2016年04月15日

荒れ模様の中で今年の桜も散る



荒れ模様の中で今年の桜も散る



日本なれ海の光りて朝桜


昨日は風に吹き散る桜かな今日は静かに小雨に散りぬ

目覚めれば風に吹き飛ぶ花びらや今年の桜散るも早しも

風荒れて残れる花をしばし見つ今年ははやも散りにけるかな

風荒れて桜をゆする咲きし間も今年短き落ちつかぬめかも

花散らしなお風うなり夜となる名残を惜しむ間も短しも



ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 

この歌はひかりのどけきだから風が吹いていない穏やかな日に散る桜である。
でも静心なくというのは穏やかな日でも桜が咲くとそれはすでに散ることを予感させる
今年は風が何度も吹いた、吹かない日がないくらいだった
それも風が強いのである。それで今日も桜が激しく風に揺すられていたのである

花の命は桜の命は短い、そこに日本人の美学が形成されたということはある。
戦争中は若い人が多く死んだから桜にその心が反映されやすかったのである。

たれこめて 春のゆくへも 知らぬまに 待ちし桜も うつろひにけり

桜はあくまでも「晩春を彩る代表的な景物」であり、その花が散ること、
つまり「春が終わる」ことを惜しみ嘆いているのです。
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桜を散る桜を人間の命にたとえたのは戦争中だけでありそれまではただ季節が移るということで桜をとりあげていた
静心なくというとき桜は風に散りやすいからそうなる、風騒ぐというときそれは心も騒ぐということに通じている。
花が散るというとき死をイメージしても不思議ではない
自分の今回の歌も何か死をイメージしている、命が短いというときそうである。
でも桜は毎年咲くのだから咲いて散るのだから命短しとするのはあわないのである。
どちらかというと華やかに儚いというかそういうものの象徴になる

一時に花みな散りぬいさぎよし若き命の今はなしかも

これは自分で作ってみたがこんなふうに戦争のときは桜は歌われていたのである。
こういうことは今は批判されている、戦争を賛美するものだったとなる

はかなくて過ぎにしかたを数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける  101式子内親王
みよし野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春のあけぼの  133後鳥羽院

これなんかも別に命のことではない、春の象徴として桜があった。
人間の命として桜にたくしていはいない、ただ静心なきとさせるのが桜なのである。
それが死と結びつく、桜は何かそうして死を予感させるものがあったのかもしれない。

朝倉氏が織田信長と戦っているとき家来の武将が桜の歌を残した。それは山桜でもない、糸桜だったのである。糸桜は枝垂桜であるから染井吉野のように華やかには散らない
だから散るという歌はないのである

折りを得て けふ咲く花は君がため今一しほの色やそひけむ 信忠

枝垂桜だったら散るというより枝垂れる色がにあう。この時第一城であっても今のように染井吉野のよう花は咲いていないのである。明治以降に桜の木がどこにでも植えられて飾るようになった。
ただ糸桜は枝垂桜は城内に咲いていたのでこういう歌を残したのである。

自然には人間の心が心境によって絵でも文学でもなる、俳句でも短歌でもそうである。
でも桜だけが命ではなく多くの花もやはり人間の心がたくされる、花の命は短いというときそれは人間のことでもある。
だから普通の花でも咲いて枯れれば死ぬと見るのである。
それは生き物だからそうなる、そして墓にさす花は枯れるがいやなのである。
枯れたままになってさしてあるのが嫌なのである。
それからいつでも造花がさされているのもいやなのである。
造花はやはり生きていないからである。花は枯れても生き物だから違う。
だから時々彼岸でなくても生きた花をさしておきたいとなる
要するに桜でも普通の花でも生きてやがて死すというのは無常であり運命である。
樹ですら千年生きてもいつかは死んで土に還るのが定めである
それは生きものだからそうなっているのだ。
だから桜だけがはかないとかではない、みんな花の命は短いのである。


ここに生きここに死すなれ桜かなまた咲くべしや年はめぐりぬ

桜は日本人の心 (ともに栄えるのが格差がないのが日本の文化)

これは土着的なものとして見た桜である、もともと桜は農耕と関係していた。
それで桜が咲いたら種をまくということで種蒔き桜などがある
桜を戦争のときのように死のイメージとしてだけみてはいない
栄えるものの象徴としても桜はあったのである。
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他者のカルマを受ける怖さ (事業失敗のカルマを受けた怖さ)


他者のカルマを受ける怖さ


(事業失敗のカルマを受けた怖さ)


その人は事業に失敗した。でも最近までその人は成功していたと見られていた、あの人は誰でもとれない資格をとっていたから回りから優秀な人だと見られていたし自分もそう思っていた。
現実は事業に失敗して多額の借金をかかえていたのである。
その人の事業は全国を相手にして金持ちをターゲットにした建築関係の仕事である。
別荘のようなものを提供することだった。
資格をもっていたからはじめたのである。
でもそもそもそれには無理があった。大きな設備投資もしたこともありそれも重荷になった。
自分は別にその人とは家族とも関係してない、でも親の代から深い関係があった。
親というのではないが自分の家族はその人の家族が病気になったとき看護婦ということで助けたのである。それを恩に思ってくれたので自分の家族が病気になったときは多少は助けてくれた。


でも今度は自分が病気になったときは別である。直接自分が助けたりしていないしそれよりその人にはもう自分を助ける余裕も何もないのである。
多額の借金をかかえているから自分が病気になり弱体化したときチャンスになった。
借金を要求するのには好都合だったのである。
自分は自分自身のカルマもあった、それは両親ともいえる家族には自分は一番良くされてきたから介護とか世話するのは当然であり懸命に介護した。
一人は認知症だったからひどかった。そのことを延々とプログで書いてきた。
自分自身のカルマは自分で清算するしかなかった。
でも他人のカルマまで背負うことは本当に加重であり恐怖である。
病気のとき責められることは辛い、でも相手は何も感じていない
自分だけの借金のことしか頭にないからである。
その時相手がどう思っているかというとこれも怖いことだが自分が死ねば財産がえられるとか思っていたのである。
それは殺人までいかなくてもそういう動機があり意志が生じていたことはそれに匹敵するのである。


何もそういうことはこの世の中で兄弟でも財産争いで普通に起きていることである。
それが推理小説のテーマである。遺産争いが一番そのテーマになっているからだ。
要するにこの世に起きることで自分が当事者にならないかぎりその恐怖を知ることはできない、ドラマを見ていればただ面白いとなるだけなのである。
それはあれだけの津波の被害でもこの辺で身近に起きていてもそうだったのである。
自分の親が子供が死んだらその悲しみは深いものとなる、でも近くにいてもその被害にあわない人は感じないのである。
家も流されたわけでもないし家族を失ったわけでもないからである。
これは別に自分が非情だからではない、みんな他人の不幸でも無関心なのである。
ただ自分の身にふりかかったときは全く違うのである。


今回は自分の身に直接ふりかかったからその痛みと恐怖は今でも消えないのである。
そして他人のカルマを受けることは本当に怖いことである。
自分の家族が自分自身が病気で苦しんでいるとき多額の借金をかかえた人が来たらどうなるのか?
また金がない人がきて被害にあったらどうなるのか?強盗にあい殺された人も普通にいる
それもやはり他人のカルマを受けることなのだろう。
自分が犯罪にあったのもそうである。そしてそういう不満のある人は必ずやつあたりする、それで死んでいる人もいるのが普通である。
つまり他人のカルマによって死ぬということさえあるのがこの世である。
しかしそうした相手が意外と他人に恐怖を与えても感じていないのである。
実際は笑っていたのである。これは借金するのに好都合だと笑っていたのである。
そして死ねば財産が自分の物になるとなるから死ねばいいとさえ思う
それは保険金殺人と同じである。それは親戚でも財産争いで普通に起きていることなのである。

結婚すると好きだとか愛だとか甘いものでしてもあとで相手の家族のカルマを負うこと強いられるから怖いということがある。
もちろん結婚する前にもそういうカルマがあるということを知ることもある
家族の中に良からぬ人がいるということも知る、でもわからないこともある。
それが隠されていることもあるから怖い、それが表面化したのは老人になってからだったということも普通にある
いづれにしろ60代以降になると病気になりやすいしカルマが逃れがたく現れる
カルマの総決算が強いられるのである。それがまさに自分にも起きたのである。


なぜか自分の家系をたどると父方の方で二軒も事業に失敗している、兄弟という関係ではない遠い親戚といものでもそうである。
その家の跡は今では駐車場になり何もない、もう一軒もやはり60代以降になり事業に失敗して自分がそのカルマを受けることになった。
そして母方の方も事業で失敗したことが一家離散の悲惨な結果になったのである。
事業の失敗というとき第一20人に一人くらいしか成功していないのである。
するどどれだけの人が事業に失敗して悲惨な結果になっているか?
事業の怖さは親戚だとかなると否応なく連帯保証人とかにさせられる
これも共同責任になるから怖い、その悲劇はいくらでも現実にあるからめですらしくないただこういうことも実際に自分の身にふりかからない限り常に他人事なのである。
シリアであれだけ悲惨でも同じである。
もし日本人が難民化したらどうなるのか?それすらありえる。
将来アメリカと中国とロシアの板挟みになり日本が分裂したりしてシリアのようにならないとも限らないからだ。


とにかくカルマは他人に負わせるとさらにその人のカルマは重いものとなる
自分のカルマは自分で清算するほかないのである。
自分に事業の失敗のカルマを負わせる、それも自分が病気であり弱いときそういうことしたらさらにカルマは重いものとなってゆく
結婚でも必ず嫁いだ先の家のカルマを背負うことになるし逃れられないから怖いのである昔は家同士の結婚だったというときそれも家がもっているカルマがありそれを考慮すればその方が安全だとなる、どうしても結婚では家のカルマを受けざるをえないからである。親のカルマを子が受け継ぐのも普通にある、親と同じような運命になる不思議がある。
それはカルマの法則といってもいい、例外があっても法則のようにそうなっている
ただ誰でもカルマは背負っている、カルマのない人はいないのである。
金持ちで恵まれているのも危険である。何か困難があったとき耐えられないとなる
切り抜ける術もないとなり破綻してしまうだろう。


自分のカルマもあるが他者のカルマを背負わされることも怖い、自分には自分のカルマを背負うことと他者のカルマを受けることの二つが同時に起きた。
悪いことは重なるし良いことも重なる、だからこの十年間は辛酸をなめた。
カルマの法則はこれは確かにありそれは現実としてあることを誰でも人生経験で知る
誰かを苦しめたものはまた誰かに苦しめられるのである。
これはまちがいなくあることでありカルマの法則なのである。