2016年04月17日

余花十句(夕暮れの街道を相馬市の城跡まで)



余花十句(夕暮れの街道を相馬市の城跡まで) 

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草青し雨濡れ夕べ春の虹

夕風にゆれやまぬかな山桜

薬師堂古き碑並び花散りぬ

街道に夕日さし松に山桜

花映えて鳩むれとぶや街の空

城跡に夕鶯や月もいず

四十雀枝わたるかな残る花

夕月や薄紫のつつじかな

城跡に余花のあわれやいずる月

人去りて眠りにつくや余花に月


城跡に残れる花や幾人か心静かに夕べ歩みぬ

夕暮れにかそかに残る花も散る城跡静か歩みけるかな

雨の後残れる花に夕日さしあわれ暮れゆく薬師堂かな

残る花薬師堂にそ散りゆくや夕日のさして我が通るかも

宇多川の岸辺にあわれ残る花夕べ歩める人の静けし

五本松一本欠けぬしかあれど五本松かな春の夕暮


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今日は雨がふり午後から晴れた゛その時虹がかかった、短い虹だった、春の虹だった
この時カメラをもっていなかったのが失敗だった、今はカメラを常時もっていなとシャッーターチャンスを逃し二度ととれなくなる

それから日立木の薬師堂を回り松並木の街道を通り相馬市の城跡に行った。
その時は風は吹いていなかった、雨にぬれたあとの散った桜が風情があった。
残り咲く花もまだ散らず城跡にひっそりと咲き行く人もまれだった
苗市が開かれていたが終わったらしい、薄紫のつつじが目をひいた
その時ちょうど月がでていた

今回は余花がテ-マになった、これはあまり人が多いと鑑賞できない
そもそも花見とかいうと大勢になるがそれだけではない、桜でもやはり美を鑑賞するとなると静かな方がいいとなる
大坂城とか京都の桜は歴史があり特別なものがある
ただ今は人が外国人でもこみすぎるから行きたくない
自分はもともと人嫌いであり人ごみが好きでなかった、今になると年とると余計にそうなった
若いときはどうしてもにぎやかな所がいい、でも年取ると一般的に田舎が好まれるのはやはり騒々しい所が嫌になるのである。
個人差があるかたいだいそうなるのが一般的である
自分の場合はある意味で異常だった
30年間恵まれてほとんど人と接していなかったのである。
ひきこもりといえばそうなる、ただその間旅していたからそれとも違う。

ともかく何度も書いているけど相馬市はなぜ不思議なのか?
それは街なのにしんとしているのことなのである。
原町にはそういう感じはないのである
だから余花でも映えるとなる
人も去って街はねむりにつき余花と月のみが映えているのである。
そういう景色が心に映じて自分も眠りたいとなる
なぜならここ十年は介護に終われて疲れてしまったからである。
そして苦しみの連続だったからである。

五本松の一本は枯れて切られ根っこだけがあった。
それでも五本松である。
自分の家族も二人亡くしたが60年も一緒にいたのでいなくなったという感じがないのである。
これは今のところ謎である。そういうふうに親しい人が死んだときその後にどう感じるかはまだ何なのかわからない
でも何か消えた感じがしない、やっはりいるような感覚になるのが不思議なのである。
それは60年も一緒に同じ場所にいたことが影響しているのだ。
五本松でもやはりここにいつでも立っているから一本消えてもやはり五本松としてあるのとょにているのである。

今回は結構山桜は咲いていた、染井吉野はほとんど散った、余花になっていた
桜もこれでだいたい終わりだが実は桜前線はまだ北に向かうから桜はみれるのである。
ただ何か自分は介護十年で終わり家族が二人死んで疲れがでた
でも今回もかいごしなくていいから時間の余裕がありゆっくり帰ってきたのである。





タグ:余花

巨大地震が連続して起きた慶長時代とにている (東北と九州(熊本)に起こり今度は関東へ迫る恐怖)



巨大地震が連続して起きた慶長時代とにている


(東北と九州(熊本地震)に起こり今度は関東へ迫る恐怖)

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慶長伊予地震 - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線沿いと推定される地震。
慶長豊後地震(大分地震)[4] - 1596年9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0〜7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾-日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震とされる。
慶長伏見地震[5][6][7][8] - 1596年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。有馬-高槻断層帯、あるいは六甲-淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。


慶長地震[9] - 1605年2月3日、南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある。M 7.9〜8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4〜8.5ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。


会津地震(慶長会津地震) - 1611年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)[10][11] - 1611年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1(8.1-8.7の諸説あり)。ただし、津波の痕跡の範囲などから、この従来の定説に疑義があるとされ、千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。地震被害の記録はほとんど無い。
慶長十九年十月二十五日の地震 - 1614年11月26日に起こった地震。従来高田領大地震とされたが、会津から松山に至る日本各地に被害記録があり、震源は不明


慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震

は4日以内に連続して発生したものであるが、共通点は、これらの地震が

「中央構造線」

上で発生していることだ。

日本列島を縦断する

「中央構造線」。

この「活断層」が活動を活発化させていると考えられる


1596年9月1日 慶長伊予地震

1596年9月4日 慶長豊後地震

1596年9月5日 慶長伏見地震


1605年2月3日 慶長地震(南海トラフー関東地方)


1611年9月27日 慶長会津地震

1611年12月2日 慶長三陸東北


最初伊予(四国)で起こり継ぎに3日後に豊後(大分)で起こり一日後に伏見(京都)で地震が起きた。これは確実に連動して起きた。

次の1605年は謎の地震と津波と言われるのはなぜか不可解である。
慶長三陸地震津波の前に会津で地震が起きて七層の黒川城が崩壊した
それはのカ月後にだった


1596-1611(慶長時代)は戦国時代でもあり地震と津波の時代だった
問題はこの一連の地震は関係しているのかということである。

中央構造線で起きた伊予ー豊後ー伏見地震は確実に関係している
一週間以内に起きたからである。

その次の1605年になると9年後げありこの地震と津波のことは謎である。
これがもし本当であったとすると怖い
なぜなら今回の熊本地震と中央構造線でつながり関東地方にも影響がでてくる
ただ慶長地震の場合は9年後だからすぐに影響したわけではない

次の慶長会津地震は慶長三陸地震の3カ月後だからなんらか影響したと思われる。
何か今回の熊本地震でも慶長時代とにている

ただその方向が逆になっている
東日本大震災は東北でありそして茨城県から東京とか関東にその影響があるのか?
そこは謎であり南海トラフの大地震から大津波につながるのか?
そして九州とかの熊本地震につながっているのかとなる
ただその間に10年とか時間差があると地震や津波は関連がむずかしくなる
人間だと10年一昔になってしまうからである。10年後に起きても関連づけるのはむずかしくなる
ただ慶長時代はなんらか巨大地震が多く一連のものとして起こった可能性が大きいのである。
それをあてはめると何か今回の熊本地震は不気味なのである。

地震がなぜ予測できないのか?やはり科学というのは法則性を求めている
その法則があてはまらない、変則的に起きてくる
地殻がどういうふうに関係して連動して起きてくるのかわからない
それがいつ起きてくるかもわからない、一年後なのか5年後なのか十年後なのかもわからない、第一巨大地震のあとには百年後まで余震が起きるとなるともう忘れてしまうだろう
ただ不気味なのは南海トラフの大地震と津波が警戒されているのは東日本大震災でも熊本地震でも両方からの圧力が地殻にかかっているかもしれない、そしてそこが空白地帯になっているから危険なのである。
だから30年のあいだに巨大地震が起きるというときそれは確率的に言えるとなる
今回のように東日本大震災や熊本地震があるとそれは慶長時代とにているから余計に心配になる。そういうことが慶長時代に起きていたからである。
タグ:熊本地震(2)
posted by 天華 at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処