築に精神性がある。
だから奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代を建築史から見るとわかりやすいのである。その時代の精神が如実に現れているからである。



タグ:建築史

夏つばめ(日々行く道)


夏つばめ(日々行く道)

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川の中が放置していたら木が育ち森になってゆく
津波の跡や原発事故で荒地化したところも放置していると
森になってゆくのである、日本では草原はないのである。
だから森というのは自然そのものであり街の中に森ができたら
気持いいのである。
でも今は街の中に森がある所はまれである。
わずかに鎮守の杜(もり)というように神社のあるところが名残りとしてある。
ここの川岸も半分の木は切られている

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軽快にロードに走る夏燕

一、二、三、次々に飛ぶ夏つばめ

夏菊の朝一面に広がりぬ

老鶯の鳴く声聞きつ畑仕事


この道の木蔭の長く叢に鶯鳴くや我が日々通る


夏燕が盛んに飛んでいる、土手の道は木蔭が長くつづくから涼しいし気持がいい
木蔭というとき車だとそうした自然を感じないのである。
風も感じないから自然を詩にするときできないとなる
電車だってそうである。でも車はもう欠かせないのである。
自分は別に仕事もしていないから自転車で生活できているだけである。

ここ十年は遠くに行っていない、なんか近間を行ったり来たりしているだけである。
それでもなぜこれほど買い物があるのか?何かしら買うものが毎日ある。
だからスーパーとドラッグストアとホームセンターに毎日のように寄っている
そうして回っている内に家事をしていると時間がすぎてゆく

介護は終わったけどやはり忙しい,ただ自分の創作に作品の整理とかに時間をとれるようになった。
家の整理もあるが自分の今までインターネットに書いたものの整理がある。
それもかなりの手間なのである。
自分にはだから仕事が一人でこなせないほどある。

何か頭が回転する、頭脳が明晰になり何かわからないものがわかるようになる。
それも不思議な現象である。
本でもぱらぱらとめくっただけで何を言おうとしているのかわかる。
そしてこれが自分の文に引用できるなと今までの一方的に読まさせられているのとは違う読み方になっている
本は明らかに自分の文脈で読むとき活きてくるのである。
本でも知識は膨大でありそれに追われていたら何もできない
読んでいない本が山のように積まれている、こんな本があったのかと読み直している。
そしてほとんどの本は利用していない、ただ読んでも覚えてもいなかった。
そして積まれているだけだったのである。
ただ本を集める蒐集家になっていたのである。

人間はいろんな場所に住んでいる、他から見るとそこがどういう場所かわかりにくい、相馬藩内ならイメージできるが実地に踏んでいない場所はイメージしにくい。
写真を見ても良くわからない、自分の住んでいる所は川があり平地であり一万の小さな町である。
だから自然は豊だとなる、ただ木蔭の道が街内にはかえって今はあるが海の方に行くと木蔭がない、津波で木蔭がなくなったのである。
これが意外と困ったことなのである。暑い時強い陽ざしをうけるからである。
木蔭はやはり自然の樹とか山の陰とかなると涼しいのである。
建物の陰では暑く感じるのである。ともかく今年は春からすぐに夏になってしまったのである。




夏の日の道

川は街中をゆるやかに流れ
つばめが盛んに飛び交う
橙の夏菊が一面に土手に広がる
叢深く老鶯の鳴き
畑に老夫婦が働く
我が知る人も働く
老いて畑の実りを楽しみとす
家々の庭々は良く手入れされている
我が庭にも新しい薔薇の花が咲く
軽快に最新のロードで走る人
ここに木蔭の長い道がある
この道を日々買い物に行く
この町に生きることは幸いなのか?
たりないものが多くある
でも満たされるものがある
でもここが終の棲家なのか?
十年間遠くに行かず
この町を走り回っている





タグ:夏つばめ

2016年06月09日

地球の抽象画 (abstract earth)

地球の抽象画 (abstract earth)


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2016年06月10日

原発事故に風土の影響 (風と地形の影響が大きかったーチェルノブエリとの比較)


原発事故に風土の影響


(風と地形の影響が大きかったーチェルノブエリとの比較)


放射線量の推移
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今回の原発事故は意外だったのは地形とか風とかの影響が大きかったのである。
そしてその時吹いた風の影響も大きかったのである。
この辺では浜通りでは3月11日頃になると東風が海から吹く、ただその頃は北風も吹いているし交互に吹いてくる
だからこの時期に原発事故が起きたことは時期的に不運だった
この天候の影響は戦争でも信長でも雨がふって桶狭間の戦いで勝ったとかあり勝敗を決する、人間の歴史は「天の時、地の利、人の和」この影響をまねがれない
どんなに科学が発達してもそうである。
この時東風が吹いたということが天の時が作用して悪い方に働いた。
もしもっと寒い時期だったら北風であり放射性物質は海に流れた。
すると山の方の飯館村とか福島市にそんなに影響がなかったかもしれない
山の方では浪江の赤生木とかは風の影響でその時雪がふったりして放射性物質がたまってしまった。
放射性物質を運んだ雲のようなブルームが山にあたり蓄積したのである。
それから東風は山の谷間に吸い込まれるようにして放射性物質を運んだのである。
それで飯館村は放射線量が高くなった。

そして意外だったのは福島市までも大きな影響を受けた、なぜなら事故後の放射線量を見ればわかるが一カ月くらい放射線量は低くならなかったのである。
それだけ連続的に放射性物質が流れ堆積したのである。
そして謎なのは郡山市とか白河市がそれなりに高くなっていたことである。
白河市と南相馬市の放射線量は同じである。郡山市はさらに高い
だからなぜ30キロ圏内で区切り補償金が支払われたかわからないし不満がある
別に30キロ圏内が一様に高くならなかった。
それを証明しているのが浪江の請戸(うけど)なのである。原発の煙突が見えるのに0.5
以下なのである。
そんなに低いのかとこれは驚くだろう。東風が吹いたとしても海側は半分以上が海に放射性物質は流れ低くなった。

チェルノブエリと比較するとおそらく30キロ圏内で線引きしたのだがフクシマの場合は地形が違ってるからあてはまらなかった。
チェルノブエリでは海がないから広範囲に回りに拡散したのである。ヨーロッパまで影響した。そして30キロから離れても80キロでも影響した。放射線量の高いホットスポットができたのである。
不思議なのは風の影響で一関まで放射性物質が流れたのである。一時女川の原発で高い放射線量が観察されたのはフクシマの原発の放射性物質だったのである。
それも風の影響だったのである。だから風もその時の条件でどう吹くかわからない、つまり天候とかの影響は予測不可能なのである。津波でもそうである。
それが作用するから未来は不確定なのである。

最大の勝因は「火攻め」という手段を選択し、赤壁から烏林への追い風となる東風が吹く日をじっと待ったということです。ここで諸葛亮が赤壁にある南屏山で、東南の風が吹くよう祈ったという話が三国志の中に出てきます

つくづく風の影響が大きいのである。風は実際はどう吹くか予測できないのである。

今回の原発事故では南相馬市でも山側は放射線が高かった、でも海側は低いのである。
それは極端でもあった。福島市とかは放射性物質がたまりやすい場所にあった。
つまり東風で福島市まで運ばれてその時北風も吹く時期だから今度は北風が吹いて郡山市や白河市に放射性物質が運ばれたのである。
まずなんでも風土の影響を受ける、歴史も文化も風土によって作られるというとき納得する、何か重大なことも天候とか地理に左右されるのである。

チェルノブエリとの相違はその地理にあり風土にもあった。チェルノブエリでは海藻とかからヨウソをとっていないので甲状腺ガンになりやすかったとかある。


元々日本ほど海藻類を食事に取り入れている国はなく、ヨウ素の摂取量だけをみると日本はヨウ素過剰の国と考えられています。前にヨウ素欠乏のために甲状腺ホルモンの欠乏が起こると病気になるということを書きましたが、チェルノブイリ周辺の旧ロシア地区は比較的ヨウ素の摂取が少なく、軽度ではありますがヨウ素欠乏があり、そのために事故で排出されたI-131が甲状腺に多く入ったために後遺症も多かったと推測しています。

チェルノブエリでは牛乳も飲んで内部被爆した。ヨウ素も日本とチェルノブエリでは影響が違っていた。それも風土の影響だったのである。
それにしても飯館村とか福島市は一カ月くらい放射線量がグラフで見るとわかるように高かったからヨウ素が一週間くらいしか影響しないとしても影響があった。
その時は高かったからである。
自分も何かわからず爆発したときも外に出ていたから被爆した。でも南相馬市とかは一日とか高かったがあとは低かった。海に流れたからである。
でも飯館村とかはなかなか避難しなかったことで村長が批判されている。
その時何が起きたか浪江でもわからなかったし適切な支持をそもそも国でも東電でも放射線のことを知っていても出さなかったのである。
事故を起きないとしているから事故を起きた場合の対策をしていなかった。
第一スピーディで放射性物質が流れるのをわかっていたのにそれもしなかった。
要するに国も東電も何もしなかったのである。そし浪江の人は最も放射線量が高い津島に避難したのである。これも馬鹿げたことだった。
つまり安全神話で事故は起きないのだという前提にしているから何の対策もとれなかったのである。

今になるといろいろな原発の不備が指摘されている、今の安倍首相が予備電源を確保しろという共産党の質問にもしなかった。
原発は自民党の責任が大きかった、なぜなら民主党は自民党の政策を継承していたからである。すぐには変えられないからである。
民主党の政権の時に起きたから民主党が責任を全部かぶったようになり自民党には好都合だったとなる。

「蒸気凝縮系機能という冷却システム」が備わっていたようなのであるが、それが、福島第1原発の2〜6号機では、約10億円かけて撤去されていたのである。(第10回原子力安全委員会資料 H15・2 申請者 勝俣恒久東電社長

安全が第一の原発でなぜこういうことが行われていたのか?やはりコストの関係なのか?
これも不可解でありなぜ業務上過失で東電の社長とか会長とかが逮捕されないのも解せないのである。これほどの重大事故なのに誰も責任をとらないのである。
もちろん地元を利益を得たのだか責任があったとかもなるが肝心のトップが責任をとっていないのである。
東電の幹部は外国の東電関係の会社で以前としてやめないでとどまっているというのも解せいなのである。舛添東京都知事の問題よりこっちの方が重大なのだけど問われないのが解せないのである。

でもこれもなぜ国で許可したのかという問題がある
許認可権は国にあるから国の責任も問われている
原発は国と東電が一体となってすすめられた事業である。
なぜ安全を守らねばならない国が東電のこの申し出を許可句したのか?
国の責任も大きかったとなる

つまり国の責任が当時の自民党の責任が問われるから東電の責任も問いないともなる
国が許可したことではないかと東電からは言われる,責任は国にあるとも言われるからである。
確かに最終的責任は国にあるとなる
東電より国の責任が原発では大きいとなるからだ。
そもそもこれはどういう経緯で国で許可したのか?官僚が勝手に決めたのか?、誰が許可する権限があったのかとまでなる
その責任の所在は一体どこにあるのだろうともなる
要するに権力をもつものが許認可権がありその権力を行使できる者はそれだけ責任が生じるのである。
舛添知事があれほど責任を問われるのはそうした権力を有する者だからである。
権力は常に監視していないと勝手にされて今回の事故のようなものがまた起きる
では一体誰が権力を監視するのか監視する力をもつのかというのが問題になる
それでマスコミとかも問われたのが今回の原発事故だったのである。

posted by 老鶯 at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年06月11日

グローバル資本主義やTPPの矛盾 (久々に地元のこうなごを食べた)


グローバル資本主義やTPPの矛盾


(久々に地元の小女子( こうなご)を食べた)


久々に地元にとれる小女子(こうなご)を食べてその味かみしめるかな


松川浦でとれた小女子(こうなご)を久々に食べた。松川浦でも試験の時期は終わり魚がいろいろとるらしい、放射能汚染もなくなってきている。
ヒラメまでとれるとなるとそうである。大きな魚は放射能汚染が濃縮されるとか言われてきたしヒラメなどは危険だと言われてきたからである。
何か食べものというとき記憶と一体化している、だからお袋の味とか地元の味がある
自分の父親は良く鮎とか鰻をとってきた。その時の鮎は今よりずっと大きかったしうまかった。鰻も天然だからうまかった。
何かそういう味は記憶と一体化しているのである。その味とともに昔のことがなつかしく思い出すのである。

小女子(こうなご)というときこれは天ぷらがうまかった。それはこの辺では良く食べていたし他でも別に小女子(こうなご)はとれている。
ただ地元でとれたということでなつかしく食べた。確かにカルシウムが多いというのはそうだろう。骨ごとたべるからである。
他にもホッキ貝を松川浦でとれてホッキ飯を地元のものでまた出しているという。
これまでは他から仕入れて作っていた。こうなると地元は何なのだろうとなる
ただ外から買うだけだったら地元の味もないしお袋の味でも今や惣菜を外で買っているからなくなってしまう。
ということは味からお袋を思い出すのだがそれがなくなるということは母にしても子にしても淋しいものとなる

なんか年とるとかえって味にこだわる、若いときはどちらかというと腹が満腹になればいいとなる。自分はこれまで食べ物の味にほとんどこだわらなかった。
旅行でもうまいものを食べていない、定食の最低で終わりである。
旅で費用をへらすとすると食事と宿泊費しかないからである。
だから旅で何かあれがうまかったなとか思い出すものがない、ただ一つ新潟の小出の魚野川の前の普通の食堂で食べた鮎の塩焼きはうまかった。
前の魚野川で釣りをしていてそこでとれたものである。
生きがいいしその味は格別だった、でも高いものではなかった。普通の食堂だから安い、茨城県の太子にイワヒバを買いに行った知人に久慈川の鮎を買ってきてもらったが確かに天然の鮎だったがあそこで食べた味とはまた違っていた。
旅の思い出で食べ物の記憶というときその鮎しかなかったのである。
要するにその時食べ物の味にこだわっていなかったのである。腹をみたせばいいだけだったのである。ただ味にこだわる旅となると相当贅沢になる。そんな旅を長くはつづけられないのである。
このことは外国でも同じであり外国は全くうまいものは食べていない、マクドナルドのハンパガーを毎日食べていた。なぜなら外国ではレストランは入りにくいからである。
そして高価になるから気軽に入れないのである。

食べ物から経済を考えるとき最近青森のリンゴが高くなった。それで東京辺りではニュージラント産の小さなリンゴを食べているという、ちょうどニュージランドで旬でありとれているからである。
そんなのうまくないとかいろいろ言うが食べてみないからわからない
ただ青森では今の時期はとれないからいいじゃないかという意見もある
でも何か矛盾している。青森のリンゴはすでに外国へ輸出して一個千円でも売れている。そうなると日本での値段も高くなる、そして青森リンゴは高くて食べれなくなりニュージランド産でがまんしろとなる、貧乏人はそうなるのがグローバル経済だとなる
実際に青森ではリンゴ農家は輸出して金持ちになっている家があるという
一個千円で売れればそうなる、そういうことは外国で前々から普通に起きていたことである。海老を養殖しても地元の人は高いから食べずに日本に輸出していた。
何か特別うまいものは食糧でも高く輸出できるとなると地元の人は食べずに輸出して金を稼ぐとなるのがグローバル経済である。
日本でもうまい食べ物があれば輸出して稼ぐ、でも地元の人はまずいニュージランド産のリンゴでがまんしろとなる
これも相当な矛盾である。それがグローバル資本主義なのである。

そして売るものがない国はどうなるか、女性を売る他なくなる、テレビが欲しくて自分の娘を売春させたとかラオスのことを報道していたけどそういうことは貧しい国では普通にある。
カンボジアにたむろしていた日本人もそういう人たちである。日本人だけではない世界中から来ている、カンボジアは特に貧しいからである。
しかし日本が貧乏国になるときそれがカルマとなり親が自分の娘を外国人に売るということにもなりかねない、そういう過酷さがグローバル資本主義では競争に負ければそうなる現実にその兆候が日本に現れている、観光で売り出すということは貧しい国になったということである。
つまり日本人も一時豊かなときはそうしていたのだからカルマとなり今度は外国人にそうさせられる。それがカルマとなってそうなるのである。
日本人がしてきたことを今度は外国人にされる、それがカルマなのである。

いづれにしろグローバル資本主義とかTPPは矛盾である。だからアメリカすら実は反対していたのである。それは何か変だなということである。こんな経済でいいのかという直観的なものである。それは理屈ではない、こんなことが成り立つのかという疑問なのである農家には国の税金を使いすぎているとかいろいろ批判があるのもわかる。
それなら安い食べ物を外国から買った方が税金もかからないし安上がりだというのもわかる。
ただリンゴが好きなので毎日食べているのでどうしても日本でとれたうまいリンゴが高くて食べられず外国のまずいリンゴを食べる他ないというのが納得いかないのである。
そしたら日本の味もお袋のや味もなくなる、地元の味もなくなる、そうなったら日本に生きていてもいいことないな、地元に生きていてもいいことないなとなってしまう。
愛国心も愛郷心も家族愛までなくなってしまう。
地元のものでも日本のものでも母親が料理してくれてうまいなとなりそれが記憶となる
家族愛にもなり愛郷心にもなり愛国心にもなる
自分は親を介護して以来母親の料理を食べれなくなった。
そのことも悲しいことだった。介護になってからとにかく悲しいことをいろいろ経験したその中で親の料理したものが食べられないというのは悲しいことである。
自分はそういうことに感謝しなかった。、当り前と思っていたのである。
そういうことは津波や原発事故でこの辺では当り前にあるものが失われてそのことを考えるようになった。

ともかくグローバル資本主義は矛盾であり人間的なものから離れてしまう経済である。
外国に投資していると日本の株が下がるより外国の株が下がることの方が損だから外国の株が上がった方がいいとなる、これも矛盾であり愛国心もなにもない、そこには経済の論理しかなくなる。
グローバル資本主義の矛盾は人間を幸福にするとは限らない、なに、青森のリンゴも高くて食べられなくなる、もうこんな日本に住んでいたないという感情さえ生れてくるだろう食べ物は身近な問題だからそうなる。食べ物の恨みは深いとなるのもそのためである。
そういう何か根本的に矛盾したことは果たしていくら合理的でも継続されるのか?
貧乏でもいいからせめて地元のものでも食べられてリンゴくらい安いものでうまいものを食べたいとなりグローバル資本主義はもう嫌だとかなるかもしれない、それは日本だけの問題ではない世界の問題になるのがグローバル資本主義なのである。



内なる力の実り

樹の力はその場所に動かずに根づくこと
水は大地をめぐり潤すめぐみの力
山からミネラルを含んだ水が流れ潤す
山から栄養分が泥とともに流れてくる
実りは大地と水のめぐみによりもたらされる
山の恵み、大地の恵み、海の恵み
恵みとはめぐみーめぐるである
その土地だけの恵みには限度がある
広範囲な土地土地にそれぞれの恵みがある
そのめぐみもめぐりまわらねばならぬ
分かち合いめぐりあい豊になる
ただその土地に樹のように根付くとがこ基本
樹が力強いのはその土地に根付いているから
それは内なら力のゆえに充足する
内から湧きあがる芽吹く力
竹は真っ直ぐに伸びて蕗の薹
内に充実して外の力をとりこむ
内なる力としての一つの世界
エジプト文明、マヤインカ文明は内なる力の文明
内なる祭壇をまず築け上げよ
そして外なる力をとりいれよ
そこに誠の実りがあり千年の栄が持続する



内なる実りが基本としてありそこから外なる実りをとりいれる、もし内なる実りがないとしたらただ外なる実りだけをとりいれるようなことはありえないのである。
実りというとき農業だけではない、一次産業だけではない、経済でも技術でも内なる実りがないなら豊になることはありえないのである。
芸術でも内なる実りがあって成り立つ、その土地土地に生きる糧がありその風土にマッチした文化が起こり文明が起こる、外からばかりの文明になったらそれは日本でも故郷も何もないとなってしまう。現実にそうういことが起こりかねないのがグローバル資本主義なのである。


posted by 老鶯 at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2016年06月12日

グローバル資本主義やTPPについて「心に青雲」の 主張の矛盾(2) (青森のリンゴが高くなり食べられないから考えた)



グローバル資本主義やTPPについて「心に青雲」の 主張の矛盾(2)


(青森のリンゴが高くなり食べられないから考えた)


農家に「転作奨励金という補助金」を支給するシステムにしたのは、農水省官僚と政府(自民党も元民主党も)である。

、なぜ農水省は企業や国民の負担を増やしてまで、小麦貿易に強制介入する必要があるのか。こちらの答えも単純だ。それは財源と天下り先を確保するためである。

心に青雲では官僚を常に批判している、それは同調する、日本の小麦はうまくないというときこれは本当だろう。スーパーで日本製の小麦のパンは確かにうまくない。
外国の小麦がうまいしTPPで安く輸入できるというのもわかる。
おそらくこういうことは政策中心の議論をするとデベートが必要になるだろう。
デベートすると賛成するにしろ反対するにしろ何が問題なのか争点が何なのかなどが明確になるからだ。

そもそもTPPの議論をするときグローバル資本主義を押しすすめば当然関税のない貿易を目指すことになるのだ。つまりグローバル資本主義の問題も追求することになる。
日本の農業が保護されているということは確かであるが外国でも日本以上にやはり保護されているとある。
そうしなければどこでも農業を維持できないからそうなっている

そしてここには東京とか都会と地方などの対立も関係してくる、特に限界集落などに金を税金を使う必要がないという意見もそうである。
今はインフラ整備だけでも80倍の金がかかるとかなっているからである。
東京の人が国に税金を払い地方のそうした限界集落でも支えているとなるから常に言われるである。
そうなったのは戦後十年くらいからかもしれない、その時は第一生活保護もないし地方は地方で貧乏でもそれなりにまかなってゆくほかなかったのである。
その時は都会と地方の対立もないのである。
都会と地方の格差はあっても対立はなかったとなる

富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて 大和田建樹

今高い野菜のことで田舎と都会を考える (原発事故も田舎と都会の差から作られた)

富んでいる都会のこと東京のことは知らない、この山の村で炭を焼いて独立して生活している、それで満足だとなる
こうなってれば都会の人から東京の人から文句言われなかったのである。
それは原発事故とも関係していた。原発という危険なものを地方にはいらないともなったのである。

ただそうなると現代では誰も容認しないとなる、電気がない生活など考えられなくなっているからである。炭焼きとなるとそれは原始的な生活にもどるのかとなり誰も賛成しない
でもグローバル資本主義は関税のない世界、国境のない経済を推進する、そういう社会は実際は社会全体に影響する、金が最大の力となりなんでも金がものいう社会になる、現実になっている。金のないもの死ねとまでなっている
そして借金までしてみんないい生活をしようとしている、それより貧乏になっても今や借金で維持しようとしている、事業に失敗しても以前として生活を落とせないから借金を自分に要求してくる、おばちゃんは金あるんだから金でめんどうみろとか金でなんでもまかないという社会である。金のないものは誰も見向きもしないとなる
人間の付き合いは金がかかわり金なしではなにもありえない世界となってしまっている


グローバル資本主義でTPPではアメリカが必ずしも得するわけではないから反対もしていた。むしろ日本が車を売るからかえってアメリカは損だということにもなる
そこでトランプ大統領候補は本音を言って喝采をあびたのである。
グローバル資本主義は何か詩にしたけど「内なる力」の衰退になる
それはそれぞれの国の歴史とか文化を無視して経済合理性の原理だけですすめるから矛盾してくる、その弊害も大きくなってくる、世界貿易を否定しているのではなくなにかそれが極端になっている
それが農業問題とかに顕著に現れているのである。
もちろん官僚だけが既得権を維持するためにtppに反対するとかは問題である。

でも現実問題として官僚だけの問題でもないだろう。その辺は詳しくないし自分でもデベートできるほどの知識がない、でも庶民感覚というか常識的にリンゴの問題で書いたように変だなとなる、こんなことでいいのか、何か人間として常識的にありえないことをしている、そんなことで人間が幸福になるのかという疑問である。
自分はリンゴは好きだからリンゴは食べたいとなるが他の果物はがまんしてもいいとなるただ自分は果物が好きだから本当は外国のものでも食べたいが日本が自立するなら外国に頼りリンゴまで高くなり食べられなくなるならがまんするとなる
もうそんなにいろいろなものを食べる必要があるのかともなる、もちろん自分自身も矛盾である。外国の株ではないが外国に投資しているということが矛盾なのである。
日本がだめなら外国に投資して外国がもうければ日本などどうでもいいとまでなる
もう金持ちは日本脱出だとかなる、それがグローバル資本主義なのである。

つまり国への愛着とか愛国心とか故郷への愛着とか愛郷心とかさらに家族への愛着心とか家族愛さえなくなり解体してゆく、そしてみんな孤立化してゆく、金さえあればいい、金でなんでもまかなう社会だからである。
それはグローバル資本主義をおしすすめればそうなってゆく、都会と地方の対立もグローバル資本主義と関係している、都会の人は別に国内でも外国でも安くていいものが入ればいいとなる、米すらそうである。日本人でも地方を切り離して食糧も外国から安いいいものが入る方がいいとなる
それで限界集落とか切り捨てて地方にはもう金を使わないとなる
都会では食糧は外国から買う、日本の高い食糧は買わないとなる。
地方は地方で外国に青森のリンゴを一個千円で売り貧乏な日本人には地元でも売らないとなる。
そして青森の地元の人すら「一個千円のリンゴだと買えないな、地元にいて地元のリンゴも食べられないのか」と不満になる
リンゴ農家が金持ちになっているのをうらやむ、それがグローバル資本主義だとなる。

こうして金をもうけるのが勝ち組で負け組は地元のリンゴさえ食べられなくなる
地元でもそこで仲違いになり共同体に軋轢が生じて融和しなくなる
現実に社会でも地域でも家族すらそうして解体して孤立化して最後は一人暮らしで孤死だとかなってしまう。
そういうこともグローバル資本主義と関係して起きてくる。
これはデベートすれば自分の弱点とか問題点も明らかにされる
だからいちがいには言えない問題である。
でも経済の問題でもなんでもそうだが人間は身近な問題から大きな問題にかかわる
大きなことを言われてもなかなか理解できないからである。
青森のリンゴが高くなり食べられなくなるということを知ってショックだからそれがどうしてそうなるのかというときグローバル資本主義やTPPと関係していたのである。
もちろん官僚の問題もある、ただそういうものは是正すべきである。
それでも大きな流れとしてグローバル資本主義がそうさせてゆくのである。

「心の青雲」では絶えず愛国心とか国家が強くならねばならないと説くけど日本国が日本人が東京都と地方で対立して
和がないとき国難に共同して立ち向かえるのか?
「心の青雲」の矛盾はグローバル資本主義の推進、TPPの推進でありそれはユダヤ人の支配下に入ることである。
ユダヤ人に操作されることになる、それをいつもユダヤ人が世界を操作しているというけどグローバル資本主義を推進する立場になれば
ユダヤ人を批判する矛盾がててくる
つまりグローバル資本主義は国をなくして愛国心とかもなくすからである。
いろいろ共感することがあっても対立することも見えてくる
ただなぜそうして人間が現代で対立が生まれかとなるとまず都会と地方で対立するというだけではない、職業が違えば対立することも対立する。
そういう対立があるがその対立の中で明確に見えてくるものがある。
要するに都会に住んでいること自体グローバル資本主義の推進になる、そもそも国内でも外国でも食糧は安くていいものが入ればいいとなっているからだ。
そういう国で人間がまとまるのか、和がなければ国難には対処できない、つまりそもそも愛国心とは何かとなると
愛郷心とかその国の自然に基づいた生活であり文化があり愛国心が生れる
まず国家ありきとかでは愛国心は生れないのである。それは強制された愛国心になる。
だからそういう点では「心の青雲」は矛盾している、それは根本的には東京と地方という立場の相違から起きているの出てある。
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2016年06月13日

人間はなぜ対立して戦争するのか? (現代社会は複雑で敵が見えないから陰謀論になる)


人間はなぜ対立して戦争するのか?


(現代社会は複雑で敵が見えないから陰謀論になる)


●歴史的に人間は利害で対立してきた

人間の社会ではなぜ対立が生まれのか?その対立が戦争までなってきたのが人間の歴史である。
最初は部族と部族であり猿のトーテムと犬のトーテムとかを信仰するもので対立が生じて争いになる。その対立がなぜ殺し合いまでになるのかそれは基本的には利害がぶつかるからである。動物だったら縄張り争いであり雌を得るための熾烈な争いがある。
それは本能的な争いでありそれとにたものが人間にも起きている
ただ人間の場合は集団的と集団の争いとなる、その集団と集団が争いの元になるのはやはりなんらかの利害がかかわり争いになる。
わかりやすいのは日本の戦国時代が最初に山の木材の入会権をめぐって大規模化して大名もかかわり大きな戦争に発展した。それは利害関係から争いになったのである。
水利権でも稲作は水が元だから争いになる。水をめぐっての争い旧約聖書の時代から起きている。現代までそれは継続されていて中東戦争が実はヨルダン川の水の獲得のために起きていたと分析している人もいる。イスラエルは半分が砂漠なのである。
砂漠では当然水が貴重だから争いが起きる
それから遊牧民と農耕民の間でも争いが起きる、その証拠が万里長城なのである。絶えずモンゴルなどの遊牧民が農耕民の作物をねらい襲ってくる。
どうしても牧畜民、遊牧民は定住しないから食糧が不足する、それで定期的に農耕民を襲ってくる、富めるものは襲われるのである。

その後に貿易が発展すると貿易をめぐって争いが生じる、それは熾烈な争いとなりヨーロッパで展開された。商業というのは軍隊を有していないとできないということもある。
絶えず強奪される危険にさらされているからである。商業ではやはり利害が衝突しやすいのである。スペインであれオランダであれイギリスであれ貿易をめぐって海軍で船で戦争になったのである。オランダは日本との貿易を独占した。
ヨーロッパは貿易でアジアの富を強奪したのである。戦争に勝てば敵国の富を得るから戦争になる。それが基本的に戦争の原因である。十字軍も宗教だけではない、その時イスラム国が先進国だったから富を強奪するたに起きたのである。
ともかく基本的に人間の争いは利害が衝突して起きる、この辺で原発事故の補償金でもめていると同じである。この補償金の問題は意外と深刻だったのである。
同じ南相馬市民でも不和になり協力関係が失われたのである。
だからつくづく政治は利害関係の調節こそ最大の政策とするべきなのである。
そこが公平にならないと人間の和はたもてないからである。

昔の対立はわかりやすかった、現代の対立は複雑すぎる、その複雑さは無数の職業の分化から起きてきている。これだけ職業が分化すると相手のことを理解できなくなる
それは江戸時代であれ職業が違うと異質なものとして理解不能となり伝説化した。
鉄を生産するものとか木地師などはもともと生活していた農民からすると理解しにくいから伝説化した。天狗とか何か異様なものとして語り伝えられた。
それは現代でもそうなのである。原発にたずさわる技術者は理解できないのである。
一体あの人たちは何をしているのだろうとなる。そこは秘密のベールに隠されてうかがいしれないのである。そこから大事故が起きてきたのである。
「安全神話」を作られてきたというときなぜ現代に神話なのかとなる。
それはそもそも原子力のことを普通の人は理解できないからである。
職業が違うと意志疎通ができないのである。現代の対立が生むのは国と国とかもあるがむしろ職業が違うと意志疎通ができないのである。
そして奇妙なのは国が違っても職業が同じなら意志疎通できる、科学者同士は別に国が違っても意志疎通できる、共同研究もできるし国籍はあまり関係ないのである。
一方で同じ国民でも職業が違うと意志疎通ができないのである。
だから現代がグローバル資本主義になるというとき科学の社会だというとき科学者は共同しやすいということもある、多国籍企業というときも結局世界で同じ職業の人は連帯して一つの国のように共同できる、それは国を越えたものとして共同できるとなることなのだだからグローバル資本主義は必然的に愛国心がなくなってゆくのである。

●戦争は強い者が国が必ずしも勝つとは限らない

対立というときまず都会と地方という対立がある。これも大きな問題である。それもグローバル資本主義が起きてくる。食糧を供給するのは別に同じ国内でなくてもいい、外国でもいいとなれば地方はただ都会から東京から農業でも支えねばならないとなり切り捨てた方がいいとなる。
そういうことで国内でも根本的に東京と地方は対立関係になる。一方で国家を強くしなければ外国に対抗できないという「心の青雲」の主張も矛盾してくる。
そもそも国力とは何かとなると本当にそれが軍事力なのか?経済力なのか、GDPなのかというのも疑問である。
何がその国々を支えているのか?それはやはり国民の和がなければとても戦いないだろう
「人は石垣、人は城」という言葉は現代でも生きているだろう。
太平洋戦争は経済力がないから負けたとか言われる、だからアメリカに勝つには経済力で勝たねばならない、技術力でも勝たねばならないと戦後日本は努力してきた。
でも前にも考察したが日本軍に和がなっかたというのも敗因だったのである。
日本では上官と下士官は協力していなかった。日本軍の下士官は優秀であり上官は劣っていた。下士官は愚劣な上官のために犠牲になったといわれる。
一方でアメリカは上官と下士官は一体でありそういうことがなかった。かえってアメリカ軍の方が和があったのである。日本では陸軍と海軍が争っていたしまとまらなかった。
アメリカではそうういことがなかったのである。
だからただ技術力とか軍事力か経済力で劣っていたから負けたともならない
日本には一見和があようでなかったのである。

そして戦争とは必ずしも強い者が勝つとは限らないのである。
ベトナム戦争がそれを証明した、なぜあれだけの小国にアメリカという大国が勝てなかったのか?
それはベトナムでは地下に穴を掘り芋を栽培して飢えをしのいだ。芋が短期間に成長できたからである。アメリカが負けたのはパトリシズムがありその故郷に土着して愛着して生きていたものを蹂躙したからだと言う。
アメリカは強大な軍事力でふみつぶすことができる思った。でも実際はできなかった。
アメリカの強大な軍事力が果たして有効に働いたかというとイラク戦争でも働かなかったイラクのフセインの残党がイスラム国を作ったとされるからである。
アメリカはただ中東に混乱をもたらしただけだとなる、だからイラク戦争とは何だったのかとなる、ただアメリカの一方的な強引な軍事力によって世界が混乱させられただけだともなる、つまり軍事力だけでは世界のことは解決しないのである。
それは今や中国にも言える、そしてこうした大国は内部から崩壊してゆく危機にもある
格差がアメリカでも中国でも激しいので内部で内戦のようになるとも限らない、それは日本でもそうだがグローバル資本主義は世界的に国と関係なく富む者と貧乏人とに分断してしまうからである。
つまりグローバル資本主義はそうした矛盾が頂点に達して崩壊するのかもしれない、格差が極端になりそのことが崩壊の原因になる。それは国と国の対立より問題になっているからである。どこの国でもなんでこんな格差ができるんだとなっているからである。
どうしても金持ちはさらに金持ちになり貧乏人はますます貧乏になる、そんな世界があっていいのかとなる、そういうことが世界的不満となりグローバル資本主義は崩壊してゆくまず国々が分断されて和が保てない、日本でもそうである。
TPPにアメリカも反対だというとき何かおかしいとやはり思うからである。
貿易とかは必要でも何かなんでも自由に貿易することが本当に人間を幸福にするのかとは別問題なのである。
それを日本で青森のリンゴが一個千円になり地元でも食べられないという矛盾を指摘したのである。

●現代の社会は支配する者が誰か見えない

グローバル資本主義の特徴は中国辺りだと専制的国家だと国王や皇帝その臣下が権力をにぎり極端な贅沢をする、酒池肉林とかなるからわかりやすい、そこに反感を庶民はもち革命が起きる、でもグローバル資本主義で支配しているのは得しているのは誰かとなる。
グローバル資本主義で富を独占しているものは誰なのか?
なぜその人たちに富が集まるのか?なにかそういう世界的になるとわかりにくい、それでユダヤ人どうだとか陰謀論がででくる。その陰謀論もわかりにくいのである。
日本でも経済成長をみると波があり必ず株が上がり下がる周期がある。でもその富は富裕層に流れて下級の労働者には富は分配されないと指摘している
だからこれは株価でも世界的操作されているのではないかとなる。でもそれが誰が操作しているのかはわからないのである。具体的に見えていないから陰謀論になるのである。
革命を起こすにしても例えは地主とか何か専制的国家のように権力を富をもつものが具体的に見えていればわかりやすいからそれを倒せとなる。
それがわかりにくいから具体的に見えないから複雑だから悪人が誰かわからないから革命にもならないのである。
例えは百円でも千円でも盗んだらたちまち窃盗犯でありつかまり罰せられし結構重い罪にされる、でも百億円とかもうけている人は罰せられない、この世の王として君臨できるのである。それは他人の労働を盗んだものとなっていてもそうである。
実際に舛添東京都知事があんなわずかの金で責めれているけど他に何億とかごまかしている人は政治家にいるけと責められないのである。
小さな悪は責めやすいけど巨悪になるともう人間では責められないのである。
それは闇になり不明となるから陰謀論になってしまうのである。
なぜ原発事故を起こした東電の社長でも幹部でも罰せられないのか?これもまた現代社会の大きな闇がかかわっている。
これも東電の幹部を罰すると自民党も罰せられることになるからということもある。
東電で安全を計らないことの責任は時の政権だった自民党にもあたからである。
わざわざ安全をはかるための装置を撤去することを許可したのは自民党であったということになれば問われるからである。
だから今は自民党が政権をもっているのだから罰せられないとなるのだ。

「蒸気凝縮系機能という冷却システム」が備わっていたようなのであるが、それが、福島第1原発の2〜6号機では、約10億円かけて撤去されていたのである。(第10回原子力安全委員会資料 H15・2 申請者 勝俣恒久東電社長

これを許可したのは時の政権を担当していた自民党だったのである。時の政権が許可しなければこんなことできないからである。


お金のポンプ(武田邦彦)

ここで経済のことをグラフで説明している、景気と不景気の波があってもGDPは上がりつづけりつづけている。その上がったり下がったりするのも波があり金持ちは株主はもうかる仕組みになっている、貧乏人はますます貧乏になってゆく不思議を言っている
それで陰謀論は言わないが何かおかしいと疑問をもっている、つまり誰か知らないが操作されていると感じる、株価は市場原理ではない、誰かに操作されている
その誰かがグローバル資本主義では見えないわからないのでてある。
だからいろいろな陰謀論になって終わっているのである。
何しろ一兆円とか金をもっている百兆円とかもっている会社であれ何であれあれば株価は操作できる、その操作の結果として株価の上下の波はあっても金持ち、それもやはり10億とか大きな金持ちの金は増えてゆく計算になる。
下の賃金労働者には回ってこないのがグローバル資本主義なのである。
そういうシステムに作られているのでありそのシステムの中に生きざるを得ないのだから金持ちになりたかったら資本主義のルールのなかでなれとなる
この世はいつも不公平だったけど現代ではそれがあからさま見えない、だから不満があってもぶつけるものがない、金持ちは資本主義のルールの中で企業してもうけたのだからいいではないかとなる。
でも株でも操作されて今や大金持ちだけにその金が増えてゆくというのが問題なのであるつまり資本主義のこ自由競争ではなく何者かによって操作されているということはギャンブルでも八百長だとなる、グローバル資本主義ではその八百長が見抜けないから下層のものの不満が募ってくるのでてある。
ギャンブルでもあいつが大儲けしたからと責めない、それはそういうギャンブルのルールの中で行われていて承知しているからである。でもそれが八百長だったとなるとみんな起こり暴力ざたにもなるのである。その八百長がシステム的に巧妙に行われているのがグローバル資本主義となるから批判が高まっているのである。

タグ:陰謀論
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思わぬものに変化する抽象画 The abstract picture which changes to an unexpected thing


思わぬものに変化する抽象画


The abstract picture which changes to an unexpected thing



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原画(original picture)   

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one glowing mountain


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a star of oasis in the desert


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Castle of the Middle Ages

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最初は前に作った山脈の抽象画からこれらは全部変化したのである。
こんなふうに変化するのと不思議になる、独立の山はきりとって工夫して作った。
元は原画にある。

ソフトを使いこなせば,paintshopを使いこなせば抽象画が増えてくる
他のソフトも平行して使うとますます増えてくるのが抽象画である。
まず山脈の抽象画が中世の城のようになものに変化することが考えられないのである。

でも原画をへんかさせてゆくとこうなったのである。
ここに一つの抽象画の連作ができている、砂漠などがイメージされるのである。
連作として抽象画を作ると活きて来るのである。

ただ相当に操作し続けないとできないということがある
何がそれらしいものになるか全くわからないからである。
これなどが一つの原画からできるとは思えないからである。


All these changed from the abstract picture of the mountain range which I made before first.
I cut the independent mountain which became mysterious with changing in this way and devised it and made it.
The original picture has it formerly.

If it manages software, it is an abstract picture that increase more and more when other software which an abstract picture increases to if I manage paintshop is parallel and use it.
At first the abstract picture of the mountain range is that it is not thought that castle of the Middle Ages changes.

2016年06月14日

一挙に人口がへり限界集落になった原発避難区域 (介護保険でも飯館村は老人が多く福島県で一番高かった)


一挙に人口がへり限界集落になった原発避難区域


(介護保険でも飯館村は老人が多く福島県で一番高かった)


新たな額は13町村で月6000円を超し、最も高い飯舘村では8003円に。高齢化で介護給付が増えているためで、改定で額が1・5倍になった自治体もある。


団塊の世代が75歳以上になる2025年頃には、三島町を含む8町村で、保険料額が1万円を超えると試算されている。

 町の担当者は「値上げは避けられない。そもそも人口が少なく雪深い町なので在宅介護の事業者が参入しづらく、足りない。施設を建設しても人材が確保できない。非常につらい状況だ」と訴えている。

高齢化社会は過疎地域では厳しい、介護保険料は65才以上の老人が増えれば増えるほど高くなる。当然それだけ介護サービスを受ける人が増えるからである。
だから飯館村は搗き8000円は高いと思った。もともと飯館村などは収入が県で最低クラスだった。なかなか現金収入がない所だった。
それでなぜ秋田の方の山で山菜とり竹の子とりに山に入り熊に殺された事件があった。
その理由がこの辺では現金収入になるのがない、山菜や竹の子だと一日一万六千円くらいになる。これも一〇日と二十日とかつづければ結構大きな現金収入になる
飯館村なども山菜が定番として料理として食べるのが習慣になっていたというのもそうだろう。それが放射能汚染で食べられなくなったのはそこに生きる価値がないなってしまう

ともかく少子高齢化の影響が今回の東日本大震災では大きかった。農業であれ漁業であれ第一次産業は現金収入としては低い、でも農業などは毎日草取りとか手間がかかる、金もかかる、趣味でやろうかと退職した人と都会に住む人が考えるがそれも毎日草取りだけでも苦労なのである。それから種とか肥料代とかも高いから金がかかる
結局一の収穫を得るのに趣味だとかえって10倍くらいの金がかかるかもしれない
そして後継ぎがいないとかテレビで避難した人たちが帰ってきてもほとんど六五才以上の老人なのである。
では荒廃した田畑をどうしようかとなってしまう、それだけの気力もなくなってしまうのである。若い人は帰って来ないとなるとそういう所はどうなるのか?

例えば介護保険にしても老人が増えると介護保険料も高くなる、介護保険料は市町村によって違ってくる、サービスがいい市町村は高くなる、また老人が増えると高くなる
それで東京の人は介護のサービスのいい所を選ぶ
まず原発事故周辺の避難区域になったようなところは老人が多い、介護保険料も高くなるだからといってサービスが良くなるとは限らない、第一サービスする若い人が流出しているからである。
病気の老人が自宅に帰ったのをテレビで見た。あんな人が帰ってやっていけるのかとみるそもそも老人だけの街というのが成り立つのかという疑問がある。
飯館村でも葛尾村でも山村でありそこで老人だけが帰り村を支えることができるのかという疑問がある。

そして一旦補償金で暮らしたときそのまま補償金をもらいつづけたいとかなったのが老人の現実なのである。
葛尾村とか飯館村とかは復興するのは相当に厳しいと思う。
一方でなぜ小高が批判の対象になったかというと葛尾村とか飯館村よりは条件的に放射線量も低いし帰れる状態に見えたからである。
だから先に葛尾村が避難解除になっているということもどういうことなのかわかりにくい小高の有利な点は原町に近いことである。買い物でも車があれば行けるしすでに常磐線も七月に開通するとか意外と早いなと思った。
仙台までも秋には開通するというから意外と早いと思った。
常磐線が仙台まで開通すればかなり復興になる、バスだと行きにくいのである。

ともかくこの辺では少子高齢化でも何か極端な現象として現れたのである。
人口が前の五分の一とかにへるとなると極端すぎる、一挙に限界集落になったのである。そして取り残されたのは老人である。その老人が集まって未来が語れるのかとなる
なぜなら老人の語るのは過去だからである。
自分も庭作りにしても木を植えるとしても時間がかかるのは植えたくない、成長するまで死んでいるともなるからだ。こういうところに老人の特徴がある
老人にとっての時間は何か新しいことをはじめることではない、継続したことをして過去をふりかえりそれを若い人が参考にするというのが順序である。
何か新しいものを作り出すことがむずかしいのである。

ただ老人に創造性がないかというとそういうことはない、創造性でも経験の上に創造があるからだ。だから最近はじめたパソコンのソフトを操作する抽象画を出しているがこれは全く絵を描けない自分でもやれるとわかり出しているのである。
むしろ蓄積されたものが老人になると華開く、人間はなにかしら必ず蓄積したものがあるそれが若い人にはない、だからかえって創作的なものは老人の方が優れているとなる
だから老人が新しいことをやれないということはない、でもこの先十年生きるのかどうなのかとなると若い人の考えるものとは違ってくるのである。

とにかく介護というのは負担が大きすぎる、自分も認知症の介護して鬱状態になったし二人合わせて十年間もしたから相当に消耗した。
何か他のことができなくなる、それで人生の相当な損失になる、だから若い人はやるべきではない、何か他にやるべきことがあり介護したからといって何も残らないだろう。
自分の場合は人生の終わりにしたから良かったとなる、その前に旅行でも何でもしたいことをしたからである。
それでもまたたくまに人生の時間はすぎる、だからやるべきことをやらないとできなくなるし介護で時間を費やすのは無駄だとなる
だから若い人が帰らないというとき姑と一緒にいたくないとか親の介護もしたくないとかあると言われる、補償金もらって若い人は別に暮らし方がいいと考えた人もいる。
そして結局残されたのは老人でありそこはうば捨て山になりかねないのである。
それで葛尾村とか飯館村は復興するのが厳しいと思う。
小高は南相馬市でありそこで援助があるし原町が近いから葛尾村や飯館村よりはいいのである。それでも老人だけの街とかなるとどうなるのか?
若い人でも帰り子供帰っても学校はもう一校に集める、それも五〇人くらいなのか少ない葛尾村とか飯館村はもっと厳しいのである。村が存続することができるのかという限界集落に一挙になってしまったからである。

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地方消滅の罠-山下祐介


ここで守るべき場所やその意義が全軍に十分に共有されていなければならない

自分がそこにいる意味がわかってこそ兵隊は苦しさに耐えたえ逃げずに踏みとどまるのである。

この文は面白い見解である。限界集落であり原発の避難区域であれそういうことがある。何かそこに生きる意義を見いだすものは苦しくても不便でも踏みとどまる
でもその意義は何なのかとなると何か宗教的にも哲学的にもなる
そこまで考える人がいるのかとなる、だからこそ若い人はかえって姑と離れ不便な所を捨てて新しい生活をはじたのである。
ただ女川だったか若い人がここに生きる意味があると言っていたのはかえって外部からの人がその意義を見いだしていたのである。
そこに生きるとなると外から来た人だと相当な意義を見いださないと不便だし苦しいからやっていけないのである。
タグ:限界集落
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2016年06月15日

なぜ舛添知事がこれほどもちあげられたのか? (舛添東京都知事のカルマ)


なぜ舛添知事がこれほどもちあげられたのか?


(舛添東京都知事のカルマ)



一人の人物を知ることは容易ではない、不思議なのはなぜこんなに舛添知事がもちあげられたのだろうか?
これまで悪いことを言う人はいなかったし厚生大臣にもなっているのだ。
本当は彼自身の業績というのはなかったのかもしれない、東大卒だけでは業績にはならない、助教授になったということは論文を出しているからそれなりのものはあった。
東大卒では業績にならなくても学者を見るとき論文を見れば専門家から見ればすぐわかるただこの論文も自分の成果でない弟子の成果を出したりするのが普通だとかいろいろ裏があるみたいだ。
人間は人間を判断するとき分野が違うと判断しようがない、自分は文科系だから文科系のものは判断しやすい,それでも文科系でも分野が広いから法律とかなるとわかりにくくなる。相馬藩のことを調べていて学者が論文を出していたがやはり学者だなと感心した。
論文は学者の明らかな業績なのである。


舛添知事は同世代であり団塊の世代である。舛添は貧乏だったというけどその時みんな貧乏だったのである。第一物がない時代だった。電器製品は一切ない、裸電球一つであり家にあるものは飯台一つである。それはみんな同じだったのである。
その当時は物が第一ないのだから金があっても贅沢はできないのである。
だから貧乏だったからせこくなったというのは理由にはならない
ただ自分のような劣等生から見るとまず柔道二段で東大を出るということは天才のように見える、この辺で東大に受かる人は十年に一人いるかどうかそもそもいない、それだけで相当優秀なのにガリ勉とも違う、柔道二段ということは体力も優れているから普通の人ではないとみる、両方ともだめな自分から見ればそうである。
やはり人間的素質として優れているとみる

そもそも団塊の世代というのは大学に入るだけで特別なものであった。中学校のクラスで四五人しか入らない、半分は中卒で終わりで集団就職の時代だったのである。
つまり今とは違い、大学に入ること自体が特別なことだったのである。
自分などは恵まれていて勉強がだめでも私立の三流大学に入ったのである。
そういう自分などと比べると段違いに違っている人間に見える
ただそういう優秀な素質の人間でも社会で評価されるようになるのは別である。
学問と実社会は違っているからだ。

その後なぜ彼がこれほど有名になったのか?これほど持ち上げられたのか?
次の総理大臣候補とまで言われたのか?そこに謎がある。
それを彼が度々テレビに出るようになったからである。
マスコミでもてはやされるとたちまち有名人になる、実力は関係ないのである。
テレビ受けする人がたちまち内容がなくても持ち上げられるのであり有名になる
つまり有名になることとその人の実力は関係ないのである。
芸術ならどうしてもその作品から評価される、いくら有名になっても作品からみるからある完全ではないが公平になる、学者の評価も論文でありこれも完全ではないが評価の基準がある。
でもテレビで有名になったというだけではその人のことはわからないのである。
ただ有名になるというだけで何か政治家などは票がとれるので通じてしまうということが問題なのである。
だからマスコミとかテレビはいいかげんなのである。何か面白そうなタレント的なものをもちあげてその人自身がどういう人かなど関係ないのである。
テレビはタレントを大衆受けするテレビ受けする求めているのであり中味は関係ないのである。口八丁手八丁のものが選ばれるのはそのためである。


いづれにしろ自分もそうだったが六〇代以降はどんな人でもこれまでのカルマの清算を強いられる、ここ十年の介護などの苦しみを書いてきたがそれもカルマだった。
舛添知事もそうだった。これまでしてきたこと悪行というか何か過去のことがカルマとなり責められる、それが高い地位についたため過酷になったのである。
普通の人だったらやはり問われてもこれほど責められないだろう。
人間は必ずカルマを課せられている、だから推理小説のテーマが若いときの犯した過ちが尾を引いて事件が起きることをテーマにしている、どうしても若いときには過ちを犯すからでありそれが後々まで尾をひき六〇代以降清算を強いられるのである。
変な話だけど子供もたない結婚しないというのも一つのカルマである。
人間として生れたら結婚して子供をもつのが普通だからである。それをしないことは六〇代以降カルマとなる。誰も老人になって身寄りのないものとなり助けるものがいないということである。それもカルマとなってはじめて理解するのである。
カルマというのはそういうふうに自分がその業(カルマ)によって苦しみとして現れないと自覚できないのである。それが六〇代以降否応なく苦しみとして現れるから理解するのである。

ともかくどんな人もカルマをもつ、結婚して子供をもつ人もまたカルマをもつ、カルマをもたない人はいないのである。
舛添知事も女性関係で乱れていて今になるとカルマとして現れ責められている。
そもそも舛添知事がなぜ厚生大臣までなれたのか?
それが自分が介護してもいないのに介護したと本を出して自分も売り込んでいたからである。
ではなぜその時その嘘が暴かれなかったのか?
これも不思議だとなる、これまでなぜこれほどに持ち上げられていたのに一転してこれほど責められているのか?その落差が大きいから不可解だとなる
その責任は回りの人にもなかったのか? マスコミであれ舛添知事をもちあけだ政党でありこれほどもちあげたのか?ただ有名というだけで選挙に勝てるとして持ち上げたのか?
そしてわずかの金のことでこれほど責められているのか?
他にもこういうことをしている政治家はいるという、それも億の金の政治資金をごまかしている人もいるという。
要するにこれは百円とか千円とか盗むとかえってわかりつかまるようにわかりやすいからこれほど責められているのか?それでも罪は重いにしても多かれ少なかれ政治家はしていることだと言うときなぜこれほど責められているのか解せないのである。

まず自分もそうだが貧乏に育った人間はみんなせこいというより倹約家になる
浪費しないのでてある。それがせこいとはならない、庶民はみんなそうしているからである。舛添知事の場合は団塊の世代はみんな貧しく育ったからそうなる、戦前生まれだとさらにもったいないという世代である。
ただ高度成長を経験しているからその後は贅沢したのである。
人間がせこくなるというとき貧乏だとどうしてもそうなる、だから高い地位につくものは貧乏人はふさわしくないということもある。そういう地位のものは外国人を接待したり貴族的にふるまわなければならないからである。
そして貧乏に育ったものは大きな金を使えない、自分もそうだが百万とかの金を使ったことがないからなかなか使えないのである。大きな金を使うことが怖いということもある
だから自分にしてもせこいとなる、このせこいにもいい面と悪い面があるのだろう。
事業に失敗した人は多額な借金したこともあるがせこくなっていた。
自分が苦しんでいるとき何かしてやるとき金を要求してきた。
つまりも親戚とかではない、友達でもない、事業をはじめたから人間関係もビジネスであり相手が病気で苦しんでいることも相手が不利になったのだからそれでその時ビジネスになれば自分の要求が通りやすいとなる、借金するのにも好都合だとなる
相手に同情するとかそんなことは全くないのである。そんな人しか来なかったのが最悪だった。もう一人はまさに露骨に金を奪う犯罪人だった。これもふりかえれば自分のカルマだったのだろう。家族のカルマとも関係していたのだろう。
何かそうした悪いこと人間関係でもカルマがあってそうなる

人間がせこいというとき相手が病気で他でも苦しんでいるときぼーんと金があれば与えるいちいちそれで恩を売るとかはない、そんなときいちいちビジネスのようにしている時ではないからである。ただそれも余裕があったらできることなのだ。
せこいとは余裕がないからそうなる。でも舛添知事は金が余裕がない立場ではない、嫁も金持ちとしたら別荘まであるとしたらそうである。
なぜそんな小さな金をでは政治資金から使ったのかという問題になった。
そんな金を自腹で払ってもどうってことなかったろうと思う。
せこいというとき必ずしも金があるとかないとかでもなくせこいなと言われる人がいる。金持ちでもせこいと言われる人がいるからせこいというとき何か心か狭いとういことでありその人の人格的なものなのだろう。
ただ基本的にはどうしても金がないといことは今の時代は特にせこくなる、金があると大きな気持になるのである。それだけ金がものいう時代だからとをにもならないのである。

いづれにしろ舛添知事は一生のカルマの清算を強いられているのである。これはさけようがない、みんなが六〇代以降は逃れられないのである。
自分の十年間もそうだった、それによってカルマを意識させられるのである。そうでなければ何も意識しない、舛添知事も今になって自分のカルマを現実問題として過酷に意識させられたのである。
ともかく選んだ都民も馬鹿だというときそうである。ただ有名なだけで選べばそうなる
そして今度は知事選挙で四〇億、解散すると都議会選挙で五〇億とか都民が税金で支払う、それも選んだ都民にはねかえってくる。その金で他に有効に使うこともできたからである。だから選んだ都民も馬鹿だから結果的に損したとなるのが民主主義なのである。
そして政治家は信用するな、政治家は監視しろというのが民主主義である。
マスコミは監視の役目なのだがそれを全くしていないのだからマスコミは信用するなとなる、なぜならマスコミは馬鹿な大衆を洗脳するメデアだからである。
それを利用しているのが背後の様々な団体なのである。カルト宗教団体もその中に入っている。芸能関係者が創価とたいがい関係しているというのもそうである。
東電は多額の宣伝費を使って安全神話を作ったというときもそうである。その裏には電通がいて操作している、それも最近露にされた。 
マスコミとは権力の走狗なのである。だからそこで持ち上げられて有名になっただけでその人を信用したのは大衆が操作されていたということでもあるのだ。
それは民主主義が機能していないということである。インターネットがメデアとして影響を及ぼすようになれば多少変えられるのである。
ともかくこれからはテレビに出るような人間には疑問もつ、信用しない、そしてなるべくテレビを見ないようにすることである。
テレビを見るだけで洗脳されるからである。そこに出ただけで重要人物のように見えるからである。
ただ出ただけで千倍にも万倍にも拡大してみるのである。中味は関係なくテレビというメデアはするのである。
だからそのメデアの影響を受けないようにするためにはなるべくテレビを見ないことなのである。
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posted by 老鶯 at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層