復興を願いて小高の春二十首
(浜街道を小高へ)
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コブシ咲き高松の奥家一軒
芽吹きけり馬飼う家や相馬かな
津波にも残る御堂や蛙鳴く
海近く六号線や朝日さし鳥も飛びきて山桜映ゆ
東風吹きて樹々も芽吹くや朝日さし山桜咲く六号線行く
山桜風にそよぎてゆれやまじ浜街道を朝進みゆく
山桜松に映えにき東風吹きて散り舞う花びら浜街道行く
新田川瀬音のひびき山桜朝日のさして岸に映えにき
街道を行く人あれやチューリップここに映えにき朝の明るさ
小高にそ花みな散りぬ帰らざる小高神社に我がもうずかも
残る花小高神社に散りゆくやここに住む人なしも淋しも
人なしや小高神社の石段に蟻穴いでて働かむとす
津波にそ流さる社再建す誰か守るや雲雀なきしも
人住まぬ小高や原の広がりて雲雀なくかなタンポポの満つ
人住まぬ小高にあれど雲雀鳴く我にひびきて生きるものあれ
小高にそ津波の跡に松二本痛々しくも五年はすぎぬ
鴨なおも渡り去らじも沼に群れ小高に人は住まざりしかも
村上のに城のありしと望む海タンポポ映えてなにかありなむ
村上に波のひびきて山桜朝日のさして海を望みぬ
村上の社を誰かたずねなむ椿の散りてあわれなるかな
村上の墓地の古りしやあわれかな散りし椿や帰らざるかな
福岡と川原と記す碑の一つ田んぼに残る春のくれかな
雲雀鳴き復興ならむ小高かなタンポポまぶし海を望みぬ
六号線は山桜が今盛りであり朝日に映えてきれいだった
敷島の やまと心を 人とはば しきしまの やまとごころを ひととわば. 朝日に匂ふ 山さくら 花
これは山桜であり染井吉野ではない、そこがまぎらわしいのである。山桜は野生種であり染井吉野は江戸時代に品種改良したものである、本来の桜は日本では山桜なのである。
ソメイヨシノは加齢とともに危険度が増すことが分かりました。特に樹齢40年を超えると、危険度2以上の占める割合が極端に増え
ソメイヨシノが世の中に広まったのは江戸時代の終わりくらいですから、まだ150年経つか経たないか、まあそれくらいということになります。そうすると当然ながら、それ以前の古い木というのはないので、若い木しか我々は見ていないということになります。
山桜となるとその樹でも樺細工とか角館で作られているし丈夫である。山桜は丈夫であり染井吉野は枯れやすいのである、せいぜい150年が最高年齢としても明治からすでにそのくらいすぎているから寿命が樹としては短いとなる
山桜と染井吉野の相違はにていても大きい、山桜は野生種であり純白の花である。
染井吉野は艶なる花である、だから京都辺りだとにあっているのである。
山桜は六号線沿いにかなり咲いていた。今日は朝日がさしてきれいだった
まさに朝日にこ匂うように咲いていたとなる
山桜は風にそよいで咲くのもいい、浜街道は海が近い、そして東風(こち)が春になると吹いてくる、旅からは遠ざかっていたがまた旅に出る気分だった
生きている間に自転車でもう一度磐城まで行きたいとなる
小高は海の方ではまだ津波の跡が痛々しく残っていた
壊れた家も残っていたし田んぼは湿地になりまだ整地されていない
ただ除染は小高の方が進んでいると太田の人が言っていた。
帰還をすすめるためにそうしているのだろう
小高で感じたことは田んぼが一面に原になりタンポポが咲き雲雀が鳴いていた
それは原町とか鹿島とか相馬市や津波の被害地はそうなっていた
でももう湿地は埋め立てられたし壊れた家もない、小高はまだその点五年前のままの所が残っていた。
小高の復興というときやはり人がともかく住む、誰でもいいから住む、老人でもいいから住む、住まないとしたら人が入ってくる、それだけでも生きてくるものがある
雲雀の声が自分にひびいたとき雲雀も自然も花も生きるのである。
そこに人がいないと自然すら死んでしまうというものを感じるのである
一旦人が住んだ場所は人が住まないと活きてこないのである。
人が住まない太古の自然とは違い人間と共存した自然だったからなのである。
復興というとき歌や詩も力となる。雲雀が鳴いている、その歌は人間にひびくのである。人間にひびくとき最もひびくものとなる、活きるものとなる
それが誰も住まない来ないとしたらひびかないのである。
だからみんな帰らないとしてもそこには人間が入るべきなのである。
人間がいない世界は自然まで死んでしまうということになりかねないのである。
ともかく原っぱでもいい、そこを人間が通ればその道でも何でも活きてくるのである。
雲雀鳴き復興ならむ小高かなタンポポまぶし海を望みぬ