2016年05月08日

犯罪はパターン化できる (犯罪にあった人は犯罪に興味をもつ-格差社会は犯罪が増える)


犯罪はパターン化できる


(犯罪にあった人は犯罪に興味をもつ-格差社会は犯罪が増える)


今まで推理小説など興味をもたなかった。でも自分も犯罪にあってから興味をもつようになった
人間はともかく自分が当事者にならないかぎり他人事なのである。
それはこの辺で津波で近くでも人が相当死んだりして大被害だったのに自分は何も被害がないから被害にあった家族のことでもあまり考えない
これも普通のときでもそうである。誰か苦しんでいても相手の苦しみのことがわからないのである。
障害者を子供にもったものは盛んに訴えるが誰もわかってくれないとか言う、そんなものたいしたことじゃないとか見られる、あんたが生んだのだからあんたの責任だとか言われる、貧乏でも自己責任だとか言われる
今は格差社会だけど貧乏が見えない社会でもある、昔は何か貧乏はあからさまに見えていたのであ。乞食などが現実に物乞いしていたからこの人は貧乏だとはっきりわかる
今はそんな人がいない、外見は普通の人と同じだからである。
そうなると貧乏が見えないから貧乏がわからないともなるのである。
何が貧乏なのとなってしまう。
でも現代には現代なりの貧乏がある、そこから問題が事件も起きるのである。


本当に犯罪に明らかにパターンがある

「道具的」行動は,犯人が被害者からなんらかの利益(金銭や性的興奮など)を得ようとしておこなう行動です。

「表出的」行動は,他人との感情的な衝突によって引き起こされることの多い,被害者を傷つけることを1番の目標としておこなわれる行動です。

一番わかりやすいのは自分の欲望を満たすことが動機となっているものである。
そもそも人間の争いは基本的には欲望がおさえられないためにえ起きてくる
それが金であり本能的な性であれ一番わかりやすいし一番犯罪の動機になっている


だからどういう状態でシチエ-ションで犯罪が起きるか典型的な例が昨日見たテレビの推理ドラマだった。
まず資産家がいてそこにかかわる人たちがその資産家の財産をねらう。
家政婦とかヘルパー他にも宝石を売りつける人とかかかわってくる
なぜここでそうした家政婦とかヘルパーとか家に入ってくるものが犯罪者として疑われるのかというとその家の内部を家族のように知っているからである。
だから一倍危険なものはその内部を知るものだということである。
良く時代劇では内部か手引きする人を女中とかで入らせて強盗団が入ってゆく
それはパターン化した犯罪の手口である。国レベルになるとスパイで国の内部から攪乱してくる、だから内部に入るものは一番危険だとなる

そしてそういう資産家に近づくものはなにかいろいろな問題をかかえている人が多いのである。富めるものと貧しいものの差があからさまに現れやすいのである。
一般社会では見えないことがこういう場ではあからさまに見える
コンビニで働いていたとかその人がどういう人かなどわからない
でも資産家とか家に入ってくる人はその人がどういう人かあからさまになる
その働く人の家の事情とかがあからさまになる
今回のドラマでもそうだった、家政婦になった女性は借金をかかえていたとかなる
どこからきたのか素性もしれないとかなる、家に入る人で素性がしれないとなるとそれも危険度が相当に高くなる、そういう人が信用できなるかとなる
ただ家政婦とか何かそうした人は借金であれ事情をかかえているのである。

するとどうしても雇う方でもその人のことを考えざるを得なくなる、なにかコンビニであれパートであれその人の事情など考慮しないだろう。
でも資産家とか家に入ってくる場合はそうした個々の事情が直接かかわってくる
その人は別によそ者というものではなくてもやはりここの土地の人ではなかった。
それを安易に信用したのが失敗だった、本当は家に入れることは一番危険だから信用が最大の問題になる、何ももって信用するかとなるとむずかしい。
昔は女中とかお手伝いさんとかは普通にいたから何かしらの信用システムがあった。
前の働き先でどういう人か聞いていたとかが信用する要因になっていたとかあった。
ともかく家の中に入れる人は一番危険であり犯罪も起きやすいのである。
だからそれはパターン化した犯罪でありドラマになる

そもそも家の中に入ることは家族の一員のようになる、それで俳優の家で雇われたお手伝いさんがその夫婦の子供を殺したとかあった。これは何なのだとと思ったらお手伝いさんは子供のように家族の一員になっていたからである。
動機は子供が生れてからかまってくれなくなったという、まさに家族の一員になっていたからこそそうなったのである。それほど親密な関係になるのである。
まず人間が信用しあうことほどむずかしいことはない、それがゆきづりの問題をかかえた女性となるとそんな人を家に引き入れたらどうなるのかとなる
でも家政婦とかにはそういうふうに問題をかかえた人が多く入りこんでくるのである。
するとそこで貧富の差が明らかになり犯罪が誘発されやすいとなる

だからこういう犯罪を防ぐにはどうしたらいいのかとなる、雇う方も相当に気をつけねばならない、雇うにしてもその人を親身になって考えざるを得ないのである。
何か時給いくらとかでそれで終わりとならない、何かいろいろとその人のことについて家族のように心配するようになる、借金があったとしたら資産家だったらその借金を整理してやるとかさえしないとうまくいかない
借金を整理してやれば重荷がおりるからその家のものを盗むとかなくなるだろう。
資産家だったらその借金の額も小さいとしたらできるからで
恩義も感じるかもしれない、つまりそうした関係を作らない限りそういう女性を雇うことは危険にさらされつづけるのである。
そうはいってもそういう関係を作るのは時間がかかりすぎるのである
それで私はこの家で十年勤めさせてもらっていますとかなると信用できるとなる
その歳月が信用できるということを証明しているのである。
でもそれは資産家であってできることである、今はヘルパーとか介護関係でもちょっとしたことで家の中に入ってくる人が増えた、そこでまた問題が起きてくるのである。 

これは社会全体とも関係している、格差社会というとき富裕層も危険になる。高度成長時代なら中産階級が勃興してその上の金持ちをうらやむというのはあまりなかった。
格差社会になるとなぜ自分たちは貧乏なのだと、その原因を富裕層に向けられるから危険になる。自分たちは富裕層のために奴隷のように使われるだけなのだとなる
もちろん富裕層というとき資産家となると小金持ちとは違う。
まず小金持ちでは家政婦を雇うことはできないからである。
ヘルパーとか一時間とかちょっと手伝うだけであり家政婦とは違うのである。
格差社会というのは富裕層も危険にさらされる社会でありいつ襲われるかもしれないという推理ドラマのパターンになる、そしてたいがいそうして家に入ってくる人は家政婦とかが危険なのは追い詰められているからである。実際に家政婦として入った家々に火をつけて火事にしていた女性もいたからである
それは別に追い詰められている人は他にもいる、借金で追い詰められているとかそういう人は別に普通にいるからそういう人とかかわると危険になる
自分もそのために恐ろしい目にあったからである。
人間はどんな人でも追い詰められたら何するかわからない、その人が善人悪人の問題ではない、今日食べるものがないとしたらそのたに殺すことだってありえるしあった。
人間は追いつめられるとそうなるのである。  


人間の関係は金だけが動機になるときうまくいかない、こいつは資産家だから金を奪ってやれ、それだけの関係になると必ずそうなってしまう、その家で働く動機がそれしかないからである。普通の社会ではそういうことは金で割り切ってしている
でも一旦家の中に入ってくるとはそういうことは金だけでは通用しない
そうなれば資産家から金を奪えばいい、そこに働く動機はそれしかないのだからそうなってしまう。そういうことを自分は経験したからわかる。


高島忠夫長男殺害事件 

高島夫妻はこの女中をよくかわいがり、また女中も高島夫妻によく尽くしていたが、高島夫妻に長男が生まれた後は「長男へ愛情が移ってしまい、自分は疎遠に扱われるようになった」と感じていた。「この赤ん坊さえいなければ高島夫妻の愛情は私に戻るのではないか」と考え、気がついたら長男を湯船に沈めていたという。長男は激しく咳き込んだが、女中Aは、なおも長男を湯中に抑えつけた。そして「このままでは犯行がバレる」と思い風呂から出た後に物取りの犯行に見せかけるため、室内を物色されているように装ったという

こういうことが起きるのが家の中に入ってくる人なのである
要するに何かこういう家の中に入る人は家族関係の中に入ってくると同じなのである。
だから家族のような問題が起きやすいのである。

タグ:家政婦
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夏の水面(surface of water in summer)



夏の水面(surface of water in summer)



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砂漠の流れ


 

paintshopの波は抽象画になりやすい、写真でも波で変化させると抽象画らしくなる
夏だから水面が光でまぶしく輝く、そんな感じである。
要するに自然にあるものから抽象画もイメージしているのである。

水に関してもそういう変化が見られるがそれを表現するとなるとむずかしい
抽象画ではそれが表現しやすいのである。
タグ:夏の水面

2016年05月09日

夏の草原(田んぼが増えて草原もある世界)


夏の草原(田んぼが増えて草原もある世界)  


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右田の一本松



雉歩み朝の草原夏雲雀
夕暮れや草原広し夏雲
青嵐牛越城の五年かな
一本の大木根付く青嵐

一本松ここに残るや雲雀鳴く声のひびきて夏の陽没りぬ
草原の広々として雲雀鳴く風の涼しき夏の夕暮
声高に夕べ蛙の鳴き騒ぐ田んぼの増えて元に戻らむ  

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この辺は田んぼが増えたから元にもどりつつある、一方で津波の跡はまだ広々と草原になっている。
この草原の世界のことを書いてきたけどこれが気持いいのである。
田んぼとは違った自然なのである。草原にあっていたのが雲雀だった、草雲雀とかあるから本当はこういう草原地帯に雲雀はあっていたのである。
田んぼだったらどうしても水になるから巣も作りにくいのである。
田んぼにあっているのは鷺である。田んぼの水の中の水生動物を蛙などを餌としているからである。

日本でもそもそも草原の世界を見ないから草原のことがわからないのである。
北海道にはあるが他では見ない景色なのである。
草原に風がふきわたり雲雀がなく景色は気持ちがいい、モンゴル辺りだとこういう景色が普通なのである。すると何か人間の感覚が変わってくる
気持まで広々としたものと自ずとなってくるのである。

日本人の文化は田んぼから稲作から作られてきた、それはもう単に米を作るというのではない、心まで作ってきたのである。だからこの辺で田んぼが放射能で汚染されたとき田んぼがなくなる世界、草原化した世界というのがなんなのだろうとなった
それは津波の跡もそうなってしまったかち二重に草原の景色になってしまったのである。
日本では放っておくと草原にはならない、雨が多いからやがて釧路湿原のような湿地帯になる。
ただここでは草原化している、水たまりを埋めたりしているから草原になっているのである。

今年はともかく風が吹く、毎日のように風が吹いている、青嵐というとそんなに吹かないだろう
今年は毎日風が吹き荒れている、こういうのも珍しい、それは桜が咲いた時からである。原町の牛越城は5年ほどで終わった、でもその五年も風雲だった、何か争いがあった
内部での抗争があった。風雲の城でもあったのだろう。戦国期の城だったからである。
だから青嵐ににつかわしいともなる  

右田の一本松は枯れそうに見える、枯れなければ奇跡の一本松になるのだろう。
あそも松原として意識していたのであり一本一本の松として意識したものはなかった
今はあの一本松だけが注目されているのである。

タグ:夏雲雀

2016年05月11日

人間はどうして記憶するのか? つながりの中で記憶する


 人間はどうして記憶するのか?


つながりの中で記憶する

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旅していて記憶に残すということが大事である。では人間はどうして記憶するのか?
記憶のメカニズムのようなものがあるのかとなる
旅というのは一地点に行くのが旅ではない、そこまで行く過程が旅だということもある。たいがい今は旅がつまらないというとき有名な一地点の観光名所に行くからである。
東京から新幹線で平泉に行く、そこにはもう過程がぬけている。
有名な一地点に行くことでありそれで目的が達せられたとなる
すると過程が欠けているから旅というものがただ一地点を目指すものとなり旅の中味は浅薄なものになる
というより現代では旅人もいないし旅自体がなくなったと思う。
単なる便利乗り物での移動であり一地点に行って目的が達成されたとなる

人間が記憶するというとき一連のつながりのなかで記憶しているのである。
例えは北海道の遠軽という所から坂を上るとオボーツクに出る、そこで何か開かれた感じになる、坂や峠を上ったとき別世界に来たように思える。
だからそこでその一連の過程の中で記憶される゛地形でも記憶される
ABCというつながりの中で記憶される、単体だけで記憶するのはむずかしい
英語でも一つの単語だけから覚えようとすると記憶されない、やはた文脈の中で単語も記憶されてゆく 
Aという単語を覚えるのではなくABCDEFと連関して覚える、要するにこの世の中は単体で存在するものはない、それで心の青雲では水は他の惑星には存在しないという
水という単体では何も存在し得ない、水素と酸素があれば水が存在するわけではないというのもそうてのかもしれない。水が存在するには水を産む環境が必要だったとなる


鉄道とかなると駅名を記憶したりするが一連のつながりのあるものとして記憶されない
地形も記憶されない、前後が逆になったりもする
ただ鉄道でもトンネルをぬけたとき新しい世界に入ってゆく感じになる
「トンネルをぬけると雪国だった」というのもそうである。
最上町の温泉からトンネルぬけると新庄にでる、それは広い地帯であり記憶される
これも一連のつながりのなかで記憶されているのである。
伊勢から奈良に旅したときはその長い行程の中で記憶されたのである。
一地点ではないつながりのなかで記憶される、そもそもこの地球はつながりをもって存在している、つながりと相互浸透の中で存在している


人間は何か記憶するとき必ず何かと関連させて記憶している
あらゆる物質も単体では存在しないというときそうである
つまりAを思いだせばBがでてくる、Cもでてくる、人でも何でも単体で記憶されることはなく関連の中で記憶される
いづれにしろ人間は最後は記憶されたことが人生となる
何が最も印象に残り記憶されたのか?それが人生だったとなる
でも記憶がだんだん薄れてゆく、曖昧模糊になってゆく

現代は旅でも記憶に残らないことが多いのである。
一地点を目指す旅であり過程を飛び越えているからである。
そこでは地形も記憶しにくい、坂であれ峠であれそういう地形も省かれるからである
そこで旅でも印象に残らないものとなってしまう。
おそらく車よりバイクの方が地形は記憶するだろう。バイクは風も感じるからである
ただ若い人がバイクで旅しているのを見たとき楽だなと見る
自転車に比べると本当に楽だとみてしまうのである。  


結局現代生活は便利になったのけど経験することが浅薄にもなっている
旅というのもそうである。そこには人との出会いもないしただ過ぎてゆつだけである。
「旅は道連れ」というのもなくなった、バイクであれ車であれ早いから一時出会っても
あとはすぐ別れてゆくだけだとなる
そこに何か濃密な時間がもてないのである。今会ったまたすぐに別れてゆく、それは歩く旅とはあまりに違ってしまったからである。
タグ:記憶する

2016年05月12日

老化のリスク (熱中症になった怖さー死ぬので油断できない)

    

老化のリスク
  

(熱中症になった怖さー死ぬので油断できない)


死者の約8割が70歳以上で、高齢ほど重症化しやすい傾向も表れていた。

熱中症は場合によっては死に至る怖い病気のひとつです


今年は自転車で遠くに行ったとき確かに体調を壊していた。熱中症気味の症状になっていた。それは運動した結果としてなっていた。それでも体が弱ったのかなととは思っていた今回は別に遠くに行ったわけでもない、庭の手入れのための仕事をしてもらい自分もしたそのとき曇っていたしそれでそんなに熱中症になるのかという疑問だった
それはかなりの重症だったのである。体が熱く熱病のようになり吐き気があり体全体も痛んだのである
熱中症で意識朦朧となり救急車で運ばれるのを見たがそれも他人事だった
クーラーない人がいてなってるとか聞いていたからクーラーあれば大丈夫なのかと見てた今回は別に真夏に起きたことではない、家にいて庭の手入れをして起きたのである。
遠くへ出て自転車で運動したわけでもなかった。
ただ何かの調子で熱中症になりその恐怖を覚えた
熱中症が馬鹿にできないのは実際に死んでいる人が多くその大半は子供と老人なのである

老人は何かと病気のリスクが高まるのである。熱中症の恐怖は本当に突然死ぬことがありうることなのだ。
それが最大の恐怖なのである。いろいろな病気でガンであれ脳卒中であれ病気で普通死ぬのだけどまず熱中症で死ぬということは考えなかった。
でもこれも経験して現実にありうることだと思った。
自分が今回熱中症になった原因は老化があると思う。老人はなんでも病気になりやすいが熱中症にもなりやすい、老人は体温の調節がうまくいかなくなる
だから急激に温度が上がったりすると余計にそうなる
自分はもともと暑さにも寒さに敏感で感じやすい、そういう体質もあるが老人は何かと病気のリスクが高まってる、それが老化の怖さなのである。

ともかく人間の特徴は自分の身にふりかからなければ何でも他人事なのである。
一旦自分の身にふりかかると他人事でなくなる、自分のこととして見るようになる
確かにニュースで一時熱中症で死んだ人のことを報道されていた。
別にその人たちは激しい運動していたわけではない、家にいてもなっていたほとんど老人だった。クーラーがなくて死んだという人も結構いた。
死に方としてはいい悪いもないが寝たきりになり介護を十年とかなると本人もめんどうをみる人いやになるだろう。
特に一人で身寄りがないとかなると介護する人もなにもないのだからかえって熱中症でも急速に死ぬからほとんど迷惑をかけないということもあるのかと思った。
人間どんな死に方をするかはわからない、また選ぶこともできない、その人の寿命は神が決めているのではないかとすら思うからである。
だから死なない人は死ない、死ぬ人はその人の寿命で死んだとなる


それにしても人間は自分の身にふりかからないかぎり他人事である。
それで熊本地震で熊本県が批判されている。東北のガレキを受け入れないとか地震がない熊本県が企業にはいいとか宣伝していたからである。
それが地震で被害にあい自分たちの身にふりかかったときはじめて東日本大震災のことを真剣に考えるようになる、そして同じような苦しい体験するようになったからである。

介護の問題でも介護をしていない人は介護している人も気持がわからない
一人暮らしの人は二人いるからいいじゃないかと言っていた
こっちは一人だよというのも理解がないのである。
そういうことはいくらでもある、自分の身にふりかからない限り他人事である。
自分が借金したわけではないが借金した人に借金をせまられてその怖さを知った。
借金をしている人はもう頭の中自分の借金のことしかない、相手が病気であろうがなんであろうが関係ない、金さえとればいいとなり殺人にすらいたるだろう。
そういう状態に追い込まれたのが自分だった、だからだから借金というのは怖いのである犯罪があれは借金をしているかどうか調べるのもそのためである。

老後が平穏だということはないのかもしれない、老人には様々なリスクがあるためである特に病気のリスクが一番怖い、これは金があるにしろないにしろみんながもつリスクである。病気になりみるみるうちパタパタとはかなく死んだ身内を見ている
七転八倒して苦しんで死んだ。
老人はまた困難に対処する能力が健康面なので劣ってくる、そして現代では老老介護とかなり負担が増える
何か昔のようなのんびりとした隠居生活のイメージがなくなっている
老人は今様々な負担が強いられているのである。


最も適応する力が衰えた時期に,最も厳しい適応を要求されている

老年という未体験の状況下で自分の過去を引きづりながら,
あらたな自己を形成していく作業 

これは原発避難区域で起きている、最も厳しい適応が要求されている
荒地となったところでどう今度は老人が適応してゆくのかとなるからだ。

老人の最大の問題は金もあるが健康なのである。病気になればすべてが崩れてしまう
その病気もいろいろあるから今回のように熱中症でも死ぬことがあるんだと自覚したのである。


2016年05月13日

人間は失ってみて真の価値を知る (人間は今あるありふれたものの価値を認めない)


人間は失ってみて真の価値を知る  


(人間は今あるありふれたものの価値を認めない)
      

健康を失って健康の大事さを知る
青春を失って青春の大事さを知る
時間を失って時間の大事さを知る
親を失って親の価値を知る
人の価値は死んではじめて現れる
故郷を失ってはじめて故郷の価値を知る
人は今あるものに価値を認めない
ただ今あるものに不満のみを言う
そこに価値あるものでも認めない
ありふれたものに価値を認めない 
故に感謝もしない
その価値に気づいたとそのものはすでにない
二度と帰ってこない 
汝をはぐくみしものに感謝せよ
もはや帰らざるもの
その価値のいかに尊きものなりしかを
人がこの世ある時間は短い
人は束の間出会い別れて永遠に会わない
この世に生きる真の価値は何なのか
その価値を追及すべし
巨万の富を積めど真の価値を見失えば
あなたの人生に実りはなきしを
それは雲散霧消してしまうだろう
真に価値あるものは不滅なり
それは心に永遠に残るだろう
それは天にたずえもちゆくもの 
人は失ってみてはじめて真の価値を知る
それまでは真の価値を知ることができない 
それ故感謝もしないのである
そこに人間の不幸がある



人間の弱点というか不備というかいろいろあるけど人間は真の価値がわからない
今ある当たり前のものの価値がわからない、価値を認識できないのである。
親がいるとすると親がいるとき親の価値がわからない 
それは当たり前にいるものであり尽くしてくれるものだと思っている
親が死んでみて親の価値がわかる、失ってみて本当の価値がわかる 
その価値を知らないから感謝もしないのである。
人間が感謝をしないのはそのもっているものの価値を知らないからである。
価値を認識できないのである


時間というものもそうである、若いときは時間などいくらでもある、ありあまって困っている、暇をどうつぶすか困るとなっている
でもそういうふうに思うのは意外と短いのである。
だから青春というのはあっというまにすぎる、その輝かしい貴重な時間はあっという間にすぎる、たちまち白髪となり体も老いてくるのである 
女性にしても輝かしいときは一時なんだと思う。醜悪な老婆になるのも早い
この世が無常だというとき常に変化してやまないからそうなる
同じ状態を保つことができないのである。

だから不変的な価値を追及しろとなる、不変的なものは普遍的なものにも通じている
それはユニバーサルなものの価値であり世界共通の価値である
人間は何が本当に価値あるものか知ることは容易ではない
失ってみてはじめて知るようにそういうふうに神が定めているとまでなっているからかもしれない
神は何が価値あるものかを教えてくれない
ただその価値を教えるのは失った時なのである。その時失ったものは二度と帰ってこないのである。ただ心の中にその価値あるものは残されるのである。

そして人間が一番後悔するのがそうして失われたものなのである。
青春でも時間でも何でも失われたものが多くありもはや二度ととりもどすことができない様々な経験すらできない、馬鹿げたこともできなくなる
それは青春の特権だとかもなるがこれもあとで必ず悔恨に悩まされる
若気のいたりですまされないのである。 

いづれにしろ最後は老人になれば何でも失ってゆくのが人生である。
何かいろいろ得ようとして働いたとしても失うだけなのである
同世代の人も死んでゆく、あの人も死んだな、あっけなく死んだなとかなり新聞の死亡欄を見るようになる、必ず60代で死ぬ人がいることに驚くのである。
60代でも十人には一人は死ぬとなると当然だとなる
ただ失ったからといって必ずしもそれが完全な空虚になるとは限らない
8年前なのか妻を失った人はその妻のことを相当に愛していたのだろう。
一人暮らしになっても毎日あたたかいご飯を仏壇にあげているという。
何かと供養しているのである。これも問題があるがともかく妻を死んだ後も思いつづけいるのである。
死んでその人の大事さを知ることがある、いつも食事は与えられるものだと思っていたという、「飯」とか言っていれば良かったという、死んでから全部自分でするほかなくなったという。

そのことは全く自分と同じだったのである。自分は親が死んで最悪の状態になったからである。特殊な事情の家庭だったこともあるが自分は楽だったなと思い楽させてくれたのは親がいたからだとつくづく思った。
そこには問題があるにしろやはり死んでみてはじめてその大事さを価値を知ったのであるだから生きているとき当たり前だと思ったことを今は感謝している
死んでもその価値は消えないし強くなることさえあると思う
でも親の価値は死んでみないとわからないのである、それだけではない失ってみないと価値がわからないことが人間には多すぎるのである。
もし親が生きている時その価値がわかっていれば対処の仕方が全く違ったものになるからである。

それはあらゆるものにおいてそうなのである。今あるものの価値が人間にはわからないのである。 
例えば大きく見れば日本という国が先祖が代々作り上げてきた国を意識する人はほとんどないだろう。国とは何かとなると意識しにくいからである。
でもシリアとか見ればわかる、国がなくなることはどうなることなのか?
流浪の民となり国を逃れて死を決して脱出してゆく、そんなことがありうるのかというが世界史ではそういうことがあった、日本にはそんなことがないとは言えない
その時日本ははじめて国のあることを意識して感謝するとなる
国を失ってみてはじめて国のありがたさをしるとなる

この辺で故郷すら失ったというときまさに故郷は何なのかとかその価値が問われたのもそのためである。
故郷が失うなどありえないのである。イメージすらできなかったろう。
それは当然あるものだったからである。この時故郷の価値をはじめて意識したのもそうである。
人間がなぜ人生を後悔するのか?それはあまりにもありふれたものの価値を認めないということである。
人間は何か価値というときありふれたものではなく特別なありえないものを価値としているのである。
そんなもの当たり前にあるものであり何の価値があるのかとなる
そういうことは自然とかにもあるし人間関係であるだろう。
いつも食事が出されて当たり前だと子供を思うのである。
今になれば一切何か料理を作ってくれる人はいないし何にもしてくれる人はいなくなったとなるのである。
だからは余計に失ったもの親であれ妻であれその他感謝しないものに感謝するようになるのである。だからそういう価値は不滅なのである。

一方でこの世にあるもの家でもそれは不滅ではない、消えゆく無常のものである。
津波であれだけの家が流されたこともそうである。家があるとしてもそれは形あるものは消える、でも家の中で通じあった愛とかは消えないのである。
「天に宝を積め」というとき地上にあるものはみな一時で消える、しかし天に積む宝は消えない、それは真に価値あるものである。
人はみな地上に宝を積んでいるしそのために努力している
でも財産を天をにもってゆくわけにはいかない、天に積む宝こそ真に価値あるものであり不滅のものである、だから地上の世間との価値観が大きく違ってくる

タグ:価値とは

2016年05月14日

五年過ぎて蛙の合唱に復興を感じた (田も増えて蛙も増えたが・・・・)


  
  五年過ぎて蛙の合唱に復興を感じた
    
  
  (田も増えて蛙も増えたが・・・・)

     
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ここは増えている、増えていない荒地も目だつ所もある

一かたまり紫菖蒲ここに咲く五年すぎて田んぼの増えぬ

夜に鳴く蛙の声の盛んなり田んぼの増えてひびきけるかな

夜に鳴く蛙の声の盛んなり社の木立にひびきけるかな

夜に鳴く蛙の声の盛んなり田んぼに写る夏の月かな
  
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原発事故から五年過ぎて田んぼが増えた、去年も増えたが今年は相当に増えた、それでも半分くらみたいだ、2015年ではそうだった、去年はまだまだ少ない感じがした。
今年は見ただけで3倍も4倍も増えた感じがする。


Aの内藤一組合長(67)は「このまま農業をやらなければ農家は生産意欲を失い、南相馬の農地は荒れてしまう」と作付け拡大方針の支持を訴えたが、農家代表らは「まだコメを作れる状況ではない」と反発。賠償の継続を求める意見が多数を占めた。   

確かに田んぼが元のように全部回復していない、以前として荒地になっているのも目だつただ自分が一番感じたのは夜コンビニに行ったら蛙の合唱を五年ぶりにきいた。
その声は辺りにひびきわたっていた。去年まで自分の近くでこんなに蛙が鳴いているのを聞かなかった。何匹か鳴いているなという感じだったのである。
やはり田んぼが増えると水が流れるから蛙が増える、それも田んぼが多くななればそれだけ蛙も増える、蛙の繁殖力はオタマジャクシが増えてたちたち増える、でも田んぼがなければ増えないのである。

ともかくその蛙の鳴き声に感じたのはこれが復興なのかと直感的に思った。
復興というとき田んぼのことを書いてきたがこの辺で田んぼがないということが信じられない光景だった、ここだけではないだろう、田んぼがなくなったらそれは田舎なのかとなる、田んぼがあって田舎だと暮らしていたのである。
田んぼは水が命である。水が山からめぐりめぐって米を実らす、その水と切り離せないのが蛙だったのである。その蛙の合唱を五年間も聞いていなかったのである。
その蛙の鳴く声が「復興だ、復興だ」と聞こえたともなる        

復興とは何かというときやはり田舎だと田んぼがないと復興にならない、一方で田んぼがなくなり湿地帯とか草原化した風景についても写真とかで紹介した。
それも自然の変化であり不思議だった。草原には雲雀が鳴くのがにあっていた。
それはモンゴルの風景だった。でも日本の田舎は田んぼがなくてはありえないのである。それは日本人の心の風景にもなっていたことを書いてきた。
それもそのはずである、一千年とかこの辺でも稲作はつづいている
そうなると単なる人工のものではない、自然でありそれは信仰にまでなっていた

だから田んぼの中に社がありそこにも蛙の鳴く声がひびいて社も活きることに気づいた。こうした田んぼの風景と一体となっているのが田んぼだったのである。
蛙は田んぼにとっても欠かせない一つの自然を形成していたのである。
こういう感覚は都会人にはわからない、そこに住んでいてわかるのである。
もちろん実際に田んぼで水を張り田植えして稲刈りをする農民はまた違った感覚をもつ
それもなかなか地元に住んでいてわからないことがある
農家の人にとって飼料米にしかならないというとき残念だろう。

でも半分くらいしか回復しないというが自分の感覚では蛙の声を聞いた限りではそう思えなかった。蛙の力強い声がひびいたからである。これが復興なのかとその時即座に思ったのである。田舎の自然と営みの回復が田んぼが増えたことにあったのだ
だから小高でも避難区域でも田植えしている農民の顔は輝いていたのである。
その時人間も復興していたのである。それは漁師にも通じている
復興とは何かというとき考えてきたけどやはり田んぼがあって復興なんだと蛙の合唱で即座に感じた
他にも菖蒲が咲いているというときそれは水辺にあうから田んぼにあうからこれも日本の夏の風景となっていたのである。

田んぼの風景がなくなったときこれは何なのだととまどいつづけてきたのである。
もしモンゴルのようにな草原ならそれでいい、でも日本ではそんなふうにはなりえない、田んぼはい千年もつづいた営みでありそれは心の風景でもあり文化でもありそれがなくなればここが日本なのかとなってしまうのである。
それだけ田んぼの風景は日本の心にもなっていたのである。
ただパンを食べて米を食べなくなったのも事実である。減反でもそうである。
米は重要な食べ物ではなくなっいる、でも不思議なのは自分の矛盾は気づいたのは
パンを食べていても田んぼの風景がなくなってほしくないということである。田んぼの風景があるためにやはり日本人は米を食べなくならないとかなる
農民が飼料米として米作りするとなるとこれもやる気がなくなるだろう。 
風景論とか文化論からだけでは農業は守れないことも確かである、現実は風景を残してほしいとしても経済の法則で崩壊してゆく、そのために原発が誘致された事実もある

ただ復興というとき何が復興なのかわからないとも書いてきた。その一つの解答が蛙の合唱を身近に聞いたことが復興だと感じた
五年間も身近で聞いていなかったからである。その蛙の声が人間ではない蛙が復興の声だったという不思議である。蛙はそれだけ人間だけではない田んぼと一体化したものだったのである。
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2016年05月15日

メデア(テレビなど)よって一方的に操作される時代 (テレビは感情的に私的制裁するリンチするメデア)

      
メデア(テレビなど)よって一方的に操作される時代
       

(テレビは感情的に私的制裁するリンチするメデア)


●ラジオの時代へ

 メデアが媒介するというだけならいい、ただメデアの種類が増えた現代ではメデアによって左右される、メデアというとき過去のメデアは何なのか?
例えば広大なローマ帝国に情報を伝えるメデアは何なのか?
となると電話もないテレビもないインターネットもない、便利なものはなにもない
そうなれば人間が走るなり馬を走らせるなりしてその内容を伝えるかほないのである。
そのためにローマの道が整備されたのである。「すべての道はローマに通ず」となり広大な帝国を支配したのである。   

忠臣蔵で内匠頭切腹を知らせる早かごはたった5日で赤穂に到着したそうです。約650`の道のりをたった5日で踏破したとは想像に絶します。

どれだけ早く伝えるかが大問題だった。馬も使ったらしい、とすると納得はいく、駕籠だけでは無理である

江戸時代はメデアというものがない、伝える方法がない、何か学ぶにも人伝えになる
直接人を通して訪ねて学ぶとなる、人と人の直接のコミニケーションに頼らざるを得ないだから遠方とのコミニケーションをとるのは相当にむずかしく誤解も生れる
だからローマ帝国のような広い地域を治めるのは容易ではない、遠くで反乱が起きたらどう中央で対処するのか、そのためにすべての道がローマに通じるの格言ができた。
それは今なら電話線とかである。無線通信にも発展しているから現代は距離が情報を通じさせなくなるということはない

現代のようにメデアがないときどうして情報を伝えるのか?まず大勢の人に何かを伝えるというとき大勢の人を集めなければならない、でもその数は限られている
ローマの政治では何かを自分の主張を伝えるのには直接演説している
そういうシーンを映画でみている。演説がうまくないと支持が得られないというのは今でも政治家ならそうだろう、また見栄えも関係してくれる、今ならテレビ写りがいい人が選ばれる、それはテレビとにているがこれまではみんな実物を見ているのである。
江戸時代までは新聞もないから政治は人と人が直接あって物事を決めていた。
例えば相馬藩内の街道を伊達家の侍が参勤交代などで通るとしたら藩主の許可を得なければならない、それは直接あって成されていたのである。
人と人の信頼の上に成り立つ社会だったのである。


現代のメデアの問題はメデアを通して起きることが多いからメデアのことマスコミでも何でも問題にされるのである。メデアの影響が大きいからそうなったのである。
ヒットラーがナチスがラジオから生れたというのもそうである。ゲッベルスが宣伝を担当してラジオを利用して民衆を操作した、ナチスを作り出したのはラジオの力メデアの力が大きかったからだともなる

ヒトラーの独裁は、歴史上の全ての独裁と一つの根本的な点で異なる。あの独裁は、国を統治するためのあらゆる手段を完璧に使用した最初の独裁だ。ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。それだけ多くの人々を一人の男の意志に服従させることは、こうした装置によって可能になった


ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。
これだけの力をラジオがもっていたのだからテレビがもつ力はそれ以上であり計りしれないものとなっていたのだ。第一ラジオは音しか聞こえないメデアである
ラジオは音に敏感になるメデアなのである。顔とか表情は見えないからである。
それで宝島の放送で杖つく海賊の音が迫ってくるのに恐怖を子供のとき感じたのである。音は意外と一人暮らしなどしているとカランとした家にいると恐怖である。
風の音でも誰かがいるようで不気味になるのである。


●テレビの時代      
  

感情的(即座に反応)

□大衆的、一方的洗脳メデア

□メデアによるリンチ(私刑)を煽動する

現代はテレビの時代であった。インターネットが出る前の50年間くらいがそうだった
テレビはラジオより影響力があった。ラジオ放送で有名な人がNHKでテレビになったとき活躍できなくなった。
テレビは人間をそのまま写すから見栄えが良くない人はテレビ向きでとないのである。
だからこそタレントが一番向いている、テレビに出る人は俳優なのであり役者である。
演技するものだからである。

テレビの特徴はいろいろあるが感情的メデアなのである。活字とかラジオとか文字と音だけのメデアだったら感情的にはならない、本や新聞を読んでもすぐに感情的にはならない、冷静にみる。

「なんだあいつの顔が気にくわねえ、もっと顔のいいやつを出せ、、、、」

顔とか表情がまず注目される、だからアナウサーは美人でないと勤まらないのである。
知性よりその顔をみるからそうなる。

そしてテレビは一方的洗脳メデアである。テレビは何か疑問に思ってもそれを追及できないようになっている、そんなことあるのと思っても追及できない、一方的にテレビ局に洗脳されるだけなのである。
テレビの放送は中立ではない、一見NHKは中立のように思える作り方をしている。
でも巧妙にかたよっているのでる、気づかない人も多い。

何回もとりあげるが相馬市で飯館村の人がトマト農家に勤めたいと言ったら断られたことを放送していた。一瞬自分もそのトマト農家がひどいなと思って怒りを覚えた

「なんだ、その農家は冷たいな・・・・飯館村の人はかわいそうなんだから雇ってやれよ」

とかその放送を見ればみんなそうなる

別に自分は飯館村の人がどうだこうだというのではない、その断られた理由は飯館村の人は補償金をもらっているが津波の被害者はもらっていないからだと理由ははっきりしていたのである。
雇う人はそういうふうに考慮するのは悪いことではないのである。
現実に原発避難者の補償金は多額であり回りではうらやましがってもめている
相馬市では第一原発の補償金などもらっていないからである

●テレビはリンチメデアである 

メデアは一方的に告発してリンチする

すでにテレビの画面に写されただけで犯罪者と確定しなくても犯罪者になってしまう。
テレビ自体がすでに大衆的リンチメデアなのである。そんな権限はないのだけだそうなってしまう。事件でもいろいろ複雑であり突然起きたことに普通は理解できない。 

それで小保方氏の万能細胞についての問題でも過度にテレビでリンチをしてNHKでは理研の一人を自殺に追いやったと武田邦彦氏は言っている
自分は科学に弱いからそのことはわからない、でもテレビが感情的になり大衆的一方的洗脳メデアであるからこそそうなる

「なんだ、嘘ついたのか、ふてい女だ、乳がでかいな、・・・・」

小保方氏はこうしてテレビにさらされリンチされたのである。もちろんそれなりの罪を犯したことはある。でも何か過剰にテレビはさらして大衆にリンチさせる
それは東京都知事の舛添氏でもそうだろう。これは当然だとも思うが過剰にリンチになるということが問題なのである。
そこには当然であっても何か大衆の心理というのがからんでいる   
舛添とかショーンケーンとかはテレビを利用して有名になり今度はそのテレビに復讐されているのである。有名にしてくれたのもテレビであり逆に極端におとしめるのもテレビなのである。そういうふうに有名になったのが悪いともなる
単に「有名な人」がテレビから出る人には多いからである。有名になったというだけで議員にもなれる、でも実力がないのだからボロがでる 、それは自業自得だともなる

今の世の中でも不満が大きい、その不満が鬱積している、その不満の捌け口を求めている貧乏にも苦しんでいる、すると上にたつ金持ちに対しての不満をはらしたいがなかなかできない
タックスヘイブンなどとなるとどうしていいかわからない、それこそ巨悪なのだが巨悪に対抗するのは簡単にはできない
それで不満の捌け口がそうした一個人や弱い所に向けられ集中して鬱憤を晴らすもちろんそうあるべきなことは否定できない、でもそれが過剰になると危険になる
ナチスが起きたとき失業者があふれドイツは貧乏で苦しんでいたからその不満の捌け口を戦争に求めたのである。  

どこでも中国でも北朝鮮でも不満層相当いる、その人たちのガス抜きとして日本がある。反日ということではともかく内部の分裂ではなく国が一致できなるからそうなる
そういう心理が大衆にありテレビはその不満の捌け口としてリンチ的に晒すのである。 
こういうことがあるから司法が生れ裁判が生れた経過がある
でも人間の心情にはリンチして制裁したという願望がある
自分とかかわらなければ他人をおとしめリンチすることは快感となるからだ。
そこに公正に見る力がなくてもいいのである。むずかいしことを言ったらわからないからである。
テレビの問題はすでにリンチの裁判所のようになっていることなのである。
一旦そこに顔を出されたらすでに社会的制裁になってしまうのである。
複雑な背景など関係なくそうなってしまうのである。
大衆的悪感情を刺激するのがテレビの私的リンチなのである。
そこにテレビというメデアの危険性がある






タグ:テレビ批判

2016年05月16日

パソコンの具象画から具象画への変化 パソコンで作り出された自然の景色の不思議



パソコンの具象画から具象画への変化
  


パソコンで作り出された自然の景色の不思議 
    


 花画像ーここに具象画の山と花の絵がある


riverflowerrrr1.jpg
クリック拡大

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wavecccccc1234.jpg

春の山(mountains of spring)


 

これは有料のサイトである。このプロが作る素材は商売になる、それは現代のまさしくアートなのである。
アート(art)は技術の意味である。アートを作り出す技術が生れたのである。
これは雑誌とかではないインターネット空間でのみありえる世界である。
インターネットのみの空間でネットで広がるアートの世界が生れた

パソコンで作り出された具象画は絵の具で作り出されるのとは違っている
今までにありえない電子色の表現なのである。
だからそれは電子空間のインターネットで見れるものである。
そして電子の光の絵画はパソコンのソフトで変化しやすく別なものに変容するのである。こういうことは今まではありえないアートだったのである。


今回はパソコンの絵画をそれは実物を写生したものではない、空想の絵である。
それを変化させたら全く意外なものになった
具象画から具象画と変化した不思議がある。
これは元の絵がわからなくなるものだった

絵の才能がなくても絵を創作している気分になるのも不思議である
著作権違反なのかというとなるかもしれない
ただ全く元の絵ともにつかないものになっているからこれはオリジナルですよといえば
通ってしまうだろう。今回のそうである。
抽象画だと余計に元の絵はわからなくなるから著作権を主張しにくくなることは確かである

一応変化させた絵のサイトをリンクした。ここは有料だからまずいということはあるが一つの参考として出した

2016年05月17日

東京都知事ー舛添要一のネット情報 (妻は創価の幹部で知事も創価の応援でなった?)

     
東京都知事ー舛添要一のネット情報


(妻は創価の幹部で知事も創価の応援でなった?)


厚労相就任の日も真夜中に洗濯…妻が語る「舛添要一という男」(2007年9月9日06時02分 スポーツ報知)より抜粋

◆舛添雅美(ますぞえ・まさみ)

1964年1月6日、神奈川県湯河原町生まれ。43歳。聖心女子大学文学部卒業。
89年に美術館学芸員として働きながら、東大助教授だった舛添氏の私設秘書を務めた。その縁で96年に結婚。 

私が自民党は公明党を切れと度々書いているのは、創価学会に裏支えされる公明党が、国家の中枢にいるべき政党とは思えないからである。そして、国政とともに、創価学会の息がかかる都知事が誕生すれば、国と首都に学会の手が及ぶことになる。舛添が都知事になってはいけない理由もそこにある。


創価のシンボルそっくり
都知事の奥さんは創価の幹部
競技場を建てるのは大成建設(創価企業)
新エンブレム 創価学会のシンボルマークにそっくり
2016-04-26T12:12:18+09:00Posted by 龍二 1


自民党が除名した舛添を担ぐなんてどうかしてます。案の定、こんな守銭奴を都知事にしてしまった!

一方、本来、反自民反公明の共産や民進が舛添批判をしないのは「舛添が韓国擁護派」だからでしょう。まさに、共産と民進は売国奴ですよね。舛添がいくら批判されても平気なのは「韓国カード」をしっかり握っているから。 そういう点だけは舛添の「ずる賢さ」が活かされています

法令に違反してまでして宗教法人としての認可を与えた張本人である東京都の知事と役人が
その後も創価学会の宗教法人格を取り消さずに知らん顔して与え続けているようです。
知事と役人が創価学会と癒着または信者本人であることがミエミエです。




舛添東京都知事に興味をもったのはもともと東京都知事になりえたのは創価の応援があったためだと分析がある。
自民党から離脱したのになぜ自民が応援したのか?それは同じ政権党だからそうなった。公明の要望でそうなった。政治的取引だったとなる
公明創価色が強い人物だった。婦人部からは女性歴で問題があり反対があったが押し切った。
舛添知事は公明創価の傀儡だったのか?それはネットの情報を探れば確かにそうみたいだ創価は東京は本丸であり大阪もそうであり重視している。
日本を支配するためにそうなるから東京都知事が誰になるかは重大である。
   

宗教法人団体の認可を与えるのは東京都なのだから東京都知事を創価の傀儡にすれば万全だとなる、そして東京都を創価支配下に置き権力を操作できる
だから創価は選挙に血眼になる、創価は自分も学生時代運動していたけど「権力奪取」を目的とした団体であり利権を得るためのものでありそれ意外なにもないのである。
仏教がどうのこうのとかそんなものは何も関係ない、仏教はだ御利益を得るものでありその指導はただ何か困ったことがあれば題目をあげろそれしかない、そこに何かしら人生論を説くなど何もないのである。
そんなめんどうなことにはかかわらない、福運があることだとか何か御利益にあづかることしかない、そのためには団体一丸となって東京都だから日本だろうが私物化するのである。それを象徴していたのが舛添東京都知事だったともなる 

舛添東京都知事の妻が創価の幹部らしいというときそれは裏づけがあるのでまちがいない公明党の選挙応援をしていたからである。
それは外部のものとしてではなく内部のものとしての応援だったのである。
舛添知事はそれだけ創価と深いつながりがある人だったのである。
だから今になると舛添を応援したバックの創価などが批判されている
ところが東京都議会とか議員とかが批判しないのか?
それは東京都の土地の一部を韓国に与えたように韓国とのつながりが深いからである。
すると野党は舛添知事を批判しない、背後にあるものが大きいので批判しない
舛添知事が強きなのはそのためなのである。

創価も日本の癌なのだけどこれにかかわらない人はいないだろう、例え会員でなくても近所に必ずいるのだからかかわらざるをえない、そして底辺層は創価か共産党と必ず関係している。ほとんど生活保護になっているからそうなる
そういう利権を与えて票とりしているからである。
市営住宅ではどっちかに必ず入っているのである。それは都会だとそうだと思っているが田舎でも同じなのである。議員には必ず一人か二人いるのだからそれだけの票をもっているということであり会員がいるのである。

創価の人はともかくまともでない、常識もない人間が多いのである。そのことでも嫌われている。最近草むしりしてもらった人は創価であり猫十匹飼っていてそのために去勢手術したとかで20万の借金があという、これも生活保護なのになぜそんなことをしているのかとなる、知らないでかかわったがあとはかかわらない。
ただ自分も一人暮らしで猫を飼っているから猫は子供を生むと本当にやっかいだということがわかったからそんなふうになってしまうのかとなる
どんな宗教に入っているとか信仰しているかを見る前にその人がどんな人か見るべきだろう。

イスラム教であれキリスト教であれ人は判断できない、そこには常識もないとんでもない人間が無数にいるからである。
あの人はキリスト教を信仰しているのだから心も清い立派な人だろうとかならない
エホバとかもそうである。それはカルトでありただ会員を増やすことを目的としている
いちいち人を選んでいたら会員は増えないからである。
カルト宗教団体の目的は権力を得ることなのである。だから政治化している
会員数を増やして政治に影響して権力を左右することなのである。
おそらくエホバなどでもは背後に大きな権力、アメリカなどの意向が働いて活動しているのだろう。

創価などはどんな人間でもいい、屑人間だろうが非常識だろうが一票にさえなればいいのである、その人がどんな悪辣であってもそうである。
だからそこにどういう人間たちが集まっているから想像すべきである。
宗教的回心などいゼロである。ただ幹部すら仏罰を恐れているのである。
それは得をご利益をひたすらもとているのだがそれが得られなくなる恐怖なのである。
それが地獄なのである。地獄に落ちる、罰あたるとすぐに言うけどそういう本人が宗教的呪縛されているのである。
あんたたちが一番罰当たり地獄に落ちるんじゃないかと思うし実際そうだと思う

悪人が宗教にかかわるとますます悪人になるというのは聖なる宗教を自分の欲のために利用するようになるからである。
この世では要するに宗教すらサタンのものになる、サタンは宗教を使いこの世を支配するのである。カルト宗教団体がまさにそうなのである。
それでヨーロッパではカトリックの批判から政教分離が生れたのである。 
自分は時事問題の深層から政教分離のことは追及してきた。
日本では天皇教があり戦争で多大の犠牲かあったということもあり戦後雨後の竹の子のように宗教団体が増えたのである。
その弊害の最たるものが創価だったのである。  

ではなぜ創価という政教分離に反する危険な団体が弱体化しているにしろ存在し続けるのか?
それはやはり底辺層を吸収してゆく、カルト化しているからそこで誤った宗教で奴隷にする、こういうことは結局おそらく人類からなくならないというほど絶望的のようにも思えるほど根深いなのである

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」 (ローマ八の15)

奇妙だけど教会でも牧師がいるとすると奴隷の霊に支配される、牧師が霊をさずけるのではなく神しかいないからである。だから内村鑑三は無教会を唱えたのである
人間は根本的にここを解決しないとカルト宗教団体はなくせないのである。
幹部たちが実際は奴隷の霊を受けて奴隷なのである。だから罰あたるとか地獄に落ちるとか恐れている、実際にそうなることはまちがいない  「地獄だ、罰だと軽々しく言うな、お前らにその言葉がかえってゆきその通りになる」
宗教をそれほどまてに堕落させ世俗の道具にしたのは余りにも重い罪だからそれはもう逃れることはできない、カルト宗教団体の会員はそれだけ重いカルマをもって来世に行くことになるのである。それを自覚できないのはまさに致命的であり来世で後悔してもも遅いのである。
数が多いからすべてが許されるのか?この世でも通ってしまうのか?まさにナチスがまた現代に再現される、中国やカンボジアのように粛清され大量殺人が生れる

ただ庶民というのが馬鹿なのかというとそうでもない、そんなカルト宗教団体にだまされない人もいる、そういう人は社会の常識をもっているただろう。
なぜ創価がオウムのようにならなかったか?それは創価は庶民が底辺が多いからである。
そういう人たちは得か損に敏感であり損なことはしないのである。                
池田大作が庶民の王だというとき庶民的感覚を重視しているからそうなる
サリンをばらまくということにやはり疑問をもつということあったのだと思う。
ともかくなんであんなのが宗教なのか、その会員を身近でみているからそうなる、創価などでも非常識な人が実に多いからまわりから顰蹙をかっている
庶民でもそういう常識をもっている人は入らないのである。
一方で知識人でも頭がいいとしてもオウムのようにカルトに入り人生を無駄にする人がいる、そうならないのはそれはかえって庶民の常識をもっているからである

だからつくづく常識が大事だとなる、そもそも宗教が権力をもった時点で過ちになったことは歴史が証明している
権力をもつが故に宗教戦争になる、その創始者が乞食のうよな生活をしていたことを見ればわかる、今ならそんなことをまねることすらない、ただ権力をもち威張り贅沢をしたいしか宗教でもないし宗教がそういうことを欲望をかなえる道具に成り下がってしまった。その誤ったカルト宗教が社会にものすごい大きな災いをもたらすのである。
批判すると罰あたる地獄に落ちろとか百万人の人間でも叫ぶことはハイルヒットラーとして敵対者を大量殺戮したと同じなのである。 

いづれにしろ情報は権力があるものが操作する。権力があれば白を黒と言うことができるその権力とは何かというとき、実際に権力をもっているもの行使できるものである。
例えば必ず背後にいて権力を行使する、今度のオリンピック招致問題でフランスがワイロを贈ったことに「電通」が関与したと指摘されたのもそうである。
電通は表に出てこない、でもテレビ局を支配しているのは電通だと承知されている
それが外国によって暴かれたとなる、創価もバックで情報を操作する権力をもっている。だからバックにあって表面に出てこない、またアメリカでもバックにあるし中国でもそうである。
巨大な権力によって情報でも操作され真実は見えなくなる、つまり権力そのものが情報を操作できるのである。それが真実とかどうかは関係ない、権力者の都合のいいように操作できる、原発事故でも東電と政府の権力が絶大だから「安全神話」が作られたのである。
権力が神話を作り出していたのであり真実ではないのである

でもいくら権力で情報を操作しても原発では津波や地震の自然災害でその嘘が暴かれた。今回もやはり巨悪でも暴かれるのかとなる、舛添知事の場合は小悪だとしている
オリンピックが巨悪なのだろう。そこにも創価がかかわっていたのである。
オリンピックも巨大な利権だからそうなる、利権となると食いついてゆく
大成建設が競技場を建てるというときそうである。大成建設は創価の正本堂を建てた。その時大成建設の社員が創価の会員になっていた。
その大成建設の社員宅で座談会が行われた。大成建設と創価はもともと結びつきが深い、それで創価大学の就職先として一定の枠がもうけられている。

そもそも創価はそうして権力を操作したいから権力に執拗に執着して権力を我が物にしようとする団体だからそうなる
権力そのものを追及しているのであり真実、善、義など関係ないからである。
東京都民も公明の議員に都政が牛耳られ利権を行使されることに不満な人が多い、そういう人たちの不満がいつか爆発する
その時創価でもどうにもならない、創価で運動しているのは実際は十分の一にも満たない、あとはほとんど幽霊会員であり一票とるためとしてある。創価をやめた人はすでに何百万人なのである。もう衰退する団体であり最後のご利益を得るために運動しているのだろう。
そして組織が崩壊する日も近いからである。
仏教はご利益のためでにある、あとは何もない、巨大なご利益権力圧力団体にすぎないのである。そこには一かけらの仏教の真理とかも関係しない、ただご利益追及のために仏教があるだけである。

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