2016年05月01日

山桜短歌十首(栃窪から佐須から霊山へ)


山桜短歌十首(栃窪から佐須から霊山へ)



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佐須の峠

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栃窪に老いゆく人やシャガの花

飯館村石に芽吹きや峠越ゆ

花の影休みて去るや峠かな


山桜風に吹きゆれけたたまし朝鳥鳴きぬ声のひびけり

山深みたずね分け入りいづくより朝に風吹きなお花散りぬ

人住まぬ佐須を去りゆく枝垂桜帰りを待ちて庭に咲くかな

八重桜夕日のさして赤しかないつ帰らむや村人を待つ

磐を打つ流れひびきて朝清し高みに朝映え山桜咲く

山桜山間深くなお咲きぬその清しさや風に散りなむ

山桜高みになおも残り咲き散りゆくものや流れ清しも

霊山に雲の乱れて流るかな山桜映え南朝滅ぶ

山桜なおも散りしも霊山を落ちのぶ方は我が里なりき

吾妻峰に残れる雪や山桜霊山に映え岩の黒しも



栃窪村では田んぼをつくっていたが飼料米にするという、栃窪は水がいいので米がうまいと前は自分の家でも栃窪から米を買っていた。
飼料米になるのもわびしいともなる、老人か杖をついて歩いていた
その土地で生れて育ち死ぬのも幸せだとなる
だから原発避難者は不幸だとなる

山桜はまだ咲いていた。飯館村には人は住んでいない、一軒一軒に枝垂桜が咲いていた
八重桜も咲いていた、山桜はもともと日本の山だったらどこにでもけ咲いていた
しかし万葉集時代は山桜は注目されていない、外来の中国から入った梅の方が人気があったのだ、桜の宴ではなく梅の宴だった、だから人間はつくづく人間は身近にあるいいものを理解していないのである。
それは今もつづいている、外来のものばかりいいものとするのか特に日本の風潮なのである。

それで本居宣長が大和心と唐心を区別して大和心を見直したのである。
とにかく明治維新以来外来のものに席巻されて何が日本の心かもわからなくなった
そして言葉だけがとびかっているだけである。
民主主義となれば自己中心の利益主義権利しか主張しない
外来のものがいいとしてももともとあった日本の良さがほとんど喪失した
それより大和心が何なのかわかなくなったのである。

ただ自然というのは自然の美は変わらないからそこから日本を意識する
山桜はいたるところに咲いている、それもあまり注目していなかった。
桜というとき染井吉野が主流になったからである。
山桜は山に咲くからより清しさがある、天然の美があるが染井吉野は何か艶なものなのである。

霊山というとき南北朝の争いの場でありはかなく炎上して終わった
そこから落ち延びたのが南相馬市の鹿島の真野である。
そこにお浜下りの祭りが残されている、それは落ち延びた時の姿が祭となった
でもあんな恰好していたというのも不思議である。そもそも途中にそんなに家もない時代である。
ともかく歴史的なものがあるとその歴史とともに心象風景がつくられる
今回は曇っていた、それで雲が霊山の上を乱れ流れていた
それは何か落ち延びてゆく人をイメージするのである。

タグ:山桜

2016年05月02日

和歌山県をイメージする (古代からふりかえれば・・・)


和歌山県をイメージする


(古代からふりかえれば・・・)



4月1日時点の和歌山県推計人口は、95万8018人(男性45万408人、女性50万7610人)で、1 
 997年以降、20年連続の減少となった。1年間の減少数は9347人。 
 減少幅は拡大傾向で、調査開始の1967年以降最多となった。 


紀伊半島の由来ともなった紀伊国の大半に当たる(一部は三重県となっている)。江戸時代は初期には浅野家、のちに御三家の紀州徳川家の領地(紀州藩)であった。附家老として田辺に安藤家、新宮に水野家を置いた。古くから「木の国」と謳われたほど山林が多く(中山間地域の比率が7割超)、紀伊水道や熊野灘を挟んで変化に富んだ海岸線が続く。また、このような深山幽谷の地形から高野山開基による仏教寺院や熊野三山などの神社信仰が発達しており、その一方で中世から近代にかけては紀ノ川沿岸を中心に全国から見ても大規模な都市が形成されていた。


水戸、尾張より格上だよ将軍を7人も出してるし。 
 最後の将軍も一橋慶喜じゃなく、 
そのまま紀伊家の徳川家達にしてりゃ 
 もう少し江戸幕府も存続してたかも知れない。 
 和歌山は多くの優秀な人材を輩出してる。弘法大師空海が 
最後の修行の場を和歌山の高野と決めたのには理由がある。 



根来衆など問題地域 
 大阪の監視 
 昔は船運メインで大都市 
 将軍輩出 
 鉄道に変わり徳島共々衰退 
 道路に変わっても変わらず衰退 

 和歌山は行き止まりだからな 
和歌山の向こうには海しかない 

親戚が新宮という所に住んでるが和歌山まで車で五時間以上かかる 
険しい峠もあるし全く地元という感じがしないといってた 
三重の県庁所在地の津の方が近いから三重県にしてほしいともいってた 

確かに和歌山は、和歌山市以外平地という感じのところがほとんどないな。 


 房総も先っぽは過疎だし、 
 三浦も絶賛減少中。 
 伊豆も言うまでもなく。 
 人口密集地の隣にあろうと、 
 半島はどこも大変。 


熊野古道
端くい岩
竜神温泉
十津川温泉と龍神間を結ぶ酷道(国道425号?)
那智の滝

1585年(天正13年) - 羽柴秀吉の命を受けた羽柴秀長による和歌山城築城開始。古代からの名勝地「和歌浦」に対して、秀吉が「和歌山」と命名したことに由来する。
近世[編集]


俗に「根来」と称される朱漆塗器物の一群は、繁栄を極めた中世の紀州根来寺で
一山内の旺盛な需要を賄うために製作された朱漆器が主流をなすが、江戸時代に
入ってからも庶民の間では「根来もの」「根来出来」と称されて喧伝・珍重された。

 それは中世根来一山内の組織立った工房が優れた木地師集団や塗師を擁し、彼らが
積極的に機能的で洗練された美しい形姿と微動だにしない頑健な素地づくりに励み、
さらには堅牢な塗り肌を持つ良質な漆器に仕上げられたからに他ならない。



和歌山市加太

旧休暇村・加太研修センター

藻刈り舟 沖漕ぎ来らし 妹が島

 形見の浦に 鶴翔るみゆ

巻7−1199


紀伊の国の 雑賀の浦に 出で見れば

 海人の燈火 波に間ゆ見ゆ

巻7−1194

和歌山市和歌浦中

玉津島神社・塩竈神社

若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ

 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

巻6−919


海南市下津町大崎

大崎集落手前

大崎の 神の小浜は 狭けども

 百舟人も 過ぐと言はなくに

巻6−1023

日高郡由良町白崎

白崎海岸

白崎は 幸くあり待て 大船に

 真楫しじ貫き またかへり見む

巻9−1668




和歌は若であり若の浦だった、和歌山県の由来は浦と山の県だということで地形と一致している。 
ある県からどれだけのものをイメージできるか?イメージできるものが多ければその県のことに興味をもつ、和歌山県のことは結構イメージできるからふりかえると興味をもった隣の三重県についてはほとんどイメージできない。
和歌山県というといと古代から歴史があり万葉集の歌の数も多い、和歌山県という名自体が若の浦の万葉集からでている。
和歌山県というとき今は辺鄙な場所であり過疎地が多くなっている。地形的に平地がほとんどなく山と海しかないからである。
古代にさかのぼるとかえってそこは海があり漁業があり特に木の国と言われたごとく木材の供給する地として知られていた。

島隠り 我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上る ま熊野の船  山部赤人

このま熊野の船は有名であり船をつくる産地として熊野があった。熊野信仰も全国に広がった。特に東北にも広がり熊野系の神社が多いのである。そして和歌山県に鈴木姓が多いというとき相馬でもそうでありそれは熊野信仰をたずさえて移住した人が多いからである熊野信仰は山岳宗教のメッカであり高野山もあり熊野詣でがあり海と山との典型的な日本の地形の国としてもみれる、太地町のように鯨業が盛んだったのも海に活路を見いだすことがつづいていた。
今は辺鄙な地域であるが古代から船をつくる木の豊富な地域であり交通の要所としてあった。それから信仰も盛んであり江戸時代でも和歌山城でも立派であり徳川御三家であり吉宗将軍を出している。
この船をつくるということは重要なものでありそのことが見失われている。
外国でもレバノン杉が有名だけど船材として利用されて喪失した、つまり船というのが重要な役目をになっていたのでそうなった。船はやはりその後も大航海時代でも一時代を開いたように重要なものだったからそうなった。

 大阪の監視 
 昔は船運メインで大都市 
 将軍輩出 
 鉄道に変わり徳島共々衰退 
 道路に変わっても変わらず衰退 

これは古代からもつづいていた地理的宿命であった。船運があり確かに船は徳島にも出ていた。自分は日本の船だとたいがい乗っている。それだけ暇だったともなる。船は時間がかかるからである。沖縄には東京から5日間か7日間だったとかかけて行った。あれは客船というより貨物船だったのだろう。あれには一番長く船に乗っていた。あんな経験はなかなかできない、今はなくなっている
普通の船だと船はそれだけ時間がかかっていたのである。船旅と電車の旅は十分にした。自転車の旅もしたがこれはまだものたりないとなる、今になると疲れて自転車の旅はできない、やはり若い内にハードな旅はしていた方がいい。
 鉄道に変わり道路も変わっても衰退したというのは船運なら陸の孤島でも良かったからである。むしろ船材が供給されるから有利だったとなる。
江戸時代でも北前船があり船が重要な役割を果たしていたのである。 

新蕎麦やむぐらの宿の根来椀 蕪村

山深いということで木地師がいた。それが寺と結びついていた。寺は当時は文化の担い手だった。これなども歴史として興味深い、和歌山県はこうしていろいろとイメージできる県単位でイメージできる県が少ない、何々県とあってもそこをイメージできればその県に興味をもつのである。
その県をイメージするにはまず地理と地形を具体的にイメージできるかどうかなのであるそれには旅しなければわからないということである。
その点自分は全国を旅しているからある程度はイメージできる。

和歌山県というとき山と海の国であり今になると産業的には不利であるが観光としては面白い国かもしれない、

和歌山城石段長く我が上る登城するなれ秋の朝かな

和歌山城の石段は長く感じた、やはり吉宗の城であり55万石であり大きな城である。
山と海の国にしても木材の供給地でありそれだけの経済的基盤があったからそうなった。江戸時代でも地方には木材などは森林資源は大きな財源になっていたのである。
それが全国的になくなったとき地方は衰退したのである。
地方から供給するものがなくなり工業社会になればそうなる、石炭なども供給されないし結局地方は原発を作りそれは地方で供給されるものではない、そして森林も汚染されるだけとなったのである。

タグ:和歌山県

カルマは必ず清算することを要求される (人間の奢りには必ず罰が与えられる)


カルマは必ず清算することを要求される


(人間の奢りには必ず罰が与えられる)


その人間にメグリなくしてもメグリ負うことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり、試練であるぞ。(ひふみ神示)

一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。

このメグリを負うのは家だったら長男、長女になりやすい、まさに自分がそうだった。
実際に自分の家の血縁関係で家族で残っているのは自分一人になったからである。
最後に供養しなければないなのは自分だけなのである。

それぞれの家が何らかのカルマを背負っている、良い面と悪い面のカルマを背負っているそしてカルマは悪い面に現れるときカルマを意識する、現れないとき意識しないのであるなぜこんなひどいことになったのかとかこんなに苦しむのかとカルマを意識するのである
ここ十年の間に起きたことは自分の家のカルマであり自分自身のカルマであり地域のカルマであり国のカルマであり天変地異が津波などもあったからこれもカルマでありあらゆるカルマが自分を襲った。
原発事故も起こるべくして起こったカルマなのである。
事故もカルマであり起こるべくして起こる、偶然ではないのである。

不思議なのはなぜある人が理不尽な犯罪にあうのかということである。なぜその人だけに犯罪にしうのか?これも不思議である。
強盗にあいわずかなの金で殺されたりする人もいる、これはなぜなのか不可解としか外から見ればなる、でもなんらかそこには必然性があるのかもしれない、なぜその人だけがそんなひどい目にあうのか納得がいかないからである。

例えば強欲な人が強盗に襲われて殺された、そこに働いていた家政婦は助かった。
それは外から見るとあまり同情されないかもしれない、極端になるとい気味たと見る人もでてくる。
その人は金をためすぎてそのカルマとして強盗にあい殺されたのかとなる
こういうことはかなり確率的に起きやすい、金持ちの家は危険なのである。
金がないこともカルマであり金があることもカルマなのである。
そしていつカルマの清算を強いられるのである。

はっきりカルマが目に見えてわかるのは必ず親のカルマを受ける、いいにしろ悪いにしろ受けることは逃れられないのである。
それは長男と長女が受けやすいのである。
なぜあの人は今になって夫の借金とかで苦しんでいるのか?その親は夫が身体障害者でさんざん苦しんだ、そしてやはりまた夫でその子供が苦しんでいる
何か親の苦しみをカルマをその長男長女が引き継ぐ、それは自分もそうだったのである。

その苦しみを書いてきたけどさんざんな目にあったのはなぜだったのか?
やはり自分の家の親のカルマを清算するために苦しんだのである。
金がないにしろあるにしろカルマを受ける、親が強欲で金を子供に残してもそのことがカルマになり子供がそのカルマを清算することになる
それは強盗のような目にあったことがそうだった、それは悪い面のカルマだったのであるだから金があるこからとすべていい方面に働くとは限らないのである。
もちろんないはないで大きな問題をかかえる、ないということもいいわけではない。

熊本地震でもなぜ東日本大震災とが原発事故でガレキを熊本県が受け入れなかった、そして東北や北海道は地震地帯であり自分の所は地震が起きないからと企業を誘致する宣伝を県単位でしていたことが批判された。そのカルマとして地震が起きたのかともなる。
地震とか巨大な津波とかはもう人知を越えたものだからそこに神というのでもなくても大自然の地球を調整する働きであるという人もいる。
そして必ず何かカルマを受けるとき罰のようなものを受けるとき人間の奢りと関係している、熊本県もそうだった、地震が来ないと奢っていたのである

それは個々人にも言える、人間が奢るとき非常に危険なものとなる
原発は事故が起こらないとか、自分は優秀だとか何かそうした奢りが危険であり必ずそういう奢りは打ち砕かれる、親戚の人も誰もとれない資格をもっていて優秀だと奢っていたでも事業して失敗した。何か奢る人は他者を馬鹿にしているのである。
それは自分の家族でもそうだった、死ぬまで自分は優秀だったと言って死ぬのも異常である。
実家の祖父にあたる人も警察署長とかして事業に失敗した。これも奢りだった。
ただ逆に働くことしかなく貯めることしかしないうかな親もどうなったのか?
それも盗まれたというのはカルマだったのかもしれない、ただためるだけで有効に使わなかっただけだったからである。
だから金というのは何かカルマとしてはわかりやすいのである。
そうした親のカルマを自分は引き継ぎ苦しんで清算したのである。

いづれにしろ個人単位でも地域単位でも国レベルでも奢りは身を国も滅ぼすのである。
日本は神国だから戦争に負けないというのも奢りだったのである。
神は高いものを低くするというときそうである。
それは国レベルでも起きてくる、大国が強国が必ずしも強いとはならないのである。
そこには神の采配が働くのである。
アメリカとか中国は大国だけどなんかの調子で弱体化することがある

聖書でも常に奢りは戒められてきた。そして人間の奢りに罰が与えられてきた
それは歴史的にも国レベルでもそういうことがある。
いくら強固でも大国でも小国を勝手にできないということもベトナム戦争であった。
あのような小国をどうしてアメリカが勝てないのかということかあった
ゴリアテはダビデの投げた小石の一撃で死んだ
イラク戦争でもアメリカが勝ったわけでもなかった、かえってイスラム国を産みシリア難民を産み混乱と苦しみを与えただけだとなる、その原因はアメリカにあったともなる
イラク戦争がその原因になっていたからである。
つまりアメリカというのは世界的にも相当なカルマを国として背負っている
日本に原爆を落としたのもそうだしアメリカのカルマもいつか清算を強いられるかもしれない、ハルマゲドンも人間のカルマの清算として起こるとされているのである。
人間がどれだけの罪をカルマを積んでいるからそれ歴史的にふりかえれば目がくらむだろう。
その清算にはハルマゲドンのようなことで清算するほかないとまでなっているのである。

自分にも自分の家にもカルマがあったが自分に対して非情にしたものたちもカルマを逆に受ける、別に自分は恨まないにしてもカルマを作ったからカルマを相乗して受ける、かえってゆくことになる
それがカルマの法則なのである。その法則から誰も逃れられないのである。
カルマはある時一定期間は受けざるををえないし逃れることができない、その苦しみが清算されると逆にカルマは関係したものに返ってゆく
だから良いカルマを積めばいいのだが悪いカルマをそこで積むとカルマは何倍にもなり清算することが容易でなくなるのである。
恩を仇で返したりしたらそうなる、そのカルマは過酷になることは確かである。

2016年05月03日

水の流れ(abstract-flows of water)



水の流れ(abstract-flows of water)


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銅鐸

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銅鐸

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縄文の紋様

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原初の海

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色を変える流れ

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水の流れという連作がつづいているのはpaintshopの波wave)利用したからである。
これが一番抽象画になりやすいのである。

今回は銅鐸が偶然にできた、銅鐸は日本の古代の祭りに利用された。
流水紋というのがあり何か流れと関係していたのである。

The bronze bell-shaped vessel that a bronze bell-shaped vessel was made accidentally this time was used for an ancient festival of Japan.
A running water crest was related with some flow that there wa

この流れは千変万化あることがわかる、流れにはそれだけの個性があるという発見である流れは一様ではない、水はそもそも一番変化しやすい、信じられないほど水は変化しているのである。
水は意外と動的なものであり静謐さもあるが恐ろしいほど動的であり怖いということもある。

レオナルドダビンチが水に魅了されたのもわかる、水は恐ろしいものでもある。
それは津波でこの辺は大被害になり実感した。
海の水というのは実際は恐ろしいものなのである。 

月と流れでは何か静謐な流れとなる、それは音楽にすれば旋律的に穏やかなもの繊細なものとなる
一方で激しい流れがあり音楽も激しいものとなる、流れも音楽的に表現できるのである。
タグ:銅鐸

2016年05月04日

西と東の境目が伊吹山であり関が原である (信長が天下を制覇したのは地の利があったから)


西と東の境目が伊吹山であり関が原である


(信長が天下を制覇したのは地の利があったから)


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地域をイメージするとき古代から考えねばならない、それが今でも今の県の名前の元になっていることもある。
地形的に一致しているのは和歌山県である。若の浦という浦と山を基にしているからである。日本はもともと海彦、山彦の世界であり漁労採集狩猟で生活していた。
縄文時代の一万年が日本人の骨格を形成した。それは地形からそうなった。
その典型的なものが和歌山県だったのである。
この辺では新地の手の長い神が貝を食べていた、そこに貝塚ができた。
そこに神社が建てられ祭られた。
これは他にもあるが新地の地形を見ればそれは嘘ではない、貝塚もあるし地形は変わらないからその伝説を証明しているのである。
新地は海と山が接近しているのである。相馬地方でもあとは海はかなり山から離れているだからその場所にそういう伝説があるのは事実を基にしているのである。

吉備  黍(五穀の一つ)の産地であったことに由来

吉備が黍(キビ)だというときキビ団子の鬼退治にも由来している。日本では米を最初から食べていたわけではない、キビを食べていたし五穀を食べていた。十五夜のお月さんに備えるものは団子であり芋などである。米ではないのである。
だからそれは相当に古い祭りの伝承だとなる

そして和歌山県とうとき紀伊の国であり木の国だと言われるのもわかる。そこは熊野の山があり森が深いから木材が船材として供給されたのである。
そして奈良というときそれは均(なら)すから来た言葉だというとき奈良は盆地でありそこは広大な湖だった。たいがい盆地の中は湿地帯であり湖であったことが多い
福島市も会津もそうだったと言われる、奈良は均すであり湿地帯を田にして米をとって発展したところだとなる
そこで山辺の道のように巨大な古墳は山際にあり平地の中にはないのである。
山を中心にした生活が基本にあったためである。ヤマトもやはり山なのである。
ヤマトとは山の戸口である。そういう場所に人が集中して住んだとなる

文明が起こるときは定期的に安定して食糧が得られるとき起こる、エジブト文明では麦である。ビールまですでに作っていたことでもわかる。インカとかはトウモロコシである。日本では米を作りはじたとき縄文文明から稲作文明に移行したのである。だから均すが奈良になり都になった。

地形をみるとき日本では山が多く平地が少ない、その平地はたいだい湿地帯になっているその湿地帯が田んぼになって米を作ってきたのである。
麦は乾燥地帯に向いている、エジフトでも砂漠になっているように乾燥地帯なのである。日本は湿潤であり大量の水を利用する稲作に向いていたのである。
古代国名では米を稲をイメージするものはない、日本の古代は縄文文明の時代だった。
その継続として国名があったからである。

旧国名の由来

吉備は黍ではなく地形説をここではとっている、旧国名はほとんど地形に由来している
地名はたいだい最初は地勢とか地形である。
歴史でもまず地形を知らなければ基本的なことが理解できない

父の景行天皇の命により、ヤマトタケルは西に行き、クマソを討って帰還するが、更に東方平定を命じられる。東国からの旅の帰途、尾張の国でミヤズヒメを娶るが、その折に、叔母のヤマトヒメから貰った大切な剣をそこに置き、素手で伊吹山の神の討伐に向かった。山道で大きな白い猪に出会うが、それを神の化身とは思わず、侮って帰りに討ち取ろう、と言ったために神の怒りを買い、大氷雨に遭って悩まされる。

伊吹山がどういう位置にあるかが最大の問題なのである。そこは古来から西と東の境目である。
東(あづま)とは伊吹山を境として東側のことなのである。そこを境目にして言葉を違っていた。それが万葉集にも残されている。
東(あづま)の領域は広大だった、そこで壬申の乱も起きた。ここで天皇が二つに分かれて西と東の勢力が衝突したのである。それは関が原の戦いでもそうだった
つまりここは西と東を分ける古来からの境界線だった、だからこそヤマトタケルの伝説が伊吹山に残っている、つまり歴史は塵と深く結びついてる証拠なのである。

そして尾張という国を見ると尾張自体が開墾した土地のことでありここで米をとるために開墾して尾張は経済力をつけた。そこが天下をとった信長が生れた地域なのである。
信長が天下をとったのは必ずしもその人が優れたからだともならない、地の利があったからだともなる、とても一個人で成されるものではない、その背景には必ず地の利がある。だから地形を見ないと歴史がどう動くか動いたかはわからないのである。
これは世界史でもそうである。地理を知らなくして歴史もわからないのである。
信長は最初小国だったけどやはり地の利が作用して強国になったのである。

アフリカの中央部は峡谷が多く大帝国ができにくい、部族同士が争っているのは地理的要因もあったのか?エジフトに大帝国ができたのはやはり平坦な地が広がっていたからである。平坦な地は交通が盛んになるから大帝国ができやすい、それも地理の成せる業である世界史の理解が容易ではないのは地理がわからないからである。
地震とか津波でも地球の地質学とかも知り得ようがないからである。
人間の歴史の興亡も地理とともに起こり地理に制限されているのである。

タグ:伊吹山

2016年05月05日

この世の中誰が犯罪者かわからない (刑務所の囚人が低賃金で多国籍企業に使われる矛盾)


この世の中誰が犯罪者かわからない


(刑務所の囚人が低賃金で多国籍企業に使われる矛盾)



刑務所をビジネス化=民営化して儲ける連中の話が出てきます。
「刑務所産業」は儲かるのです。なぜなら、600万人もいる受刑者を
最低時給17セント(約時給17円)で働かせることができるからです。
そのために、数々の法律を多国籍企業は作って来ました。
スリーストライク法は、「スリーストライク アンド ユー アー アウト」
という信じられない法律です。犯罪を3度犯せば終身刑。微罪でもそうなります。
終身刑になった受刑者は時給17円の労働者として民営化された刑務所で搾取されるわけです。


多国籍企業にとっては囚人を奴隷のように仕えるから効率的だなとる
一般の人だといろいろ文句を言うが囚人だったら言えない
まさに奴隷のように使える、これほど企業にとっていいものはないとなる
こういう所に現代の多国籍企業支配の資本主義の矛盾があからさまに現れている
これなども囚人が犯罪者なのか多国籍企業が犯罪者なのかわからない

「俺たちは確かに犯罪を犯した、でもそれをいいことに多国籍企業は俺たちを奴隷のように使う、つまり弱みにつけこんでこき使うんだよ、どっちが犯罪者なんだよ」

現代の多国籍企業の支配というのはこの囚人のように一般人もされているのかもしれない安い時給で働かせられているのがそうである。
そうなると労働倫理が崩壊してゆく、一体何のために働いているんだ、多国籍企業の幹部や株主のために働いている、その利益は労働者には回ってこない
要するに刑務所の囚人と変わりないんだとかなる、それでしきりに今は労働することが馬鹿らしいとなる、利益が多国籍企業に回り株主に回り労働者には回ってこない
それはアメリカでも起こっているし全世界で起きていることである。
グローバル経済というシステムの中に組み入れられているからそれを否定しては生きていけないのである。
だからどうしたら得するのかとなるとグローバル経済のシステムの中でもうける方法を考えざるを得ない、それが株であったり他の投資であったりする
ただそれも一億円とかの元金がないと参加できないのである。

多国籍企業にるすると囚人がもっと増えればいいとまでなる、低賃金で規則的に働かせることができるからである。
その時医療関係でも無駄な薬でも与えてまたはたいして病気でなくても病人が増えればもうかるとか悪魔的計算になる
つまり利益のために人は人は悪魔に魂を売る、良心を売るとなる
社会はきれいごとではすまないとかなる、社会にでればみんなそういうジレンマに悩む

弁護士でもそうである。正義感だけでは通用しない、食べていけないから利益になる方につく。弱者より強者の味方になった方がいいとなる

弁護士は善人相手じゃ食っていけない 
悪人側につかないと儲からない 
人間のクズがやる仕事。 

坂本弁護士一家殺されてかわいそうって思ってたけど 
大人になるにつれて 
少年事件などの弁護士がいかに被害者を叩きのめしているか 
悪徳企業が得をするように割る知恵を伝授しているか 
 そしてこのように法律知識をふりかざして頭弱一般人から金を搾り取ってるか 
知って 
 なんか同情心消えたわ。 

これは極端にしても弁護士の危険なのは遺産相続とかう大きな金の争いに首をつっこむからそうなる
その分け前をもらうのが弁護士だともなる、後見人などでもわずかな金でしたくないとなり財産をある老人からとるということも起きる


「心に青雲」で野球賭博のことを言っていたがそんなに悪いことではないという。
普通だったらみんな批判するだろう。なぜ逮捕されたのかというとそういうふうに自由にる賭博されると役人が困る、役人の利益にならないからだという
実際に政府役人公認の賭博がありそれはいいとされている、つまリ胴元が役人だったらいい、暴力団関係ならだめだとなる
ところがハチンコ屋でも警察関係が天下りしているとか警察の利権になっているのである世の中権力をもっていれも得する仕組みになっている
警察すら巨大な暴力組織だから暴力団とにていないこともない、警察は時の権力者につくのが普通である。

結局この世の中誰が悪人か善人かなどわからない、まず自分は善人だと思っている人は善人ではない、自分は悪人だと思っている人は実際は善人である。
たいがい多くの人は善人だと思っているからである。
善人悪人というとき犯罪を犯すとか犯さないとかではない、本当の宗教家は自分は悪人だと言っているからである。そういう自覚を普通もていないからである。

だから囚人を弱者を利用して金儲けしている多国籍企業は相当な悪人だとなるが社会的には糾弾もされないのである。
犯罪人をどうしようが文句は言わせないとなる、これほど好都合なことはないとなる
だからこの世の中はみんなブラックである。
カルト宗教団体なども何ら宗教などと関係ない、あくことなく権力を求めている
なぜそうなるのか?結局得する利益になることをみんな求めているからである。
権力を得れば得する側になるからみんなそうしている
マスコミであろうが何でも権力側につくのである。
だから常に反権力の立場を維持しないとフラックなものにとりこまれるのである。
原発事故でも権力によって「安全神話」が作られた。
そこには政府であれ官僚であれ検察であれマスコミであれカルト宗教団体であれ権力化していたのである。

結局この世の中は矛盾である、キリストが十字架の上で同じ十字架の犯罪者を天国にあるだろうと言ったのも矛盾である。
キリストに味方したのは犯罪者だけだったということである。
それが何かこの世を象徴的に示していたのである。
この世で本当の犯罪者などわからないしそれは捕まえることもできない
それがこの世だということである。




タグ:刑務所
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認知症になる人とならない人の相違 (社会的であれ家族であれ働いている人はならない)


認知症になる人とならない人の相違


(社会的であれ家族であれ働いている人はならない)


武田邦彦氏の今日の解説は前もしていたが納得する、赤ワインがいいのではなく認知症
にならない人活発に活動しいるからならないという。赤ワインが原因ではないと言っている、ボリフェノールがいいとなると自分も飲んでいる。
でもなぜ認知症にな人とならない人の相違は何なのかということでてある。
それは先天的なものもありいちがいには言えない

そして人間の寿命がどうして決まるのか?これは必ずしも健康によって決まらないという
人間は家族であれ社会であれ無用化するとき早く死んでしまうという。
女性の場合は家族が大事であり家族で料理であれ孫の世話であれ家族の中で役割があれば長寿になり認知症にもならないという。
この考え方は前にも書いたが納得する

というのは自分には特殊な事情で二人の母親がいたような状態だった
一人は役所に勤めていたがやりたくないとやめてから何もしていない
趣味をしていたがそれは何ら才能があるわけではなく付き合いでしていたのである。
もともと看護師とか保健婦をしていたのだからそういう方面の仕事にあっていた。
でももう嫌だといって55才くらいで早期退職してからは何もしなかったのである。

結局何もしなくてもいい状態にされていたのである。
母は毎日料理を出したりしていたし家事もしていた、92才頃まで本当に元気だったのである。
一人は姉になるが実際はもう一人の母親のような存在だった
姉は料理もしなければ掃除もしない家事もしない何もしないのである。
そのことに注意をしていなかったが認知症になったときなぜなったのかとふりかえったら姉は何もしない、怠け者になりいつしか社会からも忘れられて家族でも用なきものとなっていたのである。
家族でも何か用なきものとなっていた。それが認知症になった原因なことはまちがいない
この人間が家族であれ社会であれ用なきものとなることがいかに怖いか?
生きながらその人は社会からも忘れ去られる、姉は活発な女性であり活動的な女性だったけど退職してから何もしなくなり社会からも忘れ去られていたのである。
家族でも用なきものとなり社会でも何も用のないものとなり忘れられてしまっていたのである。
母は内向きだから家事をしていた、料理を94才頃までしていたのである。
掃除も異常にこだわりしていた。他の趣味はなにもないから花にも興味もないとか異常だった、つまり趣味がないとなると認知症になりやすいとか言うがそうでもない
それより家族のなかでも役割がないことが脳も働かなくなるから認知症にもなりやすいのである。

それで嫁に「何もしなくていいですよ、テレビを見ていてください」と嫁に言われた姑はボケやすいと言われるのである。
料理でもしてみると用意するものがいろいろあり整理するのが大変である。
でも料理は相当に頭を働かすから認知症お予防になるのである。
女性は家族の中で役割をもちつづけることが大事である。
でも現代では今の年寄りは家族でも社会でも無用のものとされやすいのである。
退職したりするともう用なきものとなる、社会的役割も終わる
奇妙だけど金持ちの奥さんがいてその人が家政婦になんてもしてもらっていたら奥さんが認知症になる
誰でも金持ちの奥さんで家事でもしてもらう人がいいとみるがうらやましとなるがのそうでもない
何でもしてもらうことは老人になると頭も働かないからボケやすくなるのである。
だから奴隷のようにこき使われていた女性がかわいそうだがと普通はみるがかえって何もしない人がボケたとなれば
見方が変わってくる、認知症になることはとにかく悲惨だからである。
だから人間は何がいいのか幸せなのかわからないということである。

人間は健康だから長生きするのではなく何か用かあれば長生きする
芸術家だったら傑作をものにしようと死ぬまで絵筆をふるうとかあるだろう。
何かそうした社会的役割をもっているとき人は死なないというのは納得する
要するに家族内で役割がないときその人はすでに死んでいるとなる
生きていても死んでいるとなる、そして認知症になり大迷惑をかける
奇妙だが認知症になったときいろいろかまう人がいるから世話されることで生きているともなる、それも世話する方からすると大変な苦労を強いられることになる


この認知症になるということは善人とか悪人とか関係ないのである。
かえって悪人でも社会的に活躍していると認知症にならないと奇妙なことになる
政治家であれそういう人はいる、70近くになってよくアメリカの大統領候補になれると思う。あういう人は認知症にならないのである。
その人がどうのこうのは関係ないのである。
ある人は口が悪い医者だったが90才まで現役だったが一週間くらいで死んだ
ある人は最後まで自転車屋をしていたがこの人も急に病気になり一週間くらいで死んだのである。
仕事しながら死んだともなる、こういう死に方が理想なのである。
だから現代の社会は会社中心だとするとき退職することは社会から消えることであり社会から用なきものとされることになるから認知症になるものも増える
そうなると社会の負担は莫大なものとなってゆくのである。

現代はみんな会社人間になっているというときその会社から離れたらその存在価値もなくなる
そういう社会は認知症を増やす社会かもしれない、人間はともかく長生きの時代になったときそれに対処する社会的条件が調っていないのである。
老人が会社にいつまでもいるからかえって若者が伸びられないというのは本当である。
人間の能力は誰もわからない、本人すらわからない、やってみてやらせてみてわかるのである。
今は長寿社会になると親から財産を引き継ぐのは60代ともなる
するとそこで財産を引き継いでも活かすことができなくなるという問題もある
高齢化社会の問題はいろいろあるけど若い人が老人が上にいて活躍できないということもある
一方で老人から見ると社会的に無用化されて老人は無駄だとされることも大問題なのである。それは若者にも認知症とか増えたら大負担になるからである。
高齢化社会はこうしていろいろな矛盾をかかえてしいるのはやはり人類がまだ経験していないものだからである。
ただ認知症になる原因は家族でも社会でも役割を失うことなことはまちがいない
それは社会的死あり家族内死出あり生きていて死んだ状態にされているのである。

康と寿命(武田邦彦)
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2016年05月06日

abstract ( green field )


abstract (  green field ) 

hatooooo1.jpg
これの流を変化させると下の絵になる

yamahatoooo1.jpg

fresh buds
in the beginning of spring 
one turtledove in peace

flowwwwws123.jpg

surface of water

cr0ssroad3333.jpg
garden

cr0ssroad33334455.jpg
cycling road



抽象画の技術が活きた、具象画と抽象画があるが流れを表現するときは抽象画の方が
変化が無限にある、そして現実に見た流れの感じがこの抽象画と同じだったのである。
絵画は何か技術的な要素がある
技術を習得すると才能がなくても絵が描けることがありうる


まず流れをこれほど具象画では表現できない、具象画にとらわれると表現できないのである、つまり具象画はイメージが固定化するためである。
抽象画は自由度が高いから無限の表現が可能になっている


There were a representational painting and the abstract picture that it gave life to the technique of the abstract picture, but the feeling of the flow that an abstract picture saw a change in in the infinity and reality was the same as this abstract picture when I expressed a flow.
When the picture learns the technique with some technical element, I may draw a picture without talent

  • I cannot express it when seized with the representational painting 
  • which cannot express a flow in the representational painting 
  • like this that is the representational painting is because
  •  an imageimmobilizes it.
    Because the abstract picture has high flexibilityi
  • nfinite expression is enabled


タグ:山鳩

2016年05月07日

全国市町村財政情況0・5以下の感想 (北海道の旅の回想の詩ー和寒(ワッサム)


全国市町村財政情況0・5以下の感想


(北海道の旅の回想の詩ー和寒(ワッサム)



矢吹町(福島県) 0・5 

矢吹町は福島県だ、ここも何かなじみないんだ、交通的に不便なんだよ、鉄道通らない所はなじみがなくなる、でも一回くらい通ったのかな

亘理町(宮城県)0・5

ここが財政悪い?仙台に近いしみんな通勤しているけどな

千葉県(いすみ市、旭市、白子町・・・)0・48

千葉県でも財政が悪いところあるんだな、東京圏だと思っていたが千葉県でもそういう所あるんだ

橋本市(和歌山県)0・49

和歌山県は山と海で平地がないから工業地帯になりにくい

中津川市(岐阜県)0・48

岐阜県は合掌作りの白川村とか山深い所の市町村あるからな
名古屋から自転車で行ったことあるよ、
鉄道が通っているけど終点で烏が待っているような所あったな

伊那市(長野県)0・48

中山道を出たところが恵那市だった、ここは岐阜県だった、伊那市は長野県だった、恵那市であそこでテント張ってとまったな
ここは間違いやすい、中山道をぬけたなと地形的には記憶している

三郷町(奈良県)

奈良県でも財政悪いところある、奈良県は大阪京都と違い鄙びた所あるんだよ

旭川(北海道)0・48

北海道は財政情況が悪いのわかるよ、旭川は結構大都会だけどそこでも悪いのか
北海道は札幌に人口が集中しているからな

石巻(宮城県)0・47

石巻は港で都会だけどな、今回の津波で大打撃でさらに悪化した

鳥羽市(三重県)0・46

ここも真珠とかとれる観光地だけど悪いのか、サミットが開かれる地になったけど

新庄市(山形県)0・46

山形県ならわかるな、米はとれるけど工業がないからな
ここは陸羽東線で最上温泉からトンネルをぬけると広い新庄にでる
これも地形的に記憶している

妙高市(新潟県)

妙高山は有名でありその麓で泊まったことあったな

白馬村(長野県)0・46

ここは有名だ、アルプスが見える、塩の道も歩いたことがある
男女の道祖神が有名

酒田市(山形県)0・45

北前船で栄えたことがあった港だけど今はわびしい市なのか

松島町(宮城県)0・45

松島と言ったら観光のメッカだけどな、観光だけではもうからないのかな

音更町(北海道)0・45

オトイネップとは違うのか?

利根町(茨城県)0・45

茨城県でも財政悪い、利根川から利根町

釧路町(北海道)0・45

釧路町は港町だけど釧路湿原が広がっている所だよ

常陸大宮市(茨城県)0・44

茨城県でも財政悪い市がまだあるのか、大宮といったら東京圏なのか?

上山市(山形県)0・44

小さな城、上山城があったな、ここには七ヶ宿街道を自転車で行って泊まったな
斎藤茂吉の故郷である。

蔵王町(宮城県)0・44

蔵王町は二つあるからな山形県と宮城県側だよ、ここが間違いやすい
宮城県側に自転車で行ったことがある

糸魚川市(新潟県)0・44

長野県の塩の道を松本からたどれば糸魚川町にでて日本海に出る
日本海から塩を延々と運んだ道だよ

長瀞町(埼玉県)0・44

埼玉県は東京圏だけど財政悪いところあるんだな
長瀞(ながとろ)というと名前から奥地なのか?

九九里町(千葉県)0・44

ここは九九里浜でイメージしやすいな、漁村だったからか
東京から離れているからだろう

那須烏山市(栃木県)0・44

那須というと広い平坦な土地だけど栃木県だったか?
福島県の会津から館岩村から那須の平野に自転車で出たな
栃木県とか群馬県はわかりにくいよ

角田市(宮城県)0・44

ここは仙台に近い通勤圏だろう、丸森となると森深いがここは平坦な土地だよ

桑折町(福島県)0・43

桑折町が福島市に近いけどな、桃を生産しているけどな、天皇に献上する桃を作っているとか自慢している農家いたな
桑折町というと桑折という姓がこの辺には古くからある
霊山の南北朝の争いで逃れて来たんだよ、落ち延びてきた、その時の祭りが残っている
桑折は郡であり郡役所があったところともなる

花巻市(岩手県)0・43

賢治の生れたところも悪いのか、岩手県は盛岡をのぞいて悪いことはわかるな

行方市(茨城県)0・43

ここも悪いのか、相馬では行方郡に古代になっていたけどな

高島市(滋賀県)0・43

高島市は湖西線であり比良の山をバックにした所、家型石棺の発掘など古代では有名だけどな、京都からも大津からも離れているからだろう

浪江町(福島県)0・42

浪江町も悪かったのか、原発で良かったと思っていたがそうでもなかったのか?

福島県自体の財政が0・41だからな

大館市(秋田県)

大館市では一晩駅前で泊まったな、ここは機関区になっていて線路が多い
朝に汽笛が鳴り米代川そいを通った

気仙沼市(宮城県)0・41

ここもそうだったの、津波で大打撃だからさらに苦しいな

御所市(奈良県)0・40

ここは奈良から離れているからな、途中下車したことあったな



なんか疲れた、この次にまたつづきを書いてみよう、0・4だとまだ下があるからいいのか? 

とにかく自分は全国を隈なく旅行しているからある場所がなんらかイメージできる
実際に行った所が多いからである。
あそこに行ったなあそこにも行ったなと市町村名でイメージできる
どんなところかイメージできる、それだけ旅行したということである

でも今回の財政事情を調べて九州はなじみがないなと思った
九州は二回くらいしか行っていないし地理的にもわかりにくい、なじみがない
熊本や阿蘇には行っているけどわかりにくい
北海道は十回も行っているからなじみがありだいたいわかる

だからなにか日本全国を市町村をみるときあそこにも行ったなとかイメージできるから全国をなじみがあるものとして見れる
でも九州はやはり東北からは遠いし二回しか行っていないのでなじみがない
何か浮かんでこない、イメージできない

財政情況が悪いところは辺鄙な所が多い、でも旅するならそういう所も魅力がある
都会は魅力がない、東京などただ人みるだけだからつまらないとなる

財政情況はともかくその場所がどういう地形なのかそれがなかなかイメージできない、日本だとたいがいその場を踏んでいるからイメージできる

全国の市長村から何を感じるのかというのも一回も行っていないならなかなかイメージできないだろう。
どんな場所でもみんななにかしら違っているからそこから個性が生れる
地形は変わらないからそこから個性が生れる
旅というのは地形を記憶することに意義がある。地図でみても実際は地形とかわかりにくいからである。電車だと坂とかトンネルがあり何か意識できない
自転車だといいのだがこれもそんなには行けない、今になると体力が落ちて自転車旅行はできなくなった゛これだけ旅行したのだから自分は満足だとなる

0・3以下の県は青森県、佐賀県、和歌山県、宮崎県、長崎県、岩手県、鹿児島県、徳島県、沖縄県、秋田県、鳥取県、高知県、島根県になる
なんとなくわかるな、岩手県がずいぶん下位だな、宮城県とか福島県は0・4だからましだ



otoinepppp1.JPG
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北海道の旅の回想


富良野に行った
雪の芦別岳が見えた
チューリップが赤かった
美瑛によってそこから
旭川に出た
この辺は冬は相当に寒いだろう
和寒(わっさむ)というのが
なぜか印象に残る名
宗谷本線で稚内を目指す
そのひびきが寒い感じ
そこから遠く音威子府(オトイネップ)
その変わった名で覚えている
それも遠い日のことか
北海道はほとんど回った
のんびりと牛がいた
お昼の鐘が鳴った
その淋しい音が町にひびいた
遠軽町の坂を越えてオホーツクにでた
夕日がオホーツクに沈む
冬にもオホーツクに行った
夕日のさして斜里岳が美しかった
そこは日本の果てであった
紋別という町は流氷で有名
北海道は一番なじみがある
燕が群れて飛んできた
みんな北海道の果てを目指した
若いときはみんな果てを目指す
ただ遠くに憧れ遠くを目指す
でもその日は遂に帰って来ない
やがては老いてとどまり
樹や石のようになり動けない
ただ駆けめぐった遠い地を
地名などから思いだすだけ
それでも旅したものはその地を
体感しているから親しい
何か地名からでも浮かんでくるものがある

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福島県市町村財政指数を読む (やっはり原発あった所は高かった)


福島県市町村財政指数を読む


(やっはり原発あった所は高かった)


福島市0.74
会津若松市0.65
郡山市0.72
いわき市0.66
白河市0.52
須賀川市0.55
喜多方市0.36
相馬市0.50
二本松市0.42
田村市0.31
南相馬市0.67
伊達市0.40

桑折町0.50
国見町0.35
川俣町0.36
飯野町0.32
大玉村0.35
本宮町0.76
白沢村0.37
鏡石町0.54
天栄村0.30
下郷町0.45
檜枝岐村0.45
只見町0.32
南会津町0.23
北塩原村0.29
西会津町0.22
磐梯町0.39
猪苗代町0.45
会津坂下町0.36
湯川村0.23
柳津町0.23
三島町0.16 危険
金山町0.24
昭和村0.11 危険
会津美里町0.24
西郷村0.83
泉崎村0.61
中島村0.32
矢吹町0.49
棚倉町0.53
矢祭町0.28
塙町        0.27
鮫川村0.18 危険
石川町0.43
玉川村0.38
平田村0.27
浅川町0.36
古殿町0.24
三春町0.44
小野町0.36


広野町1.33
楢葉町1.19
富岡町0.94
川内村0.28
大熊町1.64
双葉町0.80
浪江町0.44
葛尾村0.14
新地町1.13?
飯舘村0.22


福島県は市でみると喜多方市が0・36で低い
二本松市も0・42では低い
市は0・5以上は普通にある

喜多方市は会津の城下町の北にあるということで喜多方(北方)になった
会津の城下町だと武士が多いから自由な商業ができなかったが喜多方ではできた、
それで発展した、それで蔵の街になった

田村氏は三春だからもともと市ではなかった、合併してできた市だからである。
伊達氏も合併してできた市0・4は妥当だろう

相馬市が0・5で南相馬市が0・67は妥当だろう
相馬市はぎりぎりで0・5だった、南相馬市はもともと相馬市より発展していた
なんらか原発の影響もあったかもしれない

それより明確なのは今回原発事故にあった避難地域である。
ここにはっきりと現れている、
川内村は例外として葛尾村もそうだがその他は高い
広野町の1・33とかは本当に高い、大熊町は1・64だからな
意外と浪江町は0・44では低かったな
浪江町の三分の一は原発に関係していたと思うがな・・・
新地町が意外と高いのはなぜか?
火力発電所とかあるからか?工業団地もあるからだろう
ここは一つの疑問だ、1・3は高すぎるからだ
飯館村は0・22なのはわかる、農業だけでは今は財政は苦しい

それにしても檜枝岐村は0・45は高いだろう
ここは尾瀬の観光地になっているからだろう
ここは江戸時代とか米など食べていない、蕎麦が主食の所だった
隔絶した村だったんだから
古殿も0・24とは低いな、ここも磐城からの街道あるけどずいぶん高い所で離れている
隔絶した村だった、延々とその坂を自転車で下りてきたのを覚えている

昭和村は0・11で最低だな、ここも自転車で通ったが食堂一軒とかあるくらいだったな
会津の奥の奥となる、ここはもう村を維持できるかできないかの瀬戸際なのだろう
0・11は厳しい、飯館村より低いからな、まず会津など市が遠いから不便だよ
鮫川村などもなじみがないな
なんか阿武隈高原を旅して山の中に万屋が残っていてご飯と味噌汁をご馳走になったのはここだったか?
そんな山の中だからそうなことをしてくれたのか?そんなことをしてくれるところはの今ないだろう
コンビニなんかもないだろう、コンビニないところはかなり過疎地だなん今では

三島町が0・16は低いな、ここに原発事故で郡山から避難した人が世話になったと
故郷納税で応援しているとか、ここは相当に苦しいし限界集落になりつつある
西会津町が0・22なのはわかる、会津の市の中心部から相当に遠い奥だよ
温泉はあるみたいだけど西ということで何か辺鄙に感じる
西は陽の没る場所だから淋しい感じな所が多くなる
西行はその西方浄土の西を目指した
つまり辺鄙な所を目指して旅したともなる 旅は繁華な所はつまらないことがあるんだよ

ともかく原発ある所は高い、女川町で2・1とか驚くよ
北海道でも泊村は0・8とか北海道では高いとなる
過疎地でも原発が建てば財政は一挙に改善され高くなる
その魅力が大きかった、これには住民も反対できないからな
南相馬市だって原発で働いていた人が多かったからな

posted by 老鶯 at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年05月08日

犯罪はパターン化できる (犯罪にあった人は犯罪に興味をもつ-格差社会は犯罪が増える)


犯罪はパターン化できる


(犯罪にあった人は犯罪に興味をもつ-格差社会は犯罪が増える)


今まで推理小説など興味をもたなかった。でも自分も犯罪にあってから興味をもつようになった
人間はともかく自分が当事者にならないかぎり他人事なのである。
それはこの辺で津波で近くでも人が相当死んだりして大被害だったのに自分は何も被害がないから被害にあった家族のことでもあまり考えない
これも普通のときでもそうである。誰か苦しんでいても相手の苦しみのことがわからないのである。
障害者を子供にもったものは盛んに訴えるが誰もわかってくれないとか言う、そんなものたいしたことじゃないとか見られる、あんたが生んだのだからあんたの責任だとか言われる、貧乏でも自己責任だとか言われる
今は格差社会だけど貧乏が見えない社会でもある、昔は何か貧乏はあからさまに見えていたのであ。乞食などが現実に物乞いしていたからこの人は貧乏だとはっきりわかる
今はそんな人がいない、外見は普通の人と同じだからである。
そうなると貧乏が見えないから貧乏がわからないともなるのである。
何が貧乏なのとなってしまう。
でも現代には現代なりの貧乏がある、そこから問題が事件も起きるのである。


本当に犯罪に明らかにパターンがある

「道具的」行動は,犯人が被害者からなんらかの利益(金銭や性的興奮など)を得ようとしておこなう行動です。

「表出的」行動は,他人との感情的な衝突によって引き起こされることの多い,被害者を傷つけることを1番の目標としておこなわれる行動です。

一番わかりやすいのは自分の欲望を満たすことが動機となっているものである。
そもそも人間の争いは基本的には欲望がおさえられないためにえ起きてくる
それが金であり本能的な性であれ一番わかりやすいし一番犯罪の動機になっている


だからどういう状態でシチエ-ションで犯罪が起きるか典型的な例が昨日見たテレビの推理ドラマだった。
まず資産家がいてそこにかかわる人たちがその資産家の財産をねらう。
家政婦とかヘルパー他にも宝石を売りつける人とかかかわってくる
なぜここでそうした家政婦とかヘルパーとか家に入ってくるものが犯罪者として疑われるのかというとその家の内部を家族のように知っているからである。
だから一倍危険なものはその内部を知るものだということである。
良く時代劇では内部か手引きする人を女中とかで入らせて強盗団が入ってゆく
それはパターン化した犯罪の手口である。国レベルになるとスパイで国の内部から攪乱してくる、だから内部に入るものは一番危険だとなる

そしてそういう資産家に近づくものはなにかいろいろな問題をかかえている人が多いのである。富めるものと貧しいものの差があからさまに現れやすいのである。
一般社会では見えないことがこういう場ではあからさまに見える
コンビニで働いていたとかその人がどういう人かなどわからない
でも資産家とか家に入ってくる人はその人がどういう人かあからさまになる
その働く人の家の事情とかがあからさまになる
今回のドラマでもそうだった、家政婦になった女性は借金をかかえていたとかなる
どこからきたのか素性もしれないとかなる、家に入る人で素性がしれないとなるとそれも危険度が相当に高くなる、そういう人が信用できなるかとなる
ただ家政婦とか何かそうした人は借金であれ事情をかかえているのである。

するとどうしても雇う方でもその人のことを考えざるを得なくなる、なにかコンビニであれパートであれその人の事情など考慮しないだろう。
でも資産家とか家に入ってくる場合はそうした個々の事情が直接かかわってくる
その人は別によそ者というものではなくてもやはりここの土地の人ではなかった。
それを安易に信用したのが失敗だった、本当は家に入れることは一番危険だから信用が最大の問題になる、何ももって信用するかとなるとむずかしい。
昔は女中とかお手伝いさんとかは普通にいたから何かしらの信用システムがあった。
前の働き先でどういう人か聞いていたとかが信用する要因になっていたとかあった。
ともかく家の中に入れる人は一番危険であり犯罪も起きやすいのである。
だからそれはパターン化した犯罪でありドラマになる

そもそも家の中に入ることは家族の一員のようになる、それで俳優の家で雇われたお手伝いさんがその夫婦の子供を殺したとかあった。これは何なのだとと思ったらお手伝いさんは子供のように家族の一員になっていたからである。
動機は子供が生れてからかまってくれなくなったという、まさに家族の一員になっていたからこそそうなったのである。それほど親密な関係になるのである。
まず人間が信用しあうことほどむずかしいことはない、それがゆきづりの問題をかかえた女性となるとそんな人を家に引き入れたらどうなるのかとなる
でも家政婦とかにはそういうふうに問題をかかえた人が多く入りこんでくるのである。
するとそこで貧富の差が明らかになり犯罪が誘発されやすいとなる

だからこういう犯罪を防ぐにはどうしたらいいのかとなる、雇う方も相当に気をつけねばならない、雇うにしてもその人を親身になって考えざるを得ないのである。
何か時給いくらとかでそれで終わりとならない、何かいろいろとその人のことについて家族のように心配するようになる、借金があったとしたら資産家だったらその借金を整理してやるとかさえしないとうまくいかない
借金を整理してやれば重荷がおりるからその家のものを盗むとかなくなるだろう。
資産家だったらその借金の額も小さいとしたらできるからで
恩義も感じるかもしれない、つまりそうした関係を作らない限りそういう女性を雇うことは危険にさらされつづけるのである。
そうはいってもそういう関係を作るのは時間がかかりすぎるのである
それで私はこの家で十年勤めさせてもらっていますとかなると信用できるとなる
その歳月が信用できるということを証明しているのである。
でもそれは資産家であってできることである、今はヘルパーとか介護関係でもちょっとしたことで家の中に入ってくる人が増えた、そこでまた問題が起きてくるのである。 

これは社会全体とも関係している、格差社会というとき富裕層も危険になる。高度成長時代なら中産階級が勃興してその上の金持ちをうらやむというのはあまりなかった。
格差社会になるとなぜ自分たちは貧乏なのだと、その原因を富裕層に向けられるから危険になる。自分たちは富裕層のために奴隷のように使われるだけなのだとなる
もちろん富裕層というとき資産家となると小金持ちとは違う。
まず小金持ちでは家政婦を雇うことはできないからである。
ヘルパーとか一時間とかちょっと手伝うだけであり家政婦とは違うのである。
格差社会というのは富裕層も危険にさらされる社会でありいつ襲われるかもしれないという推理ドラマのパターンになる、そしてたいがいそうして家に入ってくる人は家政婦とかが危険なのは追い詰められているからである。実際に家政婦として入った家々に火をつけて火事にしていた女性もいたからである
それは別に追い詰められている人は他にもいる、借金で追い詰められているとかそういう人は別に普通にいるからそういう人とかかわると危険になる
自分もそのために恐ろしい目にあったからである。
人間はどんな人でも追い詰められたら何するかわからない、その人が善人悪人の問題ではない、今日食べるものがないとしたらそのたに殺すことだってありえるしあった。
人間は追いつめられるとそうなるのである。  


人間の関係は金だけが動機になるときうまくいかない、こいつは資産家だから金を奪ってやれ、それだけの関係になると必ずそうなってしまう、その家で働く動機がそれしかないからである。普通の社会ではそういうことは金で割り切ってしている
でも一旦家の中に入ってくるとはそういうことは金だけでは通用しない
そうなれば資産家から金を奪えばいい、そこに働く動機はそれしかないのだからそうなってしまう。そういうことを自分は経験したからわかる。


高島忠夫長男殺害事件 

高島夫妻はこの女中をよくかわいがり、また女中も高島夫妻によく尽くしていたが、高島夫妻に長男が生まれた後は「長男へ愛情が移ってしまい、自分は疎遠に扱われるようになった」と感じていた。「この赤ん坊さえいなければ高島夫妻の愛情は私に戻るのではないか」と考え、気がついたら長男を湯船に沈めていたという。長男は激しく咳き込んだが、女中Aは、なおも長男を湯中に抑えつけた。そして「このままでは犯行がバレる」と思い風呂から出た後に物取りの犯行に見せかけるため、室内を物色されているように装ったという

こういうことが起きるのが家の中に入ってくる人なのである
要するに何かこういう家の中に入る人は家族関係の中に入ってくると同じなのである。
だから家族のような問題が起きやすいのである。

タグ:家政婦
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夏の水面(surface of water in summer)



夏の水面(surface of water in summer)



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砂漠の流れ


 

paintshopの波は抽象画になりやすい、写真でも波で変化させると抽象画らしくなる
夏だから水面が光でまぶしく輝く、そんな感じである。
要するに自然にあるものから抽象画もイメージしているのである。

水に関してもそういう変化が見られるがそれを表現するとなるとむずかしい
抽象画ではそれが表現しやすいのである。
タグ:夏の水面

2016年05月09日

夏の草原(田んぼが増えて草原もある世界)


夏の草原(田んぼが増えて草原もある世界)  


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パノラマ写真ークリック拡大

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右田の一本松



雉歩み朝の草原夏雲雀
夕暮れや草原広し夏雲
青嵐牛越城の五年かな
一本の大木根付く青嵐

一本松ここに残るや雲雀鳴く声のひびきて夏の陽没りぬ
草原の広々として雲雀鳴く風の涼しき夏の夕暮
声高に夕べ蛙の鳴き騒ぐ田んぼの増えて元に戻らむ  

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この辺は田んぼが増えたから元にもどりつつある、一方で津波の跡はまだ広々と草原になっている。
この草原の世界のことを書いてきたけどこれが気持いいのである。
田んぼとは違った自然なのである。草原にあっていたのが雲雀だった、草雲雀とかあるから本当はこういう草原地帯に雲雀はあっていたのである。
田んぼだったらどうしても水になるから巣も作りにくいのである。
田んぼにあっているのは鷺である。田んぼの水の中の水生動物を蛙などを餌としているからである。

日本でもそもそも草原の世界を見ないから草原のことがわからないのである。
北海道にはあるが他では見ない景色なのである。
草原に風がふきわたり雲雀がなく景色は気持ちがいい、モンゴル辺りだとこういう景色が普通なのである。すると何か人間の感覚が変わってくる
気持まで広々としたものと自ずとなってくるのである。

日本人の文化は田んぼから稲作から作られてきた、それはもう単に米を作るというのではない、心まで作ってきたのである。だからこの辺で田んぼが放射能で汚染されたとき田んぼがなくなる世界、草原化した世界というのがなんなのだろうとなった
それは津波の跡もそうなってしまったかち二重に草原の景色になってしまったのである。
日本では放っておくと草原にはならない、雨が多いからやがて釧路湿原のような湿地帯になる。
ただここでは草原化している、水たまりを埋めたりしているから草原になっているのである。

今年はともかく風が吹く、毎日のように風が吹いている、青嵐というとそんなに吹かないだろう
今年は毎日風が吹き荒れている、こういうのも珍しい、それは桜が咲いた時からである。原町の牛越城は5年ほどで終わった、でもその五年も風雲だった、何か争いがあった
内部での抗争があった。風雲の城でもあったのだろう。戦国期の城だったからである。
だから青嵐ににつかわしいともなる  

右田の一本松は枯れそうに見える、枯れなければ奇跡の一本松になるのだろう。
あそも松原として意識していたのであり一本一本の松として意識したものはなかった
今はあの一本松だけが注目されているのである。

タグ:夏雲雀

2016年05月11日

人間はどうして記憶するのか? つながりの中で記憶する


 人間はどうして記憶するのか?


つながりの中で記憶する

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旅していて記憶に残すということが大事である。では人間はどうして記憶するのか?
記憶のメカニズムのようなものがあるのかとなる
旅というのは一地点に行くのが旅ではない、そこまで行く過程が旅だということもある。たいがい今は旅がつまらないというとき有名な一地点の観光名所に行くからである。
東京から新幹線で平泉に行く、そこにはもう過程がぬけている。
有名な一地点に行くことでありそれで目的が達せられたとなる
すると過程が欠けているから旅というものがただ一地点を目指すものとなり旅の中味は浅薄なものになる
というより現代では旅人もいないし旅自体がなくなったと思う。
単なる便利乗り物での移動であり一地点に行って目的が達成されたとなる

人間が記憶するというとき一連のつながりのなかで記憶しているのである。
例えは北海道の遠軽という所から坂を上るとオボーツクに出る、そこで何か開かれた感じになる、坂や峠を上ったとき別世界に来たように思える。
だからそこでその一連の過程の中で記憶される゛地形でも記憶される
ABCというつながりの中で記憶される、単体だけで記憶するのはむずかしい
英語でも一つの単語だけから覚えようとすると記憶されない、やはた文脈の中で単語も記憶されてゆく 
Aという単語を覚えるのではなくABCDEFと連関して覚える、要するにこの世の中は単体で存在するものはない、それで心の青雲では水は他の惑星には存在しないという
水という単体では何も存在し得ない、水素と酸素があれば水が存在するわけではないというのもそうてのかもしれない。水が存在するには水を産む環境が必要だったとなる


鉄道とかなると駅名を記憶したりするが一連のつながりのあるものとして記憶されない
地形も記憶されない、前後が逆になったりもする
ただ鉄道でもトンネルをぬけたとき新しい世界に入ってゆく感じになる
「トンネルをぬけると雪国だった」というのもそうである。
最上町の温泉からトンネルぬけると新庄にでる、それは広い地帯であり記憶される
これも一連のつながりのなかで記憶されているのである。
伊勢から奈良に旅したときはその長い行程の中で記憶されたのである。
一地点ではないつながりのなかで記憶される、そもそもこの地球はつながりをもって存在している、つながりと相互浸透の中で存在している


人間は何か記憶するとき必ず何かと関連させて記憶している
あらゆる物質も単体では存在しないというときそうである
つまりAを思いだせばBがでてくる、Cもでてくる、人でも何でも単体で記憶されることはなく関連の中で記憶される
いづれにしろ人間は最後は記憶されたことが人生となる
何が最も印象に残り記憶されたのか?それが人生だったとなる
でも記憶がだんだん薄れてゆく、曖昧模糊になってゆく

現代は旅でも記憶に残らないことが多いのである。
一地点を目指す旅であり過程を飛び越えているからである。
そこでは地形も記憶しにくい、坂であれ峠であれそういう地形も省かれるからである
そこで旅でも印象に残らないものとなってしまう。
おそらく車よりバイクの方が地形は記憶するだろう。バイクは風も感じるからである
ただ若い人がバイクで旅しているのを見たとき楽だなと見る
自転車に比べると本当に楽だとみてしまうのである。  


結局現代生活は便利になったのけど経験することが浅薄にもなっている
旅というのもそうである。そこには人との出会いもないしただ過ぎてゆつだけである。
「旅は道連れ」というのもなくなった、バイクであれ車であれ早いから一時出会っても
あとはすぐ別れてゆくだけだとなる
そこに何か濃密な時間がもてないのである。今会ったまたすぐに別れてゆく、それは歩く旅とはあまりに違ってしまったからである。
タグ:記憶する

2016年05月12日

老化のリスク (熱中症になった怖さー死ぬので油断できない)

    

老化のリスク
  

(熱中症になった怖さー死ぬので油断できない)


死者の約8割が70歳以上で、高齢ほど重症化しやすい傾向も表れていた。

熱中症は場合によっては死に至る怖い病気のひとつです


今年は自転車で遠くに行ったとき確かに体調を壊していた。熱中症気味の症状になっていた。それは運動した結果としてなっていた。それでも体が弱ったのかなととは思っていた今回は別に遠くに行ったわけでもない、庭の手入れのための仕事をしてもらい自分もしたそのとき曇っていたしそれでそんなに熱中症になるのかという疑問だった
それはかなりの重症だったのである。体が熱く熱病のようになり吐き気があり体全体も痛んだのである
熱中症で意識朦朧となり救急車で運ばれるのを見たがそれも他人事だった
クーラーない人がいてなってるとか聞いていたからクーラーあれば大丈夫なのかと見てた今回は別に真夏に起きたことではない、家にいて庭の手入れをして起きたのである。
遠くへ出て自転車で運動したわけでもなかった。
ただ何かの調子で熱中症になりその恐怖を覚えた
熱中症が馬鹿にできないのは実際に死んでいる人が多くその大半は子供と老人なのである

老人は何かと病気のリスクが高まるのである。熱中症の恐怖は本当に突然死ぬことがありうることなのだ。
それが最大の恐怖なのである。いろいろな病気でガンであれ脳卒中であれ病気で普通死ぬのだけどまず熱中症で死ぬということは考えなかった。
でもこれも経験して現実にありうることだと思った。
自分が今回熱中症になった原因は老化があると思う。老人はなんでも病気になりやすいが熱中症にもなりやすい、老人は体温の調節がうまくいかなくなる
だから急激に温度が上がったりすると余計にそうなる
自分はもともと暑さにも寒さに敏感で感じやすい、そういう体質もあるが老人は何かと病気のリスクが高まってる、それが老化の怖さなのである。

ともかく人間の特徴は自分の身にふりかからなければ何でも他人事なのである。
一旦自分の身にふりかかると他人事でなくなる、自分のこととして見るようになる
確かにニュースで一時熱中症で死んだ人のことを報道されていた。
別にその人たちは激しい運動していたわけではない、家にいてもなっていたほとんど老人だった。クーラーがなくて死んだという人も結構いた。
死に方としてはいい悪いもないが寝たきりになり介護を十年とかなると本人もめんどうをみる人いやになるだろう。
特に一人で身寄りがないとかなると介護する人もなにもないのだからかえって熱中症でも急速に死ぬからほとんど迷惑をかけないということもあるのかと思った。
人間どんな死に方をするかはわからない、また選ぶこともできない、その人の寿命は神が決めているのではないかとすら思うからである。
だから死なない人は死ない、死ぬ人はその人の寿命で死んだとなる


それにしても人間は自分の身にふりかからないかぎり他人事である。
それで熊本地震で熊本県が批判されている。東北のガレキを受け入れないとか地震がない熊本県が企業にはいいとか宣伝していたからである。
それが地震で被害にあい自分たちの身にふりかかったときはじめて東日本大震災のことを真剣に考えるようになる、そして同じような苦しい体験するようになったからである。

介護の問題でも介護をしていない人は介護している人も気持がわからない
一人暮らしの人は二人いるからいいじゃないかと言っていた
こっちは一人だよというのも理解がないのである。
そういうことはいくらでもある、自分の身にふりかからない限り他人事である。
自分が借金したわけではないが借金した人に借金をせまられてその怖さを知った。
借金をしている人はもう頭の中自分の借金のことしかない、相手が病気であろうがなんであろうが関係ない、金さえとればいいとなり殺人にすらいたるだろう。
そういう状態に追い込まれたのが自分だった、だからだから借金というのは怖いのである犯罪があれは借金をしているかどうか調べるのもそのためである。

老後が平穏だということはないのかもしれない、老人には様々なリスクがあるためである特に病気のリスクが一番怖い、これは金があるにしろないにしろみんながもつリスクである。病気になりみるみるうちパタパタとはかなく死んだ身内を見ている
七転八倒して苦しんで死んだ。
老人はまた困難に対処する能力が健康面なので劣ってくる、そして現代では老老介護とかなり負担が増える
何か昔のようなのんびりとした隠居生活のイメージがなくなっている
老人は今様々な負担が強いられているのである。


最も適応する力が衰えた時期に,最も厳しい適応を要求されている

老年という未体験の状況下で自分の過去を引きづりながら,
あらたな自己を形成していく作業 

これは原発避難区域で起きている、最も厳しい適応が要求されている
荒地となったところでどう今度は老人が適応してゆくのかとなるからだ。

老人の最大の問題は金もあるが健康なのである。病気になればすべてが崩れてしまう
その病気もいろいろあるから今回のように熱中症でも死ぬことがあるんだと自覚したのである。


posted by 老鶯 at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

2016年05月13日

人間は失ってみて真の価値を知る (人間は今あるありふれたものの価値を認めない)


人間は失ってみて真の価値を知る  


(人間は今あるありふれたものの価値を認めない)
      

健康を失って健康の大事さを知る
青春を失って青春の大事さを知る
時間を失って時間の大事さを知る
親を失って親の価値を知る
人の価値は死んではじめて現れる
故郷を失ってはじめて故郷の価値を知る
人は今あるものに価値を認めない
ただ今あるものに不満のみを言う
そこに価値あるものでも認めない
ありふれたものに価値を認めない 
故に感謝もしない
その価値に気づいたとそのものはすでにない
二度と帰ってこない 
汝をはぐくみしものに感謝せよ
もはや帰らざるもの
その価値のいかに尊きものなりしかを
人がこの世ある時間は短い
人は束の間出会い別れて永遠に会わない
この世に生きる真の価値は何なのか
その価値を追及すべし
巨万の富を積めど真の価値を見失えば
あなたの人生に実りはなきしを
それは雲散霧消してしまうだろう
真に価値あるものは不滅なり
それは心に永遠に残るだろう
それは天にたずえもちゆくもの 
人は失ってみてはじめて真の価値を知る
それまでは真の価値を知ることができない 
それ故感謝もしないのである
そこに人間の不幸がある



人間の弱点というか不備というかいろいろあるけど人間は真の価値がわからない
今ある当たり前のものの価値がわからない、価値を認識できないのである。
親がいるとすると親がいるとき親の価値がわからない 
それは当たり前にいるものであり尽くしてくれるものだと思っている
親が死んでみて親の価値がわかる、失ってみて本当の価値がわかる 
その価値を知らないから感謝もしないのである。
人間が感謝をしないのはそのもっているものの価値を知らないからである。
価値を認識できないのである


時間というものもそうである、若いときは時間などいくらでもある、ありあまって困っている、暇をどうつぶすか困るとなっている
でもそういうふうに思うのは意外と短いのである。
だから青春というのはあっというまにすぎる、その輝かしい貴重な時間はあっという間にすぎる、たちまち白髪となり体も老いてくるのである 
女性にしても輝かしいときは一時なんだと思う。醜悪な老婆になるのも早い
この世が無常だというとき常に変化してやまないからそうなる
同じ状態を保つことができないのである。

だから不変的な価値を追及しろとなる、不変的なものは普遍的なものにも通じている
それはユニバーサルなものの価値であり世界共通の価値である
人間は何が本当に価値あるものか知ることは容易ではない
失ってみてはじめて知るようにそういうふうに神が定めているとまでなっているからかもしれない
神は何が価値あるものかを教えてくれない
ただその価値を教えるのは失った時なのである。その時失ったものは二度と帰ってこないのである。ただ心の中にその価値あるものは残されるのである。

そして人間が一番後悔するのがそうして失われたものなのである。
青春でも時間でも何でも失われたものが多くありもはや二度ととりもどすことができない様々な経験すらできない、馬鹿げたこともできなくなる
それは青春の特権だとかもなるがこれもあとで必ず悔恨に悩まされる
若気のいたりですまされないのである。 

いづれにしろ最後は老人になれば何でも失ってゆくのが人生である。
何かいろいろ得ようとして働いたとしても失うだけなのである
同世代の人も死んでゆく、あの人も死んだな、あっけなく死んだなとかなり新聞の死亡欄を見るようになる、必ず60代で死ぬ人がいることに驚くのである。
60代でも十人には一人は死ぬとなると当然だとなる
ただ失ったからといって必ずしもそれが完全な空虚になるとは限らない
8年前なのか妻を失った人はその妻のことを相当に愛していたのだろう。
一人暮らしになっても毎日あたたかいご飯を仏壇にあげているという。
何かと供養しているのである。これも問題があるがともかく妻を死んだ後も思いつづけいるのである。
死んでその人の大事さを知ることがある、いつも食事は与えられるものだと思っていたという、「飯」とか言っていれば良かったという、死んでから全部自分でするほかなくなったという。

そのことは全く自分と同じだったのである。自分は親が死んで最悪の状態になったからである。特殊な事情の家庭だったこともあるが自分は楽だったなと思い楽させてくれたのは親がいたからだとつくづく思った。
そこには問題があるにしろやはり死んでみてはじめてその大事さを価値を知ったのであるだから生きているとき当たり前だと思ったことを今は感謝している
死んでもその価値は消えないし強くなることさえあると思う
でも親の価値は死んでみないとわからないのである、それだけではない失ってみないと価値がわからないことが人間には多すぎるのである。
もし親が生きている時その価値がわかっていれば対処の仕方が全く違ったものになるからである。

それはあらゆるものにおいてそうなのである。今あるものの価値が人間にはわからないのである。 
例えば大きく見れば日本という国が先祖が代々作り上げてきた国を意識する人はほとんどないだろう。国とは何かとなると意識しにくいからである。
でもシリアとか見ればわかる、国がなくなることはどうなることなのか?
流浪の民となり国を逃れて死を決して脱出してゆく、そんなことがありうるのかというが世界史ではそういうことがあった、日本にはそんなことがないとは言えない
その時日本ははじめて国のあることを意識して感謝するとなる
国を失ってみてはじめて国のありがたさをしるとなる

この辺で故郷すら失ったというときまさに故郷は何なのかとかその価値が問われたのもそのためである。
故郷が失うなどありえないのである。イメージすらできなかったろう。
それは当然あるものだったからである。この時故郷の価値をはじめて意識したのもそうである。
人間がなぜ人生を後悔するのか?それはあまりにもありふれたものの価値を認めないということである。
人間は何か価値というときありふれたものではなく特別なありえないものを価値としているのである。
そんなもの当たり前にあるものであり何の価値があるのかとなる
そういうことは自然とかにもあるし人間関係であるだろう。
いつも食事が出されて当たり前だと子供を思うのである。
今になれば一切何か料理を作ってくれる人はいないし何にもしてくれる人はいなくなったとなるのである。
だからは余計に失ったもの親であれ妻であれその他感謝しないものに感謝するようになるのである。だからそういう価値は不滅なのである。

一方でこの世にあるもの家でもそれは不滅ではない、消えゆく無常のものである。
津波であれだけの家が流されたこともそうである。家があるとしてもそれは形あるものは消える、でも家の中で通じあった愛とかは消えないのである。
「天に宝を積め」というとき地上にあるものはみな一時で消える、しかし天に積む宝は消えない、それは真に価値あるものである。
人はみな地上に宝を積んでいるしそのために努力している
でも財産を天をにもってゆくわけにはいかない、天に積む宝こそ真に価値あるものであり不滅のものである、だから地上の世間との価値観が大きく違ってくる

タグ:価値とは

2016年05月14日

五年過ぎて蛙の合唱に復興を感じた (田も増えて蛙も増えたが・・・・)


  
  五年過ぎて蛙の合唱に復興を感じた
    
  
  (田も増えて蛙も増えたが・・・・)

     
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ここは増えている、増えていない荒地も目だつ所もある

一かたまり紫菖蒲ここに咲く五年すぎて田んぼの増えぬ

夜に鳴く蛙の声の盛んなり田んぼの増えてひびきけるかな

夜に鳴く蛙の声の盛んなり社の木立にひびきけるかな

夜に鳴く蛙の声の盛んなり田んぼに写る夏の月かな
  
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原発事故から五年過ぎて田んぼが増えた、去年も増えたが今年は相当に増えた、それでも半分くらみたいだ、2015年ではそうだった、去年はまだまだ少ない感じがした。
今年は見ただけで3倍も4倍も増えた感じがする。


Aの内藤一組合長(67)は「このまま農業をやらなければ農家は生産意欲を失い、南相馬の農地は荒れてしまう」と作付け拡大方針の支持を訴えたが、農家代表らは「まだコメを作れる状況ではない」と反発。賠償の継続を求める意見が多数を占めた。   

確かに田んぼが元のように全部回復していない、以前として荒地になっているのも目だつただ自分が一番感じたのは夜コンビニに行ったら蛙の合唱を五年ぶりにきいた。
その声は辺りにひびきわたっていた。去年まで自分の近くでこんなに蛙が鳴いているのを聞かなかった。何匹か鳴いているなという感じだったのである。
やはり田んぼが増えると水が流れるから蛙が増える、それも田んぼが多くななればそれだけ蛙も増える、蛙の繁殖力はオタマジャクシが増えてたちたち増える、でも田んぼがなければ増えないのである。

ともかくその蛙の鳴き声に感じたのはこれが復興なのかと直感的に思った。
復興というとき田んぼのことを書いてきたがこの辺で田んぼがないということが信じられない光景だった、ここだけではないだろう、田んぼがなくなったらそれは田舎なのかとなる、田んぼがあって田舎だと暮らしていたのである。
田んぼは水が命である。水が山からめぐりめぐって米を実らす、その水と切り離せないのが蛙だったのである。その蛙の合唱を五年間も聞いていなかったのである。
その蛙の鳴く声が「復興だ、復興だ」と聞こえたともなる        

復興とは何かというときやはり田舎だと田んぼがないと復興にならない、一方で田んぼがなくなり湿地帯とか草原化した風景についても写真とかで紹介した。
それも自然の変化であり不思議だった。草原には雲雀が鳴くのがにあっていた。
それはモンゴルの風景だった。でも日本の田舎は田んぼがなくてはありえないのである。それは日本人の心の風景にもなっていたことを書いてきた。
それもそのはずである、一千年とかこの辺でも稲作はつづいている
そうなると単なる人工のものではない、自然でありそれは信仰にまでなっていた

だから田んぼの中に社がありそこにも蛙の鳴く声がひびいて社も活きることに気づいた。こうした田んぼの風景と一体となっているのが田んぼだったのである。
蛙は田んぼにとっても欠かせない一つの自然を形成していたのである。
こういう感覚は都会人にはわからない、そこに住んでいてわかるのである。
もちろん実際に田んぼで水を張り田植えして稲刈りをする農民はまた違った感覚をもつ
それもなかなか地元に住んでいてわからないことがある
農家の人にとって飼料米にしかならないというとき残念だろう。

でも半分くらいしか回復しないというが自分の感覚では蛙の声を聞いた限りではそう思えなかった。蛙の力強い声がひびいたからである。これが復興なのかとその時即座に思ったのである。田舎の自然と営みの回復が田んぼが増えたことにあったのだ
だから小高でも避難区域でも田植えしている農民の顔は輝いていたのである。
その時人間も復興していたのである。それは漁師にも通じている
復興とは何かというとき考えてきたけどやはり田んぼがあって復興なんだと蛙の合唱で即座に感じた
他にも菖蒲が咲いているというときそれは水辺にあうから田んぼにあうからこれも日本の夏の風景となっていたのである。

田んぼの風景がなくなったときこれは何なのだととまどいつづけてきたのである。
もしモンゴルのようにな草原ならそれでいい、でも日本ではそんなふうにはなりえない、田んぼはい千年もつづいた営みでありそれは心の風景でもあり文化でもありそれがなくなればここが日本なのかとなってしまうのである。
それだけ田んぼの風景は日本の心にもなっていたのである。
ただパンを食べて米を食べなくなったのも事実である。減反でもそうである。
米は重要な食べ物ではなくなっいる、でも不思議なのは自分の矛盾は気づいたのは
パンを食べていても田んぼの風景がなくなってほしくないということである。田んぼの風景があるためにやはり日本人は米を食べなくならないとかなる
農民が飼料米として米作りするとなるとこれもやる気がなくなるだろう。 
風景論とか文化論からだけでは農業は守れないことも確かである、現実は風景を残してほしいとしても経済の法則で崩壊してゆく、そのために原発が誘致された事実もある

ただ復興というとき何が復興なのかわからないとも書いてきた。その一つの解答が蛙の合唱を身近に聞いたことが復興だと感じた
五年間も身近で聞いていなかったからである。その蛙の声が人間ではない蛙が復興の声だったという不思議である。蛙はそれだけ人間だけではない田んぼと一体化したものだったのである。
posted by 老鶯 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年05月15日

メデア(テレビなど)よって一方的に操作される時代 (テレビは感情的に私的制裁するリンチするメデア)

      
メデア(テレビなど)よって一方的に操作される時代
       

(テレビは感情的に私的制裁するリンチするメデア)


●ラジオの時代へ

 メデアが媒介するというだけならいい、ただメデアの種類が増えた現代ではメデアによって左右される、メデアというとき過去のメデアは何なのか?
例えば広大なローマ帝国に情報を伝えるメデアは何なのか?
となると電話もないテレビもないインターネットもない、便利なものはなにもない
そうなれば人間が走るなり馬を走らせるなりしてその内容を伝えるかほないのである。
そのためにローマの道が整備されたのである。「すべての道はローマに通ず」となり広大な帝国を支配したのである。   

忠臣蔵で内匠頭切腹を知らせる早かごはたった5日で赤穂に到着したそうです。約650`の道のりをたった5日で踏破したとは想像に絶します。

どれだけ早く伝えるかが大問題だった。馬も使ったらしい、とすると納得はいく、駕籠だけでは無理である

江戸時代はメデアというものがない、伝える方法がない、何か学ぶにも人伝えになる
直接人を通して訪ねて学ぶとなる、人と人の直接のコミニケーションに頼らざるを得ないだから遠方とのコミニケーションをとるのは相当にむずかしく誤解も生れる
だからローマ帝国のような広い地域を治めるのは容易ではない、遠くで反乱が起きたらどう中央で対処するのか、そのためにすべての道がローマに通じるの格言ができた。
それは今なら電話線とかである。無線通信にも発展しているから現代は距離が情報を通じさせなくなるということはない

現代のようにメデアがないときどうして情報を伝えるのか?まず大勢の人に何かを伝えるというとき大勢の人を集めなければならない、でもその数は限られている
ローマの政治では何かを自分の主張を伝えるのには直接演説している
そういうシーンを映画でみている。演説がうまくないと支持が得られないというのは今でも政治家ならそうだろう、また見栄えも関係してくれる、今ならテレビ写りがいい人が選ばれる、それはテレビとにているがこれまではみんな実物を見ているのである。
江戸時代までは新聞もないから政治は人と人が直接あって物事を決めていた。
例えば相馬藩内の街道を伊達家の侍が参勤交代などで通るとしたら藩主の許可を得なければならない、それは直接あって成されていたのである。
人と人の信頼の上に成り立つ社会だったのである。


現代のメデアの問題はメデアを通して起きることが多いからメデアのことマスコミでも何でも問題にされるのである。メデアの影響が大きいからそうなったのである。
ヒットラーがナチスがラジオから生れたというのもそうである。ゲッベルスが宣伝を担当してラジオを利用して民衆を操作した、ナチスを作り出したのはラジオの力メデアの力が大きかったからだともなる

ヒトラーの独裁は、歴史上の全ての独裁と一つの根本的な点で異なる。あの独裁は、国を統治するためのあらゆる手段を完璧に使用した最初の独裁だ。ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。それだけ多くの人々を一人の男の意志に服従させることは、こうした装置によって可能になった


ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。
これだけの力をラジオがもっていたのだからテレビがもつ力はそれ以上であり計りしれないものとなっていたのだ。第一ラジオは音しか聞こえないメデアである
ラジオは音に敏感になるメデアなのである。顔とか表情は見えないからである。
それで宝島の放送で杖つく海賊の音が迫ってくるのに恐怖を子供のとき感じたのである。音は意外と一人暮らしなどしているとカランとした家にいると恐怖である。
風の音でも誰かがいるようで不気味になるのである。


●テレビの時代      
  

感情的(即座に反応)

□大衆的、一方的洗脳メデア

□メデアによるリンチ(私刑)を煽動する

現代はテレビの時代であった。インターネットが出る前の50年間くらいがそうだった
テレビはラジオより影響力があった。ラジオ放送で有名な人がNHKでテレビになったとき活躍できなくなった。
テレビは人間をそのまま写すから見栄えが良くない人はテレビ向きでとないのである。
だからこそタレントが一番向いている、テレビに出る人は俳優なのであり役者である。
演技するものだからである。

テレビの特徴はいろいろあるが感情的メデアなのである。活字とかラジオとか文字と音だけのメデアだったら感情的にはならない、本や新聞を読んでもすぐに感情的にはならない、冷静にみる。

「なんだあいつの顔が気にくわねえ、もっと顔のいいやつを出せ、、、、」

顔とか表情がまず注目される、だからアナウサーは美人でないと勤まらないのである。
知性よりその顔をみるからそうなる。

そしてテレビは一方的洗脳メデアである。テレビは何か疑問に思ってもそれを追及できないようになっている、そんなことあるのと思っても追及できない、一方的にテレビ局に洗脳されるだけなのである。
テレビの放送は中立ではない、一見NHKは中立のように思える作り方をしている。
でも巧妙にかたよっているのでる、気づかない人も多い。

何回もとりあげるが相馬市で飯館村の人がトマト農家に勤めたいと言ったら断られたことを放送していた。一瞬自分もそのトマト農家がひどいなと思って怒りを覚えた

「なんだ、その農家は冷たいな・・・・飯館村の人はかわいそうなんだから雇ってやれよ」

とかその放送を見ればみんなそうなる

別に自分は飯館村の人がどうだこうだというのではない、その断られた理由は飯館村の人は補償金をもらっているが津波の被害者はもらっていないからだと理由ははっきりしていたのである。
雇う人はそういうふうに考慮するのは悪いことではないのである。
現実に原発避難者の補償金は多額であり回りではうらやましがってもめている
相馬市では第一原発の補償金などもらっていないからである

●テレビはリンチメデアである 

メデアは一方的に告発してリンチする

すでにテレビの画面に写されただけで犯罪者と確定しなくても犯罪者になってしまう。
テレビ自体がすでに大衆的リンチメデアなのである。そんな権限はないのだけだそうなってしまう。事件でもいろいろ複雑であり突然起きたことに普通は理解できない。 

それで小保方氏の万能細胞についての問題でも過度にテレビでリンチをしてNHKでは理研の一人を自殺に追いやったと武田邦彦氏は言っている
自分は科学に弱いからそのことはわからない、でもテレビが感情的になり大衆的一方的洗脳メデアであるからこそそうなる

「なんだ、嘘ついたのか、ふてい女だ、乳がでかいな、・・・・」

小保方氏はこうしてテレビにさらされリンチされたのである。もちろんそれなりの罪を犯したことはある。でも何か過剰にテレビはさらして大衆にリンチさせる
それは東京都知事の舛添氏でもそうだろう。これは当然だとも思うが過剰にリンチになるということが問題なのである。
そこには当然であっても何か大衆の心理というのがからんでいる   
舛添とかショーンケーンとかはテレビを利用して有名になり今度はそのテレビに復讐されているのである。有名にしてくれたのもテレビであり逆に極端におとしめるのもテレビなのである。そういうふうに有名になったのが悪いともなる
単に「有名な人」がテレビから出る人には多いからである。有名になったというだけで議員にもなれる、でも実力がないのだからボロがでる 、それは自業自得だともなる

今の世の中でも不満が大きい、その不満が鬱積している、その不満の捌け口を求めている貧乏にも苦しんでいる、すると上にたつ金持ちに対しての不満をはらしたいがなかなかできない
タックスヘイブンなどとなるとどうしていいかわからない、それこそ巨悪なのだが巨悪に対抗するのは簡単にはできない
それで不満の捌け口がそうした一個人や弱い所に向けられ集中して鬱憤を晴らすもちろんそうあるべきなことは否定できない、でもそれが過剰になると危険になる
ナチスが起きたとき失業者があふれドイツは貧乏で苦しんでいたからその不満の捌け口を戦争に求めたのである。  

どこでも中国でも北朝鮮でも不満層相当いる、その人たちのガス抜きとして日本がある。反日ということではともかく内部の分裂ではなく国が一致できなるからそうなる
そういう心理が大衆にありテレビはその不満の捌け口としてリンチ的に晒すのである。 
こういうことがあるから司法が生れ裁判が生れた経過がある
でも人間の心情にはリンチして制裁したという願望がある
自分とかかわらなければ他人をおとしめリンチすることは快感となるからだ。
そこに公正に見る力がなくてもいいのである。むずかいしことを言ったらわからないからである。
テレビの問題はすでにリンチの裁判所のようになっていることなのである。
一旦そこに顔を出されたらすでに社会的制裁になってしまうのである。
複雑な背景など関係なくそうなってしまうのである。
大衆的悪感情を刺激するのがテレビの私的リンチなのである。
そこにテレビというメデアの危険性がある






タグ:テレビ批判

2016年05月16日

パソコンの具象画から具象画への変化 パソコンで作り出された自然の景色の不思議



パソコンの具象画から具象画への変化
  


パソコンで作り出された自然の景色の不思議 
    


 花画像ーここに具象画の山と花の絵がある


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春の山(mountains of spring)


 

これは有料のサイトである。このプロが作る素材は商売になる、それは現代のまさしくアートなのである。
アート(art)は技術の意味である。アートを作り出す技術が生れたのである。
これは雑誌とかではないインターネット空間でのみありえる世界である。
インターネットのみの空間でネットで広がるアートの世界が生れた

パソコンで作り出された具象画は絵の具で作り出されるのとは違っている
今までにありえない電子色の表現なのである。
だからそれは電子空間のインターネットで見れるものである。
そして電子の光の絵画はパソコンのソフトで変化しやすく別なものに変容するのである。こういうことは今まではありえないアートだったのである。


今回はパソコンの絵画をそれは実物を写生したものではない、空想の絵である。
それを変化させたら全く意外なものになった
具象画から具象画と変化した不思議がある。
これは元の絵がわからなくなるものだった

絵の才能がなくても絵を創作している気分になるのも不思議である
著作権違反なのかというとなるかもしれない
ただ全く元の絵ともにつかないものになっているからこれはオリジナルですよといえば
通ってしまうだろう。今回のそうである。
抽象画だと余計に元の絵はわからなくなるから著作権を主張しにくくなることは確かである

一応変化させた絵のサイトをリンクした。ここは有料だからまずいということはあるが一つの参考として出した

2016年05月17日

東京都知事ー舛添要一のネット情報 (妻は創価の幹部で知事も創価の応援でなった?)

     
東京都知事ー舛添要一のネット情報


(妻は創価の幹部で知事も創価の応援でなった?)


厚労相就任の日も真夜中に洗濯…妻が語る「舛添要一という男」(2007年9月9日06時02分 スポーツ報知)より抜粋

◆舛添雅美(ますぞえ・まさみ)

1964年1月6日、神奈川県湯河原町生まれ。43歳。聖心女子大学文学部卒業。
89年に美術館学芸員として働きながら、東大助教授だった舛添氏の私設秘書を務めた。その縁で96年に結婚。 

私が自民党は公明党を切れと度々書いているのは、創価学会に裏支えされる公明党が、国家の中枢にいるべき政党とは思えないからである。そして、国政とともに、創価学会の息がかかる都知事が誕生すれば、国と首都に学会の手が及ぶことになる。舛添が都知事になってはいけない理由もそこにある。


創価のシンボルそっくり
都知事の奥さんは創価の幹部
競技場を建てるのは大成建設(創価企業)
新エンブレム 創価学会のシンボルマークにそっくり
2016-04-26T12:12:18+09:00Posted by 龍二 1


自民党が除名した舛添を担ぐなんてどうかしてます。案の定、こんな守銭奴を都知事にしてしまった!

一方、本来、反自民反公明の共産や民進が舛添批判をしないのは「舛添が韓国擁護派」だからでしょう。まさに、共産と民進は売国奴ですよね。舛添がいくら批判されても平気なのは「韓国カード」をしっかり握っているから。 そういう点だけは舛添の「ずる賢さ」が活かされています

法令に違反してまでして宗教法人としての認可を与えた張本人である東京都の知事と役人が
その後も創価学会の宗教法人格を取り消さずに知らん顔して与え続けているようです。
知事と役人が創価学会と癒着または信者本人であることがミエミエです。




舛添東京都知事に興味をもったのはもともと東京都知事になりえたのは創価の応援があったためだと分析がある。
自民党から離脱したのになぜ自民が応援したのか?それは同じ政権党だからそうなった。公明の要望でそうなった。政治的取引だったとなる
公明創価色が強い人物だった。婦人部からは女性歴で問題があり反対があったが押し切った。
舛添知事は公明創価の傀儡だったのか?それはネットの情報を探れば確かにそうみたいだ創価は東京は本丸であり大阪もそうであり重視している。
日本を支配するためにそうなるから東京都知事が誰になるかは重大である。
   

宗教法人団体の認可を与えるのは東京都なのだから東京都知事を創価の傀儡にすれば万全だとなる、そして東京都を創価支配下に置き権力を操作できる
だから創価は選挙に血眼になる、創価は自分も学生時代運動していたけど「権力奪取」を目的とした団体であり利権を得るためのものでありそれ意外なにもないのである。
仏教がどうのこうのとかそんなものは何も関係ない、仏教はだ御利益を得るものでありその指導はただ何か困ったことがあれば題目をあげろそれしかない、そこに何かしら人生論を説くなど何もないのである。
そんなめんどうなことにはかかわらない、福運があることだとか何か御利益にあづかることしかない、そのためには団体一丸となって東京都だから日本だろうが私物化するのである。それを象徴していたのが舛添東京都知事だったともなる 

舛添東京都知事の妻が創価の幹部らしいというときそれは裏づけがあるのでまちがいない公明党の選挙応援をしていたからである。
それは外部のものとしてではなく内部のものとしての応援だったのである。
舛添知事はそれだけ創価と深いつながりがある人だったのである。
だから今になると舛添を応援したバックの創価などが批判されている
ところが東京都議会とか議員とかが批判しないのか?
それは東京都の土地の一部を韓国に与えたように韓国とのつながりが深いからである。
すると野党は舛添知事を批判しない、背後にあるものが大きいので批判しない
舛添知事が強きなのはそのためなのである。

創価も日本の癌なのだけどこれにかかわらない人はいないだろう、例え会員でなくても近所に必ずいるのだからかかわらざるをえない、そして底辺層は創価か共産党と必ず関係している。ほとんど生活保護になっているからそうなる
そういう利権を与えて票とりしているからである。
市営住宅ではどっちかに必ず入っているのである。それは都会だとそうだと思っているが田舎でも同じなのである。議員には必ず一人か二人いるのだからそれだけの票をもっているということであり会員がいるのである。

創価の人はともかくまともでない、常識もない人間が多いのである。そのことでも嫌われている。最近草むしりしてもらった人は創価であり猫十匹飼っていてそのために去勢手術したとかで20万の借金があという、これも生活保護なのになぜそんなことをしているのかとなる、知らないでかかわったがあとはかかわらない。
ただ自分も一人暮らしで猫を飼っているから猫は子供を生むと本当にやっかいだということがわかったからそんなふうになってしまうのかとなる
どんな宗教に入っているとか信仰しているかを見る前にその人がどんな人か見るべきだろう。

イスラム教であれキリスト教であれ人は判断できない、そこには常識もないとんでもない人間が無数にいるからである。
あの人はキリスト教を信仰しているのだから心も清い立派な人だろうとかならない
エホバとかもそうである。それはカルトでありただ会員を増やすことを目的としている
いちいち人を選んでいたら会員は増えないからである。
カルト宗教団体の目的は権力を得ることなのである。だから政治化している
会員数を増やして政治に影響して権力を左右することなのである。
おそらくエホバなどでもは背後に大きな権力、アメリカなどの意向が働いて活動しているのだろう。

創価などはどんな人間でもいい、屑人間だろうが非常識だろうが一票にさえなればいいのである、その人がどんな悪辣であってもそうである。
だからそこにどういう人間たちが集まっているから想像すべきである。
宗教的回心などいゼロである。ただ幹部すら仏罰を恐れているのである。
それは得をご利益をひたすらもとているのだがそれが得られなくなる恐怖なのである。
それが地獄なのである。地獄に落ちる、罰あたるとすぐに言うけどそういう本人が宗教的呪縛されているのである。
あんたたちが一番罰当たり地獄に落ちるんじゃないかと思うし実際そうだと思う

悪人が宗教にかかわるとますます悪人になるというのは聖なる宗教を自分の欲のために利用するようになるからである。
この世では要するに宗教すらサタンのものになる、サタンは宗教を使いこの世を支配するのである。カルト宗教団体がまさにそうなのである。
それでヨーロッパではカトリックの批判から政教分離が生れたのである。 
自分は時事問題の深層から政教分離のことは追及してきた。
日本では天皇教があり戦争で多大の犠牲かあったということもあり戦後雨後の竹の子のように宗教団体が増えたのである。
その弊害の最たるものが創価だったのである。  

ではなぜ創価という政教分離に反する危険な団体が弱体化しているにしろ存在し続けるのか?
それはやはり底辺層を吸収してゆく、カルト化しているからそこで誤った宗教で奴隷にする、こういうことは結局おそらく人類からなくならないというほど絶望的のようにも思えるほど根深いなのである

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」 (ローマ八の15)

奇妙だけど教会でも牧師がいるとすると奴隷の霊に支配される、牧師が霊をさずけるのではなく神しかいないからである。だから内村鑑三は無教会を唱えたのである
人間は根本的にここを解決しないとカルト宗教団体はなくせないのである。
幹部たちが実際は奴隷の霊を受けて奴隷なのである。だから罰あたるとか地獄に落ちるとか恐れている、実際にそうなることはまちがいない  「地獄だ、罰だと軽々しく言うな、お前らにその言葉がかえってゆきその通りになる」
宗教をそれほどまてに堕落させ世俗の道具にしたのは余りにも重い罪だからそれはもう逃れることはできない、カルト宗教団体の会員はそれだけ重いカルマをもって来世に行くことになるのである。それを自覚できないのはまさに致命的であり来世で後悔してもも遅いのである。
数が多いからすべてが許されるのか?この世でも通ってしまうのか?まさにナチスがまた現代に再現される、中国やカンボジアのように粛清され大量殺人が生れる

ただ庶民というのが馬鹿なのかというとそうでもない、そんなカルト宗教団体にだまされない人もいる、そういう人は社会の常識をもっているただろう。
なぜ創価がオウムのようにならなかったか?それは創価は庶民が底辺が多いからである。
そういう人たちは得か損に敏感であり損なことはしないのである。                
池田大作が庶民の王だというとき庶民的感覚を重視しているからそうなる
サリンをばらまくということにやはり疑問をもつということあったのだと思う。
ともかくなんであんなのが宗教なのか、その会員を身近でみているからそうなる、創価などでも非常識な人が実に多いからまわりから顰蹙をかっている
庶民でもそういう常識をもっている人は入らないのである。
一方で知識人でも頭がいいとしてもオウムのようにカルトに入り人生を無駄にする人がいる、そうならないのはそれはかえって庶民の常識をもっているからである

だからつくづく常識が大事だとなる、そもそも宗教が権力をもった時点で過ちになったことは歴史が証明している
権力をもつが故に宗教戦争になる、その創始者が乞食のうよな生活をしていたことを見ればわかる、今ならそんなことをまねることすらない、ただ権力をもち威張り贅沢をしたいしか宗教でもないし宗教がそういうことを欲望をかなえる道具に成り下がってしまった。その誤ったカルト宗教が社会にものすごい大きな災いをもたらすのである。
批判すると罰あたる地獄に落ちろとか百万人の人間でも叫ぶことはハイルヒットラーとして敵対者を大量殺戮したと同じなのである。 

いづれにしろ情報は権力があるものが操作する。権力があれば白を黒と言うことができるその権力とは何かというとき、実際に権力をもっているもの行使できるものである。
例えば必ず背後にいて権力を行使する、今度のオリンピック招致問題でフランスがワイロを贈ったことに「電通」が関与したと指摘されたのもそうである。
電通は表に出てこない、でもテレビ局を支配しているのは電通だと承知されている
それが外国によって暴かれたとなる、創価もバックで情報を操作する権力をもっている。だからバックにあって表面に出てこない、またアメリカでもバックにあるし中国でもそうである。
巨大な権力によって情報でも操作され真実は見えなくなる、つまり権力そのものが情報を操作できるのである。それが真実とかどうかは関係ない、権力者の都合のいいように操作できる、原発事故でも東電と政府の権力が絶大だから「安全神話」が作られたのである。
権力が神話を作り出していたのであり真実ではないのである

でもいくら権力で情報を操作しても原発では津波や地震の自然災害でその嘘が暴かれた。今回もやはり巨悪でも暴かれるのかとなる、舛添知事の場合は小悪だとしている
オリンピックが巨悪なのだろう。そこにも創価がかかわっていたのである。
オリンピックも巨大な利権だからそうなる、利権となると食いついてゆく
大成建設が競技場を建てるというときそうである。大成建設は創価の正本堂を建てた。その時大成建設の社員が創価の会員になっていた。
その大成建設の社員宅で座談会が行われた。大成建設と創価はもともと結びつきが深い、それで創価大学の就職先として一定の枠がもうけられている。

そもそも創価はそうして権力を操作したいから権力に執拗に執着して権力を我が物にしようとする団体だからそうなる
権力そのものを追及しているのであり真実、善、義など関係ないからである。
東京都民も公明の議員に都政が牛耳られ利権を行使されることに不満な人が多い、そういう人たちの不満がいつか爆発する
その時創価でもどうにもならない、創価で運動しているのは実際は十分の一にも満たない、あとはほとんど幽霊会員であり一票とるためとしてある。創価をやめた人はすでに何百万人なのである。もう衰退する団体であり最後のご利益を得るために運動しているのだろう。
そして組織が崩壊する日も近いからである。
仏教はご利益のためでにある、あとは何もない、巨大なご利益権力圧力団体にすぎないのである。そこには一かけらの仏教の真理とかも関係しない、ただご利益追及のために仏教があるだけである。

posted by 老鶯 at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層