2016年06月01日

アイリスと夏菊(詩) (乱れた世に詩は切なる祈りともなる)


アイリスと夏菊(詩)


(乱れた世に詩は切なる祈りともなる)


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アイリスと夏菊

ジューマンアイリスに
橙の夏菊が映える
その白い清楚な花冠
光をあびて静かに咲く
ああ ここを乱さずあれ
何故に横暴な人の踏み入れ
花園は荒らされしや
ここは乱れに乱れぬ
そして今は祈りともなる
ここに落ち着きその清楚なる
アイリスと夏菊の調和して
長くもここに咲きつづけよと
それは今や切なる我が願い
そこにアイリスの清楚な白に
橙の夏菊が映える
ある家の庭を見れば
一本の松の根を下ろし
奥に紫菖蒲のひそまり咲きて
やはり夏菊が映えている
ここに穏やかな日々のあれ
いがみあい憎しみ合い
そして乱れに乱れた世
花園は踏みにじられ荒らされぬ
痛く傷つけられた心よ
踏みにじられた心よ
人はいつか定着を望む
花園に木蔭の涼しく
石はそこに影なし休みぬ
そはここに動かざれ
そしていつまでも花は
その美しさを保ち咲きてあれ
それは今は切なる祈りともなる
乱れ荒れ果てたる世となれば
人は切にそのように平和を願う
平和の尊さを知る


つくづくこの辺で起きたことは何なのか?まるで地獄だったしその継続もある
津波の被害もまさに地獄である。これも何なのかわからなかった
そして自分に起きたこともそうである。
ここで書いてきたけど信じられない異常なことも連続だった
それは金にまつわり起きたことである。
そういう異常なことが苦しみが受けると人間は変わる
ハンス・カロッサの詩は戦争を経験して書いた詩だった。
人間は戦争などを経験するとまるっきり変わってしまう
アフガニスタンの少女の願いは戦争のない平和があることが切なる願いとなる。
ただ戦争がなくなって欲しいというだけである。
その他はいろいすあってもまず戦争がなくなって欲しいというのが願いとなる

その気持がこの辺で自分の一身上に起きたことでわかる
この辺は自分でもまさに地獄だった、病気でも同情もなにもない、火事場泥棒であり津波の被害の情況と同じだった。
病気をいいことに借金を要求してきたりとさんざんな目にあってきた。
ただ非情しかない世であり人間である。
そういう経験すると人は変わる、ありふれた平凡なことが尊いものとなりその価値を知るそしてそれは切なる祈りともなる。

故郷を失った人たちもそうであり津波の被害にあった人たちもそうであり自分だと一身上に起きたことの非情である。
普通でも人間はいがみあい傷つけあう修羅だということは変わらなかった。
ただこの辺では極端なものとして全体に現実化したのである。
こういうとき花を見ているといがみあいにくしみあいはない
乱れることなく静かに光をあびて咲いている、それは当たり前のことかもしれないが
これだけいろいろなことに苦しめられ乱れるとなんと平和に咲いているのかと見る

ともかく回りに起きたことでも自分の一身上にい起きたことでも一体これは何なのだとふりかえる、そしてただ花が平和に咲いていることを切に願い祈りともなる
いつまでも乱されずに咲いていて欲しいとなる

この辺では当り前にあるものが失われた。そしてその尊さを知った。
人間はなぜこの世でこれほど平和がないのか?
それは人間は平和の価値を知らないからである。
本当に平和とか知るために天国を知るために地獄を知らねばならないとなる
なぜなら天国にいたらそれが当り前となりその価値を尊さを知り得ようがないからである地獄の対比で天国もあり天国は地獄があって輝きを増すとさえなる

地上が僕らにとって
故郷になるには
血がにじまねばならぬ
あまたの血とあまたの涙が

(ハンス・カロッサ)

戦争を体験したからこの詩が生れた、この辺も戦争状態のようだったのである。
ただ現代というのはどこまでも金でもめる。この辺で補償金でもめているのもそうである自分の一身上の苦しみも非情も金のために起きたことである。
戦争となると金というより人が死んでいるし街も破壊される
シリアのような状態になる。血がにじまねばならぬというとき戦争では人が死ぬからである。
この辺では津波では多数死んだ、それは戦争とは違っていてもにているのである。

2016年06月02日

黄菖蒲(津波の跡に海老浜に咲いた黄菖蒲の群生)


黄菖蒲(津波の跡に海老浜に咲いた黄菖蒲の群生) 


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夕べなお黄菖蒲映えて蝶眠る

黄菖蒲のあまた咲きにき海老の浜ホトトギス鳴き夕暮るるかも

海老浜になおシャリンバイ咲きにしや津波の跡に命をつなぐ


津波から五年すぎたけど以前としてその不思議さがつづいている
海老の村は家はほとんど流されていない、今日夕方行ってみたら
黄菖蒲が群生していた、なんらか湿地化して元の自然にもどる
現象があった。
そこにホトトギスが鳴いていた。
それがなんともいえぬ不思議な感覚である。

もともとの自然は菖蒲が湿地帯に群生していたのである。
それは釧路湿原などに見られる
今は菖蒲の季節である。
海老の浜の高台では三〇人くらい死んだと言われる
そこが避難場所にしたからである。
前はすぐ海であり高いから津波の避難場所になっていたのでてある。
だからこの黄菖蒲の群生しているところすにも津波がきた、
松の樹皮がはがれているのがみえるからわかる
必死にこの森に逃げて助かった人の話を聞いている

(鹿島町) - 南相馬市に合併される前に、マルバシャリンバイが町の花の指定を受けていた。(福島県)

海老の浜は自生する南限の地としてあった、マルハというのは葉が丸いからである。今は絶滅危惧種となっている
でもこの辺では庭でもいたるところに咲いている
わずかにまた咲きだしているものも見たからこれも増えるかもしれない
この辺はまだあたたかい地だから咲いた
真野の草原の万葉の歌はまさに気候的地理的に南限の地だったともなるのである。  

津波から五年すぎた海老浜の写真


津波から五年すぎた海老浜の写真


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高い防波堤はほぼ完成、

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まだ津波の傷跡がある高台

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鳥がとまっている 何の鳥か

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シャリンバイ

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都草


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大きなハウスができる、ここで野菜や果物を作るのか

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神社のあったところ

海老村は消滅している、村自体が消滅した

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右田村の方になると何もない、防波堤でさえぎられて海が見えないから景観的には良くない
盛り土をした所に木を植えた、その木が育つのは五〇年後とかなる
木蔭がないので夏は困る

海老は高台なので海が見えるのでいい、防波堤はやはり景観をそこねるのである。

津波で流された村の跡には大きなハウスが並んでいた、これは大規模でありここで農業をするのだろう

群生している黄菖蒲は津波の跡の不思議な景観だとなる
タグ:海老浜
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川の抽象画(続編)


川の抽象画(続編)


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島と潮の流れ  

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原始の川

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水紋

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大河

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海底トンネル Undersea tunnel



抽象画は何がでてくるかわからない、予想できないのである。
こんなものができたのかという作った人が驚いているのである。
それは自分のイメージで描いている具象画と違っているからである。
全く予期しないものが出てくるからそうなる

An abstract picture is the one which I cannot expect which does not know what comes out.
The person who made it whether such a thing was formed on is surprised.
This is because it is different from a representational painting drawing for a self-image.
Because a totally unanticipated thing comes out, it is so

ここにでてきたものはみんなそうである
この絵がこんなふうになるのかという驚きである。
予想し得ないものが変化させて出てくるのである。

大河というときこれは実際にアムール川などを見ているから巨大な川と激しい流れの川が現実にある
抽象画でも現実を反映したものなきである。
ただ抽象画だけからイメージされて生れるものもある
原初の川などはそうである。これを川と見るかどうかは各自の想像力による

海底トンネルはこれも意外だった
これはソフトが特殊なのでできたものである。
とにかく抽象画でも絵画でも形もあるが抽象画は特に色に魅了されるのである。
電気の光から出る色は絵の具では出せないのである。
だから新しいart(技術)なのである。

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2016年06月03日

啄木の文と自作の詩 (漢文とか漢詩の素養が詩語を豊にしていた)


啄木の文と自作の詩


(漢文とか漢詩の素養が詩語を豊にしていた) 



黄牛の草に眠るが如し。又春光野に流れて鳥初めて歌ひ、暮風清蔭に湧いて蜩ひぐらしの声を作なすが如し。未だ許さず、生きんが為めにのみ生き、行かんがためにのみ行くが如き人の、この悠々の世界に入るを。啄木、永く都塵に埋もれて、旦暮身世の怱忙追はれ、意ならずして故郷の風色にそむくうちに、身は塵臭に染み、吟心また労つかれをおぼえぬ。乃すなはち茲ここに暫しばらく閑天地を求めて、心頭に雲を放ち、胸底に清風を蔵し、高眠安臥、興を暮天の鐘にさぐり、思を緑蔭の流光に托し、風鈴に和して吟じ、雨声を友として語り、この夏中百日を暢心静居の界に遊ばんとす。我がなつかしき故山の読者よ、卿等若もし胸に一点の閑境地ありて、忙中なほ且つ花を花と見、鳥を鳥と聴くの心あらば、来つてこの埒らちもなき閑天地に我みちのくの流人と語るの風流をいなむ勿なかれ。記してこの漫録百題のはしがきとす。

閑天地 石川啄木



石川啄木の不思議は二七才くらいですでに老境の境地にあるということである。
それが天才だからそうなったのか?まず二〇代でこんな文章など書けない、そしてここに相当な漢文の素養がある。この文章が流暢で美文にしているのは漢詩的な漢字が以前として使われていることにある。
最近は何か漢字の意味が深くたずねられない、本居宣長が大和言葉の意味をたずねたように今は漢字の意味をたずねることが必要になんている。
これだけの文が二十代で書けるのは天才であったからだけど明治時代には漱石でも同じだが漢詩とかの素養があり詩語を豊にしていたのである
大和言葉だけでは詩語は枯渇する。だから詩を作るとき漢詩の素養が必要となる。
今は外国語も必要となる、でも英語が大和言葉とは一体化しない、漢字とは一体化しているのである。
それは漢字は使う日本人の歴史が長いからである。
明治時代に西欧文化の挑戦を受けてかえって日本の古来からの文化も対象的なものとして認識させられたのである。
明治時代に漢詩が一番興隆したというのもそのためである。


明治時代の人々は、陸続として入ってくる西洋の文化を大和言葉ではなく、漢語に置き代えて理解したことが多い。表意文字である漢語は、意味の伝達にも便利であり、江戸末に生を享け、各藩校で漢学を学んだ当時の知識人の共通語であった。西洋の文化を理解するにあたって、明治人は漢語を利用することによってより効率的に西洋文明を理解した。西洋の音楽に歌詞をつけるにあたっても、和歌的表現を
利用することも多かったが、漢詩文の表現を利用して唱歌の歌詞を作り、西洋の曲に合わせて歌うということも大和田建樹等の唱歌にはよく見られる傾向である。

明治唱歌による和洋中文化の融合

 明治が終わると、漢籍の素養を有する人が少なくなっていきます。その結果として漢詩は衰退の道をたどり、大正半ばには新聞からも漢詩欄が消滅。それでも無論、日本から漢詩人がいなくなったわけではなくなお、大正天皇も漢詩を好み生涯で千を越える作品を残した事が知られています。

明治は江戸時代の継続でありその継続の歴史が良く理解されていないのだ。明治維新というのは全く西欧化したのではない、江戸時代の継続として明治維新があったのである。
だからこそ「各藩校で漢学を学んだ当時の知識人の共通語であった」ということでもわかる。江戸時代から各藩でその素養が作られていたからできたことである。
漢詩をやりとりしてその意志を伝えたということもある。
それはヨーロッパではラテン語が知識人の共通語となっていたのとにていたのである。
ともかく明治が江戸時代の継続であったということを再検討すべきなのである。
明治にヨーロッパから入って来た概念や科学技術を日本が漢字を造語してとりいれた。
その数は多い、それを今度は中国で活用しているのである。日本がいち早く西欧化して中国にも貢献している。戦争のことだけを中国は言うがそれだけではないのである。
ともかく江戸時代の継続として明治があるということをみないと日本の歴史が歪められるのである。
それは奇妙だけど大正天皇によって受け継がれていたのである。
明治時代は日本のルネサンスだったのである。
啄木のようにな人間がみちのくのような辺鄙な所から生れたのも不思議である。

啄木、永く都塵に埋もれて、旦暮身世の怱忙追はれ、意ならずして故郷の風色にそむくうちに、身は塵臭に染み、吟心また労つかれをおぼえぬ

この文を二十代にして書ける不思議である。ここに都塵とかあり塵臭とかもあり漢詩的表現があってその意味を深くしているのである。
それで自分の詩にもそれをとりいれた、漢詩は韻を踏むなどめんどうなので自分は作れない、次の詩は自分の作である。こういう磐をテーマとしてすでに百編を作っている
その磐を中心として自分の世界観が形成されているのである。
故郷の風色というとき自分は確かに故郷を嫌って東京に出たのだがそのあとは隠者となりまた旅に明け暮れて終わった。
故郷の風色を嫌うというとき自分は故郷にものたりなさを感じていたのである。
あまりにも平凡すぎるからである。その自然にしてすらそうである。
だから自分は万里を旅したのである。そして遂には老いて故郷の磐ともなる
啄木の心境は青春があり老境があるという不思議なものなのである。
人間はさすがに凡人も老境になると哲学者になり平凡な人でも何か諦観を言いその言葉に重みを感じるのである。
ただ自分も二〇代で六〇代のように老成していた、外見もそうだったのである。
二十代でなんらかエネルギーを消耗したことは確かである。もともと体力がないからそうなったと言える。それからまだ生きていたのは恵まれた環境にあったからである。
まず過酷な労働を強いられたら自分は早死にしていたのである。



千歳の磐に人の影

草葎の道を閉ざして
千歳の磐苔むして
誰かここに影を落とさむ
影は深く谷間よりの涼風
微かに花のかたへに
その望みしは何そ
その生も尽きなむとす
万里を巡り故郷に還りぬ
我世事もとよりうとし
我が親は死し一人残りぬ
なべては一場の夢なれ
誰かこの千歳の磐に影を落とさむ
そもまた誠にあるものなれ
人は束の間の影なり
ただ虚しく消えゆくものなれ
そは何を成さむとして
もがき苦しむものなれ
たちまち人の消えゆくを
百歳を生きるも影なり
繁栄も幻にして消失す
都塵に消える人数限りなし
人は煙と消えて跡もなしも


この千歳の磐の写真は出した。そこから常に自分はイメージしている。
それは常にthe stone the rockなのである。a stone a rock ではないのである。

ともかくこういう心境は六〇代以降にならないと普通は生れない
啄木の場合はすでに二〇代でそうなっていたのである。
天才は早熟なのことは確かである。今になると東京の人ごみ中に交じるのも嫌になった。旅行もしたくない、人が多い所に行きたくなくなった。
何か十年介護していた結果エネルギーが消耗したのかもしれない、介護はかなりエネルギーが吸い取られるのかもしれない、だから若い人は介護などやるべきではないとなる。
人生で十年の時間の損失は大きいのである。時間がふりかえればいかに貴重なものかわかるからである。時間はたちまち消失する、若さも体力も消失する。
まず旅すらできない、旅は本当の旅人となると今はほとんどいないと思う。
ただ移動しているだけなのである。旅人となると芭蕉のように人生まで旅となる人であるそんな人は今はいない、旅するには風物に集中する必要がある。気が散ると記憶にも残らないのである。現代は都会でもそうだがそうして風物に集中しにくいのである。
車やビルや人ごみとかが多すぎるからである。自然もそこでは映えないのである。
だから風流とか詩の世界も現代では衰退した。
像でもって考えよといってもその像なる自然が具体的にイメージできないのである。
要するに日々生きる場に自然の像をもたないのが現代なのである。




進んでいる機械翻訳

关闭草〓的道
千岁的磐长苔
谁这里遗漏和samu影子
影子深深地山涧捻的凉风
微弱地像到花的人
那个期望做几so
那个纯粹也竭尽作为mu
围绕万里返回故乡nu
我世事本来疏远
我父母死一人残余nu
是一切一场的梦
谁这个千岁的磐遗漏和samu影子
so也再实在有
人就一一刹那的影子
只有空虚地消失去
so把什么作为成samu
挣扎感到痛苦
转瞬间人消失去的wo
百岁即使活一影子
繁荣也要虚幻消失
在都市的喧嚣上(里)消失的人数无限度
人与烟消失没有痕迹也也

中国語に翻訳して果たしてそのだいたいの意味がわかるものなのか?


The shadow where I'm a person in iwa in Chitose

Please shut the way to kusaritsu.
After iwa in Chitose is mossy.
Someone, here, the shadow, raku and SAMU
The shadow is deep, from a valley, cool breeze
For a floral person to pass faintly.
The, I wish, how many SO is SHI?
The draft beer also runs out and makes it NAMU.
I return to home concerning Bari, NU.
Willful worldly affairs, I'm more ignorant.
A corpse is left for my parent one person, NU.
NABE, since, dream accustoming in Ichiba
In iwa where someone is this Chitose, the shadow, raku and SAMU
There is also SO truly, experienced.
A person is the shadow of the brief moment.
I'm disappearing in vain, experienced.
SO, what, as sei SAMU.
I struggle and suffer, experienced.
I'll be a person immediately, I disappear and it's YUKU.
One hundred years old, I live, it's the shadow.
I prosper in illusion and disappear.
The number of people which disappears into the dirt and noise is boundless.
A person goes up in smoke, and, a mark and pear.

英語の翻訳の方が相当に改良している、中国語はまだそういう開発が遅れている
詩すら機械翻訳が可能な時代が来るのか?
でもこれは最高にむずかしい分野である。でも参考にはなる。
英語は普通の文章だとすでに80パーセンとくらい通じているようにも思える
相当に改良されたしこれからも改良されるから言葉の障壁が解消されてゆくかもしれないコンピュ-ターはこうした文科系までかなり影響している
要するにある点では人間の頭脳よりコンピュ-ターが優れいてることはまちがいないのである。
たから普通の文章は機械翻訳されやすいのである。多少間違っていても訂正すればいいともなるからだ。
詩となるとまず千歳の磐となると翻訳できない、これは日本語の詩語だからそうなる
詩語は翻訳できないのである。






タグ:石川啄木

2016年06月04日

様々な色のトンネル(various coloured tunnels) (色に反応する人間の感覚の不思議)


様々な色のトンネル(various coloured tunnels)


(色に反応する人間の感覚の不思議) 


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光あれというときその光は分析すれば七色にもなる
色があれということでもあった。
パソコンで抽象画を作りつづけて不思議なのは色である。
色によって人間の心は反応する、抽象画は形ではない、色である。
色の織りなす世界である。

The light had a color to become seven colors if I analyzed it concerning that at time called light that.
It is a color I continue making an abstract picture with a PC, and to be mysterious.
The abstract picture that the human heart reacts by a color is the color that is not form.
It is the world that the color weaves.

だから今回のテーマはトンネルとあるときもし現実にこういうトンネルがあったとしたら人間は感覚的にどう反応するかである。
海底トンネルだったらやはり海をイメージするから青である。それも深い青になる
植物は花でも色に反応する、そこには様々な色がありその色が脳で反応する
そして色と色の組み合わせは無限にある。
赤でも一つの赤ではない、様々な赤がある
薔薇の赤とダリヤの赤とか赤がいろいすあってもみんな違った赤なのである。
鶏頭の赤も独特なのである。

Therefore there is this theme how the human being reacts sensuously if there was such a tunnel practically with a tunnel once.
If it is an undersea tunnel, it is blue because after all I image the sea. There are there various colors to react to a color with the flower, and the color reacts to the plant that it becomes the deep blue in brain and the combination of color and colors is infinite.
Even red is the red of the rose with various red that are not one red and the red of the dahlia and the red that were different in all even if red be, and there is a chair.
The red of the cockscomb is unique, too.

ともかく現実に色のついたトンネルがあったとしたら人間の感覚はそれに反応する。
色によってトンネルが変われば要するに気分も変わるのである。
色は気分に影響しているのである。
ブルーになったとか色によって気分を現す、画家でもゴッホは黄色に強く反応していた。画家によって好きな色があるのだろう。
黄色は青と違っていて冷静なものではなく何か狂気的なものとてい結びついていたのかとなる、自分は何か青が好きである。

Anyway, the human sense reacts to it if there was the tunnel with the color practically.
If a tunnel changes by a color, in brief, the feeling changes.
The color influences a feeling.
Gogh strongly reacted to yellow in the painters who showed a feeling by a color that it became blue. There will be a favorite color by a painter.
Whether なものとてい of any insanity was tied not the thing which it is different from blue in the yellow, and is calm oneself that it is likes anything blue.

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そしてこの抽象画は何なのかとなると回りにいろいろな色があっても青が入江の深い青が中心であるそこに感覚的に集約されているのであ。深い青は全体の中でその色合いを深める 青にはそういう作用がある
赤は激情的だが青は冷静だとなる

And even if there is a various color around when this abstract picture becomes what is; leading the deep blue of the inlet blue; is collection  sensuously there. The red with such an action is like a passion in blue to deepen the hue, but, as for the deep blue, it is in the whole if the blue is calm


タグ:色の不思議

2016年06月05日

茨城県の太子町へイワヒバを買いに行く人のことなど


茨城県の太子町へイワヒバを買いに行く人のことなど


特にいわひばをよく見られる・育成が盛んなのが【栃木県】だと思います。
そして栃木に隣する群馬や埼玉でも多くの人がいわひばを育てています


近くの知人がイワヒバを買いに茨城県の太子町まで車で行った、朝五時に常磐高速道で行った。
その人は前にも書いたけど大きな岩を組んだ庭がある、あれだけの岩を用いた庭はなかなかない、それも若いとき三〇代くらいで作っているのである。
庭師は頼まず知っている人に協力してもらい作ったという
それは何か登山もできる山のような庭になっているのだ。

その人は津波が来る前はイワヒバが相当にあったがなくなった。あの庭にとイワヒバがにあうのである。
だからイワヒバを買いにわざわざ太子町で行く、イワヒバは野生のものだと断崖とか危険な場所にあるのでとるのも危険でありそれで値段が高くなる。
何か十万くらいもっていて買ってくるという。自分も欲しいので頼んだ

茨城県は山はあまりないけど栃木県とか群馬、埼玉にはある。とするとそこに太子町は隣接しているから集めて売っているのだろう。
宮城県以南にしか自生しない、福島県ではとれないものなのか?会津などは山が多いけどどうなのか?

イワヒバの特性はほとんど水をやらなくても肥料をやらなくても生きている力強さである水は最低限必要であるが肥料をやりすぎると死ぬというから高山植物ともにているのか?
イワヒバは岩に根付き岩から栄養をとっているとさえ見える
岩に何も栄養がないというが岩は土となる、土はもともと岩だとすると岩には栄養分がある、ミネラルもあり岩の多い所からとれる水はミネラルなどの栄養分が多い
それでヨーロッパの水にはミネラルが豊富である。

植物はやはり南系が多い、サカキなども宮城県が南限だとあり宮城県までが南方系なのだろう。シャリンバイ(車輪梅)この辺では南相馬市の海老浜が南限の地としてあった。
種類はマルハシャリンバイであり丸い葉が特徴である。
北方系だと北海道に自生している花である。尾瀬の至仏山頂に咲いていた檜扇菖蒲などが北海道の平地に咲いている、ハクサンチドリも宗谷岬を回ったとき雨にぬれて咲いていたのは意外だった。
相当自分は野生でも花を見てきた。その後介護で旅行しなくなってフラワーアレンジメントをするようになった。

最果ての宗谷岬へ雨しととハクサンチドリのここに見ゆかな

旅行の時はなかなか花をというものを見ても短い時間だから心に残らない、記憶されないのである。旅のときは何でもそうである。短い時間だから記憶に残りにくいのである。
それで最近気づいたことは活けた花はいつも見える食事するような場所に置くことであるそうするとその花が親しく何日か見ているから心に反映してくる。
一日くらいでは花は心に写らないのである。家でも離れているとじかにいつも見ないから心に写らないということがある。
何でもそうだが何か心に残るという時時間が必要なのである。

旅にはその時間かない、特に車などだと通りすぎるだけになる。自転車だってゆっくり見れないということがある。
人間だって親しくなるのには時間が必要である。
だから人間はつくづく時間が貴重なのである。旅でも実際は気が散りよからぬことに目が向いたりせっかくの貴重な時間を肝心のものに目を向けず終わる人も多い
旅は遊びであり気楽だというが相当に回りの風物に集中しないと何も残らないのである。自分の母親は旅行などしたことがなかった。たまたま団体旅行したがその行った場所すら覚えていなかったのである。
旅でも意外と忘れることが多い、時間をかけないから忘れやすいのである。

あなたが何に時間を費やしたが人生なのである。それが人生の終わりにはっきりと否が応でも自覚させられるのである。
そして最後は記憶をたどる旅になるし人生も回想するだけだとなる
だから人間ほど時間を無駄にするものはいないのである。
旅だとその場に一回しかいないということがある。そしたら二度とそこにいないとしたらその時間が貴重なのである。人との出会いですらそうなる
最後はみんな別れてしまうだけだとなり二度と会わないとなる。

久慈川は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)に真楫繁貫(まかぢしじぬ)き吾(わ)は帰り来(こ)む

[丸子部佐壮(まるこべのすけを)

久慈川は鮎で有名である。万葉集時代から久慈川は知られていた。大きな長い川である。そこで天然の串焼きの鮎を買ってきてもらったが一匹五〇〇円だけど価値がある
養殖の鮎はスーパで時々売っているけどうまくない、鮎は自分は好きだった
子供のとき父親が鮎をとってきて食べた、その時の鮎は大きかったのである。
今は小さいしうまくなくなった。久慈川でもきれいなようで水質は悪くなっているから鮎の質も落ちているという。
熊野川だったか鮎を焼いて観光客に売っていたけどあれも養殖の鮎だった。
数が多いからそんなにとれはずがないと思ったからだ。
記憶しているのは新潟県の魚野川の流れる小出の食堂で食べた塩焼きの鮎だった。
それは生きのいいもので身がしまり本当にうまかったのである。
それ以来すでに十年は鮎を食べていないのである。天然の鮎はそれほど貴重になってしまったということである。

幸(さけ)くあり待て・・・・今は天然の鮎が食べられる・・・その幸(さけ、さち)を待ち望むともなる、落ち鮎のシーズンだと磐城の山の川でもとれて簗場があり臨時で鮎料理を出していた。会津辺りなら天然の鮎が食べられるだろう。
でも会津にすら介護で十年以上は行っていないのである。だから旅というのも実際はできる時間が限られているものだと思った。
これだけ旅した自分でもそう思うのだから他の人はましてそうなる。自由な旅はそれだけしにくいものであったのだ。
タグ:イワヒバ

2016年06月06日

買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない (古いものが失われたことによる損失もあった)


買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない


(古いものが失われたことによる損失もあった)


家事をやるときまず何を買うかが問題になる。どういうものを料理でもそろえるのかが問題になる。
それがスーパーでもホームセンターでもそうである。そこに何があり何を買うべきかを知ることがまず第一である
そして今では小さな町の一万くらいの町でも相当な品数があり何を利用すれば最適なのかそれを知ることが肝心だとなる
家事を十年していても未だにそのことがわからない、それだけ品物が増えすぎたのであるその点インターネットだと検索で探せるから便利である。自分の欲しいものをキーワードでと探すから欲しいものがわかりやすくなる。
それがスーパーでもホームセンターでも品物がありすぎると目当てのものを探すのが大変なのである。
ただ見て回ってこんなものがあるのかということの発見はある。
インターネットではキーワードでしか探せないからである。
だから本屋に行く楽しさはいろいろな本を見て歩くことにあった。
でも地方の書店ではもうその種類が少なすぎるから書店は用なさなくなった。
今になると仙台に行くのも億劫になったから今年はまだ仙台に行っていない。
別にアマゾンで本などいくらでも買えるとなったからである。

ネット販売だと店屋めぐりとかできないし街を歩いて楽しむということもできない
地方の商店街はほとんどシャッター通りになっている
ハチンコ屋はどこにでもあり何か街自体の魅力が喪失した。
街というのは自然環境とか歴史があり成り立っていた。
相馬藩だったら城があり城を中心として各地で城下町が形成され街も形成されてきた。
通りを歩く楽しみがなくなった。仙台辺りはまだある。
青葉通りとかあり学生も多く若い人も多く歩いている
歩く楽しみがまだある。通りは自然の風光とかを感じ人が生活する息づかいを感じる場所であった。青葉通りはまさに青葉にふさわしいのである。
それで俳句とかにもした。それがビルの中に入るとそういう自然の風光とか歴史と切り離されるのである。
それはスーパーとかでも同じである。つまりスーパーなどには自然の風光とかその土地と切り離されたものである。その最たるものがイオンなどである。
街から切り離された郊外に独立して膨大な品物だけがあるという世界である。
それは車社会になって生れたものである
駐車場を旧来の街では通りでは確保しにくいからそうなった。

城下町となるとやはりまだ歴史とか風光を維持している。それで熊本城が地震で破壊されたときなんとか復興しようとしている、前にも熊本では地震で何度も城が破壊されて再興していたのである。
それはやはり城が以前として街のシンボルとして精神的支柱としてあったからである。
そうして古い街が残っているのは現代では大きな都市に限られる
京都とか奈良とか東北では仙台とか盛岡とか弘前とかである。
ただ相馬市の不思議を書いてきたけどなぜあそこに行くとしんみりするのかということである。
それは城下町だけど別に城が残っているわけでもない、でも高いビルがないということが自然の風光が映えるものとしている、街作りとして公共の会館などが入母屋作りにしているし今度建てる市庁舎もそうである。
だから城下町の雰囲気というか落ち着いたものとしている。これには反対もある。

何か確かに建物だけに金をかけているという感じになるからだ。そこに住んでいる人からしたら福祉とかその他のものに金をかけて欲しいとなる人もいる
原町の街は何か病院の街という感じがする
駅前に高い病院のビルがありそこに若い看護婦が多い、若い女性にふれられる活気が感じるのは地方では病院だというのも現代を象徴しているのか?
南相馬市立病院はビルとして一番高く見晴らしが良かった。入院していたとき海に船が行くのが見えたのである。あの辺から海が見えないからである。

買う物が増えるというとき選ぶのが容易でなくなる、自転車など今や外国をふくめものすごい数がある。変わったロードに乗っている人がいた。どこで買ったものなかのかと思う原町の自転車屋では外国製まで置いてある,ジャイアントのロードが飾ってあった
その主人は直接自転車にのって乗り具合などを確かめ客にすすめている。
そこで一台ハナソニックの電動自転車を買った、つまり何を買っていいかわからないほど自転車の種類も数も増えたから客は選ぶのに苦労するのである。
それは情報という分野でもインターネットが出た結果そうなった。
膨大な情報をどう選ぶかが問題になる、そうしないと情報に追われて時間を奪われてしまう。

だから今は新聞も読まないしテレビも見るのは限られている、今自分が力を入れているのは情報をプロクなどで発信する方である。
若いときはどうしても情報でも知識でもとりいれる方であり発信する力は弱い、年取ればやはりそれぞれに経験を積むし知識も自分のものとなってゆくから発信する方が多くなるインターネット時代になると知識でも情報でも増大するが肝心のものを読まないということもありうる、つまりくだらないものに追われて時間を消費するということもありうる
これはインターネットがないときもそういうことがあったから同じだけどその情報量が違いすぎるのである。
本が中心のときはベストセラーが必ずありそれはつまらないものでもそこに関心が集中して買う人がいたのである。それは実は全くつまらないものであっても百万部とか売れていたのである。今はベストセラーもなくなった。
出版の世界が崩壊しつつある、自分の町では一万の町ではもう書店はないし他でもそうだろう。書店はなくなることは目に見えている

本というのはまず選ぶことが本の時代でもむずかしかったし学術的なものになるとなかなか地方では手に入らないので仙台には本を買うために行っていた。
インターネットの時代になるとまずアマゾンでない本がないからいい時代である。
こんな本があったのかという驚きかある。本というのは学術的なものでも膨大なものがあった。それを知らなかったので知識を追求するには地方では相当なハンディキャップがあったのである。
それで最近詩の本を集めたりして参考にしている。他にも何か自分で文章を書くとき参考にする本をインターネットの電子本で拾い読みしてアマゾンで注文して買ったりしているだから田舎にいてなにか不便を感じないのである。

ただ書店で本を見て楽しむということがなくなった。こんな本があったのかというキーワド探せないものがあるからだ。
出版社が本の世界からインターネットの電子空間に入れないのはあまりにもその変化が大きいので入れないのである。出版の世界にはその流通から本作りまでこれまで培ったものがありそこからぬけでれないのである。
出版文化というものがあるしまた本は二〇〇〇年もの歴史があるから本というものからぬけでれないというのもわかる。
本で読むのと電子本でインターネットで読むのは何か違っているからだ。
同じ内容のものでも人間の感覚で違って感じるからである。


物が千倍増えて情報が一万倍も増えたら人間は対処できるのか、処理できるのか、そんな能力が人間の脳にあるのかとなり小説までコンピュターで作れるとなる
なぜならそこに膨大な情報があるからだ。コンピュターは処理できるからである。
人間はとても処理できないのである。知識でも情報でも無限である。
ただ知識というとき一つの世界観を形成するために知識を深めるということがある
知識というとき何か本来は生きた知識となるべきでありそれは実際の生活する場でその知識が言葉でも結びついていた。
だから自分の場合は故郷で石や岩や樹などと結びつく世界観を詩などで追求してきたのである。
エジプト文明でもキリスト教文明でもイスラム文明でもマヤ文明でも仏教文明でも日本文明でも一つの世界観があり知識もそこに総合的に集約されてきたのである。
だから時代的には日本では奈良時代があり平安時代があり鎌倉時代があり江戸時代かありと一つの世界観を構築してきたのである。文明には整合性があり調和していたのである。

明治維新もそうした伝統があって成し得たのであり西欧化したというときそういう伝統があり日本文明を維持して西欧化したのである。
日本文明があり西欧化がありえたのである。技術的なものでも西欧から入ったものの翻訳を漢字で新たに造語したとういうのもそのためである。
今知識でも何でも一つの世界観の形成ができない、ただあらゆるものがごった煮になって混沌として混乱するのである。
膨大な物でも情報でもただふりまわされているという感じになる

日本ではあらゆるものを無節制にとりいれてきたけどそれがさらに混乱に拍車をかけて
いる、日本は日本の伝統歴史を見直して日本文明を再構築すべき時に来ているのである。その一つの試みを自分は地方でしてきたのである。
それは別に外来の文明を排除することではないのである。

青葉風 (仙台の青葉通りの俳句十句ー都会と田舎が融合すると文化が育まれる)

タグ:情報過剰

原発事故は人類の歴史をふりかえれば予見されていた (人類の歴史的必然として起きた)


原発事故は人類の歴史をふりかえれば予見されていた


(人類の歴史的必然として起きた)



八百万神、天安之河原に、神集ひて……イシコリドメの命に科せて鏡を作らしめ、タマノオヤの命に科せて八尺の勾玉の五百津の御頻麻流の玉を作らしめ云々」とあるは、日本に於ける分業制の最も古き記録と見るべきで、これから段々「家業」といふものが伝はつてゐる。家業とは家に伝はつた職業である。

或は初夏の「雪しろ水」を予告し、或は二百十日の暴風を予言したとすればどうであらう。心の単純な部落の全民衆はその長老を救主として神様の如く尊崇したであらう。そしてそれに自分等の持つてゐる最も善きものを捧げたであらう。かくて長老は生活のために労働もせずに専らその長じた研究に従事して益々智能を啓発したであらう。そして、その集積された学的知識は自然にその子孫に伝へられ、漸くにして特殊階級としての一家族が出来たであらう。これが或は戦争の場合の武将ともなり、又は武将と結託することにもなつたであらう。王様の起源をだづねると此くの如くである

「私の経験では、小農者は地方住民中で最善、最優なるものである。私がこゝに小農者といふのは、四十エーカー以下の地を耕作する者を言ふ。(一エーカーは約四反歩)彼等は一般に多芸多能であつて、種々な仕事に変通自在で器用である。そして是れは、狭い場所にて一切を自分で処理せねばならない処から、その必要に迫られて器用にもなり、変通自在にもならしめられる為なのである。

分業というとき神話の時代から日本でもすでにはじまっていた。例えば石器が生れたとしたらその石器を作る専門家が生れる、その方がその一部落でも効率的になるからである。でもその時は石器作りは狩猟する人も女性もしていたかもしれない、石器は単純なものだが意外と人間にとって最初の強力な道具でありその石器から人類が発展してきた。
石器に木の棒を結びつければ鍬になり矢じりとして動物をとる道具にもなる
石器の効用は人間にとって大きなものだったのである。
石器とは工業のはじまりであり人類が自然を征服するための道具として生れた。
つまり人類の発展は石器からはじまっていたのだ。
それで面白いのはヨーロッパの石器が大きかったということである。
そのことが歴史としてヨーロッパとアジアとが分かれるものとしても作用した。
石器が大きいということは殺傷能力も大きいということである。
武器としてヨーロッパは石器時代から強力なものとしてあり現代に発展したのである。
ヨーロッパの武器の歴史をたどるとアジアより殺傷能力の高いものが多い
武器に関してはヨーロッパが強力なものを作ってきた歴史がある。
大砲とかもヨーロッパから生れ城壁が役にたたなくなり歴史が変わったということもある武器はヨーロッパで早い時期から発達してきた、その歴史と連続性が現代までつづいていたのである。
なぜなら第二次世界大戦は飛行機が武器となり飛行機によって勝敗が決せられたからである。
そして核も原子力もヨーロッパで発明されてきたのも核兵器になったのも歴史的連続性の結果なのである。
何事歴史的連続性の結果として現在があるみないとどうして今日の問題が起きるのかわからないのである。

この論文でどうして支配階級が生れたのか?それは天候を予測するということ暦をもつということが知識人によって成された。その人たちがテクノクラートとなり支配階級になり国を支配することになる。
日本でも日食を予言して卑弥呼が人民を支配したという説もそうである。
科学技術はすでにそうした人民を支配する魔力をもつものとして利用されていたのである病気でももし薬草でも直す人がいたら神のように尊敬される。それが継続して医者が今でも神のようにとはいかないまでも一番尊敬われていることでもわかるのである。
ここにも人類の継続性が歴史の継続がある。
例えばエジプト文明でも書記が高い位にあったとするとそれは今の官僚に通じている。
計算するということが高度な知識でありそうなった。つまり数学の知識が大きな力を発揮していたのである。
まずピラミットは高度な数学の知識がなければ作れないからである。
そして実際はピラミッドの謎は今の高度な数学でも解きあかせないことにある。
だから神秘的なものなのである。
マヤ文明も高度な天文学が発達していて太陽が石の祭壇の上に輝くように作られていた。それでそうした計算をして作られた石の祭壇で王が君臨してテクノクラートが支配階級となったのである。

このことは原発と同じだったのである。原発を操作するのは明らかにテクノクラートだった。
なぜならこれまで考察したように東電の力は政治家よりも官僚よりも検察などよりもマスコミよりも上だったのである。
なぜなら政治家や官僚でも検察でも東電に天下りしていた。警察官僚でもそうである。
マスコミも朝日新聞ですら宣伝費をもらい原発に反対することはなかったのである。
つまり実質の支配者は権力は電気を作る東電がもっていたのである。
それは古代から継続された人間の歴史だったのである。
つまり原発の問題は現代にのみ起こったことではなかった。長い目で人類史を見れば歴史的必然のように起きたのである。
それはすでに歴史をふりかえれば予見されたことでもあったのだ。
老子が道具をもつものは道具に支配されて人間性を失うとかキリストが剣をもつものは剣で滅びるとか予言していたことでもわかる。
それは二〇〇〇年前にすでに予言されていたのである。
核をもつものは核で滅びるということになる、核で滅びるのが人類のカルマだとなる。
それは歴史的継続性として予見されたものである。
その発端が石器が作られたとき人類にはじまっていたのである。

そして分業化することで起きた問題でもある。分業が階級を作った。支配するものと支配されるものを作ったという石川の論文は納得する。
王というのはその字はもともと斧から発している、つまり斧という道具をもったものが支配者となったのである。テクノクラートが王を作り出したのである。
それは東電が国の中の国にになっていたと同じである。電気を産み出すもの、核から電気を産み出すものが実質の支配者になっていたのである。
それは歴史をふりかえれば産鉄族の歴史が古代からあり考察してきた。
日本の地名には全国的に鉄を生産することにかかわる地名が無数にあることでもわかる
そして人間の異質性の最たるものが職業の相違にあった。分業にあったのである。
鉄を生産する人は農民にとって常民にとって稲作民にとって異質なものだった。
そして鉄を生産することから公害が生れたのである。
そういう鉄の生産することから有害物が田んぼに流れたことでそれが地名化したのであるそれ木地師などもでも共通していた。その職業が元から住んでいたいた人たちに理解しにくいもの脱化らである。
それで碗貸し伝説とかそうした理解できない職業集団は異質なもの神秘的なものとして伝説化されたのである。

おそらく王権のシンボルであった鉞(エツ まさかり)を支柱に立てかけた形である。 古代の王者は斧や鉞を武器にして天下を征服したのであり、天下に王として君臨する時、自らの象徴とし得るものは、征服に際して使用した武器であった。実際に殷の遺跡から、豪華な装飾を施した儀式用の鉞がいくつか出土しているのは、この推測を裏付ける事実である

こういう歴史も民俗学でも現代とかけ離れたものではなく歴史的継続として起きたものなのである。
原発に携わるものが何なのか理解できないからである。現代は様々な職業に分化しているもう分業化によって「隣の人は何する人」になる。
田舎ですら隣の人が何している人か職業でもわからない人がふえたのである。
分業によって人間は支配するものと支配されるものに分かれ互いに意志疎通もできないものとなった、その歴史は古いのである。
原題は最も極端なものとして分業化した社会になっている、職業が違うと互いに意志疎通もできないのである。
それは鉄を生産することからすでに起きていたことである。
それが発展して原発になり地域が水も飲めない空気までい汚染されて住むことさえできなくなった。
このことはすでに鉄の生産時代から予見されていたことなのである。
東電の技術者が原発でなにをしているのか皆目理解できない。
そこには立ち入ることもできない、そこに働いている人がいてもその人たちは何もわからないのである。
つまりそこは秘密のベールにぶつつまれているのである。
周りの人は知り得ようがないものとして閉ざされたいる
だから危険も察知できないし地元の人が防衛することもできないのである。
そのことから今回のような大事故が起きたのである。






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2016年06月07日

なぜ景気が良くならないのか? (グローバル経済資本主義では格差が拡大する)



なぜ景気が良くならないのか?


(グローバル経済資本主義では格差が拡大する)


景気が良くならない、消費が冷え込んでいるのはなぜか?
高度成長時代は団塊の世代は消費力が旺盛だった。月給も毎年うなぎのぼりに上がっていった。
そしてマイホームとか車とか電器製品をこぞって買った。
その時は日本の電器製品も世界で売れていた。ブランド品だった。
消費が旺盛というときとにかく団塊の世代は数が多いから当然だとなる
その時貯金していると利子が7ハーセントとかなり20年後30年後には倍になっていたのである。
だから母親の保険金が実際は150万くらいかけていたのだが遺産としてもらうと二倍以上になっていたのである。
だから20年前とか保険金を一千万かけていたら二千万になっていたのである。
それは貯金でも同じだったのである。それで老人の一割は金をもっているとなる
ただその時貯金をしてんいない人は今になると金融資産では残っていない
つまり60で団塊の世代が退職してもその金の価値は半分になっているのだ。
なぜなら利子がゼロというよりマイナス金利になっているからである。
一千万は実際は5百万くらいの価値しかなくなってしまったのである。

人間の心理として今あるものを貯金でも減らしたくない、物でもなかなか捨てられないでゴミ屋敷になったりするのはそのためである。
例え一億円あったとしてもそれが少しでも増えないと消費したくないのである。
だから利子がつかないとなると老人でも消費に回らない、それはケチとかではない、
人間の心理なのである。
今あるものを減らしたないという人間の心理があるからだ。
貯金でもだんだん減るだけだと不安になるのである。
だから利子もつかない、マイナス金利になっていると消費しないし景気も良くならない
金をもっていても金利もつかないからかえって使った方が得だというのも通用しないのである。
もちろん不正規とかフリーターとかは金がないから消費しないのは当然だしみんな月給も上がらないのだから消費しない、株も下がると富裕層も消費しなくなる

グローバル資本主義になると労働力を安い国に求めて多国籍企業化しているから移動するすると国内ではそうした安い労働力と競争させられることになる
日本の最低賃金は時給800円とか世界でも下位なのである。
日本がそんなはずがなかったというがそれだけ中産階級も消滅して貧乏になったのであるそして機械化やit化やロボット化でますます人件費はけずられ今度は人間は機械と競争させられるのである。
機械の方が効率的であり人がいらなくなってくる
中国でも麦を刈るのが人海戦術で出稼ぎ労働でしていた。今はコンバイン一台千人分もの麦をかる、この差はあまりにも大きかったのである。
つまりコンバイン一台が千人の労働を奪ってしまった。
そして出稼ぎ労働者はコンバインが入りにくい地形の所で細々と働いていたのである。
それは田植えでも機械でできない縁を人の手で田植えしていると同じである。
機械の補佐役が人間になっていたのである。

要するに多国籍企業はグローバル経済になれば労働者すら安い国でまかなおうとする
できれだけコストをおさえるために効率的にするたに機械化する。
近くのスーパーの自動でお釣りがでてくる機械は便利である。
これは人間より正確でありまちがうことがないのである。
たまたま古銭を入れたら機械が停止したのである。
それでレジの人がその使えない古銭をとりだして直したのである。
お釣りを忘れると警告音なるから忘れることがないしレジの人とやりとりするより問題が起きないのである。
そして機械の見守り役が人間になる社会を予測した光景だった。
そういうことは社会のいろんな所で今や実際に起きているのである。
会社はコストをおさえるために機械化できることは機械化するからである。
それでこの辺は人手不足が他よりひどいから補うことができたともなる

そして人間は高度な仕事を一握りの人間しか働かなくなるかもしれない、コンピュターのソフトを作るような人は高給とりになる。医療さえコンピュターがロボットが利用されるといわれる。確かに自動支払いの機械はそうなのである。自動販売機もそうである。
でも自動販売機も会社の人が来て様々な種類のジュース類を振り分けていれるのが手間なのである。どんな機械でも何か人間の手がかかっているのである。
確かにコンピュターはある点ではまちがいなく人間より優秀である。
膨大な知識の集積ができるからである。検索するというときインターネットではそこから芋づる式につないでゆくと新たな論文が書けるとなる
なにしろこれまで研究したものでも膨大だからである。ただ本だと検索できない、一冊の本を買うとなると金もかかるしめんをとだとなる
だから将来はすべての本でも無料で検索できたら人類の知は飛躍的に発展する
本は過去のものでも今でも膨大でありとても読みきれないからである。
すると知らないことがあり知識として不十分だとなってしまうからである。

要するに社会の頭脳たるものが支配階級となり高給とりになる、それは機械とかコンピュターを操作できる人間である。ソフトを作れるような人である。
そういう人たちが社会の支配階級になりあとは非正規のアルバイトやフリーターとか安い時給で働かせられる、ただかえって弁護士とか医者とかもコンピュター化されると職を失うといういうからそういう仕事だけが影響されるのではない
要するにグローバル資本主義とか機械化コンピュター化かit化する社会は格差を階級を作る社会である。
一握りの人間がコンピュターを操作して富を集中させる、あとは膨大な非正規とかの下流の労働者となってゆく
そしてベーシックインカムなどが実際に具体化されることがスイスで起きたがとりやめになった。そんなことが国民で実際に実行しようとしたことも現代を象徴している。
一握りの人間はコンピュターを操作して社会を動かし大多数は職を失うということも未来的にはありうる、そうしたらどうして生活してゆくのだとなるからだ。

そしてまた矛盾が生れる、経済の目的は経世済民である。民を救うことである。民が職を失い豊にならないとしたら何のための経済だとなる。
一握りの富裕層が幸福になってあとは低賃金でありそれで民が幸せになるのか?
そのことは一握り一部の富裕層にもはねかえってくる。民に不満が増大して社会不安を引き起こして社会が不安定になり犯罪も増える、それで富裕層も危険になってくる。
もちろん需要も増えないから会社でも物が売れないとなり全体的に経済は停滞してゆく
こういう社会も理想を実現するかとなるとならない
そこに必ず問題が起きてくる、そしてひょんなことからその社会が崩壊したりする
人間の社会でも文明でも何か原発事故のように一見核まで操作できる知能があるのにかえってその知能の良さ故に人間が滅ぶという逆説があるからだ。
だからこういう一握りの人間がまるでコンピュターを操作して社会の頭脳化するとき危険なことにもなる、つまりなにか機械のコンピュターの不具合から原発事故のように一挙に崩壊するようなことが起きる、それが人間の宿命、カルマとなっているからである。
posted by 老鶯 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2016年06月08日

建築史から見た文明史(1) (建築も人間の精神性を追求した)


建築史から見た文明史(1)


(建築も人間の精神性を追求した)



文明とは何かといったらこの定義そのものがむずかしい、いろいろな見方があるとしてわかりやすいのは建築から見ることである。
それじシュヘングラーは「西欧の没落」は建築史だったのである。
建築史としてその発展は頂点に達して西欧は没落するとした。
確かに建築の面で何か現代では新しいものが生れない、現代建築はかえって過去の建築と比べると荘厳さとか精神性に欠けているのである。
そのために「西欧の没落」が意識されたのである。

現代とは資本主義であり経済だけが世界を席巻している社会である。だからどこでも世界は一様化して文化というのが衰退した。どこの都市でも同じような建築しか見られない
高層ビルでありそれはビジネスのための機能性だけを追求したものである。
要するに現代は精神なき経済に蹂躙されてしまった世界である。
ただ求めているのは狂気のように金だけだとなる、それは庶民でもそうであり金しか価値観をもてない世界である。

建築史から見ればいかに過去の建築が精神性があったかとなる
もちろん建築の基は実用性であり機能性である。それに加えて装飾性が追求される
縄文時代の土器でも木の実を貯えるということから発展してあれだけの装飾が生れた。
茶碗でもそもそも実用性がありやがて茶道として茶碗が芸術化したのである。
日本の茶道の茶碗は多様であり今でも地域のお土産は茶碗だとその土地のものだと感じて窯元を旅の時訪ねたのである。

岩倉使節団の一員として1871年末から73年秋にかけて欧米諸国を歴訪した久米邦武(1839–1931)が、その記録『米欧回覧実記』の中で、シヴィル・エンジニアリングと思われる語を「『シヴィル』器械」と記したことを取り上げ、近代日本の黎明期においてこの言葉を日本人が理解することの困難さを指摘した(5)。確かにここで併記さ
れている「革、靴、衣裳、家什、石鹸、蠟燭、工匠農工具、紐服飾ノ工、金銀銅器ノ細
工、印書製本ノ業、及ヒ麦粉」に比して、「『シヴィル』器械」からは何らかの実体をもつ事物を連想することはできず、久米にとって、エンジニアリングと結び付いた場合のシヴィルの意味内容が理解の範囲を超えていたことが窺える(6)

シビルエンジニアリングの概念と翻訳


文明というとき西欧文明に日本人が何を意識したかというと様々な道具や物や機械を意識した。これは職人的な見方だったのである。
ところがシビルエンジニア (Civil engineer)のcivilに注目していなかった。
そもそも文明とはcivilzationなのである。civilが中心なのである。
そして西欧の文明はキリスト教文明ということもほとんど関心がなかった。
でもヨーロッパに行けばいたるところが荘厳な教会が街の中心にある。
キリスト教文明だからそうなっている、イスラムだったらモスクが中心になる。
日本人は西欧文明というとき宗教には目を向けず実用的なものに目を向けて文明開化したのである。それは今日まで継続しているのである。
精神性がキリスト教という宗教が文明という視点が欠如しているのである。

その点日本だとかえって仏教文明とも言える時代を作っていてそこには貴族文化だという批判もあるが建築史の面から見れば精神性を追求しているのである。
奈良時代でも平安時代でも仏教建築が興隆していてそこには精神性がある。
仏像にしても偶像であるがそこに精神性を見ればそうはならない、形となった精神が仏像にはある、建築にもある、だから奈良の大仏は鎮護国家の象徴として作られその後も仏教文化が興隆したのである。
技術は仏教文明としての精神性の追求をしていたのである。

古墳は最初に日本人が共同して作り上げたものとしての意義はあるとしてもそこに何かの精神性を感じるだろうか?ただ土を盛っただけではないかともなる
まだ日本人の精神性は育まれていない、日本人の共同性は育まれたが精神性は育まれていない、それでものたりないのである。ただ大きいだけでは精神性はもちえないからだ。

ただ伊勢神宮となるとその建築に精神性をもつようになったのである。


ブルーノ・タウトによれば、日本文化の本質は、「簡潔」、「明確」、「清純」
にあり、その典型例として「桂離宮は伊勢の外宮と共に、
日本建築が生んだ世界標準の作品と称してさしつかえない」と絶賛した。

桂離宮と対照的にブルーノ・タウトが、日光東照宮について、「いかもの」であって、
「華麗だが退屈」、 「珍奇な骨董品の感じ」と非難した上で、
「建築の堕落の極致」と酷評したことはよく知られている。


日本人はもともと華美なものを嫌っていた。だから装飾がない、伊勢神宮がそれを象徴していた。簡素、質素、清楚がそこに如実に現れている
それは万葉集にある精神でもあり神道に通じているのである。
白砂の庭を下駄をはき神主が歩む、そこは神の庭なるが故に静謐であり乱されてはならない、清浄の領域であり神域なのである。

豊国の 企救の浜辺の 真砂土 真直にしあらば 何か嘆かむ 

この歌に象徴されているように素直とか直しとかの言葉は自然に融合すに調和する大和言葉なのである。
日本の古代となるとその自然は今と比べようがないほど美しかった。その光景を見たらこの自然を汚してはならないという自然そのものが神域のように見えたのである。
日本という美しい自然の中に生きることがあればその中に真直(まなお)にあれば何も嘆くことはないとなっていたのである。
だから東照宮は装飾華美であり日本の伝統とか文化とは違ったものである。
それは権力者のものであり日本の歴史伝統とはまた違ったものである。
第一徳川家康を神とすること自体がまちがっている、あくまでも一人の権力者でありそこにお参りするような場所ではない、日本は自然が特別に美しいから自然そのものか神になった。神ながらの道とは自然と共にあることなのである。

いづれにしろ建築史から見ると奈良から平安から鎌倉から武士の時代でも城でもそこに日本人の精神が現れているのである。建築に精神性がある。
だから奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代を建築史から見るとわかりやすいのである。その時代の精神が如実に現れているからである。



タグ:建築史

夏つばめ(日々行く道)


夏つばめ(日々行く道)

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川の中が放置していたら木が育ち森になってゆく
津波の跡や原発事故で荒地化したところも放置していると
森になってゆくのである、日本では草原はないのである。
だから森というのは自然そのものであり街の中に森ができたら
気持いいのである。
でも今は街の中に森がある所はまれである。
わずかに鎮守の杜(もり)というように神社のあるところが名残りとしてある。
ここの川岸も半分の木は切られている

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軽快にロードに走る夏燕

一、二、三、次々に飛ぶ夏つばめ

夏菊の朝一面に広がりぬ

老鶯の鳴く声聞きつ畑仕事


この道の木蔭の長く叢に鶯鳴くや我が日々通る


夏燕が盛んに飛んでいる、土手の道は木蔭が長くつづくから涼しいし気持がいい
木蔭というとき車だとそうした自然を感じないのである。
風も感じないから自然を詩にするときできないとなる
電車だってそうである。でも車はもう欠かせないのである。
自分は別に仕事もしていないから自転車で生活できているだけである。

ここ十年は遠くに行っていない、なんか近間を行ったり来たりしているだけである。
それでもなぜこれほど買い物があるのか?何かしら買うものが毎日ある。
だからスーパーとドラッグストアとホームセンターに毎日のように寄っている
そうして回っている内に家事をしていると時間がすぎてゆく

介護は終わったけどやはり忙しい,ただ自分の創作に作品の整理とかに時間をとれるようになった。
家の整理もあるが自分の今までインターネットに書いたものの整理がある。
それもかなりの手間なのである。
自分にはだから仕事が一人でこなせないほどある。

何か頭が回転する、頭脳が明晰になり何かわからないものがわかるようになる。
それも不思議な現象である。
本でもぱらぱらとめくっただけで何を言おうとしているのかわかる。
そしてこれが自分の文に引用できるなと今までの一方的に読まさせられているのとは違う読み方になっている
本は明らかに自分の文脈で読むとき活きてくるのである。
本でも知識は膨大でありそれに追われていたら何もできない
読んでいない本が山のように積まれている、こんな本があったのかと読み直している。
そしてほとんどの本は利用していない、ただ読んでも覚えてもいなかった。
そして積まれているだけだったのである。
ただ本を集める蒐集家になっていたのである。

人間はいろんな場所に住んでいる、他から見るとそこがどういう場所かわかりにくい、相馬藩内ならイメージできるが実地に踏んでいない場所はイメージしにくい。
写真を見ても良くわからない、自分の住んでいる所は川があり平地であり一万の小さな町である。
だから自然は豊だとなる、ただ木蔭の道が街内にはかえって今はあるが海の方に行くと木蔭がない、津波で木蔭がなくなったのである。
これが意外と困ったことなのである。暑い時強い陽ざしをうけるからである。
木蔭はやはり自然の樹とか山の陰とかなると涼しいのである。
建物の陰では暑く感じるのである。ともかく今年は春からすぐに夏になってしまったのである。




夏の日の道

川は街中をゆるやかに流れ
つばめが盛んに飛び交う
橙の夏菊が一面に土手に広がる
叢深く老鶯の鳴き
畑に老夫婦が働く
我が知る人も働く
老いて畑の実りを楽しみとす
家々の庭々は良く手入れされている
我が庭にも新しい薔薇の花が咲く
軽快に最新のロードで走る人
ここに木蔭の長い道がある
この道を日々買い物に行く
この町に生きることは幸いなのか?
たりないものが多くある
でも満たされるものがある
でもここが終の棲家なのか?
十年間遠くに行かず
この町を走り回っている





タグ:夏つばめ

2016年06月09日

地球の抽象画 (abstract earth)

地球の抽象画 (abstract earth)


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タグ:地球

2016年06月10日

原発事故に風土の影響 (風と地形の影響が大きかったーチェルノブエリとの比較)


原発事故に風土の影響


(風と地形の影響が大きかったーチェルノブエリとの比較)


放射線量の推移
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今回の原発事故は意外だったのは地形とか風とかの影響が大きかったのである。
そしてその時吹いた風の影響も大きかったのである。
この辺では浜通りでは3月11日頃になると東風が海から吹く、ただその頃は北風も吹いているし交互に吹いてくる
だからこの時期に原発事故が起きたことは時期的に不運だった
この天候の影響は戦争でも信長でも雨がふって桶狭間の戦いで勝ったとかあり勝敗を決する、人間の歴史は「天の時、地の利、人の和」この影響をまねがれない
どんなに科学が発達してもそうである。
この時東風が吹いたということが天の時が作用して悪い方に働いた。
もしもっと寒い時期だったら北風であり放射性物質は海に流れた。
すると山の方の飯館村とか福島市にそんなに影響がなかったかもしれない
山の方では浪江の赤生木とかは風の影響でその時雪がふったりして放射性物質がたまってしまった。
放射性物質を運んだ雲のようなブルームが山にあたり蓄積したのである。
それから東風は山の谷間に吸い込まれるようにして放射性物質を運んだのである。
それで飯館村は放射線量が高くなった。

そして意外だったのは福島市までも大きな影響を受けた、なぜなら事故後の放射線量を見ればわかるが一カ月くらい放射線量は低くならなかったのである。
それだけ連続的に放射性物質が流れ堆積したのである。
そして謎なのは郡山市とか白河市がそれなりに高くなっていたことである。
白河市と南相馬市の放射線量は同じである。郡山市はさらに高い
だからなぜ30キロ圏内で区切り補償金が支払われたかわからないし不満がある
別に30キロ圏内が一様に高くならなかった。
それを証明しているのが浪江の請戸(うけど)なのである。原発の煙突が見えるのに0.5
以下なのである。
そんなに低いのかとこれは驚くだろう。東風が吹いたとしても海側は半分以上が海に放射性物質は流れ低くなった。

チェルノブエリと比較するとおそらく30キロ圏内で線引きしたのだがフクシマの場合は地形が違ってるからあてはまらなかった。
チェルノブエリでは海がないから広範囲に回りに拡散したのである。ヨーロッパまで影響した。そして30キロから離れても80キロでも影響した。放射線量の高いホットスポットができたのである。
不思議なのは風の影響で一関まで放射性物質が流れたのである。一時女川の原発で高い放射線量が観察されたのはフクシマの原発の放射性物質だったのである。
それも風の影響だったのである。だから風もその時の条件でどう吹くかわからない、つまり天候とかの影響は予測不可能なのである。津波でもそうである。
それが作用するから未来は不確定なのである。

最大の勝因は「火攻め」という手段を選択し、赤壁から烏林への追い風となる東風が吹く日をじっと待ったということです。ここで諸葛亮が赤壁にある南屏山で、東南の風が吹くよう祈ったという話が三国志の中に出てきます

つくづく風の影響が大きいのである。風は実際はどう吹くか予測できないのである。

今回の原発事故では南相馬市でも山側は放射線が高かった、でも海側は低いのである。
それは極端でもあった。福島市とかは放射性物質がたまりやすい場所にあった。
つまり東風で福島市まで運ばれてその時北風も吹く時期だから今度は北風が吹いて郡山市や白河市に放射性物質が運ばれたのである。
まずなんでも風土の影響を受ける、歴史も文化も風土によって作られるというとき納得する、何か重大なことも天候とか地理に左右されるのである。

チェルノブエリとの相違はその地理にあり風土にもあった。チェルノブエリでは海藻とかからヨウソをとっていないので甲状腺ガンになりやすかったとかある。


元々日本ほど海藻類を食事に取り入れている国はなく、ヨウ素の摂取量だけをみると日本はヨウ素過剰の国と考えられています。前にヨウ素欠乏のために甲状腺ホルモンの欠乏が起こると病気になるということを書きましたが、チェルノブイリ周辺の旧ロシア地区は比較的ヨウ素の摂取が少なく、軽度ではありますがヨウ素欠乏があり、そのために事故で排出されたI-131が甲状腺に多く入ったために後遺症も多かったと推測しています。

チェルノブエリでは牛乳も飲んで内部被爆した。ヨウ素も日本とチェルノブエリでは影響が違っていた。それも風土の影響だったのである。
それにしても飯館村とか福島市は一カ月くらい放射線量がグラフで見るとわかるように高かったからヨウ素が一週間くらいしか影響しないとしても影響があった。
その時は高かったからである。
自分も何かわからず爆発したときも外に出ていたから被爆した。でも南相馬市とかは一日とか高かったがあとは低かった。海に流れたからである。
でも飯館村とかはなかなか避難しなかったことで村長が批判されている。
その時何が起きたか浪江でもわからなかったし適切な支持をそもそも国でも東電でも放射線のことを知っていても出さなかったのである。
事故を起きないとしているから事故を起きた場合の対策をしていなかった。
第一スピーディで放射性物質が流れるのをわかっていたのにそれもしなかった。
要するに国も東電も何もしなかったのである。そし浪江の人は最も放射線量が高い津島に避難したのである。これも馬鹿げたことだった。
つまり安全神話で事故は起きないのだという前提にしているから何の対策もとれなかったのである。

今になるといろいろな原発の不備が指摘されている、今の安倍首相が予備電源を確保しろという共産党の質問にもしなかった。
原発は自民党の責任が大きかった、なぜなら民主党は自民党の政策を継承していたからである。すぐには変えられないからである。
民主党の政権の時に起きたから民主党が責任を全部かぶったようになり自民党には好都合だったとなる。

「蒸気凝縮系機能という冷却システム」が備わっていたようなのであるが、それが、福島第1原発の2〜6号機では、約10億円かけて撤去されていたのである。(第10回原子力安全委員会資料 H15・2 申請者 勝俣恒久東電社長

安全が第一の原発でなぜこういうことが行われていたのか?やはりコストの関係なのか?
これも不可解でありなぜ業務上過失で東電の社長とか会長とかが逮捕されないのも解せないのである。これほどの重大事故なのに誰も責任をとらないのである。
もちろん地元を利益を得たのだか責任があったとかもなるが肝心のトップが責任をとっていないのである。
東電の幹部は外国の東電関係の会社で以前としてやめないでとどまっているというのも解せいなのである。舛添東京都知事の問題よりこっちの方が重大なのだけど問われないのが解せないのである。

でもこれもなぜ国で許可したのかという問題がある
許認可権は国にあるから国の責任も問われている
原発は国と東電が一体となってすすめられた事業である。
なぜ安全を守らねばならない国が東電のこの申し出を許可句したのか?
国の責任も大きかったとなる

つまり国の責任が当時の自民党の責任が問われるから東電の責任も問いないともなる
国が許可したことではないかと東電からは言われる,責任は国にあるとも言われるからである。
確かに最終的責任は国にあるとなる
東電より国の責任が原発では大きいとなるからだ。
そもそもこれはどういう経緯で国で許可したのか?官僚が勝手に決めたのか?、誰が許可する権限があったのかとまでなる
その責任の所在は一体どこにあるのだろうともなる
要するに権力をもつものが許認可権がありその権力を行使できる者はそれだけ責任が生じるのである。
舛添知事があれほど責任を問われるのはそうした権力を有する者だからである。
権力は常に監視していないと勝手にされて今回の事故のようなものがまた起きる
では一体誰が権力を監視するのか監視する力をもつのかというのが問題になる
それでマスコミとかも問われたのが今回の原発事故だったのである。

posted by 老鶯 at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年06月11日

グローバル資本主義やTPPの矛盾 (久々に地元のこうなごを食べた)


グローバル資本主義やTPPの矛盾


(久々に地元の小女子( こうなご)を食べた)


久々に地元にとれる小女子(こうなご)を食べてその味かみしめるかな


松川浦でとれた小女子(こうなご)を久々に食べた。松川浦でも試験の時期は終わり魚がいろいろとるらしい、放射能汚染もなくなってきている。
ヒラメまでとれるとなるとそうである。大きな魚は放射能汚染が濃縮されるとか言われてきたしヒラメなどは危険だと言われてきたからである。
何か食べものというとき記憶と一体化している、だからお袋の味とか地元の味がある
自分の父親は良く鮎とか鰻をとってきた。その時の鮎は今よりずっと大きかったしうまかった。鰻も天然だからうまかった。
何かそういう味は記憶と一体化しているのである。その味とともに昔のことがなつかしく思い出すのである。

小女子(こうなご)というときこれは天ぷらがうまかった。それはこの辺では良く食べていたし他でも別に小女子(こうなご)はとれている。
ただ地元でとれたということでなつかしく食べた。確かにカルシウムが多いというのはそうだろう。骨ごとたべるからである。
他にもホッキ貝を松川浦でとれてホッキ飯を地元のものでまた出しているという。
これまでは他から仕入れて作っていた。こうなると地元は何なのだろうとなる
ただ外から買うだけだったら地元の味もないしお袋の味でも今や惣菜を外で買っているからなくなってしまう。
ということは味からお袋を思い出すのだがそれがなくなるということは母にしても子にしても淋しいものとなる

なんか年とるとかえって味にこだわる、若いときはどちらかというと腹が満腹になればいいとなる。自分はこれまで食べ物の味にほとんどこだわらなかった。
旅行でもうまいものを食べていない、定食の最低で終わりである。
旅で費用をへらすとすると食事と宿泊費しかないからである。
だから旅で何かあれがうまかったなとか思い出すものがない、ただ一つ新潟の小出の魚野川の前の普通の食堂で食べた鮎の塩焼きはうまかった。
前の魚野川で釣りをしていてそこでとれたものである。
生きがいいしその味は格別だった、でも高いものではなかった。普通の食堂だから安い、茨城県の太子にイワヒバを買いに行った知人に久慈川の鮎を買ってきてもらったが確かに天然の鮎だったがあそこで食べた味とはまた違っていた。
旅の思い出で食べ物の記憶というときその鮎しかなかったのである。
要するにその時食べ物の味にこだわっていなかったのである。腹をみたせばいいだけだったのである。ただ味にこだわる旅となると相当贅沢になる。そんな旅を長くはつづけられないのである。
このことは外国でも同じであり外国は全くうまいものは食べていない、マクドナルドのハンパガーを毎日食べていた。なぜなら外国ではレストランは入りにくいからである。
そして高価になるから気軽に入れないのである。

食べ物から経済を考えるとき最近青森のリンゴが高くなった。それで東京辺りではニュージラント産の小さなリンゴを食べているという、ちょうどニュージランドで旬でありとれているからである。
そんなのうまくないとかいろいろ言うが食べてみないからわからない
ただ青森では今の時期はとれないからいいじゃないかという意見もある
でも何か矛盾している。青森のリンゴはすでに外国へ輸出して一個千円でも売れている。そうなると日本での値段も高くなる、そして青森リンゴは高くて食べれなくなりニュージランド産でがまんしろとなる、貧乏人はそうなるのがグローバル経済だとなる
実際に青森ではリンゴ農家は輸出して金持ちになっている家があるという
一個千円で売れればそうなる、そういうことは外国で前々から普通に起きていたことである。海老を養殖しても地元の人は高いから食べずに日本に輸出していた。
何か特別うまいものは食糧でも高く輸出できるとなると地元の人は食べずに輸出して金を稼ぐとなるのがグローバル経済である。
日本でもうまい食べ物があれば輸出して稼ぐ、でも地元の人はまずいニュージランド産のリンゴでがまんしろとなる
これも相当な矛盾である。それがグローバル資本主義なのである。

そして売るものがない国はどうなるか、女性を売る他なくなる、テレビが欲しくて自分の娘を売春させたとかラオスのことを報道していたけどそういうことは貧しい国では普通にある。
カンボジアにたむろしていた日本人もそういう人たちである。日本人だけではない世界中から来ている、カンボジアは特に貧しいからである。
しかし日本が貧乏国になるときそれがカルマとなり親が自分の娘を外国人に売るということにもなりかねない、そういう過酷さがグローバル資本主義では競争に負ければそうなる現実にその兆候が日本に現れている、観光で売り出すということは貧しい国になったということである。
つまり日本人も一時豊かなときはそうしていたのだからカルマとなり今度は外国人にそうさせられる。それがカルマとなってそうなるのである。
日本人がしてきたことを今度は外国人にされる、それがカルマなのである。

いづれにしろグローバル資本主義とかTPPは矛盾である。だからアメリカすら実は反対していたのである。それは何か変だなということである。こんな経済でいいのかという直観的なものである。それは理屈ではない、こんなことが成り立つのかという疑問なのである農家には国の税金を使いすぎているとかいろいろ批判があるのもわかる。
それなら安い食べ物を外国から買った方が税金もかからないし安上がりだというのもわかる。
ただリンゴが好きなので毎日食べているのでどうしても日本でとれたうまいリンゴが高くて食べられず外国のまずいリンゴを食べる他ないというのが納得いかないのである。
そしたら日本の味もお袋のや味もなくなる、地元の味もなくなる、そうなったら日本に生きていてもいいことないな、地元に生きていてもいいことないなとなってしまう。
愛国心も愛郷心も家族愛までなくなってしまう。
地元のものでも日本のものでも母親が料理してくれてうまいなとなりそれが記憶となる
家族愛にもなり愛郷心にもなり愛国心にもなる
自分は親を介護して以来母親の料理を食べれなくなった。
そのことも悲しいことだった。介護になってからとにかく悲しいことをいろいろ経験したその中で親の料理したものが食べられないというのは悲しいことである。
自分はそういうことに感謝しなかった。、当り前と思っていたのである。
そういうことは津波や原発事故でこの辺では当り前にあるものが失われてそのことを考えるようになった。

ともかくグローバル資本主義は矛盾であり人間的なものから離れてしまう経済である。
外国に投資していると日本の株が下がるより外国の株が下がることの方が損だから外国の株が上がった方がいいとなる、これも矛盾であり愛国心もなにもない、そこには経済の論理しかなくなる。
グローバル資本主義の矛盾は人間を幸福にするとは限らない、なに、青森のリンゴも高くて食べられなくなる、もうこんな日本に住んでいたないという感情さえ生れてくるだろう食べ物は身近な問題だからそうなる。食べ物の恨みは深いとなるのもそのためである。
そういう何か根本的に矛盾したことは果たしていくら合理的でも継続されるのか?
貧乏でもいいからせめて地元のものでも食べられてリンゴくらい安いものでうまいものを食べたいとなりグローバル資本主義はもう嫌だとかなるかもしれない、それは日本だけの問題ではない世界の問題になるのがグローバル資本主義なのである。



内なる力の実り

樹の力はその場所に動かずに根づくこと
水は大地をめぐり潤すめぐみの力
山からミネラルを含んだ水が流れ潤す
山から栄養分が泥とともに流れてくる
実りは大地と水のめぐみによりもたらされる
山の恵み、大地の恵み、海の恵み
恵みとはめぐみーめぐるである
その土地だけの恵みには限度がある
広範囲な土地土地にそれぞれの恵みがある
そのめぐみもめぐりまわらねばならぬ
分かち合いめぐりあい豊になる
ただその土地に樹のように根付くとがこ基本
樹が力強いのはその土地に根付いているから
それは内なら力のゆえに充足する
内から湧きあがる芽吹く力
竹は真っ直ぐに伸びて蕗の薹
内に充実して外の力をとりこむ
内なる力としての一つの世界
エジプト文明、マヤインカ文明は内なる力の文明
内なる祭壇をまず築け上げよ
そして外なる力をとりいれよ
そこに誠の実りがあり千年の栄が持続する



内なる実りが基本としてありそこから外なる実りをとりいれる、もし内なる実りがないとしたらただ外なる実りだけをとりいれるようなことはありえないのである。
実りというとき農業だけではない、一次産業だけではない、経済でも技術でも内なる実りがないなら豊になることはありえないのである。
芸術でも内なる実りがあって成り立つ、その土地土地に生きる糧がありその風土にマッチした文化が起こり文明が起こる、外からばかりの文明になったらそれは日本でも故郷も何もないとなってしまう。現実にそうういことが起こりかねないのがグローバル資本主義なのである。


posted by 老鶯 at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2016年06月12日

グローバル資本主義やTPPについて「心に青雲」の 主張の矛盾(2) (青森のリンゴが高くなり食べられないから考えた)



グローバル資本主義やTPPについて「心に青雲」の 主張の矛盾(2)


(青森のリンゴが高くなり食べられないから考えた)


農家に「転作奨励金という補助金」を支給するシステムにしたのは、農水省官僚と政府(自民党も元民主党も)である。

、なぜ農水省は企業や国民の負担を増やしてまで、小麦貿易に強制介入する必要があるのか。こちらの答えも単純だ。それは財源と天下り先を確保するためである。

心に青雲では官僚を常に批判している、それは同調する、日本の小麦はうまくないというときこれは本当だろう。スーパーで日本製の小麦のパンは確かにうまくない。
外国の小麦がうまいしTPPで安く輸入できるというのもわかる。
おそらくこういうことは政策中心の議論をするとデベートが必要になるだろう。
デベートすると賛成するにしろ反対するにしろ何が問題なのか争点が何なのかなどが明確になるからだ。

そもそもTPPの議論をするときグローバル資本主義を押しすすめば当然関税のない貿易を目指すことになるのだ。つまりグローバル資本主義の問題も追求することになる。
日本の農業が保護されているということは確かであるが外国でも日本以上にやはり保護されているとある。
そうしなければどこでも農業を維持できないからそうなっている

そしてここには東京とか都会と地方などの対立も関係してくる、特に限界集落などに金を税金を使う必要がないという意見もそうである。
今はインフラ整備だけでも80倍の金がかかるとかなっているからである。
東京の人が国に税金を払い地方のそうした限界集落でも支えているとなるから常に言われるである。
そうなったのは戦後十年くらいからかもしれない、その時は第一生活保護もないし地方は地方で貧乏でもそれなりにまかなってゆくほかなかったのである。
その時は都会と地方の対立もないのである。
都会と地方の格差はあっても対立はなかったとなる

富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて 大和田建樹

今高い野菜のことで田舎と都会を考える (原発事故も田舎と都会の差から作られた)

富んでいる都会のこと東京のことは知らない、この山の村で炭を焼いて独立して生活している、それで満足だとなる
こうなってれば都会の人から東京の人から文句言われなかったのである。
それは原発事故とも関係していた。原発という危険なものを地方にはいらないともなったのである。

ただそうなると現代では誰も容認しないとなる、電気がない生活など考えられなくなっているからである。炭焼きとなるとそれは原始的な生活にもどるのかとなり誰も賛成しない
でもグローバル資本主義は関税のない世界、国境のない経済を推進する、そういう社会は実際は社会全体に影響する、金が最大の力となりなんでも金がものいう社会になる、現実になっている。金のないもの死ねとまでなっている
そして借金までしてみんないい生活をしようとしている、それより貧乏になっても今や借金で維持しようとしている、事業に失敗しても以前として生活を落とせないから借金を自分に要求してくる、おばちゃんは金あるんだから金でめんどうみろとか金でなんでもまかないという社会である。金のないものは誰も見向きもしないとなる
人間の付き合いは金がかかわり金なしではなにもありえない世界となってしまっている


グローバル資本主義でTPPではアメリカが必ずしも得するわけではないから反対もしていた。むしろ日本が車を売るからかえってアメリカは損だということにもなる
そこでトランプ大統領候補は本音を言って喝采をあびたのである。
グローバル資本主義は何か詩にしたけど「内なる力」の衰退になる
それはそれぞれの国の歴史とか文化を無視して経済合理性の原理だけですすめるから矛盾してくる、その弊害も大きくなってくる、世界貿易を否定しているのではなくなにかそれが極端になっている
それが農業問題とかに顕著に現れているのである。
もちろん官僚だけが既得権を維持するためにtppに反対するとかは問題である。

でも現実問題として官僚だけの問題でもないだろう。その辺は詳しくないし自分でもデベートできるほどの知識がない、でも庶民感覚というか常識的にリンゴの問題で書いたように変だなとなる、こんなことでいいのか、何か人間として常識的にありえないことをしている、そんなことで人間が幸福になるのかという疑問である。
自分はリンゴは好きだからリンゴは食べたいとなるが他の果物はがまんしてもいいとなるただ自分は果物が好きだから本当は外国のものでも食べたいが日本が自立するなら外国に頼りリンゴまで高くなり食べられなくなるならがまんするとなる
もうそんなにいろいろなものを食べる必要があるのかともなる、もちろん自分自身も矛盾である。外国の株ではないが外国に投資しているということが矛盾なのである。
日本がだめなら外国に投資して外国がもうければ日本などどうでもいいとまでなる
もう金持ちは日本脱出だとかなる、それがグローバル資本主義なのである。

つまり国への愛着とか愛国心とか故郷への愛着とか愛郷心とかさらに家族への愛着心とか家族愛さえなくなり解体してゆく、そしてみんな孤立化してゆく、金さえあればいい、金でなんでもまかなう社会だからである。
それはグローバル資本主義をおしすすめればそうなってゆく、都会と地方の対立もグローバル資本主義と関係している、都会の人は別に国内でも外国でも安くていいものが入ればいいとなる、米すらそうである。日本人でも地方を切り離して食糧も外国から安いいいものが入る方がいいとなる
それで限界集落とか切り捨てて地方にはもう金を使わないとなる
都会では食糧は外国から買う、日本の高い食糧は買わないとなる。
地方は地方で外国に青森のリンゴを一個千円で売り貧乏な日本人には地元でも売らないとなる。
そして青森の地元の人すら「一個千円のリンゴだと買えないな、地元にいて地元のリンゴも食べられないのか」と不満になる
リンゴ農家が金持ちになっているのをうらやむ、それがグローバル資本主義だとなる。

こうして金をもうけるのが勝ち組で負け組は地元のリンゴさえ食べられなくなる
地元でもそこで仲違いになり共同体に軋轢が生じて融和しなくなる
現実に社会でも地域でも家族すらそうして解体して孤立化して最後は一人暮らしで孤死だとかなってしまう。
そういうこともグローバル資本主義と関係して起きてくる。
これはデベートすれば自分の弱点とか問題点も明らかにされる
だからいちがいには言えない問題である。
でも経済の問題でもなんでもそうだが人間は身近な問題から大きな問題にかかわる
大きなことを言われてもなかなか理解できないからである。
青森のリンゴが高くなり食べられなくなるということを知ってショックだからそれがどうしてそうなるのかというときグローバル資本主義やTPPと関係していたのである。
もちろん官僚の問題もある、ただそういうものは是正すべきである。
それでも大きな流れとしてグローバル資本主義がそうさせてゆくのである。

「心の青雲」では絶えず愛国心とか国家が強くならねばならないと説くけど日本国が日本人が東京都と地方で対立して
和がないとき国難に共同して立ち向かえるのか?
「心の青雲」の矛盾はグローバル資本主義の推進、TPPの推進でありそれはユダヤ人の支配下に入ることである。
ユダヤ人に操作されることになる、それをいつもユダヤ人が世界を操作しているというけどグローバル資本主義を推進する立場になれば
ユダヤ人を批判する矛盾がててくる
つまりグローバル資本主義は国をなくして愛国心とかもなくすからである。
いろいろ共感することがあっても対立することも見えてくる
ただなぜそうして人間が現代で対立が生まれかとなるとまず都会と地方で対立するというだけではない、職業が違えば対立することも対立する。
そういう対立があるがその対立の中で明確に見えてくるものがある。
要するに都会に住んでいること自体グローバル資本主義の推進になる、そもそも国内でも外国でも食糧は安くていいものが入ればいいとなっているからだ。
そういう国で人間がまとまるのか、和がなければ国難には対処できない、つまりそもそも愛国心とは何かとなると
愛郷心とかその国の自然に基づいた生活であり文化があり愛国心が生れる
まず国家ありきとかでは愛国心は生れないのである。それは強制された愛国心になる。
だからそういう点では「心の青雲」は矛盾している、それは根本的には東京と地方という立場の相違から起きているの出てある。
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2016年06月13日

人間はなぜ対立して戦争するのか? (現代社会は複雑で敵が見えないから陰謀論になる)


人間はなぜ対立して戦争するのか?


(現代社会は複雑で敵が見えないから陰謀論になる)


●歴史的に人間は利害で対立してきた

人間の社会ではなぜ対立が生まれのか?その対立が戦争までなってきたのが人間の歴史である。
最初は部族と部族であり猿のトーテムと犬のトーテムとかを信仰するもので対立が生じて争いになる。その対立がなぜ殺し合いまでになるのかそれは基本的には利害がぶつかるからである。動物だったら縄張り争いであり雌を得るための熾烈な争いがある。
それは本能的な争いでありそれとにたものが人間にも起きている
ただ人間の場合は集団的と集団の争いとなる、その集団と集団が争いの元になるのはやはりなんらかの利害がかかわり争いになる。
わかりやすいのは日本の戦国時代が最初に山の木材の入会権をめぐって大規模化して大名もかかわり大きな戦争に発展した。それは利害関係から争いになったのである。
水利権でも稲作は水が元だから争いになる。水をめぐっての争い旧約聖書の時代から起きている。現代までそれは継続されていて中東戦争が実はヨルダン川の水の獲得のために起きていたと分析している人もいる。イスラエルは半分が砂漠なのである。
砂漠では当然水が貴重だから争いが起きる
それから遊牧民と農耕民の間でも争いが起きる、その証拠が万里長城なのである。絶えずモンゴルなどの遊牧民が農耕民の作物をねらい襲ってくる。
どうしても牧畜民、遊牧民は定住しないから食糧が不足する、それで定期的に農耕民を襲ってくる、富めるものは襲われるのである。

その後に貿易が発展すると貿易をめぐって争いが生じる、それは熾烈な争いとなりヨーロッパで展開された。商業というのは軍隊を有していないとできないということもある。
絶えず強奪される危険にさらされているからである。商業ではやはり利害が衝突しやすいのである。スペインであれオランダであれイギリスであれ貿易をめぐって海軍で船で戦争になったのである。オランダは日本との貿易を独占した。
ヨーロッパは貿易でアジアの富を強奪したのである。戦争に勝てば敵国の富を得るから戦争になる。それが基本的に戦争の原因である。十字軍も宗教だけではない、その時イスラム国が先進国だったから富を強奪するたに起きたのである。
ともかく基本的に人間の争いは利害が衝突して起きる、この辺で原発事故の補償金でもめていると同じである。この補償金の問題は意外と深刻だったのである。
同じ南相馬市民でも不和になり協力関係が失われたのである。
だからつくづく政治は利害関係の調節こそ最大の政策とするべきなのである。
そこが公平にならないと人間の和はたもてないからである。

昔の対立はわかりやすかった、現代の対立は複雑すぎる、その複雑さは無数の職業の分化から起きてきている。これだけ職業が分化すると相手のことを理解できなくなる
それは江戸時代であれ職業が違うと異質なものとして理解不能となり伝説化した。
鉄を生産するものとか木地師などはもともと生活していた農民からすると理解しにくいから伝説化した。天狗とか何か異様なものとして語り伝えられた。
それは現代でもそうなのである。原発にたずさわる技術者は理解できないのである。
一体あの人たちは何をしているのだろうとなる。そこは秘密のベールに隠されてうかがいしれないのである。そこから大事故が起きてきたのである。
「安全神話」を作られてきたというときなぜ現代に神話なのかとなる。
それはそもそも原子力のことを普通の人は理解できないからである。
職業が違うと意志疎通ができないのである。現代の対立が生むのは国と国とかもあるがむしろ職業が違うと意志疎通ができないのである。
そして奇妙なのは国が違っても職業が同じなら意志疎通できる、科学者同士は別に国が違っても意志疎通できる、共同研究もできるし国籍はあまり関係ないのである。
一方で同じ国民でも職業が違うと意志疎通ができないのである。
だから現代がグローバル資本主義になるというとき科学の社会だというとき科学者は共同しやすいということもある、多国籍企業というときも結局世界で同じ職業の人は連帯して一つの国のように共同できる、それは国を越えたものとして共同できるとなることなのだだからグローバル資本主義は必然的に愛国心がなくなってゆくのである。

●戦争は強い者が国が必ずしも勝つとは限らない

対立というときまず都会と地方という対立がある。これも大きな問題である。それもグローバル資本主義が起きてくる。食糧を供給するのは別に同じ国内でなくてもいい、外国でもいいとなれば地方はただ都会から東京から農業でも支えねばならないとなり切り捨てた方がいいとなる。
そういうことで国内でも根本的に東京と地方は対立関係になる。一方で国家を強くしなければ外国に対抗できないという「心の青雲」の主張も矛盾してくる。
そもそも国力とは何かとなると本当にそれが軍事力なのか?経済力なのか、GDPなのかというのも疑問である。
何がその国々を支えているのか?それはやはり国民の和がなければとても戦いないだろう
「人は石垣、人は城」という言葉は現代でも生きているだろう。
太平洋戦争は経済力がないから負けたとか言われる、だからアメリカに勝つには経済力で勝たねばならない、技術力でも勝たねばならないと戦後日本は努力してきた。
でも前にも考察したが日本軍に和がなっかたというのも敗因だったのである。
日本では上官と下士官は協力していなかった。日本軍の下士官は優秀であり上官は劣っていた。下士官は愚劣な上官のために犠牲になったといわれる。
一方でアメリカは上官と下士官は一体でありそういうことがなかった。かえってアメリカ軍の方が和があったのである。日本では陸軍と海軍が争っていたしまとまらなかった。
アメリカではそうういことがなかったのである。
だからただ技術力とか軍事力か経済力で劣っていたから負けたともならない
日本には一見和があようでなかったのである。

そして戦争とは必ずしも強い者が勝つとは限らないのである。
ベトナム戦争がそれを証明した、なぜあれだけの小国にアメリカという大国が勝てなかったのか?
それはベトナムでは地下に穴を掘り芋を栽培して飢えをしのいだ。芋が短期間に成長できたからである。アメリカが負けたのはパトリシズムがありその故郷に土着して愛着して生きていたものを蹂躙したからだと言う。
アメリカは強大な軍事力でふみつぶすことができる思った。でも実際はできなかった。
アメリカの強大な軍事力が果たして有効に働いたかというとイラク戦争でも働かなかったイラクのフセインの残党がイスラム国を作ったとされるからである。
アメリカはただ中東に混乱をもたらしただけだとなる、だからイラク戦争とは何だったのかとなる、ただアメリカの一方的な強引な軍事力によって世界が混乱させられただけだともなる、つまり軍事力だけでは世界のことは解決しないのである。
それは今や中国にも言える、そしてこうした大国は内部から崩壊してゆく危機にもある
格差がアメリカでも中国でも激しいので内部で内戦のようになるとも限らない、それは日本でもそうだがグローバル資本主義は世界的に国と関係なく富む者と貧乏人とに分断してしまうからである。
つまりグローバル資本主義はそうした矛盾が頂点に達して崩壊するのかもしれない、格差が極端になりそのことが崩壊の原因になる。それは国と国の対立より問題になっているからである。どこの国でもなんでこんな格差ができるんだとなっているからである。
どうしても金持ちはさらに金持ちになり貧乏人はますます貧乏になる、そんな世界があっていいのかとなる、そういうことが世界的不満となりグローバル資本主義は崩壊してゆくまず国々が分断されて和が保てない、日本でもそうである。
TPPにアメリカも反対だというとき何かおかしいとやはり思うからである。
貿易とかは必要でも何かなんでも自由に貿易することが本当に人間を幸福にするのかとは別問題なのである。
それを日本で青森のリンゴが一個千円になり地元でも食べられないという矛盾を指摘したのである。

●現代の社会は支配する者が誰か見えない

グローバル資本主義の特徴は中国辺りだと専制的国家だと国王や皇帝その臣下が権力をにぎり極端な贅沢をする、酒池肉林とかなるからわかりやすい、そこに反感を庶民はもち革命が起きる、でもグローバル資本主義で支配しているのは得しているのは誰かとなる。
グローバル資本主義で富を独占しているものは誰なのか?
なぜその人たちに富が集まるのか?なにかそういう世界的になるとわかりにくい、それでユダヤ人どうだとか陰謀論がででくる。その陰謀論もわかりにくいのである。
日本でも経済成長をみると波があり必ず株が上がり下がる周期がある。でもその富は富裕層に流れて下級の労働者には富は分配されないと指摘している
だからこれは株価でも世界的操作されているのではないかとなる。でもそれが誰が操作しているのかはわからないのである。具体的に見えていないから陰謀論になるのである。
革命を起こすにしても例えは地主とか何か専制的国家のように権力を富をもつものが具体的に見えていればわかりやすいからそれを倒せとなる。
それがわかりにくいから具体的に見えないから複雑だから悪人が誰かわからないから革命にもならないのである。
例えは百円でも千円でも盗んだらたちまち窃盗犯でありつかまり罰せられし結構重い罪にされる、でも百億円とかもうけている人は罰せられない、この世の王として君臨できるのである。それは他人の労働を盗んだものとなっていてもそうである。
実際に舛添東京都知事があんなわずかの金で責めれているけど他に何億とかごまかしている人は政治家にいるけと責められないのである。
小さな悪は責めやすいけど巨悪になるともう人間では責められないのである。
それは闇になり不明となるから陰謀論になってしまうのである。
なぜ原発事故を起こした東電の社長でも幹部でも罰せられないのか?これもまた現代社会の大きな闇がかかわっている。
これも東電の幹部を罰すると自民党も罰せられることになるからということもある。
東電で安全を計らないことの責任は時の政権だった自民党にもあたからである。
わざわざ安全をはかるための装置を撤去することを許可したのは自民党であったということになれば問われるからである。
だから今は自民党が政権をもっているのだから罰せられないとなるのだ。

「蒸気凝縮系機能という冷却システム」が備わっていたようなのであるが、それが、福島第1原発の2〜6号機では、約10億円かけて撤去されていたのである。(第10回原子力安全委員会資料 H15・2 申請者 勝俣恒久東電社長

これを許可したのは時の政権を担当していた自民党だったのである。時の政権が許可しなければこんなことできないからである。


お金のポンプ(武田邦彦)

ここで経済のことをグラフで説明している、景気と不景気の波があってもGDPは上がりつづけりつづけている。その上がったり下がったりするのも波があり金持ちは株主はもうかる仕組みになっている、貧乏人はますます貧乏になってゆく不思議を言っている
それで陰謀論は言わないが何かおかしいと疑問をもっている、つまり誰か知らないが操作されていると感じる、株価は市場原理ではない、誰かに操作されている
その誰かがグローバル資本主義では見えないわからないのでてある。
だからいろいろな陰謀論になって終わっているのである。
何しろ一兆円とか金をもっている百兆円とかもっている会社であれ何であれあれば株価は操作できる、その操作の結果として株価の上下の波はあっても金持ち、それもやはり10億とか大きな金持ちの金は増えてゆく計算になる。
下の賃金労働者には回ってこないのがグローバル資本主義なのである。
そういうシステムに作られているのでありそのシステムの中に生きざるを得ないのだから金持ちになりたかったら資本主義のルールのなかでなれとなる
この世はいつも不公平だったけど現代ではそれがあからさま見えない、だから不満があってもぶつけるものがない、金持ちは資本主義のルールの中で企業してもうけたのだからいいではないかとなる。
でも株でも操作されて今や大金持ちだけにその金が増えてゆくというのが問題なのであるつまり資本主義のこ自由競争ではなく何者かによって操作されているということはギャンブルでも八百長だとなる、グローバル資本主義ではその八百長が見抜けないから下層のものの不満が募ってくるのでてある。
ギャンブルでもあいつが大儲けしたからと責めない、それはそういうギャンブルのルールの中で行われていて承知しているからである。でもそれが八百長だったとなるとみんな起こり暴力ざたにもなるのである。その八百長がシステム的に巧妙に行われているのがグローバル資本主義となるから批判が高まっているのである。

タグ:陰謀論
posted by 老鶯 at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

思わぬものに変化する抽象画 The abstract picture which changes to an unexpected thing


思わぬものに変化する抽象画


The abstract picture which changes to an unexpected thing



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原画(original picture)   

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one glowing mountain


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a star of oasis in the desert


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Castle of the Middle Ages

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最初は前に作った山脈の抽象画からこれらは全部変化したのである。
こんなふうに変化するのと不思議になる、独立の山はきりとって工夫して作った。
元は原画にある。

ソフトを使いこなせば,paintshopを使いこなせば抽象画が増えてくる
他のソフトも平行して使うとますます増えてくるのが抽象画である。
まず山脈の抽象画が中世の城のようになものに変化することが考えられないのである。

でも原画をへんかさせてゆくとこうなったのである。
ここに一つの抽象画の連作ができている、砂漠などがイメージされるのである。
連作として抽象画を作ると活きて来るのである。

ただ相当に操作し続けないとできないということがある
何がそれらしいものになるか全くわからないからである。
これなどが一つの原画からできるとは思えないからである。


All these changed from the abstract picture of the mountain range which I made before first.
I cut the independent mountain which became mysterious with changing in this way and devised it and made it.
The original picture has it formerly.

If it manages software, it is an abstract picture that increase more and more when other software which an abstract picture increases to if I manage paintshop is parallel and use it.
At first the abstract picture of the mountain range is that it is not thought that castle of the Middle Ages changes.

2016年06月14日

一挙に人口がへり限界集落になった原発避難区域 (介護保険でも飯館村は老人が多く福島県で一番高かった)


一挙に人口がへり限界集落になった原発避難区域


(介護保険でも飯館村は老人が多く福島県で一番高かった)


新たな額は13町村で月6000円を超し、最も高い飯舘村では8003円に。高齢化で介護給付が増えているためで、改定で額が1・5倍になった自治体もある。


団塊の世代が75歳以上になる2025年頃には、三島町を含む8町村で、保険料額が1万円を超えると試算されている。

 町の担当者は「値上げは避けられない。そもそも人口が少なく雪深い町なので在宅介護の事業者が参入しづらく、足りない。施設を建設しても人材が確保できない。非常につらい状況だ」と訴えている。

高齢化社会は過疎地域では厳しい、介護保険料は65才以上の老人が増えれば増えるほど高くなる。当然それだけ介護サービスを受ける人が増えるからである。
だから飯館村は搗き8000円は高いと思った。もともと飯館村などは収入が県で最低クラスだった。なかなか現金収入がない所だった。
それでなぜ秋田の方の山で山菜とり竹の子とりに山に入り熊に殺された事件があった。
その理由がこの辺では現金収入になるのがない、山菜や竹の子だと一日一万六千円くらいになる。これも一〇日と二十日とかつづければ結構大きな現金収入になる
飯館村なども山菜が定番として料理として食べるのが習慣になっていたというのもそうだろう。それが放射能汚染で食べられなくなったのはそこに生きる価値がないなってしまう

ともかく少子高齢化の影響が今回の東日本大震災では大きかった。農業であれ漁業であれ第一次産業は現金収入としては低い、でも農業などは毎日草取りとか手間がかかる、金もかかる、趣味でやろうかと退職した人と都会に住む人が考えるがそれも毎日草取りだけでも苦労なのである。それから種とか肥料代とかも高いから金がかかる
結局一の収穫を得るのに趣味だとかえって10倍くらいの金がかかるかもしれない
そして後継ぎがいないとかテレビで避難した人たちが帰ってきてもほとんど六五才以上の老人なのである。
では荒廃した田畑をどうしようかとなってしまう、それだけの気力もなくなってしまうのである。若い人は帰って来ないとなるとそういう所はどうなるのか?

例えば介護保険にしても老人が増えると介護保険料も高くなる、介護保険料は市町村によって違ってくる、サービスがいい市町村は高くなる、また老人が増えると高くなる
それで東京の人は介護のサービスのいい所を選ぶ
まず原発事故周辺の避難区域になったようなところは老人が多い、介護保険料も高くなるだからといってサービスが良くなるとは限らない、第一サービスする若い人が流出しているからである。
病気の老人が自宅に帰ったのをテレビで見た。あんな人が帰ってやっていけるのかとみるそもそも老人だけの街というのが成り立つのかという疑問がある。
飯館村でも葛尾村でも山村でありそこで老人だけが帰り村を支えることができるのかという疑問がある。

そして一旦補償金で暮らしたときそのまま補償金をもらいつづけたいとかなったのが老人の現実なのである。
葛尾村とか飯館村とかは復興するのは相当に厳しいと思う。
一方でなぜ小高が批判の対象になったかというと葛尾村とか飯館村よりは条件的に放射線量も低いし帰れる状態に見えたからである。
だから先に葛尾村が避難解除になっているということもどういうことなのかわかりにくい小高の有利な点は原町に近いことである。買い物でも車があれば行けるしすでに常磐線も七月に開通するとか意外と早いなと思った。
仙台までも秋には開通するというから意外と早いと思った。
常磐線が仙台まで開通すればかなり復興になる、バスだと行きにくいのである。

ともかくこの辺では少子高齢化でも何か極端な現象として現れたのである。
人口が前の五分の一とかにへるとなると極端すぎる、一挙に限界集落になったのである。そして取り残されたのは老人である。その老人が集まって未来が語れるのかとなる
なぜなら老人の語るのは過去だからである。
自分も庭作りにしても木を植えるとしても時間がかかるのは植えたくない、成長するまで死んでいるともなるからだ。こういうところに老人の特徴がある
老人にとっての時間は何か新しいことをはじめることではない、継続したことをして過去をふりかえりそれを若い人が参考にするというのが順序である。
何か新しいものを作り出すことがむずかしいのである。

ただ老人に創造性がないかというとそういうことはない、創造性でも経験の上に創造があるからだ。だから最近はじめたパソコンのソフトを操作する抽象画を出しているがこれは全く絵を描けない自分でもやれるとわかり出しているのである。
むしろ蓄積されたものが老人になると華開く、人間はなにかしら必ず蓄積したものがあるそれが若い人にはない、だからかえって創作的なものは老人の方が優れているとなる
だから老人が新しいことをやれないということはない、でもこの先十年生きるのかどうなのかとなると若い人の考えるものとは違ってくるのである。

とにかく介護というのは負担が大きすぎる、自分も認知症の介護して鬱状態になったし二人合わせて十年間もしたから相当に消耗した。
何か他のことができなくなる、それで人生の相当な損失になる、だから若い人はやるべきではない、何か他にやるべきことがあり介護したからといって何も残らないだろう。
自分の場合は人生の終わりにしたから良かったとなる、その前に旅行でも何でもしたいことをしたからである。
それでもまたたくまに人生の時間はすぎる、だからやるべきことをやらないとできなくなるし介護で時間を費やすのは無駄だとなる
だから若い人が帰らないというとき姑と一緒にいたくないとか親の介護もしたくないとかあると言われる、補償金もらって若い人は別に暮らし方がいいと考えた人もいる。
そして結局残されたのは老人でありそこはうば捨て山になりかねないのである。
それで葛尾村とか飯館村は復興するのが厳しいと思う。
小高は南相馬市でありそこで援助があるし原町が近いから葛尾村や飯館村よりはいいのである。それでも老人だけの街とかなるとどうなるのか?
若い人でも帰り子供帰っても学校はもう一校に集める、それも五〇人くらいなのか少ない葛尾村とか飯館村はもっと厳しいのである。村が存続することができるのかという限界集落に一挙になってしまったからである。

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地方消滅の罠-山下祐介


ここで守るべき場所やその意義が全軍に十分に共有されていなければならない

自分がそこにいる意味がわかってこそ兵隊は苦しさに耐えたえ逃げずに踏みとどまるのである。

この文は面白い見解である。限界集落であり原発の避難区域であれそういうことがある。何かそこに生きる意義を見いだすものは苦しくても不便でも踏みとどまる
でもその意義は何なのかとなると何か宗教的にも哲学的にもなる
そこまで考える人がいるのかとなる、だからこそ若い人はかえって姑と離れ不便な所を捨てて新しい生活をはじたのである。
ただ女川だったか若い人がここに生きる意味があると言っていたのはかえって外部からの人がその意義を見いだしていたのである。
そこに生きるとなると外から来た人だと相当な意義を見いださないと不便だし苦しいからやっていけないのである。
タグ:限界集落
posted by 老鶯 at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年06月15日

なぜ舛添知事がこれほどもちあげられたのか? (舛添東京都知事のカルマ)


なぜ舛添知事がこれほどもちあげられたのか?


(舛添東京都知事のカルマ)



一人の人物を知ることは容易ではない、不思議なのはなぜこんなに舛添知事がもちあげられたのだろうか?
これまで悪いことを言う人はいなかったし厚生大臣にもなっているのだ。
本当は彼自身の業績というのはなかったのかもしれない、東大卒だけでは業績にはならない、助教授になったということは論文を出しているからそれなりのものはあった。
東大卒では業績にならなくても学者を見るとき論文を見れば専門家から見ればすぐわかるただこの論文も自分の成果でない弟子の成果を出したりするのが普通だとかいろいろ裏があるみたいだ。
人間は人間を判断するとき分野が違うと判断しようがない、自分は文科系だから文科系のものは判断しやすい,それでも文科系でも分野が広いから法律とかなるとわかりにくくなる。相馬藩のことを調べていて学者が論文を出していたがやはり学者だなと感心した。
論文は学者の明らかな業績なのである。


舛添知事は同世代であり団塊の世代である。舛添は貧乏だったというけどその時みんな貧乏だったのである。第一物がない時代だった。電器製品は一切ない、裸電球一つであり家にあるものは飯台一つである。それはみんな同じだったのである。
その当時は物が第一ないのだから金があっても贅沢はできないのである。
だから貧乏だったからせこくなったというのは理由にはならない
ただ自分のような劣等生から見るとまず柔道二段で東大を出るということは天才のように見える、この辺で東大に受かる人は十年に一人いるかどうかそもそもいない、それだけで相当優秀なのにガリ勉とも違う、柔道二段ということは体力も優れているから普通の人ではないとみる、両方ともだめな自分から見ればそうである。
やはり人間的素質として優れているとみる

そもそも団塊の世代というのは大学に入るだけで特別なものであった。中学校のクラスで四五人しか入らない、半分は中卒で終わりで集団就職の時代だったのである。
つまり今とは違い、大学に入ること自体が特別なことだったのである。
自分などは恵まれていて勉強がだめでも私立の三流大学に入ったのである。
そういう自分などと比べると段違いに違っている人間に見える
ただそういう優秀な素質の人間でも社会で評価されるようになるのは別である。
学問と実社会は違っているからだ。

その後なぜ彼がこれほど有名になったのか?これほど持ち上げられたのか?
次の総理大臣候補とまで言われたのか?そこに謎がある。
それを彼が度々テレビに出るようになったからである。
マスコミでもてはやされるとたちまち有名人になる、実力は関係ないのである。
テレビ受けする人がたちまち内容がなくても持ち上げられるのであり有名になる
つまり有名になることとその人の実力は関係ないのである。
芸術ならどうしてもその作品から評価される、いくら有名になっても作品からみるからある完全ではないが公平になる、学者の評価も論文でありこれも完全ではないが評価の基準がある。
でもテレビで有名になったというだけではその人のことはわからないのである。
ただ有名になるというだけで何か政治家などは票がとれるので通じてしまうということが問題なのである。
だからマスコミとかテレビはいいかげんなのである。何か面白そうなタレント的なものをもちあげてその人自身がどういう人かなど関係ないのである。
テレビはタレントを大衆受けするテレビ受けする求めているのであり中味は関係ないのである。口八丁手八丁のものが選ばれるのはそのためである。


いづれにしろ自分もそうだったが六〇代以降はどんな人でもこれまでのカルマの清算を強いられる、ここ十年の介護などの苦しみを書いてきたがそれもカルマだった。
舛添知事もそうだった。これまでしてきたこと悪行というか何か過去のことがカルマとなり責められる、それが高い地位についたため過酷になったのである。
普通の人だったらやはり問われてもこれほど責められないだろう。
人間は必ずカルマを課せられている、だから推理小説のテーマが若いときの犯した過ちが尾を引いて事件が起きることをテーマにしている、どうしても若いときには過ちを犯すからでありそれが後々まで尾をひき六〇代以降清算を強いられるのである。
変な話だけど子供もたない結婚しないというのも一つのカルマである。
人間として生れたら結婚して子供をもつのが普通だからである。それをしないことは六〇代以降カルマとなる。誰も老人になって身寄りのないものとなり助けるものがいないということである。それもカルマとなってはじめて理解するのである。
カルマというのはそういうふうに自分がその業(カルマ)によって苦しみとして現れないと自覚できないのである。それが六〇代以降否応なく苦しみとして現れるから理解するのである。

ともかくどんな人もカルマをもつ、結婚して子供をもつ人もまたカルマをもつ、カルマをもたない人はいないのである。
舛添知事も女性関係で乱れていて今になるとカルマとして現れ責められている。
そもそも舛添知事がなぜ厚生大臣までなれたのか?
それが自分が介護してもいないのに介護したと本を出して自分も売り込んでいたからである。
ではなぜその時その嘘が暴かれなかったのか?
これも不思議だとなる、これまでなぜこれほどに持ち上げられていたのに一転してこれほど責められているのか?その落差が大きいから不可解だとなる
その責任は回りの人にもなかったのか? マスコミであれ舛添知事をもちあけだ政党でありこれほどもちあげたのか?ただ有名というだけで選挙に勝てるとして持ち上げたのか?
そしてわずかの金のことでこれほど責められているのか?
他にもこういうことをしている政治家はいるという、それも億の金の政治資金をごまかしている人もいるという。
要するにこれは百円とか千円とか盗むとかえってわかりつかまるようにわかりやすいからこれほど責められているのか?それでも罪は重いにしても多かれ少なかれ政治家はしていることだと言うときなぜこれほど責められているのか解せないのである。

まず自分もそうだが貧乏に育った人間はみんなせこいというより倹約家になる
浪費しないのでてある。それがせこいとはならない、庶民はみんなそうしているからである。舛添知事の場合は団塊の世代はみんな貧しく育ったからそうなる、戦前生まれだとさらにもったいないという世代である。
ただ高度成長を経験しているからその後は贅沢したのである。
人間がせこくなるというとき貧乏だとどうしてもそうなる、だから高い地位につくものは貧乏人はふさわしくないということもある。そういう地位のものは外国人を接待したり貴族的にふるまわなければならないからである。
そして貧乏に育ったものは大きな金を使えない、自分もそうだが百万とかの金を使ったことがないからなかなか使えないのである。大きな金を使うことが怖いということもある
だから自分にしてもせこいとなる、このせこいにもいい面と悪い面があるのだろう。
事業に失敗した人は多額な借金したこともあるがせこくなっていた。
自分が苦しんでいるとき何かしてやるとき金を要求してきた。
つまりも親戚とかではない、友達でもない、事業をはじめたから人間関係もビジネスであり相手が病気で苦しんでいることも相手が不利になったのだからそれでその時ビジネスになれば自分の要求が通りやすいとなる、借金するのにも好都合だとなる
相手に同情するとかそんなことは全くないのである。そんな人しか来なかったのが最悪だった。もう一人はまさに露骨に金を奪う犯罪人だった。これもふりかえれば自分のカルマだったのだろう。家族のカルマとも関係していたのだろう。
何かそうした悪いこと人間関係でもカルマがあってそうなる

人間がせこいというとき相手が病気で他でも苦しんでいるときぼーんと金があれば与えるいちいちそれで恩を売るとかはない、そんなときいちいちビジネスのようにしている時ではないからである。ただそれも余裕があったらできることなのだ。
せこいとは余裕がないからそうなる。でも舛添知事は金が余裕がない立場ではない、嫁も金持ちとしたら別荘まであるとしたらそうである。
なぜそんな小さな金をでは政治資金から使ったのかという問題になった。
そんな金を自腹で払ってもどうってことなかったろうと思う。
せこいというとき必ずしも金があるとかないとかでもなくせこいなと言われる人がいる。金持ちでもせこいと言われる人がいるからせこいというとき何か心か狭いとういことでありその人の人格的なものなのだろう。
ただ基本的にはどうしても金がないといことは今の時代は特にせこくなる、金があると大きな気持になるのである。それだけ金がものいう時代だからとをにもならないのである。

いづれにしろ舛添知事は一生のカルマの清算を強いられているのである。これはさけようがない、みんなが六〇代以降は逃れられないのである。
自分の十年間もそうだった、それによってカルマを意識させられるのである。そうでなければ何も意識しない、舛添知事も今になって自分のカルマを現実問題として過酷に意識させられたのである。
ともかく選んだ都民も馬鹿だというときそうである。ただ有名なだけで選べばそうなる
そして今度は知事選挙で四〇億、解散すると都議会選挙で五〇億とか都民が税金で支払う、それも選んだ都民にはねかえってくる。その金で他に有効に使うこともできたからである。だから選んだ都民も馬鹿だから結果的に損したとなるのが民主主義なのである。
そして政治家は信用するな、政治家は監視しろというのが民主主義である。
マスコミは監視の役目なのだがそれを全くしていないのだからマスコミは信用するなとなる、なぜならマスコミは馬鹿な大衆を洗脳するメデアだからである。
それを利用しているのが背後の様々な団体なのである。カルト宗教団体もその中に入っている。芸能関係者が創価とたいがい関係しているというのもそうである。
東電は多額の宣伝費を使って安全神話を作ったというときもそうである。その裏には電通がいて操作している、それも最近露にされた。 
マスコミとは権力の走狗なのである。だからそこで持ち上げられて有名になっただけでその人を信用したのは大衆が操作されていたということでもあるのだ。
それは民主主義が機能していないということである。インターネットがメデアとして影響を及ぼすようになれば多少変えられるのである。
ともかくこれからはテレビに出るような人間には疑問もつ、信用しない、そしてなるべくテレビを見ないようにすることである。
テレビを見るだけで洗脳されるからである。そこに出ただけで重要人物のように見えるからである。
ただ出ただけで千倍にも万倍にも拡大してみるのである。中味は関係なくテレビというメデアはするのである。
だからそのメデアの影響を受けないようにするためにはなるべくテレビを見ないことなのである。
タグ:舛添
posted by 老鶯 at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層