2016年05月18日

八木沢峠の麓ー大古林道の岩 (避難して人の住んでいない森の中の家の道の不思議)


八木沢峠の麓ー大古林道の岩 
  

(避難して人の住んでいない森の中の家の道の不思議) 

    
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子だくさん岩


屋敷林木蔭の長く涼しかな

清流の朝の岸辺に藤と岩

山の藤高みに垂れて風そよぐ

ひんやりと苔むす岩に谷の風

ひんやりと苔の常陰黒揚羽

老鶯や木立の囲みユッサの湯

庭の石ここに変わらず黒揚羽   


森の中人住む道行き橋わたる今は空家や夏になれども


橲原から八木沢の麓の大胡林道に行ってきた。 
不思議なのは途中あの辺は避難している人が住んでいない、道が一本通じていて小川があり橋をわたる、そこに家が一軒あり前は田んぼだった。
清流が絶え間なく流れてひびいているいい場所である。
その一軒の家に行く道はなんとも不思議なのである。
それはなんというか人が住んで生活していたぬくもりがあるようにな道である。
森の中や山の中の人の住んでいない道とは違う。
何よりそれは一軒の家に通じている道だからである。


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森の中の一軒の家に通じる道
この道を行けば家族がいる
アトホームである
清流がひびき藤の花が垂れている
この道はただの道ではない
家族が待っている道
家族のあたたかさに通じている道
今人は住んでいなくてもそれを感じる

この辺で起きていることは以前として不思議である。
あの辺は放射線量が高いから一部壊したり住んでいない 
住んでいなくても以前として家があるから住んでいるように錯覚する
一二軒は実際に住んでいた
だから全然人が住んでいないというわけではない
でも90バーセントは住んでいない
車がひっきりなしに行き交っているからちょっと外の人は気づかないかもしれない
まるっきり人が住んでいない避難区域とは違うからである。
人がかつて住んでいた、そしてまだ空家があり住むかもしれない、何かそこは自然の道ではない、人間的な道なのである。

大古林道は電動自転車のマウテンバイクで上った。荒れているから上りつらい、杉の木も倒れていたり例の大きな岩のある所までは行くの難儀である
ただあの岩は貫祿がある、写真に撮った三つの石は迫力がある
それから大きな岩一つにその脇に七つくらいの小さな石が並んでいた
それは写真にとっていなかったので失敗した、名付けると子だくさん岩なのである。
なかなかあそこには行けない、残念なのは花は何も咲いていなかった
春だとキクザキイチゲとか少し過ぎると延齢草が咲く、あういう場所に咲くのはなんとも神秘的である

ユッサの湯に回り休憩した、あそこは休憩場所にいい、老鶯が鳴いているというのもなにかにあっている、それでゆっくり湯にひたればいいのだがあそこの湯には入ったことがない、700円は高い、福祉の湯は300円だからである。
食事がとれるのがあそこはいい、あと畳の部屋があり寝ころべるのがいい
庭には石が変わらずある、つくづく自分は変わるのが嫌になった、人でも自然でも変わらないものがあるのがいい、年取ると変わることが精神的ショックにさえなる
だから避難した老人は辛いことは確かなのである。 
石は変わらない象徴なのである。

今回は日影の道を行ったのでそれほど疲れない、まともに日ざしを日中に受けると危険である。タオルを頭にかぶり帽子をかぶり日ざしを防いだ、砂漠の住民の恰好になるのもわかった。今年は陽差し恐怖症になっているからだ。 
タグ:苔の岩

2016年05月19日

戸籍で切れない因縁 (わずかの貯金でもめんどうになる)


戸籍で切れない因縁


(わずかの貯金でもめんどうになる)


ゆうちょ銀行の母の貯金を相続するの戸籍をそろえるのに嫌になった。
書類がたりないと言われ戸籍をわざわざ東京から郵送してもらった。
それが良くわからないので理解するまで手間どった

第一母が東京で女中で東京の人と結婚した、その人は事故で戦前死んでいるのである。
その父と妻だった母の息子も事故で死んだ。
このことが自分の異父兄弟の血縁関係が意外と因縁深かかったのである。

異父兄弟の兄は幼いとき知っている、その父親の関係は全然知らないのである。
でも兄は交通事故で死んだときこの時も交通事故の保険金でもめたのである。
母が言っていたが前の夫が死んだときも事故で死んだので保険金関係なのか会社から多額の金がでて夫側の親戚とかなりもめたことを聞いている。
何か事故ー金でもめる因縁があり自分に引き継がれたのである。

何かわからないけど前の母の夫には養子なのか変な人がいたと聞いた。
一応前の夫の息子になっているのである。その人も死んだのだが兄が交通事故で死んだときその人の墓参りしたのである。
その時本当に不気味な風が吹いて寒々しい感じになった
というより何か死んだ人がまともでないことを肌で感じたのである。

前の夫は戦前死んだのであり今は台東区になっていた。
それを郵送でとりよせるのにめんどうだった
そしてこれで終わりかとゆうちょ銀行に送ったらまた戸籍がたりなかったのである。
前の夫が今度は北区に移動していいたので転籍した戸籍が必要だという
するとまた北区から戸籍をとりよせねばならないのである。

前の夫と母の息子は交通事故で死んでその一人娘の姪子にはハンコなど押して書類を出している。だから実質的にはそもそも相続する人はみんな死んでいるからいないのである。それでもわずかの金でも相続するとなるとこれだけめんどうなのである。
ともかくそれだけではない何か母方の関係になると因縁が切れない
そこと縁をもってもってもいいことがまるでないのである。
でも最後まで戸籍で縁が切れないのである。

テレビの推理ドラマで遺産相続となると訳のわからない人まで出てくる
何かの因縁がそこであり遺産相続にかかわってくる
遺産相続となると兄弟でも殺し合うまでになる

戦前のことまでさかのぼり因縁は関係してくる、第一戸籍は江戸時代まで庶民でも普通にたどれるのである。
東京に住んでいて台東区から北区に転籍したことまでたどって戸籍が必要になる
それは死んだ人の跡をたどることにもなる、今やその人の前の夫の墓がどこにあるかもわからない、でも戸籍からその人が生きていた跡をたどっているのである。

いづれにしろ静岡で兄が事故を起こしたときもさんざんな目にあった。そのもめた相手が親族ではなく勤めた会社だったのである。保険金を欲しいということでいろいろ工作したからである。
こっちでは事情がわからないし遠いから困ったのである。
別に連絡はとりあっていたから消息不明でもない、事故の直前には自分の家にも来たのである。それが最後だった

戸籍から前の夫の養子なのか何なのか正体不明の人までかかわっている、その人の墓には一回だけ母と墓参りに行ったことも不思議だとなる
今は無縁仏になっているだろう。なんか変な奴だったと母が言っていたからである。
ともかく因縁は簡単にこのように死んでも切れない、戸籍というのは意外と証拠として残る
ただもし遺産相続でないならこんなめんどうなことにはならなかった。
銀行にあづける金は死ぬと簡単にはこのようにおろせなくなるのである。
でも不思議なのはタンス預金とかどこにか隠しておくとかすればその場所を教えればこんなめんどうなことにはならない、でも自分のように盗まれるということがあるのでこれも安全ではないのである。金というのはとにかくいろんな面でやっかいなものなのである。金に人の欲が集まるからそうなるのである。
関係ないものまで金にかかわってくる
ただ今自分の血縁関係の人はみんな死んで自分だけが残った。
それで供養するのは自分だけなのである。

先祖とか家系をさかのぼる、それはその家系が何かいいものを残しているからだろう。
その反対も多いのである。かえって家系の中で悪い因縁に苦しみその因縁が断てないで苦しんでいる人も多いのである。
因縁はいい方にも悪い方にも働くことはある、でもただ悪い方にだけ働く因縁も多いのである。
自分の母方の因縁はそうである。父方の因縁にはそういうことはないのである。

タグ:戸籍

2016年05月20日

みんなが記者になるインターネットの時代 (現場の被害よりいい写真をとることに夢中になる)



みんなが記者になるインターネットの時代


(現場の被害よりいい写真をとることに夢中になる)


現代というのはインターネットになると写真をとって即座にプログにのせることができる速報性では新聞より優れている、そして自分もインターネットで報道などしてしてすでに十年以上になる、別にこれで何も金も報酬もなにもなかった
でもなぜ夢中になるのか?金もらえるわけでもないし名前が売れるわけでもないし金銭的にも他に何も得られないのである。
それでも夢中になるのは何なのか?それは報道するということが人間の本能に近いものがあるからだ
人間は別に利益があるから何かをするということでもない、人間は何でも自然なら美しいものを見たら報告したい写真にとったらそれを見てもらいたいという願望が常にある

常にデジカメをフマホなど持ち歩いていること自体すでに一瞬の場面をとらえて報告するツールになっているのだ。
即座にインターネットにアップしてリアルタイムで報告することがインターネットの特徴なのである。
週刊誌だって三日あととかであり雑誌になると一カ月に一回だからこうした速報性はない速報性はインターネットが一番ある
そしてとてもマスコミでとらえられないものをその場その場に生活している人が報告するのに適しているのだ、その土地の事情に通じているのはそこに生活している人であり
遠くから記者として来る人ではないのである。


それで今回の東日本大震災の津波の被害や原発の被害のことを自分が報告したことは相当に効果があった。相当にプログが読まれた、3000ページビューとか今でもある、平均してそうなのだから多いと思う、割り引いてもページビューが多いのである。
最初のプログは認知症関係で多かったが次ぎには震災の津波原発事故でさらに増大した。認知症にしても自らの苦しみ実況中継したようなものだったのである。
だからこそこれも読まれたのである。その記録は今も残っている

これまではこういう個人的な体験はメデアを通してマスコミを通してしか報告されなかった。そこでどうししてもバイアスがかかりマスコミの意向が入ってきて真実が見えないということがあった
なぜマスコミを通すと真実が見えないかというとその報道する局でNHKでも編集するからその局の意向が放送に入ってくるのである。
そしてマスコミの番組作りの最大の目的が視聴率にある、どれだけの人が見ているかを番組作りで一番気にしているのである。NHKでないとどれだけ見ているかで会社の宣伝になるか決まるからである。

マスコミの問題として何か常に極端なものを例として出す、貧乏問題では極端な貧乏の人を紹介する、その極端なことが一般化するのである。
「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」
アメリカ大統領候補のトランプが大衆はニュースに飢えているから過激な言動をして大衆に訴えると自ら言っていることでもわかる
人間は当たり前のことに誰も注目しない、なぜ津波とか原発事故でゴーストタウンになったとき注目されたのかそれはあまりにも異常な状態がつづいているからである。
自分自身でも未だに避難区域で人が住んでない家のことなど不思議を書いてきた
こんなことありえないことだからニュースにもなるのである。

極端なものが常に一般化する傾向は報道にある
それはインターネットでも起きている、ある特定の人の発言の攻撃が全体に影響しているという。他の人もそのたことにひきづられている
何か人間の心理にある、西部劇でリンチするとき、一人が異常に攻撃してその人につられてみんなも感情的になりリンチを加える、人間の心理にはそういうことがある
東京都知事の舛添が批判されても仕方がないのだがなにかこの際つるし上げて喜ぶということもある。人間にはリンチ(私刑)にする心情があるから法律で客観的に裁くようにしたのである。感情的になると偏ってしまうからである。

現代人はみんな記者になるというときカメラマンになるというとき津波でもその映像をとることに夢中になっていて助けもしなかったということが反省された
衝撃の津波の映像を残そうとして目の前の人を助けなかったから反省している。
それは常にマスコミは災害現場で困っている人をないがしろにして悲惨の現場を写真にとり報告しようとしているのと同じだったのである。それが個人レベルで起きているのが現代なのである。
プログでもyoutubeでも放火してまで視聴者を増やそうとしていることがあり同じことが世界で起きている、それだ金を稼げるとなればますますそうなる、それはマスコミと同じになったのである。
どうしたらみんなが見るのかということはマスコミを腐心している、個々人でも同じなのである。
より衝撃的な映像を出さなければ見てくれないからである。

テレビドラマで火事の場面をその炎を写して注目をあびたカメラマンがいた。
その人が放火したわけではないがその時中で子供が燃えさかる炎の中にいたのである。
そして死んだのである。その時母親がそんな火事の写真を出さないでくれと生き残った息子が恐怖するからとか言ったが全くとりあわなかった。そのことで母親はそのカメラマンに殺意を抱き殺したのである。
こういうことがプロのカメラマンでなくても一般人にもインターネット時代にはスマホ時代には起きやすいのである。


美しい八沢浦が蘇ったという写真をのせて紹介したとき、その水が引いたあとには子供がどろまみれになって死んでいたのである。それを自衛隊員がどろをかきわけて探していたのである。
「前は人が子供がここで死んでいるのに美しい八沢浦が蘇ったなど言えるのか」
そういうおしかりがあったが当然だった
でも津波に関しては本当に悲惨な光景しか目にしていない、どろどろの海となりガレキで埋めつくされていた。そこに美は全く感じられなかった地獄の風景だったのである。
八沢浦は家が少ないからガレキの山にはなっていない、本当に古歌に残っている美しい入江が再現されたことに自分は正直驚嘆したのである。
ただそれは一時であり水が引いたときは泥の海になっていたのである。
朝日がさして八沢浦に浦波がきらきらと寄せてきたときほど驚いたことはなかった。
それは一時の奇跡だと思ったのである。
だからこういう場面を写真にとって残しておきたいとなるのは人間としてまちがってはいないが目の前で津波にのまれるのをみて写真にとっていたら人間的には許されないとなるだろう。

インターネット時代の報道は変わってくる、マスコミの報道とはかなり違ったものとなるその場で生活している人がその場には一番詳しいのである。マスコミより詳しいのであるただ多くの人目にふれるのはまだマスコミである。
インターネットではあまりにも多すぎて記事も埋もれてしまうからである。
いづれにしろ人間の情熱がでることにはいろいろあるが報道する情熱というものがある
その場で起きたことを伝えたいということがある
それは報酬に関係ないのである。自然の光景でもその人が見た特別なものがあったら報告して見てもらいたいとなるのである。
それが度を越すとその場で人を助けることが優先なのにその場の悲惨な状態でも写真だけをとりビデオだけとり視聴率を稼ぐ方に重点が置かれる、マスコミではそうなりやすいがインターネット時代では個人でもそうなりやすいのである。
ともかく自分は震災津波原発事故でそういう記者になっていたのである。
それは家族が認知症になったときも逐一報告していたからそうだった
それも相当に読まれたし今でも参考にされているから無駄とは言えないのである。
なぜなら認知症で困っている人が無数にいるからである。

そもそもインターネットというメデアはパソコン通信からはじまっていたから双方向が基本だった
なぜならパソコン通信の時代は相手に本当に書いたものがメッセージが伝わったかどうかわからないから確かめるために必ずレスが必要になっていたのである。レスポンスがないと伝わったどうかわからないからである。
そういう文の対話からはじまっているからそれを知らない人はなかなかなじめないということがあるがそれが普遍化して普通になってしまったということである。
特にスマホになるとそうである。そこに誤解が生れて事件にもなった。
相手が見えない文だけだとそうなりやすいのである。
ただプログとかなるとただ一方的に書くメデアとなってしまった。その反応はレスより数で決まってしまうのである。

「心の青雲」は毎日読んでいる、ただ著者はレスは罵詈雑言とかあり拒否しているのもわかる、パソコン通信とか2ちゃんねるのノリでやられるとつきあえないとなる
ただその目的がおとしめるだけのものがあるからだ。
「おめえ、傷口に塩ぬって楽しいか」かとか発言されたら答えようがないだろう。
礼儀もなにもない、ただおとしめるだけにだけ発言する人には答えられないというのは当然である。
でもパソコン通信ではその後もインターネットではそれが普通だったのだから異常だったとなる
年も何もない、おめえはなとか言われて来たらどうなるのか?
それだけインターネットの空間の異常性が浮き彫りにされたのはインターネットの世界が普通の社会の感覚になったということでもある
ただレスがないとインターネットの発言が活きにくいということはある。
心の青雲の趣旨には全部が賛成しにくいにしろそこに対話があれば面白いと思う
でもなかなかあそこでは対話しにくい、そういう雰囲気がない、ただ一方的発言になる
それは今は自分でもそうである。

小林秀雄の文章も大嫌いで読めたものではない。谷沢永一氏はこう評した「当たり前のことに勿体をつけ、反り返るような姿勢で絢爛たる字句を操作する名人でした」と
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/437408581.html(生理的に受けつけない文章)

小林秀雄の表現はもったいぶっているとかわざとむずかしくして煙にまくという感じになる。
でも有名だからそれを言うとお前にはそれだけの読む力がないんだとなり黙っている
自分もあの文章には生理的に受け付けない、それを正直に言う人がいてやはりそうかとなる。
でも普通はお前には小林秀雄はわからない、それだけのものだということを思われるのが嫌だあからさまに言わないのである。
「心の青雲」は中味が濃いから相当に対話することがある、内容を対話して深めることができる、ただどうしても極端な発言があるから普通の人は対話しにくいのである。
そしてそれだけ反論するとなると容易ではない、2チャンネルとかパソコン通信のレベルでは対話できないと思う
いづれにしろインターネット時代はみんなが地球的グローバルに記者になった時代であるマスコミの時代は終わった、マスコミも常に批判の対象になるのである。


八沢浦が元の美しい入江に戻った!(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)

抽象画(流れー続編)ーラベンダーの丘



抽象画(流れー続編)ーラベンダーの丘

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ラベンダーの丘というのは素材にあったものを変えた゛今回の元ととなった絵は123RFという有料のサイトから変化させた。
本当は有料だから許可が得る、でも何かなんでも変化させても抽象画になるとは限らない抽象画になるのは本当に偶然である。

そして抽象画の鑑賞でも具象画をイメージしないと鑑賞できない
今回のportcityは港町をイメージしないと何かわからないからだ、鑑賞できないのである
他は流れの続編だが多少平凡化している。
ラベンダーの丘は具象画的になっているから成功したかもしれない

ともかく抽象画の元になるのは無限にあったとしてもみんなが抽象画となるわけではないいくら変化させてもならないものはならない、なるものは一発でなることもある
その理由は良くわほからないのである。
ただこれもマンネリ化するかもしれない、なんか同じようなものだとあきられるかもしれない、結局あきるとしたら自分が創作に飽きるのである。

2016年05月21日

ニュースも地理がわからないと理解できない (車のナンバーから地域を見るー舛添氏は湘南ナンバーと品川ナンバーの車をもつ)


ニュースも地理がわからないと理解できない


(車のナンバーから地域を見るー舛添氏は湘南ナンバーと品川ナンバーの車をもつ)


1位に輝いたのは「品川」で、調査対象のうち12.4%の支持を集めた。港区や中央区、千代田区など東京でも特に地価の高い区域を擁するせいか、「都会のイメージでかっこいい」「外車が多い気がする」など、お金持ちなイメージの「品川ナンバー」に憧れを持つ人が多いということがわかる。

 2位は「湘南」(支持率8.6%)。平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市ほか神奈川県西南部を対象としたナンバーだ。神奈川というおしゃれなイメージに「ハマっ子のイメージがかっこいい」 という声のほか、「湘南ナンバーをつけたオープンカーで海沿いを走ってみたい」といった声が寄せられた。

 3位につけたのは「富士山」(支持率5.0%)。ご当地ナンバーの代表格に挙げられるが「日本一の感じがするから」「レアな感じだから」「2県にまたがる初のナンバーだし、日本を代表する山だから」といった声が寄せられ、これぞ日本というイメージか。


車もっていないから車のことがわからないけどこの辺で震災以後原発の除染などで全国から人が集まっている
それで気になったのが車のナンバーなのである。面白いから必ずどこから来ているから見ている
確かに湘南は何回か見かけている、自分は湘南のことはわからない、ただ湘南というときなにか東京の別荘地とかのイメージがある。実際に湘南は何かそうした高級な遊び場としてあるのだろう。
地理的には鎌倉から江ノ島から海岸沿いに湘南があり小田原があり湯河原がある
この辺は海があり富士山も見えるし東京の混雑した地帯と違っていい場所なのである。
鎌倉は歴史の街でもあるからこの辺は観光地にもなる、小田原も海が近くて箱根山があり桜の季節に行ったときは城がありいい所だった。
つまりこの辺のことをイメージできることが大事なのである。

舛添東京都知事の妻が湯河原だったというとき湯河原はどこだと思った、小田原のとなりとなると結構遠いと思った。小田急のロマンスカーで小田原まで行ける
それには乗ったことがない、学生時代にその沿線に住んでいたけど旅行にその時興味なかったのである。
湯河原に舛添知事の別荘があったということは納得がいく、東京とは違いあの辺は前が海であり江ノ島辺りからは北斎の浮世絵で有名なように富士山も見える
「湘南ナンバー」の車を舛添知事をもっていたし品川ナンバーの車ももっていたとなる最もステータスの高い地域の車のナンバーをもっていたとなる
それも何かクラスの高いものをもつことに執着していたからだともなる、ただたまたまそうなったとのだろう。

要するにニュースでも地理がわからないと何かあっても理解できない、湯河原はどこなのだと最初わからなかった。小田原の隣なのかとなるとイメージできる
東京からは結構離れているなとみるし海に面しているから景色がいいとなる
石原慎太郎でもそうだが湘南というとき大金持ちはヨットをもっていたりする。
東京には金持ちが多いから湘南というときそういう金持ちの遊び場になっているのだろう

「湘南ナンバーをつけたオープンカーで海沿いを走ってみたい」

そういう金持ちの家の若者が遊ぶ場として湘南がある。この辺だと仙台市に金持ちがいる海の方に家を別荘など建てた人がいたかもしれない、でも津波で流されてしまった。
自分の近くにも別荘をもっていたが売りに出されていた。それが津波で流されて何にもなくなってしまった。1200万で売り出していたが一文にもならなかった。

ともかく日本全国だとたいがい実際にその場に行っているから話を合わせられる、つまり話を合わせるのにはも地理を知らないと合わせられないのである。
三陸で働いていた人が空が狭いとか何か狭さを言っていたが三陸だと後ろが山であり前が海だからそうなる。それもその地理を知らないと話が合わせられない
そういうことはいくらでもある、ニュースでもそこで起きた場所の地理を知らないと理解できないのである

それは世界でも同じであり世界となると広いからどうしても地理的に理解が欠けることが余計にわかりずらくするのである。
シリアってどこなんだとかなり地図を見てわかったようでもわからない、なぜあそこであんな悲惨なことが起きたのかということが理解できないのである。
世界史でも基本的に地理がわからないと理解できない、なぜイギリスがて夏の海を支配したのか、小国のオランダが世界的に進出できたのか?
オランダはニシン漁で船が改造されてそれで船の建造の技術が発達して海に進出して貿易国となり栄えた。そもそも海に面していたことが地の利で有利になりそうなった。
そうでなければあれだけの小国なのだから栄えることはできないのである。
世界史は基本的に地理からみればその基礎的なものは理解できるのである。

原発事故でもなぜ福島県の大熊とか双葉に建てられたかとなると地理的なものが要因となった。あの辺はもともと余の森という相馬藩では開墾されていない森や野だったのである余の森とは相馬藩主の余の森ということで岩城氏と争っていた地帯である。
大野と広野とかあるのもそのためである。
それは前の原町市とかいわきの前の平市からも離れているから反対がないということで建てられたのである。東京からも離れていて放射線の影響がないということで建てられたのである。

鎌倉から江ノ島から茅ヶ崎、小田原、湯河原そして熱海となる、この辺は東京に接していい場所だとなる、金持ちも多いということである。

江ノ島や茅ヶ崎に見て秋の暮

イメージして作った句だが茅ヶ崎は江ノ島が見える、あの辺は江ノ島が中心的になり孤を描いている

それから意外なのは

湯河原で2・26事件の舞台となった「伊東屋旅館」です。

伊東屋旅館は国の夕景文化財にも指定されている、歴史のある旅館です。
事件当時、前内大臣の牧野伸顕が、家族や付き人と共に宿泊していました。
牧野伸顕氏の家族は、別館「光風荘」におり、そこで牧野伸顕は青年将校の襲撃に遭います。

伊東屋旅館は、文豪・島崎藤村ゆかりの地でもあり、遺稿やゆかりの品を見ることもできます。

ここは文人が集まる別荘地がもともと多い場所だったのである。だからこそ要人の別荘もあり事件が起きたという因縁がある
ただ舛添知事の場合は妻が湯河原でありその縁で別荘を建てたとなる

ともかくこの辺では除染とか工事関係で全国から来ているから車のナンバーが気になる
「富士山」のナンバーは目だっていた、その人に話しかけたら富士山を毎日見ていると言っていた。きれいに富士山が見える場所に家があると言っていた。田からうらやましいと思った。
今はなかなか車の人と話しにくい、車は閉鎖された空間なのである。
ただ車のナンバーからその地域がわかりそれが話するてがかりとなり安いのである。

それでも品川ナンバーを見た記憶がない、もしかしたら一回くらいあったかもしれない、東京都にもいろいろあるとするとそれも全部は見ていないから品川だけが特別見ないとはならない、東京は地域的にわかりにくい、ともかく富士山となるとわかりやすいし他でも湘南なら一地域でわかりやすいのである。

この辺では原発事故後いわきナンバーが嫌われた。それは大熊とか双葉であるがここはいわきナンバーだったのである。浪江もいわきナンバーなのである。ナンバーを見て傷つけられることもある。
地域がわかるからである。でも福島ナンバーとなる南相馬市から相馬市とか中通りとかずいぶん広い、福島県はいわきナンバーと福島ナンバーと郡山と会津ナンバーに分かれている
福島ナンバーの範囲は広い、これだと地域でもわかりにくい、いわきとか会津だと地域が特定しやすいしわかりやすいのである。
福島ナンバーに浜通りが入っていることがわかりにくいとなる

全国的に岩手県が平泉ナンバーになっているのは観光のためだろうか?富士山とかもそうである。一般的に地域的には県単位で三つとか四つとか少ない、その地域を車のナンバーからはわかりにくいのである。ただ目安はできる、東京だって七つの地域に分かれているだけである。
宮城県は一番みかけるが宮城と仙台のナンバーしかない、ということは仙台市以外は宮城のナンバーなのである。仙台というナンバーはこの辺では一番目につくのはわかる。

この辺でボランティの人が津波の被害のとき来たけど「京都ナンバー」は目だったの記録した。やはり車はまず地域に注目するのである。

日本のナンバープレート一覧

posted by 老鶯 at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年05月22日

生活保護は富裕層の安全のためにある (格差社会では富裕層は危険になる)



生活保護は富裕層の安全のためにある


(格差社会では富裕層は危険になる)


入所受刑者にかかる税金からの支出額である。ニューマン氏の見積もりによると、1人当たり年間380万円かかっているという。その他にも、取り調べや訴訟、移送などにかかった分として30万円が想定されるという。さらに高齢者の場合は収容中の医療費も必要になる。合計して、高齢者受刑者1人当たり420万円、と算出しており、これは福祉制度を通じて得られる可能性のある金額よりもはるかに大きい


生活保護は何なのかわからなかった。底辺層とつきあうと生活保護と必ずかかわる、それも現代的な問題である。
生活保護は突然の病気とか何か思わぬことで失業したりしたときのセーフティネットとされる。
何かみんなもそう思っている、一方で生活保護はなまけものであり働けるのに働かないものがなっているという批判もある
生活保護の人もいろいろいるからわからない、でも老人でないならたいがい働いているのである。働いても半分くらいは引かれているし収入にならないようになっている。
つまり生活保護なのにその上働いて収入になったら他の人から批判がでる
みんな生活保護もらって働いて収入になればいいとなるからだ

生活保護がそもそも何のためにあるのか?それは確かに病気とか何か不慮の事故とかありそのために一時的に援助するためにあるとなっている。
でも本当は生活保護はそのためだけではない、今日のテレビ討論でタックスヘイブンのことを言っていたけど富裕層は安全な社会があってもうけることができる、アフリカとかソマリアとかでもうけることができるますかと問われた、治安が良くなければ富裕層にはなれないのである。なぜならそういう人は襲われて殺されたり普通にあるのが治安の悪い国である。
ブラジル辺りでは金持ちから盗むことを悪いと思っていない、当然だと思ってしている。貧富の差が激しい国ではそうなる、泥棒にも三分の理があるというとき社会格差が常にあったから江戸時代でもそうである。

要するに今のように格差社会になると富裕層は危険な状態になる、自分は別に富裕層でもない、でも犯罪にあったのは今老人は経済的に苦しい立場に置かれている、まず国民年金では暮らせない、平均して厚生年金でも15万というときそれでもぎりぎりなのである。
いろいろ引かれるからそうなる、すると老人の犯罪が増えるのも高齢化社会で増えたのだから当然だとなる
犯罪を犯して刑務所に入った方がいいとわざわざそうする人もいるというのもわかる。
それだけ追い詰められているのである。
生活保護を受けるとなるといろいろめんどうになることもある、特に男性はむずかしくなる。すると刑務所に入るのが手っとり早いとなる。

生活保護をみんな批判するけどなまけもので働かない奴などととしている。
それもあるが結構真面目に働いても生活保護の人がいる。なぜ働いているのに生活保護になっているのか?
その人はなまけものではない、でも夫に恵まれないとか障害者の子供をもったとかなんらかで生活保護になった。その人はなまけものではない、生活保護になった人はいろいろでも別になまけものだからなったとは限らない
要するに格差社会とはいくら懸命に働いても格差は縮まらないのである。だから階級化した社会とか言われる、貧乏人の子供はいつまでも貧乏人であるとか不満になる。
それを今タックスヘイブンとかで富裕層が批判される
富裕層がもうけられたのは治安がいい社会があってこそでありそのために社会的コストを支払うべきだとなる
富裕層でそれを真剣に自覚している人は意外と少ないのである。


格差社会になると富裕層が本当に危険になる、アメリカでは極端だから富裕層だけが集まり住んで治安を守る街が生れる、富裕層は常時危険にさらされるているのである。
生活保護は何のためにあるのか?基本的には病気とか不慮の事故とかのために安全を確保するためにあるとかなるが実際は違う。

富裕層の安全を守るために生活保護がある

生活保護とは
「あなたには最低限生活する金を与えますから犯罪を犯さないでください、私を襲わないでください」ということなのである。
そのことを富裕層は自覚していないのである。
自分も富裕層ではないのに襲われたから怖いと思った。
そういうふうに刑務所に入った方がいいと思う人が困窮した人たちが増えている、老人でもそうである。それで新幹線で年金で生活していけない自殺した人もいたことでもわかる国民年金くらいでは生活できないからである。
生活保護でもいろいろあり地方だと一万しかもらえないとかもある。年金をわずかでももらっていて生活保護が二万とかもらえないが
医療費とか福祉関係は無料だという人もいる、まず地方では生活保護は子供でもいない限り本当に最低である。

だから格差社会が固定化してゆくと富裕層は危険になる、太宰治の実家は大地主であり小作に襲われることを恐れて高い煉瓦の塀を作っていた。
あの時代ならそうであるが現代は何か富裕層が見えない、貧乏も見えない時代である。
でもぎりぎりに追い詰められている人が増えている
そういう人が突然牙を向き襲ってくる、老人でもそうであり恵まれている人は一割くらいだろう。あとは下流老人になる、そういう社会は富裕層は危険になる。
自分は金持ちではない、たまたま多少の遺産が入っただけである。
旅行したにしても最低の金しか使っていない、自転車旅行だったらテントだから泊まるのは無料だとなる、自分が金持ちだと思ったことは一度もないのである。
ただ自由な時間が与えられていただけなのである。

つまり生活保護とか社会保障とは現代では格差社会になると余計に治安を維持するための富裕層ならそのために税金を払わねばならない、タックスヘイブンとかで税逃れるすることは富裕層自身の安全を脅かすものとなるのだ。
そのことを富裕層が自覚しないのである。格差社会になるとその危険度はましてくる
生活保護費用は実際は刑務所とかで囚人として世話するより安くつく、
「生活保護費用ないで暮らして犯罪を犯さないでください」それが生活保護の理由なのである。
そうでないと富裕層を襲う事件が暴動さえ起きてくるかもしれない時代である。
だから富裕層が税金逃れすることなど許されない時代になっているのだ。
自分は車ももっていないし何ら贅沢をしていない、富裕層でもない、でも襲われたのである。それだけ底辺層が増えて現代は危険な時代になっているのである。
タグ:生活保護

夏の庭と近辺の風景(短歌) (仮設も消えるので記念撮影ー仮設暮らしは老人にはかえって楽なものだった)


夏の庭と近辺の風景(短歌)


(仮設も消えるので記念撮影ー仮設暮らしは老人にはかえって楽なものだった)

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石の陰クリスマスローズ咲きにけり目だたざるかな我が庭に咲く

我が庭に三色の花植えて見る華やぎにけり老いを楽しむ

真昼間の川の岸辺の木蔭にそ休みつつ鳥ののびやかに鳴く

新しき家々建ちてクローバーのなお空地に匂いけるかな

仮設にそ五年の住みて菖蒲咲く老夫婦のなお帰らざり

赤々と前畑に咲く夏の花午後にひそかや働く女かな

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庭作りしたら肥料だけ二十俵とかかかった、10万は軽くかかるそれに手間賃になる。
何か老後の趣味としては庭作りが向いている、なかなか外に出るのが億劫になるからだ
自分の庭は狭すぎる、そして納屋だったところを庭にしたので土が悪くて花も咲かないのである。
それで肥料をやって花を咲かせることにした。その方面で働いた女性がいて庭作りしてもらっている。
もともとこの庭は小高の人が作ったのである。その人は大工もできて庭作りもできてと何でもできる優秀な人だったのである。仮設に住んでいたが小高には帰らないという

仮設というときすでに五年すぎたし以前として帰らない、7月に野馬追い前に解除すると言っていたのだがそれがどうなるのか?
いづれにしろ今年中には帰り仮設は壊されるだろう
それで記念に写真をとってきた。菖蒲が咲いていてあそこは盆栽を飾る老夫婦が住んでいたのである。菖蒲と老夫婦というのもにあっていると見た
5年もいれば長いからなじむということがある。仮設暮らしというのも不思議な経験だったろう、かえって老人は暮らしやすい、長屋のようになっていていつも顔合わせられるからいいと言っていた。
あれは高齢化社会の一つのモデルだったかもしれない、老人はあのように長屋のような所でまとまって暮らすのが居心地がいいのである。
今は家族でも老人は邪魔者扱いされやすいからである。
そして今思っているかというとこのまま補償金をもらいつづけて仮設にいたいとまでなっているのである。補償金を一人十万以上もらえつづければ老後はそれで楽になる
それで国民年金しかもらっていない人が多いからそうしてもらいたいと訴えているのである。そうなれば原発事故で得した良かったとまでなる

でも小高に帰っても老人が多い、病人の老人の夫婦が帰って暮らしていたけどでは誰が世話するのかとなる、若い人はいなくなっているからだ。
シルバータウンになってしまう、買い物する所も品物が少ない一軒しかなかったのであるそんなところで街が成り立つのかとなる、そして問題は小高の場合は南相馬市だから直接その負担を負うことになる、福祉でもなんでもそうである。
それは浪江町とか大熊でも少ないにしろ住んでいるから病院が満員になっている
入院したらすぐ退院してくださいというのもそういうためである。
一方で浪江町から福祉関係や看護師なども入って働いていることもある
ただ外から入ってきて負担になっているのである。


そして小高とか鹿島区の亀裂は修復できないほどになっている、鹿島の人が集まると小高に対する不満になる、なぜあんなに補償金もらい優遇されているのだという話ばかりなのである。自分もそのことを思っているから小高の人とは話にくいとなる
その亀裂は深い、鹿島の人たちも裁判しているようだがそれも効果ないだろう
福祉関係とかでも医療費でも鹿島区はすぐに打ち切られて恩恵がなかったのである。
もちろん相馬市の不満はさらに大きいだろう。何ももらっていないし他でもそうである
補償金で南相馬市の一体感は失われたのである、そのしこりは残る

前畑で働き赤い花が映えている、まさにこの光景が田舎なのである。
前の畑で収穫があるということは新鮮な野菜がいつでも食べられる
それは売るものでないから農薬も使っていないのである。
それが人間的生活なのである。それが回復さされば復興になったということなのである。



タグ:夏の風景

2016年05月23日

木蔭(老人は木蔭に休むのがふさわしい) (老人のあるべき所が失われた)


木蔭(老人は木蔭に休むのがふさわしい)


(老人のあるべき所が失われた)


仮設暮らしの老人が日がな川岸の木蔭でやすんでいる、意外と仮設暮らしはまず補償金がもらえるから余裕がでているのだ。
今まで金の入らない人も金がたまったと喜んでいるのだ。
そしていつも仲間の老人と近くで顔合わせられるからいいと言っているのである。
そして老人は何か木蔭に休んでいるのがにあっているのだ。
それも自然の木蔭だといいのである。



故郷の木蔭

故郷の古木の陰に
老人が何人か日かな休んでいる
古木の日影は風が涼しく心地よい
故郷の古木の大木の陰に
老人が休んでいるのがふさわしい
昔を語り心安らかな日々が
長く暮らした故郷にあるのがいい
なじみの人がいて家と土地を持ち
老人はここに安らぐ
皺の深い老人自体がは古木なのでてある 




動かない岩

森の奥処の大きな苔むした岩
どっしりとして動かない
森の木々が覆い影なして
ひんやりと谷間の風が吹いてくる
小鳥の声がひびき流れの音がひびく
清涼なその奥処を乱すものはいない
そこに岩は動かない
そこが岩のあるべき場所だから
そこに岩も樹も老いてゆく・・・・

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都会になると何か木蔭といっても騒々しいし窮屈なのである。自分はずっと学生時代に東京にいたけど都会を嫌悪するようになった。
おそらく性格的なものがある、何か人づきあいが苦手であり30年間隠者になっていたということが不思議である。引きこもりといえばそうなる
こんなことがありえたのは家族環境が特殊だったからである。
自分はそもそも団体生活になじめない、学校もなじめなかったし会社勤めもできない、ただ変なのは懸命に団体生活してとけこもとうしていた、学生時代に体育会に一時入ったのもそうである。カルト宗教団体に入ったのもそういう団体生活をするためだったのであるそれ以後自分は社会から離脱したというか隠れてしまったとなる
ずいぶん旅行ばかりしたとなるが旅となると別にこれは人と関係しないのてある。
一人旅でありこれは何か社会とも関係しない、だから社会訓練に自分は本当に欠けていた社会常識が養われなかったのである。それで親の介護で苦労したのである。
会社勤めとか人間はしていないと社会常識が養われないのである。


木蔭というとき海側は松の木であれ何もなくなったので海岸線に木蔭がなくなったので休む場所がなくなった。
海側に松原があったときは天然のクーラーだった、いつもそこで休んでいたのである。
海側は今や全く木蔭がないのである。
木を植えたが育つのは五十年後とかなってしまうからその頃は死んでいる

田舎にはもともと木蔭が多い、原町から高倉辺りから飯館村に行く道で細い一本の道がありそこは車が通るとしても一台くらいしか通れない狭い森の中の道なのである。
そこは長い日影の森の道である。あのような場所が田舎ではどこにでもあるだろう。
ただ郡山市とか福島市だと近くにはないがここにはある。
そして福島県の浜通りで一番いいのは夏でも海から風が吹くから涼しい
今日は暑い、でも海から風が吹くから福島市のような盆地とは違う
あそこには暑いし寒いから住みたくない、会津でも雪だし住みたくない、老人になると気候の影響が大きくなる
自分の場合暑さにも寒さにも弱いから余計にそうなる
福島県の浜通りは老人がリタイアして住むのは気候的にはいいのである。
会津など雪で向いていないのである。

この辺で津波であれ原発事故であれ避難した人たちがいるがやはり失ったものは故郷でその古木の陰で休んでいるのが幸せということがあった。
東京の高層ビルのマンションに住んでいるのが老人が嫌だというのもわかる
あれは浪江の老女だった、田舎の離れた一軒屋のような所に住んでいたからである。
東京で贅沢しても嫌だとなる


ただ田舎暮らしは意外と都会と同じように都会より今は金がかかる、だから厚生年金で平均して15万というけどそれでもたりなくなるのが実情である。
田舎では家をもって土地をもってその土地も田んぼとか畑をもっている人がもともとの田舎暮らしをしている人である。
でも今はそれだけでは生活できないから金がかかる
車は一人一台とまでなっているからその維持費がかかるとか田舎は意外と金が都会よりかかる
だから家が田んぼ畑があり勤めがあり資産をもっていないと暮らしていけない
そういう余裕のある人だと田舎はいいなとなるのも実情である。

ともかくこの辺は特に老人が増えた、避難区域の小高でも帰っても8割くらいが老人になるだろう。
確かに小高でも木蔭に休む野はいいかそれができるとしたらやはり若い人が働いているからなのである。老人だけだったら街が成り立たないからである
老人がそうして木蔭で休んでいられるのは若い人が働いていればなのである。
8割もの老人がただ木蔭で休んでいたら街は機能しない、老人でも実際はゆっくりそうして木蔭で休んでいられないとなるのだ。
だかち8割も老人だけの街がどうなるのか?それはイメージできない、何か問題が起きても不思議ではないのである。な

タグ:木蔭

2016年05月24日

戸籍は何なのか? (一旦銀行にあづけた金は国家が管理する)


戸籍は何なのか?


(一旦銀行にあづけた金は国家が管理する)


ゆうちょ銀行の相続センターでの審査が通らないので、
書類がきちんと整うまでは、永久に銀行の相続を完了できなくなります。

当センターにご依頼頂いたケースですと、凍結した銀行口座の解約手続きを自分で進めようと約6ヵ月間頑張った挙句、「戸籍等の資料収集が煩雑」・「銀行員の指示が二転三転し手続きが混乱」等の理由から自力での手続きを諦めた相続人様からご依頼を頂いたこともあります。

初回で指示された内容と違う内容を新しく指示されて、「あの書類が足りない・この書類ではダメ」等と、銀行側の指示が二転三転することも珍しくありません。

なぜこの手続きで当該戸籍が必要なのか?
なぜ当該相続人の印鑑証明書と実印が必要なのか?

この意味を銀行員自身が理解していません。

銀行員が明らか法律を無視した対応をとる場合は、間違いを正すこともできます。

銀行員に対して正しい手続きの在り方をアドバイスするとこともあります。


ゆうちょ銀行が相続では一番めんどうみたいである。
なんでこんなめんどうなのことが必要なのかと聞いたら相続人を探しているためだというでも提出した書類には相続人はすべて死んで残った一人の姪子の書類はハンコなどをおしてもらい提出している
あとの相続人は死んでいるのである。それもすでに母が結婚した前の夫は戦前の人であり死んでいる、その息子も兄になるが交通事故で死んだ、あと何を調べようとしているのかと聞いたら転籍した先での戸籍に養子などがないかどうか調べと言っていた。
それも提出した書類でわかるのである。
戸籍のつながりを見なければならないとは言っていた。

戸籍はなんのためにあるのか?

相続が発生するとき戸籍が必ず必要になるから

他にも戸籍には国民を管理する機能がありそれに異議を唱える人がいる、差別だというのもあり私生児と摘出児とか非摘出児とか他にも戸籍で差別が問題になる
明治大正になると戸籍に平民とか記されているから士族と平民に分かれていたのである。戸籍は江戸時代では寺が役所の代わりで人別帳を作り管理していた。キリシタンをとりしまるためにも管理していた。つまり国家で管理するのが戸籍にはもともとあった。
それが明治になると四民平等に建前はなったが差別が継続されていたのである。
それで戸籍の国家管理に異議を唱える人はマイナンバー制度も国家の管理を強化するからすべきでないと論述している

そもそも戸籍など普通のときは考えない、でも戸籍は相続の時一番かかわる、戸籍はやはり国家が国民を管理するためにある、そしてわかったことは

ゆうちょ銀行であれ他の銀行であれあづけた金は国家が管理する

一見自分の金のように見えるが一旦金を銀行にあづけることはそれは国家にあづけることでもあるのだ。
だから相続のとき戸籍を通して相続に関与するのである。相続に銀行が国家が関与するのでてある。銀行はつぶせないというとき国家が援助してつぶさせないことがある
国家と銀行は金を管理することで一体なのである。
それは日銀と銀行が実際は金をコントロールしていることでもわかる
銀行はつぶれない、それは国家の支配下にあるから簡単につぶせないのである。

だから預金封鎖があるというとき国家と銀行が一体となって実行する
銀行から金がおろせなくなるのだ、一旦銀行にあづけた金は必ずしも簡単におろせない
良く十万くらいならいいが額が大きくなるとおろしにくくなるなど言われるのもそのためである
例えタンス預金していても一旦預金が封鎖されれば新紙幣しか通用しなくなるから出さざるをえなくなるのである。旧紙幣は使えなくなるからである。

戸籍にもいろいろな問題があるが戸籍は国家が深くかかわるものでありそれが役所の主な仕事となっていることでもわかる
国民を国家が権力者が管理支配するために戸籍がある。
戸籍は明治時代に家中心の支配体制を作るために国家がその制度を作った
戸主を中心にして家があるというとき明治時代に家制度ができたからである。墓をみればわかる、家族墓というのが明治以降にできたことでもわかる
つまり・・・・家の墓というのは明治以降できたものである。

なぜならそれまでは江戸時代は・・・家の墓がない

個人墓か夫婦墓である。侍でも・・・家の墓はないてのである。
これは不思議なのことである。・・・・家の墓というときそれは明治時代以降に家族中心の戸主中心にして国家の強制で管理するためのものだったのである。
それは天皇を頂点にして日本人は一大家族だという国家体制を作り上げたとと批判する人もいる。それはサヨクになるがそれも問題にしろ一理ある。
一つの疑問として国家主義というのは世界的にも近代化して国家主義が世界で台頭して世界大戦になったのである。国家というのがないときもあった。国家という概念は意外と新しいのである。
国家がなくなればシリア難民のようになるとか国家主義が国家が最優先するというのもわかる、そもそも国家と民族は違っているし過度な国家主義にはナショナリズムとかには疑問がある。

いづれにしろ相続では兄弟がいれば甥姪まで関係してくる、一人いただけでもこれだけめんどうなのである。
そしてあったこともない親戚も相続に関与してくることがある
だから相続はめんどうなのである。ただ財産がなければこんなんどうなことはないのである。
そして相続の疑問は親戚でも戸籍上でつながっていても全く実生活と関係なくなっている人もいる、でも相続では戸籍を執拗にたどり相続者を探すのである。
なぜ養子がいないかなどまで探すのかとなる

だからこれは別に法律的に正しいということでしているとは限らない、それで弁護士に相談しなさいとなる、ゆうちょ銀行でも相続人の一人として権利をもっているようになっているからである。相続争いに銀行が関与しているのである。
一旦金をあづけたらそうなるのである。なぜそんな権限があるのかとなるといっても一旦金をあづけたらそうなるのである。


それで矛盾を感じたのは血縁関係がないと義理の母を介護でいくら世話しても財産を相続できないという深刻な問題が起きている、実子は血縁関係があっても何も世話しない、でも相続できるのであり介護した嫁は相続できない、これは大きな問題だけど法律上はめんどうになる、法律は常に時代の変化とともに変わる、でも旧来のままになるのも多い
すでに家族が旧来の戸主を中心とした長男を中心とした家族ではなくなっている。だから相続でも問題が起きる。
介護とかその他血縁関係がなくても世話になればその人に財産があれば残したいとあっても特別縁故者になるとまた相続がめんどうになる

銀行にあづけた金は血縁者のみを見ている

だから銀行に金をあづけることは血縁者でもあの人には残したくないというときそれができなくなる、そのためには何らか事前に手を打つほかない
銀行にあづけないとか何か事前に対策をとる必要がある、ただタンス預金も危険になり現実自分も被害があったから勧められない、ではどうするかはやはり何かあるのである
法律の抜け道とかすべて法律で決まる訳でもないし、そこに知恵を働かすべきである。
とにかく銀行に金をあづけるのは今や利子もなにもつかない、あとで相続すら自由にならないから各自このことは考えるべきである。

そしてこれは複雑だからゆうちょ銀行でも他の銀行でも良く理解していないのである。
それで弁護士に相談してくださいとなっている。法律的にめんどうだから銀行自体でも相続ではまちまちであり決まっていないのである。
なぜそこまで調べる必要があるのか、戸籍が必要なのかどうかも実は明確にわからないということである。でも一旦金を銀行にあづけたら銀行がその権利をもつようにさえなっているのである。国家と銀行は一体であり国で管理するとまでなっていることを知るべきである。

タグ:戸籍とは

エジプト文明や江戸時代の稲作文明は安定した世界観をもっていた (現代文明は安定した世界観をもっていないからファシズムになりやすい)



エジプト文明や江戸時代の稲作文明は安定した世界観をもっていた


(現代文明は安定した世界観をもっていないからファシズムになりやすい)


●エジプト文明の3000年の持続性


「母材(土ができる前の元の岩石)の種類によって、土本来の性質がことなるので、理想の土はひとつではない」ということです。


エジプト文明がナイルの賜物というときナイル川の上流の岩石が土となり流れてきて定期的に洪水を起こし肥料となった。
そこに地球的ドラマを感じた。そういう地球的ドラマの中にエジフト文明が3000年つづいたのである。
洪水は自然災害は害のように見えるが洪水があることによって山林から栄養分が流れて肥料になる
肥料が自然によって継続的に供給されることによってそれだけの長い文明が維持されたのである。
農業を維持するのは土の栄養であり土が基本にある。
焼畑とか森林を燃やして灰にして肥料を作り畑を作っていたがこれは自然破壊になった。これは原始的農法で簡単だからはじめられた。
農業は肥料をどうするかなのである。
自分の庭でも花を咲かせていたが最近十年くらい咲いていた福寿草が咲かなくなった。
何か植えても消えてしまうのが多い、もともと地味がないのだからそうなりやすかった。土の栄養は放置しておくと栄養分が徐々に喪失して花すら咲かなくなり作物もできなくなる、ヨーロッパではそれでさんほ農作が行われた、土を休ませて別な土地で作物を作るのである。
つまりとをしたら土に栄養をもたせるかが問題になるのが農業である。
ともかくエジフト文明が3000年も維持できたのはそうした自然の壮大なサイクルの中に生活していたからである。
そしてそれはエジプト文明だけではない、マヤ文明でも日本だと縄文文明が一万年とか言われるのもそのためである。寿命が長い文明なのである。

エジプト文明というときそれが人類にとって何を意味しているのか?それを見るべきだろう。
その知識に欠けているがエジプト文明は自然の壮大なサイクルの中で持続していた文明である。洪水さえも自然災害もその文明に活かされていた
自然災害は地球規模でみれば災害ではない、洪水は土に栄養分を山林からる運んでいたのである。
これは科学的に探求すればきりがないだろう。その面の知識は自分にはない。
でも興味あることは文明とは何かというときエジプト文明を例にすれば一つの世界観をもつ、それはマヤ文明でもそうである。
それはその土地の自然から作られたのである。エジプト文明はナイルの賜物というときナイル河から作られた文明である。
そして農業中心だから定着的静態的文明となる。自然循環的文明ともなる
この世とあの世があるときエジプト文明ではあの世でもやはりこの世でしていたこと耕作など同じことをしていたのである。この世とあの世は連続していたのである。

これも何か変わっているのかとなると現代文明を見たら例えば東京でぎゅうきゅうづめの電車に乗って通勤していたり様々なストレスに悩まされて生活している、そういう生活をあの世までするとなると嫌になるだろう
普通はあの世はこの世の苦痛から解放される場所なのである。
それは仏教でもイスラム教でもキリスト教でも同じだった。あの世に極楽があり天国がある、この世は苦の世界でありこの世の継続があの世にあったとすると耐えられないのである。
もちろん生老病死はあるからそのために人間は苦を強いられるからあの世ではそうならないと願うことはわかるしそれを克服するために宗教がある
ただ全体的に見たとき世界観から見たときエジプト文明はこの世でしたことをあの世でも同じようにしていたということが現代からみると特殊なのである。
全くこの世のことがあの世にそっくり移行している、それは壁画に描かれている
こういう世界観は不思議である。この世がそれだけ悪いものでないからこそあの世もこの世の継続となったとなる,個々人は別にして全体的にそうみていたのである。
するとエジプト文明は3000年持続して平和で充足した生活だったのかとなる
ただエジフト文明を現代で理解するのは本当にむずかしいと思う


●各地の自然に根ざした世界観の喪失が国家主義やマルキシズムによる世界大戦を生んだ


なぜエジプト文明を例にしたかというと現代文明は混沌の文明である。何か一つの世界観などもてない文明である。世界観というとき自然に根ざして生れるからである。
東京のような所でどういう世界観をもって生きるのか、像をもって考えよというときその像がないのである。自然の像というのがない世界である。
高層ビルを見上げてどういうイメージか世界観が生れるのか?
そのことから人間にどういう影響を与えるのか?
それは世界観がないというとき精神文明がないということである。
文明とは日本文明とあれば日本独自の自然に根ざして文明があった。それが神道なのかもしれない、とにかく日本独自の世界観が作られていたのである。
それは日本語にもあり一つの日本文明が作られていた。
そういう世界観が現代文明ではもてないのである。
世界観がもてないというときカルト宗教団体などが跋扈したりナチスがファシズムが生れたりしたのが現代である。
それは日本だけではない、世界的文明が均一化して起きたことである。

 抑圧された国民は現実から目をそらし自分を見失う、そうしたむっつりとした空虚な国民の顔は機能障害社会に共通した不安と恐れを示している
 国民の顔に承認を見つけられない故に全体主義指導者は拡大を試みる以外に生き残る道はないと確信する、つまり、政治哲学の正しさを証明するには,他の国や民族ですらこれに従っているのたと国民に示す他なくなっているのである
 (地球の掟ーアル、ゴア)

 これは現代に近代に現れた世界的現象である。ナショナリズム、国家主義、マルキシズム的世界的労働者の階級闘争の共産主義でも同じである。
 ナチスもまたそういう共産主義の世界的闘争と共通したものがある。大量殺戮が行われたからである。それは現代のグローバル化した文明の病から生れたのである。
国民とは江戸時代には存在しない、それは国家主義により強制的に国民が作られたのである。国家を尊ぶのはわかる、でも政治的強制的側面が強いのである。
それは日本だけではない世界規模で起こり世界大戦となったのである。
創価のようなカルト宗教団体もそうした現代文明の病から生れた、それは強制的に信者にして国家を支配し国民を支配することであるから共通している、つまり他のカルト宗教団体でも一つのファシズムの変容したものである。

承認しないのに強制化して国民を支配しようとしているのは同じである。宗教はその道具にすぎないのである。
ハイルヒットラーと題目を唱えることはさぼと変わらないのである。
要するに世界観が喪失したばらばらとなった人間が狂気的に一体化しようとするのがファシズムである。
それはカルト宗教団体も同じなのである。すてに一体感がないから強制的に一体感を作るのがファシズムである。
それは現代文明が個々ばらばらの部品のようになって一体感が一つの世界観がもてないからなのである。

それは明らかに一つの世界観をもったエジフト文明であれマヤ文明であれ江戸時代の稲作文明では起こり得ないことであった。
そこでの民はいろいろ不満があり問題があっても一つの文明の適合していてその顔はその世界観を承認しているから世界を肯定的に見ていた故に外国から来た人が江戸時代の人々を見てみんな幸せそうな顔をしていたと見たのである。
各地のそれぞれの一つの世界観に生きることが喪失したときそうした国家主義とかマルキシズムとかの無理な強制的な世界観を作り出したのである。
マルキシズムなどでとてもこの世界を解きあかせないのである。それは階級という一部を取り上げたものであり世界を一部の狭い窓から見たにすぎないのである。
世界をみるというときみんなそうして一部を見ているにすぎないのである。マルキシズムはそれをあたかも世界を解きあかしたように錯覚させて世界を混乱させたとせなる

●科学技術文明は自然を支配する世界観だが原発事故のように突然崩壊する危険

人間がエジプト文明であれマヤ文明であれ世界観を自然の中で構築できなくなったためである。現代文明からは世界的にどこでもカルト宗教団体とか宗教もカルトになりやすいしナチス的ファシズムが生れやすいのである。
一つの固定化した世界観がないから人間は常に不安動揺の中に置かれているのである。
江戸時代が安定して外国人が来たときみんな幸せそうな顔をしていたというとき貧乏でも一つの安定した自然の日本的世界観で生きていたためだろう。
例えばエジプト文明にタイムマシンで行ったらその顔まで何か違っている
そこには安寧的な不思議な顔になっていたかもしれない、それは江戸時代の人々の顔とにていたのである。一つの安定した世界観の中で生きていたからそうなっていた
江戸時代も今になれば不思議となる。ただ明らかに稲作文明で一つの共通の世界観に生きていた。それが失われたとき柳田国男が日本の民俗学を起こした。
そういう新しい学問が生れたのは実はそういう世界が失われたときなのである。
稲作だとこれもいろいろ奥深いから科学的には追及できないが山から水が流れて田んぼをうるおし米が実る、その自然のサイクルの世界観をもっていた。
それが死生観に反映されていた。死んだ先祖は山に眠り春になると里におりてくる、春には田植えがはじまり再生するからである。
それは自然のサイクルの中で生きていたからそういう世界観になった。
それはエジプト文明ともにているのである。
自然の中で構築された文明は息が長い、そして世界観をもち人間も安定する
現代の人間が不安動揺とストレスの中にあるのとは違っていたのである。

自分が詩として山とか樹とか岩とか石とかを安定した要素として求めて書いたのもそのためである。
都会にはそういうものはない、絶えず不安と動揺のなかにある、グローバル経済でも日々不安定であり株の値動きにふりまわされている。
現代文明は常に動揺と不安のなかにあり安定しないのである。
グローバル経済を見ればわかる、世界で何か事件があればたちまち株は暴落してしまう。そこに安定した世界観を構築できないから世界的共通の問題として文明は今は共通でありそうなっている
科学技術文明でもそうだがこれも恩恵をもたらすにしても今回の原発事故のように不安定なものだったのである。
原発事故によって放射能で人間の生活の基本となる土や水や森林などが汚染されてたら生きることもできなくなる
科学技術は万全なのものではなく不安定な要素が常にあり一挙に崩壊することがある


原子力はそういう不安定なものであり危険なのもだったのである。
そしてなぜ原子力が原発を維持しているかというと電気を供給することより核武装のためにある、核を作るために原発を維持しているのである。
それはアメリカなどの圧力でもそうしている。
つまり科学技術文明はエジプト文明のように3000年とか持続するものではない、一時的に消耗する文明なのである。
それは精神的にもそうでありそのために一つの世界観を作れない、そこで人間は常に不安動揺の中に置かれている、現代人の顔が江戸時代の人やエジプト文明人の顔とまるで別人になっていたことでもわかるのである。
科学技術は必ずしも人間を幸福にするものでもないのである。
大きな自然のリサイクルから離れるとき人間は人間ですらなくなってしまうという恐怖があり現実そうなっているのである。
常に世界崩壊がカタスロフィが語られるのはそのためなのである。
外部的にそうなるのではなく内部的に現代文明が不安定であるから常に株の暴落とか何か突然に崩壊現象が起きるということにおびえているのである。
エジプト文明とか江戸時代にはあまりないことだったろう。

ただマヤ文明だと歴が発達して2020年に世界が崩壊するという予言をして滅びていた。
そういう終末観がやはり仏教でもキリスト教でもある、だから人間にはそういうことは常に恐れてあったとことは確かであてる。
それは常に自然の恐れに根ざしていてそうなった。
現代はそうした自然災害で滅びるというより何か科学技術の崩壊で今回のように原発事故のようなもので滅びるという不安が大きいのである。
科学技術が実は一番の不安要素となっているのも皮肉なのである。
なぜなら科学技術こそ現代を文明を作ったものだからである。
過去は自然災害が最大の崩壊の不安要素であったが今は人間か作り出した科学技術が一番の不安要素となっているのである。その象徴が原子力であり核兵器になってたのである。

穏やかな雲間に雷雨が潜むように
今日私に媚びる者が、明日には私を傷つける
ほとんど重量とてない取るにたらぬ原子から
世界は最後の審判を引き起こす
(ハンス・カロッサ)

これは原子力のことだった。原発は金になるからこの辺の住民も媚びていたのである。
双葉町では「原子力が開く未来」とか看板まで建てていた。
それが今度は住民を傷つけたのである。そして核の放射能で滅びる
土も水も汚染されて住めなくなった。
人類は意外なもので滅びる、いろいろ言われるが結局予期せぬもので滅びる
その一つに原子力や核エネルギーがあったのである。