2016年04月24日

避難区域の小高などを活かす一つの案 (自然公園として活かす)


避難区域の小高などを活かす一つの案


(自然公園として活かす)



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小高の海を村上城跡から見たとき他で見るのと違って見えた
あそこの小高い丘に上ったとき見た海は違って見えた
普通に下から見たらどこでも海は同じに見える
あそこは海が迫っていて海がより間近かに見えた
だから良くあそこに津波が襲われなかったと思う
高さからしてもあれだけの津波だから襲われた感じがする
なんかあそこから海を見ると海の中に入るような怖さを感じた
何でも見る場によって違って見える
あそこは小高では観光のビューポイントである。


小高でもう一つ(懸(かけ)の森がある


(懸(かけ)の森


小高の城跡と鳩原((懸(かけ)の森の方を回った 


ここを上る道は荒れていた、電動自転車だったから上れた、ヤマハのマウテンバイクだから馬力があるのででこぼこの道を延々と上った、あそこは道を整備しないと上りにくい
頂上までは上らなかった、ここもちょっとした登山にはいい
小高は小高神社が中心になる、小高神社からは海が見えた、やはり小高は津波が駅を越えてきたので海が近かったのである


小高をどう活かすかとなると自然公園として整備することもありうるのかと思う
津波の跡は人が住めないからそうしている、小高は全域が人が住んでいないからまた違っている
ただ避難解除したら住む人がでてくる、ではその人たちは農業をするのか
何で生計をたてるのか?ロボット工場ができるから働き口はできる
でも田んぼとか畑をやる人がいるのかとなると細々と老人がやるかもしれないがあそこで本格的に農業をやる人はいないだろう、菜の花の油を作る、あれも試験用なのだろう
原町の太田の人ももう農業をやらないと言っていた。養鶏で生計をたてていたのである。

いづれにしろ津波の跡はもう小高では田んぼにできない、すると結局自然状態にもどる、現実に湿地帯化していた、津波の跡は放っておくと湿地帯化するのである。
北海道の釧路湿原のようになってしまう。
でもそこは観光の場所になっているのである。
津波でも原発でも別に自然の風景までは破壊されなかった、海は海であり山は山であり森は森として残っている、ただ放射能に汚染されたので農業ができなくなった
ただその風景は活かせる、農業にこだわってもどうにもならないということはあるだろう三陸の方では子ども向けの自然教室を開いて人集めしている人もいた
そのためにはかなりの資金が必要だった


小高でも全部が失われたわけではない、風景は風景は今までのように残っている
村上城の跡から見る海は青々とした海がなみなみと心を満たすように迫ってくる
津波の後だから怖い感じにもなった、でも他と違った海を感じた
その海の色に心も青く染まった、あそこから見る海は違っている
あの小高い丘が海を見るのにいいビューポイントを作ったのである。

自然公園と言ってもこれも何か具体的に何なのかとなると浮かんでこない、例えは自然公園というときそこを一つの広大な庭としてイメージするわかりやすいかもしれない
要するに庭作りを考えるのである。
水辺があり水生植物が菖蒲などが咲き魚も泳いでいる、いろいろな小径があり散策する道が縦横にありあきない、東屋がそこうしこあり思索にふける、どっしりとした様々な形の岩があり重みを加える、自然とはそもそも人間の心を反映したものとしてある
それを自分は詩として書いてきたのである。
自然が提供したイデアがありそれを人間の心に反映させたものが芸術となる、それは詩となり哲学となり絵画となるるし宗教ともなる
岩があれは岩のような心をもつとなり樹でもそうである。

要するに自然公園というとき一つの町が庭園化することかもしれない
原発避難区域は農業をすることがむずかしくなったので何が残るとなるとそうした風景は残り活かすことができる、ただそこで農業をすることは放射能汚染でむずかしいとなったからである。
飯館村でも花の栽培はしていたからそれはつづけられるし拡大できるししているところもある。花で飾るということも自然公園である、それは仕事になるからいいのである。
津波であれ原発事故であれそれによってすべてが失われたわけではない
自然の美は残されていたのである。だから何かそういう残されたものを活かすということも一つの案だろう
どうしても今までの考え方が通じない、するとどうしたらいいのかとなる
これは飯館村とかでもそうであり浪江でもそうである、浪江でも高瀬川は景勝の地でありその自然がなくなったわけではなからである。

こういうふうにイメージすることは貧乏な時代には絶対できない、なぜなら人間食うことが第一であるからだ。米をとるためにいたるところ開墾したり開拓したりした歴史が日本だからである。
大正時代にも井田川浦は開拓されていたのである。それは食うためであった
でも今は米余りと減反になると米を重要なものとして見ていないのである。
だからいつも八沢浦でもあそこで米をとれるということを重視していなかった
土地の人は重視していてもあそこが浦になったらどれだけ美しかったろうといつもイメージしていたのが自分だった、だからそこで人が死んだというとき八沢浦が昔の美しい浦にもどったと書いたときそれに反発する人もいて当然なのである。
でも浦波が朝日がさしてきらきら打ち寄せていたときは奇跡のように思えたことは否定できない、それは一回だけ見た奇跡だったとなる、こんな現象を生きているときみれると思わなかったからだ。

考えてみれば自分はこうしして自然公園とみて逍遙していたのが人生だったともなる
農業の苦労など見ていないのが正直自分だったのである。だからここにも反発はある。
実際その女性は農家の出であり農業が好きなのである。
でも種が高いとか肥料がどうだとかそのわずかな畑を作るのに収穫するものはわずかであり野菜ももらっていない、ただ苦労だけを聞いて金をだしているだけであり見返りは何にもないのである、そういうふうに趣味でしている人も今はいる
第一農業でもうけるということはまた今は別な問題なのである。
豊かなは時代には農業も変わる、自然でも自然景観がより価値帯びてくるということもある、価値は常に変わっているからこの辺でも価値観を変えて対処する必要がある
ただどうしても旧来のものに固執する、第一考え方からしてそうなる
だから若い人の自由な発想で自由にやらせた方がいいと女川辺りでは老人は口だすなとなった、めれだけ緊急事態だからそうなったのである。
そして除染に何兆円もつぎ込んでそれが有効なのかという疑問もある、それが復興につながるのだろうかという疑問がある。
農業を復興させること自体むずかしいからである。
そもそも復興のビジョンというのが描けないことに問題があったともなる
ただそこには様々な意見があるからいちがいには言えない、除染するということはやはりその土地を活かす、実りを得るものとして不可欠だともなるからである。
ただそれとはまた別な発想も要求されていることは確かなのである。
何か新しい発想を提示することがずかしいからそうなっているとも言える
そこにこの辺の大きな問題がある、第一前にも書いたけど田舎で田んぼがない世界が考えられない
そのこと自体がいかに発想を変えるということがむずかしいことなのかわかるのである。
タグ:小高
posted by 天華 at 16:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連