2016年04月16日

空白地域で起きた熊本地震 (ここでも強い地震は起きないとされていた)


空白地域で起きた熊本地震


(ここでも強い地震は起きないとされていた)


90年のデータだけでは限界があるため、「自分の地域ではでかいのはない」
と、絶対に思わないように。安堵しすぎるのはかえって逆効果です。

なぜ熊本でもそういうふうに信じられていたのか?
これも百年単位とかで見ていると地震は起きない地域とみてしまう。
不思議にそれがだんだん信念までになってゆくのが人間だった
福島県の浜通りとかでも宮城県でも三陸以外はそうだった
すでに400年とか津波が来ていないからこの辺は津波が来ないとされていた


津波の空白地域に伝説が多いというとき宮城県の石巻辺りからは津波は来てない
慶長津波以来来ていない、そこで確かに伝説が多いとなる
それに注目して今回の津波を警告していた学者がいた
でも誰も本気で信じるものはいなかった
最近はボーリング調査で相馬市でも市街近くまで津波が来たことが証明された
それは貞観津波の砂だった。それを発表してから7年後に今回の慶長津波が来たのであるそれは科学的に証明されたから伝説とは違うのである
東京電力でも10メートル以上のつなみ想定していたのである。
ただその対策をとらなかっただけである

三陸辺りでは百年単位くらいで津波が来ているから津波の伝説は少ないというのはそれは時間感覚でそうなっている、伝説はそうしたリアルな体験が忘れられて伝説になる
要するに人間の時間感覚が短いことが最大の問題なのである。
人間の時間感覚はせいぜい祖父母の代までは現実に知っていているからリアルである。
でもその先になると現実感覚がなくなる、顔も見たこともないし例え親がその祖父母のことを語っても想像することによってしかわからなくなる
すると想像するということは何か誇大に解釈したり勝手に想像力で事実をまげる
小説のようにしたりする、事実が事実ではなく想像の世界に入ってしまうのである。
だから相馬藩で津波の時復興事業として中村(相馬市)に城を移転した、それは公共事業だったとか言う人がいた。それが有名な学者だったというのだからこれも変なものだったのである。
そしてそのことを公共事業としての城の移転と築城と相馬藩では津波の被害にあった人たちを援助したということを書いていた。
そんな事実が一かけらもないのに小説にしていかにも相馬藩では藩の民を大事にしていたかと宣伝していたのである。
事実はその逆であり津波の被害を逆に相馬氏が利用して戦国時代に支配を確立した
津波の被害者のために相馬藩で何かしたなど資料もなにもないのである。


人間の弱点は時間感覚が短いことなのだ。だから時間感覚の長い地球を相手にするときさらに誤解が生れる、それは地球というとてつもない長い時間で生成されたものを相手にするからである。
それは人間の有史以来までさかのぼる時間感覚なのである。
千年単位で起きることを知ることは容易ではない
人間は百歳まで生きてもそれしか生きていないからである。

なぜ熊本で地震が起きたのだ、ここには地震は起きない地域だ

これは福島県とかの浜通りでも盛んに言われたことなのである。
でも慶長地震と津波は400年前にきて700人溺死と記されていた。
空白地域はかえって危険だったのである。
長い間地震は起こらないとか津波が来ないという空白地域こそ危険だったのである。
なぜならそれはすでに次の大きな地震が起きる時期にきていたのである。
慶長地震津波から訳400年でこの辺にも大津波が来たからである。
「災害は忘れたころにやってくる」というときそれは人間の時間感覚が百年とか短いからなのである。
もし人間が長い時間感覚をもっていたら大災害はさけられる
そして長い時間感覚をもたないもの、文明とかでも危険になる


現代の科学技術文明は百年くらいで急速に自然の中で生れた、そこには相当な無理をしている
だから原発事故でも起きた、これは日本の自然と適合するのではない、地震が多いし危険なのである。稲作文明は自然と長い時間のなかで23千年以上のとかで日本の自然に適合したものなのである。
エジプト文明の三千年でもそうである。自然に適合した文明は長命であり百年くらいでは崩壊しない、それで縄文文明でも弥生文明でもマヤ文明でも千年以上とか普通であり寿命が長いのである。
現代文明の危険は自然と適合した文明ではないから寿命が短いから自然災害で崩壊しやすい危険も大きいのである。


とにかく日本ではここに地震が起こらないとか津波が来ないとか一つの固い信念のようになることは危険だったのである。
日本はもともと地震列島であり災害列島なのである。おそらく年号が変わりやすいのは災害をまねがれるためだったのかもしれない、平成と天皇が代わり変えた
それが皮肉なことに平成どころではなかった、それが願いにしてもその反対の災難の時代だった
天皇の役目が日本では自然災害が起こらないように八百万の神に祈ることでもあった
それだけ日本は自然災害が多い国だったのである。
そして今空白地域になっいるのが関東であり東南海地帯である。
ここでは大地震が大津波が起こると予定されている、それはここも地震や津波が長い間起きていなからである
ただ空白地域にならないのはここには人口が密集しているからみんなそのことで心配しているから注目されているのである、北海道辺りだと人口が少ないから被害にあっても日本全体にはさほど影響しないとなる、九州もそういうことがあった
東京が壊滅したら日本は終わりだとという今の事情が反映して騒ぐのである。
フクシマの原発も東京を守るために離れて作られたのである。
東京が首都でありここだけは死守せねばならないということでそうなった
そのために地方は犠牲にというなってもいいという国の意志であり政策だったのである。政治がそうさせたのである。


もしかしたら今安全なのは東北と北海道かもしれない

東北は今は余震もおさまった、巨大なエネルギーを放出した

関東は危ない

福島県も今は安全

放射能より地震で死ぬのが怖い

福島県や東北や北海道に逃げろ


これは冗談でないかもしれない、そういう危機が迫っている
タグ:熊本地震
posted by 天華 at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

みちのく真野、桜田山に桜散る十首


みちのく真野、桜田山に桜散る十首


mannyouenn2_FotoSketcher.jpg

mannyouenn_FotoSketcher.jpg

桜田山万葉園


みちのくの真野のあわれも桜田山海を望みて花は散りにき

海望む桜田山に我が上り東風の吹きくる沖ゆく船見ゆ

年古りて桜田山や残る花散るもあわれも今日も風吹く

海望み沖行く船を我が見れば旅心わく春の朝かな

桜田山花の装い燕来る風のあらしもはや散りにけり

海望み桜田山や風あらく花の散りにきあわただしかも

万葉園久々にきて年深み松にしよりぬ春のくれかな

我が生や介護に十年その重み姉母死にてめぐる春かな

我が町を桜田山に望むかな姉母なしも花は散りにき

故郷は思い出深き姉と母眠れる所春のめぐりぬ

年古りて今いくたびの春なれや桜田山に望む海かな

海望み津波の跡の生々し帰り来ぬ人春はめぐれど

故郷に我も老いにき桜田山花は散りにきあわれ深まる

故郷に若き人しも育ちなむ我が老いつつも見まもりけるかな



桜田山に上ったのは数年ぶりというか上っていなかった。それはなぜなのか?
毎日十年は買い物であり介護に追われていた。
この介護の十年は自分の人生の大きな一部となってしまった。
何かに常に追われつづけてきたのである。
桜田山に上らなかったのは失敗だった、ここから海を望んだときそれが新鮮だった
もしかしたら三年くらい上っていなかったかもしれない
とにかくこの辺は津波が来て原発事故になっていらい落ち着かないのである。
それはここ十年は介護であり自分の病気やらで本当にめまぐるしく追われたのである。

30年くらいは平和であり自分は楽だった、その間旅に明け暮れた。
それで桜で思い出したのは

みちのくに桜咲く時西に行き京大阪は散りし後かな

つまり桜前線が西から東へと移ってゆくことで情緒が生れる、みちのくの桜はまだ咲かないというとき桜の咲くのを待っているというとき西は桜が咲き誇り栄華があったのである一方でみちのくの桜も散るしそのあとはさらに北へ向かえば弘前の桜が咲くとなる

稚内六月にしも桜咲き雨のふりにつ寒しを思ふ

稚内まで自転車で行ったとき六月まで桜が咲いていた、その時は寒かったのである。
ともかく人生60年とか団塊の世代も老人となり過去をふりかえるようになる
実際に同級生で死んだ人もいるし脳梗塞とかで手術してやせほそった同級生もいた。
団塊の世代もそういう人生の最終章に向かいつつあるのだ。

何かこの十年は介護であり津波原発事故でありめまぐるしく変わりあわただしいのである介護が終わったということでその時間の重みを知った。
介護がそれだけ長いということは人生の一部として課せられるようになったのである。

万葉園にも久々に行った、何か荒れていた。立て札に記された歌があった。

一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも(万葉集、市原王)

南相馬市の鹿島区の真野は万葉集の歌にある。

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

これは必ず真野の草原となっているから草原(かやはら)だと思っている
でもこれは地名だったのである。だから草原(かやはら)をイメージすると変なものになるのだ、草原を萱の原とするとき全く違ったものになる
草原は地名だった、伽耶の原だったのである。津神社がつの神社でありそれがツノガノアラシトと関係していたように誤解される、津神社で津波と関係していたものはないのである。ツノとなっていればたいがいツノガノアラシト系統なのである。
韓国からの渡来人に由来した地名である。製鉄の技術集団が移動してきたためにつけられた地名であ。ただこれは本当にまぎらわしいのである。

いづれにしろ姉と母が死んだことは自分にとって大きな変化だった。この辺はみんなすさまじい変化に見舞われた。津波でもそうだしそのショックはまだ消えていない
ここ十年で経験した自分のことも生々しいのである
この十年は大きな重圧のもとで生きてきたのである。
だから何か常に生活でも心も負われて生活してきたのである。
そのうち十年がたち相当に老いて市ったとなる、この辺で大病したりすると同教生のようにさらにふけてしまうのである。
自分は体力的には立ち直っているからまだ死ぬのは早いかもしれない、でも何か人生の最終章に向かっていることはまぎれもない実感なのである。
今だから書くことが前に書いたことでもふりかえり書くことが増えた
いくら書いても書き切れないという状態になっている
介護から解放されたからパソコンでも記録したものをふりかえりまとめることが仕事になる、これも相当な手間なのである。





タグ:桜散る