2016年06月01日

アイリスと夏菊(詩) (乱れた世に詩は切なる祈りともなる)


アイリスと夏菊(詩)


(乱れた世に詩は切なる祈りともなる)


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アイリスと夏菊

ジューマンアイリスに
橙の夏菊が映える
その白い清楚な花冠
光をあびて静かに咲く
ああ ここを乱さずあれ
何故に横暴な人の踏み入れ
花園は荒らされしや
ここは乱れに乱れぬ
そして今は祈りともなる
ここに落ち着きその清楚なる
アイリスと夏菊の調和して
長くもここに咲きつづけよと
それは今や切なる我が願い
そこにアイリスの清楚な白に
橙の夏菊が映える
ある家の庭を見れば
一本の松の根を下ろし
奥に紫菖蒲のひそまり咲きて
やはり夏菊が映えている
ここに穏やかな日々のあれ
いがみあい憎しみ合い
そして乱れに乱れた世
花園は踏みにじられ荒らされぬ
痛く傷つけられた心よ
踏みにじられた心よ
人はいつか定着を望む
花園に木蔭の涼しく
石はそこに影なし休みぬ
そはここに動かざれ
そしていつまでも花は
その美しさを保ち咲きてあれ
それは今は切なる祈りともなる
乱れ荒れ果てたる世となれば
人は切にそのように平和を願う
平和の尊さを知る


つくづくこの辺で起きたことは何なのか?まるで地獄だったしその継続もある
津波の被害もまさに地獄である。これも何なのかわからなかった
そして自分に起きたこともそうである。
ここで書いてきたけど信じられない異常なことも連続だった
それは金にまつわり起きたことである。
そういう異常なことが苦しみが受けると人間は変わる
ハンス・カロッサの詩は戦争を経験して書いた詩だった。
人間は戦争などを経験するとまるっきり変わってしまう
アフガニスタンの少女の願いは戦争のない平和があることが切なる願いとなる。
ただ戦争がなくなって欲しいというだけである。
その他はいろいすあってもまず戦争がなくなって欲しいというのが願いとなる

その気持がこの辺で自分の一身上に起きたことでわかる
この辺は自分でもまさに地獄だった、病気でも同情もなにもない、火事場泥棒であり津波の被害の情況と同じだった。
病気をいいことに借金を要求してきたりとさんざんな目にあってきた。
ただ非情しかない世であり人間である。
そういう経験すると人は変わる、ありふれた平凡なことが尊いものとなりその価値を知るそしてそれは切なる祈りともなる。

故郷を失った人たちもそうであり津波の被害にあった人たちもそうであり自分だと一身上に起きたことの非情である。
普通でも人間はいがみあい傷つけあう修羅だということは変わらなかった。
ただこの辺では極端なものとして全体に現実化したのである。
こういうとき花を見ているといがみあいにくしみあいはない
乱れることなく静かに光をあびて咲いている、それは当たり前のことかもしれないが
これだけいろいろなことに苦しめられ乱れるとなんと平和に咲いているのかと見る

ともかく回りに起きたことでも自分の一身上にい起きたことでも一体これは何なのだとふりかえる、そしてただ花が平和に咲いていることを切に願い祈りともなる
いつまでも乱されずに咲いていて欲しいとなる

この辺では当り前にあるものが失われた。そしてその尊さを知った。
人間はなぜこの世でこれほど平和がないのか?
それは人間は平和の価値を知らないからである。
本当に平和とか知るために天国を知るために地獄を知らねばならないとなる
なぜなら天国にいたらそれが当り前となりその価値を尊さを知り得ようがないからである地獄の対比で天国もあり天国は地獄があって輝きを増すとさえなる

地上が僕らにとって
故郷になるには
血がにじまねばならぬ
あまたの血とあまたの涙が

(ハンス・カロッサ)

戦争を体験したからこの詩が生れた、この辺も戦争状態のようだったのである。
ただ現代というのはどこまでも金でもめる。この辺で補償金でもめているのもそうである自分の一身上の苦しみも非情も金のために起きたことである。
戦争となると金というより人が死んでいるし街も破壊される
シリアのような状態になる。血がにじまねばならぬというとき戦争では人が死ぬからである。
この辺では津波では多数死んだ、それは戦争とは違っていてもにているのである。

2016年06月02日

黄菖蒲(津波の跡に海老浜に咲いた黄菖蒲の群生)


黄菖蒲(津波の跡に海老浜に咲いた黄菖蒲の群生) 


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夕べなお黄菖蒲映えて蝶眠る

黄菖蒲のあまた咲きにき海老の浜ホトトギス鳴き夕暮るるかも

海老浜になおシャリンバイ咲きにしや津波の跡に命をつなぐ


津波から五年すぎたけど以前としてその不思議さがつづいている
海老の村は家はほとんど流されていない、今日夕方行ってみたら
黄菖蒲が群生していた、なんらか湿地化して元の自然にもどる
現象があった。
そこにホトトギスが鳴いていた。
それがなんともいえぬ不思議な感覚である。

もともとの自然は菖蒲が湿地帯に群生していたのである。
それは釧路湿原などに見られる
今は菖蒲の季節である。
海老の浜の高台では三〇人くらい死んだと言われる
そこが避難場所にしたからである。
前はすぐ海であり高いから津波の避難場所になっていたのでてある。
だからこの黄菖蒲の群生しているところすにも津波がきた、
松の樹皮がはがれているのがみえるからわかる
必死にこの森に逃げて助かった人の話を聞いている

(鹿島町) - 南相馬市に合併される前に、マルバシャリンバイが町の花の指定を受けていた。(福島県)

海老の浜は自生する南限の地としてあった、マルハというのは葉が丸いからである。今は絶滅危惧種となっている
でもこの辺では庭でもいたるところに咲いている
わずかにまた咲きだしているものも見たからこれも増えるかもしれない
この辺はまだあたたかい地だから咲いた
真野の草原の万葉の歌はまさに気候的地理的に南限の地だったともなるのである。  

津波から五年すぎた海老浜の写真


津波から五年すぎた海老浜の写真


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高い防波堤はほぼ完成、

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まだ津波の傷跡がある高台

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鳥がとまっている 何の鳥か

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シャリンバイ

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都草


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大きなハウスができる、ここで野菜や果物を作るのか

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神社のあったところ

海老村は消滅している、村自体が消滅した

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右田村の方になると何もない、防波堤でさえぎられて海が見えないから景観的には良くない
盛り土をした所に木を植えた、その木が育つのは五〇年後とかなる
木蔭がないので夏は困る

海老は高台なので海が見えるのでいい、防波堤はやはり景観をそこねるのである。

津波で流された村の跡には大きなハウスが並んでいた、これは大規模でありここで農業をするのだろう

群生している黄菖蒲は津波の跡の不思議な景観だとなる
タグ:海老浜
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川の抽象画(続編)


川の抽象画(続編)


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島と潮の流れ  

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原始の川

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水紋

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大河

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海底トンネル Undersea tunnel



抽象画は何がでてくるかわからない、予想できないのである。
こんなものができたのかという作った人が驚いているのである。
それは自分のイメージで描いている具象画と違っているからである。
全く予期しないものが出てくるからそうなる

An abstract picture is the one which I cannot expect which does not know what comes out.
The person who made it whether such a thing was formed on is surprised.
This is because it is different from a representational painting drawing for a self-image.
Because a totally unanticipated thing comes out, it is so

ここにでてきたものはみんなそうである
この絵がこんなふうになるのかという驚きである。
予想し得ないものが変化させて出てくるのである。

大河というときこれは実際にアムール川などを見ているから巨大な川と激しい流れの川が現実にある
抽象画でも現実を反映したものなきである。
ただ抽象画だけからイメージされて生れるものもある
原初の川などはそうである。これを川と見るかどうかは各自の想像力による

海底トンネルはこれも意外だった
これはソフトが特殊なのでできたものである。
とにかく抽象画でも絵画でも形もあるが抽象画は特に色に魅了されるのである。
電気の光から出る色は絵の具では出せないのである。
だから新しいart(技術)なのである。

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2016年06月03日

啄木の文と自作の詩 (漢文とか漢詩の素養が詩語を豊にしていた)


啄木の文と自作の詩


(漢文とか漢詩の素養が詩語を豊にしていた) 



黄牛の草に眠るが如し。又春光野に流れて鳥初めて歌ひ、暮風清蔭に湧いて蜩ひぐらしの声を作なすが如し。未だ許さず、生きんが為めにのみ生き、行かんがためにのみ行くが如き人の、この悠々の世界に入るを。啄木、永く都塵に埋もれて、旦暮身世の怱忙追はれ、意ならずして故郷の風色にそむくうちに、身は塵臭に染み、吟心また労つかれをおぼえぬ。乃すなはち茲ここに暫しばらく閑天地を求めて、心頭に雲を放ち、胸底に清風を蔵し、高眠安臥、興を暮天の鐘にさぐり、思を緑蔭の流光に托し、風鈴に和して吟じ、雨声を友として語り、この夏中百日を暢心静居の界に遊ばんとす。我がなつかしき故山の読者よ、卿等若もし胸に一点の閑境地ありて、忙中なほ且つ花を花と見、鳥を鳥と聴くの心あらば、来つてこの埒らちもなき閑天地に我みちのくの流人と語るの風流をいなむ勿なかれ。記してこの漫録百題のはしがきとす。

閑天地 石川啄木



石川啄木の不思議は二七才くらいですでに老境の境地にあるということである。
それが天才だからそうなったのか?まず二〇代でこんな文章など書けない、そしてここに相当な漢文の素養がある。この文章が流暢で美文にしているのは漢詩的な漢字が以前として使われていることにある。
最近は何か漢字の意味が深くたずねられない、本居宣長が大和言葉の意味をたずねたように今は漢字の意味をたずねることが必要になんている。
これだけの文が二十代で書けるのは天才であったからだけど明治時代には漱石でも同じだが漢詩とかの素養があり詩語を豊にしていたのである
大和言葉だけでは詩語は枯渇する。だから詩を作るとき漢詩の素養が必要となる。
今は外国語も必要となる、でも英語が大和言葉とは一体化しない、漢字とは一体化しているのである。
それは漢字は使う日本人の歴史が長いからである。
明治時代に西欧文化の挑戦を受けてかえって日本の古来からの文化も対象的なものとして認識させられたのである。
明治時代に漢詩が一番興隆したというのもそのためである。


明治時代の人々は、陸続として入ってくる西洋の文化を大和言葉ではなく、漢語に置き代えて理解したことが多い。表意文字である漢語は、意味の伝達にも便利であり、江戸末に生を享け、各藩校で漢学を学んだ当時の知識人の共通語であった。西洋の文化を理解するにあたって、明治人は漢語を利用することによってより効率的に西洋文明を理解した。西洋の音楽に歌詞をつけるにあたっても、和歌的表現を
利用することも多かったが、漢詩文の表現を利用して唱歌の歌詞を作り、西洋の曲に合わせて歌うということも大和田建樹等の唱歌にはよく見られる傾向である。

明治唱歌による和洋中文化の融合

 明治が終わると、漢籍の素養を有する人が少なくなっていきます。その結果として漢詩は衰退の道をたどり、大正半ばには新聞からも漢詩欄が消滅。それでも無論、日本から漢詩人がいなくなったわけではなくなお、大正天皇も漢詩を好み生涯で千を越える作品を残した事が知られています。

明治は江戸時代の継続でありその継続の歴史が良く理解されていないのだ。明治維新というのは全く西欧化したのではない、江戸時代の継続として明治維新があったのである。
だからこそ「各藩校で漢学を学んだ当時の知識人の共通語であった」ということでもわかる。江戸時代から各藩でその素養が作られていたからできたことである。
漢詩をやりとりしてその意志を伝えたということもある。
それはヨーロッパではラテン語が知識人の共通語となっていたのとにていたのである。
ともかく明治が江戸時代の継続であったということを再検討すべきなのである。
明治にヨーロッパから入って来た概念や科学技術を日本が漢字を造語してとりいれた。
その数は多い、それを今度は中国で活用しているのである。日本がいち早く西欧化して中国にも貢献している。戦争のことだけを中国は言うがそれだけではないのである。
ともかく江戸時代の継続として明治があるということをみないと日本の歴史が歪められるのである。
それは奇妙だけど大正天皇によって受け継がれていたのである。
明治時代は日本のルネサンスだったのである。
啄木のようにな人間がみちのくのような辺鄙な所から生れたのも不思議である。

啄木、永く都塵に埋もれて、旦暮身世の怱忙追はれ、意ならずして故郷の風色にそむくうちに、身は塵臭に染み、吟心また労つかれをおぼえぬ

この文を二十代にして書ける不思議である。ここに都塵とかあり塵臭とかもあり漢詩的表現があってその意味を深くしているのである。
それで自分の詩にもそれをとりいれた、漢詩は韻を踏むなどめんどうなので自分は作れない、次の詩は自分の作である。こういう磐をテーマとしてすでに百編を作っている
その磐を中心として自分の世界観が形成されているのである。
故郷の風色というとき自分は確かに故郷を嫌って東京に出たのだがそのあとは隠者となりまた旅に明け暮れて終わった。
故郷の風色を嫌うというとき自分は故郷にものたりなさを感じていたのである。
あまりにも平凡すぎるからである。その自然にしてすらそうである。
だから自分は万里を旅したのである。そして遂には老いて故郷の磐ともなる
啄木の心境は青春があり老境があるという不思議なものなのである。
人間はさすがに凡人も老境になると哲学者になり平凡な人でも何か諦観を言いその言葉に重みを感じるのである。
ただ自分も二〇代で六〇代のように老成していた、外見もそうだったのである。
二十代でなんらかエネルギーを消耗したことは確かである。もともと体力がないからそうなったと言える。それからまだ生きていたのは恵まれた環境にあったからである。
まず過酷な労働を強いられたら自分は早死にしていたのである。



千歳の磐に人の影

草葎の道を閉ざして
千歳の磐苔むして
誰かここに影を落とさむ
影は深く谷間よりの涼風
微かに花のかたへに
その望みしは何そ
その生も尽きなむとす
万里を巡り故郷に還りぬ
我世事もとよりうとし
我が親は死し一人残りぬ
なべては一場の夢なれ
誰かこの千歳の磐に影を落とさむ
そもまた誠にあるものなれ
人は束の間の影なり
ただ虚しく消えゆくものなれ
そは何を成さむとして
もがき苦しむものなれ
たちまち人の消えゆくを
百歳を生きるも影なり
繁栄も幻にして消失す
都塵に消える人数限りなし
人は煙と消えて跡もなしも


この千歳の磐の写真は出した。そこから常に自分はイメージしている。
それは常にthe stone the rockなのである。a stone a rock ではないのである。

ともかくこういう心境は六〇代以降にならないと普通は生れない
啄木の場合はすでに二〇代でそうなっていたのである。
天才は早熟なのことは確かである。今になると東京の人ごみ中に交じるのも嫌になった。旅行もしたくない、人が多い所に行きたくなくなった。
何か十年介護していた結果エネルギーが消耗したのかもしれない、介護はかなりエネルギーが吸い取られるのかもしれない、だから若い人は介護などやるべきではないとなる。
人生で十年の時間の損失は大きいのである。時間がふりかえればいかに貴重なものかわかるからである。時間はたちまち消失する、若さも体力も消失する。
まず旅すらできない、旅は本当の旅人となると今はほとんどいないと思う。
ただ移動しているだけなのである。旅人となると芭蕉のように人生まで旅となる人であるそんな人は今はいない、旅するには風物に集中する必要がある。気が散ると記憶にも残らないのである。現代は都会でもそうだがそうして風物に集中しにくいのである。
車やビルや人ごみとかが多すぎるからである。自然もそこでは映えないのである。
だから風流とか詩の世界も現代では衰退した。
像でもって考えよといってもその像なる自然が具体的にイメージできないのである。
要するに日々生きる場に自然の像をもたないのが現代なのである。




進んでいる機械翻訳

关闭草〓的道
千岁的磐长苔
谁这里遗漏和samu影子
影子深深地山涧捻的凉风
微弱地像到花的人
那个期望做几so
那个纯粹也竭尽作为mu
围绕万里返回故乡nu
我世事本来疏远
我父母死一人残余nu
是一切一场的梦
谁这个千岁的磐遗漏和samu影子
so也再实在有
人就一一刹那的影子
只有空虚地消失去
so把什么作为成samu
挣扎感到痛苦
转瞬间人消失去的wo
百岁即使活一影子
繁荣也要虚幻消失
在都市的喧嚣上(里)消失的人数无限度
人与烟消失没有痕迹也也

中国語に翻訳して果たしてそのだいたいの意味がわかるものなのか?


The shadow where I'm a person in iwa in Chitose

Please shut the way to kusaritsu.
After iwa in Chitose is mossy.
Someone, here, the shadow, raku and SAMU
The shadow is deep, from a valley, cool breeze
For a floral person to pass faintly.
The, I wish, how many SO is SHI?
The draft beer also runs out and makes it NAMU.
I return to home concerning Bari, NU.
Willful worldly affairs, I'm more ignorant.
A corpse is left for my parent one person, NU.
NABE, since, dream accustoming in Ichiba
In iwa where someone is this Chitose, the shadow, raku and SAMU
There is also SO truly, experienced.
A person is the shadow of the brief moment.
I'm disappearing in vain, experienced.
SO, what, as sei SAMU.
I struggle and suffer, experienced.
I'll be a person immediately, I disappear and it's YUKU.
One hundred years old, I live, it's the shadow.
I prosper in illusion and disappear.
The number of people which disappears into the dirt and noise is boundless.
A person goes up in smoke, and, a mark and pear.

英語の翻訳の方が相当に改良している、中国語はまだそういう開発が遅れている
詩すら機械翻訳が可能な時代が来るのか?
でもこれは最高にむずかしい分野である。でも参考にはなる。
英語は普通の文章だとすでに80パーセンとくらい通じているようにも思える
相当に改良されたしこれからも改良されるから言葉の障壁が解消されてゆくかもしれないコンピュ-ターはこうした文科系までかなり影響している
要するにある点では人間の頭脳よりコンピュ-ターが優れいてることはまちがいないのである。
たから普通の文章は機械翻訳されやすいのである。多少間違っていても訂正すればいいともなるからだ。
詩となるとまず千歳の磐となると翻訳できない、これは日本語の詩語だからそうなる
詩語は翻訳できないのである。






タグ:石川啄木

2016年06月04日

様々な色のトンネル(various coloured tunnels) (色に反応する人間の感覚の不思議)


様々な色のトンネル(various coloured tunnels)


(色に反応する人間の感覚の不思議) 


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光あれというときその光は分析すれば七色にもなる
色があれということでもあった。
パソコンで抽象画を作りつづけて不思議なのは色である。
色によって人間の心は反応する、抽象画は形ではない、色である。
色の織りなす世界である。

The light had a color to become seven colors if I analyzed it concerning that at time called light that.
It is a color I continue making an abstract picture with a PC, and to be mysterious.
The abstract picture that the human heart reacts by a color is the color that is not form.
It is the world that the color weaves.

だから今回のテーマはトンネルとあるときもし現実にこういうトンネルがあったとしたら人間は感覚的にどう反応するかである。
海底トンネルだったらやはり海をイメージするから青である。それも深い青になる
植物は花でも色に反応する、そこには様々な色がありその色が脳で反応する
そして色と色の組み合わせは無限にある。
赤でも一つの赤ではない、様々な赤がある
薔薇の赤とダリヤの赤とか赤がいろいすあってもみんな違った赤なのである。
鶏頭の赤も独特なのである。

Therefore there is this theme how the human being reacts sensuously if there was such a tunnel practically with a tunnel once.
If it is an undersea tunnel, it is blue because after all I image the sea. There are there various colors to react to a color with the flower, and the color reacts to the plant that it becomes the deep blue in brain and the combination of color and colors is infinite.
Even red is the red of the rose with various red that are not one red and the red of the dahlia and the red that were different in all even if red be, and there is a chair.
The red of the cockscomb is unique, too.

ともかく現実に色のついたトンネルがあったとしたら人間の感覚はそれに反応する。
色によってトンネルが変われば要するに気分も変わるのである。
色は気分に影響しているのである。
ブルーになったとか色によって気分を現す、画家でもゴッホは黄色に強く反応していた。画家によって好きな色があるのだろう。
黄色は青と違っていて冷静なものではなく何か狂気的なものとてい結びついていたのかとなる、自分は何か青が好きである。

Anyway, the human sense reacts to it if there was the tunnel with the color practically.
If a tunnel changes by a color, in brief, the feeling changes.
The color influences a feeling.
Gogh strongly reacted to yellow in the painters who showed a feeling by a color that it became blue. There will be a favorite color by a painter.
Whether なものとてい of any insanity was tied not the thing which it is different from blue in the yellow, and is calm oneself that it is likes anything blue.

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そしてこの抽象画は何なのかとなると回りにいろいろな色があっても青が入江の深い青が中心であるそこに感覚的に集約されているのであ。深い青は全体の中でその色合いを深める 青にはそういう作用がある
赤は激情的だが青は冷静だとなる

And even if there is a various color around when this abstract picture becomes what is; leading the deep blue of the inlet blue; is collection  sensuously there. The red with such an action is like a passion in blue to deepen the hue, but, as for the deep blue, it is in the whole if the blue is calm


タグ:色の不思議

2016年06月05日

茨城県の太子町へイワヒバを買いに行く人のことなど


茨城県の太子町へイワヒバを買いに行く人のことなど


特にいわひばをよく見られる・育成が盛んなのが【栃木県】だと思います。
そして栃木に隣する群馬や埼玉でも多くの人がいわひばを育てています


近くの知人がイワヒバを買いに茨城県の太子町まで車で行った、朝五時に常磐高速道で行った。
その人は前にも書いたけど大きな岩を組んだ庭がある、あれだけの岩を用いた庭はなかなかない、それも若いとき三〇代くらいで作っているのである。
庭師は頼まず知っている人に協力してもらい作ったという
それは何か登山もできる山のような庭になっているのだ。

その人は津波が来る前はイワヒバが相当にあったがなくなった。あの庭にとイワヒバがにあうのである。
だからイワヒバを買いにわざわざ太子町で行く、イワヒバは野生のものだと断崖とか危険な場所にあるのでとるのも危険でありそれで値段が高くなる。
何か十万くらいもっていて買ってくるという。自分も欲しいので頼んだ

茨城県は山はあまりないけど栃木県とか群馬、埼玉にはある。とするとそこに太子町は隣接しているから集めて売っているのだろう。
宮城県以南にしか自生しない、福島県ではとれないものなのか?会津などは山が多いけどどうなのか?

イワヒバの特性はほとんど水をやらなくても肥料をやらなくても生きている力強さである水は最低限必要であるが肥料をやりすぎると死ぬというから高山植物ともにているのか?
イワヒバは岩に根付き岩から栄養をとっているとさえ見える
岩に何も栄養がないというが岩は土となる、土はもともと岩だとすると岩には栄養分がある、ミネラルもあり岩の多い所からとれる水はミネラルなどの栄養分が多い
それでヨーロッパの水にはミネラルが豊富である。

植物はやはり南系が多い、サカキなども宮城県が南限だとあり宮城県までが南方系なのだろう。シャリンバイ(車輪梅)この辺では南相馬市の海老浜が南限の地としてあった。
種類はマルハシャリンバイであり丸い葉が特徴である。
北方系だと北海道に自生している花である。尾瀬の至仏山頂に咲いていた檜扇菖蒲などが北海道の平地に咲いている、ハクサンチドリも宗谷岬を回ったとき雨にぬれて咲いていたのは意外だった。
相当自分は野生でも花を見てきた。その後介護で旅行しなくなってフラワーアレンジメントをするようになった。

最果ての宗谷岬へ雨しととハクサンチドリのここに見ゆかな

旅行の時はなかなか花をというものを見ても短い時間だから心に残らない、記憶されないのである。旅のときは何でもそうである。短い時間だから記憶に残りにくいのである。
それで最近気づいたことは活けた花はいつも見える食事するような場所に置くことであるそうするとその花が親しく何日か見ているから心に反映してくる。
一日くらいでは花は心に写らないのである。家でも離れているとじかにいつも見ないから心に写らないということがある。
何でもそうだが何か心に残るという時時間が必要なのである。

旅にはその時間かない、特に車などだと通りすぎるだけになる。自転車だってゆっくり見れないということがある。
人間だって親しくなるのには時間が必要である。
だから人間はつくづく時間が貴重なのである。旅でも実際は気が散りよからぬことに目が向いたりせっかくの貴重な時間を肝心のものに目を向けず終わる人も多い
旅は遊びであり気楽だというが相当に回りの風物に集中しないと何も残らないのである。自分の母親は旅行などしたことがなかった。たまたま団体旅行したがその行った場所すら覚えていなかったのである。
旅でも意外と忘れることが多い、時間をかけないから忘れやすいのである。

あなたが何に時間を費やしたが人生なのである。それが人生の終わりにはっきりと否が応でも自覚させられるのである。
そして最後は記憶をたどる旅になるし人生も回想するだけだとなる
だから人間ほど時間を無駄にするものはいないのである。
旅だとその場に一回しかいないということがある。そしたら二度とそこにいないとしたらその時間が貴重なのである。人との出会いですらそうなる
最後はみんな別れてしまうだけだとなり二度と会わないとなる。

久慈川は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)に真楫繁貫(まかぢしじぬ)き吾(わ)は帰り来(こ)む

[丸子部佐壮(まるこべのすけを)

久慈川は鮎で有名である。万葉集時代から久慈川は知られていた。大きな長い川である。そこで天然の串焼きの鮎を買ってきてもらったが一匹五〇〇円だけど価値がある
養殖の鮎はスーパで時々売っているけどうまくない、鮎は自分は好きだった
子供のとき父親が鮎をとってきて食べた、その時の鮎は大きかったのである。
今は小さいしうまくなくなった。久慈川でもきれいなようで水質は悪くなっているから鮎の質も落ちているという。
熊野川だったか鮎を焼いて観光客に売っていたけどあれも養殖の鮎だった。
数が多いからそんなにとれはずがないと思ったからだ。
記憶しているのは新潟県の魚野川の流れる小出の食堂で食べた塩焼きの鮎だった。
それは生きのいいもので身がしまり本当にうまかったのである。
それ以来すでに十年は鮎を食べていないのである。天然の鮎はそれほど貴重になってしまったということである。

幸(さけ)くあり待て・・・・今は天然の鮎が食べられる・・・その幸(さけ、さち)を待ち望むともなる、落ち鮎のシーズンだと磐城の山の川でもとれて簗場があり臨時で鮎料理を出していた。会津辺りなら天然の鮎が食べられるだろう。
でも会津にすら介護で十年以上は行っていないのである。だから旅というのも実際はできる時間が限られているものだと思った。
これだけ旅した自分でもそう思うのだから他の人はましてそうなる。自由な旅はそれだけしにくいものであったのだ。
タグ:イワヒバ

2016年06月06日

買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない (古いものが失われたことによる損失もあった)


買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない


(古いものが失われたことによる損失もあった)


家事をやるときまず何を買うかが問題になる。どういうものを料理でもそろえるのかが問題になる。
それがスーパーでもホームセンターでもそうである。そこに何があり何を買うべきかを知ることがまず第一である
そして今では小さな町の一万くらいの町でも相当な品数があり何を利用すれば最適なのかそれを知ることが肝心だとなる
家事を十年していても未だにそのことがわからない、それだけ品物が増えすぎたのであるその点インターネットだと検索で探せるから便利である。自分の欲しいものをキーワードでと探すから欲しいものがわかりやすくなる。
それがスーパーでもホームセンターでも品物がありすぎると目当てのものを探すのが大変なのである。
ただ見て回ってこんなものがあるのかということの発見はある。
インターネットではキーワードでしか探せないからである。
だから本屋に行く楽しさはいろいろな本を見て歩くことにあった。
でも地方の書店ではもうその種類が少なすぎるから書店は用なさなくなった。
今になると仙台に行くのも億劫になったから今年はまだ仙台に行っていない。
別にアマゾンで本などいくらでも買えるとなったからである。

ネット販売だと店屋めぐりとかできないし街を歩いて楽しむということもできない
地方の商店街はほとんどシャッター通りになっている
ハチンコ屋はどこにでもあり何か街自体の魅力が喪失した。
街というのは自然環境とか歴史があり成り立っていた。
相馬藩だったら城があり城を中心として各地で城下町が形成され街も形成されてきた。
通りを歩く楽しみがなくなった。仙台辺りはまだある。
青葉通りとかあり学生も多く若い人も多く歩いている
歩く楽しみがまだある。通りは自然の風光とかを感じ人が生活する息づかいを感じる場所であった。青葉通りはまさに青葉にふさわしいのである。
それで俳句とかにもした。それがビルの中に入るとそういう自然の風光とか歴史と切り離されるのである。
それはスーパーとかでも同じである。つまりスーパーなどには自然の風光とかその土地と切り離されたものである。その最たるものがイオンなどである。
街から切り離された郊外に独立して膨大な品物だけがあるという世界である。
それは車社会になって生れたものである
駐車場を旧来の街では通りでは確保しにくいからそうなった。

城下町となるとやはりまだ歴史とか風光を維持している。それで熊本城が地震で破壊されたときなんとか復興しようとしている、前にも熊本では地震で何度も城が破壊されて再興していたのである。
それはやはり城が以前として街のシンボルとして精神的支柱としてあったからである。
そうして古い街が残っているのは現代では大きな都市に限られる
京都とか奈良とか東北では仙台とか盛岡とか弘前とかである。
ただ相馬市の不思議を書いてきたけどなぜあそこに行くとしんみりするのかということである。
それは城下町だけど別に城が残っているわけでもない、でも高いビルがないということが自然の風光が映えるものとしている、街作りとして公共の会館などが入母屋作りにしているし今度建てる市庁舎もそうである。
だから城下町の雰囲気というか落ち着いたものとしている。これには反対もある。

何か確かに建物だけに金をかけているという感じになるからだ。そこに住んでいる人からしたら福祉とかその他のものに金をかけて欲しいとなる人もいる
原町の街は何か病院の街という感じがする
駅前に高い病院のビルがありそこに若い看護婦が多い、若い女性にふれられる活気が感じるのは地方では病院だというのも現代を象徴しているのか?
南相馬市立病院はビルとして一番高く見晴らしが良かった。入院していたとき海に船が行くのが見えたのである。あの辺から海が見えないからである。

買う物が増えるというとき選ぶのが容易でなくなる、自転車など今や外国をふくめものすごい数がある。変わったロードに乗っている人がいた。どこで買ったものなかのかと思う原町の自転車屋では外国製まで置いてある,ジャイアントのロードが飾ってあった
その主人は直接自転車にのって乗り具合などを確かめ客にすすめている。
そこで一台ハナソニックの電動自転車を買った、つまり何を買っていいかわからないほど自転車の種類も数も増えたから客は選ぶのに苦労するのである。
それは情報という分野でもインターネットが出た結果そうなった。
膨大な情報をどう選ぶかが問題になる、そうしないと情報に追われて時間を奪われてしまう。

だから今は新聞も読まないしテレビも見るのは限られている、今自分が力を入れているのは情報をプロクなどで発信する方である。
若いときはどうしても情報でも知識でもとりいれる方であり発信する力は弱い、年取ればやはりそれぞれに経験を積むし知識も自分のものとなってゆくから発信する方が多くなるインターネット時代になると知識でも情報でも増大するが肝心のものを読まないということもありうる、つまりくだらないものに追われて時間を消費するということもありうる
これはインターネットがないときもそういうことがあったから同じだけどその情報量が違いすぎるのである。
本が中心のときはベストセラーが必ずありそれはつまらないものでもそこに関心が集中して買う人がいたのである。それは実は全くつまらないものであっても百万部とか売れていたのである。今はベストセラーもなくなった。
出版の世界が崩壊しつつある、自分の町では一万の町ではもう書店はないし他でもそうだろう。書店はなくなることは目に見えている

本というのはまず選ぶことが本の時代でもむずかしかったし学術的なものになるとなかなか地方では手に入らないので仙台には本を買うために行っていた。
インターネットの時代になるとまずアマゾンでない本がないからいい時代である。
こんな本があったのかという驚きかある。本というのは学術的なものでも膨大なものがあった。それを知らなかったので知識を追求するには地方では相当なハンディキャップがあったのである。
それで最近詩の本を集めたりして参考にしている。他にも何か自分で文章を書くとき参考にする本をインターネットの電子本で拾い読みしてアマゾンで注文して買ったりしているだから田舎にいてなにか不便を感じないのである。

ただ書店で本を見て楽しむということがなくなった。こんな本があったのかというキーワド探せないものがあるからだ。
出版社が本の世界からインターネットの電子空間に入れないのはあまりにもその変化が大きいので入れないのである。出版の世界にはその流通から本作りまでこれまで培ったものがありそこからぬけでれないのである。
出版文化というものがあるしまた本は二〇〇〇年もの歴史があるから本というものからぬけでれないというのもわかる。
本で読むのと電子本でインターネットで読むのは何か違っているからだ。
同じ内容のものでも人間の感覚で違って感じるからである。


物が千倍増えて情報が一万倍も増えたら人間は対処できるのか、処理できるのか、そんな能力が人間の脳にあるのかとなり小説までコンピュターで作れるとなる
なぜならそこに膨大な情報があるからだ。コンピュターは処理できるからである。
人間はとても処理できないのである。知識でも情報でも無限である。
ただ知識というとき一つの世界観を形成するために知識を深めるということがある
知識というとき何か本来は生きた知識となるべきでありそれは実際の生活する場でその知識が言葉でも結びついていた。
だから自分の場合は故郷で石や岩や樹などと結びつく世界観を詩などで追求してきたのである。
エジプト文明でもキリスト教文明でもイスラム文明でもマヤ文明でも仏教文明でも日本文明でも一つの世界観があり知識もそこに総合的に集約されてきたのである。
だから時代的には日本では奈良時代があり平安時代があり鎌倉時代があり江戸時代かありと一つの世界観を構築してきたのである。文明には整合性があり調和していたのである。

明治維新もそうした伝統があって成し得たのであり西欧化したというときそういう伝統があり日本文明を維持して西欧化したのである。
日本文明があり西欧化がありえたのである。技術的なものでも西欧から入ったものの翻訳を漢字で新たに造語したとういうのもそのためである。
今知識でも何でも一つの世界観の形成ができない、ただあらゆるものがごった煮になって混沌として混乱するのである。
膨大な物でも情報でもただふりまわされているという感じになる

日本ではあらゆるものを無節制にとりいれてきたけどそれがさらに混乱に拍車をかけて
いる、日本は日本の伝統歴史を見直して日本文明を再構築すべき時に来ているのである。その一つの試みを自分は地方でしてきたのである。
それは別に外来の文明を排除することではないのである。

青葉風 (仙台の青葉通りの俳句十句ー都会と田舎が融合すると文化が育まれる)

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原発事故は人類の歴史をふりかえれば予見されていた (人類の歴史的必然として起きた)


原発事故は人類の歴史をふりかえれば予見されていた


(人類の歴史的必然として起きた)



八百万神、天安之河原に、神集ひて……イシコリドメの命に科せて鏡を作らしめ、タマノオヤの命に科せて八尺の勾玉の五百津の御頻麻流の玉を作らしめ云々」とあるは、日本に於ける分業制の最も古き記録と見るべきで、これから段々「家業」といふものが伝はつてゐる。家業とは家に伝はつた職業である。

或は初夏の「雪しろ水」を予告し、或は二百十日の暴風を予言したとすればどうであらう。心の単純な部落の全民衆はその長老を救主として神様の如く尊崇したであらう。そしてそれに自分等の持つてゐる最も善きものを捧げたであらう。かくて長老は生活のために労働もせずに専らその長じた研究に従事して益々智能を啓発したであらう。そして、その集積された学的知識は自然にその子孫に伝へられ、漸くにして特殊階級としての一家族が出来たであらう。これが或は戦争の場合の武将ともなり、又は武将と結託することにもなつたであらう。王様の起源をだづねると此くの如くである

「私の経験では、小農者は地方住民中で最善、最優なるものである。私がこゝに小農者といふのは、四十エーカー以下の地を耕作する者を言ふ。(一エーカーは約四反歩)彼等は一般に多芸多能であつて、種々な仕事に変通自在で器用である。そして是れは、狭い場所にて一切を自分で処理せねばならない処から、その必要に迫られて器用にもなり、変通自在にもならしめられる為なのである。

分業というとき神話の時代から日本でもすでにはじまっていた。例えば石器が生れたとしたらその石器を作る専門家が生れる、その方がその一部落でも効率的になるからである。でもその時は石器作りは狩猟する人も女性もしていたかもしれない、石器は単純なものだが意外と人間にとって最初の強力な道具でありその石器から人類が発展してきた。
石器に木の棒を結びつければ鍬になり矢じりとして動物をとる道具にもなる
石器の効用は人間にとって大きなものだったのである。
石器とは工業のはじまりであり人類が自然を征服するための道具として生れた。
つまり人類の発展は石器からはじまっていたのだ。
それで面白いのはヨーロッパの石器が大きかったということである。
そのことが歴史としてヨーロッパとアジアとが分かれるものとしても作用した。
石器が大きいということは殺傷能力も大きいということである。
武器としてヨーロッパは石器時代から強力なものとしてあり現代に発展したのである。
ヨーロッパの武器の歴史をたどるとアジアより殺傷能力の高いものが多い
武器に関してはヨーロッパが強力なものを作ってきた歴史がある。
大砲とかもヨーロッパから生れ城壁が役にたたなくなり歴史が変わったということもある武器はヨーロッパで早い時期から発達してきた、その歴史と連続性が現代までつづいていたのである。
なぜなら第二次世界大戦は飛行機が武器となり飛行機によって勝敗が決せられたからである。
そして核も原子力もヨーロッパで発明されてきたのも核兵器になったのも歴史的連続性の結果なのである。
何事歴史的連続性の結果として現在があるみないとどうして今日の問題が起きるのかわからないのである。

この論文でどうして支配階級が生れたのか?それは天候を予測するということ暦をもつということが知識人によって成された。その人たちがテクノクラートとなり支配階級になり国を支配することになる。
日本でも日食を予言して卑弥呼が人民を支配したという説もそうである。
科学技術はすでにそうした人民を支配する魔力をもつものとして利用されていたのである病気でももし薬草でも直す人がいたら神のように尊敬される。それが継続して医者が今でも神のようにとはいかないまでも一番尊敬われていることでもわかるのである。
ここにも人類の継続性が歴史の継続がある。
例えばエジプト文明でも書記が高い位にあったとするとそれは今の官僚に通じている。
計算するということが高度な知識でありそうなった。つまり数学の知識が大きな力を発揮していたのである。
まずピラミットは高度な数学の知識がなければ作れないからである。
そして実際はピラミッドの謎は今の高度な数学でも解きあかせないことにある。
だから神秘的なものなのである。
マヤ文明も高度な天文学が発達していて太陽が石の祭壇の上に輝くように作られていた。それでそうした計算をして作られた石の祭壇で王が君臨してテクノクラートが支配階級となったのである。

このことは原発と同じだったのである。原発を操作するのは明らかにテクノクラートだった。
なぜならこれまで考察したように東電の力は政治家よりも官僚よりも検察などよりもマスコミよりも上だったのである。
なぜなら政治家や官僚でも検察でも東電に天下りしていた。警察官僚でもそうである。
マスコミも朝日新聞ですら宣伝費をもらい原発に反対することはなかったのである。
つまり実質の支配者は権力は電気を作る東電がもっていたのである。
それは古代から継続された人間の歴史だったのである。
つまり原発の問題は現代にのみ起こったことではなかった。長い目で人類史を見れば歴史的必然のように起きたのである。
それはすでに歴史をふりかえれば予見されたことでもあったのだ。
老子が道具をもつものは道具に支配されて人間性を失うとかキリストが剣をもつものは剣で滅びるとか予言していたことでもわかる。
それは二〇〇〇年前にすでに予言されていたのである。
核をもつものは核で滅びるということになる、核で滅びるのが人類のカルマだとなる。
それは歴史的継続性として予見されたものである。
その発端が石器が作られたとき人類にはじまっていたのである。

そして分業化することで起きた問題でもある。分業が階級を作った。支配するものと支配されるものを作ったという石川の論文は納得する。
王というのはその字はもともと斧から発している、つまり斧という道具をもったものが支配者となったのである。テクノクラートが王を作り出したのである。
それは東電が国の中の国にになっていたと同じである。電気を産み出すもの、核から電気を産み出すものが実質の支配者になっていたのである。
それは歴史をふりかえれば産鉄族の歴史が古代からあり考察してきた。
日本の地名には全国的に鉄を生産することにかかわる地名が無数にあることでもわかる
そして人間の異質性の最たるものが職業の相違にあった。分業にあったのである。
鉄を生産する人は農民にとって常民にとって稲作民にとって異質なものだった。
そして鉄を生産することから公害が生れたのである。
そういう鉄の生産することから有害物が田んぼに流れたことでそれが地名化したのであるそれ木地師などもでも共通していた。その職業が元から住んでいたいた人たちに理解しにくいもの脱化らである。
それで碗貸し伝説とかそうした理解できない職業集団は異質なもの神秘的なものとして伝説化されたのである。

おそらく王権のシンボルであった鉞(エツ まさかり)を支柱に立てかけた形である。 古代の王者は斧や鉞を武器にして天下を征服したのであり、天下に王として君臨する時、自らの象徴とし得るものは、征服に際して使用した武器であった。実際に殷の遺跡から、豪華な装飾を施した儀式用の鉞がいくつか出土しているのは、この推測を裏付ける事実である

こういう歴史も民俗学でも現代とかけ離れたものではなく歴史的継続として起きたものなのである。
原発に携わるものが何なのか理解できないからである。現代は様々な職業に分化しているもう分業化によって「隣の人は何する人」になる。
田舎ですら隣の人が何している人か職業でもわからない人がふえたのである。
分業によって人間は支配するものと支配されるものに分かれ互いに意志疎通もできないものとなった、その歴史は古いのである。
原題は最も極端なものとして分業化した社会になっている、職業が違うと互いに意志疎通もできないのである。
それは鉄を生産することからすでに起きていたことである。
それが発展して原発になり地域が水も飲めない空気までい汚染されて住むことさえできなくなった。
このことはすでに鉄の生産時代から予見されていたことなのである。
東電の技術者が原発でなにをしているのか皆目理解できない。
そこには立ち入ることもできない、そこに働いている人がいてもその人たちは何もわからないのである。
つまりそこは秘密のベールにぶつつまれているのである。
周りの人は知り得ようがないものとして閉ざされたいる
だから危険も察知できないし地元の人が防衛することもできないのである。
そのことから今回のような大事故が起きたのである。






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2016年06月07日

なぜ景気が良くならないのか? (グローバル経済資本主義では格差が拡大する)



なぜ景気が良くならないのか?


(グローバル経済資本主義では格差が拡大する)


景気が良くならない、消費が冷え込んでいるのはなぜか?
高度成長時代は団塊の世代は消費力が旺盛だった。月給も毎年うなぎのぼりに上がっていった。
そしてマイホームとか車とか電器製品をこぞって買った。
その時は日本の電器製品も世界で売れていた。ブランド品だった。
消費が旺盛というときとにかく団塊の世代は数が多いから当然だとなる
その時貯金していると利子が7ハーセントとかなり20年後30年後には倍になっていたのである。
だから母親の保険金が実際は150万くらいかけていたのだが遺産としてもらうと二倍以上になっていたのである。
だから20年前とか保険金を一千万かけていたら二千万になっていたのである。
それは貯金でも同じだったのである。それで老人の一割は金をもっているとなる
ただその時貯金をしてんいない人は今になると金融資産では残っていない
つまり60で団塊の世代が退職してもその金の価値は半分になっているのだ。
なぜなら利子がゼロというよりマイナス金利になっているからである。
一千万は実際は5百万くらいの価値しかなくなってしまったのである。

人間の心理として今あるものを貯金でも減らしたくない、物でもなかなか捨てられないでゴミ屋敷になったりするのはそのためである。
例え一億円あったとしてもそれが少しでも増えないと消費したくないのである。
だから利子がつかないとなると老人でも消費に回らない、それはケチとかではない、
人間の心理なのである。
今あるものを減らしたないという人間の心理があるからだ。
貯金でもだんだん減るだけだと不安になるのである。
だから利子もつかない、マイナス金利になっていると消費しないし景気も良くならない
金をもっていても金利もつかないからかえって使った方が得だというのも通用しないのである。
もちろん不正規とかフリーターとかは金がないから消費しないのは当然だしみんな月給も上がらないのだから消費しない、株も下がると富裕層も消費しなくなる

グローバル資本主義になると労働力を安い国に求めて多国籍企業化しているから移動するすると国内ではそうした安い労働力と競争させられることになる
日本の最低賃金は時給800円とか世界でも下位なのである。
日本がそんなはずがなかったというがそれだけ中産階級も消滅して貧乏になったのであるそして機械化やit化やロボット化でますます人件費はけずられ今度は人間は機械と競争させられるのである。
機械の方が効率的であり人がいらなくなってくる
中国でも麦を刈るのが人海戦術で出稼ぎ労働でしていた。今はコンバイン一台千人分もの麦をかる、この差はあまりにも大きかったのである。
つまりコンバイン一台が千人の労働を奪ってしまった。
そして出稼ぎ労働者はコンバインが入りにくい地形の所で細々と働いていたのである。
それは田植えでも機械でできない縁を人の手で田植えしていると同じである。
機械の補佐役が人間になっていたのである。

要するに多国籍企業はグローバル経済になれば労働者すら安い国でまかなおうとする
できれだけコストをおさえるために効率的にするたに機械化する。
近くのスーパーの自動でお釣りがでてくる機械は便利である。
これは人間より正確でありまちがうことがないのである。
たまたま古銭を入れたら機械が停止したのである。
それでレジの人がその使えない古銭をとりだして直したのである。
お釣りを忘れると警告音なるから忘れることがないしレジの人とやりとりするより問題が起きないのである。
そして機械の見守り役が人間になる社会を予測した光景だった。
そういうことは社会のいろんな所で今や実際に起きているのである。
会社はコストをおさえるために機械化できることは機械化するからである。
それでこの辺は人手不足が他よりひどいから補うことができたともなる

そして人間は高度な仕事を一握りの人間しか働かなくなるかもしれない、コンピュターのソフトを作るような人は高給とりになる。医療さえコンピュターがロボットが利用されるといわれる。確かに自動支払いの機械はそうなのである。自動販売機もそうである。
でも自動販売機も会社の人が来て様々な種類のジュース類を振り分けていれるのが手間なのである。どんな機械でも何か人間の手がかかっているのである。
確かにコンピュターはある点ではまちがいなく人間より優秀である。
膨大な知識の集積ができるからである。検索するというときインターネットではそこから芋づる式につないでゆくと新たな論文が書けるとなる
なにしろこれまで研究したものでも膨大だからである。ただ本だと検索できない、一冊の本を買うとなると金もかかるしめんをとだとなる
だから将来はすべての本でも無料で検索できたら人類の知は飛躍的に発展する
本は過去のものでも今でも膨大でありとても読みきれないからである。
すると知らないことがあり知識として不十分だとなってしまうからである。

要するに社会の頭脳たるものが支配階級となり高給とりになる、それは機械とかコンピュターを操作できる人間である。ソフトを作れるような人である。
そういう人たちが社会の支配階級になりあとは非正規のアルバイトやフリーターとか安い時給で働かせられる、ただかえって弁護士とか医者とかもコンピュター化されると職を失うといういうからそういう仕事だけが影響されるのではない
要するにグローバル資本主義とか機械化コンピュター化かit化する社会は格差を階級を作る社会である。
一握りの人間がコンピュターを操作して富を集中させる、あとは膨大な非正規とかの下流の労働者となってゆく
そしてベーシックインカムなどが実際に具体化されることがスイスで起きたがとりやめになった。そんなことが国民で実際に実行しようとしたことも現代を象徴している。
一握りの人間はコンピュターを操作して社会を動かし大多数は職を失うということも未来的にはありうる、そうしたらどうして生活してゆくのだとなるからだ。

そしてまた矛盾が生れる、経済の目的は経世済民である。民を救うことである。民が職を失い豊にならないとしたら何のための経済だとなる。
一握りの富裕層が幸福になってあとは低賃金でありそれで民が幸せになるのか?
そのことは一握り一部の富裕層にもはねかえってくる。民に不満が増大して社会不安を引き起こして社会が不安定になり犯罪も増える、それで富裕層も危険になってくる。
もちろん需要も増えないから会社でも物が売れないとなり全体的に経済は停滞してゆく
こういう社会も理想を実現するかとなるとならない
そこに必ず問題が起きてくる、そしてひょんなことからその社会が崩壊したりする
人間の社会でも文明でも何か原発事故のように一見核まで操作できる知能があるのにかえってその知能の良さ故に人間が滅ぶという逆説があるからだ。
だからこういう一握りの人間がまるでコンピュターを操作して社会の頭脳化するとき危険なことにもなる、つまりなにか機械のコンピュターの不具合から原発事故のように一挙に崩壊するようなことが起きる、それが人間の宿命、カルマとなっているからである。
posted by 老鶯 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題