2016年04月29日

八重桜(小さな町の散らし)



八重桜(小さな町の散らし)


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八重桜風雨の中に赤く咲く

八重桜ここに住みつく人のあれ

雉の鳴き鶯の鳴き蛙鳴く

原町の街の広しも夕燕

鶯の鳴いて種蒔く男かな

菖蒲咲き老舗のあらむ通りかな


通りにそ菖蒲の咲くもあわれかな人行くまれに店なく淋し

福祉の湯入りてあわれ我が一人白き菖蒲の咲きてひたりぬ

店もなき街の通りにあわれかな紫と白の菖蒲映え暮る

街中の畑に菜の花映えにつつ漬け物会社に働く人かな

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介護十年していたときほとんど遠くに行かない、一万の町の中でありあとは隣に4、5万の街がありそこにゆくだけである
ずいぶん生活範囲は狭くなったと思う
というのは絶えず遠くを旅していたのが自分だったからである。
10年くらいは海外旅行だったから余計にそうなる
それでも家事に追われて以前として忙しいのである。


冬は福祉の湯には行っていなかった、8時間くらい水につける電気であたためるものを使っていた。これは時間がかかりすぎるしシャワーは壊れたし自分の風呂は直さない限り十分には使えない、でも金がかかるからやめた
家を直すときりがなくなる、本当は古い家なので冬が寒いから直したいが金がかかりすぎる、福祉の湯は広いし泡が出るのもあるしシャワーでも使いやすいのである。
そしてそこでは入る人は少ない、いつも一人で入れるのがいいのである。
混むのはカラオケやっている時だけだろう

そういう点贅沢だと思う、何か一人暮らしは食事でも風呂でも共同的なものというか家でなくて外でできるのものがいい、一人分はだめんどうだしかえって金と手間がかかるからである。
湯に入りながら庭に白い菖蒲が咲いていたのを一人見ていた、のんびりしていい。
この街の新しい通りでもそこには店がないのである。
その通りに菖蒲が咲いているし菖蒲の季節である。
でも何か店もないのが淋しいのである。どこでも商店街は消滅している
でもなんか商店街がないということは街が死んでいることにもなる
通りもせっかく新しく作っても活きていないのである。

菖蒲が咲いて静かに老舗があるというのが何かあっている
もう一軒の店が成り立たなくなっているのだ
街というのはやはり田舎でも必要なものだと思う
街がないと店がないとその他何か街にあるべきものがある
そういうものがないと人間的暮らしができない
湯でも離れていると簡単には利用できないのが問題なのである。
福祉の湯は近いからいいのである。それでも冬は自転車だと湯冷めするから利用しなかったのである。

桜は散って八重桜の季節に変わった、桜と八重桜はかなり違ったものである。
桜は散るということを前提にして咲いている、散るのが美しいのである。
桜はだから遠くで見るのもいいのである。
梅とか八重桜は近くで定着して見るのがにおうのがいいとなる
昨日は風雨の中に咲いていた、その赤さが何かあたたかさを感じた
八重桜は何かあたたかみを感じる花である。
ほわほわぽかぼかとした感じになる、これは桜といっても普通の桜とはその性質は全く違う。八重桜の方が何か人間をイメージするのである。

小さい町ではたいがい街中でも畑がある、そして菜の花が映えていた
そういう光景はなにか心をなごませるのである。
家で埋まっていたら嫌なのである。前は畑に菖蒲が咲いていたがそこは荒地になった
それも淋しいとなる、この辺の街の様子が大きく変わってしまった
新しい家がどのくらいたったのか三百軒なのかわからない、その数は小さな町にしては多いのである。
いづれにしろ自分の住んでいる街は一人暮らしには不便である。
特に気軽に入れるレストランとかがないことが一番不便なのである。
いつも行っていた仮設のあつみ食堂は臨時休業になりこれから再開するのかどうかもわからない、でも家があるかぎり簡単には移動はできないのである




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